けたたましいサイレンが夜の静寂を引き裂いた。学園の敷地をぐるりと囲んでいたパトカーが一斉に外へ向かって動きだしたのだ。
パジャマがわりのジャージに着替え、ごろりと横になっていた遙兵ははじかれるように布団から飛びだした。時雨努と経夢人が同時にドアを蹴って叫ぶ。
「なにがあったんだ!」
むこうから霧流が走ってきた。
「上だよ、上! 外、外」
我先にと階段を駆けのぼる。騒ぎに驚いた生徒たちも次々に部屋から顔をのぞかせた。
地下二階で銀町理事長と警察官たちが声高に話をしているところに出くわした。
「たしかに弓ノ間鉄人でした! 制止したのですが話も聞かず」
「あんたらSATが何個中隊も見張っておきながら、鉄人ひとり止めることもできなかったってのかい!」
「だからほら、とにかくネズミのようにすばしっこくて。ああ、それからアーチェリーの矢のようなもので我々に攻撃を仕掛けてきまして。あっという間でした」
「あいつ、うちの部室勝手にこじあけたね」
ぷうっとふくれたピンクパジャマはアーチェリー部の某雁瀬音香だ。
「ともかく全市に緊急配備を敷きます。学園の皆さんはここを一歩も動かないでください。警視総監の名において待機を命じます。それからなにがあったのか理事長さんからご説明を」
SAT中隊長、加藤理名の言葉を銀町はさえぎった。
「動かないわけにはいかない。待つあいだにあいつらはもっと無謀なことをする」
「ですが! 我々も正確な情報を上に伝える必要があります。この事件は重大な国際問題をはらんでいます。へたをしたらアメリカとの係争、いえ、戦争に発展します。日本を第二の湾岸にするわけにはまいりません。どうかそのことを念頭に、事を慎重に進めてください」
「加藤」と銀町は低く威嚇した。「あんたに、タイム・イズ・マネーを教えてやるよ。リアルにね。いますぐ上とやらにつながる無線機をひっつかんで梁山泊に加わるといい。正しい戦争のやりかたが見られるかもしれないよ。あんたも中隊長なら、いかした机でふんぞりかえってる腹の出っぱったお偉いさんじゃなくて、有能な部下を動かすんだね。わかったら返事」
加藤はびっくりして、つい「はい」と言ってしまった。
「よし。鉄人の居所なら、あの子に持たせた携帯電話が教えてくれる。今度のにはGPS機能がついてるから、あたしの部屋の端末から特定できるよ。あの子は妙なところが世間知らずだから気づいちゃおるまいけどね」
「子どもの迷子機能ねえ。弓ノ間くん、ナイスボケ。かっわいいなあ」と霧流。
「よし、いまから理事長室を作戦本部、大ホールを戦闘員の待機場所とする。腹が減っている者はいまのうちにメシを食っておけ。まだ寝ている大物は無理に起こさなくてもよい。ただし教師陣は全員たたき起こせ。加藤、市民を不安にさせるな。サイレンは控えろ。それから穴あき靴下」
「猛地遙兵! ったく、いつになったら覚えてくれんだよ先生」
「面倒だからタケでいいな。よしタケ、鉄人に連絡を取れ。あんたが訊いたほうがわけを話すだろう。ただし、へたに刺激をするな」
「ウス! ちょっと携帯とってくらあ」
遙兵は走っていった。
入れ替わりに端末をチェックに行った遠藤が戻ってきた。
「弓ノ間は北に向かってるようだな。速度から見て、徒歩かあるいは走ってやがるかだ」
「よし、そのまま追跡を続けて逐一報告してくれ」
「あいよ」
銀町は少し考えて、加藤に向き直った。
「加藤、SATを退かせろ。鉄人をみつけても確保するな」
「で、でも」
「もうひとりも行方不明なんだよ。家出ですむならいいけどね、どうやらそういう雰囲気でもなさそうだ。警察の介入でノエルが危険に陥る可能性もある。先走るな」
「ああ、なんてこと! 了解……しました。すぐに通達します」
加藤はぴしっと踵を鳴らして敬礼した。
銀町は声を張りあげた。
「取り越し苦労ですめばそれでよい。そんかわりいまは戒厳令だ。気を引き締めるんだよ!」
「はい!」
梁山泊にふたたび緊張の色がみなぎった。
無我夢中で学園を飛び出したはいいものの、そのあとの騒ぎがこれほどまでとは思わなかった。自分が第一級の要警戒人物だということを失念していた。
狂ったように走りまわるパトカーにみつからないように建物の陰から陰へと移動しながら、鉄人は北へ向かった。国道は目立ちすぎるので出られない。どのあたりを走っているのかすでにわからないが、方向はたぶんこれであっているはずだ。
ぶるっと身をふるわせる。汗が冷えて凍りつきそうだ。上着をとってくることも考えなかった。パーカーとカーゴパンツだけの軽装で靴下も履いていない。
おまけに慣れないアーチェリーで失敗して左手の人差し指を深くえぐってしまった。口にくわえていたら出血は軽くなったが、ずきずきと痛む。
途中の自動販売機でホットコーヒーを買った。飲む目的ではなく、かじかんだ手をあたためるためだ。じんわりとしみわたるぬくもりに気を取り直して、鉄人はまた前を向いて走りだした。
ノエルにメールを返してみたがまだ反応はない。鉄人は確信してしまった。ノエルが捕らわれた。何者かに地下ゲートから連れだされたのだ。
手がかりはただひとつ、ファーイースト・フィナンシャルビルである。
おそらくは鉄人を陥れる罠だと思う。あまりにも単純な構図だ。単純すぎるがゆえに、現実的で切迫している。
自分が駆けつけてどうするというのだろう。銀町に相談してからでも遅くはなかったのではないか。
幾度も連絡をとろうとして立ちどまり、やめた。逡巡しているあいだに取り返しのつかないことになるかもしれない。グレアム・クレイは時を待たないだろう。
ノエルをバラバラにすることくらい、すぐにやってのける男だ。
「くそ、間にあえよ」
お巡りさえ鬱陶しくなかったら、ヒッチハイクでもなんでもしたのに。まだはるか遠い目的地を頭のなかで反芻する。
ファーイースト・フィナンシャルビル、展望台。
気が急く。
そのときポケットの中で携帯電話が鳴った。
Mr.マリックのテーマは遙兵専用に設定した着メロだ。
足を止めることなく通話ボタンを押すと、遙兵のがなり声が飛びだしてきた。
「テェェエエエエェツ!」
「……ンだよ」
「ったく、こっちがどえらい騒ぎになってるちゅーのに、どこほっつき歩ってるんだ。理事長も警察もカンカンだぜ。いまどこだ。迎えにいってやろうか」
「ああ、いまそれどころじゃないから……先に寝てていいよ」
「なあ、話がカンペキに噛みあってねーぜ、ボケナス!」
耳がキンキンとした。
「テツ、ひょっとしてまたおまえだけでコトを解決しようって思ってねえか? どうしてそう、人に頼らねえんだよおまえは。先生や警察がいやだったらなんでおれに言わねえんだよ。おれ頼りないか。巻きこむのいやか。ケッ、いまさらだぜ。なんべん同じこと言わせたらお利口なノーミソに浸透するんだよ。バッカかおまえ」
「ちぇ、ハーまでバカバカって。先生じゃあるまいし」
「バカそのものじゃんか! なあテツ、おれいま部屋からかけてんだよ。誰も聞いてねえ。なにがあった。助けがいるか? どこに行こうとしてる。まさかその、ハルモニアのとこじゃねえだろうな」
鉄人は速度を少し緩めた。息があがっていく。
「……その、まさかかもしんない」
「ちょい待て!」
「悪ぃ、ノエルがたぶん、ヤバいんだ。待てない」
「ヤバイって、まさかやつらにつかまったのか」
「わからない。でもその可能性は高い」
「だから助けにいくのか」
「そのつもり」
「おれたち無視してか」
「無視したわけじゃない。それどころじゃなかった」
「それを世間一般じゃ無視っていうんだよ、バカ」
「……ごめん」
遙兵のため息が聞こえた。
「謝ってすむ問題かよ……たく、おめーはよ、コンコンチキの鉄砲玉め」
サイレンの音が遠ざかったような気がした。鉄人はふたたび足を速めて大通りに出た。
人の姿はまったくない。店舗はすべてシャッターが閉じられている。
鉄人はすっかり冷めてしまったコーヒーを道路端にぽんと置いた。
また遙兵が話しはじめた。
「場所はどこだ、テツ」
鉄人は少し沈黙して、ためらいがちに言った。
「学校からまっすぐ北。カップルで夜景を観るには最高のとこ」
「はあ?」
もうすでにそのビルの航空障害灯を視界にとらえている。あとはまっすぐそこへ向かうだけだ。ノエルが待っている。
「ノエルからデートのお誘いがあったんだ。邪魔すんなよ」
「なにいってんだテツ。またいかれちまったのか?」
「ハー、いままであんがとな」
「テツ! もしもしもしもし? ンだよ、そのいい方」
「ばいばい」
「あっ、おい! お……」
鉄人は通話ボタンをオフにした。すぐにMr.マリックのテーマががんがんと流れたが、ポケットにつっこんで音を堰きとめた。
梁山泊では新たな騒動が持ちあがっていた。
燕魚太の経営する店で発砲事件が起き、一名が負傷しているとの連絡がはいったのである。通報者は姿をくらましたらしい。負傷者は病院に搬送されて容態は不明だが、現場に残された免許証から牡鈴学園の教師、海神瀞偉と推測された。
「おれと息子はずっと梁山泊に詰めている。ラプソディアは今年にはいってからまったく営業をしていない。無人のはずだ」
燕親子のアリバイは警察みずからが証明できる状況だったので、事情聴取は先延ばしにしてもらった。
銀町は教師数名に命令して病院に向かわせると、魚太に訊いた。
「海神教諭はあなたの店とはつながりがあったのかね」
「はあ、まあ……彼なら店の鍵を持っていた可能性はあります」
もと管区警察局幹部の武暗凝沌が補足する。
「凶器が店内で発見されなかったので、犯人が所持したまま逃亡したと考えられます。通報者と犯人が同一人物の可能性もありますな。海神先生から直接わけをきくことができたらよいのですが、現場担当官によると搬送されるとき意識がなかったということで、あるいは……」
「武暗、憶測は禁物だ」
銀町がぴしゃりと言った。
「失礼しました」
魚太はいつになく神妙な顔つきで、腕を組んだ。
「報復……かね」
そのつぶやきを銀町は逃さなかった。
「マフィアの見せしめってやつかい。あんたじゃなく海神先生を狙ったってことは、内情をよく知っている人間のしわざかもしれないね」
「ええ、そのとおりなのですが……それならばなぜ、わざわざラプソディアで。いや、むしろこれは」
「あんたも不思議に思うかい。思ってることを当ててやろうか。海神先生がマフィアの報復を恐れて梁山泊を裏切った。あっちの誰かがたぶらかしたってとこかね。ノエルを拉致したのも彼だろう。燕の店ならおびき出しやすい。だが、店内で何者かとトラブルになった。どうだい」
「驚いたな。まったく先生のいうとおりだ」
「口止めのために撃ったのなら通報はするまいよ。はじめから処分する気だったのだろう」
「銀町先生、憶測でものを言うのは」
「武暗、これは憶測ではない。いまある情報から導きだした解答だ」
武暗凝沌は頭を垂れた。この人にはかなわない。
「だとしたら、魁くんは」と魚太。
「連れ去られたんだよ。銃を平気でぶっ放すような連中にさ。十中八九、ハルモニアと見てまちがいはないだろう。鉄人がぶっとんでったのも、それで説明がつくじゃないか」
銀町は天を仰いだ。
「携帯電話ってのも便利なようであんがいくせ者だね」
そこへバタバタと遙兵が走ってきた。ぜいぜいと息をはずませている。
「先生マズイぜ、テツ、マジギレしてやがる! プッツン状態でとりつく島もねーよ。切られちまってからデンワかけてもかけても出ねーし、本気でひとりでノエルをたすけにいくなんてほざいてるし。なあ、やっぱとっつかまえたほうがよくねえ? おれだったらなんぼテツにののしられてもいいからさ、たのむよ、あいつ止めてくれよ、なあ!」
「理事長、やはり身柄確保を優先に」
立ちあがりかけた加藤を銀町は手でとめた。
「鉄人がやると決めたのならそれでよい。手を出すな」
遙兵が怒鳴った。
「テツが、死んじまってもいいのか、あんたは!」
あたりがシーンと静まりかえった。
「しっ、信頼するのはおおいに結構だけどよ、あんた、テツがそんなに強い人間だと本気で信じてんのか? アタシが目をかけた子だからぜってー負けねえってか。へっ、笑わせやがんぜ。あんたよ、テツのどこ見てんだよ。いままでテツをなんだと思ってたんだよ。がんばれがんばれがんばれって責められつづけて、テツだってほんとはずっと逃げたかったんじゃねえのか。あいつよ、あんたが考えてるよりずーっとずーっと脆くて、弱っちいやつだよ。だれかがたすけてやんなくてどうするよ。あいつだけにでっかいこと押しつける気かよ。あいつにしかできない、あいつにしか解決できない、ほんとにそうなのかよ、ええ?」
遙兵の剣幕に誰もが言葉を失った。
「あいつ……こんどこそ、玉砕する気だよ」
遙兵の顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「ばいばいだなんて、いいやがって……なにがいままでありがとうだ、くそっ、テツ、テツ、テ……」
「遙兵、もういい、もういいよ」
時雨努がとめた。その顔も怒りの色に染められている。
「銀町先生。それでも待機しろという命令ならもうきくことはできません。いつもいつもぼくたちは待機。待つことにも意味はあると思いますけれど、先生もおっしゃったじゃないですか。待つあいだにノエルと鉄人はもっと無謀なことをするって。いまがまさにそうですよ。動けるときに動かないのはあきらかに失策です。鉄人とぼくたちを別格扱いにするのはやめてください。ぼくたちは全員でノエルを救出します。梁山泊とはそもそも、そういう組織ではないのですか」
優等生の時雨努、一世一代の抗議であった。
「それとも高校生だからってナメてんのかな」と経夢人。
ついでに燕霧流がにっこりと黒っぽくほほえんだ。
「ふふん、オトナの負けだね。未来を担う若人にパワーで勝てるわけないよ。こうなったらもう全員で魁くんをお迎えにいくしかないんじゃない? とっとと場所つきとめてさ、そうしようよ。こないだ乗りこまれたから、お返しに乗りこんじゃうってのステキだよね。出入りってそういうもんだよ。ねえ、パパ」
「うむ」
うむじゃありませんよ燕魚太さん、と時雨努は一瞬だけ脱力した。
銀町は呆気にとられていたが、やがてくっくと笑いだした。
「あきれた連中だね、ほんとに」
遙兵はぎろりと銀町をにらんだ。
「穴あき……いや、猛地遙兵。おまえの言ったとおりだ。鉄人のことはあたしよりあんたや、そこのジャン仲間のほうがよく知っている。あたしとあの子のあいだにはね、埋めることのできない距離ってもんがあるのさ。それをあんたらはあっさりと埋めちまう。うらやましいことだ。鉄人もノエルも、あんたらという友だちがいたからこそ這いあがってこれたんだよ。あの、なにもかも諦めた眼をしてた鉄人が、自分が犠牲になることで解決しようとしていたノエルが、心から笑うようになったのはあんたらがいたからだよ。あたしが拾ってやったからじゃない」
寂しそうにふっと息を吐く。
「梁山泊軍、覚悟はいいんだね。こっから先は死人が出るかもしれない。ほんとうについてきたい者だけついてきな。武器も許可する。将来の約束は悪いがしてやれん。よって離脱は自由。自衛隊を説得しているひまはありゃしないだろうから、銀町財閥の私設軍隊を動かす。SAT、全員で命令違反なら覚悟も要るまい」
加藤は硬直してロボットのようにかくかくうなずいた。
「遠藤先生、鉄人はいまどのへんにいる」
「隣町ですかね。あいかわらず北へ向かってます」
「北の、カップルで夜景を観るには最高のところ」
遙兵がつぶやいた。
「カップルで、夜景?」
「テツが、そういってた。ノエルとデートするって」
「デート、夜景、カップル……あ、まさか」と霧流。
同時に思い至った数人が唱和した。
「ファーイースト・フィナンシャルビル」
銀町は端末のキーを叩き、検索をかけた。
「去年建造された七十階建ての超高層ビル。なかにはいってるのは……」
画面のスクロールがぴたりととまった。
「……これだ」
六十階付近の上下に、九六九大学医科学研究所の文字があった。
「燕さん。これはハルモニア製薬とつながりはあるのかい」
「よくは存じません。ですが、新薬開発で技術提携をした可能性はおおいにあります」
銀町は受話器を手にした。かすかにコール音がきこえる。
「牡鈴学園の銀町だ。夜分申し訳ない。スノウ・フィンガーフートにつないでくれないかね。至急だ」
五分ほど待たされて、ようやく相手が電話に出た。
「寝ていたところをすまないね。スノウくん、ラボで日本の九六九大学と行き来はあったか知りたくてね」
少しして、銀町の顔が曇った。
「……なに? ふん、そうか。道理で。ああ、ありがとう。ゆっくり休んでくれ……え?」
スノウは電話越しにきっぱりと言った。
「ぼくもそちらに行かせてください。あれからずっと考えたんです。迷っていて、まだ結論は出ません。けど迷うことがこんなにつらいなら、当たって砕けた方が気が晴れるかもしれない。ノエルのことは……許せないけど、でも、やっぱりいちばん狂ってるのはハルモニアだと思う。だからぼくもリョーザンパクにいれてください」
銀町はにやりと笑って言った。
「上等だよスノウ・フィンガーフート。名簿が一名分だけ空いている。あんたの名が刻まれる運命だったのかね。そのへんの刑事に、銀町の命令だと言って連れてきてもらえ。いますぐにだ。九六九大学の内情についてはどうやらあんたがいちばん詳しそうだからね。仕事はいっぱいあるよ。ぼやぼやすんじゃないよ」
「はいっ!」と元気な声が返ってきた。
電話が切れると、モニタを凝視していた遠藤がうめいた。
「弓ノ間はもうビルの真下だ。くそ、とっつかまえるにしてもまにあわねえぜ、どうするよ」
「方法はいくらでもある。焦るな。考えるんだ。頭を使え」
銀町はガウンをひるがえして立ちあがった。
「学園、SAT、軍、それぞれみなできることをするんだ。それと、勇気ある生徒に伝えろ。いますぐ適当なやつとカップルになれ。これからファーイースト・フィナンシャルビルまで夜景、いや、朝焼けを観に、集団デートを敢行する。加藤、覆面パトでかまわないからありったけの車を提供してくれ。遠藤先生、あんたも孤隼先生あたりとくっついて、つきあいな。一生に一度のデートになるかもしれないから気合いをいれるんだよ」
目前にそびえ立つ巨大な建造物に、鉄人はぞくりと身体をふるわせた。スニーカーは融雪を吸いこんでずっしりと重く、裸足の指先は感覚がすでに奪われている。
エントランスを上がり、自動ドアをくぐった。こんな真夜中に人のいるはずもないだろうと思いきや、けっこうな人数がたむろしている。それも男女がいちゃついて。
夜景を望めるバーが終夜営業しているほか、最上階にある展望台も二十四時間開放されていた。日中はビジネスマンがぞろぞろと行き交うフロアも、この時間はカップルだらけだ。
何人かが異様な様相の鉄人をじろじろ見た。鉄人は無言でエレベータホールに向かった。
各階に停まるボックスを通り越し、スカイラウンジ直通と書かれた場所に並ぶ。ほかにも五、六人が電光灯の下りてくるのを待っていた。
いまになって足がどうしようもなく冷たい。暖房が頬を撫でるのがちっとも心地よくない。動悸がおさまらず、めまいでよろめきそうになる。
「きみ、どうしたの。だいじょうぶ」
いきなり知らない男に声をかけられた。家出少年とでも思われたのだろう。鉄人はとっさに口からでまかせを吐いた。
「上で親が待ってますから」
男は安心したように離れていった。
1の文字が明滅し、ドアが音もなく開いた。
鉄人は内部の構造に驚いた。展望エレベータだ。地上六十九階まで外を観ながら上れというのか。
カップルの女性が「うわあ、きれい!」と感嘆の声をあげた。鉄人は目をドアのほうへ向けて、外を見ないようにした。不安と焦燥で酔ってしまいそうになる。
電光数字盤は10の文字までスルスルと駆けのぼったあと、ドットに省略されてさらに加速した。振動はほとんど感じられない。身体のふるえのほうが大きいくらいだ。
耳がキーンと鳴り、鉄人は唾をごくりと呑んだ。
胃がむかむかし、わずかに吐き気がする。
ブレーキがかかり加速が弱まった。すぐにチンという軽やかな音がして、機械の声が「スカイラウンジに到着しました」と言った。
ドアが開くと、その向こうは人だらけだった。
こんな時間に、みんななにをしているのだろう。足元に光り輝く偽りの美しさを観て、なにを思うのだろう。
鉄人は背中を押されて、外に押しだされた。すばやく周囲に目をやる。自分に注目している者はいない。
よろよろと数歩進んだ鉄人の目に、荘厳な風景が飛びこんできた。
宝石箱をひっくり返したようなとはよく言ったものだ。人々の生活が織りなすイルミネーションに鉄人は絶句し、窓に額を押しつけた。
すごい。
これがいま歩いてきた街。
凍えながら、怯えながら歩いてきた暗闇が、こんなにきらきらと輝いている。
このひとつひとつが、誰かが灯したあかりなんだ。
窓をずっとたどっていくと、南の文字が書いてあった。その先を見る。牡鈴学園があるはずだ。
学園は判別できなかったが、駅らしいものがはるか遠くに見えた。いつも利用する私鉄の駅にちがいない。鉄人はガラス窓に指をすべらし、記憶のなかの地図をたどった。
あのあたりが並木通り。マックがあのへんで、学園はもう少し手前、そう、あそこ。
楽しかった。
友人たちがいた。
鉄人は、ぽつぽつとまばらなあかりのともるエリアをじっと見つめた。
携帯がメールの着信音とともにプルプルと振動した。
開けてみる。
受信 まんじゅう怪人 03:51 夜景は満喫できた? 下で落ちあおう
翻弄するつもりだろうか。鉄人はきゅっと唇を噛むとエレベータに向かった。こんどは乗る者はいなかった。
開閉ボタンを押す。ボックスは鉄人を閉じこめたあと、スルリと動きだした。最初はゆっくりと、だんだんと加速して。
だが加速は一瞬だった。
ブレーキがかかり、どこかの階に停止した。
自分はなにも操作していない。それにこれは一階と展望ラウンジを往復するだけのはずだ。
ごくりと唾を呑みこんだ。ドアがスッと開かれる。
まばゆい蛍光灯のあかりに一瞬、目がくらんだ。目を伏せた視線の先に、複数の足が見えた。
ゆっくりと顔をあげる。
白衣の男たち。
「おかえり、サーティーン」
アルド・リンカーンウッドがふわりとほほえみ、鉄人に手を差し伸べた。
2006-02-19
