ひと筋の赤がつっと刃をつたう。それが合図であった。
役者はそろった。では、参ろう。
ひどくおっとりと、地の底を震わすような低周波で、星辰剣が言った。
直後。これまで感じたことのない底気味悪さが、テッドを襲った。目眩、耳鳴り、こみあげる嘔吐感。サーシャが波にのまれるようにぼやけた。あっ、と思うそのそばから、こんどは自分自身が急遽にひろがった乳白色の渦にとらえられ、形を失った。
全感覚、全神経を掻きむしられ、テッドは絶叫した。すべての事象が理解をはるかに超えていた。第一、テッドが捕らわれた場所は空間ですらなかった。体積も、面積も、ベクトルも存在しない。すなわち、三次元空間内では、ありえなかった。
だが渦は、不意にストンと遮断された。あたりはなにごともなかったかのように、静まりかえっていた。激しい息づかいだけが現実の空間にあった。
「……ドラムヘッド」
まず最初に認識したのは、横で仁王立ちになるドラムヘッドの姿だった。彼は蒼白で、呼吸のしかたを忘れたかのように固まっていた。やがてげはっと息を吐きだすと、呻いた。
「なんだ、いまのは……オエッ」
したことのない酒酔いのようだった。胃痛をこらえ、彼もまたテッドの姿を認めた。
首筋に疼痛を感じて、テッドは右手を這わせた。離した手には、うっすらと血がついていた。
「さあ……幻覚じゃないようだけど」
ここはどこだろう。市長の執務室ではない。そんなに広くもないし、立派でもない。壁は一面光沢のある木製で、床も同じ素材でつくられていた。なによりテッドが違和感を感じたのは、窓からさしこむ薄日のあたたかさだった。
「おかしい」
「ああ。昼だ。どうなっちまってるんだ」
「おれに訊くな」
ドラムヘッドはじろりとテッドを睨み、藪から棒にがなりたてはじめた。
「ああ? だいたいてめぇがどんどん突っ走るから、ややこしいことになっちまったんじゃねえか! ひとりで戦争おっぱじめるつもりだったのかよ。てめえはな、バカたれだ。無謀だ。いかれてる。すっとこどっこいだ。人でなしだ。腐れ根性だ」
「畳みかけんなよ。傷つくな」
「歯ぁ食いしばれ。お仕置きだ」
「……え?」
ドラムヘッドがどんな暴挙にでようとしているのかを瞬時に理解して、テッドはぎゅっと目を瞑った。間髪をいれず、火花が散った。利き手による容赦のない、しかも平手ではなく拳骨のひと殴り。小さな身体が軽々と吹っ飛ぶくらいの衝撃であった。
顎が砕けたかと思った。激痛に手を副える。左の頬が、じんじんと脈打った。
「どうだ、目が覚めたか」
「痛……っ、てえ」
頬が、熱い。ドラムヘッドの熱がはりついたようだ。殴られる筋合いなんてないのに、とぼんやり考えながら、テッドは立ちあがった。言葉で反抗する気は萎えていた。これで気が済むのだろうか。それだったら我慢する。
敵陣までわざわざ追いかけてきて、自分のために本気で激怒するドラムヘッドを、テッドは拒絶しきれなかった。彼を思考から排除することは、もはやかなわなかった。
この人は近くソウルイーターの餌食になるだろう。予感が確信へと変わる。時は、すでに遅い。ペトルーシャと同じ。だがあの時とは、ちがう。
悲しかった。それは排除したはずの感情なのに。
丸太のような腕が、テッドを抱きしめた。
「あんまり大人を心配させるもんじゃ、ないぞ……この、大バカヤロウ」
大馬鹿野郎。そうだ。そのとおりだよなドラムヘッド。おれは大馬鹿だ。
「ごめん……なさい」
その言葉がすっと口を衝いて出た。すべてが崩壊への道標。わかっていながら、抗わない。おかしい。感情の操作どころではない。冷静な判断力も積み重ねてきた教訓も、機能を停止してしまったようだ。
なにが正しくて、なにが過ちなのか。ぼやけていく。わからない。
あるのは、ドラムヘッドの体温だけだ。いま、この時点でたしかに生の鼓動を拍っている。
この鼓動をしっかりと記憶しろ。もっとも己の近くにいた魂だ。そして、二度と忘れるな。
「わかりゃ、いいんだよ、わかりゃ……よしテッド、歩けるな」
「だいじょうぶ」
「なにがどうなってるのか、調べるぞ」
「了解」
肩をぽんぽんとたたいて、大男はテッドから離れた。怪訝そうに周囲を見回す。室内には二人以外、だれもいない。物音もしない。リーパーはどこへ消えたのだろうか。
「この窓、砂漠仕様だな。てことは、官邸からそう離れてはいない」
テッドも考えを巡らした。頭では理解できないことが起こったのは確実だった。ソウルイーターの暴走とも違う。やはり、夜の紋章か。
いわゆる、遠隔移動だろう。そんなことが実際あればの例えだが。真の紋章なら可能かもしれない。すべては想像のみである。
「外へ出てみよう。油断するな」
ドラムヘッドが先に立って、ドアを開けた。そこはやはり木造の廊下で、両側に同じような形のドアが三つずつあった。二人が出てきたのはいちばん奥のドアであった。
「宿屋のような雰囲気だな」
「ああ、うん……いや、ちょっと待てよ。ここ、どこかで……」
ドラムヘッドは記憶を手繰り寄せ、ぽんと手を打った。
「ひょっとして、リッキーの宿屋か」
「知りあい?」
「ダウン・タウンで貧乏人旅行者相手に商売をしてる。うちの宿よりすこーし値は張るがな。金をふんだくらねえわりに垢抜けてるだろ。リッキーは変わり者でな。こういう、粋ってもんがかっこいいと思ってやがった。惜しいヤツを亡くした」
「亡くした?」
「おうよ。半月ほど前だったかな。宿屋に強盗がはいったらしくてよ。そりゃあもう凄惨で……すげえ騒ぎになったからおまえも噂聞いただろ」
「そういえば、そんなこともあったか」
「あれからずっと宿屋は閉めていたはずだが……どら息子が戻ってきて、継ぐ気になったのかね」
なんだろう。なにかがちりちりと引っかかった。”役者はそろった”という星辰剣の呟きが耳に残っている。まだなにかある。気を抜くことはできない。
その不安を裏付けるものが、階段に落ちていた。
「血、だな」
「殺人現場なんだろ。だったら」
「いや、まだ新しい。こりゃ、ついいましがただ」
ごくりと唾を呑みこみ、足音をひそめた。踊り場に血だまりができ、血痕はそこから点々と階下に延びていた。踊り場で襲撃を受け、下に逃げたか運ばれたのであろう。おびただしい量である。無事では済まされまい。
階下は宿泊客のための食堂になっていた。酒場兼用らしく、壁の一面は大小様々な酒瓶で埋め尽くされている。コーヒーだったらたまに飲みにきたぜ、とドラムヘッドはひそひそ声で言った。
血痕は一階の、もっとも手前の部屋で途絶えていた。
「ここは、なに」
「リッキーの管理人室。いわゆる帳簿をつけたり、先立たれた女房を偲んでしんみり酒を傾けたりする部屋だ」
ドアノブに手をかけ、そっと回してみる。かちゃり、という意外に大きい音を立てて、それは容易に開いた。ドラムヘッドは心臓を跳ねあがらせた。
コチ、コチという機械時計が時を刻む音が、耳につく。ドアのすきまからのぞき見て最初に目についたのは、四時を示している数字盤であった。
壁に設えた機械時計の下に、座りこんでいる人影がある。
「リッキー?」
ドラムヘッドはその人物を認めて仰天した。荒々しくドアを開ける。
テッドの眼は、床に倒れ臥しているもうひとりの人物に釘付けになった。
戦おうとしたのであろう。手に弓と矢を持ったままである。全身を覆う法衣。体つきは逞しく、戦士のようにも見える。斜め斬りにされた刀傷は致命傷にちがいなかった。
「この人は……イシュトバーン?」
奥でドラムヘッドが呻いた。「こっちはダメだ、事切れている。どうなっているんだ、これは……くそっ、わけがわからん」
「ドラムヘッド」 テッドは低く言った。「もしかして、そのわけのわからないことが起こったのかもしれない。夜の紋章だ。あいつが……おれたちをここに送った」
「テッド、だからどうしておまえさんはそんなに冷静なんだよ。ちいとは疑念ってやつを持ちやがれ。こんなのはとんでもねえ。神への冒涜だ、ちくしょう」
「へえ、神サマ信じてるのかよ。意外だな」
「ふざけんな。自慢じゃねえがみっつのときから礼拝サボるほうで皆勤賞だ」
「落ち着けよ、ドラムヘッド」
「るせえ。てめえはじたばたしやがれ、ソウルイーター」
「辻褄のあうことだろ。慌てる必要はない」
「やなこった。人外のことにおれを巻きこむな」
テッドはにたりと笑った。この子供は、ふとしたときにこの表情を見せる。あまりにも美しく、人間離れした笑みなのだ。そのたびにドラムヘッドはひやりとさせられてきた。
「認めるのが、怖いかドラムヘッド。いい子だな。お利口さんだから特別に教えてやろうか。おれたちはいま、過去のダウン・タウンにいる」
ドラムヘッドはついに激怒した。
「わざわざ口にするな、えげつないガキめ! 真の紋章がどんなどえらいもんか知ったこっちゃねえが、ちょっと慣れてるからっておまえ」
叫びながら、ドラムヘッドはぎくりとした。時間を跳び超えた。ここは過去。真の紋章が、時間と空間を操った。真の紋章は───時空を自在にできる。
そして、テッドは真の紋章を持つ少年。
「そんなこと、を、軽々、しく………テッド」
思い至った推測を、ドラムヘッドは許容しかねた。したくもないのに、反芻してしまう言葉。
認めるのが、怖いかドラムヘッド。
辻褄のあうことだろ。
いい子だな。
─────テッド。おまえ、何者だ。
『ソウルイーター』さ。
「なんだよ……ヨゼフ」
見透かされたような気がした。自分がいま、はじめてテッドを心から恐れていることを。
最後通牒を突きつける笑み。だから近づくな、と言ったのに。茶色の瞳がほほえみかける。
その瞳がふっと揺れた。時として手の届かない宏遠さを持ち、老練を匂わせる采配を下した瞳。それが、これまで見たこともない悲しみにあふれた。
「ごめんな……ヨゼフ。おれ、もっと必死におまえのことを、拒絶するべきだった。後悔しても、遅いな。おれ、いつもそうだ。後悔して、何度も後悔して、おんなじことを繰り返す。殴られでもしないとわからない。ガキといっしょだ」
「おまえが、なにを謝らなければいけないのか……わからんね」
「いまにわかるよ。でもそうなったらもうおまえに謝ることはできそうにないから、先に謝っておく。一生のお願いだからさ、笑わないでくれよな」
そこまで言って、テッドはぷいっと背を向けてしまった。言葉の意味の半分も理解できなかったが、もちろん笑う気分になどなれなかった。
少しのあいだ沈黙して、テッドは振り返りもせずに言った。
「で、どうする?」
「どうする、ね……さて、どうするかな」
「イシュトバーンだよ。よっぽどの強運に護られてるんだろうな。意識を失っているだけだ」
「……イシュト……なんだって?」
テッドの聴覚は、廊下にいる第三者の気配をとらえていた。息をひそめて、中の会話に耳をそばだてている。右手がチリチリと灼ける。扉を隔てて共鳴する、ふたつの真なる紋章。
「なんの相談だ。なにを企んでいる? ソウルイーター」 テッドは言った。
不意をつかれたのはドラムヘッドだけだった。テッドはすでに、好ましくない再会を予測していた。この茶番の仕掛け人、星辰剣を持ったリーパー、サーシャもまた、同じ場所に送られていたのだ。
「どういう悪ふざけだ、これは」
言ったのはサーシャだ。指先が白くなるほど強く、剣を握りしめている。
ここがどこなのか。いまがいつなのか。サーシャにはわかりすぎるほど、わかった。
砂漠の都市、長投宿した下町の宿屋。それはサーシャの運命が反転した日。表が裏となり、裏が表となった。葬り去られたわたくしが、復讐を誓って生まれ変わった日。
「……イシュトバーン」
妻の声に反応して、イシュトバーンの眼がうっすらとあいた。声をあげることができないかわりに、ほっとしたよう弱々しくほほえんだ。
未練を精算する気があるのなら、とめはせぬぞ。
星辰剣が挑発するように嗤った。サーシャは唇を噛んだ。
「だ、誰が……喋った?」
まさか剣が口をきくとは想像もすまい。重たい声がひびいた空間を、ドラムヘッドの視線が彷徨った。
無礼なやつめ。ここだ、ここだ。
「……げっ」
よっぽど仰天したのであろう。口が塞がっていない。
「夜の紋章は、剣の姿をしてる。言ってなかったっけ?」
テッドがぶっきらぼうに援護する。もちろんテッドも夜の紋章を直に見るのははじめてだ。だが、初対面のような気はしない。半年ものあいだ、”彼”と会話することだけを願いに生きてきた。同じ砂漠に身を置きながら、もっとも遠くの存在であった”彼”。
訊きたいことがたくさんあった。おまえは、呪いを求めないのか。宿主を貪ることをしないのか。人と会話をし、なにを奪いなにを与えるのか。戦乱は、好きか。人の血は、誰のために流されるのか。おまえたちは、人の子らになにをさせようとしているのか。
なにかひとつでもいい、答えが欲しかった。寡黙で冷酷なソウルイーターがけして教えてくれないことを、”彼”の口から引きだしたかった。
己が潰される前に、なんとしてでも。
ほう。これはまた、えらく……変わっているな。
星辰剣がまた嗤った。視線を感じ、テッドは緊張した。右手が疼く。会話をしているのだ。無邪気に悪戯を企てている。おまえたちのもたらすものは破壊、そして闇。
この邂逅のために、おまえたちは何人殺した?
いや、言い直そう。おれの手を使って、ペトルーシャやサーシャの手を使って、何人殺させた?
ふむ、わたしを尋問するのか。挨拶もなしに。
「こんにちは、って言ったら、あんたおれを気にいるわけか?」
テッドは苛々と口にした。
「こいつの挑発に、あまり乗せられないほうがよい」
悔しげに言ったのはサーシャだ。この人も自分と同じ、紋章の犠牲者か。テッドは思った。人に同情する余裕はない。連帯感もない。力を欲し、破滅するのも自業自得。特別な感情などはない。しかし。
この人がいなかったら、生きてなかった。
「……笛、吹いてたよね」
テッドは前触れもなく瞬きした。「あなたの奏でる音楽、おれ、憶えてる」
記憶とはおもしろい。こうやって突如よみがえる。そこにもなんらかの意味があるのだろうか。
「音楽。そのようなものは、必要ない」
「そうか? けどとてもいい曲だった」
「わたくしが奏でていたのだとしたら、もはや失われた過去だ。いまさら欲しても、知らぬ」
テッドはふと、サーシャの言葉に奇妙な振動覚をおぼえた。失われた過去。いまさら欲しても。なぜだろう。共鳴する。狂おしいほど。
音楽というのは、あんがいこうして生まれるのかもしれない。
脈絡のない思考であるが、それも欲していた答えのひとつだった。
星辰剣の声が割ってはいった。
さて、どうする。言っておくが、この程度の決断もできぬ者は、わたしの相棒とは認めぬぞ。
「フン。見くびられたものだ。資格試験のつもりか。あまりいい気になるな」
サーシャは剣を利き手に持ち替えた。
「”生と死”、おまえが証人というわけだ。なるほど、真の紋章というのはなかなか抜け目がないものだな」
テッドは表情はそのままに、無言でサーシャを見た。ドラムヘッドはどうしてよいやら検討がつかず、テッドの行動に従った。
刃先をぴたりとイシュトバーンに向ける。リーパーとして、迷いはなかった。最後の血の一滴まで、刈り取ってあげる。おまえが光の子として君臨したおかげで、わたくしは闇に堕とされた。
光とはなんて傲慢なの。可哀想で、哀れで、お馬鹿さんなサーシャに同情したのね。それを愛情と勘違いして。
イシュトバーンが憎い。憎い。憎しみで身が狂いそうだ。
この人の愛したのは、サーシャという名の半身だけ。それを少しもわたくしだと疑わなかったの。都合よく、あなたの好みである、従順なサーシャだけをプレゼントされたんですもの。
閉じこめられ、喉が嗄れるほどたすけを求め続けていた片半身には、あなたは片時も触れることはしなかった。僧王さまはあなたの耳を塞ぎ、目を覆っていたわけではない。あなた自身が愚かにも、気がつかなかっただけよ。
あなたに夜の紋章は似あわない。夜の苦しみも悲しみも知ろうとしないのに、それを背負うことなどできるはずもないわ。
どうして逝ってくれなかったの、イシュトバーン。
ずるい。わたくしが戻ってくるのを知っていて、待っているなんて。
解放してほしかった。忘れさせてほしかったのよ。そうしたらあなたの愛を少しは信じられたのに。
認める気になったか。己が完全ではないということを。
「……なにを仰りたいの。わたくしに未熟を思いしらせることができて、いいご気分かしら。とても愉しそうね。お目当てのお友だちに出会えておまえは満足。押しつけられた継承者たちは瀕死と役立たず。そうね、おまえはいいわ、自由で。忌々しい、業突張りの紋章さん」
サーシャは握った手をゆっくりとひらいた。ごとり、と星辰剣が落ちる。
あるじはもうすこし丁寧に扱うものだ。ばかものめ。
「どこのどなたが、わたくしのあるじですって」
サーシャはケラケラと笑った。「滑稽だわ。夜の紋章、あんたはイシュトバーンを気にいらなかったから、ペトルーシャをたぶらかして逃げたんじゃないの。そして、なに? かわりのわたくしも気に召さず、円満に諦めさせようという魂胆?」
「ねえちゃん、あんたもこのガキに負けず劣らず、口が悪いな」
それは沈黙していたドラムヘッドだった。「真の紋章持ちってのは、みんなこんなのばっかりか。あんたも苦労するな、ナントカ剣」
減らず口の好きな人間だ。
「悪ぃな。あいにく育ちがよくねえもんで、分を知るってことができねぇんだ。ああ、おれは部外者だ。上等だぜ。ご立派なあんたやそのガキを困らせてる誰かさんもよ。下賤な人間風情の戯れ言を耳かっぽじってようく聞いとくんだな。あんたら、人が自分を殺すことがどんな痛みなのかわかるか? わかんねえよな。あんたたちにしてみりゃ、相棒なんてうまいこといったって、道具ぐれえにしか考えてねえんだろうしな。あんたらには聞こえるか? こいつらの声が聞こえてるか? どれほど血を吐いているか知ってるのか?」
「無駄だ、ドラムヘッド。道筋のたたないことは、真の紋章には通用しない」
「テッド。おまえが死んじまうと思ったとき、おれはすげえ怖かった。とんでもなく、怖かったんだよ。人ってのは、誰でも死にたくなんてねえ。たまに自分で死ぬやつもいるけどよ、必ず躊躇うはずさ。でもおまえは躊躇わなかったんだよ。ああ? 誰がそこまで追いつめたってんだ。そいつだろう。そいつが、おまえを人間と思ってなかった、だから」
「終わった話だ、ドラムヘッド」
「もういっぺんぶん殴られたいか?」
凄まじい剣幕だった。拳をぶるぶるとふるわせている。本気らしい。
「テッド、おれはな、おまえから見たらたぶんほんのガキなんだろう。いままでガキがガキ呼ばわりして悪かったな。けどな、ガキでもこれだけは言わせてもらう。おまえは”ソウルイーター”なんかじゃねえ。人間だ、忘れンな。このおれといっしょだ。ハッシュの仲間たちだっていっしょだ。ばかげた言いぐさだろうがな、世の中ってやつはな、ウソっぱちも本当もたいした違いはねえんだぜ。ダウン・タウンの連中を見てみな。みんなそうやって、生きてる。生きてんだよ。本気で死にたいなんて思ってるやつなんか、ひとりもいねえ!」
サーシャが呆れた声で「くだらない」と言った。
ふとテッドを見ると、彼は静かな表情をしていた。喜怒哀楽のまるで感じない、人形のような表情。いい気味、と思った。そうね、どんな剣よりも深く傷を抉るのでしょうね。いま、なにを思っているのか、訊いてみたいわ。お友だちにはなれないでしょうけど。
やはり、砂漠で出会ったあのとき、見殺しにしてさしあげればよかったかしら。
運命とは薄情だわ。恩を着せながら、毒を押しつける。いつでもそうよ。
みな罪人だ。わたくしも、イシュトバーンも。あの大男も、そして、彼も。
贖えぬ罪を重ねながら歩もうと足掻く、愚か者。
決まりだ。そこの男。
ふいに星辰剣が口をひらいた。
おまえを相棒として認めるぞ。
「……はあっ?」
ドラムヘッドの反応がいちばん遅かった。テッドが呆気にとられて仮面を崩し、サーシャが被りものを取って喘いでからたっぷり十秒後だ。
おまえはじつに興味深い。退屈せずに済みそうだ。
「かっ……勝手な、なに勝手なことぬかしてやがんだよ」
ところが、星辰剣は聞いていなかった。回りだした口はとまらない。
用事はもう済んだ。とっとと戻るぞ相棒。なにをぐずぐずしている、はやくわたしを拾え。いつまで床に放り投げておくつもりだ、のろまめ。
サーシャの瞳が憎悪で歪んだ。星辰剣には目もくれず、イシュトバーンの手にあった弓と弓矢をとる。
「させないわ。させるもんですか」
イシュトバーンの手が弱々しくサーシャに触れた。とめようとした指をするりと抜け、サーシャは弓に矢を番えた。よどみのない動きでドラムヘッドに狙いをつける。至近距離だ。逃すはずはない。
テッドの眼が追った。サーシャのしようとしていることが、我が意志のように理解できた。
ドラムヘッドが死ぬ。運命の時が来る。右手が、喰う。もっとも大切な者の魂を。
「……だめだ」
ドラムヘッドの巨体は、小柄な身体によってほんの少し突き飛ばされた。
「死ね」
凶刃は、誰にも止めることはできなかった。
それは、鮮やかに標的をとらえた。少年の背中から、胸を貫いて。
「テッド」
ぽつりと、大男はつぶやいた。
弓が落ち、弦の断裂する音がひびいた。サーシャの瞳は色を失い、次に、彼女の奥底に仕舞われた片方の自我が尾を引いた悲鳴をあげさせた。
「いや……いやああああ!」
馬鹿だな。他人ごとのように、テッドは嘲った。視界がゆっくりと流れていく。ドラムヘッドをかすめて、床に落ちた。血が急速にひろがっていくのが、見える。誰のだろう。
口の端から、どろりと血が流れた。思考もそう長くは保たなかった。まず視野が、次いで音が遠のき、すぐに感覚のすべてを喪った。
いちばん最後にやってきたものは、痛みでも、悲しみでも、安堵でも、絶望でもなかった。
それは、ただ、闇。
サーシャは自らの発した悲鳴に押されて、膝をついた。がたがたと震えながら必死に鎮まろうとする。
「だめよ……出てこないで、サーシャ、おまえはもう眠らなくては……ならない」
ところが片方の自我は極度の悲しみと怒りで、けして退こうとはしなかった。
「イシュト……バーン……様」
満身創痍のイシュトバーンは、力を振り絞って妻の身体を抱きしめた。
「サーシャ」
「おやめください、イシュトバーン」
腕はしっかりと回され、離れようとしない。
サーシャの瞳から涙が落ちた。どちらの自我が流させたものだったか、判然としなかった。
「わたくしは……わたくしは、なにを……」
「サーシャ……すまなかった。だが……あり、が、とう」
サーシャはついに嗚咽した。自我がひとつになっていく。涙という媒介が、やさしく、両者の手を引いた。
覚醒したな。
「触れないで、ください……罪を犯した者に……あなた様の御手が穢れます」
「サーシャ。罪も、闇も、おまえの閉ざされた心も……すべて、わたくしは愛して、いる……」
「ご存じだったのですか……」
イシュトバーン様。
───ぼくもサーシャがだいすきだ。やくそくだよ。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
あなたを愛さなかったことなど、一瞬たりともなかったのに。
ドラムヘッドは虚ろな目で、動かなくなったテッドに話しかけた。
「おい……冗談、だろ……なんべん、言ったら、わかるンだよ」
返答できるはずもない。即死であることくらい、我をうしなったドラムヘッドにも理解できた。
「大、バカ、ヤロウ」
つぶやいた言葉に、絶叫が続いた。
2005-12-25
