「ブェノスディアス、ドクトル・クレイ。朝から残念な報告をしなくてはなりません」
十三時間先のあいさつを慇懃にして、アルド・リンカーンウッドは国際電話の受話器を握り直した。手のひらに汗をかいている。疲労の色が濃く浮かんだ表情は、重く暗い。
血液の点々とこびりついた白衣の前ははだけられていた。
「ナンバー12が死亡しました」
簡潔に、起こった事実のみをまず伝える。
「そうか」と答えが低く返された。
専従医のクレイ博士が日本へ向かって飛びたった後、検体のひとつが重篤な機能不全に陥ったことはけして主治医グループの不手際ではなく、ナンバー12のセラフィムに変異が起こったためだ。あるいは遅れてあらわれた拒絶反応だったかもしれない。
変異は急速に進行し、あっけなく終末を迎えた。
生体情報監視装置が心肺停止を告げるより先に、アルドは検体の頭部にメスを入れてセラフィムとグリア細胞を摘出した。予想に反してそれは病変などしておらず、正常なシグナルを放っていた。
「セラフィムの凍結保存は間にあったのだな」
「はい。培養実験に回していた分もすべて回収しました。そのほか必要と思われる組織もサンプルとして採取してあります。わたくしの判断で行いましたので、ミスがありましたら弁解のしようもございません」
「いや、よくやってくれた。きみはとても優秀な医者だよ、メディコ・アルド」
恐縮する青年医師にふたたびねぎらいの言葉をかけてから、クレイは受話器を置いた。
悪いことは続くものだ。セラフィムが無事だっただけでも救いか。
臨床段階に移せる完全セラフィムは27体分しか存在しない。あとは人工ニューロンとの相性をテストするプローブ・オペ用のダミーセラフィムがあるだけだ。ほとんどのマウスはこのダミーにすら抗えず死んでいく。
ようやく27個の定着すべてに成功し、リスク因子も最終ナンバー以外には認められず、新たなマウスを補充する必要もなくなったというのに。
ナンバー12の離脱はいやな兆候だった。予測もしなかった事態である。
安定しているはずのセラフィムが前触れもなく突然変異を起こすシステムを、知の総力をあげて追求する必要がある。一刻も早くラボへ戻らねば。脱走した二匹のマウスをからかって遊んでいる場合ではない。
一匹は、変異原性試験にうってつけのできそこないだ。残る26のセラフィムを解明しコントロールするために、27番目にはバラバラになってもらう。
だが、重要なのはもう一匹、ナンバー13。最年少成功例のオスのマウス。
逃亡を謀った際、ナンバー13はラボに医学では説明のつかない物証を数多く残していった。
変死体である。銃で撃たれたわけでも、刃物で切られたわけでもない。累々と横たわるおびただしい数の犠牲者を剖検した結果、信じられぬことに、全身の細胞という細胞が老化による末期的分解を呈していたのである。
手引きをしたうちの誰かが、細胞を死に追いやるなんらかの生物化学兵器を保有していたのであろうか。
いや。
(ナンバー13の仕業だ)
クレイは直感した。
兆候はあったのだ。とどまるところを知らず加速度的に伸びていく臨床試験の評価もさることながら、このマウスが他例には見られないある特性を示しはじめたことに研究者たちは注目していた。
議論に議論をかさね、導きだされた仮定を証明するために、さらなる時間と研究の慎重かつ精密な持続が求められていた。
そう。ナンバー13は脳外科医グレアム・クレイ博士にとって、神の域すら侵犯しかねない大いなる目的を達成するための最重要研究課題になり得たはずなのである。
ようやくゴッド・プロジェクトの足がかりがつかめたのだ。いま頓挫するのは愚の骨頂である。
(逃がしはしない)
必ずや檻の中に連れ帰り、必要とあらば末梢運動神経を破壊して、永久に縛りつけてやる。
ナンバー13セラフィム、『ラ・ムエルト(死神)』。
熾天使に選ばれし以前は、たしかテッドと呼ばれていたか。
クレイは神経質な笑いを漏らした。マウスに個も尊厳も不要。与えるものは識別するための記号だけでよい。
ナンバー13という識別記号を刻んだブレスレット状のタグを、クレイは山積みになった死体のわきで偶然みつけた。絶対にはずれないはずのそれは、超高温の熱で灼き切られたかのようにふたつに割れていた。
監視用の熱感知センサーはまったく作動していない。戦闘の真っ最中に、たとえばレーザー光エネルギーなどで高精度に切断したとは考えにくい。第一、手首にダメージを与えずに熱切断することなど不可能である。
だとしたら、ナンバー13が最新鋭の永久監視から逃れたすべはただひとつ。
死神の鎌が断ち斬った。
マウスがセラフィムを制御しているのか、セラフィムがマウスを操っているのか。いずれにせよ、こうなることは予測して然るべきだった。ラ・ムエルトは単にカオスを増大させたり、細胞の老化スピードをコントロールするだけの存在ではない。
体外の事象に危険な影響を及ぼす外因子として、戦慄すべき破壊力を内包しているのだ。
我々は神の掌の上で人間兵器を生みだした。
惜しむらくは、他者に渡るまでその奇蹟に気づかぬ愚かさよ。
しかし、マウスは穴蔵に追いつめた。
罠を仕掛けて愉しみに待つつもりだったが、事情が変わった。
こうなったらリスクはあえて回避するまでもない。火を放って燻りだす。賢い白ネズミは捕まえられなくとも、ドブネズミが捕獲できればおびき出す餌になる。
クレイは色素の薄い瞳を武装警官隊に向け、にやりと嗤った。
「わたしを感じるかね、ナンバー13、ラ・ムエルト……」
狂おしいほど愛しく、手にいれがたいが故に恋しい、第一級の芸術品。
医学のみならず、生の概念そのものをパラダイムシフト(覆す)する、究極の美。
その瞳、その血液、その細胞、そのDNA、その原子のひとつひとつまですべてわたしのものだ。
渡さぬぞ。
エレノア・ギンマチ。あの驕慢な捕食者には。
「鉄人、ドクター・リンカーンウッド……知ってるよね」
ふたりきりになったとたん、ノエルが待ちかまえたように話しかけてきた。
遙兵たちは貴重なプレステ2を確保したという同級生に誘われて部屋を出ていった。モビルスーツの模擬戦闘に興味のない鉄人は漫画雑誌に興じるほうを選んだ。
畳に敷かれたまま万年床と化しかけている布団に寝そべっていた鉄人は、ふいの問いかけに目をあげた。
不機嫌が顔中にへばりついている。
「警官隊が突入する直前に、職員室の外線電話にコンタクトしてきたらしいんだ」
「……なんて」
「銀町先生と話がしたいって。孤隼先生が応対したっていってた。アルド・リンカーンウッドって名乗ったって」
鉄人はページに視線を戻したが、頭は内容を追っていなかった。
「たまたま銀町先生はいなかったんだけど、そうしたらこんどは鉄人とぼくが元気にやってるかって訊いてきたんだって」
「元気であいにくだったな……クソッタレめ」
探りをいれるつもりだったのだろう。姑息な手口はアルドの得意とするところだ。外科医のくせに、心理作戦に長けている。
「ドクター・リンカーンウッド、鉄人の担当だったよね」
鉄人は雑誌をバンと敷き布団に叩きつけた。
「だからなんだってんだよ! いまさらそんなやつの話をしたって、いいことねーだろ!」
ノエルは視線を泳がせて、ためらうようにおずおずと言った。
「そうなんだけど……でも、いやな感じがするんだ。クレイ博士に、ドクター。きみに関わっていた人たちがまるで居場所を誇示するみたいに動きはじめてる。鉄人、狙われてるんだと思う」
「おまえだって狙われてる」
ノエルは首を振って否定した。
「レベルがちがう」
「なんのレベルだ、ああ?」
イライラして口調が荒くなったが、ノエルの言いたいことはわかっていた。ラボの研究員は扱いづらいナンバー27よりも、矯正の可能性が高いナンバー13を優先して奪還しようとしているのだ。とくに、ドクター・アルド・リンカーンウッドは蛇のようにしつこくて、氷よりも冷酷な男であった。そして、彼の興味は誰よりもナンバー13に向けられていた。
小児科医にでも転向したら人気者になれそうな、知性と教養にあふれる面貌は、美しさの裏にあざとさを隠し持っている。眉目秀麗で長身痩躯、目的のためには手段を選ばないマキャヴェリスト。
鉄人はアルドを憎悪していた。その切れ長の目が自分を見つめ、口元がやさしげにほころぶだけで戦慄した。
アルドといる長い長い時間は、鉄人にとって蹂躙される行為そのものだった。投薬のせいで夢すら見ることもなく目を覚ますと、必ず彼がいる。刃向かうことも、身を守ることもできない。
静脈注射を頻繁に行ったため血管が損傷し、内出血をおこして青く腫れあがっているというのに、まるで問題がなにもないかのように注射針を突きたてる。マウスの苦痛には無関心なのだ。スケジュールどおりに検査と試験を行い、正しく評価することしか脳裏にない。
アルドの記憶を引っ張りださせたノエルを鉄人は恨んだ。心配してくれたのだろうが、やはりいらぬお世話だった。ノエルも短い期間とはいえラボで似た扱いを受けていたはずだから、気持ちくらい察してくれてもよいだろうに。
雑誌を枕に、頬を押しつける。忘れようとしてきた忌まわしい記憶が、まとわりつく。
拷問を受けた心的外傷はいまだに鉄人を苛んでいる。
あのときも、検査であるとだけ告げられた。いつだってインフォームド・コンセント(説明と同意)は無きに等しい。マウスに決定権などあるはずもない。いつもどおりに淡々と進められた処置の内容に驚愕し、必死に異を唱えたが無駄だった。アルドは文句を聞くどころか、転落防止柵にベルトで手足を縛りつけた。
「なんでそんなことが必要なんだよ!」
抵抗を封じられても、叫ばずにはいられなかった。大概のことは諦めたといっても、屈辱と羞恥心まで捨てきるほどには、まだじゅうぶんな時間を与えられていない。
「スパームの運動率や生存率などの情報を記録するため、といってもきみには意味のないことだがね。なんなら直腸からしてやってもいいが、目的が同じなら痛みや不快感は少ないほうがいいだろう」
鉄人は蒼白になってアルドを凝視した。耳鳴りがガンガンと渦巻いた。精神的ショックを受けていることを知りながらそれを無視して、アルドは体液採取の処置を続けた。
「…だ、やだ、もうやめて!」
自由にならない手をばたつかせる。爪がシーツを引っ掻く。ラボに詰めている研究員がみな自分を嘲笑しているように思えた。こみあげる嗚咽すら恥ずかしくて、悔しくて、鉄人はきゅっと口を結んで必死に噛み殺した。
「唇が切れてしまうよ。声を出すのがいやだったら、噛んでなさい」
アルドは減菌ガーゼを口に押しこんだ。
気が遠くなりそうなほどの屈辱。プライドをズタズタにされ、手足の戒めを解かれた鉄人は身体を丸めてカタカタとふるわせた。涙と鼻水でシーツがグシャグシャだ。
採取したサンプルを保存容器に入れ、アルドは冷たく鉄人を一瞥した。
「まだ忠告を無視するつもりなのかな。きみもあんがい往生際がよくないね。もう少し賢くなってくれるとたすかるんだけどね……お互いに、クールな関係でいたいじゃない」
「うるさい!」
「おやおや、聞く耳持たずか。ぼくは一向に構わないよ、きみさえそれでよければ。けどさ、それじゃきみがつらいんじゃないかと思って。先は長いのに、やせ我慢しては保たないだろう。現実は現実。はやく受けいれた者勝ちじゃないの」
顔が近づく気配がする。鉄人は身を固くした。
「自分がいつまでもヒトだと思ってるからつらいんだ。いっとくけど、ここにいるきみ以外の誰もが、きみをヒトだとは認めちゃいない。ケージで飼っているマウスだ。だからきみは言われたこと以外、思考する必要はない。心配もしなくていい。ぼくたちはなにもきみにセックスを強要してるわけじゃない。頭であれこれ考えるから、いけないんだ。抵抗はエネルギーの無駄遣いにすぎない。わかるね。あ、き、ら、め、ろ」
耳に息がかかるくらい近くで囁かれる。怒りと絶望は臨界点をとっくに超え、もはや相手を睨みつけることも、非難することもできそうになかった。
「緩和精神安定剤を持ってこよう。ちょっと待っておいで」
もうたくさんだ、と叫ぶことができたらどれほどよかったか。アルドはいつでもこんなふうに、鉄人を蔑みつづけたのだ。
忘れようとした。だが、刷りこまれた記憶を封じこめるのは、百万題の高等計算式を解くことよりさらに難題だった。ミレニアム懸賞問題を七問すべて解いて百万ドルをいただくほうがまだ簡単に思えた。
難しくとも、負けられない。ノエルにも言われた。たかが頭のいかれた医者だろう、負けたらお終いだ、と。
あきらめろ。アルドの声が束縛の呪いをかけようとする。
あきらめるな。ノエルの蒼い瞳は鉄人を信じている。
ハルモニア製薬と対立する覚悟はできている。銀町絵麗亜を信じ、ついていこうと心に決めたのだ。遙兵テイストで言い直せば、男ならドカンと一発国士無双。いや、いっそのこと幻の役満、九連宝灯をテンパイで九面待ちだ。
可能であればだが、ノエルのセラフィムが他へ転移することも阻止してみせる。
解決の糸口はぼんやりと頭のなかにある。要は、ラ・ダムネイションをその気にさせなければいい。
変異マクロファージがテロメアを襲う原因は過度のストレス、疲労、エネルギー代謝の低下だと思う。引っ越しマニアのマクロファージも、ノエルの身体がセラフィムにとって居心地のよい環境ならそう簡単に手出しはするまい。
ノエル本人は学者にありがちな鈍感体質で、他人の気持ちを慮らないところがあるが、鉄人にとってはただひとり運命を分かちあえる大切な友人、いや、麻雀仲間なのだ。
ラ・ダムネイションに行き場をさがして彷徨わせるくらいだったら、自分が引き取る。
そのときが来たらふたりきりで個室にこもって鍵でもかければいい。接触のない他の人間には転移できまい。
セラフィムをひとつ飼うもふたつ飼うもいっしょだ。
もっとも、流れこんだそのそばから決壊して自分も塵と化すのかもしれないけれど。
そうなったら、ノエルといっしょにあの世で苦笑いするだけだ。
「え、なに」
ノエルは鉄人の視線に気がついて、姿勢を変えた。やはりまずいことを言ってしまっただろうかという顔をしている。
「ノエル、さ……」
「あ、うん、なに」
鉄人もむっくりと起きあがった。寝癖のついたぼさぼさの髪が跳ねあがる。
「えと……退屈だし、スカッシュでもしに行かねえ?」
「……はい?」
なにか重要なことを突きつけられるのかと警戒していたノエルは面食らった。鉄人はすでにスポーツ意欲まんまんで、関節をポキポキ鳴らしていた。
「……いいね。そういわれてみれば、運動不足かな」
「よし、んじゃ、きまり」
立ちあがりかけようとして、鉄人はふと不快感に襲われた。
なんだろう。目眩がする。膝に力がはいらない。
不快感は、かすかな既視感をともなっていた。
急激に貧血を起こすのにも似ている。鉄人は以前にもおなじ状態に陥った経験があるような気がした。
まわりの音が渦に呑まれるように遠ざかる。だが、聴覚を除く感覚は暴力的なまでに研ぎ澄まされていく。
誰かが自分を必死に呼んでいるのがきこえた。
『”テッド”!』
え?
『いいか、ぜったいに振り向くのではないぞ。後ろでなにがあっても、走れ、立ちどまるな。明るいほうへ向かえ』
……でも。
『おまえは、おまえのものだ。おまえには、その右手がある。よいな』
”おじいちゃん”……。
『しあわせをつかめ、”テッド”』
コルクタイルの床。破られたゲート。破片を踏みつけて傷ついた足が一歩ごとに血の染みをつけていく。裸足の自分。絶望的に思えるほどえんえんと続く通路。鳴りやまない警報装置。武装した男たちが、走ってくる。銃を向けられる。ああ、撃たれるのだ。ケージを飛びだしたマウスは、撃たれる。走れといわれても、この包囲のどこをかいくぐればいい。明るいほうなんて、どこにもない。前はどっちだろう。どちらを向いてもたくさん人がいる。手をのばしてくる。どれが自分を殺し、どれが救ってくれる手なのだろう。右手が、灼けるように熱い。もはや立っているのか歩いているのか座りこんでいるのか、それすらもわからない。
銃声と灼熱。
熱い。熱い。熱い。
痛い。頭が、背中が、右手が痛い。
警報の音。
た す け て……
「鉄人!」
ノエルの絶叫ではっと我に返った。現実の音が怒濤のように戻ってきた。
床が地響きのように何度も揺れた。警報ベルが耳をつんざく。
「緊急事態、緊急事態! 全員ひとりのこらず、ただちに大ホール集合。機動部隊が外壁を破りやがった。もいちど言うぞ、大ホールへ集合ォ! 便所でクソしてるやつも拭かねえでいいから紙ひっつかんですっ飛んでこい!」
マイク越しにがなりたてたのは、下品な担任教師のどら声だった。
「ヤロウども、戦闘開始だ!」
国語教師遠藤璃乃四十四歳(独身)は、欣喜雀躍してマイクに噛みついた。
2006-02-01
