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クライム9―自閉

 子どもは背中を向けたまま。
 こちらは気配を消しているわけでもないのに、近づいても振り向かない。
 反応がないということは、耳が聞こえていないのだろうか。まさか相手を察して、無視しているわけでもあるまい。この子はおれの来るのを、ずっと待っていたはずだから。
 膝をかかえて、背中を小鼠のように丸めている。青っぽい上着が規則的に上下する。まったく乱れのない呼吸のひとつひとつ。
 もういちど声をかけた。知っているその名前を呼んでみた。
 思ったとおりだ。やはり聞こえていない。
 しかたがない。おずおずと肩に触れてみる。
 ぬくもりが手のひらに伝わった。生きている。けれど、反応がない。
 外部刺激も認識できないのだろうか。そうか、この子は病気なのだ。放置された期間があまりにも長すぎたために、いろいろな感覚器官が不全に陥っているのだ。
 肩から手を離して、もっとそばに寄ってみる。脅かさないように細心の注意をはらって、そっと下から顔をのぞきこんだ。
 なつかしい顔。
 久しぶりに見た。
 幼さの残る相貌。祖父から受け継いだ鳶色の瞳。昔とぜんぜん変わっていない。
 確信した。この子がなにも認識していないこと。聞こえてもいないし、見えてもいない。触れてもわからないし、おそらくは口もきけないのだろう。ひょっとしたら、思考も停止しているのかもしれない。
 考えていることはどんなに隠そうとしても表情にあらわれる。視界に動くものがあれば、眼は無意識にそれを追う。なのにこの子はそれにすら反応しない。
 まるで人形だ。
 放っておいたら、世界の終わりまでこうやってじっと座っているのだろう。
 来るのが、遅すぎたのかも。
 だけど、困った。この子がこれほどまで病んでいるとは、予測していなかった。このまま座らせておくのも忍びないし、第一、荷物になる。役に立たないのに連れて歩くのは骨が折れる。
 考えあぐねているうちにだんだんいらいらしてきた。まったく、これも自分の一部だなんてなにかの冗談だ。好きで分離したのだから、お望みどおりすみやかに消滅してくれればいいのに。
 造反した上に後始末までしてくれとは、まったく子どものたくらみそうなことだ。いやになる。
 さて、どうしたものやら。
 手をこまねいていても、先に進まない。
 さっさと決断して、旅立たなければならないのだ。これ以上この地にとどまるのは危険すぎる。不穏な動きも見えはじめた。血のにおいにはやたら敏感な連中に嗅ぎつけられないとも限らないし、好ましくない戦乱を招くのも不本意である。
 目を閉じて、心を決める。
 致し方がない。
 この子は殺す。
 人格のひとつやふたつ葬ったところで、生きていくのに支障はない。それよりも足枷になるほうが怖い。
 おれを恨むなよ。むかし『おれ』だったおまえ。
 おれは右手をスッとのばし、自分と同じ姿形をした子どもに触れた。
 ソウルイーターに命じる。
 ”喰らえ”
 テッドは膝をかかえて背中を丸めたその姿勢のまま、白い闇にはじけて霧散した。

クライム9