銀町絵麗亜の居室は五層構造になっている地下施設の最上部、形式的には地下一階にあった。
オーナーの居場所とするには少しばかり狭くて質素なのではないかと、武暗凝沌は首をかしげた。銀町邸があれだけ豪華なのだから、この穴蔵ではさぞや物足りまい。
銀町と武暗は高校時代の先輩後輩で、ともにバイクでブイブイいわした仲だった。
学生の銀町は頭が切れ、立っているだけで一枚の絵になった。やることなすこととにかくすべて格好いい。ひとつ年上の銀町に武暗は憧れて、尊敬した。いっぽう銀町も、物静かでけして自分から前に出るタイプではないが秘めたる才能をもつ武暗を気にいり、卒業後も交友と支援を続けてきた。
武暗は机の上に銀色に光る携帯電話を置いた。
「ようやく発信エリアが特定できました」
「早かったね。また部下をこきつかったのかい」
「もと、部下です。誤解なきよう。それはそうと、発信したのは校内ですな」
「……校内?」
銀町は顎に手をかけ、考えこむように黙りこくった。
目撃した生徒の話によると、鉄人の携帯に通話着信があり、二言三言応対したあとに突然蒼白になって倒れたという。
着信履歴には『Eleanor』、つまり銀町からだという証拠が記録されている。
いつも鞄に入れて持ち歩いているのだがあの日にかぎってスーツのポケットにつっこんだまま忘れていた。バタバタしているうちにどこかで落としたかもしれない。校内だとしたらおそらく、警官隊のだれかが拾ったのだ。
だが、拾得した者があの状況でわざわざ、しかもリストの中から鉄人を選び、電話するだろうか。
騒ぎが発覚してすぐ折り返し呼び出しを試みたが、電源が切られたのかすでにつながらなくなっていた。
ほんの十数秒の会話で鉄人を昏倒させた人物とは、誰だろう。
とてつもなくいやな予感がする。
学内に突入してきた警官隊のなかに、ハルモニア製薬の人間が交じっていたにちがいない。
日本政府を介するまだるっこしい手口はやめて、実力行使に出てきたとも考えられる。
まずは手はじめに、鉄人の内奥にある恐怖心を刺激して、自滅を誘う心理攻撃をおこなった。
会話の内容を記録できていたら。そう考えて武暗に相談したが、不可能だという。電源が切られてしまえば、発する微弱電波を追跡することもできないらしい。
鉄人がもう少し落ち着いてから、本人の口から訊く以外ないだろう。
銀町とて考えなく籠城作戦を断行したわけではない。
ましてや追いつめられての窮策でもない。長い準備段階を経て、ようやく機会が巡ってきたといったほうが正しい。
梁山泊は世界各地に散らばる仲間がそれぞれの得意分野から支え維持する、情報の集積地である。ハルモニア製薬の親玉、ドン・ヒクサクを頭とする官民悪玉混合の巨大犯罪組織を官軍とするならば、梁山泊軍は未来を担う若者たちと老いさらばえても知恵と忠心を失わない豪傑どもが集う、二十一世紀最初の砦となるのである。
水のほとりの要害と洒落こむにはいささか近代的だが、建築設計を請け負ったスタジオ・トーブの東武満舟がわけのわからない信念を譲らない男で、北宋時代に宋江や船大工の玉旛竿孟康らが見たら卒倒するような、常識はずれの平成梁山泊を創造したのだった。
極秘配置された数百ものホットライン(直通電話)は外部の様子を余すところなく伝えてくる。
銀町個人は現アメリカ大統領とも秘密のオトモダチ回線を持っていた。「ダウニングストリートメモ(2005年にメディアにスッパ抜かれた、イラク戦争に関わる英国政府とアメリカ大統領との、あまり評判のよろしくない談合記録)の件があんたのいやーな方に転がってもいいのかい」とえげつない脅しをかける手もあったが、四方からのの脅しが五方向に変わるだけで有効さに疑問が残る。なにより大統領が気の毒なのでそれは免除してやったのである。
インターネットでニュースをチェックすると、事件報道は願ってもない展開になっていた。
今朝の見出しをひと眺めすると、いかに国民がこの話題に注目しているかが見てとれる。
『米政府 経済制裁を撤回』
『包囲する警官隊 政府の対応に批判の声』
『”負けるな” 支援の輪ひろがる』
『きみたちは日本の誇り』『保護者、つぎつぎと現地入り』『”あの子を誉めてやりたいです” 父の目に涙』
『歪んだ遺伝子ビジネス背景か ヒトゲノム解析計画に暗雲たれこめる』
『ドリーの次は高校生? 暴走するクローン技術』
『文部科学省の公式発表全文』
「解説”学園激震” アメリカ社会に追随してきた日本への緊急課題/コラムニスト ペロー・ユウウツフジン』
「くっくっくっくっく」
こらえようとしても自然と笑いがこみあげる。
情報が錯綜して鉄人とノエルがクローン人間扱いされているのも愉快だった。
正しくは脅威のニューロンが関係しているのだが、どのみちマスコミはいま話題のヒトES細胞を持ちだして倫理がどうのと騒ぎたてるのであろう。セラフィムはES細胞からのアプローチで発見された物質ではないが、連中にとってはそのようなことは想像もできまい。わかりやすければわかりやすいほど、記事は誇張し読者を煽りたてるのだ。
都合がよいので、このまま手を加えず野放しにしておこう。ふたりの氏名と経歴が公表されることは人道上あり得まい。
敵が事実捏造で日本を窮地に追いやるつもりなら、対するこちらは日本人のいちばんおいしいところを利用する。すなわち大和魂を。これをナメてはいけないということを、勝ち組アメリカはすでに忘却している。
折しも戦後六十年、世にはびこる愚か者どもを粛正するにはよい頃あいではないか。
これぞ銀町一門の存在理由。
太平洋戦争終結には銀町の父が一枚噛んでいた。
日露戦争には銀町の祖父が一枚噛んでいた。
明治維新には銀町の曾祖父が一枚噛んでいた。
関ヶ原の戦いは銀町の曾祖父の高祖父が天下分け目を挟んで実の弟と軍師合戦を展開したのである。
時代を超えて平成の今日、銀町家の子孫が歴史に一枚噛むのはなんら問題ない。
「愉しそうですな、絵麗亜先輩』
昔の銀町を思いだし、武暗は懐かしさで胸がきゅんきゅんした。
そのとき、トントンとドアがノックされた。顔を出したのは物理教師の孤隼樹花だ。
「お話中失礼します。理事長、そろそろパーティがはじまりますよ」
「おや、うっかりしていたよ。生徒たちから立派な招待状をもらっていたっけね」
部屋のなかにまでケーキを焼く甘い匂いがただよってくる。
クリスマス・イブに盛大にパーティを催していいと宣言したのは銀町自身だったので、招待を断るわけにもいくまい。遠慮する武暗をうながし、立ちあがった。
二十個の生卵を右手だけでリズミカルに割っていく鉄人に、驚きと賞賛の声があがった。
「うわー、かっこいい!」
「やってくれるぜ、マトリックス鉄人!」
パーティメニューはクラス単位で準備する計画になっていた。やっぱりクリスマスにはチキンとショートケーキだろうと3組では意見が一致し、ケーキのスポンジを焼く段階でレシピを知っている者が皆無であることに気づいた。
「卵と小麦粉と砂糖とふくらし粉を混ぜて焼けばいいんじゃないの」と自信なさげに言う女生徒。
「きりたんぽの焼き方なら知ってるけどな」
お呼びでないご意見はご存じ老舗きりたんぽ屋の後継ぎ、遙兵である。
図書室にお菓子づくりの本があるだろうと探しに行けば、同じことを考えたクラスにとっくの昔に先を越されていた。
「ケーキ……か。ちょっと待てよ、いま……」
「鉄人、まさか知ってるのか」
「いや、たぶん忘れてる。けど、いっぺん読んだ本ならひっぱりだしてこられると思う。少し時間をくれ」
きょとんとする遙兵の前で、鉄人は目を閉じた。
記憶回路をサーチしていく。
二分ほどそうしていただろうか。おもむろに口をひらいた。
「あった。メモしろよ。直径十八センチ一個分をつくる割合だ。卵四個、砂糖九十グラム、薄力粉百グラム、バター三十グラム、コーンスターチ大さじ一杯強、牛乳とバニラオイル少々」
「コーンスターチってなに?」と女生徒。
「とうもろこしからできた澱粉」
「ふくらし粉はぁ」
「いらない」
「ふくらまないんじゃない?」
「卵に空気をしっかり含ませながら泡立てて、泡の力で膨らませる。手順を読みだすから、メモ係しっかりな」
ひととおり説明し終わると、鉄人は尊敬のまなざしで囲まれていた。
遙兵や時雨努たちだけが複雑な表情を見せる。
「鉄人。読みだすっていってたけど」
「ン? 言葉のとおりじゃん。読みだしただけだよ」
「その……なんていうか、アタマんなかからか」
「そうだけど」
鉄人はあっけらかんと言った。
あたりまえのことのような顔をしているけれど、遙兵たちには納得がいかない。どんな記憶でもひとたび忘れてしまえば容易には還らないことを、誰もが経験で知っている。本のように、内容を忘れたからまた読んで思いだすということは不可能なのだ。
だが鉄人はそれをあっさりとやってのけた。
茶々をいれたのはノエルだった。
「それにしても鉄人、ケーキのレシピなんてよく読んでたね」
「好きで読んだわけじゃないって」
「カリキュラム?」
「そ。たまたまラボに甘党のやつがいたんじゃないの」
ノエルが次の言葉を継ごうとすると、鉄人は突然大声をあげて飛んでいった。
「なんだおまえ、卵もろくに割れねーのかよー! なっさけねー。貸してみな!」
ノエルの顔が曇った。気のせいではない。避けられている。
鉄人はわざと明るく振る舞っているようだった。通路でふたりそろって気を失って以来、様子がおかしい。昨夜は遅くまで遙兵たちとなにか話しこんでいた。
ふと、時雨努と目があった。
「ノエル。あとで、話が」
ノエルはうなずいた。
鉄人は例の連続片手卵割りで喝采を浴びていた。
「メェッリィクリスマスゥ、エヴリィワン!」
鉄人は笑って歓声に応えた。痛々しいまでの陽気さを見ていられなくて、ノエルは目を伏せた。
「ちょっと見てよ。あいつらのケーキ、どういうこと?」
きつく睨みつけたのは1組の風紀委員、某雁瀬音香である。
図書室に先回りしてクリスマスレシピを隠蔽しまくったのに、まったく功を奏していない。とてもまともな形状をしたクリスマスケーキが五個。くやしいが、一寸も違わずレシピどおりに作った1組のケーキにも見た目では負けていない。
「ふ、ふん。問題は味よね」
瀬音香を嘲笑うように、「うめえ、絶品!」という悦楽のおたけびがきこえた。
ふるふると震える瀬音香の横で、カルピスウォーターをカクテルよろしく優雅に捧げ持った霧流が笑った。
「瀬音香ってば、聖なる夜にしかめっ面ばかりしてたら魔法がかかっておばあさんになっちゃうよ」
「キーリールー?」
般若の形相。こういうときは関わらないほうがよいと編駝麓はオードブルをよそうふりをしてそっと離れた。
それにしても、用意された食材の豪勢さはどうだ。非常食や常備米で堪え忍べというなら話はわかるが、イブの朝にどこからあらわれたのやら生鮮食料品が広いキッチンに山積みになっていた。
イチゴに生クリーム、まるのままの鶏、新鮮そのものの野菜、輸入チーズ、ブイヤベース用のホウボウなんてのもあった。グリルチキン用のハーブも驚くべきことにすべて生である。
生徒と教師あわせて五、六百人は在籍しているはず。しかも、国際警察によって包囲されている非常事態の真っ最中である。いくら首謀者の銀町が金持ちだからといって、ここにいる全員に朝昼晩の食事を与え、あまつさえ贅沢を認めるというのは予想外、いや、ありえないできごとだ。
遙兵が大声で話しているのがきこえた。
「けさな、いなかのオドが腹へてっぺってきりたんぽクロネコで送ってきたんだぜー」
国際包囲網の中心に配達に来てくれるとは、近ごろの宅配業者はずいぶんとまた有能なのだな。
編駝麓はぶるぶると頭を振った。いけない。あまりの異常さに自分の思考回路までおかしくなっている。
「腑に落ちないって顔してるね」
霧流はいつだって勘がいい。音もなく獲物に近寄って、耳元に毒を囁くのが得意なのだ。
「編駝麓、見ておくんだね。これが銀町財閥の力だよ」
「何者なんだ、あの人」
「燕組なんか一生かかっても足元にすら及ばない人」
編駝麓は驚いて霧流を凝視した。彼がはじめから負けを認めるなんて。
燕霧流はどんなときでも自分が一番でなくてはだめなのだと思っていた。弓ノ間鉄人に執着したのも、彼がテストの点数でいつも上にいたからである。その考えが揺らぎはじめていた。
銀町絵麗亜が全校生徒に向かって発した言葉。
『弓ノ間と魁は、裏社会の連中の、最大最高最重要の機密事項』
霧流に聞かされて、弓ノ間が海外の秘密施設から逃げだしてきたモルモットだということは承知している。また、燕組がそこへ多額の資金提供をしていたことも。
弓ノ間の身体がふつうでないことも、くわしくはよくわからないが、ほかの生徒よりは心得ている。
しかし国家警察が動くほどご大層なものだとは思わなかった。
気がつけば、自分もいつのまにか多くの生徒とともに事件の中心にいるではないか。
騙されているのか、はたまたそういうシナリオなのか、頭で考えてもとうてい理解できない。霧流の言葉をそのまま引用するなら、腑に落ちない。
「ふふふ、編駝麓は考えてることがすぐ顔に出る」
霧流はからかうように言った。指でひょいとチキンバーをつまみ食いする。幼さが抜けきらないこのしぐさにころりといってしまう怖いもの知らずの女生徒も多いらしい。
「霧流、どうするつもり」
「なにが」
「なにがって、弓ノ間。理事長の演説ですっかり人気者じゃないか。入手宣言したの、忘れたわけじゃないと思うけど」
「あはは、編駝麓、心配性」
霧流は薄く醤油のついたピンクの唇をぺろりと舐めた。
獲物を狙う猛禽類の眼は健在のようだった。この眼がなによりも恐ろしい。霧流がどういう行動をとろうとも、けして彼にだけは逆らってはいけない。
霧流は美しい悪魔のようにひっそりとほほえんだ。
「もちろん、いただくにきまってるじゃない。弓ノ間くんはぼくだけのマウスなんだから。だれにも、わたさないんだから」
編駝麓は背筋が凍りつく感触を必死で追いはらおうとした。
銀町理事長の音頭で中締めが終了すると、会場の片づけはあすの朝にしようというアルコールの回った教師たちの提言に歓声をあげ、生徒たちはぞろぞろと居住エリアへ去っていった。これからおのおの自由に二次会をはじめるのである。
ノエルはきょろきょろと鉄人の姿をさがしたが、どこにも見あたらなかった。先に部屋に戻ったのだろうか。
「弓ノ間くんをさがしてるの」
いきなり声をかけられた。振り向くと、燕。
「弓ノ間くんならとっくに、お誘いをうけて行っちゃったみたいだよ。人気者だよね、彼」
「ああそう。わざわざありがとう」
「どういたしまして。そういえばさ、こないだ大変だったんだって。丸一日寝てたって聞いたんだけど。ひとりだけならまだしも、ふたりいっぺんっておかしくない?」
「……たまたま、どちらも体調が悪かっただけだよ」
「へえ、そう」
燕は悪戯っぽく苦笑した。
「なら、いいんだけどさ。ああいうのってほら、なんかシンクロしそうじゃない。これでもぼく、心配してるんだよ。変わったことがあったら黙ってないでしゃべっちゃったほうが身のためだって、忠告しとこうと思って。なんたっておたくら、解明もされないうちに逃げだしちゃったんだから。未完成品って自覚、もう少し持ってもよくない? ……っていうかきみは、不良品だったんだっけ。アハハハ失礼」
相手にしないほうがいい。ノエルは聞こえないふりをして背を向けた。だが燕の言葉にも一理ある。
たしかに、これまでの体験とはあきらかにちがっていた。不安と、恐ろしい予感を抱くにはじゅうぶんすぎるほど。鉄人の様子がおかしいのもそのせいだと思う。
鉄人は気づいたのだ。
おそらくは『感触』として。
急激なストレスを受けたマクロファージが、己のゲノムを安定させようと、たまたま手近にいた獲物―――――ノエルから、テロメアと呼ばれる染色体の末端についたネズミのしっぽのようなDNAタンパクを奪って貪ったのだ。
鉄人が自ら言っていたではないか。
『人を願っただけで殺せるような気にとらわれた』と。
実態のない、ぼんやりとしたその恐怖は現実だったのだ。
テロメアが失われると、細胞は分裂を停止する。すなわち、老化と死を招く。
他人の命を吸収し、自分のものとする強欲なセラフィム。鉄人は自分のなかにあるものの正体を知ってしまったにちがいない。
「ねえ、帰っちゃうの? 弓ノ間くん戻ったらさ、たまにはぼくのとこにも遊びにきてよって伝えてくんない」
燕の声が追いかけてきたが、応えてやる義務などあるはずもなかった。
ドアを開けると、六つの眼がこちらを向いた。
そのなかに鉄人がいないことはすでにわかっていた。
深刻な話をしている最中だったのだろう。修学旅行のように五つの布団を畳に並べ、その上で円座している。
「ノエルも加われ」
時雨努が手招いた。新聞紙にひろげられたポテトチップスには手がつけられた形跡がない。
「いまな、テツとおまえのこと、話してたんだ」
遙兵が切りだした。いつものおちゃらけた様子は微塵もない。
「テツが目を覚ましたあと、おれ、問いつめたんだよ。だってそうだろ? 理事長の話はさっぱりわからなかったし、テツが警察だのなんだのに追っかけられてるって急にいわれても、ピンとくるわきゃーねーだろ。おれってほら、理解力よくねーしさ。なんで廊下でとつぜんひっくり返っちまったのか、それも訊きたかったから」
「それで鉄人は、なんて」
「最初はよ……貝のように口つぐんで、なんか怒った感じだった。おれもかっとして、ケンカみたいになっちゃったんだな。寮にいたときも、しょっちゅうケンカしてたし。けどよぉ……」
遙兵は言葉を切った。時雨努と経夢人はその先を知っているのだろう。暗い顔をして押し黙っている。
「ノエル、鉄人の名誉のためだ。ほかのやつにはぜったい言うなよ」
「あ、うん」
念をおされてノエルはうなずいた。遙兵はまるで壁に耳があるぞと言わんばかりに声をひそめた。
「あいつ、泣いた」
「………」
「よっぽど、ためこんでたんじゃねーのかな。ぼろぼろぼろって、とまんなくなっちまって……でな、壊れちまったように、しゃべりだしたんだ。自分のこと」
「鉄人が、自分から?」
「そう」
ノエルは驚いた。秘密を共有するノエルにすら、鉄人は涙を見せたことがない。ラボで生活していたときの話も積極的には語ろうとしなかった。それを遙兵にぶちまけたというのだ。
胸がちくちくと痛んだ。
鉄人がうなされて飛び起きた朝、叩きつけるように言われた台詞を思いだす。
『医者や科学者なんてのは、いつだって人の気持ちなんかわかっちゃいない』
自分は鉄人にとっていったい何なのか。遙兵のようにケンカをすることもできない。いつもノエルのほうが先に罪悪感を抱いて、謝罪してしまう。鉄人はそれがいやでいやでたまらなくて、口を噤む。
親友になりたいと思っている。
でも、できない。
頭のどこかに、鉄人を医学的に分析する自分がいる。
親友。
マウス。
『おまえはおれじゃなくて、セラフィムに興味があるだけだろう。ノエル』
鉄人の罵る声が聞こえたような気がした。
「みんな聞いたよ」
遙兵は続けた。
「信じられねーような話ばっかで、唖然としたさ。けどよ、コイツ、嘘言ってねえってわかったんだよ。直感ってやつだな」
ノエルも肯定した。
「ほんとのことだ。鉄人は嘘をつかない」
「だろーな。じゃねーと説明つかねえもんな。テツもおまえも、どっかバケモンじみてっしよ。それくらいのブットビぶりじゃなくちゃ、国家警察なんて動くわきゃないし」
「目に見えて動いてるのは国家警察だけれど、裏で糸をひいてるのはハルモニア製薬なんだ。捕まったら強制送還だけじゃすまない」
「……え」
「証拠隠滅。つまり、葬られる」
「殺されちまうってことか」
遙兵の言葉に時雨努と経夢人も息を呑んだ。
「いや、生かされるよ。おそらくは組織培養されて、永遠にね」
「ノエル……ときどきサラリととんでもねえセリフ吐きやがるよな」
遙兵はうなった。それはすなわち、サンプルにされるという意味だ。生物実験室で腹開きにされてホルマリン漬けになっているラットじゃないんだから。
ずっと黙っていた時雨努が間にはいった。
「冗談じゃない。人のダチを勝手に連れてかれてたまるか。なあ、経夢人」
「だね。麻雀のメンツも足りなくなるし。父さんも仕事をさがしにハローワークに行かなくちゃなんない」
ノエルはくすりと笑って、次に寂しそうな表情で言った。
「遙兵、時雨努、経夢人。巻きこんじゃってごめん。けど、鉄人にはきみたちがいるんだってわかって、ほっとした」
ぺこりと頭を下げる。
「これ以上お願いするなんてずうずうしいけど……鉄人の支えになってやってほしいんだ。おねがいします。このとおり、どうか」
「おいおいおいおいおい」
「ノエル! おまえもいっしょだろ」
ノエルは小さく否定した。
「ぼくではだめなんだ。ぼくにできることはたぶん、それほど多くない。もうチャンスも少ない。ぼくは……」
銀町先生にお願いして、どこかほかの場所を与えてもらう。難しい相談かもしれないが、銀町ならばなんとかしてくれるだろう。
鉄人に自分の最期を目撃されるのが恐ろしかった。セラフィムが狂気を露呈するさまを鉄人に教えたくなかった。見てしまえばおそらく、鉄人は絶望してしまうであろうから。
どこか遠くの部屋からクリスマス・ソングが聞こえてくる。
鉄人はまだ戻ってこない。ノエルの命を貪ったことを恐れ、友人の遙兵たちを巻きこんだことを後悔し、自分のなかに眠るセラフィムを憎み、居場所をなくしたまま部屋から部屋へサンタのように偽りの笑顔を振りまいて歩いているのだろう。
クリスマス・ソングを歌っている調子っぱずれな声は鉄人だろうか。
賛美歌106番。
あら野のはてに夕日は落ちて、
たえなるしらべ天よりひびく。
グロリヤ イン エクセルシス デオ
Gloria in excelsis Deo
2006-01-27
