脳味噌が耳から溶けだすんじゃないかと不安になるくらい眠っても、目指す島はまだまだ遠かった。
山と積まれたダンボール箱を見るだけで、うんざりとした。これらがすべて生活物資と食料だとしたら、いったいどれほどの期間、離れ小島に幽閉するつもりなのか。
「だいたいなあ、新鮮な肉や魚どーすんだよ。まさか配達に来てくれるってワケじゃねえよな」
鉄人の疑問に、霧流は即答した。
「そんなの、現地調達にきまってんじゃん」
「……あ?」
「あそこにはね、むかしうちの祖父が食用だっていい張って繁殖させたウサギやヤギがごろごろ棲みついてるんだ。野生化してね」
鉄人は勘弁してくれとばかりに顔をしかめた。
「ンなの、食えっかよ」
「だいじょうぶ。心配しなくたって一ヶ月もいたらいやでも御馳走に見えてくるから」
「……」
魚担当にしてもらおう、と鉄人は思った。
魚は生臭くて苦手だけど、あどけないウサギを狩るのよりはマシかもしれないから。
小分けにしてあるダンボールは道中のために用意されたものであろう。ガムテープをはがすと、小型のコンロとカップのインスタント麺、ミネラル・ウォーターがセットで出てきた。
もうひとつの箱は割り箸とペットボトルの飲み物とスナック菓子だ。
「ううう、わびしい」
「わ、若、お食事でしたらわたしがおつくりします」
顔いちめんに青い縦線を刻んだ橋本さんがフラフラと立ちあがった。
「いいよ、いいよ。たのむから横になっててよ」
「でも、船も揺れていますのに、やけどでもなさったら……」
忠臣蔵、橋本さんは必死の形相である。小指の生死がかかっているのだから、気持ちはわからなくもないが。
「気をつけるからだいじょうぶ。これ食べたら、乗り物酔い止めの薬がないかどうかさがしてみるね。ほんとは外の風にあたるのがいちばんなんだけど……橋本さんは、なにか胃袋にいれなくてもいい?」
「若……なんとおやさしい……うっうっうっ」
ヤクザ橋本は感極まって泣きだしてしまった。
騙されてコカイン漬けにされるタイプだな、と鉄人は冷静に判定した。
カップ麺は一種類だけではなく、多種多様のメーカーと味が用意されていた。せめてものグルメ気分である。箱の底までほじくり返し、めいめい好きなものを選ぶ。
鉄人はどでかカップの東京醤油。ノエルは札幌味噌バターコーン。遙兵は大阪カレー南蛮で、霧流は博多とんこつ。
ちなみに橋本さんは匂いだけで胃液逆流と顔に書いてあった。
「テツ、しっかり食えよ。ただでさえちっこいんだから」
「るせー。ちっこいゆうな」
いいのか悪いのか、暴食しても体重増加はみられないし背も伸びない。そんなことはとっくの昔に気づいている。
メカニズムは考えることすら面倒だし、当事者としてはいまさらだ。解明ならハルモニアの連中がすればよい。
もともと小柄なほうではあったが、これからはもっと引き離されていくであろう。
「なあ、おれのと混ぜてみたらうまそうだと思わねえ?」
遙兵は鉄人の東京醤油をさかんに気にした。
「ゲテモノ嗜好はいつかひとりでやれ」
「いーじゃねーか。なーなー」
「るっせえ! なんで醤油のすばらしい風味をインドのスパイスでぶち壊さなきゃなんねーんだよっ」
ノエルは霧流を見て、「ぼくたちも混ぜてみる?」とほがらかに提案した。
「いっそのこと、鍋かなんかにぜんぶあけてミックスしてみんなでつっつくってのはどう」
屈託のない霧流が悪魔に見えた。
「わーい、闇鍋だね」
ノエル、意味がわかって言っているのか。
賛成3、反対1。
実行までの猶予は三分である。
「島でも決定事項はつねに多数決でいこうよ。民主的にさ」
社会主義の塊のような燕組次期組長にウンと言ったら命はない。
最後まで抵抗して暴れる鉄人を遙兵がおさえつけ、ノエルはアルミ鍋を物資のなかからひっぱりだした。
東京醤油投入。
札幌味噌バターコーン投入。
大阪カレー南蛮投入。
最後に博多とんこつを小袋入りの高菜漬けとともに投入。
撹拌。
メコン川のような不気味な液体に太麺細麺が浮いている。
「スネてないで食べようよ鉄人、のびちゃうよ」
ノエルは邪気も疑いもまったくない顔でカップに麺をとり、ひとくちすすった。
「……これは!」
感嘆符に続く沈黙をどのように解釈すればよいものか。
遙兵と霧流もずるずると口にいれて、スープも無言で流しこんだ。
うまいとはだれも言わない。
まずいともだれも言わない。
「おれ、やっぱいい。菓子食ってる」
不機嫌を蓄積させながら目をそむけた鉄人に、ノエルは愛想笑いを向けた。口の端が微妙にひきつっている。
「ム、ムイ・リカ(す、すっごくおいしいよ)」
うそつけ。
かくして日本縦断麺紀行はこの一度きりのイベントで永久却下となった。
「うげぁあぉあぁ」
辛抱たまらず橋本さんがついに吐いた。
ブレンドされたアミノ酸の暴力によって嗅神経が受容の限界を超えたらしい。
薄暗い車内を気まずいムードが席巻し、誰からともなくため息が漏れる。
食ったらもう会話すら続かない。
人間やることがないと、いくらでも眠れるのだということを鉄人ははじめて知った。
溶けだした脳味噌が鍾乳石となってシートに根を下ろすころ、ボーッと汽笛が鳴った。
「窮屈な思いをさせてまことに申し訳ございません。安全のため、島に到着するまでけして鍵をあけるなとオヤっさんからきつく申しつけられておりまして」
トレーラーの運転手である山岡大治は、スネにキズを持つ者を絵に描いたような強面だった。黒めがねにちょび髭、威圧的な剃りのはいった角刈り。口調は丁寧だがにこりともしない。
霧流が弁護するにいわく『見た目はアレだけど世話好きのオッチャン』の雰囲気はかけらもない。
グラサンの奥から品定めをするように、鋭い視線が鉄人らを射る。
せかされるようにしてトレーラーをおりると、フェリーが荒れる海の向こうへ旅立っていくのが見えた。
防波堤を乗り越えて波が襲ってくる。よくこの状況で着岸できたものである。
雨は降っていなかったが、空はどんよりと重く垂れこめていた。
「よし、さっさとここを離れようよ。危険だから」
大型トレーラーがゆうゆうと通行できるほど広いのに、ほかに設備がなにもない防波堤をあとにする。驚くべきことに舗装された道路は防波堤前の一部のみで、あとは荒れ放題の野道であった。
「こんなんじゃ島の人、たいへんだろうな。電柱すらないぜ。電気とおってんだろうな」
「だれが人住んでるって、いった?」
六つの眼がいっせいに霧流を向いた。
「うちの私有地だっておしえたでしょ」
「そ、そーだけどよ、燕リゾートじゃねえの」
「甘いな。ヘマをした組員をシメる島だって最初にいわなかったっけ」
鉄人はごくりを生唾をのみこんだ。
「シメる?」
「そ。みんな恐れる、地獄の小笠原研修……の研修地、ここ」
霧流はにっこりと笑って、とんでもない補足説明をした。
「研修中に行方不明になったり、不慮の事故で死んだりした人もいるみたいだよ」
「わーっ、わーっ!」
「か、帰ろうよ鉄人。ハルモニアもごめんだけどぼく、こんなのも、ちょっと」
「しししし死んだ人の霊魂がどっかそのへん彷徨ってっかもしんないじゃんよ!」
あたふたとわめく三人に、運転席の山岡から怒号が飛んだ。
「じゃかぁっしい! それ以上グダグダぬかしたらス巻きにしてサメのウヨウヨたまってる入り江にどつき落とすぞ、ジャリども!」
ひっと身を縮めて、硬直する一同。
「さすが世話好きの山岡さん」
賞賛したのは霧流ひとりである。
「でも今回は組員の再教育とちがうんだから、大目にみてあげてね?」
ぜんぜんフォローになっていない。というか、”世話好き”の意味がこれでやっと理解できた。
「すんません、若。ついいつものクセで」
「うん、わかったらいいんだよ。ぼくの友だちだからお手柔らかにたのむね」
「はい」
どこからどう見ても危ない山岡を犬コロのように従順にさせる霧流も、ただ者ではない。
燕魚太のひとり息子は名ばかりではないというわけだ。
キャディラックを搭載したままのトレーラーは道なき道を五分ほど走ると、ふいに高台に出た。
「到着。下りよう」
周囲を見渡して鉄人は歓声をあげた。
なんという雄大な眺めだろう。ほんの数十メートルほど上っただけなのに、遮るものがまったくなくなった。背後には小高い山がひとつそびえているが、島自体がそれほど広くないために、三百六十五度を大海原に囲まれていることがわかる。
空が灰色なのにもかかわらず、海の色が亜熱帯のそれだった。天気が回復したらさぞや美しい蒼色に輝くだろう。
霧流がジャングルと称したとおり、島はうっそうとした木々に覆われていた。山の頂上付近だけがかろうじてごつごつとした岩肌を剥き出しにしている。
「つばくろじまにようこそ」
「ネーミングが最悪だ」
そこを除けばあんがいリゾート気分を満喫できるかもしれない。
しかしその甘い期待は瞬時に裏切られた。
「ねえ……ひょっとして、ここで暮らすの」
夢をぶち壊すのはいつでもこの人、ノエルである。おずおずと指さしたその先には廃屋、いや言い直そう、ツタのからまったあずまやがあった。
「大正解」
「いくら南国っていっても、師走だよ……? 壁がないってのは、その」
「そのためにトレーラーがあるんじゃないの」
霧流はこういうことに慣れているのか、あっけらかんとしている。
プールつきのお屋敷を期待していたわけではないが、これはあんまりだ。牡鈴公園の藤棚つきあずまやのほうが百倍はマシかもしれない。
しかしもっと驚いたのは、その直後だった。
ツタでできたのれんをくぐって、原住民の女性が姿をあらわした。
迷彩服の上下にバンダナ。肩までとどくストレート・ヘア。涼しげな細い眉。
腰にはサバイバル・ナイフを下げている。
「……やあ」
面倒くさそうに右手をあげた。
「こ……孤隼先生。どうして、先生まで」
「ストレス検診のために休暇が欲しいと申請したら、あっさりと受理してもらえてさ……リゾートアイランド行きのチケットまでつけてもらってさ……ハハ、ハ、ハ、は」
1年1組学級担任、孤隼樹花は人生のすべてを放棄したような死んだ顔を南の空に向けた。
2006-05-17
