運転手が急にブレーキを踏んだので、マイクコードをつなごうと手をのばしていた遙兵はあやうくひっくりかえりそうになった。とっさに補助席の霧流をクッションにして安定確保を試みる。
霧流は「いったーい」と不平をもらしたあと、「ンもう。猛地くん……わざと?」と挑発した。周囲から笑いがおこる。
「焦らなくっても、夜になったらちゃんといっしょに寝てあげるから」
「たのむからそっちに展開すんのもうやめろって!」
遙兵はマイクの頭で霧流をごうんと殴った。
三号車内にごうんという拡大された音が満ちた。
音声異常なーし。
2年になって新しいクラスの顔ぶれを見たときの、遙兵のショックが想像できるだろうか。何の因果かしらないが、いやあるいは銀町絵麗亜の策謀か、約束の黒板に名を連ねた遙兵、霧流、時雨努、経夢人、瀬音香、編駝麓がそろいもそろって、新担任遠藤璃乃あいかわらず独身四十四歳の下に集められたのである。
副担任は孤隼樹花。学年サポートとして復職リハビリ中の海神瀞偉。
「おーい司会、モメてねえでとっととはじめろよ」
最前列の席で璃乃が叫んだ。
「わあってるよ!……ったくもう、ケチらねーでバスガイドくらい雇えっちゅうの」
遙兵はぶつくさいいながら、マイクをコンコンとつついてみた。
「あー、本日はお日柄もよろしく。これからバスは一路、牡鈴学園盛度(もるど)研修施設に向かうけど、ぐあいが悪くなったやつはすかさず席のここんとこにはさまってるゲロ袋な。えー、新入生歓迎オリエンテーションの三日間、いちおー先輩なんだからバカなとこさらすんじゃねえぞ」
「猛地くんがいちばん気をつけたほうがいいね。”いちおー”クラス委員長なんだから」
「るせー燕。てなわけでいまさら自己紹介でもねえだろうけど、せっかく新しいクラスになったんだからさ、前のほうからひとことずつ挨拶してってちょうだいな。おい、マイクまわせよ」
ハンドマイクが手渡しで運ばれていくと、遙兵もようやく席に腰を下ろした。
新入生歓迎行事を海辺にある宿泊研修施設で行うのは毎年恒例となっていた。しかし今年はだいぶ様相がちがう。
あれだけ全世界にその名をとどろかせ、子どもを入学させたい学校アンケート堂々一位の評価を得たにもかかわらず、本年度は史上最悪の定員割れとなってしまった。定員九十名に対し入学希望者はわずか四十二名。そのうち合格ラインに至った者はたったの二十名。
おまけに二十名のうち十九名までが中等部からのスライドであった。
君子危うきに近寄らずという親心が見え隠れする。
日本という国はつくづく保守的なものだと遙兵は思う。
年末年始のお祭り騒ぎも、ハルモニア製薬の瓦解にともなって次第に熱を失っていき、あれよあれよという間にすっかり過去の事件として忘れ去られてしまった。
結局のところ、全世界は真実をなにひとつ知らないままですんだ。それはそれでよかったのだ。経済恐慌や戦争が起こるよりは。
今回の口止めは銀町絵麗亜の荷担する側のしわざであろう。人には知る権利もあれば、知らないままでいる権利もある。どちらがいいのかという答えはない。答えがないのだから、銀町が人々を代表してそう決定したのだ。
「霧流、トイレタイムにあれ、水切りしてあげるわ」
瀬音香が荷物棚に置かれている花束を指さした。
「こう乾燥してちゃ保たないわよ。萎れたらかわいそうでしょ」
「うん、気が利くね瀬音香」
遙兵はやれやれと呆れた。学校行事に純白のバラの花束を持参するなんてさすが霧流である。
「弓ノ間くんにあげるんだろ」と編駝麓が訊いた。
「とうぜん。真っ白っていい感じでしょ。花言葉がね、”私はあなたにふさわしい”って言うらしいよ。いやあもう、ぼくの気持ちにぴったり。弓ノ間くん、よろこんでくれると思う? うふふふ」
私があなたにぴったり、のまちがいじゃねえのかと遙兵は思った。
「でもなんだか、あのふたりがいなくなったら気が抜けちゃったわね」
瀬音香がため息をつく。
「ほんとうにもう、いないんだなあ……せっかくからかう相手がみつかって楽しかったのに」
「あれあれ瀬音香、じつは寂しかったりするんだ」
「とうぜんよ編駝麓、あんただって心のなかじゃそう思ってるくせに」
「うーん」と編駝麓は上を向いた。「そうだね。どうせならいっしょに2年生に進級できりゃよかったな」
燕組らしからぬしんみりさに遙兵もつい乗せられてしんみりモードになってしまった。
鉄人とノエルは2年生になれなかった。
ふたりも欠けてしまったチーム・マトリックスの部屋はなんだかがらんとして、いつもの元気はそこにはなかった。麻雀をするにもひとり足りないし、燕を招いて騒ぐ気にもなれないし、いつのまにか寝に帰るだけの場所となった。
元気だそうぜと自分に言いきかせても、空虚な気持ちはぬぐえない。
鉄人の明るい笑顔がそばになければやっぱりだめだ。
他愛のないダベり。暇を潰しながら過ぎていく日常。A定食B定食のおかず交換をし、小腹がすいたらファースト・フードに立ち寄って、漫画雑誌は公平に回し読み。くだらないけれどいつもそこにあったしあわせ。
遠くにいってはじめて気づいた。
(……テツ)
白いバラの香りが鼻腔をくすぐる。
白という色は、光の色だ。
だけど、ほんとうの光は――
鉄人、おまえだったな。
午前の行事とカレーライスの昼食を終えると、自由行動の時間になった。研修施設のすぐ目前には一キロも連なる砂浜がひろがり、清浄な波が砂を洗っていた。
あまり海とは縁のない遙兵たちは、喜び勇んで浜に突進した。泳ぐにはまだ早すぎるこの季節、することといえば波打ち際で水をぶっかけあってはしゃぐくらいだが、それでも楽しいことにはかわりはない。
「うっひょ~っ、冷てぇ!」
裸足になったはよいが、足はすぐ感覚を失って鳥肌を浮きあがらせた。海水浴の時期なら人も多いだろうが、いまは沖に数名のボディボーダーがいるだけである。
「でも真夏みたいだな、見てみろよこの海の蒼さったら」
「ここは水がきれいなんだろうね。まだまだ日本の海もすてたもんじゃないなあ」
経夢人も感心する。
それにしても、沖のボーダーは寒くないのだろうか。いくら防水のフルスーツを着ているからとはいえ、ずぶ濡れでよく運動ができるものだ。
遙兵は眼を細めた。
どヘタクソ、一名発見。
ビーティングからテイクオフしようと必死にがんばっているのはいいが、あれではまるで丸太にしがみつくカメだ。波にのまれては姿を消し、忘れた頃に浮きあがってくる。
誰でも最初は初心者なのだから、笑ってはいけないが。
なにもそこまでムキにならなくてもよいのではないかと。
研修所のほうからジャージに着替えた霧流が走ってきた。手には例の花束を持っている。
波打ち際にバシャバシャと足をつっこみ、その冷たさに歓声をあげて、バラを海に投げた。
バラはベルベット・シルバーのリボンで軌跡を描いて、蒼い海に落ちた。
「ゆみのまくーん!」
世界の中心で、愛をさけぶ――ではないけれど、霧流はどこまでも蒼い海と空に向かって叫んだ。
純白の花びらが波間をただよう。
地球の鼓動にゆらゆらとゆらめいて。
小さな光がそのまわりをいたずらな天使のように舞った。
きら、きら、きら。
手のひらが水といっしょにそれをすくいあげる。
光がポタポタとこぼれて落ちた。
ボードを小脇に抱え、右手につかんだバラの花束を空にむかってかかげる少年。
「オラ(やあ)!」
弓ノ間鉄人は友人たちに向かって、ラテン系投げキッスを贈った。
ボード・スクールのコーチが浜辺に用意してくれた焚き火を囲みながら、鉄人たちは久しぶりの再会にわいた。
大腿骨及び肋骨骨折で全治3ヶ月と聞いていたが、リハビリついでに波乗りとはいい度胸である。
高等部を1年で中退し、鉄人は京東大学医学部の盛度研究所へ。ノエルはスノウとともにプエルトリコへ帰国し、国立医科学研究所の研究員として招かれた。
もう高校生を演じる必要もなくなったからだ。ハルモニア製薬プエルトリコ研究所から救出された被害者たちを、社会的に救済する手だてを考えること。それが今後の道であった。
「いま、どうしてんの」と遙兵が訊いた。
「ンー、患者さんと研究員の一人二役。休みの日は波に乗ったり」
「波に遊ばれたりのまちがいだな」と時雨努。
「ほっとけ。でもまあ、それなりに楽しいよ」
「プエルトリコに帰らないのかよ、おまえは」
遙兵は少しだけうつむき加減になった。
鉄人はうなずく。
「日本でしかできないことだってあるだろ。でもいちばんの決め手は納豆だ。あれと味噌汁の存在しない国は、ダメだ」
「ナットウキナーゼに大感謝だね。おかげでこうやってまた会える」
「ネバネバ同盟かよ、ヘルム。いいな、それ。ハハハ」
遙兵はほっとした。よかった、明るい。いつもの鉄人だ。
銀町財閥の私設軍隊に雇われた超一流のスタント・パイロットが、我が身の安全を省みずホイストケーブルを振り子のように使い、ふたりまとめて一世一代の空中キャッチをしてみせたはよいものの、反動で外壁に激突。三名とも重傷を負って宙づりのまま救急搬送されたのだ。
逃亡を図ったグレアム・クレイとアルド・リンカーンウッドの所在はまだわからない。
ICUでも手と手を離そうとしなかった鉄人とノエルが、こんなにもあっさりと別離の意志を示したことに、遙兵はずっと疑問を抱いていた。
けらけらと笑ってはいるが、カラ元気なのかもしれない。そういうふうに考えだすと、思考がとまらなくなる。少し元気すぎるような気もするし、新しい人間関係を一から築くのもけっこう大変だろうし。
「なあ、学校に戻らないか」
鉄人はきょとんとした。
「あ、いや、テツにとっては高校の授業なんてバカバカしいだろうけどよ、高校生できんのっていましかないんだぜ。そりゃ、その……身体的にはいつでもできるだろうけどよ、おれたちと同級生ってのは、ほんと、いましかないと思うんだよな」
鉄人はふっと笑って、言った。
「ありがとう。でもごめん、ハー。おれが決めたんだ。新入生、はいったろ。あいつらには魁ノエルも、弓ノ間鉄人も関係ない。そんな人間はいなくてもいいんだ。残すのは、全員で難しい問題を解決したっていう自信と伝統だけでいい。おれ、もう学校ですることは終わったから、これからは自分のためになんかやってみる。このまんま諦めてただ生きていくのはすげえ癪だし。なんだかさ、いまがいちばんがむしゃらって気がする。やんなきゃ、って思うんだ」
声にはなんの迷いもなかった。力強く、輝きに満ちている。
鉄人は生まれてはじめて、希望を手にしていた。
その前では、学園までの距離も、プエルトリコまでの距離も関係ない。
ぱちぱちと爆ぜる薪に手をかざしながら、鉄人はじんわりとしみわたるあたたかみをとても嬉しいと思った。
右手を握ってみる。
ひらいてみる。
また握ってみる。
「おれの力だ。なんだってできる」
遙兵はもうなにも言うことはなかった。遠い海の彼方にいるノエルもきっと鉄人と同じことを思うのだろう。
霧流がふと思いついたように、提案した。
「ねえ……せっかくだから、校歌、うたわない?」
同意を求めるより先に、霧流は朗々と歌いはじめた。
「かぜひかるー、牡鈴の丘に、われらありー」
遙兵もがなりはじめる。
「水のほとりをぉ、いずまいにィ。うりゃ、テツも歌えよ」
濡れた背中をぽんと叩く。
鉄人は笑った。
「えっと、そらのまにまに、ひかりたつ……だったっけ」
「そう! あまたの手と手、とりあって」
右と左から、時雨努と経夢人の手がのばされた。ぎゅっと握られる。
少年たちはひとつの輪になった。
「八千代にきざせ、りんりんと!」
うちよせる波のリズムを伴奏に、合唱はいつまでも終わることなくひびきわたった。
私立牡鈴学園 校歌
- 風光る 牡鈴の丘にわれら在り
水の滸りを 居ずまいに
宙(そら)の随(まにま)に 光たつ
数多の手と手 とりあって
八千代に萌(きざ)せ 凛々と - 風薫る 牡鈴の丘にわれら在り
水の滸りを 居ずまいに
千尋(ちひろ)の願い とこしえに
あまねく知行 つみかさね
八千代に昇れ 悠々と - 山粧う 牡鈴の丘にわれら在り
水の滸りを 居ずまいに
神の意賛美し うけ継ぎて
あやなす月日 感謝する
八千代を擁せ 連々と - 氷柱(つらら)凍む 牡鈴の丘にわれら在り
水の滸りを 居ずまいに
睦み笑いて 共鳴(ともな)きて
さやけき希望 かたりあい
八千代を覆え 深々(しんしん)と
インビジブル・ハンド end
2006-02-22
