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セセンタ・セグンドス-摩天楼のインビジブル・ハンド5

 息を吐くようにじんわりと力を抜き、褐色の瞳は閉じられた。
 薬が効いたのを満足げに確かめてグレアム・クレイは処置室の照明を落とした。デスクまわりのライトだけでも最小限の明るさは確保できる。コーヒーをいれる程度なら不便はない。
 ここと対照的に、ひとつ下の13ラボは不夜城である。二十四時間、三百六十五日照明の絶えることはない。この先、サーティーンが睡眠をとる場所に闇はけして訪れぬ。慣れぬうちは光に苛まれるだろうが、それもはじめのうちだけだ。
 環境の及ぼす苦痛など些細なものだと彼が気づくとき、その問題は解決する。
 摩天楼の13ラボラトリオとて仮住まいに過ぎない。テキサス州フォートワースに次の建設候補地を得て準備を進めている。
 サーティーンを出国させる難題さえクリアすれば、妨害の届かない場所で存分に研究ができるようになる。ポイントは小蠅のようにしつこい銀町絵麗亜をどうかわすかだ。
 クレイには迷いが生じていた。組織として動くことに、限界を感じはじめたのだ。
 チームでひとつアクションを起こすたびに、鼻のきくあの女が嗅ぎつける。日本という島国は面積がとてつもなく狭く、情報伝達網も密集しているものだから、よけいにたちが悪い。
 アンテナを張るのは容易だが、すり抜けるのは至難の業というわけだ。
 厳選した少人数のスタッフたちはいずれも有能な者ばかりで信頼はしている。だが人間である以上ぜったいに裏切らないとは断言できない。
 ナンバー13に関することがらはすべて、クレイがドン・ヒクサクから一任されていた。
 運用資金は事実上無制限であったし、結果を出しさえすれば方法は問われなかった。
 銀町絵麗亜にプロジェクトの内容が漏れたことがいまとなっては最大の遺恨である。原因は、もっとも信頼していたスタッフの些細なミスにすぎなかった。もちろん裏切り行為にはあたらない。だがいちど生じてしまった亀裂から崩壊は怒濤の勢いではじまり、情報を一気に外の世界へ押し流した。
 それを逆手にとり、暗黒社会とコンタクトして投資を持ちかけるに至った経緯もある。これが意外と功を奏して、資金面で苦労をする必要性がまったくなくなったことはたしかにハルモニアにとって幸運であった。
 だがクレイは一貫して、インビジブル・ハンドを極秘のプロジェクトに回帰させるべきであると主張して譲らなかった。
 世界で最初にセラフィムを発見した老外科医は、若き頃は功成り名遂げる名医だったらしいと皆は噂した。プロジェクトが始動してから27ラボに配属された彼は痴呆のはじまった老い先短い患者のようにクレイの目には映った。功績を形ばかり讃え、温情で名誉職という名の末席を与えられたのだろう。
 無害で欲もなければ研究所内で飼い殺しにすることなど造作もない。下手に外の世界に放り出してセラフィムの存在をぺらぺらと喋りでもしたら、ハルモニアとしても愉快ではない。
 だが幹部たちの判断はひどく甘かった。
 よもや老人が首謀者として内部からマウスどもの脱走を率いるとは予想もしていなかったのだ。
 これだからクレイは最後まで抗議したのだ。13ラボへの中途異動など、まったく意味のないことだと。サーティーンが精神的疾患の兆候を見せているからといって、話し相手をわざわざあてがう必要はないと。
 精神を多少病んだからといってプロジェクトの遂行にはほとんど支障はない。むしろ治療と称してよけいな時間をとられることのほうが問題である。
 下手に希望を与えてもらっては困るのだ。検査がやりにくくなり、カリキュラムが遅れる。
 ラボ内に生卵を持ちこむ行為すらも苦々しく思い、クレイは舌打ちした。
 そこから雑菌がマウスに感染したらどう弁解するつもりなのか。
 事実上の権限をフル行使して叩き出そうと画策していた矢先に起きた、あの事件だった。
 わずか六十秒間(セセンタ・セグンドス)の悪夢。
 老医師は全身を銃弾で射抜かれた。即死である。
 サーティーンも老人の死から十数秒もたたぬうちに同じ運命をたどったはずだった。だが、この幼いマウスは小癪にも、奇蹟という究極の手段を行使した。地獄へ招かれようとしていた身体を戦慄すべき方法で再生し、まんまと檻を抜けたのである。
 よく外の世界へ出られたものだ。その事実こそが、サーティーンがサーティーンたる証。
 湯を沸かすあいだ、クレイはふたたびベッドのわきに立って鉄人の様子を観察した。
 点滴の投与リズムが適当ではない。危険な薬剤ではないが、もう少し慎重でもよいだろう。
 速度をコントロールし、枕がわりに折りたたんだタオルを頭の下に挟んでやろうと顎に触れると、そこに異常な熱を感知した。
 やはり発熱したか。ショック症状の一環だ。
 呼吸に苦しそうなところはないが、よく見ると大量に汗をかいている。いま身につけている綿のパーカーは濡れると体温を奪う。
 クレイは鋏を手に取ると、裾から襟にかけて一気に切断した。このまま不潔なものをまとわせておくより、裸にしてなにかかけてやったほうがいい。
 血のついたパーカーの残骸をダストボックスに捨て、軽くて保温性のあるブランケットを棚からとりだした。
 アルドが処置をした背中の傷跡はガーゼで覆われていて、すでにかなりの血がにじんでいた。
 伝達麻酔薬の効果もそろそろ切れるころだ。アルドが戻ってきたら痛み止めの追加投与を指示しなくてはいけない。
 鉄人はぐっすり眠っているように見えたが、ほんの少し眉を寄せることがあった。痛みを感じているのだろう。タオルに押しつけた唇は熱で乾いて、白くひび割れはじめた。
 クレイは医薬品用の冷凍ケースから精製氷を出した。なるべく小さい塊を選んで、鉄人の口に含ませる。喉につまらせないように、口中で溶けるのをじっと見守った。
「そうしていると、まるで父子のようですね」
 いつの間に戻ってきたのか、アルドが室内に立っていた。
「お客さんは、処分したのかね」
「いえ、子どもですから。安易に手をだして家族に訴えられでもしたら、そちらの後始末がたいへんです。ですけどトゥエンティセブンを目撃された以上、追い返すというわけにもいきませんし。さてどうしたものかと思い、とりあえずご相談しようと戻ってきました」
 湯が沸騰する音がした。
「きみも飲むかね。インスタントしかつくれないが」
「いただきます。だだっ子と無益な議論をして、少々疲れました」
「すぐできる。ああ、そのあいだサーティーンにNSAIDsを投与しておいて。選択はまかせる」
「はい」
 返事をしてアルドは薬品棚に向かった。だが指示された抗炎鎮痛薬は素通りして、冷蔵ケースに入れられたごく小さい注射液のアンプルを手に取った。
 クレイは気づいていない。
 ベッドサイドの照明をひとつつけ、アンプルを開封する。点滴に混入させる前にアルドは少しためらった。
 これは危険な賭けである。こんなことでラ・ムエルトが期待どおり咆哮してくれるのかどうかはわからない。読みが間違っていたら、サーティーンは間違いなく命を落とす。
 呼吸停止から人工呼吸開始までの時間がかかればかかるほど、蘇生は絶望的となる。ぎりぎり待てるのは二分。いや、それでは多すぎる。六十秒。
 サーティーンの細胞組織を生かすための神経回路を遮断されたとラ・ムエルトが気づくにはじゅうぶんな時間ではないか。
 あの日の13ラボを再現してみせるがいい。
 獲物は用意する。グレアム・クレイ。
 ラ・ムエルトの虜となった者は死神に喰われる最期が相応しい。
 アルドは一瞬だけ目を閉じ、網膜の裏にサーティーンの姿を閉じこめた。
 愛しているよ。ぼくのかわいいマウス。
 薬液を注入する。無色透明の液体が肩に挿された管から体内に送りこまれていった。
 わずかな量でサーティーンの呼吸を止める、筋弛緩剤臭化パンクロニウムだ。
 ふわりと髪の毛を撫で、発熱した身体に触れた。すぐに変化がはじまるだろう。
「ドクトル、13ラボに記録ノートをとりにいってきます」
 気持ちを振り切って、アルドは廊下に出た。

 ふたつのコーヒーを手にしたクレイは、そのひとつをデスクに置いた。熱いカップにそっと口をつける。苦い液体が舌を灼いたが、芳香は慢性的な疲労を緩和する手助けとなる。
 アルド・リンカーンウッドは期待どおり、クレイの右腕とも呼べる医師に成長した。だが彼は、自分の心を抑制しすぎるところがある。多少のわがままをとおしてもけして咎めたりはせぬのに、目上の者に対して遠慮が先立つ性格なのか、あまり戦いを挑むことをしない。
 サーティーンに特別な感情を抱くのは、しかたのないことなのだ。このマウスは、人の心を狂わせる。クレイですら魅了してやまなかったのだから、若いアルドが囚われるのは当然のなりゆきだ。
 なにも、おまえには渡さぬと言っているわけではない。サーティーンの価値を分けあうならばアルドのような青年こそが相応しい。
 人は業の深い生き物だ。寄り添っていてもいつかは必ず道を違える。師として誰よりも尊敬した銀町絵麗亜が宿敵として立ちはだかった原理と同じである。
 アルドもやがてクレイのもとを去っていく。悪魔になることを選択した同志であっても、運命は変わらない。いや、同志であるからなおのこと、摩擦を起こすのも早かろう。共有する道が狭さに耐えきれないのだ。
 人とはそういうもの。
 倫理があれば必ず、異を唱える者もいる。
 どうせなら、倫理などははじめから無いものとすればよい。背徳心をこらえる必要などどこにもない。
 殺しさえしなければ、サーティーンをどう扱うも担当医であるアルドの自由。それも考慮して、彼を日本に呼んだのだ。
 精神を苛もうが、身体を奪おうが、好きにするといい。むしろそうしてくれたほうが自分にとっても都合がよい。
 逃亡の意志を萎えさせ、よけいな思考回路を遮断させるのだ。研ぎ澄まされたラ・ムエルトを外部から制御するために。サーティーンを完全に支配しその心をコントロールすることこそが、ラ・ムエルトを真の意味で神とする唯一の手段なのだから。
 やはり、口で言わぬとわからぬか。
 クレイはカップの底に残った液体を飲み干そうとして、その手を止めた。
「う……あ、はあ……」
 かすかに、気づかせぬほどに小さく鉄人が苦悶の声をあげた。
 クレイはカップを荒々しくデスクに置いて、照明をつけた。網膜を刺すまばゆさをこらえながらベッドに駆け寄る。鉄人の瞳は閉じられたままだったが、顔色がいましがたとは打って変わって青白かった。
 薬によるアナフィラキシー(急性アレルギー反応)か。
 自発呼吸を確かめたが、反応がない。苦しみに喘ぐこともできないのだろう。口元にあてたままの右手を痙攣させる。
 一刻もはやく気管内挿管をする必要がある。アルドを呼び戻そうとベッドに背を向けて、ぎくりとした。
 ダストボックスに捨てた布地の上に無造作に重ねられた空のアンプルが目にとまったのだ。
「これを……投与したのか?」
 脳神経外科手術に使う毒薬。意図を確信してクレイは愕然とした。アルドはサーティーンを殺そうとしたのだ。調整呼吸を怠ったままこんなものを与えたらどうなるか、知らないはずがない。
「ア……」
 呼吸機能を失った喉元から声が絞り出された。
「ノ、エ……ル……」
 右手が口元を離れ、空を泳いだ。なにかを必死に掴もうと。

 13ラボラトリオに絶叫がひびきわたった。
 ノエルだった。
「や……あアアアッ!」
 あまりに突然のことだったので、霧流と遙兵は動くなと命令されていることも忘れて立ちあがった。
 ノエルの声は途切れなかった。苦しげに頭を振って、拘束から逃れようと必死にもがく。
「ノエル、どうした、おい!」
 遙兵が駆け寄ると、ロジェも慌ててケースを叩いた。何が起こったのかまったくわからない。室長も博士もいないときに、トゥエンティセブンに異変とは。
「鉄人、鉄人が……死んじゃうよ」
 ノエルは悲鳴をあげて訴えた。
「えっ」
「苦しい……息が、できない……たすけて、出して、ここから出して!」
 ロジェが落ち着かせようと試みたが、すぐに次の異変が起こった。ノエルの身体が左手を中心にして白く発光しはじめたのである。
 だれもが驚いてガラスケースから退いた。光は一瞬でまばゆく膨れあがり、ラボ全体を洗い流すように満たしていった。
 霧流は自分の身体を光の塊が通り抜けていくのを感じた。透明で汚れのない、圧倒的な神の意。
 あのときと同じだ。
 鉄人とノエル、ふたつの神の手が生んだ浄化の光だ。
 ただひとつちがうのは、強い怒りをそこに感じることだ。
 鉄人が死ぬ、とはどういうことなのか。ノエルはなにを見たのであろうか。
 光が急速に収束した。ちかちかする目を瞬かせて、霧流はこんどこそ驚愕の叫びをあげた。
 ノエルの横たわっていたガラスケースが跡形もなく消滅していたのだ。そこだけすっぽりと、まるで最初からなにもなかったかのように。
 ノエルの姿も消えていた。
 状況をにわかに信じることができず、前によろめいた霧流の靴をとおして、じゃりっという感触が伝わった。砂浜を歩くようなざらざらとした感覚。
 白い粉を床にぶちまけたのは誰だ、とはじめは思った。
「ケース……粉砕したケースじゃねえのか、こりゃ」
 呆然とつぶやいたロジェの言葉を霧流はごくりと呑みこんだ。
 衝撃も音もまったくなかった。ノエルを捕らえていた特殊強化樹脂ケースは一瞬で破砕され、役目の終わりを宣告されたのだ。光に驚いて後ずさっていなかったら、巻きこまれていたにちがいない。
「ノエルは、ノエルはどこへいったんだ」
 沈黙を破ったのは遙兵だ。これ以上考えられないほど必死の形相をしている。いまにもロジェにつかみかかりそうだ。
「こっちが訊きたいくらいだぜ!」
 ロジェのいらだった問いに答えるかのように、霧流が静かに言った。
「きまってるじゃない。弓ノ間くんのところだよ」
 六つの眼が霧流を向いた。
「弓ノ間くんになにかあったんだ。ぼくたちもいくよ」
 無表情でスタスタとエレベータに向かう。バーソロミューがそのあとを追った。
「バーソロミュー!」
「ロジェ、おまえも来い。そっちのにいちゃんもだ。異常があったのなら確かめなくてはいけない」
「ちっ、わかったよ。ったく、なんてこった」
 四人がエレベータに乗りこむと、バーソロミューは生体認証パネルを操作した。だがそれは正常に作動しなかった。
 訝しんで何度やってみても、エラーメッセージが繰り返されるばかり。ロジェも試してみたが、やはり拒否された。
「設定が書き換えられているな」
 それが許されているのは、クレイ博士とアルド室長のみだ。
 だが、なぜそんなことを。
「上でなにかが起こっている、というわけだな」
「くそ。ダメモトで内線かけてみるか」
 ロジェがマイクに向かおうとしたそのとき、突如ラボは爆音に包まれた。
 ローターの回転音である。ヘリが一機、ファーイースト・フィナンシャルビルすれすれまで近づいてきたのだ。
 閉ざされた窓からサーチライトが差しこんできた。六十階あたりをホバリングしているようである。
「弓ノ間鉄人、魁ノエル、そこにいるね」
 機外拡声器を使って呼びかけてきた声は、銀町絵麗亜であった。
「さっきの光はあんたらだろ。おかげで居場所がはっきりしたよ。ぼやぼやしているひまがないってこともね。こら一年坊主、燕と猛地、どうせおまえたちもいっしょだろうが。窓際から離れて、耳塞いどきな」
 遙兵はひっと声をあげた。バレている。
「グレアム・クレイ、あんたにはほとほと、堪忍袋の緒が切れた。大事な研究所のどてっ腹に穴あけるけど、覚悟はいいね。いっとくが上の階の新聞社と下の階の生命保険の説得と避難は完了したからね。いまは社員のかわりに消防士とレスキューが待機している状態さ。だから手加減はしないのでそのつもりで。イラクで活躍した最新鋭のミサイルを味わう、またとないチャンスかもしれないよ」
「おい、待てっちゅーの! ミサイルって……本気でぶっ放す気かよお」
 遙兵は青くなって腕をバタバタさせた。
 だが銀町絵麗亜に聞こえるわけがない。
 無情な宣告がびんびんと響き渡る。
「ああ、それから建物の修理代はハルモニア製薬が持つんだよ。そんくらい当然さね。あんたらが悪いんだから」
「わーっ! ちょ、ちょっとたんま!」
「ごほん。発射、一分前ぇー」
「り、りじちょうしぇんしぇい~~~~!」
 遙兵は半泣きだ。
 霧流がバーソロミューに訴えた。
「ぼくの携帯、返して。いまそれどころじゃないって、理事長に教えないと」
 ロジェの目が吊りあがった。
「返すこたぁねえぞ。もとはといえばこいつらがチョッカイ出すから、ややこしいことになったんじゃねえか」
 霧流も語調を荒げて反論する。
「ぼくたちが原因じゃないよ。きっとなにか弓ノ間くんにトラブルがあったんだ。魁くんのようすはふつうじゃなかった。弓ノ間くんと魁くんは……認めたくないけど、リンクしてるんだ。たぶん、セラフィムのせいで。だから離れていても魁くんには、わかった。ぐずぐずしてたら、ほんとうに弓ノ間くんが死んでしまうかもしれない。ぼくは、弓ノ間くんが死んじゃったら、おまえたち全員……ぜったいに、許さないからな」
 拳を握りしめて、ぶるぶると肩をふるわす。静かな炎がめらめらと燃えあがった。
 バーソロミューがうなずいた。
「坊主にゃかなわねえな。ロジェ、こいつの言うとおりだ。こっちにとっても最優先すべきはサーティーンの安否よ。上でなにがあったのか、確かめなきゃならん。それまでミサイルなんぞを撃ちこまれるわけにゃいかないぞ」
「へっ。わあったよ。わかりましたよ」
 ロジェはぶつくさと文句をつぶやきながら霧流に携帯電話を放り投げた。
 電源を入れるのももどかしく急いでコールをする。宣言した発射時間までもう十秒もあるまい。
 遙兵は祈るように天井を仰いだ。
「銀町先生? 燕です」
 祈りが通じた。理事長も連絡を待っていたのかもしれない。コール音が鳴る前に回線がつながった。
「はあ、ようやくつながったよ、このばかたれが。親父さんも心配してヘリに乗ってるんだよ。穴あき靴下も無事かい」
「ぼくと猛地くんはだいじょうぶです。魁くんもさっきまでいっしょにいました。少なくともそのときまでは、無事……でした」
 銀町の声が深刻になった。
「なにかあったね。お言い。いまの光は、なんだい」
「魁くんです。たぶん弓ノ間くんに反応したんだと思います。でも弓ノ間くんは、ここにはいません。魁くんもあの光にのまれるようにいなくなってしまいました。ぼくたちの目の前で。信じられないことですけど、消えてしまったんです」
「鉄人は」
「ぼくたちは会えませんでした。でも……ああ、説明している時間はないんだ。先生、弓ノ間くんが危ないんだよ。魁くんが、ノエルが、弓ノ間くんが死んじゃうって叫んでた。ノエルにはわかったんだ。だからひとりでいっちゃったんだ。先生、弓ノ間くんを、たすけて。ひとつ上、六十三階、そこにいるから……グレアム・クレイともうひとりの医者が、いっしょで、どちらかが、弓ノ間くんを……急がなきゃ、あいつら、弓……」
 ずっと冷静だった霧流がしゃくりあげる。
「わかった、もういい。よくがんばったね燕。あとはまかせな。あんたらは自分の身を守るんだよ。燕、親父さんより先に死ぬのは親不孝だ、いいね」
 通話が切られた。と同時に、拡声器から罵声が轟いた。
「クレイ、鉄人に手を出したらただじゃすまないよ。デキの悪い生徒ってことですませてやろうかとも思ったが、あたしを本気で怒らせたね。SATが突入する前に鉄人が無事であることを示さないと、血が流れるよ。プエルトリコのようなことは二度と起こすまいと我慢に我慢をかさねてきたけどね、もう終いさね。あたしがあんたを葬ってやる。二度とその手でメスが握れなくなるように」
 梁山泊で演説するときの朗々とした声ではなかった。悲壮な決意に満ちた、ひとりの女性の悲しみであった。
「……昔のあんたは、そんな男じゃなかった。なにがあんたを変えちまったんだい、クレイ。あの子を喪ったからか。そうなんだね」
 霧流と遙兵は顔を見あわせた。
「かわいい男の子だったのにねえ。あたしは裁判を傍聴しにいったんだよ。大学病院が裏金を使ったんだろう。ありゃ不当判決もいいところだ。気の毒なことをしたね……だからといってクレイ、あんたの誓ったことはまちがっているよ。
 そこにいる鉄人を見な。あんたの息子とどうちがうってんだい、ああ?
 鉄人を欲しがるのは、無能な医者どもに対する復讐のつもりだろ。それとも腐れきった世の中への復讐かい。どっちにしたって、鉄人はあんたのものじゃないんだよ。その子の生きかたは、その子自身で決めるんだ。生まれてきた子には、ひとり残らずそういう権利があるのさ。あたしはいつだって、おまえにそう教えてきただろうよ。
 クレイ、あんただってそうだ。あんたの生きかたは、あんただけで決めな。ほかの人間を犠牲にするんじゃない。
 それをしたら、人間としてのあんたはもう、いない」
 霧流たちはもちろん、ロジェやバーソロミューでさえもはじめて耳にするグレアム・クレイ博士の過去だった。

 空を泳いだ右手が、急激に力を失った。ベッドからだらりと垂れ下がる。
 窒息状態に陥ったのはクレイが気づくよりだいぶ前だったのだろう。アルドが理由をつけて席を辞したのは、死が急激に訪れることを確信しての行動だったにちがいない。
 脳が酸欠になればセラフィムも無事ではすまない。最悪の結果を回避するために魂の捕食行動を開始するだろうことは、プエルトリコ13ラボの悲劇で証明済みだ。だが今回は条件がまったく異なった。
 なぜ、すぐ近くにいた自分の魂を奪わなかった?
 理由はひとつしか考えられない。サーティーンが命令を発することのできる状況になかったからだ。
 薬で強制的に眠らされていた。だから対処などできるはずがなかった。ラ・ムエルトは生存することに貪欲である以上に、主人に対して忠実なのだ。
 クレイは無意識に鉄人の右手を取っていた。
「ラ・ムエルト」
 声に出して呼びかける。
「なにをしている。寝ぼけているのか。なぜわたしを喰わぬ。この子が死ぬぞ。おまえの生きる場所はこの子しかないのだぞ」
 それでも握り返さぬ右手が、腹立たしい。いますぐ処置をしても、蘇生確率が限りなくゼロに近づいていることはわかりきっていた。サーティーンを救う方法はひとつしかないというのに、ラ・ムエルトは部外者の命令をきく能力を欠如しているらしい。
「……鉄人」
 背後にその声を聞いた。なにもない空間ににじみ出るようにあらわれた、幽霊を思わせる声だった。
 クレイは鉄人の右手を取ったまま振り向いた。裸体の少年が、おぼろげな光をまとってスッと立っていた。
「トゥエンティセブン」
「クレイ博士……鉄人を返して……」
 感情を読み取れない表情で、ノエルの姿をした幽霊はつぶやいた。身体をとおしてその向こうの風景が見える。やはり幻だ、とクレイは思った。
「か、え、し、て……」
 クレイの身体が電気ショックを受けたように硬直した。
 細い両腕がすっと前に伸ばされる。両の目から涙が伝った。そのしずくは床に落ちる直前に融けるように消えた。
 少年は音もなく近づいて、死んだように動かない鉄人に添い寝するように身体を重ねた。
 クレイは強張った手を引き離すと、渾身の力をこめてベッドから飛び退いた。
 次の行動をあれこれと模索するも、身体がいうことをきかない。まるで目に見えない拘束具で縛りつけられたように、ぴくりとも動かせない。
 トゥエンティセブンの形をした光にサーティーンが包まれているように見えた。上になった少年は嗚咽していた。こぼれ落ちていくサーティーンの命を必死に繋ぎとめようとしているのに願いが届かない、そんな悲しみが強く伝わってきた。
「鉄人、ひとりでいかないで」
 そこだけ色みを帯びた瞳が幻の涙をあふれさせる。
「ずっといっしょにいるって、約束したのに……指切りげんまん、したのに。嘘つき。ずるいよ……鉄人」
 あとからあとから生まれでる涙はすぐに雪のようにはかなく消え、鉄人には届かなかった。
 ノエルの無力な唇がふるえながら揺れた。

 Cross my heart and hope to die, stick a needle in my eye.
 約束だよ ぼくは きみと 永遠に

 そして奇蹟が起こる。
 ぽつりとたったひと粒だけ融け残った涙が鉄人の額を濡らした。
 クレイはその瞬間、清らかな光が歓喜を帯びるのをはっきりと感じた。
 ラ・ムエルトと、ラ・ダムネイションの邂逅であった。
 やっと、出逢えた。熾天使たちはほほえみあい、輝きながら、手をつないだ。
 波のようにさざめくきらめきは破壊の光などではけしてない。あらゆる命を生み育む光だ。
 この世界のはじまりを照らしていた、もっとも根源にあった光だ。
 死神。
 劫罰。
 それすらも欲で濁った瞳を持つ人間が便宜上名づけた仮の名前にすぎない。
 真の姿は、それを正しく宿した者のみぞ知る。
 歓喜の光は急速に膨れあがった。
 圧倒的な祝福の世界。
 そこは音も、振動も、恐怖心もまったくない楽園であった。
 クレイは思った。
 ああ、ここにずっといたい、と。
 だがそれが叶わぬ願いであることを彼はすでに知っていた。
 なぜならばそこは、幸福に死す者にのみ与えられた安らぎの世界だから。
 グレアム・クレイは立ち去る前にひとりの少年の名を呼んだ。
 この世界のどこかにいるならば、必ずやその声は届くはずであった。
 もうそれだけで満足だった。それ以上のものを望む気持ちはなかった。

 薄い鼠色の瞳を閉じ、ふたたび開けたときには現実のみがそこにあった。
 ベッドに俯せになり、うっすらと目をあけてうつろにこちらを見ているサーティーンと、吐きだすようなアルド・リンカーンウッドの声。
「見殺しにしたのか……あなたは」
 アルドの声に激しい怒りが感じられる。
「なぜ救命措置をしなかった。あなたひとりでもやろうと思えば対処できたはずだ。ラ・ムエルトの声も聴かなかったのに、なぜ」
 クレイはかすれた声を絞りだした。
「この子は……生きている」
 アルドは棘を帯びた言葉を叩きつけた。
「生きている? ええ、そうでしょうね。サーティーンがそれをどんな思いでやり遂げようとしたか、気づいてない人の言葉ですね。サーティーンはたったひとりで戦ったんですよ? それをあなたは無神経にも、生きている、と、そうおっしゃるわけですね」
「トゥエンティセブンだ」
「はい?」
「トゥエンティセブンが、サーティーンを救った」
 アルドはいらだって叫んだ。
「あなたともあろう方が、恐怖でおかしくなったのですか。ぼくはずっと見ていたんです。あなたの部屋のモニタで。あなたはなにかをしましたか。すがる手すらも振りはらった。苦しむサーティーンを前にして、なにもできなかったじゃありませんか。あなたの命を与えることも、初歩の救命措置をすることすらも、なにひとつ」
 アルドは自嘲した。
「ええ、サーティーンに死を覗かせたのはわたしです……わたしが愚かだったのです。あなたを一時でも尊敬した、このわたしが」
 賭けは失敗した。サーティーンの瞳がなにも映していないことを、処置室に飛びこんだアルドは一瞬で見抜いていた。ラ・ムエルトもなんらかの手助けをしたのかもしれないが、サーティーンは愚かな医師にも見すてられ、孤独に死と戦ったのだ。命を繋ぎとめる代償として心を永遠に失うことになっても。
「ごめんね……サーティーン……ぼくを憎んでいいよ」
 アルドの瞳から涙が流れた。
「ぼくは、ばかだった」
 グレアム・クレイへの怒りも、サーティーンとともに朽ちたいという願いも、すべてしずくとなって落ちた。
 可愛いマウスは、二度と彼の愛したしぐさを見せてはくれまい。
 それを自分だけのものにしようとして、永遠に失ってしまった愚かさにアルドは泣いた。
 せめて。
「クレイ博士。もうこの子は必要ないんでしょう。ぼくに譲ってくださいますね」
 クレイはうなだれた。
 サーティーンの見せてくれた世界を信じる以外に、自分の歩む道は残されていないような気がした。ラ・ムエルトは自分などの手に負える存在ではない。人はどうあがいても神をコントロールなどできぬのだ。
 執着という拘束がはらりと解けた。
「どうする気だね」
「愛します」とアルドはその問いに、静かに答えた。「ラ・ムエルトを、ではない。ぼくは残された時間をこの子とともに生きて、この子とともに死にます」
 ぼんやりと、だが次第に鮮明に、クレイはそれと同じ祈りを口にしたことのある自分を思い出した。あの子を喪う日、たしかに自分はそれを神に告げた。
「……好きにするがいい」
 アルドはきっと唇をむすんで一礼し、ベッドに歩み寄った。規則的に呼吸をするだけの鉄人をやさしく撫で、もの言わぬその瞼に口づけた。


2006-03-29