きのうまで、老人と暮らしていた。
この町は想像以上にきれい好きで、子どもが単独でウロウロするには少しばかり目立ちすぎたから。身寄りがないと判断されれば否応なしに捕獲されて、寒々とした福祉施設に送致されるのが関の山。リスクを冷静に評価したおれは、橋の下の家とも呼べないようなボロ小屋に住む偏屈じいさんのもとへころがりこんだのだ。
老人はとてつもなく変わり者で、周辺住民からもそうとう嫌われている様子だった。善良な町人たちは居るだけで迷惑なくそじじいを追いだしたくてうずうずしているのに、手が出せないといった感じであった。
それもそのはず。橋一帯はなんと、老人の正式に所有する土地だったのである。税金をきちんと納めている以上、目障りだから立ち退けと強気で迫るわけにもいくまい。
だから人々は眉をひそめてささやくのだった。あと少しの我慢だよ。触らぬ神に祟りなし。
どうせ老人も長くはない。あとを継ぐ者だっていない。掃除なら、くたばったあとで徹底的にすればよいのだから。
ごらんよ、あの小屋の汚さはどうだい。きっと病気をばらまくネズミの温床となっているにちがいないよ。まずはあれを解体し、廃材は住人の痕跡とともにすべて灰にしてしまいましょう。更地にして花を植えたら見栄えも少しはよくなるかもしれない。そう、これこそが環境整備という慈善事業。町のために、これ以上の善行がどこにあろう?
それにしても薄気味が悪いじじいだ。近所の子どもたちに悪影響を及ぼさぬうちに、厄介者は消え去るべきだ。そうだ、あんなお荷物はとっとと死んでしまうのが世のため人のためなのだ。
陰口が声高にきこえてくる。橋のあたりにじめじめと降りつもる。毒で湿ったそのカスが、老人を一日でもはやく鬼籍に迷いこませるための餞別だと言わんばかりに。
あの小屋には近づくんじゃないよ、人をとって喰うじじいがいるからね。おれも親切ごかした無責任なだれかにそう忠告された。
悪いけれど、おれはちょっと笑ってしまった。
だれに向かって言ってるんだか。
人間を見かけだけで判断しても、このぬるま湯のような町では生きのびていけるらしい。
あんた、おれのこと匿ってくれますか。人をとって喰うけれど。そう意地悪く突き返してやりたかったが、詮無いことだからやめた。
それはともかくとして、利用する価値がありそうなのは橋の下に住む老人。
条件としてはけして悪くない気がする。家つき、土地つき、それに加えて人嫌い。かなりの高齢で、明日死んでも不思議ではない。看取る者もいなければ、悲しむ者もいやしない。
陽がとっぷりと翳ってから、弱いあかりの漏れる木の戸を叩いてみた。どうせ追っ払われるのがオチだろうと予測していたけれど、老人は驚くほどあっけなくおれを中に招いてくれた。
その日から奇妙な二人暮らしがはじまった。
トントン拍子にうまいこといきすぎて、考えれば考えるほどおかしいくらい。おれとじいさんは、相性としてはそこそこだった。つまるところよくも悪くも似たもの同士というやつだ。
突っ張っていても、本音は人恋しい。しかしそれを態度で示すことを嫌悪している。世の中安っぽい人間ばかりで、そういう連中に心をさらけだそうと思わないのは、おれもじいさんもいっしょだ。
居もしない理解者があらわれるのを孤独に待っていたのだ。この人も、あまり認めたくはないがおそらくはおれも。
おれを理解する。それはすなわち、命をなげうつことを意味する。おれには呪いがかけられていて、その呪いは近づきすぎた魂をことごとく捕食してしまうのだ。おれに理解なんぞ示したら最期、飢えたソウルイーターに取りこまれて永遠に死の闇を彷徨うはめになる。
だからおれはだれも近づけない。人のためを思ってではない。とり遺された自分が傷つくのがいやだからだ。
老人は滅多にあらわれない特殊なケースだった。彼は半分ほど瞑目しながら、遠くない死への時間を数えていた。
この人は救済を求めている。
リスク評価。おれにとってはそこからすべてがはじまる。
ほんとうに後悔はしないか。自分自身と交渉する。保身することは恥ではない。逃げもまた生きる術のひとつだ。
条件に不備はなにひとつなかった。
長い時を地べたに這いつくばりながら生き、薄汚れてしまったふたつの魂。浮かんだ錆は中身を修復不可能なまでに腐食させた。後戻りなどもはや望むべくもない。だからこそおれとじいさんは、代償になるものを互いに差しだして、限られた時間を共有することを選んだのだ。
後ろ指を指されても。
汚いものを見る目つきでにらまれたとしても。
おれは思った。これが安堵というものだと。
会話もない、ただそばにいるだけの日常。
名前すらも必要なかった。
偽りの愛情は交換条件には含まれない。
要らぬ気遣いを見せたら最後、この均衡はあっというまに崩れてしまう。すべてが一瞬で嘘に変わって、破綻する。
おれたちはただ隣同士に存在するだけで、互いのほんとうに欲しいものを与え続けることができた。
いい関係だったといまになっても思う。果たしてその時はとても、とても短かったけれど。
老人が挨拶もなしに静かに命を閉ざしたのを確かめて、おれはあらかじめまとめておいた他愛のない荷物を背負った。
契約が終了すれば、とどまる理由はもうない。
墓に手をあわせる義理も、ひとまずはなかろう。
世話になった小屋のなかをくるりと眺めてから、あかりを吹き消して、木の戸を押し開けた。外は星のひとつも見えない夜だった。
さて、これからどこへ行こう。気の向くまま、足の向くままか。どうせまた当分のあいだ、独りぼっちにはちがいないのだ。
