もうひとつのインビジブル・ハンド #6/鉄人
インビジブル・ハンド後日談、鉄人お誕生日SSです
「ワンス・イン・ア・デケイド」を先に読んでた方がいいです
#1 今日子
警戒レベルを引き上げるべきだわ。
フェーズ3(イエロー)からフェーズ4(オレンジ)へ。櫻井今日子はうんとうなずき、休憩室のパイプ椅子にぼーっと座っているターゲットを目視した。
視線は虚ろ。コーヒーに手をつけた形跡、なし。食事した形跡、なし。
午前中のサーベイランス。遅刻なし。挨拶、検知せず。サボりなし。居眠りなし。貧乏揺すりなし。トイレ一回。仕事のミス、ゼロ。むしろパーフェクト。心ここにあらず。
できれば体温と血糖値も測りたいところだが、ひとまず省略。
さて、ここが少し重要。こっそりとゴミ箱を覗く。
PTPシートの残骸、認めず。よしよし、薬はヤってない。
念のため本人のロッカーも調査してきたが、危ないものは発見できなかった。
だが安心するのは早い。
だてに長年顔をつきあわせているわけではない。どんな小さな変化でも、今日子にはわかる。
レッドが点灯したときの状況によく似ている。あのときもいまのような前兆現象があった。
確信する。アレはメルトダウン秒読みの原子炉だ。破局の前の静けさだ。
今日子の抱いていた懸念と目前の状況は、みごとに合致する。いっそ不吉なほどに。
ボスもこれを恐れていたのだ。
我々のすべきことは、リスクマネジメント。原因の特定と排除。グリーンに戻すための積極的な介入。それを世間一般ではお節介というのだろうが、のんびり放っておくとどんな大惨事に発展するやもわからぬ。しかもヤツには前科がある。
監視対象は動物界・脊索動物門・脊椎動物亜門・哺乳綱・サル目(霊長目)・真猿亜目・狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト属・ヒト種に属するオス、二十七歳。有り体に言えば今日子の同僚である。
この同僚が、大問題なのだ。
リスク因子のデパート。歩くハザード。毒キノコにたとえるとツキヨタケ。地味な色合いでいかにも美味しそうな姿形だが、摂取した者を死へと誘う危険きわまりないキノコ。しかも食用キノコに擬態するというたちの悪さ。
赤マジックで張り紙してやろうかしら。どくいりきけん、たべたらしぬで。
たしかに、ヤツはちょっとばかりかわいい。それは認める。
ラフなストリート・ファッションの上に、袖を折り曲げただぶだぶの白衣。仔猫のようなふわふわの癖毛。少し垂れた愛嬌たっぷりの目。チビで、幼くて、否応にも庇護意欲をかきたてる。
あの顔で、あの容姿で、あの脱力っぷりで、神経解剖学を論じられた日にゃ。
アンファン・テリブル(恐るべき子ども)。
慣れている今日子でさえその強烈なアンバランスにめまいを覚えるのだから、一般人が喰らったらほぼ即死だろう。
ほん、
とうに、危険きわまりない。
弓ノ間鉄人め。
はたして、それなりにつきあいの長い今日子は騙されない。人として反則だろうと思われる童顔にも、万人に好かれるゆる系キャラクターにも、けっしてほだされたりはしない。
ほだされはしないが――嫌ってもいない。念のため。
嫌いならば、構ったりするものか。触らぬ神に祟りなしと昔の人も言った。好きこのんで厄介ごとに首をつっこむなんて、ばかばかしい。
ああ、人のよすぎる自分がいやになる。
「キョーコちゃんは損するタイプだよな」
などと、わざわざ言われなくとも自覚しているから心配ご無用だわ。おっしゃるとおり。私は貧乏くじを引く係。
では、エージェント櫻井今日子、ターゲットに接触します。コードネーム、チュー太を補足。距離三メートルまで接近。
それにしても、マウスと一緒で単純だからという名付け親の弁は、他人事ながらあんまりだとキョウコ思います。
解説しよう。
監視という特命を今日子に仰せつけたのは、彼女の上司であり京東大学脳科学総合研究科・保志チームの副リーダーである、永沢繁雄准教授だ。研究至上主義が祟って、高校時代からつきあっていたという彼女に愛想を尽かされた、無精髭とボサボサ頭がチャームポイントの困った中年男である。
「チュー太がまた情緒不安定っぽいからさ、ちょっと気にかけてやってよ」
「それは、つまり、偵察ということですか?」
「そうとも言うね」
「ヒューミントのエスですね」
「今日子ちゃん、スパイ小説の読み過ぎ」
なにはともあれ、今日子は俄然張り切ってしまった。
弓ノ間鉄人はこの道十年以上のベテラン研究員で、いわゆる論文博士の学位を持っている。京東大学大学院の課程を修了して学位を授与した今日子とは対照的に、純粋に学力を認められて学位を取得した変わり種だ。
後期課程を終えても職に就けず、オーバードクターに甘んじている今日子との決定的な違いは、鉄人がポスドク的なポジションを大学側から与えられているという点である。省庁で言うならば今日子はノンキャリア、鉄人はキャリアだ。
しかも鉄人の給与は大学ではなく、文部科学省から支給されているというのだから驚きである。特例と呼ぶにはあまりにも非現実的で、妬む気も起きない。
さて、此度のターゲットであるチュー太、もとい弓ノ間鉄人理学博士であるが、様子がおかしくなったのはひと月ほど前のことだ。情緒不安定という永沢の指摘がもっとも適切だと思う。だが、それはあくまでも目に見える変化であって、原因と同時系列ではない。
今日子に言わせれば、半年も前から彼はどこか変だった。
何を隠そう、鉄人とは、個人的な遊び友だちなのである。
熱を上げていたアマチュアバンドのライブに、軽い気持ちで鉄人を誘ったのがきっかけだった。たぶんライブよりも、そのあと食事を奢ってあげるというほうに反応したのだと思う。
あろうことか、鉄人がそのバンドにどっぷりとはまってしまったのだから運命というものはわからない。
趣味はとくにないです、と謙遜しておきながら、オタクの素質をたっぷり秘めていたというわけである。今日子は内心ほくそ笑んだ。鉄壁の弓ノ間を墜とした、という優越感であった。
あれからふたりで何度もライブに行った。アフターは食事を楽しみ、気兼ねない会話を交わした。
あくまでもバンドを通じたつきあいだったが、互いに有意義な時間だったと思う。
ところが、ここ半年は誘っても断られ続けている。ストンと落ちる感じで、鉄人は今日子との関係を絶ってしまった。
興味がなくなったのならしかたがないか、と諦めかけた。だが、食事もしなくなったのは腑に落ちない。それに、どこかよそよそしい。
嫌われちゃったかな。
今日子は自我を押し通すタイプなので、内にこもるタイプの鉄人には合わなかったのかも。
その考えが見当違いだと気づいたのは、博士課程一年の東海林みなみが給湯室で漏らしたなにげないうわさ話であった。
永沢先生のところにいらしてるお客さん、医科大の精神科の先生だそうです。
お茶を持っていってチラっと聞いちゃったんですけど、弓ノ間先輩のことで、深刻な話になってたみたいです。永沢先生、すごい難しい顔をしてました。
精神科。そのフレーズが今日子の中で、厭な符合をした。
三年、いや、もう少し前になるだろうか。季節は、真夏。
蝉の合唱がやかましいほどの暑い日だった。
永沢のせっぱ詰まった叫びが、昨日のことのようによみがえる。
キョーコ、救急車だ、救急車呼べ!
おい、弓ノ間、聞こえてるか? しゃんとしろ、しゃんと!
なんてことしやがるんだ、ばかやろう!
血だらけの白衣。蒼白になった幼い顔。ぐったりと横たわる鉄人。止血を試みる保志教授と、先輩の飯田めぐみ。震える受話器。近づいてくるサイレンの音。呼びかける永沢。なおもあふれでる血。リノリウムの床を濡らしていく、あたたかい飛沫。
真っ赤だ。すべてが真っ赤。深紅。
そう。まさにこの場所である。研究所の休憩室。テーブルとパイプ椅子だけが置かれた、無機質な部屋。
鉄人が、組織片分離用の剃刃で自分自身をめった刺しにしたのだ。
どくん、どくん。今日子の鼓動に呼応するかのように、血が噴き出る。
人は、こんなに血を流して、生きていられるものなのだろうか?
やがて駆けつける救急隊員の足音。怒号。担架で運ばれる鉄人。
ぐらり、と足下が揺らぐ。
誰かが支えた。飯田先輩。
今日子ちゃん、しっかりしなさい。
だいじょうぶ。だいじょうぶだから。
あたしたちも病院に行きましょう。タクシーを呼ぶから、今日子ちゃんは支度して。
長い長い時間。
ようやく面会を許された。
首と両手首に真っ白な包帯を巻かれ、点滴につながれた鉄人。
目を開けて、今日子を見た。
弱々しいけれど、しっかりと言葉を紡ぐ。
ごめんなさい、先輩。
死ぬかもしれないなんて思いませんでした。ぼーっとして、気づいたらやってたんです。痛いのも、わかりませんでした。
後見人を名乗る紳士が、痛々しい目で彼をじっと見ていた。
もう、だいじょうぶですから。心配しないでください。入院中のことはよろしくお願いします。清書していた論文のデータはパソコンにありますけど、急がなくていいです。ご迷惑おかけしました。
アンタ馬ッ鹿じゃないの、と口にしかけたが、見知らぬ男性の手前、ぐっと飲みこんでこらえた。
傷は予想以上に深かった。発見があと少し遅れていたら、命に関わるところだったという。やったのが自宅ではなく研究室内だったのが不幸中の幸いだった。
永沢は困惑したように今日子に打ち明けた。
狂言ならばあれだけのリスカはできない。死ぬつもりでやったんだよ。
それに、あいつ、薬をキメてたそうだ。完全にオーバードゥースだ。精神科通いが長いってのは聞いていたのにな。くそ、もっと気をつけてやるべきだったぜ。
あいつに限って、間違えて飲んだなんてあり得んだろう? カクテルしてラリって、発作的にか衝動的にか、それとも、はじめっからその気だったのか……知らんがな。記憶がないのは、薬のせいだ。責めないでやれよ。あいつも苦しんだんだ。
おいキョーコ、そんな顔するなよ。おれのほうが情けなくなる。まったく、あいつのどこを見てたっていうんだろうなあ。偽善者ってのは、おれみたいなのをいうんだよな。ははは……。
みんなそうやって、自分ばかり責める。ほんと、バカばっかり。
悔しいのか、悲しいのか。あたしはいったい、誰を罵ればいいのか。
ぽろりとこぼれおちたた涙はもはや止められそうになかった。その日、今日子ははじめて鉄人を想って泣いた。
鉄人の内包する闇の深さに、打ちのめされる。
関わるな。踏み入るな。逃げろ。取り込まれる前に。
本能が必死で訴えるのに、心が抗う。
見捨てるというの? ほんとうにそれでいいの。偽善者ののままでいることを望むの。
どっち? 今日子。
どっち?
泣きじゃくりながら、自問自答してみる。
永沢は、どうするのだろうか。保志教授は。飯田さんは。仲間たちは。
ぐしゃっと顔をこすって、デスクに向かう。
研究室には、鉄人を除く全員がそろっていた。今日子はいったん給湯室に入り、人数分のコーヒーをいれた。
みんなしばらくは無言だった。エアコンの作動音だけがやたらと耳に障った。陽が落ちたので、もう蝉は鳴いていない。
チームリーダーの保志教授。めったに席に居ないのにめずらしいこと。永沢ドクター。いつもより無精髭が濃いめだわ。飯田女史。目を瞑っていても妙な迫力があるのよね。博士課程三年の藤井耕太と山口健司。このふたりがおとなしいのも変な感じ。二年の原五月。金曜夜のデートはキャンセルしたのかしら。
この研究室、こんなに人がいたのね。今日子はぼんやりと思った。
「お通夜じゃないんだから、なんか話そうや」
切り出したのは保志だった。それを機に、それぞれが重い口をひらきはじめた。
なにかと特別扱いされる弓ノ間鉄人もまた、とてつもなく脆いひとりの人間だということを、全員で確認しあう。彼の回復を祈り、ふたたび研究室に戻ってきてくれることを祈る。解散したときは、深夜を回っていた。
忘れていたわけではない。奇蹟の頭脳を持った天才の孤独を、チームの誰もが忘れるはずがない。
弓ノ間鉄人自殺未遂事件は、所内の隠語でチェルノブイリという。けして風化させまいという思いをこめて。
今日子は気を引き締めた。事件のあとに入ってきた東海林は知るよしもないだろうが、精神科医が「弓ノ間鉄人のことで」研究室を訪れるのは、事態がかなり深刻であることを示唆している。
半年あまりの不安が、杞憂であればと願っていた。
その願いが叶わなくとも、あのときのような失敗は繰り返すまい。
当時のメンバーで残っているのは、保志、永沢、飯田、今日子の四名。こちらの連携はとれる。問題は弓ノ間鉄人である。
所員の意識が変わっても、鉄人本人が変わらなければ意味がない。もしも、もしもであるが、鉄人がふたたびあのときのように寂しさをつのらせて、死ぬほど苦しんでいるのなら、その迷路とやらから連れ出して、ふたつみっつ引っぱたいて、目を覚まさせるのが今日子の役目だと思う。
鉄人はメシ友、ライブ友。おつきあいゲージは確実に伸びているのだ。たまに親子と間違われて気まずい思いもするけれど、まあ、それはそれ。
研究室は彼にとって、逃げ場のない檻ではない。いざとなったら自分が鉄人を連れて逃げる。
というわけで冒頭に戻り、エージェント櫻井、チュー太の後方三メートルに着きました。これより接触を開始します。
チュー太、微動だにせず。侵入者に気づいた様子、なし。もしくは完全無視。
小癪な。
「弓ノ間」
声をかけた。数瞬、反応がない。
電池の切れかけた時計の秒針がカクッと動くような感じで、鉄人は振り向いた。
「あのね、」
「……はい?」
微妙にテンポがあわない。情報伝達のズレ。病的なものをそこに感じとる。
「お昼は、食べたの?」
鈍く首を振る。
「あたしもこれからなんだけど、うどん食べに行かない? 国道にできた、うまげな屋。そろそろ空く時間だと思うよ。車、出すからさ」
香川県からはるばる進出してきたセルフの店に誘ってみる。鉄人は麺類が大好きなのである。
ふたたび不自然な間があった。
次に鉄人がとったしぐさは、傾げたのか、振ったのか、ひどく曖昧なものだった。
「あー……あんまり、食欲ないから、おれはいいです。今日子さん行ってくれば」
突っぱねるようにそれだけ言うと、ふいと顔を背けてしまった。
視線がうろうろして定まらない。
相当だわ。フェーズ5にするべきかしら。
「ふーん……いいけど。ちゃんと食べなよ?」
「食べてます」
そっけない返事に今日子は眉をひそめた。あまりのわかりやすさにカチンときたのだ。
いまの台詞を弓ノ間チュー太的に訳すると、こうなる。
構わないでください。
チェルノブイリ時代ならともかく、お友だちとなったいま、それはどうかと思う。
『サージ』のライブで、ちびっこ動物博士がセレンゲティ高原でヌーの大群に遭遇したかのように目をキラキラさせて、こっちはモッシュ(押しくらまんじゅう)で貧血を起こしかけてるというのに、いかれた外国語でシャウトしやがって、悪目立ちして。忘れないわよ、渋谷ロンリコの悪夢。
ベースのゼブラにステージまで引っ張りあげられ、「キョーコ、インクレイブレ(ありえねー)、キョー、コー!」。本気で逃げようかと思ったわ。人生最大の恥さらしだったんだから。
あのときの鉄人と、目の前にいる鉄人は、まるで別人。キョーコと呼ばれたことも、夢だったのではないかと錯覚させるくらい。
『櫻井さん』から『櫻井先輩』へ、そして『今日子さん』へ。
平坦な道のりではなかった。悩みぬき、長い時間をかけて、今日の関係を築いてきた。
距離の置きかた、歩み寄りかた。ひとつひとつ丁寧に、今日子は考えた。無理強いはせず、けして一方的にならぬよう。
弓ノ間鉄人が普通の院生であったなら。正直、何度も思った。腫れ物を扱うように接していた時期もけっこう長かったと思う。
大概の者はまず、鉄人の抱える事情にドン引きする。
身体が正常に発達変化しない、いわば成長しない病気というのは遺伝子異常がおもな要因として挙げられるが、鉄人の場合は人の手によって故意に成長と老化を止められた、すなわち不老のテクノロジーに成功した希有なケースである。しかしこのプロジェクトは生命倫理を完全に無視した形で実行された。チュー太は本当の意味で実験用マウスだったわけだ。
実際に知る者はまだそれほど多くはないだろうけれど、鉄人は過去を隠さない。秘密などないとばかりに、じつにあっけらかんと事実を話す。だが聞く者は戦慄する。無理もない。
みずから他者とのあいだに溝をつくり、そこから入ってこられないようにしている。おぼろげにそう感じた今日子の仮説は正しかった。
チェルノブイリで発覚した鉄人のPTSD(心的外傷後ストレス障害)は想像以上に深いところまで根を張っていた。
おれ、普通じゃないから。いつだったか、ぼそりと彼はつぶやいた。並んで屋台のラーメンをすすっているときだった。
むかしから、普通ってなんだろうってよく考えた。普通にしてろって言われても、普通の定義がよくわからないんだ。考えすぎるなって友だちに言われて、そっからマシになったけど、いまでもたまに考えこんでる。そういうのって、あんまり普通じゃないですよね。
今日子はどう答えたのだったろう。ぼんやりと一点を見つめる鉄人の横顔だけがやけに鮮明で、ことばは記憶の端で途切れている。
普通ではない。人格のみならず、存在そのものが。だから、みんな去って当然である。関わりたくないのだから、しかたがない。そう割り切ることで、ぎりぎりのところで自己を保っているのだ。小さい身体で、精いっぱい我慢をしているのだ。
ほんとうの心は彼にしかわからない。
大人になれば、多かれ少なかれ、誰しも我慢をする。しかし、鉄人のそれは、今日子には想像もつかない。
大人でも寂しくてどうしようもないときだってある。人はひとりでは生きていけない。
大人と子ども、どちらにも属することを許されない鉄人ならなおのこと。支えてあげなければいけない。異質なものと忌避するのでなく。
普通と特別の違いについての考察が開始されたらしいドクター・パラダイムシフトは、どんぶりを両手で持ったまま固まってしまった。麺がのびてしまうわ、といらぬ心配をした今日子は、ちょうど訊いてみたかった質問があることを思い出した。
「弓ノ間って、いま、相談する相手はいるの?」
鉄人はちょっと間をおいて今日子を見ると、おもむろにニタッと笑み、「いますよ。こう見えても親友くらい」と言った。
鉄人を知れば知るほど、人が生きて、存在することの意味を考えさせられる。
生きることはパワーが要る。その試練は時として、死ぬことよりも重い。
忌み嫌われ、人であることを否定され、権力に利用され、翻弄され。鉄人の人生は身勝手な他者によって狂わされた。せめてこれからは、借りをすべて返すくらいしあわせであってほしい。今日子ひとりの願いはささやかだが、それを願う者がほかにもいる。
忘れないで。
壊れた人形の背中に話しかける。
あんたはひとりじゃない。ほんとうのあんたは、明るくて、音楽を愛することができて、他人の痛みを思い遣れる、とってもすてきな人。そんなあんたを好きな人が、たくさんいるのよ。
「また、ごはん食べに行こうね」
休憩室を出る前に、今日子は言った。返事はいらない。ただ聞いてくれるだけでよかった。
#2 永沢
「チュー太がまた情緒不安定っぽいからさ、ちょっと気にかけてやってよ」
期待したとおり、櫻井今日子はがっしりと承諾した。
理系の女子は女っ気の足りないのが多いが、今日子は女に生まれたのが惜しまれるほど、漢気の強い女性である。芯が強く、曲がったことが大嫌い。人に劣ると評価されるのも大嫌い。
だから困難な役割を与えるほど光り輝く。
就活にことごとく失敗し、オーバードクターとして大学に残ることになったのだが、負けず嫌いの彼女はどこまでもポジティブだった。
今日子といい、飯田といい、保志チームの女性は例外なくイイ女だ。そして例外なく婚期を逃す。後者のジンクスはなにも女性に限ったことではないが。
今日子は弓ノ間鉄人といちばん歳が近い。正確にいえば今日子がみっつ上だ。並んでいると姉と弟か、下手をすると母親と息子に見える。本人たちは自覚していないと思うが、このふたりは雰囲気がよく似ている。
今日子の家庭の事情は、保志と永沢しか知らない。波瀾万丈という意味で鉄人の右に出る者はさすがにいないが、今日子は間違いなくその隣にいると思う。
理学部三年次のときに、今日子は家族を喪った。両親と弟。弟はアスペルガー症候群で、引きこもりの生活だったという。
十二月、東京で初雪を観測した明け方。全焼した今日子の家から、三人の遺体がみつかった。今日子だけが助かったのは、その前日に入院していたからだ。
子宮頸癌。ヒトパピローマウイルスの感染が引き起こす女性疾患である。
ヒトパピローマウイルスはほとんどの場合、性交渉で感染する。今日子はまだ幼いころ、近くに住んでいた男性から性的暴力を受けていた。ニュースにもなったその事件は、男性が別の女児を誘拐して殺害し、逮捕されたことで、人々の記憶から消えた。
発見の遅れた癌は子宮外にも湿潤していて、今日子は子宮と卵巣を摘出した。
家族の死を、体力が回復するまで彼女は知らされなかった。頼る親戚もなく、今日子は病院のベッドの上で天涯孤独になった。
子どもを産めない身体になる。それだけでもショックだろうに、不幸とは斯くも重なるものだ。
それでも、今日子は立ち上がった。保険金で小さいマンションの一室を買い、留年はしたが大学も卒業した。
頑張り屋という呼称は今日子のためにあるのだと永沢は思う。そんなにがむしゃらに戦わなくてもいいのに、と心配になるときもある。
研究室に来たばかりの今日子は、今よりもほんの少し棘があった。負けず嫌いで、正当な評価を受けるまで食らいついてくる。ひとたびへそを曲げると、こちらが折れるまで譲らない。扱いにくい院生だった。
彼女が丸くなったのは、弓ノ間鉄人の存在が影響していると思う。似たもの同士は惹かれ合うのかもしれない。今日子の持つ傷が、鉄人のそれと共振するということも、あり得るだろう。
チェルノブイリの日、今日子ははじめて涙を見せた。自分のことではけして泣かなかった彼女が、弓ノ間鉄人のために泣いたのだ。
永沢には忘れられない記憶がある。
腫れた瞼で。
おそらくははじめて、家族のことを語った今日子。
あたしの弟はね、天才だったの。
頭のおかしい引きこもりだって、みんな陰口たたいたけど、ほんとはすごい子なの。
人の輪に入れなかっただけなんだ。ほんのちょっと、苦手なだけだったの。あたしのほうが弟よりぜんぜん悪い子だったよ。
弓ノ間って、弟を見てるみたいでさ。なんか、こう、フッと重なるんだよね。
でも、弓ノ間はやっぱり、弟とはちがう。弱い人なんだなーって、思ったよ。
保険屋がさ、うちに来て言うのよ。亡くなられた弟さんはアスペルガー症候群だったそうですね。でしたら、弟さんが家に火をつけたという可能性を熟慮しないわけにはいけませんもので、って。まるっきり放火殺人扱いなの。あたしはちがうって言ったのに、アスペルガー症候群は一般的に感情コントロールがうまくできずキレやすいという症例でありまして、とかなんとか。一般的にってなによ、それ。なんにも知らないくせに。
弟は、死にたいとか死ねとか、一度も言わなかったよ。親とも、すごくいい関係だったよ。それなのに、火をつけるわけ、ないじゃない。冗談じゃないわよ。
他人って残酷だね。憶測で言いたいことだけ言って、スッキリしたら、あとは関係なくなるんだから。どうしてだれも、ちゃんと聞いてくれないのかな。
弓ノ間、ちゃんと聞いてくれる人、いたのかな。
――。
あの日から、今日子と鉄人の関係性が変わった。所内での会話もあきらかに増えた。オフの日にはふたりで遊びに行っている様子だった。
天才、弓ノ間もひとりの人間。
凄まじいまでの脆さを露呈したが、結果だけを問えば、よかったのかもしれない。
そして、それは今日子にとっても、大きく成長するきっかけとなった。
世話の焼けるふたりの博士が、永沢は可愛くてしょうがなかった。
永沢自身も変わったのであろう。行き場がなく棲み着いたこの職場が、居心地良いと思える日が来るなんて。
彷徨い人のシェルター、か。よくもまあ、たとえたものだ。
いま、弓ノ間が辞めれば、下手な英文論文を清書してくれる者がいなくなる。今日子が辞めれば、弓ノ間のお守りがいなくなる。飯田が辞めれば、おそらく保志教授も悲観して辞める。保志教授が辞めれば――いかんだろう。研究室がなくなってしまう。
みんな、支えあっている。誰が欠けてもいけない。研究室が機能しなくなる。
そのことにいちばん気づいていないのが、馬鹿と天才は紙一重、の弓ノ間研究員だ。
まったく、手のかかる。
じつはチェルノブイリ以降、京東大学病院精神科の神原医師とは密接に連携している。
鉄人は神原の受け持ちのなかでも極めつけの問題患者だそうだ。なにぶんトラウマの原因が特異である。典型的なアダルトサヴァイヴァーであるものの、一般的な治療、薬物療法やセラピー、EMDRも試してみたが期待された効果はない。
「脳味噌に焼き付いちまってるからなあ。火傷といっしょで、元に戻すのは不可能かもしれないな」
「火傷は皮膚移植できれいになるじゃないか」
「脳だぜ? どの組織を移植するってんだ。まあ、根気よくいまの治療を続けていくしかないだろうな」
じつは同期の神原と永沢だが、鉄人のことがなければ、いまこうやって一緒にコーヒーを飲むこともなかったのだろう。
「で、最近はどうよ」
「よくない。なにかあったのかと訊いても、ない、ってしらばっくれる。よっぽど言いたくないんだろう。吐き出しちまえばらくなのにな。こっちで、なにか変わったことがあったのか?」
「いや、心当たりはないね。まあ、あれだ、感情の麻痺っていうの? アレはあからさまだけどな。キョーコと喧嘩したふうでもないし、念のため幕取教授にも連絡を取ってみたが、特別な事件はなにもなかった」
「笑わないのか?」
「笑わない。不気味なくらい静かだよ」
「ナラティブセラピーの最中に、フラッシュバックを起こすんだよな」
「ナラティブセラピー? なんだそれは」
「話を聞いてやるだけのセラピーだ。こっちは口をはさまない。自由にしゃべらせてやる。過去をなかったものにするから苦しいんだ。自分から認めることで、アイデンティティを取り戻すことができる」
「つらいな」
「ああ、患者にとってはつらいだろうな」
「バカ、おまえだよ。聞き役はつらいだろうって言ったんだ」
「わかるか? ったく、こっちが引きずり込まれそうだよ。しかも鉄人の外傷体験は、修羅場なんてもんじゃねえ。ぞっとする。カタルシスに導くにも限度ってもんがある。さて、どうしたもんかねえ」
「フラッシュバックが出たときの鉄人はどんな感じだ?」
「泣いたり、わめいたりはしないな。がたがた震えて、謝ってるよ。ごめんなさい、ごめんなさいってな」
「誰に」
「さあね。そのあとの台詞も不気味だぜ。殺さないで、殺さないで、殺さないで」
永沢は天井を仰いだ。タバコの煙がゆっくりと上っていく。所内は基本的に禁煙なのだが、こういうときだけは暗黙の了解である。
殺さないで、か。
死にたくない人間が、どうして自傷に走ったり、自殺騒ぎを起こしたりするんだろうな。
「二重人格、か?」と永沢は言った。
「え?」
「死にたいと思ってる鉄人と、殺さないでと叫んでる鉄人がいるんじゃねえのか」
神原は肯定する。
「ああ、そりゃ、いいところを突いてるな。確かに鉄人には解離性同一性障害が見られる。少なくともふたつの人格が存在するのは、おれも認めた。弱い子どもと、堅実な大人な。ただ、みっつめがな……どうも」
「みっつめ?」
「これがよ、なんていったらいいのか……気持ち悪いんだ。すごく厭な感じだ。まれに現れる。あれが『超自我』だとしたら、鉄人は危険だな」
「なんだ、それ。どういう人格さ」
神原はコーヒーをズッとすすると、ぼそりと言った。
「ありゃあ、悪魔、だ」
#3 鉄人
ホワイトフレームのクロスバイクを駐輪場につなぎ、住人用の裏口からロビーに入る。
暖房が肌を刺すように熱い。夕方から急激に冷えこんできたので、今夜あたり雪が降るかもしれない。
ポストから新聞とダイレクト・メールを抜き取り、エレベータに乗る。ボタンは最上階。
海沿いに建設予定の分譲マンションの広告を見て、ふらりと現地に行ってみたのが二年前。更地に立ち、冬の海をながめた。いいな、と思った。
どうせなら最上階がいい。広い海を独り占めできる。
自販機のジュースを買うような気軽さで、鉄人は最上階の4LDKを購入した。
自殺未遂を起こしたあとだったから、幕取教授に反対されると思っていた。だが後見人は予想に反して、「一国一城の主になってこそ男だ」と妙な激励をしてくれた。
資金援助の申し出をありがたく断り、鉄人はめでたく独立したわけである。
この部屋は好きだ。立地条件のせいかちょっとばかり高かったけれど、買ってよかった。自分の居場所という感じがする。いや、帰る場所か。どっちでもいい。
ジャケットをソファーに放り、パソコンデスクに向かう。起動してメールをチェックし、すぐにシャットダウン。椅子にもたれたまま、目を瞑る。
今日も、疲れた。
原因はわかっている。睡眠が足りていないのだ。もう忘れるくらい、ぐっすり眠っていない。
不眠症治療薬を服用しているが、効かない。それどころか薬のせいで、午前中が気怠くてしかたがない。
それから抗不安薬、抗うつ薬、抗精神病薬。13ラボラトリオにいたときも薬漬けだったが、今も似たようなものだ。こんな小さな粒が何を変えるというのだろう。飲めと言われれば従うが、どうせ、こんなものに効果はない。
以前は一ヶ月分をまとめて処方してくれたのに、最近は厳しい。半月ごとの通院は、厳命である。神原先生はいい人だが、医者は嫌いだ。精神科なんてクソくらえだ。他人の深層心理をかき乱してなにがおもしろいのだろう。
そういえば、食事もまともに摂っていない。不思議と空腹を覚えないのだ。胃に食べ物が残っていると、気持ちが悪くなる。吐くくらいなら、無理をしないほうがいい。
立ち上がり、ダイニングの棚からブッカーズを取った。シンクに置きっぱなしのグラスを軽くゆすいで、ロックアイスを入れる。そこに琥珀色の液体が少しだけ注がれる。
酒は強くないが、少し飲まないと落ち着かない。こういうのも依存症というのだろうか。
気づかぬまに失神して床に寝そべっていたりするのは、薬と酒のせいかもしれない。飲んでいる薬のほとんどが、アルコールと一緒に摂取するなと但し書きしてある。構うものか。鉄人論法では酒も薬だ。
カラン、と氷が小さい音をたてる。
静かだ。最近はテレビもめったにつけない。騒がしいとイライラするからだ。
まわりがざわざわしていると、鉄人は自己防衛を開始する。感情をそこから切り離し、別の場所に逃がす。視覚も聴覚も、機能しているのに、なにも見ずなにも聴かない状態。
鉄人にとってもっともわずらわしいのは、他者とのしがらみだ。価値観とは人の数だけあって、ある程度妥協して認めあうことで関係性を保っている。鉄人は妥協が苦手だ。つまり、人の気持ちがわからない。わからないということは、とてつもなく不安定で、鉄人を恐怖に陥れるにじゅうぶんなのである。
理論としてのコミュニケーションスキルは、能力に直結しない。理論が完璧でも、実践がだめでは他者理解は難しい。
いっとき克服したと思っても、すぐに反転する。自分は欠陥人間なのだろうか。みんな自然にやっていることなのに、真似をしようとしてもうまくいかない。
バーボンが舌を灼く。頭の芯がぼーっとする。
「燕、おれ、ダメだわ」
誰もいないのに、鉄人は話しかける。
いや、いるのだ。たぶん、そこのソファーに。いつもの定位置に。
(なんで、弓ノ間くん)
「なんでだろうなあ。とにかく、すっごく疲れる」
(弓ノ間くんは頭で考えすぎるからいけないんだ。世の中、理屈ばっかりでできてるんじゃないよ。肩の力を抜いて、らくにしたら)
「わかんねえよ、やりかたが」
(もう。頭でっかち。これだから弓ノ間くんは、ほっとけないんだ)
「ンなこと言うんだったら、ここに来いよ、社長」
(来るよ。ぼくは弓ノ間くんのためだったら、いつでも来るよ)
「ハッ……は、は、ははは」
鉄人は右手を額にあてて、うつむいた。グラスの液体が揺らぐ。
燕。
いつでも近くにいた友。
ノエルが去り、遙兵と疎遠になっても。
ずっとそばにいてくれた、ただひとりの。
この部屋には、燕がいる。いまもだ。
燕のスリッパ。燕の歯ブラシ。布団。着替え。コーヒーカップ。ボトル。
燕の持ち物が、あっちにも、こっちにも。
目を瞑り、話しかけると、燕が応える。
肌を撫でる気配。かすかな吐息。もうひとつのグラスでぱちんと爆ぜる氷。
だから鉄人は、いらない音を遮断する。明かりも落とす。燕と会話するために。
(弓ノ間くん、泣かないで)
「……ウン」
(ぼく、いっしょに寝てあげようか)
「うへえ」
(眠ってないんでしょ。眠りなよ。そばにいるから)
(だいじょうぶだよ、弓ノ間くん)
(だいじょうぶだよ)
(だいじょうぶ)
沈んで、いく。
夢を、見た。
手を引かれている。
大人の手。誰だろう。わからない。わからないが、あたたかい。
やわらかな合唱が鉄人を包みこむ。
この歌は知っている。賛美歌だ。
キラキラと降りそそぐ光。天窓のステンドグラス。
神父さまが鉄人の頭にそっと手を置く。彼にくらべると、鉄人の身体はひどく小さい。
――アスタ・エル・ドミンゴ。
また、日曜日に。
小さい鉄人はこくんとうなずく。
――フェリス・クンプレアニョス、ファン・デ・ラ・クルス。
幸せな誕生日を、十字架のヨハネ。
もうひとつの手が、鉄人の髪の毛をくしゃっとかき回す。
この手を、鉄人は知っている。この手は、大きくて、やさしくて、いいにおいがして、気持ちいい。この手は――
ハッと目を開ける。
眠りを妨げたのは、携帯電話の呼び出し音だった。着信音を個別設定しているので、ディスプレイを見なくとも相手がわかる。
上半身を起こすと、関節がキリッと痛んだ。妙な体勢で潰れてしまったので、無理な力が加わったらしい。鉄人は首をコキコキ鳴らした。呼び出し音が止まる。
そんなに飲んでいないのに、クラクラする。背もたれに身体をあずけて五分ほどぼうっとしたら、急に部屋の寒さが現実になってきた。そういえば、暖房を入れるのを失念していた。
テーブルの上にあった携帯電話を手に取る。午前0時半。ニューヨークは昨日の午前中だ。
勤務時間内だから、仕事の話かもしれない。
通話ボタンを操作する。
「ハロー(もしもし)?」
「ブエノス・ディアス(おはよう)、ラマダ」
「オーラ(やあ)! テッド」
ラマダは生粋のニューヨーカーだが、鉄人と会話するときだけスペイン語になる。どこで学習したのかは知らない。ラマダはあまり自分のことを語らない。
鉄人にとっては、よきビジネス・パートナーである。そして重要な位置にいる。ハルモニア製薬とのパイプ役だ。
敵であり、パートナーであり、友人。奇妙な関係ではあるが、ラマダは信頼できる。彼はノエルともまた友人関係にある。ノエルを信頼できるように、ラマダのことも信じる。
「なんか用があった?」
「いや。音沙汰がないから、ちょっと心配しました。元気でやってる?」
「あー、うん。まあね」
「まあね、ですか。フーン……怪しい、怪しい」
「な、なんだよ。うっ、もしかしてどっかに監視カメラが!」
「ブー。残念でした。わたしはクレヤボヤンス(千里眼)なのです」
「視力悪いからメガネしてんだろ。嘘つきは地獄に堕ちるぞ」
ラマダはアハハと笑って、近況を話した。ノエルも元気でやっているらしい。このところ連絡が取りづらいのは、多忙を極めているからだそうだ。少しばかり疑わしいが、ノエルのことだ。過剰に詮索するのもよくない。
ラマダにはさんざん迷惑をかけた。時差を無視して電話をしたり、ハルモニア製薬に対する怒りをまともにぶつけたり。だが彼はすべて受けとめてくれた。鉄人が自傷事件で入院したときも、ニューヨークからわざわざ自費で来てくれたのだ。
ハルモニア製薬のことはラマダの責任ではないのに、彼はあえて負い目を持とうとする。
そのやさしさに鉄人は甘えてきた。理不尽であるのはわかっているのに、もういいと言えない。
情に厚い人。言葉で言うのは簡単である。無償で他人を案じることはそう容易くない。
ラマダと出会えてよかったと鉄人は心から思う。
「テッド、ちょっと昔の話をしていいですか」
ふいにラマダが話の方向を変えた。
「昔の?」
「そう。テッドにとってはあまり愉快な話ではないかもしれない。でも、聞いてもらいたいと思ったんで。電話したのは、実はそのため」
「もったいぶらないでいいよ」
「だいじょうぶ?」
「バレ(OK)」
ラマダはごほんと咳をした。受話器の向こうから聞こえてくる次の言葉に、鉄人は息を呑んだ。
「ヌエベ、オチョ、ウノ、トレス、シンコ、シエテ、シエテ、ドス」
98135772。
「……」
「わかります?」
「……忘れるわけ、ないじゃん」
「そう、ですか。ですよね」
無機質な八桁の数字。だが、それは重要な意味を持つ。
サーティーンと呼ばれる以前の、鉄人の名前である。
「ごめんなさい。テッドは衝撃を受けるかもしれないと思いました」
「ラマダが謝ることじゃない。でも、それが、なんで?」
「見つけたんです。データを」
「えっ……」
「サーティーンに関する情報はすべて消されていたんだけど、もっと古いデータが奇跡的に残っていたんです。古いといっても持ち出すことは情報漏洩にあたるから、わたしの首が飛んじゃいますね。でもね、テッド、書かれていることのごく一部なら、記憶して持ち帰るという手もあるんですよ」
「ラマダ……」
「聞きたい?」
「聞きたい!」
即答した。ラマダは笑った。
「テッド。誕生日、おめでとう」
心臓がドキンと跳ねた。誕生日。誕生日?
携帯の液晶を見る。十二月十四日。
気づかなかった。だが、この日は。
「もういちど言おうか? 誕生日おめでとう。1986年、十二月十四日。この情報がプレゼントです。まあ、ささやかすぎて申し訳ないんですが」
なんだろう。喉の奥が熱い。
痛みを伴った微熱。これは。
「テッド?」
「……っ」
「いいんだよ。我慢しなくて、いいんだよ」
「うっ、ヒッ……う……」
「声を殺さないで。泣いちゃいなさい。すっきりするから」
「ラマ、ダ……あり、がと……ごめ……」
「はいはい。ラマダさんはいい人ですか?」
「いい、ひ……ひっく」
嗚咽がとまらない。熱いものが頬をつたい、氷を融かし、こぼれおちる。
#4 12月14日
西高東低の冬型の気圧配置となった日本列島は、各地で今冬一番の冷え込みになった。
夜中にわずか降った雪が、うっすらとアスファルトを凍らせている。その影響でバスダイヤは早朝から大幅に乱れた。
車で出ても、通勤コースは大渋滞するだろう。公共交通網をさっさと見限った今日子は、全身くまなく防寒着で武装して、いつもより三十分早くマンションを出た。
大学まで歩くつもりまんまんである。ふだん車ばかり使っているから億劫なのであって、じつはたいした距離ではない。たまにはこういうイレギュラーがあっても悪くない。
それに、今日は両親と弟の命日だ。帰りに墓によって線香をあげ、ちょっと飲んで帰ろう。
花は、バラと決めている。菊はいかにもお墓という感じで好きじゃない。最後の母の日にあげたプレゼントがピンクのミニバラで、母がとても喜んでいたから。
道往く人はみな、ツルツルの足下を気にしている。だが、今日子は臆さない。ブーツで颯爽と歩く。
大学に着くころには、頬が火照るくらいだった。これを毎日続けたら、さぞかし健康にいいだろう。
ふと駐輪場を見ると、鉄人の自転車が駐めてあった。まさかあれに乗って来たとか。ずっこけなかっただろうか。
階段で三階にあがり、研究室のドアを開けようとした。そのとき。
「おいっ、キョー! キョーコ、まった!」
みっつ向こうのドア、すなわち男子トイレから、永沢が飛び出してきた。微妙に声を抑えている。
今日子はドアノブに手をかけたまま、「はい?」と返事をした。
「チュー太がおかしい」
永沢は内緒話をするように顔を近づけて、言った。
今日子は気を引き締めた。フェーズ5だろうか。
「いいか、エージェント櫻井」と永沢。「チュー太を刺激するな」
「はい」 今日子は硬い表情で答えた。
ひと呼吸おいて、ドアを押し開く。「おはようござい、ま」と言いかけて、今日子は今度こそほんとうに硬直した。
この大寒波で、全開にされた窓。
窓の桟に座る、弓ノ間鉄人。
左足は手前、右足は向こう。
「ちょっ、」
ここは三階。
フェーズ5!
「早まっちゃ、だ、め……」
「おっはよーございまーす!」
脳天気な爆弾に今日子は後ずさった。
「な、何、してんの、あんた」
「何って、ガラスの掃除ですけどー? ほら、年末も近いんでぼちぼち、ね?」
そう言って、ガラスクリーナーをプシュー。雑巾でキュッキュッキュッキュッ。
「お、落ちないで、ね?」
「ハハハ、ギャグじゃあるまいし! って、おっとっと」
「ひっ!」
一瞬バランスを失ったが、チュー太は耐えた。
「弓ノ間博士」と、窓際のデスクで保志が言った。わりと控えめに。刺激しないように。
「寒いから、そろそろ閉めようね」
「はーい」
刺激しないように。永沢の言葉の意味がなんとなくわかった。これはメルトダウンよりも怖い。よくないことの前触れにちがいない。
午前中、鉄人はずっと躁状態だった。鼻歌は歌う、パソコンの画面に話しかける、外線を率先して受ける、コーヒーを配って歩く――。
昼食前には、保志チームの全員が疲弊していた。
なにがあった、チュー太。
誰もが思った。
暴走だろうか。精神科の先生に連絡したほうがいいのでは。付箋紙に書いたメモがさかんに回覧される。
そんな中、鉄人はウキウキと今日子に向かって言った。
「今日子さん、お昼行きましょうよ! おれ、うまげな屋のうどんが食べたい気分」
「え……あ、ああ、でもあたし、今日歩きだから、車ないのよ」
「あ、そっか。なら万歳軒のラーメンにしますか。あー、はらへった!」
断れない。今日子は観念した。
「がんばれよ」
永沢がこそっと耳打ちした。
万歳軒は大学の近くに古くからあるラーメン屋で、昼時には学生であふれかえっている。若者向きにボリュームたっぷりで、品数も多い。そういえば久々に来たかしら、と今日子は思った。
鉄人がもやし味噌ラーメン、今日子はねぎラーメン。五個入りの餃子をふたりで分け合う。
学生たちの喧噪。テレビは負けじと昼のバラエティを流している。
「ハフハフ、うま」
ずるずると麺をすする鉄人は、昨日までとは逆の意味で様子がおかしい。ふだんはもう少し引っ込み思案なのだ。
なにかあったのか、訊ねるべきだろうか。今日子は悩んだ。
考えながら麺を口に運ぶ。
やっぱり言ったほうがいいだろう。決意して、口を開きかけた。
「弓ノ……」
「あのね、今日子さん」
ハモる。
「えっ、何?」
「おれね、いいことあったんです」
ストレートに言った。
「おれ、きょう、普通じゃないでしょ」
「うん……そう、だね」
きのうまでも普通じゃなかったけどね。内心思ったが、言わない。
鉄人はどんぶりから顔をあげて、今日子をまっすぐに見た。
「すいませんでした。なんか、また心配かけちゃったみたいで」
「うん、心配したわよ。みんな、心配したのよ。わかってる?」
「わかってます。迷惑ばっかかけて、しょうもないっすね、おれ」
「迷惑って言わないの。あんた、そんなに自分が邪魔者だと思ってるの?」
「うーん……どうなんだろう」
「少なくともうちでは、だれもあんたを迷惑だなんて思ってないよ。信じる信じないはべつだけどね。保志先生とか、永沢先生とか、あんたのことが心配でそのうち胃を壊しちゃうわよ。もうちょっと、甘えなさいよ」
「はい」と鉄人はうなずいた。
「で、いいことって、なんなの?」
鉄人はぱっと顔を輝かせた。
「えへへ、おれ、今日、誕生日だったんです」
「あら、ほんと。おめでとう」
言いながら、今日子はどことなく違和感を覚えた。
誕生日、だった?
何故に過去形。
「ありがとうございます」
「いくつになったの」
「三十一……じゃなくて、二十八」
「よね。みっつ下だもんね」
「そうなんです。えへへへへへ」
不気味だ。
「誕生日だった。のね。それ、どういう意味かしら」
「今日子さん、鋭いですね」 鉄人は少し真顔になって言った。
「あんたのことは、わりとわかるのよ」
「光栄です」と頭を下げて、鉄人は語りはじめた。「おれ、戸籍が正しくないんです。政府から特別に発行してもらったもので、公文書だからあんまり大声では言えないんだけど、内容が嘘っぱちなんです。名前も本物じゃないし、生年月日も……だけど、誕生日だけは一致するって、わかったんですよ。今日はほんものの誕生日だったんです。おれにも、誕生日があったんです。おれ、すごくうれしくて。自分が嘘でできたモノじゃなくて、ちゃんと生まれてきた、人なんだなあって思って。ゆうべはほとんど眠れませんでした」
ああ、そうか。
そうだったのか。
「弓ノ間」
「はい」
「生まれてきて、よかったね」
鉄人ははにかんだように笑って、「はい」と言った。
――おれにも、誕生日があったんです。
――ちゃんと生まれてきた、人なんだなあって。
今日子は思った。すべての人が、ちゃんと生まれてきた。障害を持っていたり、貧しかったり、その後の人生はそれぞれだろうけど、誰もみな人として生きられるよう、生まれてきたのだ。
死を望む者がいる。望まなくても死ぬ者がいる。生きたくても死ななければならない者がいる。死んでしまった人を想いながら生き続ける者がいる。
誕生。それはすべての人に平等だ。死がまた平等であるように。
弓ノ間。あんた、やっぱりステキだわ。惚れちゃっても、いいかしら。
「それじゃ、ま、誕生日プレゼントでもさしあげますか」
「えっ、なんですか!」
身を乗り出すチュー太。ばかね。
「ここのお勘定」
オーダー票を手渡す。「よろしくね」
鉄人は肩をすくめて、「せこい」と言った。
end
2009-12-19
