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コントラト―契約

もうひとつのインビジブル・ハンド #8/サーティーン

 ただちに従え、
 さもなくばソロモンの偉大なる鎖骨のちから強き呪文、ソロモンが反逆の精霊たちに契約の受諾を強制するために用いた呪文のちからによって、永遠にさいなまれることになろう。
 それゆえできるかぎり早く現れよ、
 さもなくば鎖骨の強力なる呪文によって、わたしはおまえを絶えず苦しめるであろう。

 睡眠サイクルのラストステージ、レム睡眠時の脳は覚醒している。
 このとき運動ニューロンはまだ抑制されているため、脳はしばしば幻覚を呼び起こす。これが、いわゆる夢とよばれるものである。
 心地よい夢ならばそれにゆったりひたりたいとも思うだろうが、あいにくおれは悪夢にしか縁がない。一刻もはやく抜け出したい。胸部の不快感、圧迫感、呼吸困難。悪い夢にうなされているときのエネルギー消費率は凄まじい数値にちがいない。こんなの、ライフゲージの無駄遣いだ。
 十五世紀、悪夢はしばしば怪物の仕業とされた。蠅の王ベルゼビュート、サタンに次ぐという悪魔の帝王の手下におさまる魔神、コシュマール。
 悪夢の正体が医学的に解明されてもなお、死の淫夢魔への信仰は遺る。
 医学が信仰に勝ることなどない。
 無宗教の人間でさえ、事象のすべてが科学的に解明されると断言するのは傲慢だと考えるはずだ。
 世界から未知の部分が消えることはない。そんな世界は、夢がない。
 そのときもおれは悪い夢を見ていた。記憶はないけれど、激しい疲労がその証拠だ。
 覚醒時の疲労感は入眠時のそれと比較にならない。目がさめて、最初に知覚するのが『疲れた』。へとへとだ。もういちど眠りに落ちて、次は夢も見ずにぐっすり休みたいと願う。
 なのに、スケジュールは無慈悲に決められている。ありとあらゆる不快感が去るまでのあいだ、おれはベッドの上で、あるいはパジャマから日常着に着替えながら死の淫夢魔と闘い続ける必要がある。
 テッドは朝が弱いんだね。水で顔を洗うとスッキリするよ。ああ、上着が前後ろさかさまだ。衿にタグのついてるほうがうしろ。ねぼけてないで、ほら。急がないと、また叱られるよ。
 わかった、わかったって。いわれなくたってちゃんとするから。うるさいよ、モーリー。
 ふてくされてお節介な友だちに当たり散らす朝の風景。
 なんのためにきっちり七時間の睡眠をとらなければならないのか。疑うよな。
 理想的な睡眠サイクルが七時間なんて、どこのお偉いさんだ、決めつけたのは? おれはショートスリーパーなんだよ。人体を勝手に画一化しないでほしい。
 コシュマールの囚人から現(うつつ)のヒトに引き戻してくれる外部刺激は、起床時刻を告げるチャイムだ。それを聞くとほっとした。いつもの音。日常のはじまり。三百六十五日、変わりはしないけれど、それでもやさしい導き。おれを死から生へ連れ戻す。おはよう。さあ、朝陽を浴びて。
 なのに、この惨憺たる目覚めは、なんだ?
 こんなのははじめてだ。わけがわからない。
 エターナル・スリープ(永眠)かと思ったじゃないか。七時間どころではない。長すぎる。チャイムが鳴らなかった。モーリーの声も、きこえない。
 悪夢は見なかったと思う。深く、それこそ泥のように、眠っていたんだ。おれにとってはめずらしいことだ。だけど、いつも以上に疲労感が強い。うわあ、最悪。
 首まわりが湿っている。独特の臭いでわかった。寝ゲロだ。
 上を向いて吐いたら窒息してしまう。具合が悪いのに、どうしてだれも気づいてくれなかった。なぜ、放っておかれているんだ。おかしいじゃないか。
 脳を攪乱されるいやな感じ。痛いような、蟲が這いまわるような。中枢神経がおかしい。ぼんやりとした視界がぐるぐると回る。
 あ、やばい、嘔吐してしまう。
 熱いものがせりあがってくる。おれは仰向けのまま胃液を吐き、むせかえった。喉の奥に灼けつくような強烈な違和感。だれか、と叫ぼうとしたが、声帯が機能しない。
「ああ」
 妙にのんびりとした声が左からきこえた。薄暗かった周囲にぱあっと光がさした。そのあかりを背負った、白いなにか。近づいてくる。
 喉元にタオルをあてられる感触。
 瞼をもちあげるのもつらかったけれど、おれは必死にそいつの正体を確かめようとした。
 白衣の男。
 知っている顔ではなかった。白衣を着ている人間はどいつもこいつも同じような顔だけれど、この男はどこかちがっている。どこが?
 男はこぼれた吐瀉物を丁寧にぬぐった。そして、奇妙にやさしげな口調で――挨拶した。
「ブエノス、ディアス(おはよう)」
 おはよう、だって? なにをトチ狂っているんだ。これのどこが朝だよ。
 周囲は薄暗い。小玉電球らしきものがひとつ、どこかそのへんにともっているだけ。互いの顔を識別できる程度の光量しかない。カーテンのむこうから入ってくるあかりだ。そして、自分がベッドに寝かされているらしいこともこのときはじめて認識した。
 またしても吐き気がこみあげてきた。くそ、この体勢がよくないんだ。下を向いて思いきり出してしまいたい。できればトイレかどこかで。
 無意識に身じろいだおれを、男が手でとめた。
「ノ セ ムエバ、ポル ファボル(動かないで)」
 なんでだよ。
 結局、そのままの格好でまた吐いた。苦しい。喉が痛い。そして、屈辱。見られながらの失態ほど、恥ずかしいものはない。
 窒息しそうだ。トイレに行かせてくれ。なにかの拷問か? それとも、おれは病気なのか?
 男はタオルを惜しげもなく交換して汚れを処理した。
 そして、おれの喉から胸元を手のひらでそっと撫でた。
 びっくりして目をみはると、視線があった。
 切れ長の目。栗色のひとみ。翠玉のピアス。
 だれ?
「かわいそうに。ちょっとまだ、つらいね。抜管して、リバースを行ったんだけど、ショックで血圧降下しちゃって。だから緩徐導入でフェンタニルを使って、吐き気はその副作用だとおもう。だいじょうぶ、必ずおさまるから。もうちょっとの辛抱、ね」
 言っている意味はよくわからなかったけれど、ただひとつ。フェンタニル。その単語におれは何故か強く反応した。フェンタニル。眠らせる――薬剤?
『すみやかにフェンタニルを吸入させて眠らせてしまうこと。いいね』
『役にたたない鼠はね、すみやかに処分されちゃうよ。麻酔剤で眠らせて、筋弛緩剤と塩化カリウムを静脈投与しておしまい。死刑の方法とおなじ。数分もかからない。そうはなりたくないだろう?』
 あれは、プロフェソルが言ったんだ。いうことをきかない鼠を懲らしめようとして。じゃあ、眠らせろと命令したのは?
 眠らせろ、というのは処分しろ、と同義語だったはず。
 殺されるんだ。唐突にそう思った。この男がやさしいのは、見せかけだ。もうちょっとの辛抱とは、どういう意味だ?
 ソコロ(やめて)、と唇を動かしたつもりだった。だけど発せられたのは単なる呻きにとどまった。
 フラッシュバック。まばゆい無影灯。光の暴力。『セラフィム』。死神。
『ナンバー13。いい数字じゃない。タロットの大アルカナなら、死神のカードだ』
 死神のカード。
 死神の。
 13。サーティーン。数字。13。忌むべき数字。死神の数字。
 機械音がけたたましく鳴った。あまりにも悪いタイミングだった。身体がびくびくと跳ねた。息ができない。苦しい。
 男は機械を見もせずに、ぽんぽんとおれの肩をたたき、それから顔を近づけてきた。
「アラーム音の設定が大きすぎた。ごめん。落ちついて。もう、なにもしないから。いい、ゆっくりと呼吸して。リラックスできたら鳴りやむ。ああ、深呼吸はしなくていい。ふつうに、そう、じょうずじょうず」
 鳴り響いたのはバイタルサインモニタらしい。フラッシュバックが起きたことで、パラメータが正常値を外れたのだ。男のいうとおり、それはすぐに沈黙した。
「いい子だ。ちゃんと自分をコントロールできる。優等生だ」
「ペルドン(え)?」
「うーん、状況はわかっていないみたいだね。かんたんな説明は一応したんだけど。まあ、麻酔が切れた直後ならばおぼえてなくても無理ないか」
 男は苦笑したあと、話を続けた。
「むずかしい手術がね、成功したの。きみは前段階検査でも第一選抜でもレセプターとしての資質が並外れていたから、みんなひそかに期待していた。年齢が若すぎるという反対意見もあったけれど、時間がなかった。だから、うまくいってよかった。これは、神から授けられた『しるし』だよ。大切にしなさい」
 額に手を置かれる。光が遮られた。正直なところ、なにがなんだかという感じだが、この手はあたたかい。いい気持ちだ。
「とはいってもまだ、第一段階クリアにすぎない。いまはとにかく安静が必要です。実験についてはきみも、プロフェソルから習っているでしょう? 現実感がないだけだろうな。うん、でも、よくがんばったね。おつかれさま」
「……グラ、シ、アス(ありがとう)」
 とっさに口をついてしまった。ここは礼をいうシーンだろうか? 現実感がないという男のことばは嘘ではないらしい。
「ほんとに、いい子だ。いろいろあってびっくりしただろうから、しばらくのんびりするといいよ。あー、そうそう、自己紹介がまだだった」
 男はベッドの端に腰をかけた。かすかにマットがきしむ。彼はおだやかな表情をその顔にはりつけて、薄気味悪いくらいやさしげに、こんどは胸元を撫でた。おれは猫か。喉をゴロゴロ鳴らせばいいのかな。
「ムチョ グスト、トレセ。ジョ ソイ、アルド・リンカーンウッド(はじめまして、サーティーン。アルド・リンカーンウッドです)」
「トレセ?」
 一瞬、意味をはかりかねた。
「シ、トレセ(そう、サーティーン)。オペ室でもちょっと話したんだけど、意識混濁していたし。いまなら落ち着いて聞いてくれるよね」
「……トレ、セ」
 13。死神のカード。
「トレセ。きょうから、新しい、きみの名前。以前のナンバーはもう忘れてしまいなさい。あれは長ったらしいし、ここでは意味を持たないから。それに、選ばれた”モノ”にはふさわしくない」
 選ばれた、モノ。
 所詮はモノなのか。ならば、新しい名前にも意味などありはしないだろう。理解はした。選別されたということだ。ただそれだけの変化。
「セラフィムはいくつかあって、順序構造に従って整列しています。13は固有IDです。きみはナンバー13というセラフィムを受け継いだから、その名前も受け継ぐことができます。ケース13という意味ではありません」
 セラフィムとは熾天使のことだ。熾天使は何人もいるらしい。
「きみは前段階検査で、ナンバー13に限り特異的な親和性を認められました。知らなかっただろうけれど、セラフィム・ナンバー13が認めたのはきみひとりだけでした。第一選抜で、それが確定的になりました」
 第一選抜とはここの隠語で、正しくは第一相試験、フェーズ1と呼ぶ。多くのマウスはこの試験に抗えずに命を落とす。運がいいのか悪いのか、おれは楽々とパスしてしまった。
「きみは小さくて、移植に耐えられ年齢になるまでナンバー13の宿主となるべく育てられました。初耳だった?」
「……」
「ナンバー13というセラフィムはとても扱いにくくて、もしきみで成功しなかったらプロジェクトをはじめから見直さなければならなかった。でもぼくは、きみはきっと持ちこたえるんじゃないかなとおもっていたよ。なんとなく、そういう予感があった」
 そう言ってなでまわす。本気で猫になった気分だ。おれ、マウスなんですけど。実験用のマウスはあまり触りまくってはいけないと、そういう規定はないのかな。
 人に触れられるのはじつはあまり好きではない。だけど、こういう状況であればそう悪くもないものだ。
「ここのスタッフはきみをサーティーンって呼ぶとおもいます。このセクションの中は合衆国だから、みんなアメリカ英語を使います。社内ではそれがきまりになっています。ええと、きみはエスパニョールと、どちらも話せたんだよね」
「……は、い……プロフェ、ソルに、えいご、なら……た」
 声がまだうまく出ない。
 吐き気はだいぶ治まってきてはいるけれど、波のように襲ってくるから油断できない。へたにしゃべらないほうがいいかもしれない。人の前でゲロするのはあまり、いや、ぜんぜん愉快なことではないし。
「ブエニシモ(上出来)。じゃあ、そういうことで、これからよろしく。ぼくは、セクションの最高責任者です。もういちど名前をいっておこうかな。アルド・リンカーンウッド。出身はカンザスシティ。ラティーノのいとこがいるから、エスパニョール・カリベーニョは話せるし。ぼくは医師免許を持っているので、困ったら……あ、とくに困ってなくても、なんでも相談してください。ふつうのおしゃべりも、ね」
 首から下げているネームホルダーを近づける。ハルモニア・ファーマシューティカルのロゴマーク。
「ぼくと個人的に話すときはエスパニョールでかまわないよ。そっちのほうがらくでしょう? やっぱり、母国語のほうが」
「……はい」
「ああ、それから、ぼくには敬語を使う必要もないから。プロフェソルと話すときのように、自然にしてればいい」
「はあ」
 アルドは声をひそめた。
「ただ、スタッフは気むずかしいのが多い。連中とは、よけいな会話はしないでおとなしく従っているのが得策だと思う」
「……慣れてる」
「ふふ。やっぱりいい子だね。じゃあ、ぼくたちは仲よくなろうか」
 なんて言った?
 仲よくなろう、だって。
 プロフェソルたちもそんなことは言わなかった。ましてや白衣をまとった連中は、確実に人をヒトとも思っていない、はずだ。
 また思考がぼんやりしてきた。混乱。これまでになかったイレギュラー。おれの中に危険信号が灯った。気をつけろ。ボロをだすな。引きずられるな。
 黙りこくっていると、アルドは手際よく血圧を測定し、脈を測った。そのあと小さな機械をおれの額にかざした。すぐにピッと電子音が鳴る。
「血圧は正常値、よりも少し低いくらいか。まあこれくらいなら問題ない。過去のデータだと、血圧はいつも低め、と。熱もないようだ。頭は痛くない?」
「痛く……ない」
 ほんとうはちょっと痛い。
「吐き気とか、ほかに気分が悪いところは」
「いまは、なんとか」
「よかった。話せるようになってきたね。ほかになにか、質問は?」
「免許もってんなら、なんでお医者さんにならないの」
 口をすべらせてから、しまったと思った。迂闊なことを。まだ探りをいれる段階じゃない。誘導にのって、どうする。
「父がね、偉いお医者さんなんだ」
 アルドは動揺も見せずに言った。「だから、ぼくはお医者さんがきらいなの。バレ(OK)?」
 さっぱり理解できないが。
「バレ」
「じゃあ、ぼくはそこのデスクにいるから、ゆっくり休みなさい。気分が悪いときはすぐに呼んで。遠慮しちゃだめだよ。吐き気止めの注射もあるから。ぼくもたまに見にくる。ああ、そうだ、これをどうしようかな」
 アルドは思案するような面持ちで、軽く首を傾けた。
「トレセ」
「……え?」
「これは、とりあえずはずしておくよ。いい子だから問題ないよね」
 そう言ってアルドが触れたものを見て、おれはぎょっとした。どうして気づかなかったのだろう。両手首が、ベッドの柵にベルト状のようなものでくくりつけられている。圧迫感はほとんどないが、胸元もだ。
「万が一、暴れて点滴を引っこ抜いたらまずいし、悪いけど拘束させてもらってたの。ええと、食事ができないうちはこの点滴で栄養を摂ることになるよ。回復具合にもよるけれど、様子を見て流動食からためしてみようか。普通食でもだいじょうぶだとは思うけれどね。若いからきっと回復も早い」
 ベルトが外される。頑丈なベルトだ。ベルトはそのまま柵にぶらさがった。もしも暴れるようなことがあれば、また拘束に使うのだろう。
 両手が自由になった。
 自由とはいっても、動きがぎこちない。自分のものではないみたいだ。
「抗生物質も使っているから、ちょっとでもおかしなことがあったらすぐに言って。それと、開頭術をしてるから、動かれるととても困るんだよねえ。そうだな、軽い寝返りはしょうがないけど、できれば上を向いて寝てほしいな。ぜったいに身体を起こさないように。ベッドのリクライニングもだめ……っと、このベッドはリクライニングがないのか。頭の枕も、ちょっとだけ我慢してね。約束、できる?」
「うん……」
「バレ。あとでセンターからメディカル枕を借りてこよう。クッションがわりにこのへんに置いておくとらくだよ。じゃあ、ほんとに我慢しないでなにかあったらぜったい声をかけて。どんな些細なことでも。呼び出しボタンなんかいらないくらい隣にいるからね。カーテンは引いておいてかまわないかな?」
「ドクトル……」
「うん?」
「いま、何時、ですか」
 気になっていたことだ。さっき、この質問をすればよかった。
 規則正しい生活に慣れているので、時間には神経質なのだ。正確な時間がわからないと、不安でしかたがない。
 アルドは左手の腕時計を見た。「夜中の二時十五分、いや、十六分」
 彼はすぐに合点がいったようだ。
「起床時間は気にしなくていいよ。ノーチェス(おやすみ)」
 カーテンの向こうへ消えるのを、目だけで追いかける。
 高級な腕時計をしてやがる。おれが思ったのはそれだけだ。

 どれくらいうとうとしていたのか。こんどの微睡みは前よりずっとましだった。ときおり血圧計のカフが上腕を圧迫したけれど、気にもならない程度の干渉だ。覚醒もすみやかに行われた。状況をのみこむのもそれだけ早かった。いいのやら、悪いのやら。
 人の気配。おれは首を少しだけ左に傾けてみた。
 たしかに、そこにいる。カーテンのすぐ裏側。キーボードのクリック音、ブーンとうなるハードディスクのかすかなノイズ。紙をめくる音、ペンを走らせる音。そして、かすかな息づかい。すべてキャッチできる。
 遮光カーテン一枚が、堅牢な隔壁のように感じられた。上部から蛍光灯のまばゆい光が漏れているのに、ベッドまわりは相変わらず薄暗い。
 右にも遮光カーテン。こちらにはだれもいないようだ。その向こうになにがあるのだろう? もしも動けたら、脱走は可能だろうか。まさかな。
 それに、天井に小さく光る赤い眼は監視カメラだ。ヤンチャな真似はしないほうがよい。
 ひとまず、この環境はそう不快でもない。ただし、退屈だ。
 いま何時だろう。朝はまだこないのだろうか。
 ため息をひとつ。動くなと言われればそれに従うべし。従順は最良の術であると学んできた。過去の経験でおれはそいつを、かなり高度に会得したつもりだ。ときには痛い目に遭いながら。
 『経験は最良の教師である。 ただし授業料が高すぎる』
 たしかに高い授業料だったな。ドルではないけれど。
 時計がほしい。小さいのを貸してもらえるか、あとで訊いてみよう。
 吐き気は感じない。ふわふわして、むしろ心地よい。薬だろうか。
 じつに奇妙なことではあるが、アルドとの会話におれは満足していた。安堵したのはたしかだ。主として生殺与奪の件に関して。
 とりあえず、いますぐ処分されるという雰囲気ではなさそうだったから。
 暗唱できるくらい幾度も言い聞かせられてきた『実験』が行われたことは理解できた。生存率がコンマ以下の、実質的な死刑執行。
 最期の部屋に置かれたオペレーティング・テーブルを『死の台座』と呼ぶ。
 そこに送りこまれて帰ってきた者はいない。
 だれもが声をひそめ、噂を口にする。
 あれはサバトだ。
 忌まわしい儀式、サバトだ。それが行われるのはきまって聖なる水曜日か金曜日。悪魔によりしるしを与えられた乞食の子どもは、サバトの儀式で資質を評価される。失格者はその場で生きたまま切り刻まれる。その肉を煮込んだシチューが宴席に饗される。悪魔が、魔法使いが、喰らい、歌い、踊る。
 当たらずといえども遠からず。
 死の台座はたしかに存在した。
 おれが寝たんだから、まちがいない。
 98135772、悪魔が、さらってきた幼い乞食にそのしるしを授けた。それが、おれだ。そして魔法使いになるべく育てられた。いや、シチューか。どっちでもいい。たいした違いはない。
 ところがシチューにはならずにすんだ。びっくりだ。
 狭き門どころの騒ぎではない。なんの奇蹟か。冗談か。
 十四でハーバード大学に合格するよりも難関だぞ、たぶん。比較対象が適切ではないけれど。
 信じられない。なんで、おれが。そうだ。なんで、おれなんだ。よりによって。
 実感がわかない。あたりまえだ。こんな展開は想定外だ。人生を踏み外しちまった。ちゃんと人生設計というものがあったのに、まさかの脱線転覆。
 死にたかったわけではない。ただ、おれは研究所内の隔離施設で生かされながら、つねに生を諦めていた。おれの「生」とはすなわち、死を待つ毎日と同義だったんだ。
 だれだってそうだろう? 人なんて、ふとしたはずみで簡単に死ぬ。生と死はつねに隣りあっている。みんな、奈落への亀裂が縦横無尽に走る大地をそれとは知らずに歩いている。
 己の人生が短いものとおれは知っていたから、せめて太く生きてやるつもりだった。
 がむしゃらに勉強した。知識とは、外の世界のものだ。そこと通じない代償に、おれは世界のすべてを知ろうとした。遠くから見ているだけでもかまわない。この世界が虚構でないことを証明するために。本を読み、テレビでニュースや映画を観、フォークの先の人参ひとつに対してもそれの流通経路をシミュレートした。
 考えることは好きだった。
 怠けることも好きだった。
 モーリーと出会うまでは、おれはひとりだった。
 ほかにマウスがいなかったわけではない。だけど、モーリーは特別だった。十歳も離れていたが、兄とはきっとこういうものだろう。
 モーリーと暮らしたのは二年。曖昧だけれど、そのくらいだと思う。
 彼が消えて、おれはまたひとりになった。はじめて孤独を知った。
 孤独という感情は非常に厄介だ。ひとりが耐えきれなくなる。死んでしまいたい。いなくなりたい。無に帰すことにあこがれ、世界への興味が急速に遠ざかる。
 病。
 だから、思ったんだ。
 やっと死ねる。
 すべてが終わる。
 同時に襲ってきたのは身も凍る恐怖。
 おれは儀式的に洗浄された。
 死出の衣装は薄く、白かった。
 ストレッチャーに縛りつけられるとき、おれは自分でそこに横たわった。人の手は借りなかった。
 わけを問うまでもない。手順はわかっている。抗ったら、恐怖が長引くだけだ。だいじょうぶ、痛くはない。眠ることができたら、そこがエンド。
 ストーリーが明瞭すぎて、たぶんおれは考えることすらやめたんだろう。途中からの記憶がおぼろだ。
 小部屋をいくつか通りすぎたような気がする。その部屋に着いた。ここが行き止まりだ。思ったよりも広かった。それにどこもかしこも真っ白だ。白とは、死の色なのだろうか。
 ストレッチャーから死の台座へ移される。自分で動く必要はなかった。縛られたままでそれはできない。全身が固定されてゆく。磔。
 上腕に注射をされた。痛かった。痛みを感じるのは、これが最後かもしれない。そうだったらいいんだけれど。
 黙していた。口をひらいたら、どんな声がでるかわからなかった。眠ろうと思った。もう命令はされないだろう。だったらさっさと眠ってしまおう。
 目を瞑った瞬間、網膜に激しい衝撃があった。
 眩しい。
 心臓がドクンと鳴る。
 平坦だった精神が蹂躙される。
 暴力的な照明。
 いやだ。眠らせてくれ。
 眩しい。こんなのはいやだ。冷たい光。白い光。死。
『98135772』
 ”名前”を呼ばれた。呼ばれたら返事をするきまりだ。
 おれはついに口をひらいた。
「はい」
 影が光を遮った。おれは薄く目をあける。
 緑色。
 人間の形をした、緑色の――。
『テッドくん、ね』
 その瞬間、おれの制御は弾けとんだ。
 悲鳴が己のものと気づきもしなかった。
『さようなら、ぼく。おやすみ』
 暗転。
 ふう、と息を吐く。
 バイタルモニタが鳴らなくてよかった。あれはけたたましい。大きな音とまったくの静寂はきらいだ。
 ピッ、ピッ、ピッ。かすかに生の音を刻みながら規則正しく画面が流れる。
 心電図、血圧、脈拍、呼吸。
 おれの生体情報。
 生きている。
 死の台座から、生きて戻ってきた。
 ふたたび繰り返す。なんで、おれが。
 無限ループだ。
 ラッキーだったのかな。
 その突拍子もない発想に、おれは苦笑しなければならなかった。
 ラッキーだって! 笑わせてくれる。
 こんなものを強運と呼ぶほどおれは楽観的ではない。自明の理。これはさらなる不運の序章である。悲劇的オペラではそういうことになっている。主よ、アンラッキーをありがとう。
 疲労がたまってきた。考えるのはよくない。ひまだからまた眠ってしまおうか。いまならいくらでも眠られそうだ。スロウ、怠惰、大罪上等。
 さだかな情報はひとつ。いまだけは死を享受しなくてもよい。それは確実にラッキーだ。
 目を瞑る。
 暗闇に沈もうとする。
 聴覚が研ぎ澄まされていく。
 カタ、カタ、カタ。
 うるさいな。
 カタ、カタ、カタ。
 キーボード。それは静かで単調なリズムだけれど、子守歌のようにやさしくはない。人が操作しているのか、人が機械に操作されているのか。漠然としている。いらいらする。
 耳をすますと、そこかしこが機械音に満ちている。バイタルモニタリングのうなり、ファクシミリ、コピー機、シュレッダー、ルータ、テン・キーあるいは電卓、携帯電話、監視カメラ、空調。
 得体の知れない無機質なそれら。
 時計の秒針が動く音まで。
 静かだけれど、耳障り。
 これらはすべて、情報を伝達している。なんの情報を? 決まりきっている。考えるまでもない。
 これだけたくさんの音であふれかえっているのに、ただひとつ、人の声だけが聞こえない。
 気味が悪い。
 まさか、これが『地獄』とかいうやつじゃなかろうな。ダンテの『神曲』とはだいぶちがうけど。
 目をあける。
 白い天井をじっと見つめた。そこにある三つのスクエアに蛍光灯の光が煌々とあたっている。静かの海。アームストロング、オルドリン、コリンズ。偉大なる三歩。人類がはじめて月面に立ったところ。
 ちがうな。月の光はもっとあたたかい色だ。
 少しずつ、目が薄闇に慣れてきた。
 真四角の部屋だ。とても狭い。
 消毒薬のにおいがする。
 左右二方向は遮光カーテン。色はピンク。
 足元と、おそらくは頭の側も白い壁だ。ベッドの右側に医療機器らしきものがいくつも置かれている。バイタルモニタと脳波モニタ、いま稼働しているのはこのふたつのようだ。何本ものコードでおれの身体とつながっている。
 部屋も狭ければベッドも狭い。両手を軽く広げると、転落防止柵に阻まれる。さっきまで拘束されていた柵だ。このベッドは、おそらくはストレッチャーだろう。拘束具標準装備の。昔の精神科閉鎖病棟に置かれているようなやつだ。寝心地はさほど悪くもない。
 だが、掛け布団がない。血流圧迫を防止するためだろうか。それとも、見張りか。後者だろう。それに、静脈血栓塞栓症を防止する弾性ストッキングを履かせられている。妙にリラックスできない原因のひとつはこいつだ。きつすぎるし、むず痒い。
 空調はいたって快適。完璧といってもいい。暑くも寒くもない。湿度も良好。
 だからといって掛けるものがないのはかなり心許ない。せめて薄いブランケットが一枚あったらいいのに。
 おれは前あきの医療用スリーパーを着せられていた。色は薄い水色で、七分袖、膝丈。ほっとした。最初に運ばれたときの白装束じゃない。
 そこかしこから管や導線がはみだしている。口や鼻に突っこまれていないだけよしとしよう。あれは苦しいってテレビでだれかがいっていた。
 左手の甲には点滴の針が固定され、ひやりとする液体が緩慢に体内へ流れこむ。書いてある文字を読んでみる。TPN。安心した。単なる高カロリー輸液だ。
 そして、右手首。タグがついている。プラスチックに見えるけれど、金属のように硬い。つなぎ目もない。刻印は。
 No.13
 トレセ、ね。デシモテルセロ、はまちがい。序数ではなくて、基数。13番めではなくて、単なる13。サーティーンスではなくて、サーティーン。大事なことだから、記憶。
 どうして大事なことだとわかるのかって? 簡単じゃないか。白衣の男が繰り返したからさ。トレセ、トレセって。そいつが重要なワードであるという証拠だ。
 あとは、サーティーンと呼ばれたらすみやかに返事をすること。会話は英語で。これも大事なこと。記憶。
 英語はあまりじょうずではないが、きまりならばしかたがない。早く慣れなければ。エスパニョールは封印。アルドに対しても、できるだけ英語を使うようにしよう。そのほうがいいに決まっている。
 じきに、頭部の圧迫感が気になりはじめた。そっと右手で触ってみる。ごわごわする布できつく縛られている。伸縮する包帯ではないようだ。
 痛いというほどではないが、つらい。
 そういえば開頭手術をしたんだっけ。開頭ってあれだよな、頭蓋骨をノコギリかなんかで切るんだよな。
 ありえねえ。ぞっとする。いや、おれのことか。
 左耳の裏から目のあたりにかけてひきつった感覚があるので、おそらくそこを切って縫ったのだろう。傷口を触ってみたい衝動に駆られたが、怖さのほうがわずかに勝った。
 薬を使われているからか、ぼうっとする。
 思考がだんだんさだまらなくなってきた。
 まわりがうるさくなかったらすぐにでも眠りに落ちるところだ。眠ることはもともと得意ではないから、いいチャンスなのだが。
 頭部の圧迫感は、我慢できないほどになってきた。枕を禁止されているせいで体勢も不自然だ。首や背中まで負担がかかり、苦しい。
 少しなら寝返りしてもいいといっていたが、うまく動けない。だいたい、少しだけとはどこからどこまでだ? ちゃんと言ってくれないと困る。
「……ドクトル」
 幾度も躊躇ったあげく、おれはようやく蚊の鳴くような声で呼んだ。
 キーボードのリズムがとまる。彼は約束したとおり、すぐにカーテンを開けて「なに?」と言った。椅子に座ったままだ。やはりデスクが、近い。
「どうしたの? 吐きたい?」
 声がでない。全身を支配する緊張と警戒。
 白衣が立つ。近づいてくる。ほんの五歩。それだけでベッドの横に。
 今度はきちんと彼の姿を確認できた。
 ドクトル・アルド・リンカーンウッド。
 長躯で均整のとれた、おそらくこういうのを「ナイスガイ」と言うんだろう。
 華僑の血もひいているのだろうか。どことなくアジアの雰囲気をもっている。いとこがラティーノだといっていた。まあ、合衆国というところは混血だらけだからな。
 セピア色をした長い髪をひっつめて、頭頂部で縛っている。馬のしっぽのようだ。ピアスがやけにめだつ。綺麗な色だとは思うが、医者らしくはない。社内規定に引っかかりそうだ。ふつうはアクセサリー禁止だろ。こういう仕事ならばとくに。
 白衣の下はきちんとネクタイを締めている。薄い青のストライプのワイシャツにもまったく型くずれがない。夜勤だというのに、疲労のそぶりも見せない徹底ぶり。高評価されるべき好ましい笑顔も。だが――。
 目が。
 笑って、いない。
 レッド・シグナル。
 そうだった。忘れてはだめだ。見せかけのやさしさに騙されるな。ここは「ハルモニア製薬」なのだ。人間を実験用のマウスと同様に、いや、それよりも残酷に、消耗品のように使い捨てる、神に背いた使徒ども。
 アルドもそのいかれた連中のひとり。
 サバトで人肉を喰らう闇の魔法使い。
 麻酔やら薬やらが、もっとも大事なことをかく乱する。ぼんやりしている場合ではない。学習したことを思い出すんだ。まったく予期していなかった第二ステージ。これまでのやりかたは通用しない。経験に溺れるんじゃない。
 ここから先のことは、プロフェソルは教えてくれなかった。
 教える必要もなかったんだ。
 くそ、一からやり直しかよ。
 黙りこくっていたら、白衣は「よいしょ」といいながらベッドの足元に座った。視線はおれにあわせたままだ。
 しかたがない。意を決する。
 おれは固い声で、「頭の布がきつい」と訴えた。
「ああ、そうか。三角巾じゃなくてオペ用だから、きついよねえ。それ、伸縮しないようにできてるし」
 アルドはほんの少し緩めてくれたが、たいして変わりもしない。
 ついでと思ったのか、喉元にあてているタオルをはずし、ベッド下にあるらしいゴミ箱にほうり入れた。それからまた「よいしょ」と立ちあがって、カーテンの向こうに消えた。
 水の流れる音がする。
 すぐに戻ってきた。タオルをたくさん持っている。
 ひとつをひろげて、顔を拭いてくれる。あたたかい。いや、熱い。
 タオルを取り替えて、今度は首まわり。気持ちがいい。おれは目をとじて、されるがままになった。
 だけど、礼を口にするのはためらわれた。
 こんなことでいちいち気を許していたら、負けだ。これも駆け引きにちがいない。ハルモニアでは、誰にも心を預けてはいけない。それはおれの中にしっかりと根を下ろした原初の生存本能。
 この馬縛り男がおれの世話をするのは、それがお仕事だからだ。
 だったら給料分せっせと働いてくれ。遠慮するなとやつは言った。社交辞令などではない。当然のこと。
 マウスの収容施設よりも、このセクションのほうが格は上だろう。ストーリー的にはそのはずだ。この部屋は清潔なにおいがする。消毒薬はもちろんだけれど、空気が圧倒的にいい。差しこむ光のなかにも、ほこりひとつ舞っていない。
 きれいすぎる。だから、落ち着かない。
 アルドがタオルを抱えていなくなってから、時計のことを思いだした。またあとで。
 顔はさっぱりしたけれど、身体の痛みと頭部の不快感は時間とともに増していき、おれはたびたびアルドを呼び出した。遠慮などしない。遠慮するなという命令だったから、従うのだ。権利とはすばらしいな。
 ドクトルは表面上はいやな顔をひとつも見せず、優雅に仕事をこなしていく。
 だけど、頼んでもいないことまで彼は行った。
 鎮痛剤、吐き気止め、それから得体の知れない薬をいくつも。ろくな説明もなしに。アルドはためらいもなく次から次へと注射器で静脈ルートに流しこんだ。こんなにカクテルしてもいいものなのか、とおれは若干不安になった。
 そういえばプロフェソルが言っていた。風邪をひいたり腹をこわしたりしたときに処方される薬も、未承認薬のたぐいらしい。
 ハルモニアの持っている主力商品がつぎつぎに、米国特許を失効する。これは大手製薬会社ファイザーとて同様だ。製薬業界はいま、大型倒産の危機に直面しているのだ。だから製薬会社は、新薬の開発に躍起になる。
 すべての製薬会社が喉から手が出るほど欲するのは、いまだ決定的な治療薬のない難病――癌や、アルツハイマーの薬だ。
 さすがのプロフェソルもそこからは口にするのをためらった。もちろん、おれはすぐに理解した。モデル動物。マウス。人の薬をいち早く創りだすのにもっとも効率的なモデル動物とはなんだろう。そう、ヒトだ。
 ハルモニア製薬の研究施設で飼われているマウスは、さまざまな目的のために使われる。すべてがひとつのプロジェクトのために用意されたわけではない。ある者は意図的に癌化させられ、ある者は遺伝子を操作される。単に臓器材料としてバラバラにされる者もいるかもしれない。
 では、モーリーは? 収容所で、唯一の「友だち」だった青年。兄。彼もある日、ふいに姿を消して、そのまま戻ってはこなかった。
 プロフェソルにわけを訊くことは禁忌だ。それに、おれは理由をすでに知っている。理解の過程はシンプルなほうがいい。そのほうが傷つかない。
 マイナス思考というものはループする。
 具合がよくないのもそのせいだ。
 考えまい。考えはじめると、悪いほうへ引きずられてゆく。だが思考がとまらない。せっかく拭いた額に汗がにじむ。バイタルモニタが警告音を発しませんように。
 こんなはずじゃなかったのに。
 モーリー、たすけて、モーリー。
 ブランコのある庭に帰りたい。セスペシア・グランディフローラの木。偽物でない自然。狭い木陰と太陽と土の匂い。屈託なく笑うモーリー。ちょっと下品なダウンタウンのエスパニョール。友だちで、兄だったモーリー。サッカーボール。ラ・ボリンケーニャ。オレンジジュース。レゲトンにあわせた適当なダンス。カリブの陽射し。芝生。夕立ち。おれの場所。
 ハリケーンがくるよ。
 木が折れなきゃいいね。
 だいじょうぶ。セスペシア・グランディフローラは強いんだ。神聖な木だから、神さまに守られている。折れたりなんかしないよ。
 ハリケーンがくるよ、テッド。
 なかに入ろう。
 うん、モーリー。
(ハリケーンがくるよ)
(神さまが守ってくれる)
 神さまは、なにを守ってくれた?
 セスペシア・グランディフローラの木は、暴風に蹂躙されても折れたり倒れたりしなかった。
 そのかわり、モーリーがいなくなった。
 あの小さな箱庭に、もう二度と戻ることはかなわないのだろうか。プロフェソルが『おれのために』作ってくれた木のブランコ。せめて、あれだけは、不要なものとして、壊されませんように――。
 長い夜だった。おれは目を半分あけたまま、身じろぎひとつせず、ぐったりしていたらしい。やっぱりカメラで監視されていたのだ。
「だいじょうぶ? ぴくりともしないから……ちょっとは動いていいんだよ」
「……何時?」
「七時、ちょっと前くらいかな」
 曖昧だが、とりあえず朝だ。ほっとした。
 夜はきらいだ。闇のなかでおれは、少しずつ狂ってゆく。
 スリーパーは汗を吸ってびっしょりだ。水が飲みたい。
 ストローつきのプラスチックカップを持たせてもらったが、うまく吸い込むことができず、嚥下できない。かさかさの唇を湿らせただけだ。
 カップにも油性マーカーで13と書いてある。
 検温をしたら、微熱があった。
 遮光カーテンが開けられた。朝陽が見えるかと思ったのに、蛍光灯が冷たくともっている。夜にかいま見たものと変わりがない。
 もっと驚いたのは、足の側にあった白い壁がL字にスライドして、傍らの収納庫に折りたたまれたことだ。眼前にひろがった光景はあまりにも無機質なだだっ広い空間だった。
 右のカーテンも開いた。それはおれをがっかりさせるのにじゅうぶんだった。
 個室かと思った正方形の部屋は、この広い長方形の空間の単なる一部分だったのだ。
 蛍光灯の列。デスクの列。めまいがするほど整然と。
 アルドは自分のデスクに座った。不自然な位置に、そのデスクだけがぽつんと離れて置いてある。ベッドのそばにわざわざ引っ張ってきたのだろう。
 何人もの白衣がいるのが見えた。歩いていたり、座っていたり。
 正面の壁にわりと大きな壁時計がある。シエテ(七時)。おそらくは午前。仮定にする意味は、わかるだろう?
「のんびりしていなさい、トレセ」とアルドは言った。「日中はこのとおり、ちょっとざわざわするかも。あんまり気にしないように。退屈だろうと思うけど、しっかり回復するまで気が抜けないから、がんばろうね。拒絶反応の兆候は最低三ヶ月は観察しないといけない」
「拒絶反応?」
「臓器移植にはつきものだよ。きみ自身の免疫と、”セラフィム”がケンカせずに共存できるかどうか、観察期間」
「……セラフィム」
「それについては、習っているだろう?」アルドはにやりと笑った。
「まあ、一応」
「一応、ね。お利口な返事だ」
「あれだけさんざん吹きこまれたらばかでもわかる」
「ふふ、たしかに。じゃあ説明は抜きだ。拒絶反応が起きるか起きないかはぼくたちにもわからないから、あぶないと思ったら即、免疫抑制剤を使わせてもらう。まあ、いますぐにしなければいけない話じゃない」
 要するに、免疫抑制剤には激烈な副作用がもれなくおまけでついてくるということだ。いま聞きたい話じゃないな。
 アルドは右手でボールペンを器用にくるりくるりと回した。長い指だ。左手に指輪をしていないということは、結婚していないのだろう。
「傷に関していえばね、心配はいらない。頭部の手術痕は治りやすいから。脳はいちばん大切な臓器だから、人間はそこを優先して回復させるしくみになっている」
 人間、ねえ? 優秀なドクトルでさえ言葉のあやに気づかないこともあるのだ。一般論として聞き流しておこう。
「抜糸をしたらシャワーも許可できる。シャンプーもOK。まずはベッドレストレベルをあげていくことだね。いまが絶対安静のファーストステージ。検査をしながら、つぎは身体を起こしたりできる安静臥床。導尿をやめて、ポータブルトイレで排泄する練習。そのあとは段階的に歩行訓練。まあ、焦らなくていいから」
 その前にスリーパーを着替えたい。汗とゲロをおもいっきり吸ってるんだ。気づけよ。
「そうだ、音だけでいいなら、DVDを持ってこようか?」
 デジタルバーサトルディスク。テレビじゃなくて?
 研究所の施設、もとい、ヒト収容所で暮らしていたときは、テレビの視聴は時間制限はあったけれど完全に自由だったんだ。リアルタイムの情報は刺激的で、檻の外ではちゃんと世界が動いている、架空のものではないのだということを実感できるすばらしいアイテムだった。
 アルドは苦笑いをした。
「うーん、弱ったな。禁止という意味じゃないんだけれど、これは会議にかけないといけない。ちょっとまずいこともあるんでね。そうだ、きみはどんな番組がすきだった? 映画は? スポーツとかアニメーションとか、言ってくれたらDVDを借りてきてあげる」
 はぐらかされた。つまり禁止という意味に限りなく近いということだ。ここでだだをこねても覆るものはなにもない。おれは適当に「ハリウッド」と答えてみた。
 いい子のふりをしていれば、よけいな害をこうむることもあるまい。
「いいね。ぼくは『羊たちの沈黙』がすきだ」
 白衣はブラック・ジョークを吐いた。傑作だな、ハンニバル・レクター。おまえもマウスを喰ったのか。サバトで? 美味かったか? そういえばハンニバルはけっきょく最後、どうなったんだっけ。
 アルドはデスクから椅子を引きずってきて、ベッドの脇に座った。さっきみたいにベッドに座ればいいのに。「よいしょ」って言って。
「さて、ちょっと質問タイムだ。リラックスして、ぼくの質問に答えてください。いいね?」
「……はい」
「今年は、何年?」
 なるほど。
 おれはその問いには答えず、おうむ返しに訊いた。
「それって、ミニ・メンタル・ステート?」
 アルドは笑みに見せかけて口元を歪めた。
「ふーん、知識があるようだね。しょうがない。形ばかりでいいから、とりあえず素直に答えなさい。今年は何年?」
「2001年」
「いまの季節は?」
「冬……いや、春、かな?」
「そうだね。じゃ、今日は何曜日?」
「わからない」
「今日は木曜日だよ。そうか、日付の感覚はなくてもしかたがないか」
 聖なる水曜日の翌日か。有益な情報だ。
「ここの地理は、わかるかな」
「アッシュフォード」
「うん。じゃあ、いまきみがいる、ここはどこ」
「……ハルモニア?」
「そうだね。市は?」
「サン・フアン」
「いいね。じゃあ、これからぼくが三つ、名前を言うから、覚えてね。いい?」
「はい」
 ほんとうに形ばかりだ。決められた質問のいくつかをとばしていく。じゃあ、こちらもお返しをさせてもらおう。
「トロ(牛)、クチャラ(スプーン)、ティヘラス(ハサミ)。繰り返して言ってごらん」
「トロ、クチャラ、ティヘラス」
「もう一回」
「プエルコ(豚)、テネドル(フォーク)、ペガメント(糊)」
 白衣はプッと吹きだした。この男のほんとうの笑いをはじめて見たかもしれない。作戦成功。このあとの反応は別として。
「かわいいね、きみ」
「どうも」
「ぼく以外にその手は使わないほうがいいよ」
 おれもそう思う。
 アルドは続けた。
「百から順に七を引いてみて」
「ノベンタトレス、オチェンタセイス、セテンタヌエベ、セテンタドス、セセンタシンコ」
 アルドはまたしても笑った。こんどは例の、相手を見下したつくり笑いのほうだ。
「そこでストップするってことは、以前もこのテストを受けた?」
「いえ。知ってるだけ」
「じゃあ、次の質問の答えは?」
「トロ、クチャラ、ティヘラス」
「ははは、テストにならないな。まあ、いいか。次にいこう。結果を提出しなければいけないし。はい、これは、何ですか」
 アルドは左手の腕時計を見せた。おれは皮肉たっぷりに答えてやった。
「ロレックス」
 アルドは笑いに笑って(つくり笑いかどうかは本人に訊いてくれ)、あっているとも間違いとも言わなかった。白衣の職員たちがなにごとかとこっちを見ている。
「ほんとにおもしろいね、トレセ。こんなに笑ったのはひさしぶりだ。では、これは」
 胸ポケットから出したのは、ただの鉛筆だ。まともに答えてやる義務はない。これ以上、笑うフリを続けさせるのも気の毒だが、そのときのおれは小悪魔だった。
「#2(HB)」
「アシ エス(そのとおり)! 素晴らしい観察眼だ。視力いいね、トレセ」
 おかげさまで視力も聴力もほぼ問題なく生きさせてもらった。グラシアス、ハルモニアのくそったれ。
 その後もくだらない質問を適当にやりすごした。なにか文章を紙に書きなさいのくだりでは、起きあがれないためにスケッチブックを持ってもらって、「オレンジジュースが飲みたい。果汁100パーセントに限る」と乱暴に書いてやった。
「字が汚いね」
 ほっとけ。
 最後の図形把握テストが終わると、アルドは「満点、合格」とうなずいた。
 満点じゃないだろうが。「わからない」も一点に含まれるのかよ。
 正常ラインぎりぎりで答えてやったつもりだぞ? ちゃんとポイントも計算してたんだから。
 再勘定しかけて、おれは、はたと気づいた。もしかして、そこまでお見通しってやつか。
 ちくしょう。負けた。やりこめてやったつもりなのに。
 悔しさとともに、妙な笑いがこみあげてきた。ばかみたいだ。おれは、この白衣に好意を抱いている。非常に奇妙で、ありえない現象だ。しかも、その感情は危険すぎる。
 生きたければ、すべてを疑うのが鉄則。従順であることを基本とし、感情的な言動は徹底して自己管理、抑制する。敵(とみなされる者)の甘いことばは、百パーセント罠である。
 なにをムキになってるんだ。反省しろ、おれ。
 敗北感ついでに、よけいなことを訊ねてみる。
「それ、ロレックスなわけ」
 アルドは器用にウィンクをした。「セイコー」
「くれない?」
「だめ。これは錬金術で使う大切なものだから」
 なんて気障なやつ。それに、ケチ。

 アルドが持ってきてくれたトロピカーナのオレンジジュースは美味しかったのに、五分もしないうちにすべて吐き戻してしまった。直前に飲んだ胃薬もろともだ。
 胃がなにも受けつけない。喉が渇いてしかたがないが、たったひと口の水でさえアウト。薬の経口投与はまだ無理だ。
 胃がからっぽなのに、胃酸に混じってわずかな固形物が出てくる。人体のふしぎとはこのことだ。最後に食事を摂ったのはいつだったか。なにを食べたんだっけ。覚えていない。
 食事は毎日が似たようなもので、義務的に摂取していただけだから。食事よりもプロフェソルがたまに買ってくるお菓子のほうが何倍も好きだ。
 食べ物のことを考えていたらまたムカムカしてきた。
 ぜんぜん効かないじゃないか、ハルモニア製吐き気止め。
 吐瀉物はすべてアルドが処理した。そのたびごとに熱いタオルでしっかり拭いてくれる。なんと甲斐甲斐しい。言っていいか。不気味だ。
 彼は睡眠をとっていないはず。眠らないのか、この男。まさかアンドロイドじゃあるまいな。
 そうこうしているうちに午後になって、おれはCTに突っこまれた。ベッドはやはりストレッチャーになっており、移送はそのまま検査室まで一直線だった。
 検査室といっても、同じフロアの一室だ。被曝防止のため密室になっている、ただそれだけである。
 ただそれだけなのだが、気が滅入る。高額な放射線診断装置が、おれひとりのために設置されているという事実。
 信じられるか? このセクションの名称。サーティーン・ラボラトリーだぜ。
 検査台に移動するときに白衣連中が六人がかりで格闘してくれた。だれも無駄口をたたかない。全員がアンドロイドのように見える。
 ベルトで固定され、スキャン。どうでもいいけれど、必要以上の身体拘束は勘弁してほしい。CT検査ではしかたがないとは思うけれど、およそ考えも及ばないところに拘束ベルトがあるのをうっかり目にして、憂鬱になった。
 わかってはいたが。
 納得できないもやもやがおれを苦しめる。
 アルド以外の職員は基本的におれに関わってこない。せいぜい単語で命令してくるだけ。会話などもちろんあるはずがない。おれとしてはありがたい。よけいな気遣いをしなくてすむ。
 連中どうしの会話はたしかに正当なアメリカ英語で、その中ですら雑談は行われなかった。それも社内規定だったりして。そんな会社で働くなんて気の毒だな。
 帽子とマスクで隠されて目だけがでている男がたびたび採血に来たけれど、彼もまた必要以上の会話はせずに、まるで逃げるようにいなくなるのだ。
 汚物を処理する係、清拭係、点滴を取り替える係、シーツの交換係、巡視係、掃除係。念のため、しいていえば、失礼のないように、それぞれの特徴は覚えた。誰一人として役割以上のことをしようとしない。
 やはり、体位交換などのいわゆる「世話係」はアルドひとりのようだった。
 彼は「チーフ(室長)」と呼ばれているようだった。しかしネームホルダーには「ジェネラル・マネージャー」の文字があった。
 ジェネラルならば本来は部長クラスである。見た感じまだ、二十代前半というところなのに、ずいぶんご大層な肩書きを持っているものだ。ひょっとしたら童顔なのだろうか。いや、やはりアンドロイド説が有力か。
 どうでもいい。
 アンドロイドだろうがアンモナイトだろうが、ハルモニア製薬の社員だ。
 やがて、いろいろなことがわかってきた。寝ているだけというのはそれはそれは退屈で、観察以外にやることがない。
 このセクションはワンフロアで、かなり広い。面積だけならばバスケットボールの体育館くらいはあるにちがいない。
 移送のとき、ストレッチャーに振動を感じない。すなわちアクセシビリティに優れている。建設されて間もないのではないだろうか。
 天井も壁も白。目もくらむようなピュアホワイトだ。全般照明の光源色は昼光色よりもクール。おそらく眼にも精神にもやさしくないと思う。きわめて明るい。明るすぎる。
 それと、前にも訝しんだが、空気が異常なほど清浄だ。
 おれの『寝室』はフロアの一角、正しく解説すれば長辺の中央、壁寄りにある。最初に気づいたとおり単に遮光カーテンと移動収納式ウォールで仕切られているだけだ。
 職員のデスクはフロア中央に固まっていて、それを囲むようにぐるりと回廊状に通路がある。寝室の対面となる長辺には、通路ぞいにCTやMRIなどの隔離された撮影室と、生理検査室などの隔離されていない小部屋が並んでいる。
 ずっとここで暮らすのだからと、アルドが平面図を見せてくれた。最初のショックは、手術室と書かれた大きめの隔離部屋が寝室のすぐ真横にあったことだ。
 右のカーテンの向こうだ。死刑執行の部屋と隣あわせで眠るなんて、ぞっとしない。
 トイレ、トレーニングルーム、レストルーム、学習室、シャワー室、洗面台はすべてトレセ専用だとアルドが補足した。不思議に思って、ほかの人のトイレはどこにあるのかと訊いてみた。
 アルドは平面図の外側、左上を指でさした。
「書いていないけれど、ここから先が13ラボスタッフの区画。ぼくたちのトイレ、休憩室、ベンダー、食堂、宿直室などがある。くわしくは言えないが、実質的な行き止まりだ。通路には殺菌消毒の二重扉が二カ所。もちろん、きみはこっちへは行けない」
「殺菌消毒」
「そう。13ラボラトリオはクリーンルームだから。ぼくたちが入退室するのもけっこう、たいへんなんだ。アウトブレイクという映画は観た?」
「うん」
「じゃあイメージするのは簡単だ。冒頭で、あれはバイオハザードルームだから正確にはこことは逆なんだけど、頑丈で、窓がなく、パスを持っている者しか入室できない研究室があったろう」
「あった。レベル1からレベル4まで」
「そのレベル4に準ずると考えてくれたらいい」
「とんでもないな。宇宙服みたいなのを着てたぜ」
「トレセ。きみはウィルスではないから、宇宙服は必要ない」
「じゃあ、なんのために無菌化する必要が?」
「だいじなきみが風邪をひかないように」
 嘘つき。こいつの冗談は致死率十割だ。ぜんぜん笑えない。
 だがこれで、空気が清浄だと感じた理由がわかった。
 アルドは長い指を右上にすべらせ、そこにある空白を指先でトントンたたいた。
「ここが唯一のエントランス。バイオメトリクス認証で厳重に管理されている。ガラスのゲート越しにきみも外を少しだけ見ることができるけれど、そこに立っている警備員は武装している。先の構造は教えることができない。もちろん、トレセ、きみはここから出られない。無理に出ようとすれば、きみはまちがいなく、死ぬ。ゲートを一歩でも出た鼠は殺せと、警備員は命じられている。いいね」
 あまり深く考えたくはないが、了解。
「怖がらなくても、そのタグをつけているかぎり、ゲートは開かない。ぜったいに」
 おれはちらりと右手を見る。いまいましいしろものだと想像してはいたが、おそろしい仕掛けが施されているわけか。了解、了解。
「館内と敷地は全面禁煙」
 さりとて有意義でもない情報を聞き流しながら、平面図のあちこちに名前の書かれていない小部屋があるのが気になった。そういう小部屋は複雑に入り組んでいて、どこが入り口なのか、隔離されているのかいないのか、図面だけではわからない。おそらく、ろくでもない目的の部屋だろう。例えるならば、マウスの処分室とか。
 訊かないことにした。書いてある部分については訊けばおそらく教えてくれる。だけど知らないほうがよいことだって、あるんだ。
 ひとつだけ不満をぶつけたくてしかたがない件がある。窓だ。
 窓がひとつもないのだ。
 アウトブレイクの研究室と比較するわけではないが、おれにとっては生活の場となる13ラボラトリオ。レベルが4だろうが百だろうが、そんなものくそくらえだ。
 二十四時間、人工の照明で暮らす。アルドが言うには「ずっとここで」。
 冗談じゃない。人体には太陽光が絶対に必要なのに。人は光合成をしないけれど、日光がまったくない状況下では人の脳も正常な働きをしない。体内時計が狂うことで、さまざまな不具合を引き起こす。プロ集団がよもやそれを知らないはずがなかろうに、なぜ。
 以前の檻には窓はもちろん、庭もあった。社員の手でプランターに花が植えられていたし、プロフェソルの作ったブランコもあった。おれはセスペシア・グランディフローラの木の下で本を読みながらうとうとするのが好きで、きまって起こしてくれるのがモーリーだった。テッド、陽が陰るよ、風邪をひいちゃうよ。笑いながらモーリーが――ねぼけまなこの、おれ、を――。
 やめよう。過去の話だ。終わったこと。
 第二ステージでは、過去に囚われていては突破していけない。これからなにがはじまるのかわからないけれど、抗っても無駄であることはとっくに心得ている。
 了解、了解、了解ったら了解!
 アディオス、モーリー。グラシアス。
 永遠のさよなら。アスタ・ルエゴ(またね)ではなく。ああ、わかってるよ。それほど馬鹿じゃない。おれはカトリックだけれど復活を信じないから、二度と彼には会わない。
 キューン。
 監視カメラが電子音をあげた。昼夜問わずせっせと動いているから、こうやってたまに軋むのだ。オイルをさせばいいんじゃないのか。ぎらぎらと輝く小さな眼を睨みつける。
 ベッドまわりだけでも三つ。抵抗できないマウスをじろじろ観て楽しいか?
 監視カメラは至るところにある。移送されているときもたくさん目にした。ギッと軋みながら、いっせいにこっちを向くのだ。どこへ移動しても追ってくる。
 プライベートであるべきトイレやシャワー室にも設置されていると考えてまちがいない。憂鬱もそろそろ頂点に達してきた。
 機械の眼のその奥、そこにいるのは、だれだ?
 いまだに姿をあらわさない、あの男。
 人間の形をした、緑色の――。
 いるだろう。その眼の向こうに。おれが気づいていないとでも思うか?
 二度とおれの名前を呼ぶな。おまえの口で、おれの名を呼ぶな。
 目を閉じ、ゆっくりと呼吸をして、昂ぶった心を鎮める。
 上出来。
 絶対安静が解除されないので、快適に思えたベッドも窮屈になってきた。せめてギャッチベッドに変えてほしい。少しでいいから上体を起こしたい。それから脚も。動かさないから、攣りそうだ。
 アルドが体位交換したあとメディカル枕で固定してくれて、最初よりはらくになったけれど、動いてはいけないというのがこれほどつらいこととは思わなかった。
 CT検査でよくないものでもみつかったのだろうか? おれはだんだん不安になってきた。まさかこのままストレッチャーで処分部屋送りということはないだろうな。
 イライラが頂点に達したとき、タイミングよくアルドがプレゼントを持ってきた。
 約束していたDVDである。ポータブルではあるが、画面を観てはいけないというので、これでじゅうぶんだ。
 アルドの言うタイトルの中からおれは、『パルプ・フィクション』を選んだ。クエンティン・タランティーノが監督をして、カンヌでパルム・ドールをとったやつだ。
 音楽は軽快だった。
 だけどもともとストーリー展開や登場人物の相関が難解な上、入ってくる情報も音声だけなので、おれはすぐに飽きた。
「寝てるの? トレセ」
 気がついたらアルドがおれをのぞきこんでいた。
「うーん?」
「終わっちゃったよ。うん、こういう個性的なブラック・ユーモアはめったにお目にかかれない。なかなかおもしろかった」
「おれ、寝てました?」
「ぐっすり」
「すいません」
「なんで謝るの。それに……」 アルドはふいに口を笑いの形に歪めた。
「トレセ。眠りながら、セリフをトレースしていたね」
「は?」
 アルドの顔がゆっくりと離れ、ブラックアウトしたDVDに向いた。
「タイムラグはあったが、きみはセリフを正確にトレースしていた。ヴィンセント、それから、ジュールス。思いだしてごらん、トレセ。もしかしてきみはこの映画の内容を完全に把握しているんじゃないかな?」
「どうして。おれ、寝ていて、これも観るのはじめて、で……あれ? はじめて?」
 それに、気づいた。
 ぞわりと肌が粟だった。
 どうしてそのようなことになるのか、考えることすら怖かった。
 ドクトル。
 ”きみはこの映画の内容を完全に把握しているんじゃないかな”
 まるで最初から知っていたかのようだ。
 認めよう。事実だ。だが。
 説明がつかない。以前に観ていないことはほんとうだ。それにおれは映画に飽きて眠ってしまった。ぐっすりだ。
 おかしいじゃないか。おれ以外のだれが、そのストーリーを記憶できるというんだ?
 手のひらがじっとりと汗ばんでいった。そこにぎりぎりと爪が食いこむ。
 そんな、馬鹿な。馬鹿な。馬鹿な。
「かんたんなテストをしてみよう。記憶したものを断片でいいから『引っぱりだして』みなさい」
「いやだ!」
 アラームがけたたましく鳴った。アルドはすぐにそれを止め、駆けつけてきた白衣の男を「だいじょうぶだから」と追い払った。
 激しい動悸、発汗。喉が苦しい。頭が痛い。痛い。
「ゆっくりと呼吸して」
 おれは言われたとおりにした。パニックは緩慢におさまっていった。目尻から涙が自然にこぼれるのを感じた。
「いい子だね」
 どうして褒められるのだろう?
 おれは、いい子なんかじゃない。
 なぜ?
 あらゆる現象に対しての「なぜ」。すべてが疑問符。
 痛みがひくとともに、頭がぼんやりしはじめた。なぜ。その疑問はすぐにとけた。アルドが静注の管に鎮静剤らしきものを入れたのだ。
「こんどはしっかり眠りなさい。これは強い薬だから、おかしな夢をみることもないよ。DVDはしばらくここに置いておくね。あしたあたりから身体を起こしてもいいはずだから、自分で操作して好きに観なさい。疲れない程度にね。あ、でも、いまだけの特別サービスだよ」
 おかしな、夢?
 マフィアどもの奇怪なごたごたが、おれの夢だって。またかく乱するつもりだ。どうせDVDもそのための罠なんだろう。そんなもの、もう、いらねえよ。片づけてくれよ。
 瞼を閉じる。ドクトルの声が遠くに聞こえる。
「そのうちきみは、テレビなんか観るひまもないくらい忙しくなる。カリキュラムが始まれば、毎日が分刻みのスケジュールになる。ここのスタッフも増えるよ。全員が常勤で、選抜された優秀な男性だけの特別チームだ。しっかり心得て欲しいのは、全員、きみをヒトだとは考えない。サーティーンは実験用マウスで、ハルモニアの所有物だ。生かすも殺すも、会社の方針しだい。いいね」
 知るか。おれは眠いんだ。どうでもいい話はあとにしてくれ。
 複数の監視カメラがかすかな作動音をたてておれを向く。しつこいな。ああ、しっかり理解したよ。この頑丈な檻からは一生涯、逃げることなど不可能だってな。
 無意識に口が動いていた。
「いま、何時、ですか」
「夜の八時二十三分」
 そう、それだけが重要だ。

 テーブルに置かれたストローつきのカップを、凝視していた。
 それがとくにめずらしかったわけではない。いちばん手近なものがたまたまカップだった。ただそれだけだ。視線はその位置だが、心の在処はちがう。
 考えごとにふけっていたのである。
 けさ早く、狭苦しいストレッチャーから、リクライニング機能つきのギャッチベッドに移された。ボタン操作で背もたれができ、脚や膝も上下できる。食事の時間を中心に、最大四十五度まで上体を起こすことを許された。
 こんどのベッドは広い。自由に動けるようになったら、思う存分寝っ転がりたい。願っていたブランケットと、おまけにテーブルまでついている。移送できる機能は変わらないが、ER救急救命室から一般病棟に移る程度の感慨はあった。
 拘束具はあたりまえのように装備されていたが。
 この件ではもう、驚くまい。おとなしくしていればたぶん、拘束はされない。
 朝食に、味の薄い流動食が出た。おっかなびっくり口に運んでみる。ミルクの味がする。あまり美味しくない。
 けっきょく半分ほど残したけれど、胃はちゃんと受け入れた。
 オレンジジュースも、今朝は吐きださなかった。これがいちばんまともなメニューに思える。
 バイタルモニタリングと、点滴はまだ外れない。導尿の管もだ。
 昼食は、普通食にするという。ほとんど動かないので、腹は減らない。それよりやたらと喉が渇く。きのう吐いたせいもあるのだろう。しかし、ガブガブ飲むことは御法度だ。コップには目盛が刻まれていて、飲んだ量を細かく記録される。
 基本的なきまり、とやらを長々と聞かせられて、しんそこうんざりした。飼い殺しのルールを知りたいか?
 まずは、水だ。いま言ったとおり、これはスケジュールに従って決められた量のみを摂取する。飲めるのは提供されるミネラル・ウォーターだけ。洗面所の水は飲用にあらず。
 食事は、食べたくなければ残してもよい。いまだけのルールだ。食べ残したものは厳密に量られる。不足しているエネルギーや栄養素は点滴で補う。
 身体が回復してカリキュラムとやらに入ったら、好き嫌いもお残しも許しませんってな。このぶんでは、おやつも期待できないだろう。
 驚愕すべきは、身の回りのことだ。つまり、着替え、洗面、シャワー、トイレ、そういっただれでも体験する日常の仕事。これは、勝手に行ってはいけない。
 クソをするのも付き添いがいるんだぜ。どういう了見だ。
 周囲を見回せるようになって、水回りの異常に気がついた。プライベートな空間のはずのそれらの設備は、透明なパーテーションで囲まれた、観客が見放題のショーケースだった。
 あれでは落ち着くわけがない。出るもんもでねえよ。
 トイレのあとの手順にも唖然とさせられた。手洗いについてだ。完璧なやりかたというものを教えられた。医者が手術前にやる方法と同じだってさ。洗う順番まできっちりと決められている。あほらしい。
 シャワー室にはバスタブがなく、わけを訊いたら「自殺防止」と。以前、別のラボで事件があって、それで設置をやめたらしい。
 使用したタオルもすべて、こまめに回収だ。自殺くらい、ブランケットやカーテンや衣服、あるいは歯ブラシやティッシュペーパーなどを使ってできないこともなかろうが、監視の眼がこれだけ光っていたら、スキをつくこともできない。
 心配しなくても、自殺なんてしないよ。たぶんな。
 とどめは、例の、カリキュラムについてだ。これは午前七時ぴったりにはじまる。時間は四十五分間。内容についての事前説明はない。時間割があるわけでもない。
 そして十五分間の休憩。大切なのは、休憩とは自由時間とイコールではない、ということだ。トイレ、水の摂取、ごく軽い体操、なにもすることがなければレストルームの決められた位置で座っている。
 四十五分間のカリキュラム。十五分休憩。なにもかもが十五分の倍数だ。こうやって正午まで、5サイクルのカリキュラムをこなす。
 十二時に昼食。食べたら歯磨きを五分間。十三時から午後のカリキュラムがはじまる。四十五分、十五分、四十五分、十五分、四十五分、十五分。3サイクル。十六時にその日のカリキュラムが終わる。しかしまだ自由時間ではない。シャワーと着替えが待ちかまえている。
 シャワーは見張りつき、着替えも然り。
 それが済んだら、お待ちかねの解放タイムだ。レストルームで好きなことをしてすごす。好きなことといっても、やることなどほとんどありはしないが。
 十八時に夕食。食事はすべてレストルームで摂る。食事を終えたら歯磨き五分間。どんなに疲れていても、二十時までベッドに入ってはいけない。
 二十時にベッドで血圧、脈拍、体温を測る。問診。
 就寝は二十一時。移動式ウォールが動き、遮光カーテンが閉ざされる。眠くなくとも必ず横になること。就寝中は脳波モニタリングをする。寝ているときまでデータ収集だ。エストゥペンド(ワンダフル)!
 睡眠時間は八時間。以前いたところよりも一時間長い。まあ、あそこは昼寝も自由だったから。こっちではそうはいかない。午前五時に起こされる。そしてトイレに連れていかれる。ベッドに戻り、血圧、脈拍、体温、問診。十五分休憩ののち、洗面。六時から朝食。歯磨き五分間。さあ、カリキュラムのはじまりだ。
 聞いているうちに現実感がカッ飛んだ。どこの刑務所だよ。それとも、僧侶の修行か?
 カリキュラムの意味が曖昧だったので訊いてみた。返ってきたのは単純な答えだった。
『やればわかる』。
 どうも腑に落ちないので、アルドに文句を言った。ドクトルはやっぱりほかのスタッフとはちがう。爽やか、かつ温厚で冷静な口調で、ごていねいに教えてくれた。
「基本的には、学校の授業のようなものだ。つまり、お勉強だね。トレセはいま十四歳だけど、教育課程はグレード11相当まで進んでいるから、グレード12からはじめるとおもう。そのへんはぼくも詳しくは聞いていない。それに、一般的な教育課程とはちがうことも、かなりあるはず」
 脳をいじられたことと学習がどう関わってくるのか、おれも多少は興味深い。それに不可解な記憶の暴走についても、理由を知りたい。
「トレセの成績次第で、スコアが上がったり下がったりする。評価がよくなければ、きみにとってもあまり好ましくない事態になるから、そこだけは肝に銘じてほしい」
 へいへい。
 ちなみに授業のなかには「運動能力診断」もあって、トレーニングルームはそのためのものらしい。いつでも好きなときに使っていいのかと思った。がっかりだ。
 カリキュラムが行われない日もある。月曜日だ。週にいちどは、午前も午後もぶっとおしで、ありとあらゆる検査づけになる。
 いちばん恐ろしいのはMRIだ。閉所と拘束にトラウマのある人間に、あれは拷問だよ。動くなと命令されるし。昼寝でもしていればいいじゃない、とか。簡単に言ってくれる。
 休日というものは、ない。祝日すらも。聖金曜日も、クリスマスも正月も、おまけにアメリカ独立記念日までお仕事するんだぜ、ハルモニア製薬のやつら。労働者の権利はどうなっているんだ?
 すてきだろ。大統領なみの特別待遇が嬉しくて発狂しそうだ。
 整理してみよう。重要なワードは、「スコア」だと思う。それは、トレセ・ラボラトリオ(エスパニョールではそういう)全体の成績表だ。比較対象は、別ナンバーのラボ。社員はラボどうしで競いあうことによって、昇格も降格もするわけだ。優秀なマウスを育成したチームの勝ち。迷惑な話だよ。
 だけど、迷惑ですまされないことがひとつだけある。
 『セラフィム』についてだ。
 熾天使なんてご大層な二つ名をもっているが、こいつの正体は人工ニューロンだ。
 ニューロンとは、神経細胞のことをいう。動物ならばみんな持っている。コンピュータのCPUだと思ってくれていい。それと脳はメインメモリ。ニューロンの作業場所としての役目を担う。
 ニューロンはネットワークシステムである。節点(ノード)と経路(リンク)からなり、流れ(フロー)をもつもの。もっとわかりやすくいえば、それはインターネットに酷似している。
 ニューロンには軸索という細長い出力端子が一本生えていて、隣あうニューロンの入力端子となる複数の樹状突起にシナプスを介してつながり、複雑なニューラルネットワークを構成する。写真では、文字どおり、樹木の重なりのようにみえる。
 細胞がノード、シナプスがリンク。この情報伝達処理によって、動物はさまざまな活動を行うことができる。
 神経細胞は小児期に増殖する。成人後もまったく増殖しないわけではないらしい。だがそれに関しては、現時点ではまだ未知の領域だ。基本的に、神経細胞は年齢とともに壊れ、死んでゆく。
 頭をコツンと軽く叩いたらハエ十匹ぶんの脳細胞が死ぬとか、そういう冗談で笑った覚えはないか? 笑いごとではないぞ。ほんとうだ。
 ひとたび死んでしまった神経細胞はもはや再生不可能だ。脳死が人の死だとされるのは、これが理由である。脳細胞がすべて死んでしまった人間は自力での生命維持活動ができない。制御機関を喪えば、流れ(フロー)が完全に止まる。それは死にほかならない。
 そこで、細胞死をサポートする再生医療が進化する。人工神経という再建術がそれだ。研究は世界各国で日々続けられており、こいつが完成したあかつきには、人は(理論上は)死ななくなる。
 人工神経はいまのところ、人体の末梢神経系組織のみにおいて有効だ。中枢神経系に用いることは非常に難しい。不可能といってもよい。再生医療はまだそこまで踏みこんでいない。
 人工とはいうものの、体外で『人工的に』つくられた神経細胞を臓器移植するわけではない。体内に挿入されるものは、断たれた神経をつなぐシリコーン製のチューブだ。あくまでも細胞は自然再生により復活させる。
 セラフィムの概念は、それとまったく異なる。これは体外で『人工的に』製造された神経細胞だ。ないはずのもの、だ。
 製造というからには原材料が存在するはずだが、それが何かは知らない。知りたくもない。願わくば自分がその正体を知る機会が永遠に来ぬことを。
 セラフィムは中枢神経系をも支配できるという。これがなにを意味するかわかるか? 中枢神経とは、簡単にいえば脳と脊髄のことだ。想像してみるといい。自分の脳がもうひとつの脳と共存するのを。共生、あるいは寄生でもいい。
 寄生。そのイメージがもっともおれを脅かす。
 セラフィムはおれにとって異生物、すなわち別人の脳細胞だ。ドクトルも懸念している拒絶反応が起こる可能性は大だと思う。おれの自己免疫が脳に寄生したセラフィムを異物と認めたら、排除するためになにをしでかすかわからない。それは生死にかかわる最悪のシナリオだ。
 たとえ共生がうまくいったとしても、宿主はおれで、不利益をこうむる立場には変わりがない。上下関係はおのずと決まる。宿主なんて呼びかたはやめよう。奴隷だ。そのほうが正しい。
 セラフィムが単におれの脳を住処とするだけか、あるいはなんらかの搾取を試みるか、隷属させ思いのままに宿主を操るか、破壊から殺生に至るまで無慈悲に喰らいつくすか――一般的な概論としての寄生とは、そういう関係だ。
 これからのことをラボの人間はだれも教えてくれない。ドクトルでさえも。
 理由は簡単。知らないだけだ。予測するに足りる前例に乏しいから。だからやつらはワクワクしながら結果を待っている。畜生。
 脳内のパラサイト。なにが『セラフィム』だ。おれよりいい名前をもらいやがって。数字と天使。雲泥の差だよ。
 要するにハルモニアにとって重要なものはサーティーンという番号の宿主ではなく、熾天使なるニューロン様のほうなのだ。
 腹がたつ。
 いっそのこと、派手に拒絶反応が起きて熾天使が緊急事態に陥ればいいのにと思う。そうしたらおれはふたたび縛られてそこの手術室に運ばれ、熾天使との分離を果たすだろう。
 麻酔は使ってくれるだろうか。あまり楽観的にならないほうがいい。熾天使の緊急事態に麻酔の手順を踏むのはよけいな作業にちがいない。天使さまは痛いという感覚がないだろうからな。
 そのあとのことも。熾天使は鄭重にスウィート・ルームにお招きされ、数字は生ゴミだからダスト・ボックス行き。
 死ぬほど痛いのと、終身刑と、どちらがましだろう。いや、前者は死ぬか。死ぬのはいやだな。
 我ながらとんでもないシミュレーションだ。
 皮肉にも笑みがこぼれる。
 ドクトルは、いつものデスクにいない。休憩をとっているにちがいないと思い、点滴の交換にきた男に訊いてみた。
 大きすぎるマスクのために表情は見えない。大柄で、メタボリックに悩んでいる風な体型だ。
 彼はひと言、「会議です」という耳障りな音を発していなくなった。
 呆れたな。ほんとうに、いつ眠っているんだろう。
 少し心配になる。
 カップに右手をのばした。動きがぎこちない。
 指の関節もこわばって、いうことをきかない。つかんで引き寄せるだけなのに、これほど苦労する自分が情けなかった。
 太めのストローを噛みつくようにたぐり寄せて、吸いこんだ。ただの生ぬるい水だ。けれど喉の渇きをうるおすにはこれでじゅうぶん。
 12オンスの目盛。わずかの狂いもなくはじめその線にあった液体は、温度が上がってもほとんど減っていない。ドクトルの不在時にゲロをまき散らすという失態は犯したくないので、おのずと慎重になっている。
 ただ、身体を起こしたからだろうか。吐き気はなかったし、背中の痛みもやわらいだ。
 ドクトルがはやく戻ってくるといいのに、と思った。話し相手がいない。
 することもないし、昼食まではまだ一時間ある。ベッドの上にポータブルDVDとソフトが何本か置いてあるが、とても観る気になれない。
 そういえば。
 昨夜の不可解な現象は、なんだったのだろう。
 催眠記憶術というものがあることは知っている。しかしそれは訓練が必要なのではなかろうか。
 仮に睡眠中の外部刺激を記憶できるとしても、ふつうは覚醒とともに曖昧なものになる。少なくともおれは記憶術の訓練を受けたことはない。
 アルドが命じたように、映画の記憶は容易に引っ張りだせた。さいしょは断片だが、パズルのようにはまっていく。やがておれは、パルプ・フィクションを『観た』と信じこむことにした。眠っていたという認識のほうが夢だ。そういうふうに辻褄あわせをしなければ、正気をたもてない。
『おれの家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てたか? 出てないよな? 何で、おれの家の前に”ニガーの死体預かります”って看板が出てなかったと思う? おれの家じゃ、ニガーの死体は預からねえからだ!』
 チガー(アジア系アメリカ人)の死体も預かってくれなさそうだな。ここじゃ看板も出ていないだろうし。マウスの死体は……考えるまでもないか。
 ダスト・ボックス。くずかごだ。エル・エクストレモ(ジ・エンド)。

 心正しい者の歩む道は 心悪しき者の利己と暴虐によって行く手を阻まれる
 愛と善意をもって 暗黒の谷で弱き者を導くその者に神の祝福を
 彼こそ兄弟を守り 迷い子たちを救うものなり
 私の兄弟を毒し滅ぼそうとする者に
 私は怒りに満ちた懲罰をもって大いなる復讐をなす
 私が彼らに復讐をなす時
 私が主である事を知るだろう

 聖書の一節をはなむけに葬送(おく)ろう。ジュールスが撃つ。バン、バン、バン。銃声。
 モーリー。弱き者。迷い子。おれとおなじマウス。
 兄のように慕っていたモーリーはある日とつぜん、いなくなった。暗黒の谷に墜とされたのだ。
 おれの兄弟を毒し滅ぼそうとするのは、ハルモニア製薬。
 おれに復讐を成し遂げる手は、あるのだろうか?
 バン、バン、バン。
 破壊的、そして、すべての結末を告げる音。
 やつらを撃つ拳銃と、手と、それから、怒りがほしい。己が主であるといい放つ傲慢さはいらないけれど。
「おれは試されてるんだ」
 映画のセリフを、そっとつぶやく。
 頭の芯が、ズキンと脈打った。

 出された昼食にはほとんど手をつけず、ピクルスとデザートのリンゴだけをつまんでかじった。この姿勢ではスープなど飲めやしない。パンは喉につまりそうで怖い。肉は消化できるような気がしない。
 アルドは戻ってこなかったし、ほかの者は食事を介助してくれなかった。
 さしあたって空腹は覚えないが、口から食べるほうがいいということはわかっている。病気ではないのだから食事は本来、きちんと摂るべきだ。
 フロアを歩いてみたいという欲求もわずかではあるが、芽生えてきたところだ。体力をつけたい。せめてトイレくらいはひとりでしたいじゃないか。
 係の者はなにも言わず、トレイを下げた。時間だから片づける、そういう事務的な感じだった。
 テーブルの上はふたたびカップのみになる。蓋はピンク色で、かたちもかわいい。よくはわからないが、幼児用ではないだろうか。マーカーで書かれた数字がいかにも無粋である。ヒヨコの絵でも添えてくれたらよかった。
 13。
 よりによって、忌み数字だ。しかも最悪の。
 13という数字は、原初の人間すら恐れた。その数は未知であり、調和を乱すものである。
 欠番にする気はなかったのだろう。まったく、これだから理系の連中は。
 きょうは金曜日だ。最後の晩餐で13番目の席についた裏切り者ユダが処刑された金曜日。あまり縁起のよい日ではない。おとなしくしていよう。
 大きなマスクをした白衣がやってきて、体調を訊いた。点滴交換の男とは別人だ。中肉中背である。
 質問は簡単だったので、うまく答えたつもりだった。吐き気は。なし。頭の痛みは。少し。起きていてつらくないか。だいじょうぶ。ほかにおかしなところは。手がうまく動かない。
 男はわずかに首をかしげて、右手の指で輪をつくった。
「同じようにして」
 いうとおりにすると、互いの輪と輪が鎖になる。
 女性のように小さくて、あたたかい手だった。
「引っ張って」
 力比べらしい。
「もっと思いっきり」
 意外に手強い。
 右と左をそうやって調べられた。
「たしかに、右のほうがだいぶ弱い。利き手はどっち?」
「右です」
「なるほどね」
 移動式の台に載ったノートパソコンになにか打ち込んで、男はそのまま行ってしまった。
 なにが「なるほどね」だ。いいとかよくないとか、はっきりしてほしい。白黒つけてもらったほうが、ほっとするのに。
 あたたかいなんて一瞬でも思って損をした。冷血人間め。
 左脳は右半身を制御するというから、右が変なのはそのせいかもしれない。頭の傷は左にあるからだ。麻痺でなければよいが。
 スコアがどうのこうのとあれだけいうくらいだから、採点は厳しいのだろう。これが治らなければ大きく減点されるのは確実だ。いや、失敗の烙印か?
 スタンダード・スコアがどれくらいかわからないので不安がつのる。
 アルドはなんの会議をしているのだろう。いまこの瞬間にも、おれは天秤にかけられている。生に傾くか、死に傾くか。ゆら、ゆら。
 死が確実だったときのほうが、おれはそれを恐れなかった。
 怖い。
 いきなり白い人間たちがまわりをとり囲んで、ベルトをきつく締めるのではないだろうか。移送されるのは右の部屋だ。手術室。いや、死刑執行室。
 そこにあらわれるのは、緑色の男。
 さようなら、ぼく。こんどこそ、おやすみ。
 だめだ。人の動きが気になってしかたがない。
 みんなそれぞれの仕事をしている。数えてみたら、いまちょうど十人だ。女性はいないようだ。アルドは、男性だけの特別チームといっていた。
 エリートか。
 話し声はない。外線も、ほとんど鳴らない。それで機械音がやたらと耳に触るのだ。
 いちばんうるさいのはファックスだ。頻繁になにか送られてくる。ひとりがそれをせっせと処理して、あるいはコピーをとって、各人のデスクに置いて回る。
 ここの連中はなぜみんな笑わないのだろう?
 それに、だれひとりコーヒーを飲んでいない。
 フロア内は飲食禁止か。
 この機械みたいな人たちも、開かずの扉の先にあるという休憩室では、ふつうの人々にように談笑するのだろうか。想像できない。
 二重扉とかの消毒ルームで感情まで消毒されていたりして。あるいはピカッと光る秘密組織の特殊道具で記憶を操作されていたりとか。
 『じつは全員アンドロイド説』がむくむくと頭をもたげてきた。フォークト=カンプフ感情移入度測定法に合格して配属されたとしか思えない均一さ。そうなるとアンドロイド改め、レプリカントだな。あれはなんだっけ。そうだ、フィリップ・K・ディックだ。
 おれは、なんだろう。レプリカント? ブレードランナー? それとも、電気羊?
 いずれにせよ、創られたキメラに変わりはない。
 電気マウスか。といってもデバイスのマウスではないぞ。おれはちゃんと生きている。機械なんかじゃない。うそだと思うやつは、マイクロソフトというロゴでも探してろ。
 生きていても、身体のなかには電気がめぐっている。ニューロンが伝達する信号は電荷を持つイオン。おれにかぎったことではなく、生物学的に言っているのだ。
 いまごろぱちぱち放電しているのかもな。おまえはだれだ。おまえこそだれだ、って。
 たのむから、ケンカはやめてくれ。せいぜい仲よくしようぜ、人工ニューロン”13”。ドクトルと仲よくするのは保留させてもらうけれど、おまえとならば仲よくしてもいいよ。こうなったらばもう開き直りだ。じたばたしないで。
 まったく、厄介なことになってしまったよ。
 主よ、なんのイジメでしょう。ユダはお嫌いですか。
 ――。
 ばかばかしい。
 右の端から左の端まで。マウス一匹を飼うにはあまりにも広すぎるケージを見渡してみる。
 このフロアはひとつのシークエンス。物語はある。ただしそれは、あまりにもこまかすぎる断片。傍観しているだけでは流れに乗られない。それにこれは、第二幕のオープニングにすぎない。観客がよろこぶショッキングな展開は、この先いくつも用意されている。
 なんて閑かで、寂しいところなんだろう。
 理由のひとつはずっと早い段階で気づいていた。床である。
 音がしない。人が歩いても、ストレッチャーを動かしても、音をたてないのだ。奇妙な床だ。
 収容所がなつかしくなった。
 この時間は、庭で食後の惰眠をむさぼっているころだ。食事のあとの十五分程度の昼寝は身体の調子をととのえるとプロフェソルにおそわったからだ。
 そうだ。昼寝をしてみよう。どうせ退屈で退屈で死にそうなんだ。
 どうでもいいけれど、退屈で死ぬって、最凶の死にかただと思わないか?
 おれはリクライニングのボタンに手をのばそうとしたが、うまくいかなかった。転落防止柵に引っかけたテレビのリモコンのようなその小さな器械は、はずみで床に落ちた。
 音をきいてスタッフのひとりがこちらへやってくる。
 いちばん近いデスクでパソコンを叩いていた男だ。係は――もういい。どうやら覚える必要はあまりなさそうだ。
 彼は腰をかがめて床からリモコンを拾いあげると、「横になりますか」と訊いた。平坦で、感情のかけらもない声だ。
「すみません。ちょっと疲れたので」
「まだ三日めなので、いきなり長時間の座位は無理です」
 三日め。まだ、たったの三日なのか。
 男はマスクをつけていなかったので、顔が見えた。若い白人だ。人を見た目で判断してはいけないが、賢そうである。チラ見したネームホルダーには、No.13、スタッフという綴り、それから氏名のみが書いてあった。
「ぼくはオキュペイショナル・セラピストです。よろしく」
 相手が先手をとって、正直なところ驚いた。アルド以外のスタッフと会話らしきものを交わすのは、はじめてだ。
「よろしく、おねがいします」
 オキュペイショナル・セラピスト。作業療法士。食事や日常生活などのサポートをし、リハビリテーションをおこなう仕事だ。そういえば排泄処理を行っていたのもこの男だったような気がする。
「チーフが仕事をもってっちゃうんで、ひまなんですけれどね。あ、いまのはナイショです。ここだけの話。チーフはあのとおり、やきもちやきだから」
「……はい?」
「わかるでしょう? 人に取られないように、べったりじゃないですか。チーフはサーティーンがかわいくてしょうがないんですよ。なにしろ、来るのがこんなちっちゃい男の子だと思わなかったし、きみはユーモアのセンスも優れているらしいし」
 ちっちゃいは余計だ。それに、いつ、おれがユーモアなどを発揮しただろうか。まさかとは思うが、ロレックス?
 笑いがこみあげてきた。
 リクライニングが低くなった。軽く角度を残して止まる。
「このくらいでいいですか」
「ありがとうございます。ちょうどいいです」
「体位を変えたいときは、呼び出しボタンで……いや、そこにいるから直接呼んでください。ぼくは十八時までの勤務なので」
「あ、はい」
「ふだんは、チーフのいうことをよくきいていれば、いいとおもいます」
「はい」
「かわいがられたほうが、得ですよ」
「え?」
「マウスなんだから」
 軽いショックを覚えた。
 マウスなんだから。
 まちがってはいない。だが、いまのは不意打ち攻撃だ。
 はじめて自分から話しかけてきてくれた人に、あたりまえのように宣告された。あたりまえのように。ちがう。あたりまえのことを言っただけ。
 おれもこうやって洗脳されていくのか。
 男はすました顔で「ちょっと脚を動かしてみましょうか」と言った。昼寝をしたかったのに、やぶへびだ。
「少しずつでも動かしていかないと、リハビリが大変になります。寝たままでいいです。片足を少しずつあげてみてください」
 男の立っている左脚からあげてみた。こわごわだけど、動く。
 しかし、反対側は、重りが乗っているような感じだった。
「右脚が硬いですね」
「右手もうまく動かなくて」
「ふーん? グー・パー、グー・パー」
 言われるがままにニギニギをする。
「パラプレジー(片麻痺)が少しあるのかな。しびれは感じる? 感覚は?」
「しびれていません。感覚は……にぶいかも。うまく動かせない」
「意識障害は、ないんだよね」
「きのうのテストですか?」
「そうです」
「パーフェクトっていわれました」
「でしょうねえ。いまこうやってちゃんと話してるし」
「身体の右側だけ、変なかんじです」
「あんまり神経質になるのもよくないですよ。たまに自分でも、意識的に動かすようにしてみてください。きのうのCT検査は問題なく、順調です」
 問題なし。よかった。
「月曜日にMRIのスケジュールが入っていますね。抜糸は水曜日、と。ちょうど一週間めだね。若いから、もうちょっと早くなるかも」
 常置のノートパソコンを操作して、目で追っている。
 先のスケジュールも決定済み。少なくともきょうはトラブルがないかぎり殺されない。
 安堵する。
 しかし、MRIか。いやだな。
 閉所恐怖に拘束恐怖。しかも長時間。生きたまま棺桶に入れられて土をかぶせられるような感じ。あれは検査じゃない。拷問だ。
 PTSD、心的外傷後ストレス障害。
 要因は長期にわたる監禁支配と精神的虐待、短期では追体験としての『死の台座』送り。ハルモニアではカウンセリングは行われなかったから、自分で調べた。幸い、収容所ではテレビを観ることができたし、精神医学関係の本もたくさんあった。
 フラッシュバックすら起こしているのに、精神的治療にはほとんど言及されない。薬を使われるだけ。この件はアルドに相談してみることにする。
「じゃあ、とりあえずこのままリハビリを続けて、様子をみてみましょう。環境の変化もあったことだし。抗不安薬を投与してもらうように、チーフが戻ったらいっておきます」
 ほらね。
 そうだ。この男ならば訊けるかもしれない。
「ドクトル……いえ、リンカーンウッド先生は、どういうシフトで働いてらっしゃるんですか」
 男は一瞬、目をぱちぱちしたあと、こちらが驚くような軽快さで、笑った。
「やっぱり気になるんだ。あはは」
 マウスのくせに、と続きそうだ。
「シフトなんかあってないようなもんですよ。チーフは仕事一途でね。家にはほとんど帰らずにここで寝泊まりしているよ。一日四時間眠ればじゅうぶんとかいってます。ラボが動きはじめたからよけいに、ハイテンションになってるんですよ。働き過ぎで倒れなきゃいいけど」
 それは、おれも思う。
「家って?」
「ああ、サン・フアン市内の高級アパート。あの人、モテそうなのに仕事が恋人で、結婚する気もなさそうだし、こっちきてからずっとひとり暮らしだよ。うかつにアパートに帰ると、お袋さんからの電話がうるさいんだって。くだらない島にいないで帰ってこいとか家業を継がなかった恨みごととか身を固めろとか。気の毒っちゃあ気の毒だねえ。あ、家はカンザスシティで有名な大っきい病院ね」
 口調がだんだんさばけてきた。根は陽気でいい人なのかもしれない。もちろん信頼はしないけれど。
「チーフだから、ここのリーダーですか」
「うん、ここの最高責任者であって、同時に、プロジェクト推進部のひとり。上層部の信頼も厚いし、仕事はできるし、超エリートの幹部候補。ああそれから、そのうちアンタの専任になりたいとかいってた。よっぽど気にいったんだねえ。昇進が遠回りになるだろうにさ。もったいない」
 ということは、まだ専任ではないし、その可能性も五分五分ということだ。仲よくなろう発言は前振りか。
「サーティーン」
「はい」
「なにがあっても、チーフの命令は絶対だからね。しっかり覚えておくように。逆らったり、怠けたりしたら、サーティーン・ラボラトリー全体の評価が下がる。すると、どういうことになるか、教えてあげよう」
「……」
「ひとつ。まず、予算が削減されます。知っているとは思うけど、ラボラトリーはここだけではありません。プエルト・リコ研究施設内に、ここと同じ複数のラボラトリーがあります。ざんねんながらまだぜんぶ稼働しているわけではないですが、まあ、そこそこの数です」
「いくつくらいですか」
「知らなくてもいいでしょう、そんなこと」
「……すみません」
「互いはそれこそ秒単位で競争しています。最終的に、スコアをあげたマウスだけが商品になります。よって、予算はとっても重要。予算は評価と比例します。そして経費は還元されるべきです」
 いまでさえ相当な資金を使っているはず。還元とは、おれが商品としてそれ以上に高く売れるということだ。失敗したのもひっくるめて黒字にするくらい。
 そもそも、だれが買うんだ。キメラなんか。
 人身売買は裏取引だから、値もつりあがるんだな。ふん。
 まてまて。それはあくまでも商品がヒトの姿をしていると仮定しての話だ。どういう形態をもって商品と為すのか、問題はそこからだ。
「ちゃんときいてる?」
「は、はい!」
「ぼんやりするんじゃないよ。そういう、ちょっとしたことでスコアが下がるんだ。ふたつ。サーティーンから取得したデータをいかにアピールするか。こればっかりは未知の世界で、どっちに転ぶともわかりません。もしも、きみが期待はずれだったら、ぼくたちはがっかりするだろうけれど、きみは」
 真上から顔をのぞきこまれる。ひんやりとした、灰色のひとみ。そこに浮かびあがる、悪魔の笑み。
 サバトだ。
 聖なる金曜日の宴。
「きみは、死ぬよ?」
 愉しげな口調だった。脅しや躾ではなく、真実と仄かな期待をこめて。
「そこでね」
 顎で指したのは右手の手術室。
「殺すだけだから、全身麻酔も薬もモニタリングもぜんぶいらない。とってもかんたん。ちょっと頑丈に拘束するだけ。ホラ、どうしても暴れるじゃん。麻酔を使わないと知っただけでふつうはパニックになるよ」
 思ったとおりか。
「でも、セラフィムのために消毒だけはきちんとやらせてもらうの。頭ぜんぶと、眼や耳の中も。こうやって、ヨウ素の原液を塗りたくる。粘膜もぜんぶ。アナフィラキシーをおこすこともあるけれど、この時点で死んでもらっては困る。手早く、手早く。ほんとは、バケツに頭ごとつっこんだほうがラクだ。でも、ヨウ素がもったいない。ははは」
「……」
「実験に失敗したマウスが生きたまま脳をとられるのをぼくは見たからね。ぼくはそこから13ラボラボリーに異動してきたんだ」
 喉がひくついた。
「泣いてもわめいても、こっちは時間勝負だからだれもきいちゃいないよ。ぐるりと皮膚切開して、硬膜も切って、頭蓋骨にドリル入れて輪切りにして、はずす。縫合する必要がないってのはいいね。あっというまに大脳があらわれる」
 顎をつかまれて、むりやりそちらを向かせられた。愉悦の表情だ。おれは目を瞑ろうとしたが、指でこじあけられた。
「チーフは甘やかしすぎなんだ。こういうことは早く知っていたほうがいいんだよ。マウスがかわいいだって? ハッ! あれはおまえの脳味噌のほうがよっぽどかわいいね。ブッ断斬るときはちゃんと見てやるよ。そいつは特権だからな。ハハハ」
 涙があわふれそうだ。だがおれはこらえた。泣くものか。こいつの前では、ぜったいに。
「想像するんだよ」と男は言った。「痛いよ。すさまじく痛い。絶叫がさあ、口からもれてとまんないだぜ。メッサー(執刀者)の指示もほとんどきこえなくて、でも頭蓋骨をはずすまではメッサーひとりいればじゅうぶんだ。断末魔っていうじゃない。まじ、アレ。穴という穴からいろんなもんがとびだしてさあ。クソとかしょんべんとか。台に爪たてやがるから、ぜんぶべりべり剥がれるの。すげえぜ」
 完全に陶酔している。
「くせえし、うるせえけど、生きているうちに天使ちゃんをとりださないとまずいから、こっちは必死。でもおれは見てただけだからぜんぶ憶えてる。眼球がとびだして、プツっていって床にころがってった。あ、そうそう、血の泡をふいてたよ。カニみたいにブクブク。脳味噌はきれいだったなあ。脳幹までとりだすと、やっと呼吸も心臓も止まる。でもさ、それでも身体ってけっこう長く痙攣してんだぜ。ギロチンで首をちょん斬ってもそうなんだってさ」
 狂ってる。
「いやあ、あとのお掃除がたいへんだった。ぐっちゃぐちゃ。モップをありったけ使ったのにたりなくて、最後にはみんなで雑巾がけ。消毒しても臭いが消えねーの。次は方法を考えなくちゃなんねえな。おむつでもさせるか。あははは」
 おれはなにか言おうとした。声にはならなかったが。
「目玉、歯、舌。ぜんぶ、血にまみれて床に落ちてた」
 吐きそうだ。
「サーティーン。どうしてぼくがこんな話をするのか、わかる?」
 顎から手が離れる。
「意識があるのにそういうことをされる気持ちを、きみにわかってほしいからだ。ふつう、死ぬまえに発狂する。死因は外傷性ショック。でも、ぼくたちはその寸前で完璧に終わらせる。プロだから。脳は強いから、そんな断崖絶壁でもちゃんと生きのびてくれる。脳は、もっともすばらじい臓器だ。そしてハルモニアには、ゴッド・ハンドと呼ばれる脳外科医がいる」
「神の……手」
「きみの執刀をしたのがゴッド・ハンドだ」
 神の手。
 人間の形をした、緑色の――。
「彼を失望させないでほしい」
 男は背を向けた。そして。
「殺すためにマウスを飼っているわけじゃない」
 去ってゆく。デスクに座る。ちらりとこちらを見て、その視線をパソコンに向ける。
 静寂。
 いや、機械音に満ちている。
 どっちだ。
 おれにどうしろというんだ。
 バイタルモニタが甲高い音をたてた。いまごろかよ。
 浅く呼吸をしたら、それはすぐに沈黙した。
 こらえていた涙があふれてきた。おれは静かに泣いた。
 神さま。
 どうぞ、殺されたのがモーリーではありませんように。
 それから、ゴッド・ハンド。神の手を持つ緑色の男。
 卑怯者。出てこい。どうせいまのもぜんぶ観ていたんだろう。おれの涙も、観ていたんだろう。どこか遠く離れた、秘書つきの立派な部屋で。
 おまえの期待に応えろと?
 ライフ・オア・デス。
 その二択は、どちらを選んでもおれを激しく苛む。しかし、ライフを選択することをおまえは望んでいる。そういうことか。
 ならば、生きてやる。
 生きてやる。お望みどおり。
 そしていつか、おまえに復讐する。
 おれはおまえに替わって、神になってやる。
 遠くの壁時計がぼんやりとにじんでみえた。
 十三時四十九分。
 はやくドクトルが帰ってくるといいのに。それだけを願っていた。

 契約書に、サインを。
 声のぬしは姿をみせない。しかしその声は威圧的で、絶対支配を象徴している。
 大きすぎる存在。
 対する自分は矮小な存在で、子鼠のように萎縮する。
 サインをしなければ。
 だけど、ペンがない。サインにはペンが要る。
 どうしよう。サインをしなければ。
 己の血で、契約書に、サインを。
 血で。
 右手が熱い。血の赤がみえる。指だけではない。右手が血でまみれ、闇の床にしたたり落ちている。
 ああ、おれの血だ。
 赤い。おれの血だ。
 やっと、ここまできた。
 ただちに従え。
 上のほうから、重い声が降ってくる。
 おれは知っている。反逆は許されない。
 現れよ。ラ・ムエルト。
 震える右手で、おれは書く。
 13

「トレセ?」
 重いまぶたをこじあけた。そこにいる人物を認めて、おれは無意識にほほえんだ。アルド・リンカーンウッド。
「ブエノス・ディアス。少しは眠れた?」
「……いま、何時?」
 アルドは苦笑した。腕時計を見る。「夕方の五時四十分ぴったり。枕元に置ける時計をプレゼントしてあげようか」
「セイコー?」
「これは、だめだって」
 冗談だよ。
 眠っていたようだ。なにか夢をみた。記憶にない。
 全身が気怠い。また薬を静注されたのだろうか。
 昼寝から醒めて、浴びる光が太陽ではなく蛍光灯というのは、いけないと思う。体内時計が狂うからだ。こんな生活は続けてはだめだ。
 おれではなく、ドクトルが。
 おれはどうせ狂うから、いいや。
「ぐっすり眠っていたから、このまま寝させてあげようかとおもったんだけど、もうすぐ夕食がきてしまうから起こしちゃった。ごめんね」
「ううん、ありがとう」
「いい子にしてた?」
 まただ。アルドはおれを小さな子どものように扱う。かわいくてしょうがないとか、やきもちやきだとか、いかれた男がそう言っていた。
 損得とか。
 そんなつまらない関係はあまり好きではないのだけれど。
 素直になろう。
 この男も、13ラボラトリオのなかでは孤独なのだ。
「退屈だった……ドクトルがいないから」
 アルドはぱあっと表情を明るくした。おれの返答がお気に召したらしい。
「ごめんね。会議があって、そのあと部屋で寝ていたんだ。いまシャワーして、戻ってきたところ」
 そういえば、石けんのいい匂いがする。
「ドクトルには部屋があるの」
「ううん、仮眠室の一室を占拠してるだけ。ぼくはチーフだから、これくらいのわがままは許してもらおうかと、勝手にね」
「ちゃんとベッドで寝てる?」
「ありがとう、心配してくれて。だいじょうぶ、ヒルトンなみに快適だよ。レストランのメニューも充実している。ぼくは昼に中華を食べた」
 社員食堂をレストランと置き換える程度の、小さないたずら。孤独な男の、せいいっぱいの芝居。
 ふと、思う。
 ドクトルも、マウスの処分に立ち会ったことがあるのだろうか。
 げらげら嗤いながら断末魔のショウを愉しみ、血と臓器と汚物の海に陶酔するのだろうか。
 訊こうと思ったけれど、やめた。狂気を暴くのは、いけない。
 おれのなかにも狂気がある。それはけして暴かれたくないと思う。
 アルドはボタンを操作して、リクライニングを起こした。角度の微調整を訊いてくる。そんなもの、適当でいいのに。ドクトルはやさしい。
 悲しいくらい、やさしい。
「ごはんの前に、やらなきゃいけないテストがあるんだけど」
「ミニ・メンタル・ステート」
「うん」
 アルドは耳許に顔を寄せてささやいた。「面倒だし、省略しちゃおうか。適当に書いておくよ」
 まったく、いいかげんな医師だ。だが提案はすてきだ。賛成。
 アルドはベッドに腰掛けた。「よいしょ」とは言わなかった。こんどのベッドは広いから、ゆったりと座れる。
 仲よしどうしのおしゃべりの時間か。はたまた、探りあいの時間か。
「あーあ」
 待ちかまえていたものとは異なる展開におれは驚愕した。アルドはのびをして、ベッドにごろんと寝そべったのだ。
「さすがに疲れたなあ」
「お、おっ、お疲れ……ですか」
「上は、頭がガッチガチな偉いさんばかりでさ。尊敬している人はいるけど、会議はきらいだ。息がつまる。あれさえなきゃなあ」
 そのままいびきをかいて眠ってしまうのではないかと思った。
 幾つもの監視カメラのまっただ中で。
「ここが、いちばん落ち着く」
 理解できない。彼は外の世界に出られるのに。食事にでかけたり、ビーチで泳いだり、旅行をしたり、おれにはぜったいに叶わないことをすべて許されているのに。
 こんな無機質で、いやになるほど清浄で、陽の光がささない、消毒薬の臭いに満ちた堅牢な檻がそんなに好きか?
 13ラボラトリオはそれほど魅力的だと?
 外の世界のほうがずっと、ずっとましにちがいない。なのに。
 安らいだ表情。
 それが、アルド・リンカーンウッドの真実か。
 混乱してきた。
 ふいに、アルドが笑みをうかべた。
「トレセ。ぼくはがんばったよ」
 目がひらく。澄んだ栗色のひとみがまっすぐおれを見る。やさしいひとみ。幸福と満足をたたえた、深い深い水たまり。
 翠玉のピアスが、揺れる。
「もうすぐ辞令が届く。ぼくはトレセの専任になる。もう、どこにも行かなくていい。ずっと、きみと居られる」
 アルドの右手がのびた。
「握手しよう」
 とまどい。不安。そして、渇望。  この手を握ってもいいのだろうか。それは禁じられた遊びではなかったか。
 あの声が割りこんできた。
『チーフは甘やかしすぎなんだ』
『かわいがられたほうが、得ですよ』
『マウスなんだから』
 マウスなんだから。おれは、マウスなんだから。
 飼い主に従いなさい。
 死にたくなかったら、従いなさい。
(生きるつもりだったら、従いなさい)
 おれも右手をのばす。こわばって、うまく動かない。
 アルドはその手をさっと握った。
「おびえている」
「そんなことは……ありません」
 握った手に力がこめられる。
「おびえている。トレセ、きみは13ラボラトリオにおびえている。きみは賢いから。なにか、あったね。いまのきみは、追いつめられた野生の動物のような眼をしてる。そうだ。きみが正しい。ここにいる人たちはみんな、悪魔と契約を交わしたエリートだ。トレセ、直感を信じなさい。漫然と生きてはいけない。鋭くなりなさい。でないと、足元をすくわれる。やつらは、血に飢えている。ハイエナのように」
 びくっ、と身体が硬直した。
 ライフ・オア・デス。
 死なない。おれは、生きる。むざむざ贄にはならない。
「ひとつだけ、確実なことがある。13ラボラトリオの中では、ぼくの命令がないかぎり、だれもきみを殺せない。例外はない。だから、ぼくを信じてほしい。ぼくはトレセの味方だ。トレセ、きみは優秀なセラフィムを授かった、選ばれた子だ。自信をもっていいんだ。ぼくは、トレセが神になるのを見守るためにここに居る」
「……神」
 神に。
「そうだ。13という数字の意味するものは死神、ラ・ムエルト。死神は悪魔ではない。悪魔とは愚かな人間のことだ。ばかなやつらのことだ。ぼくも、きっと、そのひとりだ」
 最後はつぶやきのようだった。
「トレセ」
「はい」
「ぼくでよければ、友だちにならないか」
 友だち?
 仲よく、ではなくて、友だちだって?
「ぼくはきみと、友だちになりたい」
 従わなくてはならない。醒めたおれが、未熟なおれを叱咤する。だけど、声がでない。こういうケースの対処法を知らない。
 モーリーとは、どうやって友だちになったんだっけ?
 アルドは微笑んだ。つくり笑いのようには見えなかった。
「返事はいますぐでなくてもいいから」
「でも、あの……」
「力になりたい。トレセ。顔を拭いたほうがいいね。涙のあとがこびりついているよ」
 また強く握られ、手はするりと離れていった。
 ジッ。
 監視カメラの作動音。
 足元に、静かで規則的な息づかい。
 眠ってしまったのか?
 おれも目を瞑る。
 教えてほしい。
 運命とは、さだめられたものではなかったか。
 それは、変えることができるのか?
 運命をねじまげるのは罪だ。とてつもない厳しい罰が下されるだろう。
 それでも、運命を変えたいと願うことは、許されるのか?
 ケージのマウスが、蒼穹にあこがれること。
 乞食の子どもが、神になりたいと願うこと。
 運命とは静かに流れる大河だ。大河という古代の自然に立ち向かうなど、なんと愚かで、罪深い所業か。
 それでも、おれは。
 罰されてもいい。
 もうひとつの運命を、あきらめたくない。

 できるかぎり早く現れよ、ムエルト。
 さもなくば鎖骨の強力なる呪文によって、わたしはおまえを絶えず苦しめるであろう。
 契約書に、サインを。

 13

end

インビジブル・ハンド番外編


2012-05-06