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インビジブル・ハンド【前編】

 階下の音楽室からへたくそなアンサンブルがきこえてくる。
 私立牡鈴学園高等部吹奏楽部は、市の大会で万年銀賞の不名誉をこうむり続けてはや幾年。顧問の越智円乃先生がこのあたりでなんとしても一矢報いねばと躍起になっているらしく、朝は早よから夕方は門の施錠ぎりぎりまで、プップカプップーとまったくご苦労さんなことである。
 聴きたくもない『威風堂々』を繰り返し聴かされる身にもなってくれ。
 鉄人は受付カウンターに頬杖をついて、閑古鳥の鳴く図書室をぼんやりと見渡した。
 昼休みと終礼後から二時間、図書室は学生たちに解放される。中高一貫教育の牡鈴学園は、多くの設備を高等部と中等部が共用している。図書室もそのひとつだ。
 若者の本離れが進んでいると教師たちが嘆くのもごもっともで、図書委員なんてのは西日のさんさんとふりそそぐカウンター内で昼寝でもしていれば無難に務まってしまうじつに怠惰な係であった。
 べつに本が好きだから就いたわけではない。クジ引きで当たった、いや、外れたのである。
 おかげで木曜日だけはまっすぐ帰ることができなくなった。とんだ災難だ。
 大あくびとともに伸びをすると、カウンターの向こうに大柄な男子生徒が立った。
「うわヒマそー」
「そー、じゃなくて、ヒマなの実際」
 同じクラスの時雨努。クラス委員長を務める秀才で、おまけにスポーツ万能、長身痩躯に甘い顔立ちときている。もちろん女の子にはモテモテだ。だがクソのつくほど生真面目な性格で、特定の女友達をつくらない。
 鉄人とは二学期から机を並べている。どのような家庭で育てばこのようなそつが無い人間になれるのかと鉄人は不思議に思わざるを得なかった。
 奇という漢字一文字の名字が珍しく、中国系かと訊ねたことがある。すると時雨努は笑って否定した。
「先祖は少なくとも徳川の時代には日本人だったみたいだよ」
 徳川、ねえ。人間がデキていればご先祖様もさぞやご立派なのだろう。自分は親がちゃんとした日本人であるのかどうかすら知らないというのに。
「借りてくならカード書いとけよ」
「もう書いた。じゃ、五冊分」
「あ、ケースに入れといて。忘れねーで期限内に返せよな。メンドーだから」
 なんだか知らないが難しそうな本を五冊。どこまで風変わりなやつだろう。中間考査も近いというのに本など読んでて大丈夫なのだろうか。さすが秀才、余裕が違う。
 牡鈴学園は泣く子も黙る進学校。中等部からエスカレーター式に上がるのもけして簡単ではない。鉄人は中学3年のときにわけあって海外から編入してきたのだが、不真面目そうな見かけによらずレベルSの特待生であった。頭脳明晰でないことには、膨大な授業料のかかる私立高校に鉄人のような親のない生徒が簡単に入学できるわけがない。
「寮、出たんだって? 遥兵が怒りまくってた」
「しかたねーじゃん。パトロンにそうしろって言われちゃさ」
「いま、どこに住んでるんだ」
「でっけえ屋敷。どこかは秘密」
「保証人って、そんなに金持ちなのかよ」
 鉄人は詮索好きな同級生の顔を鬱陶しげに睨み、「それなりにな」と答えた。学園の理事長に囲われてますなどと白状した次の日には、どんな噂が流れるかわかったもんじゃない。
 遥兵にもさんざん責められた。ルームメイトだった遥兵は鉄人や時雨努と同じ1年3組で、成績は下の下。染めてもいないのに色素の薄い髪と、けんかっ早い性格は悪評の的だった。落第一歩手前の生徒であるが、なぜか優等生の時雨努と仲がよい。
 遥兵は家が遠方にあるため、牡鈴学園霧船寮で暮らしていた。高等部にギリギリセーフで進学したのち、鉄人と同室になった。
 厭世主義の塊のような鉄人と、楽天家の遥兵はそりがあわず、三日目にとっくみあいのケンカをして反省室にまとめてぶちこまれ、鍵をかけられた。
 この処罰で遥兵の意外な弱点が露呈した。照明のない反省室で遥兵は世にも情けない声を出すと、鉄人にしがみついてきたのである。
「なんだよ。寄るな、気色悪い」
「おまえ、知らないのかよ。反省室には、で、出るんだぞ」
「なにが」
「すっとぼけんじゃねえよ! 幽霊だよ、ユーレイ!」
 それからあとの遥兵をなんと説明してよいやら。以前この部屋で首を吊った学生がいただの、霧船寮にはほかにも怪事例があるだの。黙って訊いていると一階に二名、二階に三名、裏庭と屋上に一名ずつ、合計七名の足の無いお人がいるらしく、それぞれのご事情とお祟りの経過に話が到るころには、鉄人はすっかり呆れかえっていた。
「マジかよ」
 鉄人の反応は驚きではなく、純粋な侮蔑である。それなのに遥兵はお構いなしに怯えまくり、取りつく島がなかった。鉄人はこんなのと同室になった自分を思いっきり反省した。
 反省室は反省するところだから。
 この事件をきっかけに、鉄人と遙兵は仲良くとまではいかないものの、少なくとも表向きに争うことはなくなった。
 どちらかというと鉄人のほうが一歩退いた関係だった。時雨努と、やはり同じクラスの経夢人をこっそり泊めて(霧船寮は部外者入室禁止なのだ)徹夜麻雀をしたり、いっしょに食堂に行く程度には『ルームメイト』であったのだが。
 ところが一学期も終わる頃、鉄人は身元保証人の銀町絵麗亜に、寮を出て銀町邸で暮らすように命じられた。
 理由は、言われずともわかっていた。『敵』に動きがあったのである。
 どういう策に到ったのかはわからない。だが彼らは、否応なしに鉄人をターゲットにしてくる。監視の行き届かない寮は危険なのだ。校内であれば事情を知る一部の教師が守ることもできるが、寮はそういうわけにはいかない。
 四六時中、管理下に措かれることは苦痛であったが、しかたがない。
 だが予想したとおり、遥兵が吠えた。
「薄情なやつだな、てめえ!」
 追いすがるチキンハートに、鉄人は嘆息した。これでも顔はそこそこよいものだから、ワイルド風味の好きな女の子には人気があるのである。つきあった女性にあとから素性がバレて逃げられるタイプだ。
 それなりの格好をさせて表参道あたりに立たせたら面白いものが見られるだろうが、どっきりカメラ(死語)みたいに「じつは彼、オバケがダメなんですよ~。実家は秋田県の老舗きりたんぽ屋でね、好きな食べ物はオムライス、嫌いな食べ物はオムライスについてるパセリです」とか暴露してみたらもっと面白い事態になるだろう。
「そんなに幽霊が怖かったらおまえも寮出てマンションでも借りりゃいいだろ」
「あほ! オド(親父)にごしゃがれる(怒られる)わ!」
 人に反論するときは日本語を使え、秋田県民(秋田県民のみなさんすみません)。
 遥兵にも譲れない主義主張はあろうが、こっちにも事情というものがある。ではお元気でルームメイト、また夏休み明けの教室でな。
 夏休みが明けたら遥兵は口をきいてくれなかった。いつもやっていたA定食B定食のオカズの交換も拒否された。
 時雨努は苦笑いしたが、ふと真顔になった。
「1組の燕。アンテナ向けとけ」
 声を落とす。鉄人に顔を近づけて、続けた。
「S特狙ってるらしい。推薦が欲しいんだろうな。1年だからって、楽観してたら蹴落とされるぞ」
「……そりゃご丁寧に、どうも」
「たいした自信だな、鉄人」
 鉄人は目を半分閉じてにやりと笑った。
 あくまでも自力で東大へ進学するつもりの時雨努は別として、世間体や見栄のからむお母さま方は、愛息子をいい大学へやるために競うようにして担当教師の機嫌をとろうとする。要するに推薦を確約させてしまえばいいのだ。裏でどれだけの金がぶんぶん飛び交っているのか鉄人には知ったことではないが、レベルSの特待生なら優先順位は間違いなく筆頭になる。
「……蹴落とせるもんなら、やってみろっつーの」
 時雨努は肩をすくめて、鉄人を見た。幼い頃から、この子はほんとうに頭がいいのねと誉められつづけてきた自分がただひとり、かなわない相手。
 弓ノ間鉄人の試験結果は、満点をただの一度も欠けることを許さなかった。
 涼しい顔をして、完璧を維持する天才。
 超のつくほど怠け者なのは、友だちづきあいをして知っていた。だからこそ、空恐ろしい。
「……バケモン」
 賞賛とも揶揄ともつかない時雨努のつぶやきだった。

 ショートホームルーム開始直後、担任の遠藤璃乃が連れてきたのは転校生の少年であった。1年3組は思いもしない事態に沸いた。
『魁 無影響量』
 黒板に、筆圧だけはすさまじい小汚い字で書くと、美化委員の遥兵から野次が飛んだ。
「エンちゃん、そんなに力こめなくっていいから、もっと消しやすいように書いてくれっていつも言ってるだろ!」
 遠藤はふふんと鼻で笑って、白チョークをもてあそんだ。
「猛地、読んでみろ」
 国語教師の顔で命令する。
「かい、むえいきょうりょう!」
「そんなアホな名前があっか。んじゃ、紹介しよう。さきがけ、のえるくん。今日からこのクラスに入る」
「ンなむちゃくちゃな当て字がわかるわきゃねーっだろ!」
 遥兵はついに立ちあがってわめいた。遠藤は意地の悪い笑みを浮かべ、「弓ノ間」と言った。
「はい?」
 つまらなそうに椅子ごと反り返っていた鉄人が、間の抜けた返事をする。
「悪いが、あのアホに説明してやってくれ」
 鉄人は「へいへい」とだるそうに立ちあがり、黒板に向かった。
 ぽかんとする遙兵の前でチョークをつまみ、字を書く。
『no observed effect level』
「それがなんだっての」と、遙兵。
「単語の冒頭文字をつなげて読んでみな」
「エヌ、オー、イー、エル。ノエル……ああ、へえ、ふーん……って感心してどうすんだよオレ!」
 転校生は尊敬のまなざしを鉄人に向けた。
「すごいね、きみ。ちゃんと意味わかってくれた人、滅多にいないよ」
 まっすぐに見つめられて、鉄人はドキッとした。転校生の瞳。光線の加減か、一瞬ではあるが深い海の色にも見えたからだ。
「よし弓ノ間、戻っていい。猛地、アタマ掻きむしってないで着席。魁の席は……武暗の横が空いてるな」
 武暗経夢人はひらひらと手を振って、転校生にアピールした。
 魁は詰め襟の端を軽くととのえて、教室内をにっこりと見渡した。女生徒たちはそろいもそろって、嬉しさを隠そうとしない。それもそのはず、端正な容姿と賢そうな表情は、好感を惜しむことなく与えまくっていたのだ。
 この中途半端な時期に転校してくるというのも珍しいが、生徒数の限定されている当校に敢えて編入させるということは、頭のほうも相当なのだろう。余計なライバルが現れたと舌打ちするのはほとんどが男子生徒であった。
「よろしくね。ぼく、武暗です」
 経夢人は素直に好感を持ったクチらしい。彼も時雨努と同様、ライバルという概念にはさほど興味がなかった。
 父親は管区警察局の上級幹部で、一家揃ってのエリートである。そのなかで経夢人はどちらかというと平凡であったのだけれど、できそこないのぶんだけ人間味にあふれていた。
 新しいお隣さんとはすぐうち解けたらしく、その日の食堂には経夢人の横に魁の姿もあった。

「時雨努ずるい、唐揚げかよ。おれもA定にすりゃよかった」
「ケチャップの赤見たら意識朦朧となっちまうんだもんな、ハー」
 致命的なお子様嗜好をからかう鉄人を無視して、遙兵は魁のトレイを凝視した。
「あんまんと肉まん? おまえ、そんだけ?」
 遙兵にとっては食後のおやつにすぎない『射屋のまんじゅう』にかぷりと噛みついて、魁はもぐもぐと言った。
「好きなんだ、あんまん肉まん」
 鉄人はあんかけラーメンをずずずとすすりながら、上目遣いに転校生を観察した。
 瞳に違和感を覚えたのは、たぶん気のせいだろう。どこからどう見ても率直に日本人である。魁という珍しい名字に加えまんじゅう嗜好は今度こそ中国系を連想させるけれど、『毒を喰らわば最大限度まで』な名前をつけた親にも少し興味があった。
「あのさ、魁くん」
 先に口をはさんだのは時雨努だった。
「ノエルでいいよ」
「ノエルくんは、どこから転校してきたの」
「プエルトリコの日本人学校」
 一同が驚愕のまなざしを向けるなか、鉄人はどんぶりを取り落としそうになった。
「プエルトリコ? それ、どこにあるんだ」
「アホだな遙兵は。カリブ海だよ。アメリカの近く」
「正式にはアメリカ合衆国なんだけどね。半分は」
 言いながら、魁の視線は鉄人を射た。口元に含みを込める。
「父親がね、むこうに本部のある製薬会社の幹部で、小さいときからあっちで暮らしてたんだ。ちゃんと日本の教育を受けたくてさ。ここの理事長が父の知り合いだったから」
 それはあきらかに鉄人へ向けた言葉であった。
 まさか、刺客か。いや、ならば銀町理事長が受け入れるわけがない。もしかしてこの少年も、鉄人と同じなのだろうか。ハルモニア製薬の機密を持って逃亡してきた。
 混乱し、頭がガンガン脈打った。
「鉄人! 汁がこぼれてる」
 経夢人の声で我に返り、頭をあげた瞬間、割り箸がどんぶりに引っかかった。
「わあっ!」
「なにやってんだよ、鉄人! ぞうきんぞうきん!」

 放課後、鉄人は下駄箱から正門へは向かわず、身を隠すようにして校舎の裏手に回った。プレハブの用務員室の引き戸を叩き、周囲をうかがってから身体をすべりこませる。
「どうした、テツ」
 背丈が低くて腹がつきだしている男が、顔中すすだらけにして石油ストーブを分解していた。牡鈴学園の用務員、婆咲舵狸男である。
 舵狸男は鉄人の素性を知る数少ないひとりであった。理事長の銀町にも信頼されている。何かあったら相談するようにと、彼女に言われていた。
「転校生来たの、知ってる?」
 鉄人はいきなり核心をついた。
「ああ、決まったのは昨夜だ。おまえさんが知らなかったのも、無理はねえや」
 そういえば今朝は銀町と会っていなかった。学園に泊まりこみだったのだろう。
「なんなわけ、アイツ」
「さあ、おれも詳しいことは聞いてねえ。なんたって肝心の絵麗亜センセイがだんまりだからな。胡散臭ぇのと、大丈夫だってのが半々ってトコだ。気ィつけろよ」
「言われなくったって。命盗られるのは御免だもん」
「盗られるだけなら、喜ぶヤロウもいるんじゃねえのか」
 痛烈な冗談に鉄人は苦笑いをした。確かに。国家を揺るがしかねない面倒事は、秘密裏にもみ消されたほうが、日本政府としては安堵する。厄介者祓いに荷担できるなら、警察も内閣総理大臣も見て見ぬふりをするにちがいない。
 ハルモニア製薬、イコール、アメリカ合衆国最大の秘密結社。コーサ・ノストラや、中国の蛇頭などという世界の裏社会にも通じている。ここ四半世紀で急激に台頭してきたのは、『神の見えざる手』というゴッド・プロジェクトの成功による。超越的な知識あるいは情報の集合体、カオスを暴力的に増幅させる生命科学技術だ。現在までに27の成功例がある。
 ところが、生み出されたものは単なる天才にとどまらなかった。
 研究者自身も、予測はしていなかったにちがいない。頭脳だけならば、27台のスーパーコンピューターさえあれば容易に対抗できる。裏社会を震撼とさせたのは、むしろその副産物のほうであった。
 もっともわかりやすいものは、不老という、太古の昔から人が渇望してやまなかった力である。
 それに加え、被験者たちは神々の個性とも言える特別な能力を備えていた。だがさらなる研究が続けられる前に、神の手を畏れ離反した一部の研究者が、プエルトリコの研究施設から数名の被験者を逃亡させたのである。
 鉄人は孫のようにかわいがってくれた老齢科学者が命を賭して、日本の銀町絵麗亜に託した。自分が日本人の血筋を引くことを、鉄人はそのときはじめて聞かされた。
 誰が敵か味方か定かではない外の世界で、鉄人にできたのは銀町を信頼することだけだった。
 特殊な日本社会に順応するのは、鉄人にとっては朝飯前だった。
 あまり目立つなと注意されれば、素直にそれに従う。銀町が睨みを利かせたせいか、日本政府は鉄人の受け入れをあっさりと黙認した。
 テッドという生まれながらの呼び名をもじった、鉄人という日本名を与えられた。
 銀町絵麗亜は自分にも他人にも厳しい女性であった。鉄人の正体を知っても異端の目で見ることをせず、てきぱきと指示を下した。
 銀町家といえば日本を陰で牛耳る最大最強の財閥である。闇の皇族とも呼ばれている。学園理事長などというのはあくまで仮の姿である。
 銀町の懐に隔離されている間は、ハルモニアも容易に手出しはできまい。
 だが、鉄人と同じ『被験者』が刺客として送りこまれたら、どうか。
 銀町は拒めないだろう。鉄人という前例がある以上、魁だけを無視するわけにはいくまい。仮に魁が笑顔の裏にナイフを隠し持っていたとしても、手元で起こす事件なら未然に阻止できる可能性もある。
 苦渋の決断だったにちがいない。
 気が重くなるのを感じて、鉄人はふうと息を吐いた。舵狸男は困惑した様子で、「そういえば」と言った。
「樹花姐に聞いたんだけどよ、1組のガキどもがテンパってるらしいぜ。おまえもよ、ちいとは目立たねェようにわざとテスト間違えるとかよ、できねえのかよ。それでなくてもここのガキャー、一点二点で人生盗られたかのようにバカ騒ぎするんだからよ」
「あー……そういうこと?」
 鉄人は確信犯の表情でニヤリと笑った。目立つなと銀町には釘をさされたが、学園生活を楽しめともたしかに言われた。それならば上等、自分には自分なりの楽しみ方がある。
「悪人のツラだな。ゾクッとする」
 吐き捨てる舵狸男に、鉄人はピースをしてみせた。
 その時、ポケットの中で携帯電話がブルブルと振動した。
 メールの着信マークにキーをあわせて、開く。
 受信 Eleanor 17:05 話がある。至急帰宅のこと
「そら来た」
 鉄人は鞄をつかんで、「じゃ」と手を挙げた。

 中間考査間近の校内は部活も休みなので、生徒の気配はまばらだった。
 新校舎と旧校舎をつなぐ渡り廊下を横切ろうとしたとき、複数の人影が鉄人の前に立ちはだかった。
「待ってたよ、弓ノ間くん。用務員室にはいってくのが見えたから」
 言うと同時にがっしりと腕をとらえたのは、1組の雷電編駝麓であった。
 眼鏡の奥から小さい目がこちらを睨みつけている。
「ンだよ。用かよ」
「用がなければ待ってるわけないじゃない」
 ねっとりと絡みつくように答えたのは、やはり1組の某雁瀬音香。
 成績優秀な書記と風紀委員がならんで、ひそやかな笑みを浮かべる。
「ちょっと、顔貸してくんないかな。話があんの」
 瀬音香はすらりとスタイルのよい、少し冷たい感じのする美人である。雷電とは公の仲だということは、鉄人も知っていた。
 雷電は飛び抜けて背の高い少年で、ひ弱そうな外見とのアンバランスが女の子たちにとっては魅力的なようだった。
「悪いけどおれ、ちょっとイソガシイから」
 相手にせずすり抜けようとした鉄人を、雷電はさらなる力で掴んだ。
「いてぇよ。離せよ」
「弓ノ間くん、理事長の家に住んでるんだって?」
 瀬音香の言葉に、鉄人はギクリとした。
「あはは、隠したってムダムダ。とっくにバレてるもん。いいわよねー、将来を約束された人は」
「なにが言いたい」
「だから、お話ししませんかって誘ってんの。お互い、悪い話じゃないと思うんだけどな」
「見え見えなんだよ。けっ」
 鉄人は雷電の手をふりほどいた。くだらなすぎて虫唾が走る。
「ああら、いいのかな、そんな素直じゃなくって。後悔しても知らないわよ」
 瀬音香はクスクスと笑った。「おトモダチの猛地くん、どうなっちゃってもいいのかなあ」
「なんでハーが出てくんだよ」
 言いながら、いやな予感がした。ふたりの後ろにクラス委員長の燕がいることはわかっている。燕の父親は、いわゆるヤクザだ。
 冷や汗が首筋を伝った。
「……ようやく、わかったってカンジ?」
 鉄人が黙りこくったので、瀬音香は鞄を背に持ってくるりと回りながら言った。
「じゃ、いいわね? 駅前の『ラプソディア』で待ってるから。編駝麓、いこ」
 ラプソディアという高校生にはあまり相応しくないカフェバーが、暴力団燕組の経営であることくらい、鉄人は百も承知であった。
 思わぬ急展開に唇をきつく噛む。同時に、ナメんなよという黒い欲望がむくむくとわき起こってきた。


2006-01-15