目が覚めたのは騒々しさが原因ではない。常識を逸した獣臭であった。
怪我をして膿のたまったノラネコとか、動物園の猛獣の檻とか、たとえるならそういうたぐいの悪臭を増幅器にいれてアンモニアで割ったような感じだ。
これはもう臭いの暴力である。
うっすらと目をあけると、いきなり頭がズキンと痛んだ。
「……テっ」
抑えきれずに、声が漏れ出た。痛みは治まることなく、脈打つようにズキズキと断続的に襲ってきた。
どうやら固いコンクリートのようなところに寝かせられているようだった。周囲はまだ明るい。
手足をもぞもぞと動かして、寝袋に包まれていることに気がついた。
状況がすぐにはのみこめず、鉄人は顔をしかめながらゆっくりとあたりをうかがった。
室内。いや、ちがう。半室内だ。例の、ツタのからまったあずまやの中かもしれない。
尋常ではない獣臭と喧噪は外から流れこんでいた。ひときわ大きな声は遙兵のものだ。
「罰ゲームやってんじゃねーんだぞ。本気で食えるのかよ、これはよ!」
次いで山岡の怒号。
「食ってみもしねえで四の五のぬかすんじゃねえや、ボケ!」
ヤギだな、と鉄人は思った。
後頭部を蹴られて気を失ったあとのことは断片的にしか覚えていない。山岡が悪態をつきながら、おぶって基地まで運んでくれたことは感触でわかった。ヤギはその他大勢でかついできたのだろう。
だれがトドメを刺したのだろうか。解体は。調理は。
ラッキーだったかも。
おそらくこの狩りには次回があって、ぬか喜びの可能性はたっぷりある。だがいまは考えまい。
頭が痛い。後ろ足の直撃だったのだ。打ち所が悪ければ笑い事ではすまなかったかもしれない。よりによって、頭部をクリーンヒットとは。
仰天した人工ニューロンのやつが暴れだしたら、どんな事態になっていたかわからない。
ただでさえここのところ、いやな感じに悩まされていたのだ。
自分のなかで別の人格が、不満をためこんでいる。人格の主はセラフィム。別の名前で呼ぶならば――ラ・ムエルト。死神。
鉄人は寝袋から右手を引き出して、ゆっくりと頭上にかざしてみた。きつく握った縄の痕が手のひらにみみず腫れのように残っている。それ以外におかしなところは、とくにない。
思い過ごしならば、それでいい。いますぐになにか行動をおこそうとしているわけではないのかもしれない。少なくとも、猶予を与えてくれそうな雰囲気ではある。
そっと閉じて、また開いた。
神経がピリピリと脳にかすかな痛みを伝達する。この伝達経路のどこかに、自分には制御しきれない悪意が存在するのだ。
ジッと息を殺しているのにも、そろそろ飽きてきたとみえる。睡眠障害というかたちでメッセージを送ってきたのも、なんらかの意図あってのことだろうとノエルは言った。
もっとわかりやすく伝えてくれないとこっちだって困る。これではまるで生殺しではないか。
体内に危険な爆弾を抱えながら、平気な顔で学校生活を送れるわけがない。無人島に逃げて正解だった。銀町理事長は最良の判断を下したというわけだ。
逃げ続ける人生。
どこまで逃げたら、しあわせというやつをつかめるのだろう。
命を賭して盾となってくれた老医師の願いを、自分はかなえることができるのだろうか。
……じいちゃん。おれは正しい方向に歩いているのか?
「あ、目が覚めたね、鉄人」
ツタののれんをめくりあげて入ってきたのはノエルだった。
「うー……」
「そろそろヤギ汁ができるから起こしてこいって、山岡さんが。頭だいじょうぶ? 起きられそう?」
わずかに身じろぐだけで頭部を激痛が襲う。しかしお腹はぺこぺこだった。カップラーメンを食いっぱぐれて以降、水とわずかなポテトチップスしか口にしていない。
「だいじょうぶじゃねえけど……いい、食う」
鉄人は痛みに顔をしかめながらそろそろと寝袋を抜け出した。コンバースを履くのも面倒で、裸足のまま外に出る。
「おうっ、復活か、テツ!」
遙兵がおたまを振りあげた。
よろよろと焚き火のそばに向かい、皆に倣って地べたに腰を下ろす。すると目の前に、皿に盛られたあやしいものが差しだされた。山岡であった。
「駆けつけ一枚、食え、大将」
「なんですか、これ」
「いいから」
割り箸を渡される。薄く醤油の乗った赤黒いそれを、鉄人は深く考えず箸先でつまんで口にいれた。
妙な食感。
なんともいえない奇妙な味。
記憶にある食べ物のどれにもあてはまらない。無言でムグムグとかじり、勢いで飲みこんだ。
「うまかったか」
「ぜんっぜんうまくないです」
「そうか」
「なんですか、これ」
訊いたあと、遙兵やノエルがニヤニヤと笑っていることに気づいた。脳内を閃光が奔った。
やられた。
「キンタマにきまってるだろうがよ」
「わはははは!」
「ぎゃはははは!」
樹花までが地面をばんばんと踏みならして爆笑している。
鉄人は渾身の力を込めて割り箸を真っ二つに折った。
「食ったんかよ、おめーらはよ!」
「このたびの英雄がご試食するまで、とっといてあげたの」と霧流。
鉄人は目尻をつりあげて、わなわなとふるえた。
「……食えよな。全員」
地獄の底からひびく亡者の声。
続いた同意の声は意外や意外、橋本さんであった。
「食してあげなくてはヤギも浮かばれません。わたくしもつつしんでいただきます」
割り箸を両の親指にはさんで手を合わせ、馬鹿丁寧に瞑目してから、睾丸の刺身を口に放りこむ。
「ムグ、ムグ……これは、まったりとして……それでいてしつこくて……く、くふふふ」
予想を遙かに超えた激マズに笑うことしかできないのだろう。
あろうことかこんどは樹花の前に皿が移動した。
「姐さんも、話のタネにどうですか。ちんぽッス」
殺されるぞ山岡、と鉄人は肩をすくめた。だが、時すでに遅し。
樹花はにっこりと笑った。
高校生四名が息を呑む。
「めずらしいね。いただくよ」
呆気にとられる少年たちの目前で、美人物理教師は躊躇する素振りもなく、それを箸でつまみあげた。
豪快にかぶりつく。
咀嚼する。
瞳が忙しなく動く。
鉄人もノエルも遙兵も霧流も山岡さんも、固唾を呑んで見守った。
「……なるほどね」
スジが固くて飲みこめないのか、もぐもぐしながら樹花はつぶやいた。
「ソウルで食べた犬のほうが、まだましだな」
鉄人の頬がひきつった。
孤隼樹花、ひょっとして根っからのゲテモノ嗜好か。
座が奇妙に静まりかえる。だが男たちをさらに驚愕させたのは、樹花のとったその後の行動であった。
「……よくわからなかった。もう一枚」
後頭部がズキンとして、鉄人は下を向いた。
「ゆっくり食べねえと鼻血が出ますよ」
山岡のフォローも何故か異世界の会話に思えてならない。
この世のものとも思えない臭いをもうもうとあげているヤギ汁があとに控えているというのに(しかも寸胴鍋にたっぷりふたつ分)、いまの段階ですでに挫けてしまいそうだ。
「じゃ、そろそろヤギ汁いってみようか」
恐怖の女王を派遣してくれた銀町絵麗亜を呪いたい気分だった。
記憶に誤りがなければ今日は終業式、そしてあしたはクリスマス・イブのはずである。進学校の冬休みは補習授業もあって灰色だけれど、それでも年末年始ともなれば気分も高揚するものだ。それがどこでどう間違ったか、無人島でヤギ。しかもオードブルがいきなりキンタマ。
どんぶりになみなみとヤギ汁を盛られて、鉄人は暗澹たる気持ちになった。
みんなの顔色も気のせいか冴えない。
遙兵は横を向いてなにかブツブツと念仏をとなえている。
睾丸エキスが脳に回ったか、樹花が元気はつらつと宣言した。
「それでは諸君、行き渡ったね? メーリィ・クリスマス! いっただっきまーす!」
「いただきます……」
逃げられない。
逃げたらシメられる。
鉄人は観念して、あつあつのスープに口をつけた。
「……あれ?」
大根と人参の浮いた塩味のスープは、じんわりと胃袋に落ちていった。
「意外に、旨いかも」
臭いことは臭い。だが炊いているときのあの強烈さはさほど感じない。そうなるとむしろうまみに思えてくるから不思議だ。
山岡がニイッと笑った。
「どうだ。うまいだろう」
高校生たちは一斉にうなずいた。
「おかわり、いいですか」
まっさきに差しだしたのはノエルである。
「セルフサービスでいくらでも食え。島は体力勝負だぞ。食わねえヤツはへたばるぞ」
ヤクザ山岡の口調は乱暴だったが、あたたかかった。
鉄人はこの強面の暴力団組員に好意を持った。最初はにこりともしなかった男も、剥き出しの自然のなかでつきあってみれば人情が厚い好漢だということがわかる。大自然とは不思議なものだ。
ヤギ汁は臭いけれどうまい。うまいことは、食べてみなければわからない。
見えていないものがまだまだたくさんあるにちがいない。いま抱えている問題にしてみても、そうだ。頭で考えただけでは結論は出ない。
(そういうことだったのか)
ヤギ汁を胃袋にかっこみながら、鉄人はくすりと笑った。
間違ったって、いいんだよな。
間違えたら、気づいた時点で戻ればいいだけのこと。
逃げてるんじゃない。
向かってるんだ。
(そうだろ、じいちゃん)
どんぶりの向こうに、どこまでも続く大海原が見えた。どんよりと曇っていた空はいつの間にか雲が切れ、縁を夕焼け色の発光が隈取っていた。
もうすぐ、最初の夜がおとずれる。
明日を迎えるための、つかの間の夜が来る。
2006-06-30
