もうひとつのインビジブル・ハンド #0
「エヴァンヘーリオ―福音」の続きです
鉄人が亡くなったという知らせは、銀町理事長からもたらされた。
月にいちどの割合で送られてくる薄っぺらな国際郵便。今回も封入されていたのは事務的な便せんが一枚だけだった。一見しただけでは、いつもの報告と別段変わりはしなかった。
遙兵は開封しただけで目を通さずにキッチンに置いた。コンビニ弁当で簡単な夕食を済ませたあと、牛乳をパックからがぶ飲みして、ようやく便せんに意識を向けた。
時候の挨拶は、なし。冒頭の一文は『猛地へ』。これもいつものこと。男勝りな手書きの文字が縦組みで並んでいる。
鉄人に対する措置に理事長は異を唱えさせてくれなかった。そのかわり、こうやって容態を定期的に知らせてくれる。隠しごとはしないというのが、遙兵の出した条件だった。理事長はうなずき、その提案を承諾した。
最後の最後まで、理事長は約束を守ってくれたのだ。
フランスに滞在している燕のもとにも同じ内容の手紙が届いているだろう。距離の関係で、燕の方が先かもしれない。
学園の同級生たちは、鉄人とノエルがプエルトリコに帰ったことを知らない。医療少年院に収容(一説によると保護)されているというマスコミの報道を、そのまま信じこまされて、卒業していった。真実を知っているのはおそらく遙兵と燕だけだ。
理事長はふたりを特別扱いするか否かで、ずいぶん悩んだのだろうと思う。約束を交わした理事長の顔は、十は老けて見えるほど疲労していた。
あの日、ファーイースト・フィナンシャルビルの屋上で友情を誓いあった四人。
弓ノ間鉄人、魁ノエル、猛地遙兵、燕霧流。
いたずらな運命に翻弄され、それでも互いを信じることを貫きとおした高校生たち。
それこそが、理事長が教育者としての生涯を賭けた『共鳴』の理念なれば。
少年たちの絆を力で引き裂くことはしない。それが、日本国を支配する銀町財閥の女帝が出した結論だった。
遙兵は便せんをもとのように封筒に戻し、デスクにぽんと放った。
つけっぱなしのテレビが急に耳障りになって、リモコンを操作する。
どこか遠くで救急車のサイレンがきこえた。
現実と非現実がごっちゃになって、論理的な思考が組み立てられない。
感情がわきあがってこない。大切なものがぽっかりと欠如してしまっている。悲しいのかくやしいのか、それとも泣きたいのか。まったくもってわからない。
ああ、そうか。これは防衛本能だ。心が決壊して危険な状態になるのを恐れて、無意識にフィルターで覆っているのだ。
でなかったら、テツが死んだと聞かされて、平然としている自分などあり得ない。
フロアに敷いた巨大低反発クッションに腰をおろす。観るともなしに、夜景に目を向ける。
マンションの部屋は二階だが、建物自体が高台にあるためさえぎるものがなにもない。天気のよい日は富士山の頭が見える。
バイパスの高架を車のライトがひっきりなしに流れていく。
ぼんやりとながめているうちに麻痺した感情が少しざわついたような気がしたが、涙がこぼれたと思ったのは錯覚だった。
いまさら全否定しても、事実は覆らない。
いつかこうなるというのは、ぼんやりと感じていたことだ。
延命措置の中止という決定が、ノエルの反対によって水際で阻止されたことも聞いている。状況は、そこまで絶望的だったのだ。
だが納得すると同時に、疑問もこみあげてくる。
鉄人は一般にいう終末期患者ではない。積極的な介入なしに死に至る理由はどこにもないはずだ。ましてや高度医療の頂点ともいえる場所で二十四時間監視されていたのだから。
あまりにも突然すぎる。鉄人が日本を離れてから、まだ半年しか経っていないではないか。
空港で別れた鉄人は、寝かせられてはいたけれど、ちゃんと目もあいていたし指も動かしていた。顔色もよく、健康そうだった。だれにもらったのやらぜんぜん似合わないミッキーマウスの帽子をかぶって、手首にはミサンガまで巻かれていたので、からかい気味に撫でてやったら首を振ってイヤイヤをした。
少なくともあのとき、遙兵の目にはそれほど緊迫しているようには映らなかった。
手紙によると、発作から呼吸不全をおこして、治療の甲斐なく息をひきとったという。
ほんとうだろうか。
ほんとうにそんなに簡単に、あの鉄人が、生きることを放棄するだろうか。
鉄人の中にいる、生に貪欲なもうひとつの命が、はたして黙認するだろうか。
それに、ノエル。彼が、それを許したというのだろうか。
なにもかも信じられない。
もしもほんとうに起こりえたというのなら、遙兵に見えた真実はひとつだけだ。
そのシーンはまるで閃光のように、遙兵の脳裏に映像となってよみがえった。
鉄人の身体を奈落に突きおとそうとするノエル。
賛美歌がきこえる。ノエルが、いや、鉄人が歌っているのだ。
虐げられた羊飼いと、誕生する救い主の歌を。
救い主も人である。迷い、苦しみ、あやまちを犯す。
しかし、救い主は天から遣わされた子である。最後には必ずや人々をしあわせへと導く。そのためには我が身を聖餐として供することも厭わない。
”ノエルが……救い主?”
”おれにとっては、そうだ。だから、これでいいんだよ……遙兵”
なんのためらいもなくそう言って、鉄人は笑った。
「テツ……、ノエル……」
ぽたり、としずくが落ちた。
ノエルが、
鉄人を始末したのだ。
鉄人をいいように独占する強欲な死神、ラ・ムエルトを粛正できるのは、もっとも近きに在る同胞、ラ・ダムネイション―――劫罰という皮肉めいた名を冠したノエルだけだから。
あの日できなかったことを、彼はふたたび試みたにちがいない。
そして、ついに解放したのだ。
友を、そして、己を。
しずくはいまや堰きとめられることもなく、あとからあとからあふれでて遙兵の頬をつたった。
京東大学病院の閉鎖病棟に二年のあいだ入院した鉄人は、回復の望みがまったくないとの診断を冷酷につきつけられて、居場所をなくしてしまった。病院側からこれ以上の関与は限界であるという訴えがあったらしい。さすがの銀町も無理は言えなかったとみえる。
なにしろ、特例中の特例で保護してもらったようなものだ。世界的な機密に関わるとあらば、日本の一医療機関で長期間対処できるはずもない。
鉄人の次なる受け入れ先を銀町から聞かされた遙兵は、あまりの衝撃にわが耳を疑った。
そんな暴挙を承諾するなんて、理事長は気が狂っている。いったいどこのだれが結託して、鉄人をあの牢獄に戻そうと画策したというのだ。
「鉄人のことはハルモニアがいちばんよく知っている。次第によっては、ご両親のもとに返すこともできる」
それが銀町の答えだった。
グレアム・クレイ医師の亡き今、悪魔のプロジェクトはたしかに瓦解している。しかしハルモニア製薬の企業としての法的責任が公に問われたわけではない。
鉄人とノエルをハルモニアから逃がしたのは銀町絵麗亜その人だ。二人には人として生きる権利がある、そうハルモニアを糾弾したのは銀町のはずだった。
自信家の銀町絵麗亜が持論を撤回するのを、遙兵は見たくなどなかった。
同席した燕も怒りで肩をふるわせていた。
唇をぎゅっと結んで、わずかのあいだに年老いた理事長を例の負けず嫌いな目でにらみつけていた。
遙兵は思った。燕も、わかっている。理事長の判断は正しい。
正しいからこそ、こらえきれない怒りとくやしさがこみあげる。
理事長は低い声でつけくわえた。
「ノエルが……あの子が、ついていくから……」
これ以上、なにを反論できるというのだろう。
すべては政府によってすでに決定されたことであり、後戻りはない。遙兵と燕は事後報告を聞く権利しか持たない。それだけでも異例のはからいなのだ。
二人は特別輸送機で合衆国を経由し、プエルトリコに送還されるという。
送還、という響きに遙兵の顔がゆがんだ。
鉄人とノエルの日本国籍は、仮のものだった。けれども二人が生まれ故郷で本来の国籍と権利と義務とを得られる保証はどこにもない。
せめて『送還』などというまるで犯罪者に向けるような言いかたはやめてほしいと思った。
見送りを銀町は承諾してくれた。その日、遙兵は入社したばかりの会社ではじめて有給休暇をもらい、狭山にある入間基地に若葉マークの車を走らせた。
鉄人とノエルはここからYS-11で北海道の千歳基地に飛び、そこから専用機でアメリカに発つのである。
見送りを許された民間人は遙兵と燕の二人だけであった。物々しい警備に怯えながら搭乗口にうながされ、遙兵は二年ぶりに鉄人と対面した。
鉄人は頬がいくぶんふっくらとして、そして、相変わらず幼い顔をしていた。正常な成長が望めないという事実は遙兵も頭ではわかっていたが、やはり少しショックだった。
感染防止のマスクで口が覆われている。だがどうやら自力呼吸はできるようだ。
呼びかけても反応はなかった。あの日もそうだったから、べつに驚かない。
ミッキーマウスのついた起毛の帽子をかぶっている。冬でもないのにと訝しんだが、ひょっとしたらなんらかの傷痕を隠すためかもしれない。だけど、よりによってミッキー。言ったら悪いがぜんぜん似合わない。大リーグの帽子のほうが百倍マシだ。
手首にはミサンガを巻いていた。だれかが願をかけたのだろう。ストレッチャーには小さい折り鶴がくくりつけられている。千羽鶴とはいかない。三十羽鶴くらいだ。
鉄人の回復を願ってこれを折った人がいるのだ。そう思ったら、胸が熱くなった。
学生寮にいたころのように、ほっぺたをつついてみた。いつでもどこでもヒマさえあれば昼寝する鉄人を、よくこうして起こしたものである。
鉄人は首をよじって、「うー」と言った。
反応したので、遙兵はびっくりした。
ファーイースト・フィナンシャルビルではいくら揺さぶってもまったく応じなかったのに、格段に動きが増えている。
もしかしたらちょっとずつでも回復しているのではないだろうか。いつの日かまた、遙兵を見てほほえむこともあるのではなかろうか。
遙兵に希望の光が見えた。
別れの儀式に与えられたのはほんの三分程度だった。ノエルは精神的な問題があるとのことで会わせてはもらえず、かわりに手紙を二人は受け取った。
病院のロゴがはいった便せんにびっしりと三枚、感謝の言葉が綴られていた。
けれど、また会おうという一文は最後の最後まででてこなかった。
燕霧流は鉄人の顔に両手で触れ、マスクの上からそっと頬を寄せた。
「いってらっしゃい、弓ノ間くん」
布越しの熱交換。もちろん、その言葉を永遠の別れのつもりで贈ったわけではないのだろう。
飛行機が滑走路をゆっくりと滑り出し、轟音をあげた。
燕は大きく手を振った。
「ゆみのまくーん! 魁くーん!」
叫ぶ燕の顔を遙兵はまともに見ることができなかった。彼が泣いているのを知っていたし、自分の涙も見られたくなかったからだ。
青い青い空に、白い機体が溶けていく。
「テツ……元気でな」
生きていさえすれば、いつかまた必ず会える。遙兵はそう信じた。信じて、泣くのはこれで終いにしようと思った。
なのに。
電話のコールが鳴り続けていた。
受話器をとって耳にあてると、くぐもった鼻声が聞こえてきた。
「ぼく。へんな時間に……ごめん」
パリではまだ昨夜の六時過ぎなのだ。ひょっとしたらいまごろ郵便に気づいたのかもしれない。
「燕か……あー、聞いたか?」
「うん」
「大丈夫? オマエ」
「……うん」
「むこうで、カトリック式でさ、葬儀、もう済んだっていうから……やることねーな、おれたち」
「うん」
うんばっかりだ。遙兵は寂しくほほえんだ。
それだけを言うのが精いっぱいなのだろう。国際電話をかけてきただけでも称賛に値する。燕のプライドを尊重して、どんな情けない顔になっているかはこの際、触れないでさしあげよう。
冷静なふりをしてみたところで、遙兵も気持ちは同じだった。燕の声を聞いて、張りつめていたものがふたたびゆるんでしまった。
無性に人が恋しくなった。
「なあ、燕……」
「う……」
「帰ってこいよ」
返事はなかった。かわりに、押し殺した嗚咽がきこえてきた。
受話器のむこうから、燕の悲しみがとめどもなくあふれてくる。
声を、あげていいのに。だれも聞いていない。おれも、笑ったりしないのに。
燕も、プエルトリコから送付された短い通知の裏側を、はっきりと読みとったのだろう。
勘のいい燕のことだ。
隠しごとはしないと誓った銀町理事長がただひとつだけついた嘘を、彼は即座に見破った。そうにちがいない。
理事長はその嘘をあの世まで持っていく覚悟なのだろう。そして遙兵と霧流は騙されたふりをしながら、やはり生涯、口をつぐむのだ。
人は愚かだ。けれど、愛しい。
”セラフィム”に人が勝るとしたら、まさしくその点だ。
ノエルがくれた手紙。
『ぼくが、ずっと鉄人のそばにいるから。だから遙兵と燕は安心して。いままでほんとうにありがとう。忘れない。元気でね』
巧妙に織りまぜたほんとうの思いを、いまなら遙兵も理解できる。
ペンを握ったときにはもう、ノエルは決断していたのだろうと思う。
あれは、永遠の別れを告げるノエルなりのやりかただったのだ。
思いを遂げたノエルも、おそらくは、もう。
「燕」と遙兵は言った。
映画でいうならばここがジ・エンド。そろそろメイン・テーマの流れる時間。そう、すべての物語は終わったのだ。
鉄人もノエルも、やっとしあわせになれた。
あの子たちにはしあわせになる権利がある。
そうおっしゃったのは貴女でしたよね。ぼくたちの尊敬する、銀町先生。
「燕……梁山泊に、帰ろう」
「うん」
はじまりの場所。そこはいつでも、みんなが帰る家。
友もきっと、笑顔でそこにいるにちがいない。
end
”救い主は十字架にかけられ、罪を赦されてよみがえった”
初出 2007-02-13 再掲 2007-02-16
