ありがとう、ノエル。
もとの身体に戻ったノエルは声帯のすべてを使って絶叫した。
「鉄人、いやだ! いかないで、テッド、テッド、テッド!」
手を伸ばす。
霧流が渾身の力をこめてとめた。
「いやだ―――ッ!」
右手と左手は、二度と触れあうことは、なかった。
その瞬間、重く垂れこめた雲のすきまから一条の光が差しこんだ。
六十九階の展望ラウンジでその神々しいばかりの光を目撃した時雨努や経夢人は、最後の奇蹟を生涯忘れることはないだろう。
天使だ、とそこにいただれもが思った。
純白の翼をひろげ、ひとりの天使が摩天楼の空を飛翔した。
すべての悪しきものを浄化する、神の使わした光であった。
「……テツ……?」
遙兵は大切な友の名を、呼んだ。
ンだよ、という笑い顔がそこにあるかと思って眼をあけた。
あったのは、真っ白い粉雪。
灰色の空からやってくるそれは、きらきらとまぶしく輝いていた。
まるで、散った羽の一枚一枚が舞いおちるようだった。
テツの置きみやげか、と思ったらなんだか大声で叫びたくなった。
けれども、声になんてならなかった。
銀町絵麗亜は事の一部始終をその老いた眼におさめた。
己のよかれと思ったことを、否定せぬためだ。
ノエル。あの子を恨むようなことはけして、すまい。誰よりも苦しんだのがあの子なのだから。
そして、その悲壮な決意をあの子にさせたのはまさしく自分自身。
銀町はいま視たものをすべて心に焼きつけた。
わたしは無力だ。
これほど近くにいながら、鉄人もノエルも救うことができなかった。
だが、弁解はあの子たちをさらに蔑む行為だろう。いまは己の保身など、どうでもよい。
鉄人。
ノエル。
わたしの愛した子どもたち。
神よ、あの子らの魂が救われますように。どうぞ、神よ。
わたしはどのような罰を受けてもよい。
どうぞあの子たちからかわいい笑みを奪わないでください。
どうぞあなたの懐に彼らをお迎えください。
――慈悲深き神よ、なにとぞ。
銀町の祈りは、はたして天に届いたのだろうか。
Árbol de cereza―”桜”
校門のところでさっきからタクシーが待っているというのに、主役はまだ握手の嵐から解放されないらしかった。飛行機は明朝だから急ぐ必要もないけれど、スノウひとりが待ちぼうけをくらってさっきから何度目の大あくびだろう。
「スミマセンネ、ウンテンシュサン」
ようやく使えるようになった片言の日本語で恐縮してみせる。運ちゃんはガハハと笑って、この時期はよくある光景だからいいの、いいのと時間メーターをとめながら言った。
スノウはぼんやりと校庭に咲き乱れる花を見た。白にごく近い、薄いピンクの小さな花弁。それがごつごつとした白っぽい幹を持つ低木を覆いつくすようにいちめんに咲き乱れている。しかもその木は学園の垣根よろしく整然と並んで延々と続いている。めずらしい、いや壮絶な光景だ。
これは桜という花で、日本の国花であると教えられた。
毎年、いまくらいの季節にぱっと咲いて、ぱっと散るのだという。出会いと別れの花だ、と先生らしき中年のおじさんが訳知り顔で語ってくれた。
「……キレイダナア」
「きれいですね、ほんとうに」
スノウは目を細めた。出会いと別れなんてどこにでもころがっているけれど、別れは時として永遠のものになる。ノエルを笑顔で送りだそうとしている牡鈴学園のみんなは、その可能性について気づいているのだろうか。
ノエルがハルモニア製薬に戻ると言い張ったとき、もちろんまわりのだれもが仰天して考えなおすように説得した。今回の事件の実質的な首謀者だった人物が死んだからといって、ハルモニア製薬の刑事責任がなくなったわけではない。それなのになぜ、あえてそんな場所に戻ろうとするのか。
スノウでさえも、ノエルの真意はわからなかった。
「きちんと、終わらせたいんです」
ノエルは、言った。
「プエルトリコにはまだほかの被験者が残っています。ぼくが少しでも力になれるなら、躊躇ったりしません。全員が希望をもってあそこを出るまで、及ばずながら尽力したいんです。鉄人だってきっと、それを願ってると思います」
銀町絵麗亜は眼を糸のように細めて、まぶしそうにノエルの頭をなでた。
「強いね、おまえは」
「だって、先生」
ノエルの表情には翳りがなかった。
「生きなきゃ、ぼく」
鉄人のぶんまで。
そう言いたげな顔をして、笑った。
ようやく人の波に押されてノエルが出てきたと思ったら、いきなりはじまったのは生徒たちの大合唱だ。先頭で大声を張りあげているのは、こまっしゃくれの燕霧流である。
風光る 牡鈴の丘にわれら在り
水の滸りを 居ずまいに
宙(そら)の随(まにま)に 光たつ
数多の手と手 とりあって
八千代に萌(きざ)せ 凛々と
むずかしい歌だ。なにを歌っているのか皆目わからない。
「へえ、有名な牡鈴学園の校歌ですかねえ。うちの息子もここに入れるかな」
運ちゃんが帽子をかぶりなおしながら感心したように言った。
手を振る生徒たちにノエルが見送られて、ようやくタクシーに乗りこむ。
「いいですか、坊ちゃん、閉めますよ」
自動でドアを閉じると、運ちゃんは窓を開けてくれた。
「ノエル、元気でな、ホントに遊びに来いよ」
「うん、ぜったいに帰ってくる。遙兵も元気でね」
「ぼく、プエルトリコに行っていい」
「燕、大歓迎。衣食住の心配はしなくていいから」
「ちぇっ、大金持ちはいいよなあ。プエルトリコかぁ。ちいと遠すぎらあ」
「おなじ地球の上じゃない。いつだって会えるよ」
タクシーはごくごくゆっくりと動きだした。少年たちがあとを追ってくる。
「ノエル、がんばれ」
「いってらっしゃい、魁くん」
歓声が波のようにひびきわたる。
桜の花びらが、行く手をぱあっと舞った。
じょじょに加速する。最初の角を曲がる。
交通量の多い並木通りに出ると、見送りの声も届かなくなった。
ノエルは桜の枝を一本持っていた。
「遙兵が持ってけって、折っちゃった。これ、飛行機に乗る前に検疫でひっかかるよね」
ノエルは後部座席から身を乗りだして運転手に声をかけた。
「すみません、空港ホテルの前にファーイースト・フィナンシャルビルに寄ってください」
「……ノエル?」
「ちょっとだけ、いいでしょ、スノウ」
スノウはやさしい瞳でうなずいた。
出会いと別れの花を手に、友に話したいことがあるのだろう。
「セセンタ・セグンドス(一分だけ)。お願い」
その言葉を告げたら、ぼくはもう、振り返らないから。
マクドナルドの前を過ぎ、私鉄の駅を横目に見てタクシーは北へ向かった。
いつもと変わりない平和な光景は、すっかり春の色だった。
ダイバージェンス・インビジブル・ハンド end
2006-04-04
