あわただしかった一日が、ようやく終わる。
まわりはさっきよりも薄暗い。見ると、ランプの油が尽きかけていた。芯も取り替えたほうがよさそうだ。しかし固定してあるので持ち運べない。転倒防止だろう。消耗品の調達について訊かなければならない。だれに?
人心地つくかと思ったのだが、開放的すぎるベッドが災いしてかえって落ち着かなかった。身分不相応な個室よりも、すし詰めの共用ベッドのほうが性に合う。
木を隠すには森の中、人を隠すなら人の中。寝に帰るだけの相部屋は意外と個性が見えづらく、短期ならばむしろ好都合な場合が多い。
五百名か、あるいはもっとか。これだけの人数を乗船させるくらいなのだから大部屋がなくてはいけないはずだ。
個室は身内やグループで使えばいい。テッドひとりにこの部屋はいくらなんでも贅沢すぎる。いきなりのお客さま待遇に裏事情を感じずにはいられない。隔離、か。ありうる。いまも見張りがいたりして。
笑い事ではない。
あとから同居人を押しつけられても困る。この様子では乗組員はまだ増えるだろう。断りづらくなる前に大部屋に移りたいと請求してみようか。
息がしづらい。窓のない閉鎖空間というのはどうしてもだめだ。テッドは慣れるということが得意ではなかった。神経質なのはもとからである。
目を閉じているだけでも休息になると小一時間ほどベッドに横たわってはみたが、やはり徒労だった。テッドは眠る努力を放棄した。
まあいい。睡眠がすべてではない。焦らずとも。
浅い眠りは夢をみる。脳より先に身体が眠ってしまうせいで、精神的には休んだことにならない。夢はたちが悪い。最低の虐めっ子だ。
いまもうつらうつらしながら夢を見た。ほんの一瞬。此岸と彼岸のはざまにある白い闇の夢。根源の恐怖。内なる病巣。ああ、まただ。訣別したつもりなのに、しつこいな。テッドはそれを振り払う。
額にはりついた前髪が鬱陶しい。癖毛なので、汗を吸うとちりちりになってしまう。雨の日もそうだ。手のかかる。
深く息を吸って、吐く。生きるすべを身体に循環させる。
喉が渇く。水が飲みたい。どこかに水差しがあったような気がする。いや、いい。動くのが億劫だ。
気持ちが昂ぶっているのがわかる。手がこわばり、顔がやたらと火照る。発熱かもしれない。
眉間にしわを寄せる。熱だって。ガキじゃあるまいし。
落ち着かない理由はほかにもあった。部屋に鍵がついていないのがその最たる理由だ。個室の利点の大きな部分が欠損している。私事に干渉を受けない権利は、守られるべくもない。
常に見張られていると感じるのは誇大妄想だとしても、私生活が軍の管理下におかれるだろう今後を想像するとうんざりする。そういえば正式な契約を交わしていなかった。口約束だけですまされるのだろうか? まさかね。
待遇について文句は言わない。しかし、事と次第によっては、考え直さなくてはならない課題がいくつかでてくるにちがいない。
弓と矢を添い寝させ、いつでも引っつかむ準備はしておく。ほかに荷物はない。荷物なんて、持たないに越したことはない。
海は、脱出を容易には許さない。茫洋としてつかみどころのない檻だ。船は監獄のようなもの。そうだ、テッドはただ、監獄から監獄へ移動しただけだ。
状況はたいして変わらない。むしろ悪くなった。
この監獄は囚人が多い。いままでが独房のようなものだったから、よけいにそう感じる。
周囲は雑多な音に満ちている。
上の甲板を歩きまわる靴音、陽気な話し声、テンポのずれた音楽、そして波にもまれる船の軋み。単調ではなく、複雑で、粗野で、耳障り。怒鳴りあっている連中は喧嘩をしているのだろうか。女が仲裁に入る。荒くれどもも女の一喝には勝てない。
会話がぜんぶ筒抜けだ。
聞こうとしなくてもきこえてしまう。ざわめきが、ここが人の住む場所であることをテッドに教える。
慣れることはないだろう。どのみち長く滞在するつもりはない。
こん、こん。
ノックの音。たしかにこの部屋のドアだ。テッドは視線だけをそのほうへ向けた。
「テッドさん、おじゃまします」
返事のないのを眠っていると勘違いしてくれたらいいのに、客人はずけずけとなかに入ってきた。あきらかな干渉である。先が思いやられる。
見れば、女の子のようなやさしい顔立ちをした少年だ。
なんの用だ、と言いかけてやめた。ここは陸ではない。集団にはルールがある。
ルールを遵守する気は毛頭ないが、頭ごなしに否定するのもばからしい。
少年の年齢は十歳かそこらだろう。額に三角形の模様。ナ・ナル島独特の風習である。
群島はいくつかの島国の集まりだが、その島ごとに独自の伝統、文化、信仰をもっている。
テッドがにらみつけたと思ったのだろう。少年はいくぶん緊張した表情で、それでも笑顔をつくってあいさつした。
「こんにちは、はじめまして。ぼくの名前はラクジーです。となりの部屋で、母といっしょにお世話になっております。よろしくお願いします」
「……ああ、どうも」
寝っころがったままでおざなりに返す。
新入りに古参がごあいさつとはご苦労なことだ。それとも皮肉? テッドがあいさつ回りをしないから。
まさかとは思うが、これが監視役だったりして。
テッドの名前をすでに知っているあたり、いかにもそれっぽい。
それにしても、丁寧なことばを遣うではないか。子どものくせに。人の部屋に勝手に入ってきた無礼はさておき、初対面の人間に対して礼儀正しいのは悪くない。
「おやすみでいらっしゃいましたか?」
「いや」
「あの、お疲れのところ恐縮なんですけれど、いまからぼくが船内をごあんないしますので、すこしお時間をいただければと思いまして」
「……は?」
ラクジー少年はもじもじして、「船の案内はぼくの仕事ですから」と弁解した。
仕事、ねえ。
監視役ではなく案内役だったか。
働かざる者食うべからずはテッドも賛成だ。食わせてもらっているだけでは人は成長しない。
子どもとはいえ、この船にいる以上は軍に所属していることになる。なるほど。こうやって何等かの労働を科すことで居場所をつくってやるのだろう。年端もいかぬ子どもに戦闘はさせられまい。
しかし、テッドは苦虫を噛み潰したような顔をした。
面倒だ。とてつもなく。
気を遣われているのならば、きっぱりと断っておくべきだ。それとも、ひとりではなにもできないように見られているのだろうか?
「案内はいらない。用事があればききにいくよ」
「でも、食堂とか医務室とかほかにもいろいろ、わかりづらいところもありますし、大事な説明もありますし。あの、お時間はとらせませんので」
「だいじょうぶ、心配しなくっていい」
「すみません、その……きまりなんです。どうしても。お願いします」
頭を下げられた。どうしても、ときた。折れなければ押し問答になりそうだ。それもまた面倒だ。
しかたがない。これもお務め。
テッドは気づかれないようにため息をつき、重い身体を起こした。
ここで悪目立ちするのは得策ではない。新入りにまつわる薄気味の悪い話はすでにどこからか漏れているはず。いたずらに油を注ぐのはまずい。
よからぬ噂が炎上しようものなら、逃げるに逃げられない船の上、なにが起こるかわかったものではない。それはテッドにとってけして好ましい事態ではない。
ラクジーを見る。ぼくは頑固ですと全身から決意を発している。わがままの通じる相手だったらよかった。
「……わかった。じゃあ、たのむ」
「はい! ありがとうございます」
ラクジーはぱあっと顔をほころばせた。テッドが靴を履くあいだドアを開けずに待っている。
弓矢をもつと、なにか言いたげな複雑な顔をしたが、さっと笑顔が覆い隠した。
「すごい。テッドさんは弓使いなんですね」
「……めずらしいか?」
「はい。弓は扱うのがもっともむずかしい武器だときいています」
「そのぶん、使い手の弱点をカバーできる」
「やっぱりすごいなあ。弓使いはとってもかっこいいです。あこがれます。ぼくも武器をもって戦うことができたらいいんですけど……あの、ぼくでも習えば弓を使えるでしょうか」
「人殺しの道具だ。ガキのもつもんじゃない」
ラクジーは押し黙ってから、言った。
「ぼく、殺しあいはきらいです。だいきらいです。戦闘にでる人たちや、テッドさんのことを人殺しなんていいたくありません。ほんとの人殺しは……別にいます」
少しの間があって、ラクジーは視線を泳がせた。
「戦わなければ、人殺しはもっとたくさん人を殺します。みんなは命をかけて戦っています。それなのに、ぼくはただ、見送ることしかできなくて……無事に帰ることを祈るしか……。元気に出陣していったのに、そのまま戻らない人もいます。とても、苦しいです」
「そういうのを独りよがりっていうんだ」
「はい。わかっています。見送るのも迎えるのも大切な仕事です。おとなのまねをしたってしょうがないです。それに、ぼくまでいなくなったら、母さんを守ることができなくなってしまいます」
「……」
「ぼくは、ぼくです。ごめんなさい、へんな話をしちゃって。ありがとうございました」
ぺこんとおじぎをするラクジー。自己解決したらしい。非常に助かる。
腹が立つほど、よくできた子だ。親の育てかたがうまかったのだろう。いささかできすぎの感なきにしもあらず。子どもはもう少し馬鹿なくらいがちょうどいい。
突然、ラクジーはぱあっと明るい顔を見せた。
「お洗濯は母におまかせください! 汚れものはまとめておいてくだされば、洗うときにもっていきます。シーツとかの大物も遠慮しなくてよいです。晴れた日の甲板はおっきな物干し場です。何百枚でも干せます!」
大量の洗濯物をばたばたと干している戦艦はどうかと思うが。
テッドにもラクジーのような時代があった。物心ついたとき両親はすでにいなかったが、村のおとなすべてがテッドの親がわりであった。遠い昔のことである。
自分がその村で暮らしたという証拠はなにもない。記憶なんて曖昧で不確かなものだ。右手に宿るソウルイーターが唯一の現実である。テッドの出生はそれに比べるとはるかにおぼろげだ。
テッドは、感情をおもてにだすのを好まない。他人に心の中を推し測られたくない。心がどれほどいびつなものか知っているから。
社会に帰属しているかのようにふるまうのがうまい手段だと考えていた時代もたしかにあった。表面上は人と慣れあいながら生きたりもした。それはそれで悪いことばかりでもなかったと思う。そして、あるとき突然、己を装うのに辟易した。なにがきっかけだったかは忘れてしまった。
終わりの見えない人生を嘘で固めることに疲れたテッドは、自分と自分以外のあいだに壁をつくった。ただひとつの例外もなく、人という人を壁の外に置いやった。そうやって他者をはねつけていれば、善良な人々に累を及ぼすこともない。もっとも簡単で、単純だ。
話さなくてよい。笑う必要もない。ついでに、考えるのも最小限にした。なにもかも切り捨てた。テッドという名も単なる記号になった。
ああ、息ができる。
冴えたやりかたに満足する。
幽霊のような生きかたはなんと楽なのだろう。いや、ほんとうに幽霊だとしたら。実体をもたない魂だけの存在。とうの昔に死んでいるくせに気づくことなく、生きるものに災禍を及ぼしながら浮遊している。
ああ、きっとそうだ。そうにちがいない。
すべてに納得がいく。
甘美な思い。
おれは幽霊だ。子どものときに村で死んだ。喰らうはずの魂を、ソウルイーターが利用しやがったんだ。
テッドは夜ごと、病める夢をみた。
世界ニ復讐シヨウ。
白い霧に包まれた人ならぬ世界は寒く、冷たく、暗く、静かだった。幽霊の住処にふさわしいと思った。地獄。罪深い死者が永遠に囚われるところ。
時ノ支配ノオヨバヌ場所デ。
いいか、それはおれの願いじゃない。おまえの薄汚い望みだ。
復讐スルノダ。テッド。
うるさい。黙れ。
夢は脆い。亀裂が生じたら、壊れるのもあっというま。
霧の船の導者は欲をだしすぎた。ソウルイーターひとつでも力は足りたはずなのに。それさえ愛でていたら、よかったのに。
テッドとノエルを引き合わせたのは霧の船の導者だ。真の紋章を宿す、ノエルという名の”生きている”少年との出会い。
生きているというのは、実体があるということだ。楽なほうに流されることなく、考えるということだ。ノエルはたしかに生きていた。死という運命を目の前にしながら、生者のことばを言いはなつ。
テッドは笑む。潮時だな。あんがい短かった。
復讐ごっこよりも、罰の紋章のほうがおもしろい。
こいつについていこう。いいものが見られそうだ。
『船長、ソウルイーターを返してくれよ』
それだけが確かなものだ。テッドに必要なものだ。生きるためには、絶対に。そう、死者から生者へ戻るために、本来いるべき場所に帰るために、それがなくては困るんだ。
いろいろと面倒で、居心地が悪くて、つねに怯えていなければならない世界。テッドを百五十年のあいだ苦しめてきた世界。
それでもおれは、世界に復讐するつもりはない。
『おれはもう逃げない』
ソウルイーターは母を求める幼児のように、テッドの右手へ下りてきた。光が膨らみ、収縮する。ふっと意識が遠くなる。
『おかえり』
そこは夢の終わり。
テッドは昏倒する。
ともあれ、ラクジーと名乗る少年である。正直なところ、どう扱えばいいのか皆目わからない。素直は美徳、そうだろうともさ。疑いなどかけらもない。正義感に満ちあふれた顔をしている。きっと自信たっぷりに言ってのけるだろう。悪は許しませんと。
白いものは汚したくなる。こいつだけが正しいと言われてみろ、うんざりだ。
「まずはこの階を簡単にごあんないしますね!」
もう勝手にしてくれ。そしてさっさと終わらせよう。
テッドと他人とを隔てる壁は以前のようにそこにある。意識野で確かめた。壊れていない。
見失わないようにしなくては。これが最後の砦だ。
「右と左に並ぶお部屋は、みなさんの居室です。いちばん奥には図書室があります。本、お好きですか、テッドさん」
「……」
「図書室は貸し出しもしてくれるので、お部屋でゆっくり読んだらいいですよ。もしも陸で本を手にいれたら、図書室にもっていけば司書のターニャさんが喜ぶとおもいます」
ここがお手洗い、ここが給湯室、とラクジーはテッドに教えながら歩いてまわった。給湯室に飲料水のタンクがあったので、テッドは水をがぶ飲みした。
壁に『節水!』『水浴び禁止』『猫を洗うな毛がつまる』の貼り紙がある。
「お掃除当番は、とくに決められていません。汚れているのに気づいたら自主的にお掃除しましょうということなんですけれど、お掃除が趣味のような方がいらっしゃるんで、しなくてもだいじょうぶだとおもいます。たぶん」
掃除が趣味でなくてよかった。
「そして、こっち、階段にいちばん近いところが医務室です。ぐあいがよくなかったり、怪我をしたときは、ここで診てもらってください。テッドさんは船酔いはしないほうですか?」
「……さあ」
「嵐の日はかなり揺れるので、強い人でも船酔いすることがあります。船酔いのおくすりをもらって飲めば、らくになります。ユウ先生は、ちょっと怖そうにみえるけれど、いい先生です。それに助手のキャリーさんも、とっても美人で聡明な方です」
テッドは思わず咳払いをしてしまった。
「お風邪ですか?」
「いや」
「ならいいですけど、体調が悪いようならば先生に……」
「だいじょうぶ」
案内は頼んだが、おしゃべりをしようとは言っていない。しかも彼はこちらの顔色をいちいち伺う。面倒見のよさを買われてこの役目を引き受けたのだろうが、もう少し空気を読んでほしい。
それとも、はっきり伝えなければわからないのだろうか。うっとうしいです、会話は苦手なので勘弁してくださいと。
ひらきかけた唇を噛みしめる。邪気のない顔を向けられてしまったら、お手上げだ。
適当に返事をしていればいいだけのこと。テッドは心を決めた。
「どうしました?」
「なんでもない。次」
「はい!」
満面の笑顔というものはえげつない凶器だな。どんなナイフよりも鋭利に突き刺さる。しかも猛毒が塗ってある。
ナイフは壁にはじき返される。テッドにはかすり傷ひとつつけられない。いまはまだ。
この優位がいつまでも保つととは思えない。
いいか。おれは幽霊なんかじゃないんだぞ? 毒の切っ先がかすめたらそこで最期(アウト)だ。
現実から目を反らすな。壁を信頼しすぎるな。
「次は、もしものときのことをお話しします」
もしも? もしも、なんだ。
「あ、もしもというのは、船が撃沈されそうになったり、火事とか、嵐で座礁したとか、そういう不測の事態をいいます。ないに越したことはないですが、一応」
ラクジーは階段を指さした。
「そのときは階段を使って上甲板に避難し、ボートに乗るか、僚船の救助を待ちます。誘導があるときは、それに従ってください」
「……」
「えれべーたは閉じこめられたらいけないから、緊急の時は使用禁止です。階段のあたりで火が出た場合は、船首側のはしごを上って逃げられます」
「……」
「階段のあるほうが船尾、反対が船首、船首を向いて右手が右舷、左手が左舷。港に係留するとき陸付けするのが左舷です。船首が進行方向なので十二時、右舷が三時、船尾が六時、左舷が九時。ちょっとややこしいけど、停泊中は北が十二時になります。船長の指示は専門用語ばっかりなので、できるだけ覚えておいてください。二時の方角に敵船!と言われたら、配置についていない人は左舷後ろ寄りに避難する、といったぐあいです。回避行動をとったら方位も変わりますので、臨機応変に動くことが大事で……うーん、面舵と取舵も言っておいたほうがいいのかな」
「……」
「あの……」
「ちゃんと聞いている。いちいち顔色をうかがうな」
「すみません。じゃあ、面舵取舵については」
「とばしていい」
「わかりました」
いらいらする。相づちがどれほど重要だというのだ? 既知のことだったから、無言で承諾しただけなのに。
声などいらない。その思いは以前と変わらない。
声は――そうだ。対価として差し出してしまった。人魚姫が人になるために声を代償にしたのと同じように。
いいさ。そのままくれてやるよ。声くらい、喪ってもどうとでもなる。足りないというのならば心も持っていけばいい。
心はもっとも厄介な荷物だ。それさえなければ、紋章の護り役として、ぶれることなく動きまわれるだろうに。そんなものを人と呼べるのかどうかは知らないが。
「この船は六層構造になっています」とラクジー。
「いちばん上が上甲板とブリッジです。その下に第一甲板、第二甲板、第三甲板、そして第四甲板がいまいるここです」
「この下は?」
「はい、第五甲板ですね。そこが船底になります。水面ぎりぎりまで沈む部分です。倉庫とか、牢屋とかあって、じめじめしていて、開かずの部屋があって、おばけが出るといううわさです」
「……」
「あと第五甲板にあるのは、戦闘要員の訓練所です。それから、暮らしている人たちもいて……ええと、船大工のトーブさんと、仕立屋のフィルさんと、人魚さんたちです」
「……」
いろいろと意外な船だ。おばけに人魚。
「人魚さんはごきょうだいです。船底は水漏れするので、人魚さんたちには快適なのだそうです。第五甲板はいつもびちゃびちゃですから、すべってころばないように気をつけなくてはいけません」
水漏れでびちゃびちゃ。とてつもなくだめだろう、それは。
住み込みで修理に奔走する船大工の心労が目に見える。
ラクジーは心なしか声を固くした。
「第五甲板の船首部分には、すごく重要なものがあります。テッドさんは聞いたことがおありでしょうか。紋章砲」
もちろん知っている。だが、実際に装置を見たことはない。群島諸国とクールーク皇国の艦隊はこの兵器を搭載していて、海戦はまず紋章砲の撃ちあいとなる。敵を射程内に置いて撃沈させるか、戦力を削いで白兵戦に持ちこむわけだ。
「話には聞いている」
「はい。わが軍の切り札です。でも、紋章砲じたいの性能はそう大きくちがうわけじゃなく、砲手の能力がもっとも問われます。わが軍は、この点においても優位に立っています」
ラクジーは顔を曇らせた。
「ここだけの話ですが、ぼくは紋章砲を好きになれません。紋章の力を機械でねじふせて増幅するという発想が変です。それにクールークは、紋章砲一発でイルヤ島を吹っ飛ばしました。人のすることじゃないです」
「……」
「イルヤ島に撃ちこまれた紋章砲は、特別のなにかです。あれはエルイール要塞から放たれました。ふつうの紋章砲ではないとおもいます。気味が悪いです」
「たしかに、奇妙だな」
「あれからイルヤ島は黒い雲に覆われています。偵察隊によると、廃墟はクールークの前哨基地になっていて、冷たい雨が降り続いているそうです。呪いじゃないかって、みんなうわさしています。このまま、人の住めない島になったら、イルヤから逃れてきた人たちは帰る場所を喪ってしまう……」
「……」
「この船も戦うために紋章砲を積んでいます。戦争だからしかたがないって割り切るしかない。でも、いつかしっぺ返しがくるような気がする。あれが暴走したら人間なんてひとたまりもないとおもう。あんなもの、ぜんぶ壊しちゃえばいいのに……あ、よけいなことをしゃべっちゃった。すみません。ないしょね」
そう言ってラクジーは舌を出した。
”ほんとの人殺しは別にいる”の回答か。
本音が出たな。
テッドはうっかり微笑みそうになった自分を制した。
紋章砲には興味がある。ラクジーの言うように、くそったれなしろものらしい。天罰が下る前にこの目で見ておきたい。ことによってはその兵器が世界の行く末を左右するかもしれないのだから。
「テッドさんは魔法を使いますか?」
ふいの質問に、テッドはさらりと応じた。
「ああ」
「そうですか……なら、紋章砲要員に選ばれるかもしれませんね」
ラクジーは口をつぐんだ。なにかを考えあぐねている感じだ。
わずかな間があった。
「……いずれわかることですから、お話ししておきます。関係ないとおもわれたら、忘れてください。じつは、紋章砲を最初につくった人はいま、第五甲板の紋章砲制御室にいらっしゃいます」
「えっ」
「ウォーロックさんというおじいさんです。とても強い力を持った魔法使いです。ミドルポートで人の目を避けるように紋章砲研究をされていたそうですが、ノエルさんが説得して軍に加わってもらったんです。紋章砲のことをだれよりも知っている人です。大きな戦力です、よね。でも……でも、ぼくはウォーロックさんはいい人だとおもいます……」
「……」
「紋章砲がああいうふうに利用されるなんて、ウォーロックさんもおもっていなかったはずです。イルヤの悲劇はウォーロックさんのせいではありません。だって、鍛冶屋を人殺しという人はいないでしょう?」
声のトーンが落ちた。
「ぼくは、ウォーロックさんはいい人だとおもいます」
念を押すように。
「すみません」
「謝らなくてもいい。おまえがそう思ってるんなら、いいんじゃないか。べつに」
「……すみません」
話をそらさないとらちがあかない。
「いまの話はだれにも言わない。ここだけの話にすればいいんだろう。じゃあ、終わりだ。行こう」
「はい。すみません」
舌打ちをしたくなった。秘密を共有するのはもちろんのこと、こんなことで『いい人』だと認定されてしまうのが。下手をしたら――あまり考えたくはないが――このお節介の魂が危険にさらされる。
やっと理解したか、テッド? 相対する二者の諍いに首を突っこんだ報いを受けろ。後悔しても過ぎた時間は取り戻せない。
気を引き締めなくては。よけいなことを考えずにすんだ霧の船とはちがう。
ここは『外』ではない。白い闇の夢は終わったのだ。いまのテッドはソウルイーターとともに本来いるべき世界の内に在る。
まだはじまったばかりだ。新たな物語はここからが本番。来たその日に敗北などという不名誉な記録をつくってはならない。
(頼むから目を覚ますなよ、ソウルイーター)
牽制の意をこめて右手を握る。いやな感じはない。取り越し苦労だ。だいじょうぶ。
ラクジーはピコンと立ち直った。
「船首十二時! 右舷三時! 船尾六時! 左舷九時!」
時計回りにくるりと一回転。
「……は?」
「ときどき混乱するんで、反復しています!」
「あ、そう……」
がっくりだ。
「ええと、避難経路まではお話ししたんですよね。では」
頭の中に手順書を用意しているらしい。第五甲板の意味深な話題は寄り道というわけか。
話を振ったのはテッドだ。これからは自重しよう。
「鍵の件についてご説明します」
「ふーん?」
「お気づきかと思いますが、お手洗いを除いて、この船には鍵というものがありません。万が一のときに救助のさまたげになるからです。悪い人もどろぼうもいないので、その点はご理解くださるようお願いします」
完璧なガイドだ。ちょっといじめてみたくなるくらい、素晴らしい。
「悪い人がいないと、どうして言い切れるんだ?」
言ってからしまったと思った。自重もへったくれもない。
期待を違えず、ラクジーはうろたえた。
「え……だって、ここにいる人たちは、みんな仲間です。リーダーのノエルさんが認めたのですから、悪い人なんているはずがありません」
「いるはずがない、か。笑わせるぜ。とんだお人好しだ。それともなにか? お友だちごっこがここの流儀なのか」
「ごっこじゃありません。信頼関係あってこその仲間です」
「ハア。じゃあ、足をすくわれても泣き言はいえないな」
「足をすくうって、いったいだれがです? 具体的におっしゃってください」
ラクジーはむきになった。やばい。投げた小石が波紋をひろげていく。どうにも引っ込みがつかない。テッドもこうなったらやけくそだ。
「具体的に言わせてもらう。たとえばおれだ。勝手に乗りこんだつもりだが、思い違いだったか? 認められたとか、そういう事実はないはずだ。嘘だと思うんならリーダーさまに確認してみるといい」
「……」
「いっとくけど、ノエルっていうやつがどれほどのもんか、知らない。リーダーを名乗るくらいだから只者でないってことは承知の上で。見てないし聞いてないものをどうやって信じる? 少なくとも、知らない人間を敬い讃えるようなまねはしないね、おれは」
多少の詭弁には目をつむる。こまっしゃくれたガキをやりこめるほうが先だ。
「おっしゃることはわかります。でも、ノエルさんの目はたしかです。テッドさんが思い違いをしてるんです」
「ハッ! おれが間違ってるってか。えらい自信じゃないか。すげえな。盲信もほどほどにしとけよ。聞いていてイライラする。クールークのスパイが潜りこんでいたらなんて弁解するんだ、おまえは」
「あり得ません」
「フン。おれのことも絶対に悪いやつじゃない、そんなはずはないって言いたいわけだ。おめでたい頭だ」
ラクジーはここぞとばかりに反撃した。
「えっ、テッドさん、悪い人なんですか?」
「……」
ツキーン。
こめかみに痛みがはしった。
必殺、屁理屈封じ。
「ねえ、悪い人なんですか?」
「あのな……」
すべてがばかばかしくなってきた。
そんな真っ直ぐな目で対峙されたら、いじめたテッドのほうが間抜けではないか。
これだからガキはきらいだ!
「ごめん。冗談だよ。悪意なんてねーから、安心しろ」
おとなしく謝罪する。不毛なやりとりは打ち切りだ。大人だな、おれ。
すると。
ラクジーはしゃがみこんで、腕と膝で顔を覆い隠してしまった。
「あ、おい」
やりすぎたか。
まずい。泣いた。
だが、ラクジーはすぐに上を向いた。泣いていない。そのかわり、頬が膨らんでいる。
グントウトラフグ?
おい。息を、吐け。赤くなってきたぞ。
「プハッ!」
「!」
「あああ、びっくりしました。寿命が縮むかとおもった」
びっくりしたのはテッドだ。寿命が縮んだらどう責任をとってくれるのか。
「よかったあ」
よくない。
「テッドさん、冗談きついですよ。でも、ようやくお話しできましたね」
「え?」
「むっつりして、こっち向いてくれないんだもの。ひょっとしたら怒っているんじゃないかって、ずうぅっと心配だったんです。よかった。テッドさんはいい人なんですね」
がたん。
今のは、テッドが見えない段差を踏み外した音だ。
(だから、世の中の人間をいい人と悪い人で区別するのはやめろ!)
喰っちまうぞ、このガキ!
悪い人でないからいい人であるとか、どうしてすぐ対極の結論に至るのか。中庸という概念はどうした。
裁きを司るという天秤じゃあるまいし、善悪どちらかの傾きがわずかならば不問に付すという判定をしてやってもよかろうに。
もっとお利口になってほしい。いや、お利口すぎるからだめなのか。
観念しよう。この勝負、テッドの負けだ。
ため息連発。ああ、自分がだめになりそうだ。
「じゃあ、えれべーたに乗って上に行きましょう」
「……」
いやな予感がした。
「えれべーたって、この動く部屋のこと?」
「もしかしてはじめてですか、えれべーた」
「あう……」
いまはじめて名前を知った。そうか。えれべーたというのか。ずいぶんと大がかりなからくりだ。
さっきは心の準備もないままに乗せられて口から心臓がはみだすかと思った。ソウルイーターがびっくりして”うっかり発動”をかましたら大惨事――どころではない。想像するのも恐ろしい。
いや、笑い話じゃなくって!
慣れている人々にはわかるまい。この恐怖。この絶望感。
ほんのわずかな時間とはいえ、動力不詳の狭い箱に、無作為に抽出された他人もろとも閉じこめられる。これを拷問と呼ばずしてなんと言おう。
おれの言い分がおかしいと笑うやつはでてこい。そこに並んでひとりずつ意見をのべやがれ!
さておき。
怖いからいやだと言えるはずもなく、結局はラクジーに従うしかないのである。長引かせてすまなかった。それでなくとも長いのに。ああ、こっちの話。
ボタンを押すと箱の扉が無情に閉まる。挟まれたらあぶないな、とテッドは思う。ほら、『挟まれる事故多発危険』の貼り紙もちゃんとある。ご丁寧なことに、血を垂らしている指の絵つき。
ガクン。
動きだす。足下の揺らぐ感じが伝わってくる。
ガタガタガタ。
あまりにも頼りない、不穏な音。息がつまる。床が抜けやしないだろうか。いきなりストーンと部屋ごと落下とかないだろうな。ああ、事故がおきませんように。
チンという甲高い音にびくっとした。宿屋の帳場で人を呼び出すときに鳴らすベルに似ている。
扉が開くより先に、がやがやとした賑わいが透けて見えた。
「はい。第三甲板につきました。ここがいちばんお世話になるところです」
ほっとすると同時に、テッドは息を呑んだ。
「市場……だな」
三列に連なっているのは、簡易の店舗に見えた。中央の列は食べ物を扱っているらしく、人だかりがしている。いい匂いが食欲をそそる。
早い者はそろそろ酒の入りはじめる時刻なのだろう。フロアには活気がみなぎっている。
そういえば、前に食べたのはいつだったか。
そのときは空腹という感覚すらもどこか遠いところにあった。
いまは腹が減っているのを自覚できる。
「すごい。ほんとうに街のようだ」とテッドは感心してつぶやいた。
「街なんですよ。小さいけど」
ラクジーは得意げだ。
「船のなかに街か……」
「はい。お店をひらいている人はみんな、ここで商売をしてるんです。お金をとらない人もいますけど。みなさん、群島諸国がもとのように平和になったらそれぞれの島でお店を再建したいと考えています。だから、きちんとお金を払って支援しよう、というのが王さまのお考えです」
「ふーん」
引っかかる。ものを買うにも食事をするにも金が要るなら、彼らはどうやって収入を得ているのだろうか。テッドのように無一文でころがりこむ者だっているはずだ。
「そうだ、お金のこともきちんとお話ししておかなきゃ。大切ですよね」
打てば響く。じつに気の利く仕事人だ。
「乗組員には軍のために働く義務みたいなものがあって、そのかわりお金が支給されます。船で暮らすのに不自由しないくらいの金額です。そして、年齢や役職にかかわらず、全員が一律です。ぼくも、リーダーのノエルさんと同じ額のお金をいただいています」
「リーダーも給料もらってんのか」
「ええ、王さまも」
「はあ?」
「うふふ、おかしいでしょ。給料というよりお小遣いみたいなものですけどね。現物支給にしないのは、お金の循環していない社会は緊張感に欠け、弱体化すると王さまが言い張ったからです」
「ふっ」
「変な王さまですよね。いつも裸だし。正装したがらないんで、お付きの人は苦労してるとおもいますよ」
ラクジーはけらけら笑った。
「というわけで、軍の資産はみんなのものです。海の上では人々はみな公平、自由、平等です」
それもリノ王の主義主張だろうか。背中がむずむずする。ところで、公平と平等はどうちがう?
「あっ、でも、外で稼いでくる人もいっぱいいますよ! ギルドに行けば、仕事を斡旋してもらえるし。ただ、停泊しているあいだだけですので、日払いの仕事が主体になりますね。モンスター退治とか、用心棒とか、お掃除とか、老人の話し相手とか、代筆とか、人捜しとか、浮気調査とか、土嚢の積み上げとか、農家の手伝いとか、犬の散歩……」
「いい、わかった」
「……とか。個人で得た収入はその人のものです。軍では徴収しませんし、申告の義務もありません。ただし、犯罪行為は厳しく取り締まります。バレたら軍法会議にかけられるので、気をつけて。悪質な場合は首を刎ねられちゃいますよ」
「なるほどね」
バレないようにこそこそやれということだ。了解。
「首を刎ねられた人はまだいないですけど」
「ああそう」
「悪い人なんていないし!」
「……」
被告人第一号の汚名に惹かれる。いや待て深呼吸。
「この奥にある大浴場と、第二甲板にある吹き抜けのサロンはお掃除のとき以外はいつでも自由に利用できますし、お金もとりません。お風呂の湯船は海水をくみあげていますので、しょっぱいです。だけどすごくあったまります。お肌もしっとりすべすべになります。美人の湯と評判の、根性丸自慢のお風呂です」
これ以上美人にならなくてもいいです。
「よろしければ、ごはんの前にお風呂いきませんか? ぼく、ご一緒します!」
「だから、いいから」
どこの商売人だ、おまえは。案内と偽って金品を請求しそうな勢いだ。詐欺だったらぶん殴るぞ。
どうしよう。ラクジーが陽気なせいで言いだしにくい。もうこのフロアはじゅうぶんだ、と。
人の目が気になる。見知らぬ者にラクジーが寄り添っていれば注目を集めるのもしかたがないとは思うが、じろじろ見られて落ち着かない。
群島気質は苦手だ。義理堅く、面倒見がよい。好奇心旺盛で、図太い。遠慮というものがまったくない。
考えは悪いほうへ及んでしまう。
好奇心だけでなかったら?
疑心暗鬼かもしれない。しかしテッドには案ずる理由があった。単純な強迫観念でないから始末が悪い。
いつだってそうだった。そのせいでテッドは、どれだけの厚意に背を向けてきたことか。どれだけの裏切りを重ねてきたか。
振り返っても詮無いこと。
ひとまず、この場は立ち去ったほうがよいだろう。
だが焦心を長引かせる邪魔者が登場した。最悪のタイミング。しまった。
「ラクジー!」
相棒をみつけた少年がこちらに向かって手を振る。
がに股走り。
ラクジーは網にかかった小魚のように飛びはねた。
「ナレオ! グリシェンデじゃなかったの?」
「うん、さっき霧で足止めされたでしょ。パパが、キカ様が心配だっていうからいっしょに来てみたら、べつに騒ぎもおこってないみたいだし、なんとなくそのまんまこっちに。なんだったんだろうね、あれ」
「さあ? ぼく、下にいたからわかんないや。ドーンって揺れたときはびっくりしたけど。ね、ナレオ、今夜はずっといられるの?」
「もっちろん! 船は異常なし、霧も晴れて、順調に航海ちゅうさ。戦闘海域じゃないから、しばらく戻らなくていいっていわれた。ラッキー。フンギさんのごはんおいしいしね。えへっへー」
「わあい! じゃあ、じゃあ、いっしょに寝よう!」
「オッケイ! あれ? ラクジー、お仕事中だったかな。ごめんなさい」
棒立ちするテッドに気づいたらしく、がに股はお辞儀をする。
ナレオと呼ばれた少年も、ラクジーほどではないが、まだ幼い顔立ちをしていた。だが背丈がテッドの額ほどもある。がっしりしていて、若いながらも海の男という風体だ。
ゆったりとした服装のラクジーとは対照的に、肌にはりつくような短丈シャツを着ている。露出する引き締まった筋肉。素手の一撃で雑魚を張り倒しそうな腕。
船乗りの子だな、とテッドは直感した。
軍艦に子どもを含む一般人が乗っているのは、オベル島が敵国に占拠されたせいもある。実際、乗組員の多くはそういった難民たち、ボートピープルだ。職業としての軍人や船乗りは容易に見分けがつく。まとっている雰囲気がちがう。
言わせてもらうが、しょせんは烏合の衆である。訓練されている軍隊ではない。
テッドに関しては、群島に縁のないとびきりのよそ者で、正体すらも明かしていないいわば不審者だ。身柄拘束されて当然なのだが、あっけないほど簡単に仲間扱いされた。尋問のひとつもあるかと身構えていたのに拍子抜けをくらった形だ。
「テッドさん、すみませんでした。紹介します、こちら、新しく入られたテッドさんです。テッドさん、ぼくの友だちのナレオです」
「テッドさん、はじめまして! ぼくは僚艦の、グリシェンデ号の乗組員です。海賊です」
テッドは面食らった。
「……海賊?」
「はい! 海賊です。生まれも育ちも海賊です!」
「オベルの王は海賊も雇っているのか?」
ラクジーとナレオはきょとんとして顔を見あわせ、それから同時に吹きだした。
「あはははは!」
また視線がこちらに集中する。頼むから、大声をだすのはよしてほしい。もしくは、もっと人のいないところで騒いでくれ。
「ちがいますよ。お金で雇われたんじゃありません。ぼくたち海賊は、誇り高き群島諸国の仲間です。同じ目的をもって、行動しているんです。それに、リノ様は傭兵雇ったりしないんじゃないかなあ?」
「うん、リノ様はしないなあ」
「そういうとこはあんがいケチなんだよね」
「無駄に居心地のいい船は造らせるくせにね……」
「じゃあ、エレノア様が傭兵雇うよっていったら?」
「ケンカになるんじゃないの?」
「ケンカするほど仲がいい」
「って感じだよね!」
「いっしょにお酒のんでるしね」
「ねえねえ、飲み比べしたらどっちが強いとおもう?」
「はーい、エレノア様!」
「やっぱりエレノア様かなぁ!」
「おきゃくさま、おつまみです。わかめこぞうです!」
「くらげおとこの酢のものは、サービスです!」
「フンギさんが腕をふるいました」
「きょうのおすすめはイワシの塩焼きです」
「いつもおすすめはイワシの塩焼きです」
「よっぱらいは、こまかいことは気にしません!」
二人はげらげらと笑いころげた。
割り込むすきもない。
周囲の笑いも同調する。
(……)
「そうだ!」とナレオが指を鳴らした。「あれあれ! よっぱらいといえば、じゃんけんで一枚ずつ脱いでくやつ!」
「二枚脱いだらもうパンツ!」
「リノ様の運は尽きた!」
「三回じゃんけんで、リノ様お風呂に撤退です!」
「まさかのクリティカル! 回復魔法を!」
「では歌います。オベルのぉ~、浜のぉ~」
「ふんふんふん~」
「いつもふふふ~ん」
「おっとぉ、王さま、歌詞をごまかしたぁ!」
「ちんぼつだ!」
「リノ様が離脱しました。あきらめますか?」
「あきらめない!」
「リノ様はお酒を補給してたちあがった!」
「お風呂でのお酒はきけん!」
「そして気がつけばパンツがない!」
「パンツはエレノア様がもっている!」
「リノ様はお風呂からでられない!」
「このままでは、のぼせてしまうどうしよう!」
「ノエルさんが加勢にきた!」
「お酒がのめない人は、参加おことわり!」
「ノエルさんはパンツを奪還しそこなった!」
「エレノア様に勝とうだなんて百まんねん早いです! あ、しーっ、しーっ!」
「……」
なにが、しーっだ。いまさらすぎるとは思わないのか君たち。
それはともかく。
無邪気(?)なおしゃべりに混じって重要な情報がぽんぽん飛び出る。内部の事情を把握しきれていないテッドは、神経を尖らせた。
――いや、パンツはとくに重要ではない。
「たびたび、すみません」
「……ごほん」
「お風邪ですか?」
その質問は二度目だ。そうだな、風邪かもしれない。仮に風邪だとしよう。わかるか。ここは空気がよくない。耐性のない老人を寄ってたかって弱らせようとしている。このままではたいへんなことになるだろうなあ。いたわれ、クソガキども。
無言の抗議をどのように解釈したのか知らないが、ラクジーは『お仕事』を再開した。
「僚艦のグリシェンデ号はもともとオベルの船ではなくて、海賊船です。頭領をなさっているのがキカ様です。そのうちお会いすることになるでしょうが……とてもかっこいい方です」
キカという名の女性ならばすでに会って、話もした。成り行き上、勇ましい戦いぶりも拝ませてもらった。かっこいいかどうかは主観の問題だから別として、有能であることはテッドも否定しない。
(おかげであそこから脱出できた)
賭けに勝ったのも、キカの助力あってこそだ。正直なところ、かなりあぶない状況だった。あと半歩でも遅れていたら?
魔法の消滅とともに『はざま』に呑みこまれた。白くよどんだ闇のなかに。
囚われたら、逃れる手段などあるまい。あれが最後のチャンスだった。ほんとうだ。
あと半歩でも遅れていたら――世界は、真の紋章ふたつを永久に喪っただろう。
ぞっとしない話だ。
世界を救った女といえば大げさだが、それなりの讃辞は呈してしかるべきだ。せめて、感謝するだけでも。
リノが向ける信頼と、重く静かな口調からしてオベル王家の者か、あるいは護衛として雇われた筋者かとテッドは思っていた。
気品と剛健とをあわせもつ。
(海賊の女頭領とはね)
「キカ様は、碇泊をしたさいにこちらとあちらを行き来なさいます。重要な作戦会議には必ずいらっしゃいます。ええと、幹部っていうといいのかな」
「そうだよラクジー。すごいや。プロだね、もう」
「ここに来て、いっぱい経験させてもらったから。プロなんてそんな、テッドさんの前ではずかしい」
「なんで? はずかしがることなんかない。ラクジーは最高の案内人じゃないか。だれだって認めるよ」
「ナレオだって、艦隊をまかされるじゃない。指揮官はもっとすごいよ」
「バカ! あれは特訓されてるだけ! パパみたいな海賊になりたいからがんばってるんだけど、失敗してばかりだよ、まだ」
また話がそれていく。だめだ。このコンビは手がつけられない。
テッドはお子さまたちから少しだけ離れた。
黙考して、現状を整理する。
注意すべき人物は揃った。オベルの王、リノ・エン・クルデス。海賊キカ。両者はともに、テッドがソウルイーターを再継承するところを目撃している。
もう一人。軍師のエレノア・シルバーバーグ。北の赤月帝国で名門とされるシルバーバーグの名を冠する。おそらくこちらも一筋縄ではいくまい。
テッドが軍に入隊することを黙認したのはノエルで、ほぼ彼の独断だった。つまりは、幹部ひとりの同意しか得ていないわけだ。ほか三名が友好的であると安易に考えないほうがよい。、
つくづく、危ない選択をしたものだ。なぜあのとき、手を貸してもいいなどと口走ったのだろう。『借りができた』はとっさの思いつきであり、本心ではない。
テッドは急に不安になってきた。もしかしたら、大きな間違いを犯したかもしれない。
群島諸国の王が、海賊が、赤月帝国の軍師が、テッドの正体を知ることになるかもしれないのだ。ソウルイーターを宿す者の話をばらまかれる可能性もある。
今からでもいい。最初に停泊した港で、気がかわったからとでも言って前言撤回するのだ。強く断ればノエルも引き留めないだろう。
いや、それではクールークとの国境線を越えられないか。
戦争が終わるまで悠長に待つことはできない。下りた島で足止めされるのが、もっとも危険だ。
(崖っぷちに立ったら、二度目はないぞ)
決断は早いほうがよい。群島を離れる、これが第一選択だ。
戦争は誤算だった。帰ってくるタイミングを誤った。
――そうか?
ちがう。タイミングとしてはこれでよかった。混乱に乗じでもしなければ真の紋章の宿主に接触できない。テッドがもとの世界に戻るためには、もうひとつの真の紋章がぜったいに必要だったのだ。
紋章は磁力のようなもので、活発に動きだすときそこに乱を招きよせる。ひずみは戦乱に限ったことではないのに、いつもそれ以外には選ばない。血に飢えている。罰の紋章も、生と死を司る紋章も。
まだ見えぬほかの紋章もおそらくは。
真の紋章は性質は異なれど大きな力を内に秘めている。いや、言い直そう。力こそ紋章そのものなのである。大いなる力は世界を秩序へと導く。秩序とは、破滅の果てにある静けさをいう。
故に、平和と秩序は同一ではない。
破滅を平和とは呼ばないように。
歴史は、動乱の記憶だ。此の世のバランスを保とうとする紋章の意志を記録したものだ。そこに偽りなどあってはならない。歴史家はいつの世でもあらゆる事象に真摯であるべきだ。
歴史の陰で、どれほどの宿主が無惨に命を落としたことか。
ソウルイーターにも、過去の宿主がいたはずだ。右手の紋章は、もとはテッドの持ちものではなかった。テッドがそれを継承したすぐのち、紋章は前の宿主の魂を喰らった。
慈悲などなかった。ただ紋章の性(さが)のみ。
どうして忘れることなどできよう。
時間は過去を癒さない。傷口をひろげるだけ。
紋章を守ろうとした者、利用した者。信じた者と裏切った者。善きも悪しきも、人は人であり、支配される側である。人は時間にすら抗えない、弱者だ。
真の紋章は善悪という概念に縛られない。善も悪も喜びも悲しみも、紋章に期待してはならない。紋章の許では、すべては起こるべくして起こる。
テッドは右手を確かめる。紋章は、いまはまだ穏やかに呼吸している。
いつの日かそれはテッドの魂を喰らうであろう。祖父の魂を喰らったように。無慈悲に、冷徹に、そして完全に。例外などあるはずもない。ソウルイーターはテッドの支配者なのだから。
(すべては起こるべくして起こる)
罰の紋章が寝静まるのはいつだ。間もなくか。十年後か。もっと先か。
くだらない。期待してはならぬと言ったはず。
罰の紋章は捨てておけ。ソウルイーターを大人しくさせておくのにも限界がある。時間切れは目の前だ。
待って、愚か者になるか。去るか。
ラクジーではないが、裁きを司る天秤だ。
正しい答えはわかりきっている。選択の余地など残されていない。愚か者には罰を。
いざとなれば北方はあきらめて、南のファレナへ向かう。思い描いていた地図とは異なるが、いたしかたない。うまくいかないことだってたまにはある。
罰と罰。奇妙な符合だ――。
「テッドさん?」
「ああ、考え事をしていた……ごめん」
「ほんとうにご気分がよくないのでは?」
「いや、そんなことはない」
「隠さないでくださいね。案内ならあしたでもできますから。やっぱりお疲れですよね。部屋でお休みになりますか? 夕食はぼくが運びますが」
「自分でできる。次、いこう」
「はい……」
四つの心配そうなまなこにテッドは苛立った。
踵を返して、階段に向かう。この喧噪の中にはもう一秒たりともいたくない。次は上か下か。下から来たから上でいいんだろう、階段の上りに足をかける。
えれべーたは、無視。こんなものに頼るから、身体がなまるんだ。
ラクジーとナレオが急ぎ足で追いかけてきた。
「この上は、作戦室とサロンがある第二甲板です。テッドさん、ルイーズさんのマンゴージュースすっごくおいしいですよ。サロンに寄ってひとやすみしませんか」
「金がない。いい」
「ただですってば。ほんとうにおいしいんです。疲れだってふっとびます。ねえ、ナレオ」
「はい、ルイーズさんのジュースは絶品であります!」
この二人組は別の意味で疲れる。
ジュースだって? むしろ酒をがぶ飲みしたい気分なのだが、だめか?
ラクジーは階段を一気に駆けぬけてテッドを追い抜いた。あくまでも案内役をまっとうするつもりらしい。プロ根性恐れ入った。
「正面が作戦室です。作戦会議は上の人……じゃなかった、幹部と各部署の責任者がおもに参加しますが、ぼくたちが呼ばれることもたまにあります」
子どもを集めて何の作戦を練るというのか。上層部はよっぽど暇なのか、あるいは凡才の集団だ。
末端には考える権利を与えずにガツンと命令しておけばよいのだ。戦時下にはそれなりのやり方というものがある。
戦争慣れしろとまでは言わないが、あまりにもぬるすぎて欠伸がでる。敵にばれたらひとたまりもない。まさか、これほど甘っちょろいのが相手だとクールークも思っているまい。
ということは、密偵はまだ潜っていない?
(運がよいのか、海上だからか……)
後者だろうとテッドは考えた。海を舞台にした戦いは、群島諸国にとってかなり有利になる。占領区域をひろげていかなければならないクールークに対し、群島諸国はまさにその場が己の陣地だ。ガイエン海上騎士団が味方にいるのも力強い。さらには、海賊。
混乱してきた。
最強の手駒が集まっている。認めてよし。しかし実態は。
「テッドさん、こっちです、こっち!」
「……」
海の底に眠るのも時間の問題だな。
門外漢は口出ししない。どうぞお好きに。だがせめておれが逃げるまではもちこたえてくれ、たのむ。
「ここにもうひとつ階段があります。後部甲板につながっています。船尾の甲板です。そこで魚を釣ったり、網を引いたりしています。新鮮なお魚がいっぱい捕れます。大物がかかった日はごはんがご馳走になりますから楽しみにしていてください」
「魚はきらいだ」
「あ、そうですか……」
すかさずナレオが入れ替わった。
「こちらがサロンです! 酒場ですが、子どもも出入り自由です。カウンターではジュースが飲めますし、ぼくたちはここでゲームをして遊んだりもします。夜更かししても、叱るひとはいないし。へへへ」
自分も子どものお仲間として誘われているのだな。テッドは軽くため息をついた。
招かれた広い室内は天井が高く、ほんの少し薄暗かった。圧迫感がふっと薄らいだ。
二階のぐるりは回廊状になっている。
戦艦とはいえ、王家の持ち物。けして贅沢ではないのに、驚きのゆとり。設計した船大工の腕が偲ばれる。惜しむらくは船底の水漏れにまで気が回らなかったこと。
テッドはまた顔をしかめた。ここも人だらけだ。
「リーチ! 負っけないもーん!」
少女の前に札がつみあがる。賭けをしているらしい。
「ロン!」
わぁっと歓声があがった。
「やっぱりリタは強ぇえな!」
「へへへっ。勝負する?」
「みんな、張って張って!」
だれもテッドを見ていない。施設街で浴びた痛いほどの視線はなかった。
その一角だけではない。みんなそれぞれ灯りの下で思い思いのことをしている。
拍子抜けした。だが、ありがたい。少しは息がつけるかもしれない。
カウンターには男がひとり座っていた。こちらに気づいて顔をあげたが、興味なさそうにそっぽをむいた。
壁にしつらえた棚には色とりどりの瓶が並んでいる。これだけの種類の酒をよく集めたものだ。揺れで倒れないように横木で支えているところが、船仕様といえばそうか。
控えめの照明のなかに、少しふくよかな女性の姿。オレンジの皮をナイフでむいている。彼女がルイーズだろう。
「ルイーズさん、こんにちは!」
女性は顔をあげた。やさしそうな目がふっと細まる。笑ったのだ。
「こんにちはラクジー。ナレオも一緒かい。そちらは、新しいお仲間さん?」
「はい。テッドさんです。いま船内をまわってたところです」
蒼いひとみがテッドに向けられる。
「テッドくん、ね。よろしく。あたしはルイーズ」
「あ、はい、どうも」
「あんた、酒が飲める歳?」
ラクジーとナレオもこっちを見た。
いきなりの問いに戸惑って、テッドは声をつまらせた。
「……うっ」
「ふふ……」
いまの含み笑いはなんだろう。冗談よ、か。お見通しよ、か。
酒場の女は人をみる目をそなえている。ルイーズもその典型なら、あまり近づかないほうがよい。なにを指摘されるかわかったものではない。
ラクジーが、「テッドさんは好きな果物がありますか」と訊いた。
「べつに、なんでも」
「マンゴー、オレンジ、バナナ、ぶどう。あとなにがありますか、ルイーズさん」
「りんごのめずらしいのが入ってるよ」
「めずらしいの? なになに」
「クールーク産」
「なあんだ。積み荷を盗んだのかあ」
「人聞きの悪いことをいうんじゃないよ。こんなときでもね、まともな商人はちゃんと交易してんだよ」
「ふーん。ほかには?」
「そうだねえ。パイナップル、グアバ、ひとまずそんなとこかな。果物じゃないけど、トマトなんてどう」
「トマトもいいけど……テッドさん、いちばんのおすすめはぜったいマンゴーです。群島産のマンゴーは世界一おいしいです」
「やっぱりマンゴーだよね。これを味わわずして群島を語ることなかれ!」とナレオ。
攻められている気がする。
ルイーズはくすくす笑った。
「あんたたちはいっつもマンゴーなんだから。あーあー、なにをすすめてもむだだ」
やはり。テッドが別のものをオーダーしても覆らないということだ。
カウンターにつくと、ルイーズは手際よく生マンゴーを潰しはじめた。甘い香りがただよってくる。
ちびっこ二人組は頬杖をついて、ルイーズの作業に見入っている。
「テッドくん」
「はい?」
「群島のほう……じゃないんでしょう、出身は」
テッドは警戒した。
「……なんで?」
聞き返す。
「ふふ、なんとなくよ」
ナレオが身を乗りだした。
「テッドさんは、じゃあ、どちらのご出身なんですか?」
「ナレオ。どこだっていいんだよ。この船に乗っている人は、みんな同じ」
ルイーズがおっとりとたしなめた。
「はい、すみません」
みんな同じ、という言いぐさにテッドは強い反発を覚えた。が、じっと沈黙する。よけいなことを言って波風をたてるのもつまらない。ルイーズがどこまで知っているのかもわからないのに。出過ぎるとまた失敗する。
テッドは腹の底で吐き捨てる。
運命共同体には加わらない。沈む船とわかればさっさと逃げる。悪い人で結構。
「はい、召し上がれ」
テッドの前に硝子のコップが置かれた。みずみずしいオレンジ色。南国の色だ。
ラクジーとナレオは手渡しでコップを受け取った。
「わーい!」
「わーい!」
ガキどもが。テッドは嘲笑った。自分も見かけはガキの一員なのだが、ジュースに大喜びするような純真さはとっくに捨ててしまった。
手にすると、ひやりと冷たい。
氷は入っていない。おそらくは果物を丸のまま凍らせているのだろう。しかし、どうやって。
冷凍する技術があることは知っているが、それには大がかりな仕掛けがいる。こんな限られた空間で可能だとは思えない。
この船は理解できないことばかりだ。
「おいしい!」
「おいしいね!」
お子らの声で我に返って、テッドも口をつけた。とろりとした果実が口いっぱいにひろがる。なるほど、オレンジを加えてまろやかさを出しているのか。
ほんとうだ。おいしい。
だが、テッドはすぐに気づいた。酒が入っている。
思わずルイーズを見ると、にやりと笑った。確信のひとみ。
ぎくりとする。
バレている。テッドの年齢が見せかけであること。
十五の容姿は嘘っぱちで、ほんとうは桁違いであることも?
いや、そうではない。十五くらいならば酒を経験していてもおかしくはない。バレているはずがない。考えすぎだ。その証拠にテッドは、だれにも真実を伝えていない。
どっちだ。
目線を外してくれない。テッドがなにか言うのを待っている。
追いつめられた気持ちで、もうひと口飲む。
テッドはついに根負けした。
「おいしい、です……」
「ふふふ、よかった。気にいってくれてありがとう」
そう言うと、ルイーズは腰に手をあてて、ぐっと顔を寄せてきた。
「ひっ……」
あまりにも突然だったので、テッドは酒入りのジュースごと後ろにひっくり返りそうになった。
カチンと凍りついた両の目をのぞきこまれる。
「ふうん……」
ルイーズはゆっくり離れていった。
「あんた、いい目をしてるわ。強い目だ。あの子に似てる。好きだよ」
「……はい?」
”好きだよ”?
テッドは自分が耳まで真っ赤になっていることに気づかない。『強い目』を白黒させるテッドがおかしかったのか、ラクジーとナレオはくすくすと笑った。
女性から好きだと言われた。言われてしまった。ルイーズは大人の女性で、自分は一身上の都合でガキだ。
こういった場合の対処法をあたふたと模索する。
告白されちゃった。
どうしよう。
からかわれていることに思い至らないのは、テッドがテッドたるゆえんである。
どうしようどうしようどうしよう。
席を立つのは気まずいし、そうだ、とりあえず別のことを考えてみよう。
ジュースもどきの酒をもうひと口。
いい目とはなにごとだ。よりによって、目を褒めるなんて。ルイーズはおかしい。人をばかにしている。
テッドは、いつでも疎まれてきた。薄気味悪い目で見るな。反抗的な目が気にくわない。お友だちをにらみるけるんじゃありません、かわいくない子ね。
暗く澱んだ、二個の硝子玉。
好きでこうなったわけじゃない。
テッドは鏡を見ることもない。成長しない己の身体が醜悪で、どうしても直視できない。
第三甲板から上がってくるとき、階段の踊り場に大きな姿見があった。それに気づいたテッドは無意識に目を背けた。
真実を映す鏡。
誓いを裏切って中途半端に成長してしまった身体に、テッドは恐怖すら覚えている。
醜い肢体。陰鬱な目。何年も取り替えていない服。
死人としての自分。
どうして向き合うことなどできようか。
テッドがもっとも忌み嫌うもの。
呪いの紋章ソウルイーターではなく。彼をつけ狙う者たちでもなく。ましてや、運命などという都合のよいことばではなく。
自分。
その恐怖は、生きているかぎり消えることはない。
滑稽だ。
思考が空回りをはじめる。
少し酔っただろうか。酒などしばらく口にしていなかった。そして、ルイーズの酒は思ったよりも強い。
酒は感情を攪乱する。
テッドが黙りこんでしまったので、ラクジーはまたも心配そうな顔になった。
「お部屋に戻りましょう、テッドさん」
「……そうだな」
テッドは残った液体を一気に飲み干し、「ごちそうさま」と言って、席を立った。
「あっあっ、ちょっと待って」
ナレオがごくごくと喉を鳴らした。
頭がぼんやりする。酒のせいとばかりは思えないが、心が大きく揺らいでいる。
みんな同じ。同じ目的をもった仲間。笑わせてくれる。
テッドの目的はなんだろう。少なくとも、群島に災いをもたらすこすことではない。かといって、人と同じとも思わない。
力を貸すと宣言したあのとき、たしかにテッドは、ノエルの力になりたいと思った。
駄目だ。やはり、仲間になることは許されない。第一、ソウルイーターが認めないだろう。戦争をしている集団に混じることは、破滅にいざなうにも等しい。
これからどうする。離れるか、とどまるか。
幾度めかの自問自答。
決断を迫られながら、一歩を踏み出せない。答えはすでにでているのに。
約束を反故にするのは簡単だ。しかも、その行為は圧倒的に正しい。いまならまだ背信すれすれで逃れられるだろう。
だけど。
だけど、なんだ?
なにを迷っている。
(くそっ)
ノエルだ。いや、正直になれ。『罰の紋章』がそこにあるからだ。
世界に二十七しかない真の紋章が出会う。それは奇蹟だ。しかもテッドは権利まで手に入れた。罰の紋章とともにいられるという。
まさしく千載一遇のチャンスだと思う。
真の紋章の力を目撃することも、宿主の末路を知ることも、いまならばできる。
歪められない真実は、テッドの未来に重なるはずだ。おそらくは、絶望のかたちを成して。
それでもテッドは、罰の紋章が視たい。
絶望など恐れはしない。命を落としても、かまわない。
抗いがたい欲求。
これは破滅願望なのだろうか。
ノエルの死というカタルシス。
再生への渇望。二律背反。
道をはずれても、テッドはまぎれもなく人だ。人は迷い、思い悩むもの。長く生きたからといって、本質は変わらない。
ノエルのひとみは海のように蒼く、強く、きれいだと思う。不退転の決意を秘めるその強さが妬ましい。
彼とテッドが決定的に違うのは何か。単純な年齢の差ではない。紋章の運命を背負ったばかりのノエルのほうが、あらゆる判定においてテッドよりも上だ。それはなぜか。
わからない。
テッドはいまだ覚悟すらおぼつかないでいる。
生きた死者になることを望んだはずなのに。
狂いはじめた歯車。
襲いくる不安。胸騒ぎ。焦燥感。
立ちくらみする。気持ちが悪い。
薬でも盛られたんじゃないか、あの酒に。
そのとき、ルイーズが言った。
「あたしは秘密を守る女だよ。話がしたくなったら、こんどは、ひとりでおいで。待ってるよ」
テッドははっとして振り向いた。
やさしく見守る蒼いひとみが、あった。
どくん。
胸が鳴る。
まずい。取り込まれる。
人の集まるところ、それはソウルイーターの餌場。例外なく起こる惨劇をもっともよく知っているのは、誰でもない、テッドだ。
ふざけるな。
耳をふさげ、ソウルイーター!
「……おれは、誰とも関わるつもりはない。構わないでくれ。迷惑だ。もう、来ない」
ぽかんとするラクジーとナレオには目もくれず、テッドは乱暴に床を蹴った。
足音は追いかけてこない。
背後でばたんと扉が閉まる。
喧噪が遠ざかる。
これでいい。けして自暴自棄なのではない。悪い噂が流れるだろが、むしろ願ったりだ。
結局はこの方法しかなかった。あれこれ策を練らずに最初から悪者になっておけばよかった。そういうことだ。
あとは軍規で放逐されるか、出ていくか、傍観者でいるか。
どれを選んでもたいした違いはない。
少なくとも、人は死ぬ。大勢死ぬ。テッドが責任を負う必要はどこにもない。
ああ、そうか。
人が死ぬことは必然であり、それに対してテッドが罪の意識を抱くことはないのだ。
ならば、この痛みはどういうわけだ?
痛い。どこがそんなに痛むのかわからない。身が切り裂かれる。どうしようもなく痛くて、苦しい。
逃げるように階段を駆け上がると、踊り場に大きな姿見があった。
そこに映る少年を、テッドはまっすぐににらみつけた。
化け物もテッドをにらみつける――。
居たな。奥底まで成長をやめたろくでなしめ。
性懲りもなく同じ過ちをくりかえす愚か者。教えてやるよ。ソウルイーターがおまえを見離さないのは、弱いやつのほうが居心地がいいからだ。
自惚れるな。やつはおまえをあるじと認めたわけではない。永遠に認めるわけがない。紋章と人間は、絶対に相容れない。
やつがただの一度でも、おまえの願いを聞いたことがあるか?
おまえが生きているから、生きているから、生きているからやつは魂を喰らいつづけるんだ。
「くそっ」
テッドは拳で鏡を叩いた。それは頑丈で、ひとりの力では割れたりしない。
だがテッドは、破壊を試みた。
何度も、何度も。
頬が濡れていた。それでも叩きつづけた。
鏡はびくともしなかった。
「……ちくしょう……なんで、なんで、死なないんだよ」
力を喪い、くずおれる。
テッドは嗚咽した。
だれにも聞こえないように。声を押し殺して、泣いた。
――その小さい背中を見つめるひとりの青年がいた。
テッドは立ちあがり、ふらりと揺れた。姿見にもたれかかる。
「……」
その口がなにかつぶやいたが、声にはならず、青年のもとへは届かなかった。
やがて彼は、うつむいたまま、鏡から離れた。足をひきずって階段を下りていく。
後ろ姿を、青年は追った。
手紙、書いてみた。
あとは目安箱というやつに投函するだけ。すごく大事なことだから、どうしてもノエルに伝えなきゃならない。
でもなあ、入れるとこを誰かに見られたくないし、ああ、どうしよう。
魔法で見張りを眠らせて……いやいやいやいやそりゃ犯罪だろ……ぶつぶつ……。
2012-09-06
