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九つの刹那―150

 カゲロウなどの短命な動植物をエフェメラルと呼ぶ。エフェメラル・ライフとは、はかない人生のことをいう。
 では、儚いの定義は。なんだか無性に腹がたってきた。テッドは顔をしかめ、本を乱暴に閉じた。この先を読み進めるつもりは毛ほどもない。
 長生きしながら、人生にはかなさを感じて悪かったな。
 ヒトの感情をあらわす言葉は耳に心地よく響くも、その実ひどくあいまいで無粋だと思う。そう、音は美しいから、作家気取りの凡人がよろこんでテーマにしたがる。
 短い人生だからこそ強く光り輝くだの、世のなかに変わらないものなどひとつもないだの。
 二番煎じ三番煎じの千篇一律な運命論をあたかも個性的であるように装飾してみせるだけで、大衆はコロリとだまされて暗涙にむせぶ。物書きとはすてきな商売だよ。詐欺師め。機会があればいちどやってみるか。
 それにしても。
 長くはもたない命を、この軍主どのははかないと嘆くだろうか?
 達観しているように見えるのは、気のせいか。
 もとより細かいことは気にしない、いわゆる大雑把な性格の少年だけれど、内面をさらけだしているとは決めつけられない。茫洋として、見えにくいところがある。没個性を演じるのはたしかに長けているようだが、それは生い立ちのせいだろう。身寄りがなく、ガイエンの貴族の家で幼いころから小間使いをさせられていた噂は聞こうとしなくても勝手に聞こえてくる。
 少なくとも、凡庸な人物であるのならいまこうしてリーダーの地位にはおるまい。
 霧の船で試みたテッドの『釣り』にも、彼は引っかからなかった。したたかなのか、それとも取り繕うのがうまいのか。あるいは筋金入りの、馬鹿か。
 変なやつ。
 エフェメラル・ライフ《はかない人生》なるタイトルの冠された本は、軍主ノエルの個室でみつけた。この時代に流行りだした、仮想小説というたぐいのものだ。
 仮想小説は邪道、ご都合主義、大嘘ばかり書いてある。そんなものが受け入れられるから、人は愚鈍になっていく。いっそ禁書令をだして燃やしてしまえ。
 テッドの先入観はもはや動かしようもなく、あえて手にとった理由も、猛烈に暇だったからにすぎない。しかたがない。
 挙げ句、仮想小説への嫌悪がきれいに上重ね。これもまた、しかたがない。
 ノエルはこういったものを好むのだろうか。申しわけないが理解不能である。他人の感傷を共有してどこが面白いんだか、テッドにはさっぱりわからない。
 栞紐はごくごく冒頭あたりにはさんであった。めだった折れも汚れもない。筆者の名前でなにかがひっかかったが、どうでもいいことにしてしまう。
 小さな本棚には大小幾つもの本や紙類が押しこめられており、その端で異彩を放っていた一冊だ。
 ほかの本は多くが教科書のようであった。海上騎士団訓練生時代のものだろう。これらにはノエルの署名があり、そうとう使いこまれている。勉強家だなあ、と感心しながらぱらぱらとめくってみたら、とあるページに不細工な猫の落描きを発見した。魚らしき謎の物体をくわえている。
 折りたたまれた海図もみつけた。破れは裏面から紙と糊で補強されて、表には処狭しとメモ書きがある。きっと大事にしているのだろう。『岩礁帯、潮位の高いときは目視できない、危険』から『この店の饅頭は星四つ、惜しい』まで、眺めていてまったく飽きのこない貴重な逸品だ。隙あらば去り際にいただいていこう。
 ぞんぶんに楽しませてもらったが、まだ時間はたっぷりと残っている。お務めが終わるまではこの部屋から出てはならない。
 へたに借りをつくると、こういう時にしまったと後悔するんだよ。
 よせばいいのに、最後の一冊に手をのばした。
 手にとって十分で理解した。予想どおり、こりゃ、クソだ。
 お定まりの大衆無能化計画。ついでにテーマが気にくわない。最高に。
 ノエルの内面をのぞき見した気がしてなんとも居心地が悪い。
 おそらくは読みもせず、かといって図書館に寄贈するつもりもないのだろう。エフェメラル・ライフ。威勢よく指揮をとっているそのあいだにも、つねに意識しているにちがいない、定められた命の期限。
 絶望、それとも。
 あきらめ?
 当のノエルは死んだように眠っている。
 仰臥位で、ぴくりとも動かない。等身大の人形のようだ。
 息をしているかと心配で顔を近づけてみるが、ほんとうに眠っているだけだ。ゆるやかに胸が上下する。生きている証拠。
 静かすぎるような気もするけれど。
 罰の紋章を発動させて昏倒したノエルを医務室経由で個室へ運び、最初はやれ軍師エレノアの責任問題だの、卑怯な手を使うクールークへの批判噴出だのでひと悶着。烏合の衆はわめきだしたら手がつけられない。テッドは作戦室の隅っこで傍観していた。
 それらがあらかた沈静化するとこんどはラズリルのお仲間の鬱陶しい反省会がはじまった。お友だちも善し悪しだよ。いればいたで賑やかだろうが、心配させるくらいならいなくてもよい。
 取り巻きどもの見舞い合戦で人がぎゅうぎゅう詰めだった第一甲板は、いまはうそのように静まりかえっている。オベルの王リノ・エン・クルデス、もしくはエレノアのどちらかがキレたにちがいない。
 軍師エレノア、か。
 赤月帝国の名門、シルバーバーグ家の名を継ぐ者。
 いまや落ちぶれて酒浸り、アル中軍師。
 罰の紋章を恐れる者は軍を去れ。責めはしない。そう宣言したらしいが、ただのひとりも船を下りなかった。お見事な心理操作だよ。巨悪のシルバーバーグに栄光あれ。
 赤月帝国。クールーク皇国のさらに北、黄金の皇帝の治める大国。テッドがまだ若い頃、そこはハルモニア神聖国の地方領土にすぎなかった。新しい国ができるとき、そこには真の紋章の影がちらつく。
 赤月か。まだまだ遠いな。
 テッドは重い腰をあげ、渋面で本を棚に戻した。わざと音をたてたのに、ノエルは目をさまさない。
 安らかに永眠してんじゃねえよ。起きろよ。朝だぞ、コケコッコー。
 つついて起こしてやろうかと思った。王さまから勅命をうけて半日。寝顔を監視しているだけというのもいいかげん退屈なのだ。
 それに、腹が減った。あろうことか、だれも食事を運んでくれない。ほんとうに気の利かないやつらだ。
 それとも、テッド少年は霞を喰って生きてるとでも思われているのだろうか。
 霧のなかから幽霊よろしくやってきたから、幽霊属性一発認定。ありえる。
 登場イベントで目立ちすぎたか。うっかりだな。
 まあ、アンデッドはまったくハズレというわけではないけれど――いやいや笑いごとではない。これは真剣な考察である。テッドだって飯も食うしションベンもするのだ。
「ぶん殴るぞ」
 空腹はイライラを増幅させる。悪態のひとつもつきたくなろうもの。
 ところが、その声にノエルが反応した。
 ふいに、ぱちりと目をあけたのだ。
 スイッチが入るみたいに。
 目と目があう。
「おまえに言ったんじゃないからな」
 とんちんかんな弁解をノエルが解するはずもない。
 数瞬のあいだ、固まった空気のなかでふたりは見つめあった。
「テッド」
 先に沈黙を破ったのはノエル。
「おうよ」
 ノエルはフッと安らいだ顔をした。そして小さくつぶやいた。
「ぼく、生きてる」
「あたりまえだ」
 ノエルは左手をゆっくりとかざした。
 ランプの光に浮かびあがる罰の紋章。
「まだ、生きてるんだ」
「不思議そうに言うな、縁起でもない。おまえが無茶なまねをするから、大変だったんだぞ」
「団長を、斬ってきた」
「おい、まだ夢みてんのか? 人の話きけよ」
「つぎは、ぼくの番だ」
「こら! ノエル」
 いいかげんにしろ、とテッドは額を小突いた。デコピンというやつだ。
「痛て」
「当然だ。生きてるんだから、あたりまえだ。早く気づけ」
「生きてる……」
 ノエルは反芻し、深く息を吸って吐いた。「みんなも生きてるんだ」
「ああ。おまえのおかげで、敵の自爆艦隊は全滅。当艦隊は損傷なし。もうひとついいことを教えてやろう。オベル王国も奪還したぞ。島に残っていた王女や島民も全員無事だ」
「よかった」
「ああ、よかったな。どっかの無鉄砲なリーダーのおかげで群島にいい風が吹きはじめたなあ」
 それはけして嘘ではない。群島諸国はようやくひとつにまとまった。あとはクールークに対抗できる策を練るだけである。
 にらみあいの状況は長くもつまい。決戦の刻は遠くない。
 ノエルは額をさすりながら、ようやく笑顔をみせた。
「テッドがいたから、びっくりしちゃった」
「悪かったね、かわいい女の子じゃなくて」
「ううん、テッドでよかった」
「なんでだよ」
 蒼いひとみが鋭くテッドを射すくめた。ぼんやりとしていたもやはきれいにかき消えている。
 強いひとみだ。テッドは思わず視線を反らしそうになった。
「王さまから、あんたを見張ってろって命令された。そんだけだ」
「ああ……そうだったのか」
「ズルいよな。こういうときだけ、都合よく手駒にしやがって」
 リノ王はテッドが真の紋章を持っているのを知っている。いつ、そのことに気づいたのかさだかではないが、『薄気味悪いガキ』のままならばテッドにこのような役目を与えたりはしないだろう。このような役目とはすなわち、”同じ立場としての”相談相手のことだ。
 ただし、真の紋章がふたつ、もっとも近くに揃っていることを王はけして口にしない。おそらくはエレノアも。リノ王の考えは軍師エレノアに伝わる。逆もまたしかり。
 これは罰の紋章を巡る戦争である。生と死を司る紋章は関係ない。仮に表沙汰にしたとしても、さらなる惨禍の火種となるのがオチだ。
 ノエルの持つあまりにも強大な力を仲間は幾度もまのあたりにした。根源の恐怖。彼らはすでに限界なのである。王はそのことを心得ている。もうひとつの紋章はバランスを大きく崩してしまう。
 テッドとて、無用の混乱は望まない。
 ソウルイーターここにありとのろしを上げるつもりは毛頭ない。逃亡者の身で軍に加勢したことすら、自分でもコントロールできない衝動からきたハプニングだ。
 この戦いに勝っても負けても、借りは返せる。契約は『戦いが終わるまで』だ。ノエルの生死を問わず。いずれにせよ、タイミングを見計らって群島諸国から出ていく。そして二度とこの海へは戻らない。
 群島には干渉しすぎた。
 霧の船から脱けだしたあと、なぜあんな心にもないことを口走ってしまったのか。戦場に残るなどと。それがなにを意味するのか、わからなかったわけでもないのに。
 テッドは気づいている。認めたくないだけだ。
 テッドは、人が恋しかったのだ。
 薄ら寒い泡沫の暗闇に時も忘れるほど囚われていた。
 話し相手は、闇をさまよう死霊ども。もちろんテッドが一方的に話しかけていただけだ。独りごとのようなものだ。
 独りに慣れているはずの自分がどんなに寂しがりやか、他人は欺けても自分だけは誤魔化せない。
 異形の船長にさえ、甘える気になったくらいだ。
 極限の狂気。
 騙されていようが、利用されているだけだろうが。
 船長は、テッドの名を呼んでくれる唯一の存在だったのだ。
 だから、あのとき。
(友だちにならないか)
 真の紋章を宿した少年の提案があまりにも衝撃的で、あやうくうなずきそうになったのも無理はない。
 だが、その誘いに応じるのは禁忌。
 とっさの妥協策でしらばっくれたのはいいが、ノエルには勘づかれたような気がする。
 ノエルは頭がいい。朴念仁のようにみせかけて、きっちりと人を観察している。あの底知れぬ蒼いひとみで。
 ノエルはまばたきして、ゆらりと身体を起こした。
「おい、だいじょうぶかよ。まだ顔色があんまりよくねえぞ。ぶったおれんなよ」
「テッドって、意外に心配性だね」
「意外には余計だ、ばか。それに、心配してんのはほかのやつらだ。あんまり心配させんな、気の毒だから、あいつら」
「はいはい。すみませんでした。今後、気をつけます」
 気をつけるもなにも。エレノアの命令に躊躇することなく紋章を発動させたくせに、ノエルはまったく反省していない。はかない命を削るのを厭いもしない。
 次はないかもしれない。周囲の人間が先にそれを考える。
(つぎは、ぼくの番だ)
 目をさまして口走ったせりふを思いだし、テッドは背中に冷たいものを感じた。
「おまえ、もう、それ使うな」
 次はないかもしれない。テッドもそれを考える。
 そしてノエルは、確信している。
 つぎは、ぼくの番だ。
 ノエルは薄くほほえんだ。
「さあ、どうかな」
「いつまでも、次があると思うなよ」
「うん、もちろん。だけど、使わなければならないと思ったらぼくは、つぎもためらわないとおもう」
「なんでだよ」
「それ、口癖なの? ちょっとは自分で考えなよ、テッド」
 不意の反撃にテッドはたじろいだ。
「なんでおれが。おまえのことなのに、わかるかよ」
「おかしいな。テッドならわかるような気がしたんだけど」
 ノエルは言って、「期待はずれか」と独りごちた。
「挑発してんのか」
「いいえ、べつに」
「じゃあ、おれ、もう行く。王さまに報告しとくから」
「待って、テッド」
「なんだよ」
 そう言って振り向いたテッドを、ノエルのひとみがしっかりと捕らえた。
 くそ。
 この目は危険すぎる。真剣であればあるほど、引き寄せられる。食虫草が獲物を捕食するがごとく。
 その瞬間、テッドの右手がチリッと灼けるように熱を帯びた。思わず拳を握りしめる。
 心臓が跳ねあがる。
 まずい。
 これと同じ感覚はいつでも、大きな不幸を招きよせてきた。
 まさかとは思うが、ソウルイーター。真の紋章の宿主であろうとターゲットに変わりはない、と、そう忠告しているのか。
 だったら、借りを返すどころの話ではない。逆に借りを増やしてしまう。
 一刻も早く船を下りなければ。そして群島を離れるのだ。あまり考えたくないけれど、最悪のへまをしでかした場合、ふたつの紋章を背負いこむことになるのだろう。そんな地獄の沙汰はまっぴらだ。
 罰の紋章のお守りなんかできねえよ。
 そもそも、戦争に手を貸そうだなんて言いだした、たとえ詭弁にしろ、そのこと自体があまりにも浅はかだったのだ。
 右手が疼く。熱い。
「そうじゃない、テッド、そうじゃないんだ」
 ノエルは語気を強めた。何が言いたいんだ、こいつは?
「テッド、ぼくの紋章がいまざわめいてる。テッドは? テッドの紋章は」
「ざわめく?」
「あ、ほら。また」
 チリッ。痛みにも似た灼熱。それは断続的に襲ってくる。
 ターゲットを補足してにやついているときの、ソウルイーターだ。
 いや、そうか?
「共振してるんじゃないだろうか」と、ノエル。
「……共振?」
「きっと、そうだ。テッド、ぼくの左手を、きみのその右手でつかんでみて」
「ばかいうな」
 そんなことをしたら、テッドはここにあるすべてを敵に回すことになる。
 ただでさえ風前の灯であるノエルの魂、消耗寸前のそれを喰らうことだけはぜったいに避けないといけない。ノエルの存在は群島諸国の人々の支えなのだ。横から奪ってただですむはずはない。
「怖がらないで。だいじょうぶだから」
「だめだ。おまえはソウルイーターのことをなにも知らない」
「そうだね。テッドだって、罰の紋章のことを知らない。お互いさまだ」
「いっしょにするな」
「石頭。紋章が話をしたがっているのに気づかないなんて。ぼくにはそれがわかるのに、どうしていっぱい生きたテッドにはわからないの。紋章とのつきあいはテッドのほうがずっとずっと長いんでしょ」
 紋章が話をしたがっている。
 テッドには、ソウルイーターが舌なめずりしながら獲物が罠にかかるのを今か今かと待っているようにしか感じられない。
 長く生きすぎたがために。
 そうとしか感じることができなくなってしまったのだ。
(ソウルイーター)
 おまえに意志があるのなら、もっとわかりやすくシグナルを伝えてくれ。食欲ではないとはっきり言ってくれ。なにを考えてるんだ、おまえは。
 右手に神経を集中する。
 チリ……チリリ……。
 鋭い熱。もうひとつの鼓動。
 悪しき意志。まがまがしい捕食者のうめき。
 意地悪するな。もう、おまえから逃げたりしないから。
 もう少し。もう少しはっきりと。
 テッドがひとみを閉じた。次の瞬間。
 右手をつかまれた。
 とっさに跳び退こうとした。しかし、手はからみついてふりほどけない。
「ノエル!」
「力なら負けないよ」
「ばか! 死ぬ気か」
「しっ。暴れないで……来た」
 テッドはあやうく絶叫するところだった。
 流れこんでくる。猛烈な勢いで。
 異質なもの。
 単純なものと複雑なもの。秩序と混沌。膨大な記憶の断片。光と闇。静と動。相反するもの。内面的感情。本能。矛盾する概念。だれかの自我。鳴き声。叫び声。嘆き、苦しみ、歓び、痛み。連鎖。連鎖に次ぐ連鎖。さらなる大連鎖。
 それらは光の矢となってテッドの右手から全身を駆けめぐり、膨張し収縮し、天へと突き抜けた。
 しかし奔流は、刹那。
 すべての音が消え去っても、手と手は握られていた。
 呼吸をするのも忘れるほどの現実だけが、そこにあり。
 灼けるような熱は去っていた。
 かわりに感じたのが、互いのてのひらが放つ熱であった。
「……すごいや」
 口を開いたのはやはりノエルで、けれども声はかすれていた。テッドはむさぼるように呼吸をすると、その場にへたりこんだ。
 テッドも、そしてノエルも、嵐のなかで悟った。
 罰の紋章と、生と死を司る紋章は、この海で出会う運命だったことを。
 『彼ら』は数百年、あるいは数千年にいちど、そうやって再会し、刹那の刻をともにすごし、またふたたびそれぞれの旅に出るということ。
 彼らだけではない。
 二十七の真の紋章はみな、ひとつ残らず結びついている。
 邂逅に立ち会える宿主はほんの一握りである。
 いつか遠い未来に、真の紋章はひとつところに集う。そして――。
 テッドはその先をほんのわずかだが、かいま見た。
 それがほんとうならば。
 世界は秩序によって完全に守られることになる。
「終わりを見た」
 テッドはうわごとのように言った。
「終わりだろうか、あれは」 ノエルもうつろに言った。「ほんとうに、終わりなんだろうか」
「どうだろう」とテッド。
 その圧倒的な静寂をなぜ、『終わり』であると感じたのか。
「生と、死、それは光と影のように寄りそっている。だけどあの世界には、生の気配がまるでなかった。そんなところでは、ソウルイーターは存在できない」
「真の紋章が消えるということ?」
「役目を終えることは、あるかもしれない。ノエルは何を感じた」
「永遠なる赦し」
「永遠?」
「永遠とは、ずっとということだ」
 それ以上、ノエルは語らずに、テッドから手を離した。
「遠い未来だ」と、テッドも手を下ろす。
 もし、それが世界の終わりだったとしても、はるか遠い未来のことだ。しかし。
(真の紋章は、消滅してしまうのか?)
 人が生と死の運命から逃れられないように。世界もまた、同じ運命をたどっていると?
 船長は、世界は平行して百万も存在すると言った。
 百万とは仮の数字で、その実は無限という意味だとテッドは思う。
 生まれる世界があり、消える世界があることは、なんら不思議ではない。
 生と死。
 罰と贖い。
 人にとって真なるものは、世界にとってもまた真であるのか。
 真の紋章がすべて出会い――完全なる秩序を成し遂げたら、紋章は存在する理由を喪う。
 あるいは、二十七の破片はひとつになって、秩序そのものになる。
 流転。
 ”最初に『やみ』があった”
「遠い未来だ」
 ノエルが復唱した。
 世界の終わりにノエルとテッドが立ち会うことはないだろう。しかし、真の紋章たちにとって、世界ははかないものなのかもしれない。エフェメラル・ライフ。紋章たちは絶望するカゲロウ。
「世界を、そういうふうにしたいとは、紋章は望んでいないと思う」
 言ってから、テッドは軽く混乱した。確証がないからだ。
 しかし、想像するだけなら自由でよかろう。
「おれは、わずかなあいだだけど、時のはざまにいたからなんとなくわかる。あれほど静かで、寂しいところはない。闇だって涙も落とすだろうよ。だから真の紋章は宿主を求めるんじゃないかな。人は混沌のなかでしか生きられないから」
「秩序で支配されないように」
「そう。真の紋章って、封印することもできるだろ。現に罰の紋章はオベルの丘に封印されていたっていうじゃないか。この、生と死を司る紋章も、おれの村の祠に封印されていた時期がある。でも、人はどこまでも欲深くて、強大な力を求める。真の紋章は力そのものだ。ここにありますよ、って看板立てていつまでも封印しておくわけにはいかない。おれは、こいつが盗まれそうになったから、自分に宿して村から逃げてきた。百五十年も前の話だ」
「そのとききみは十歳だった。おじいさんがそれをきみに継承した。ソウルイーターがどんな紋章か、知らされないまま闇雲に逃げた」
 テッドは目を剥いた。
「どうして知ってる」
「いま、知った。ソウルイーターをとおして」
 ああ。
 なるほどね。
 記憶の交差。ノエルはその尻尾をうまくつかんで、テッドの過去を『視た』のだ。片やテッドは、己の記憶すら整理しきれずに、どれがノエルの持ち物なのかわからない。
 ただひとつ、はっきりと浮かんできたものがある。
 ひとりの女性の悲愴な決意。
 胸を突き破るような激しい痛みに耐える、迷いなき凛とした魂。
 彼女は祈り、左手を高く掲げる。
 船の帆。蒼穹。むせかえるような炎と血のにおい。
(これで終わり)
 赤ん坊を抱えた幼い少女の姿が一瞬だけよぎる。
(ごめんなさい)
「……」
 ノエルの記憶ではないだろう。テッドはそれをしまいこんだ。
 誰のものでも関係ない。罰の紋章のなかにころがっていた、単なる記憶の断片だ。
「おまえって抜け目ねえな、ノエル」
 ノエルはそれには応えずに、視線を天井へ反らした。
「あの人は誰だろう」
「あの人?」
 ノエルは少しのあいだ黙りこんで、それからぼそりと言った。
「おにいちゃん」
「おにいちゃん?」
「きみがそう呼んでいたんだ。覚えてないの?」
 おにいちゃん。
 覚えていないのではなく、記憶が膨大すぎて、それだけの情報ではいつの時代のものかすぐには答えられない。
 ノエルの視線がテッドに戻される。
「わからないかな。とても……とても強い記憶なのに。おにいちゃんは、深紅の服を着ている。きっと異国の服だ。テッドの名前を呼んでいる。きみは叫んだ。連れていってよ。必死だった。だって、もうすぐ光の門が閉じるから」
 ぎくりとした。
 だめだ。その記憶を掘りおこしては――だめだ。
 しかし、ノエルの回想はとまらない。
「テッド。ぼくは、テッドのことをずっと待っているよ。ぼく、必ず生まれてくるから。テッドに会うために生まれてくるから。だからテッドも約束して。生きるって約束して」
「……やめろ!」
 ノエルはびくっとして口をつぐんだ。
「それ以上、ひとことでも言いやがったら、許さない。ひとの記憶を勝手にもてあそんで愉しいか。愉しいだろうな。けどな、本気だぞ。殺してやる」
「ごめん……でも」
 でも、じゃない。
 その記憶にテッドがどれだけ翻弄されてきたか、できるならそこまで視てくれと叫びたかった。そんなきらびやかな断片などではなく。
 強くなれと。けして負けるなと言われた。わずか十の子どもが、だ。小さな手には真の紋章ひとつ。しかも最凶の、呪いの紋章と呼ばれ忌避されるしろものだ。そして幼いテッドは野に置き去りにされた。
 強くなれ。負けるな。約束して。生きろ。それこそがテッドにとって、真の呪いだったのだ。
 呪言。逃げても逃げてもつきまとう。
 ノエルには友だちがいる。テッドはいつも独りだった。友だちは紋章に喰われ、いなくなった。おとなたちはテッドを指さして叫ぶのだ。疫病神。出て行け。のたれ死んでしまえ。
(生きるって約束して)
「勘弁しろよ。発狂しそうだ」
 テッドは深く息を吐いた。
「おれも罰の紋章の記憶を視た。けれどおれはなにも言わない。だからおまえも口を閉ざせ。できれば、忘れてほしい」
「わかった。悪かった」
「他人の記憶なんて、持っていてもいいことなんか、ないぜ」
 ノエルは小さくうなずき、「そうだね」と言った。「ぼくはテッドが、その、独りじゃないと言おうとして……だけど、迂闊だった。テッドのいうとおりだ。こんなやりかた、テッドを傷つけるだけだ」
「いまさら傷つきはしない。思いだしたくないだけだ」
「百五十年……ぼくには、想像もできない」
「そんなの、お互いさまだ。自分のことでいっぱいいっぱいで、他人のこと構ってる余裕なんかあるか」
 ノエルは笑った。
「テッドって、ほんと、嘘がへただね」
「は?」
「いいよ、なんでもない。忘れて忘れて」
 それでもノエルはくっくと笑い続ける。
「おまえは、悪人だ」とテッド。
「うん、じつは海賊の修業中なんだ」
「最高に似合わねえ。やめとけ」
「じゃあ、王さま」
「それも似たり寄ったりだ」
「チェッ、あんがい口やかましいな」
 ノエルはぶつぶつ言いながら、口角を上げた。「さすが年の功」
「なんだとオラァ?」
 わずかな沈黙のあと、ふたりいっしょに噴きだした。
「あっはっはっは」
 ノエルは笑い涙をぬぐって、さりげなく「ありがとう」と言った。
 テッドは聞かなかったふりをした。
 はかない人生を終えようとしているノエル。
 その命は引き延ばすこともできるけれど、彼はそうしないと言う。
 その理由がわかったような気がした。
 胸を突き破るような激しい痛みに耐える、迷いなき凛とした魂。
 その女性とノエルがまっすぐに結びつく。
 ひとみの色が同じ。
 これ以上の詮索は無意味だ。彼女の魂はノエルが引き継いだのだ。迷いのない蒼い色の虹彩。そこに宿る強い光。
 テッドもまた導かれたにちがいない。はかない人生を望んだことが過ちであったと、いまは疑いなく言える。ノエルは、はかない人生を悲観していない。
 己に与えられた人生を力ずくでねじ曲げて、得るものなどないとわかったから。
 もう間違えたりしない。
 ありとあらゆる道が、無為だと信じていた過去が、ふたつの真の紋章の邂逅につながった。
 なにひとつ欠けてもノエルとテッドは出会わなかった。
 星の導きとは不可思議なもの。人にはけして太刀打ちできない強大な力だ。
 天間星。その星の名を授かった奇蹟にテッドははじめて感嘆した。
 いけない。ノエルが目をさましたと報告しなければ。仲間がきっと心配しているだろう。とくにあの王さまは。
 リノもエレノアも、どのような経緯でテッドの事情を調べたのか知らないが、とんでもない賭けにでたものだ。ふたりがテッドを完全には信頼していないことは、感触でわかる。薄気味悪いガキに見えても真の紋章の宿主だ。胡散臭くてあたりまえ。それでもなお、崖っぷちに立たされているノエルの力になるのではないかと。
 あるいはノエルを説得してくれると踏んだのかもしれないが――あいにくだった。ノエルの決意はもはや動かしようがない。
 いずれにせよ、紋章たちの悲願は成就した。
 あとはいままでどおり、互いに素知らぬ顔をして、我が道を往くのみ。
 時は儚い。けれど、それは雪のように降り積もり、人の脚で踏み固められていく。歴史はそうやってつくられる。今も昔も、そして未来も。
 ノエルは群島諸国にひとつの歴史を描くだろう。
 それは天魁星の名を授かった者に科せられる試練と言い換えてもいい。
 予感だ。ノエルなら必ず成し遂げる。どれほど困難な道でも、ノエルなら。
 いつか、自分も。
 テッドはもう、過去から目を反らさない。
 生きること。それは約束。
 おにいちゃんが、待っている。

九つの刹那


「この本読んだのか、ノエル」
「ああ、それ?……ううん。ええと、それね、壁新聞編集してるペローさんが書いた本だよ。あんまり売れなかったみたいだけどね」
「ふーん……って、えええええっ!」

2012-06-20