Press "Enter" to skip to content

バースデイ 12

第十二題「やっぱり許せなくて」

「先生、チェスター……こんにちは」
 テッドは意外な再会を驚くでもなく、まだ幼い唇でなめらかに言葉をあやつった。わずかではあるが、ほほえんですらいるようだ。穏やかに見えるその表情は、もちろん無機質な仮面にすぎない。少年の鉱物を思わせる瞳には、一片の感情もうかんではいなかった。
 その間にも床の血だまりはじわじわと範囲を拡げ、少年の足元に迫っていった。犠牲者の身体は不気味で不規則な痙攣を繰り返していたが、やがてまったく動かなくなった。机の下あたりに転がったはずの頭部を確認する勇気は、チェスターにはなかった。
 純白の子供服にぽつぽつとはねた鮮血が、少年の異常な心理を物語る。彼はまるでそこに展開した惨劇がいましがた読んだ三文小説かなにかでもあるように、すでに興味も薄れたというようなすげない顔をした。
 いけない子には大人としてなにか小言をいわなければと焦っても、こわばってうまく声が出せない。やっとの思いで絞りだしでも、それは単なるうめき声であった。
 フレッドも衝撃で身体を支え難くなったのだろう、よろめいて壁に背中をついた。職業柄、検死に立ち会う機会もあるだろうが、これほど凄惨な殺人現場に遭遇したのはおそらくはじめてにちがいない。
 身も凍るような恐怖、そして、じわりと迫りくる『次は自分の番だ』という危機感。
 テッドの隣に存在感を消して寄り添う青年からは、得体の知れない冷厳がただよってきた。先ほど放った手の武器は、人も魔物も無慈悲に即死させる道具である。おそらく、躊躇もしなかったのだろう。たしか命乞いをする時間はなかったはずだ。
 すべてが悪夢に思えた。夢でないとしたら、これはいったいどこの世界の現実だ。
 沈黙を破ってまず口をひらいたのは青年であった。深い闇のような漆黒の眼が、するりとテッドに向けられた。
「よけいなことろを見られてしまいましたね」
「……」
 テッドは無言。瞳の最奥だけがほんのかすかに揺らめく。
「フレッド・ヤンス先生と、チェスター・ドナヒューさま。若様の恩人であらせられるお方、と記憶しておりますが。如何なほどを」
 テッドは表情を変えず、考えるしぐさをした。少しして小鳥のように軽く首を傾けた。
「先生、チェスター、取引しよう」
「……取引?」
 フレッドはからからに渇いた声で訊きかえした。
「そう、取引。お互いのために。先生たちもその人のような目に遭いたくないだろうし、おれも世話になった人にそんなことはしたくない。だから、ここで別れようよっていう提案なんだけど。けどさ、いま見たことを口外されちゃ困るんだよね。あとはどうすりゃいいかわかるよな」
「見逃してやるから黙ってろ、いうことか」とチェスター。
「うん、大人だね、チェスター」
「ふざけんな」とチェスターは言った。「カミラ、どこやった。まさかしらばっくれるつもりじゃねえよな。なんのためかしんねえが、女房返しやがれ。取引なんてのはそっからだ」
 テッドはちらりと不機嫌をのぞかせて、「ったく、頭悪いんだから」とつぶやいた。
「テッドくん」とフレッド。「どんな事情があるのかは知りません。けれど、きみはおかしいですよ。ほんとうに、テッドくんなのですか。なんで、どうしてそんなに平然としてるんです。こんなの、人のすることじゃない。ねえ、わかってますか。ちゃんと見えていますか。テッドくん」
「……うるさいなあ」
「こんな状況で茶化すのはやめてちゃんと質問に答えてください。ぼくもきちんと納得しないうちはきみのいう取引に応じるつもりはありません。大人には大人の理論というものがあります。きみも会話をするなら同じ目線になってください」
 テッドはくすりと嘲った。鳶色の眼はフレッドがたびたび恐れたあの冷たい光を帯びていた。だがこの期に及んで怯むわけにはいかない。
 黒いスーツの青年が静かに割って入った。
「若様、ゆっくり話を愉しまれる時間はございません。ご決断を」
「アレン、おまえはひっこんでろ」
「いいえ……悪しからず、失礼」
 アレンの手が閃いた。一瞬のことであった。
 チャクラが躍る。
 チェスターには眼を閉じる時間しか残されていなかった。
 血液が噴出し、勢いよく撥ね散った。
「……ぅ、あっ」
 膝が崩れ、チェスターはついに立っていられなくなった。心臓がばくばくと音をたて、耳を塞ぎたくなるほどに荒れ狂った。咄嗟に腕で身を守ってはみたが、その身体になんの痛みも感じないことに彼が気づいたのは、少しあとのことだった。
 薄目をあける。自分のシャツには血のシミが点々とついている。しかし、それは。
「テッドくんっ!」
 フレッドの叫びでチェスターは我に返った。
 力を失ったテッドをアレンが片手で支えていた。逆の手には禍々しき血染めの刃。テッドは太腿のあたりをざっくりと切り裂かれ、おびただしい出血が足元を新たに濡らしていった。
「アレン、なんの真似だ」
 テッドは激痛をこらえながら付き人を睨みつけた。
 だがアレンは事も無げに言った。
「どうされました。こういうときのために若様は紋章をお持ちなのではないですか。右でも左でも、どうぞご随意に。はやくしないと、出血で手遅れになりますよ」
「もう、いい。離せ」
 テッドはアレンの手を払いのけた。よろよろとよろめいて、ぺたんと尻を着く。傷を受けた右足が痛くて、自力では立っていられない。少しでもこらえようと押さえつけた指のあいだから、にじみでるように血があふれた。
 アレンにしてみれば究極の手加減だったにちがいない。まともに受けていたらいまごろ下半身はここにあるまい。だが脚がついていようがいまいが、放っておけばいずれは失血死だ。
 フレッドがもの凄い形相で傍らに走ってきた。アレンは止めなかった。
「止血します。動かないで」
 フレッドはポケットからハンカチを取り出すと、テッドの傷口にあてて強く圧迫した。いつもなら往診鞄に止血帯を準備しているのだが、いまはそれもない。天にも祈る気持ちで、止まってくれ、とつぶやく。
 テッドは逃れようと後ずさった。それはすかさずチェスターが封じた。
「くそ、やめろ、離せ、ちくしょう」
 必死にもがいても、大の男ふたりの力には勝てない。
 アレンはそっと腕組みをして、三人がからみあうのを傍観していた。やがてテッドが紋章を発動させる意志のないことを悟ると、苦笑いをうかべながら言った。
「若様は、ほんとうに頑固者でいらっしゃる。道具とて使わなければただのお荷物でしょうに。プライドの高い若様が、そのような者たちの力を借りて助かろうとでも? そのような甘ったれたお考えで、名を継ぐおつもりですか」
「御託はいい。こいつらをひっぺがせ、アレン」
「まだおわかりにならないようですから」とアレンは闇色の眼をテッドに向けた。「じかに申しあげます。若様、その右手の紋章をぼくにお譲りください。どうせ若様には必要のないものでしょうから。奪う機会を狙っておりましたが、若様を見ていて気がかわりました。合意のもと、頂戴することにいたします」
 テッドは嘲るように口元をゆがめた。
「勘違いもここに至ると滑稽だな、アレン」
「おや、そうでしょうか。ぼくは正しく存じあげておりますよ。それが真の紋章のひとつといわれる”生と死を司る紋章”であることも」
 テッドの身体が強張った。驚愕で、鳶色の眼が凍りつく。
 フレッドとチェスターはわけがわからず、顔を見あわせた。
「……貴様」
「それについて正確に書かれている文献は多くありません。ですが、まったくないわけでもございません。ぼくは若様のお持ちである紋章の形状と、とある伝え語りとのあいだに接点を見いだすことに成功しました。いまのは、そのことをうけてぼくなりに導いた結論です。そしていましがたの若様のうろたえようを見てついに確信しました」
「狂人め。おまえのそれは妄想だ」
「お芝居はここまでにしましょう、若様。さて、この場に長居は無用です。お話の続きはお屋敷に戻りましてから、ゆっくりと」
 アレンは呆然とするフレッドとチェスターに視線を移した。
「あなたがたも、どうぞご同行ください。おそれいりますが先生は引き続き、若様のお手当てを。チェスターさま、おっしゃるとおり奥様は当家でお預かりいたしております。若様のはからいでお客さまとしてもてなしておりますので、ご心配にはおよびません。お迎えのついでで恐縮ですが、若様は歩くのがちょっとむずかしいようですから、馬車までお連れいただければと」
「当然だ、くそ」
 チェスターは吐き捨てて、テッドを乱暴に抱えあげた。

 自室のベッドに横たえられ、テッドはふてくされた顔で窓の外を眺めるふりをした。怪我はフレッドによってきちんと止血が施され、いまはただ単にずきずきと痛みを訴えるだけだ。
「目的を訊いていいか、アレン」
 テッドは眼もあわさずに部屋にいる付き人に言った。
 アレンは妙な動物の絵をピンで机の前に貼りながら、おだやかに答えた。
「ささやかな願いのようなものです。大それた野望などは持ちあわせておりません」
「まわりくどい。だからなんだ」
「復讐です」
 テッドは怪訝な眼をアレンに戻した。
「なんに」
「母にぼくを生ませた父親に。それと、ぼくを生かしてきたこの世界に」
「くだらない」
「ええ、ほかの人にとってみれば非常にくだらない理由です。ぼくはただ、憎むべきものに復讐したい、それだけですから。紋章は手段として利用したいだけです。それが終われば、若様にお返ししてもいっこうにかまいません」
「これは貸し借りできるようなものじゃない。おれは、そんな申し出にウンとはいわない」
 アレンはベッドに歩み寄って、訊いた。
「お認めになるのですか、若様。それが真の紋章であること」
 テッドは少しのあいだじっと考えていたが、やがてこくんとうなずいた。
「ああ、そうだ。だからこそ、おまえに貸与するわけにはいかない」
「いまここで、ぼくが若様のお命を奪うと申しあげても、ですか」
「その前におれがおまえの魂を奪う。おまえは強いけど、紋章を使えばおれの勝ちだ。この腐れた国もろとも、おまえを喰える。そうなったらたぶん手加減はできない」
「ぼくも勝ち目のない賭けには乗りません。こう見えても、命は惜しいのです」
 アレンはベッドのわきを通りすぎ、大きく開けた窓辺に向かった。塩湖が霧にかすんでぼんやりとみえる。生命の気配を感じられない、寂しい風景だ。
「ぼくは、マコルフさまの実の子です」
 テッドは驚いて「えっ」と訊きかえした。アレンは窓の外の一点に視線を据えたまま、話を続けた。
「もちろんマコルフさまはご存じありません。母のことも、おそらくは憶えていらっしゃらないと思います。母がぼくの前から姿を消したとき、そう言い残していきました。真実かどうかはもはや確認するすべはありません」
「なんかの勘違いじゃねえの。あんた、マコルフにぜんぜん似ていない」
「それでも結構。曖昧な話でもぼくにとってはじゅうぶんだったんです。ぼくにとって、父親を憎むことだけが生きる理由になってくれました。マコルフさまに接触し、屋敷にもぐりこんだのも、復讐のためです。これまではすべて計画どおりでした」
「でも、あんた言ってなかったか。マコルフ・ボナパルトにこの国の頂点に立ってもらいたいって」
 アレンはようやく振り返った。整った顔には薄笑いをうかべている。
「そうです。突き落とすなら低い崖からではなく、頂上からがいい。落下の恐怖と、身が粉砕する痛みを存分に味わっていただきたい。若様だって、そうお考えだからここに居られるのでしょう?」
 テッドは息をのんだ。図星である。たしかに自分は、そんなことを考えた。
 アレンはテッドを誘うように、流暢に語った。
「ぼくたちはたぶん敵同士ではありません。ですから肩の張る演技も、気遣いも無用です。味方になれ、とは申しません。ぼくは若様のなさることを見届けるつもりでおります。当面は、それで構いませんね」
「それで、おまえは満足するのか、アレン」
「まさか」とアレンは首を振った。「マコルフさまが死んでも、ぼくはやっぱり、父を許せないと思います。業は地獄まで持っていきます。その覚悟なら、できています」
 業。
 悪い行いをした者には悪い運命がはね返るという、衆生を救済する教え。ならば、とテッドは思う。自分はいつ、悪い行いをしたのだろう。
 理論はなにもかも一方通行で、心にひびいてなどこない。どうして。どうして。どうして。幼い自分が悲鳴をあげる。ぼくだけなぜ。悪いことなんかしていない。
「生まれたことが罪だった」
 アレンがその答えの代弁者だった。なるほど、とテッドは妙に納得した。
 生まれてこなければよかったのだ。そうすれば、だれかほかの者が役目をかわっていた。そう、自分でなくともよかったはずだ。あるいはカミラがその人だったかもしれない。
 生まれる時と場所を人は選べない。選ぶのは大いなる意志である。すなわち生と死を司る存在。ソウルイーターが。
「こいつのせいか」とテッドは小さくつぶやいた。「こいつが、おれを喚んだのか。ちくしょうめ」
 右手で拳を握り、シーツに打ちつける。
 その手はいまだ幼く、この先も変わらず在り続ける。偽りの姿、まやかしの存在。どれほどに己の外見が醜悪か、どれほどに惨めなものか、想像するだけでふるえが奔った。心と躯、どちらか一方でもいい。放棄してしまいたかった。叶うのであればいますぐにでも。
 せめてもう少し勇気があったなら。
 あるいはあと一歩だけ、絶望の淵に踏みこめたなら。
 願いは届いたかもしれないのに。
 惨めだ。
 成長しないのが身体だけではないなんて。
 テッドはハッと顔をあげた。リビングでどたばたという音がする。使用人の「落ち着いてください」と叫ぶ声と、何を言っているのやら判別しがたいどら声。監視をつけられて別室でおとなしくしているはずのチェスターだろう。
 ドアがドカ靴で蹴破られた。
「馬車を出してくれ! 女房が産気づいた」
 アレンは冷静にたしなめた。
「あわてないでください。奥様は初産でしょう。はじめての方は時間がかかります。ゆっくりしたくをしてもだいじょうぶです」
 ところがチェスターはただごとではない形相でわめきちらした。
「てやんでえ、それどこじゃねえんだよ! 血が、血がとまんねえんだ。カミラが死んじまう……!」
 またもやバタバタと走ってくる足音がして、今度はフレッドが飛びこんできた。
「チェスター、運ぶのは諦めます。胎盤が早期剥離した。もう危険すぎる。ここで分娩します。すいません、お手伝いをかき集めてください。テッドくん、きみも来なさい」
「おらよ、ちびすけ。ぼやっとすんな」
 チェスターはテッドをむりやり肩にかつぎあげようとした。
「やだ! おれ、関係ない。おまえら医者だろうが。おれなんかいなくたって、できっだろ。離せ、ばか」
 テッドは足をばたばたさせて抵抗した。
「やかましい」
「やだってば! 見たくない。おれ、いかない」
「人の死ぬのは平気でも、人が生まれるのは怖いのか」
 チェスターの眼に炎が揺らめいた。
 強肩で小柄な身体を吊りあげ、顔に拳を叩きこむ。
 次の瞬間、テッドの身体は壁に叩きつけられていた。
 チェスターは喘ぎながら声を絞りだした。
「ちびすけ、てめえが死の痛みを知らねえのは、人の生まれる痛みを知らねえからだ。いま、それをいやってほど教えてやる。逃がしゃしねえぞ。そのガラス玉のような眼ん玉おっぴろげて、よーく見るんだ。いくぜ」
「や……やだ! いやだ! 離せチェスター!」
 鼻血をにじませながらなおも抵抗するテッドの首根っこを鷲づかみにして、チェスターは一階下にある客間へ向かった。マコルフの留守を預かる数名の使用人たちはすでに言いつけられた仕事にとりかかっているのか、慌ただしく右往左往している。
「先生、ありったけのタオルを持ってきました」
 テッド専任の食事係も本来ならば厨房に居なくてはならない時間なのだが、顔が隠れるほどタオルをかかえていたので仕えるべき主人に気づかず、フレッドの指示を受けて客間に消えていった。
 テッドも客間に連れこまれて、異常なその光景を目にした。床にはベッドマットがじかにひろげられ、ベッド本体は窓際へ追いやられていた。敷かれているシーツは血で真っ赤だ。
 カミラはテッドに気づき、安心したかのようにほほえんだ。つやのある金色の髪は汗で額に張りつき、大出血しているせいで顔色も青白い。
「陣痛には波がありますから、落ち着いているときにできるだけリラックスして休むことが大事です。テッドくん、カミラちゃんのそばについてお話をしてあげてください」
「なんでおれが!」とテッドはまた声を荒げた。
 冗談ではない。死にかけた獲物のそばにいては腹を空かせたソウルイーターが目を覚ます。それでなくとも最近まずいものしか喰っていないのだから、やわらかい女性とできたての新生児など、それこそフルコースの御馳走だ。一刻もはやくこの場から離れないと、とんでもない事態になってしまう。
「おれ、外にいる。離してチェスター。おれ、いちゃ、だめなんだ。おれが、いたら、死んじゃう。みんな、死んじゃう。離して……離せ」
 鼻の奥が痛い。理解してもらえぬ悔しさを、もはや耐えきれそうになかった。最初の涙が、我慢の限界を超えてポロリと滴った。
「来てくれる、テッド」
 カミラが言った。つらいだろうに、ひどくおだやかな声だった。
「私、知ってる。その紋章はあなたに近づいた魂を奪うもの。だけど、忘れないでほしいの。それが、命を見守る紋章だということを……」
 テッドはひくっと肩をはねあげ、くぐもった息を漏らした。
「テッド、おねがい。私の赤ちゃんを、私の……テッドを、祝福して。生まれておいでって、話しかけてちょうだい。テッドは、いま、とっても苦しいの。生まれてくるのが、苦しいの。だから、だいじょうぶだよって、いって……」
 テッドはチェスターの腕をぎゅっとつかみ、「だって……」と言った。
「ちびすけ。おれからも、頼む」
 チェスターが耳許でささやく。
「怖い」
「オレの子導いてくれんのは、おまえだけだ。カミラも、そういってる。医者なんてよ、男なんてよ、こんなとき、なーんにも……できねえよ。ただあたふたして、祈るだけしかよ。へっ、情けねえったら、ありゃしねえ。ちびすけ……泣くな」
 カミラは苦しそうに呻いた。陣痛が襲ってきたらしい。横にした身体を丸め、速い呼吸を繰り返す。
「カミラちゃん、そう、息をして。赤ちゃんもそれで呼吸してるんだから。痛くしてしっかりがんばるんだ。ぜったいだいじょうぶだから。ちゃんと産めるから」
 フレッドの励ましのあいだにも、カミラは「ああっ!」と叫んでシーツを裂けそうなほど握りしめた。出血がスカートをひたひたと汚していく。
 テッドはがたがたとふるえてひくついた。
「テッド……テッド」
「い、や……」
 テッドは激しく頭を振った。
「いやだ、いやだって、いってる。生まれたくなんてないって、それなのに、むりやり産ませようとするなんて、そんなの、いやだ、おれ、いやだ」
 テッドの眼が離れたところに立つアレンに吸い寄せられた。彼もまた戸惑いを隠そうとせず、かといって次の行動も見いだせないかのように、何とも称しがたい顔でテッドを凝視していた。
「アレン、たすけて」
 テッドがそう言いかけたときだった。
「私が産んであげるわ」
 はっきりと強く、カミラが言った。そうして彼女は身体を起こし、凛と立ちあがった。
 止めようとするフレッドを手でさえぎり、カミラはテッドとチェスターに向かって両手をひろげた。
「テッド、いらっしゃい。私が、あなたをもういちど、産んであげる。つらいのなら、がまんすることなんて、ないの。おなかのなかにはいって、あたたかい羊水に守られて、祝福されて、生まれておいでよ。怖がることなんて、ないわ。さあ」
 チェスターはうなずいて、テッドを軽々とだっこするとカミラにそっと預けた。
 やさしい腕に包みこまれる。
 テッドはなすすべもなく、身体を強張らせた。右手、右手を起こしてはだめだ。ドクドクと拍動するものが心臓なのか右手なのか、どうしてもわからない。
「だいじょうぶよ。テッド、だいじょうぶ。おめめをとじて」
 カミラはそっと唇を近づけて、歌いはじめた。
 ねんねんころり やさしいこ
 過ぎ去りし日の おもいでは
 麦穂のゆりかご ゆらします
 あしたまたまた おひさまが
 このこを慈しみますように
 ねんころり ねんころり
 テッドだけにそのささやきがきこえるように、カミラはふわりと頭を包んだ。
 忘れかけた故郷の歌は、いまのテッドには痛すぎた。顔も知らぬ両親が、慈しみ育んでくれた村の人々が、頑固者だったけれど尽きぬ愛情を与えてくれた祖父が、瞼の裏にあらわれては消えた。
「産むわたしも、生まれてくる赤ちゃんも、命がけよ」とカミラは言った。「だからね、テッド。祝福されずに生まれてくる子はひとりもいないの。でももしもあなたがそう思うなら、それであなたがつらいのなら、ね、もういちど生まれてきなさい。いいわね」
 カミラは腕をふるわせて、テッドに抱きついた。波のように襲ってくる痛みに必死に耐えようとする。
「横になろう、カミラ」
 チェスターの手を借りて、カミラはマットレスに横たわった。テッドのことはそれでもしっかりと離さない。
 フレッドはタオルで血をぬぐいながら、「開きかけている。頭が見える」と叫んだ。
 カミラの苦しみようは尋常ではなかった。テッドはがたがたと身体をふるわせるだけで、なにもできない自分を呪った。カミラの腕はしっかりと巻きついて離れない。
「ああっ! はあ、はあ、はあ」
「カミラ!」
 フレッドは顔をゆがめ、絶望的な声でうなった。
「つっかえて出てこられないんだ。これ以上は、母子共に危険になる。テッドくん」
「えっ」
 名を呼ばれて、テッドは恐怖の色をうかべた眼を医者に釘づけた。
「カミラちゃんのおなかに乗って、赤ちゃんを押し出しなさい」
「ええっ!」
 テッドは驚愕し、がくがくと首を振った。
「そんなことをしたら、死んじゃうってば!」
「きみの体重がちょうどいい。いいね、力加減は考えなくていいから。思いっきりやるんだ。このままではカミラちゃんも苦しいし、赤ちゃんも苦しい。だから、たすけてあげてください」
「できない、おれそんなこと、できない」
「ちびすけ!」とチェスターが叫んだ。「やってくれ」
「チェスター……」
 自分の顔は情けないくらいぐちゃぐちゃで、きっとすごいことになっているだろう。当分鏡は見られない、と思った。
「ああ、ああっ!」
 カミラが顎をあげて悶えた。
「……くっ」
 テッドは無我夢中で、こんもりと盛りあがったカミラの腹に膝をたてた。手のひらと足を使い、ちからまかせに押す。
「ああああ!」
 耳を塞ぎたくなるような絶叫と、それに続いたのはフレッドの言葉。
「生まれるぞ!」
 がくり、とテッドの身体が傾いだ。
 へその緒を引きずった赤ん坊はフレッドに取りあげられ、この世で最初の呼吸―――力強い産声を、あげた。


最終更新日:2006-10-16