第七題「蹴り飛ばして」
鋭くささくれだち赤錆の浮いた、うち捨てられた凶器を男はテッドの首筋にあてがった。
「いまさら後悔しても遅いぜ」
知性の乏しそうなどんよりとした眼は、怒りに我を忘れたか、それなりに熱をもってぎらついていた。無抵抗の子どもにしか、己の強さを誇示することができない。滑稽だが、こういう人間が掃きだめを牛耳っているのだからやるせない。
力をこめる。鋸の役目をした鉄の棒は皮膚に食いこみ、ゆっくりとした速度で肉を裂いた。
「どうだ、痛かろうが。そらそらそら。どんくらい切ったらネをあげるかな、へへへ」
逃げられないように髪の毛を鷲づかみにし、膝立ちの姿勢になるようにぶら下げる。鮮血がみるみるシャツの胸元を赤く染めていった。それなのにテッドは冷ややかな眼を相手に固定したまま、手で防御するでもなく、うめき声もあげなかった。
この瞬間、男に殺意が芽生えた。申請が受理されて金がおりるまで、とりあえず生かしておけという指示が与えられていたが、ひとりくらいうっかりということもあろう。いざとなったら適当に子どもをさらってきて、こっそり補充しておけばよいだけのこと。
最後には処分するのだから、退屈しのぎにからかって遊ぶのも一興。どうせなら抵抗する気力の残っているほうがいい。子どもが泣きわめくと愉しくてゾクゾクする。この世の地獄を味わわせるときの、あの絶望に濡れた無防備な眼ときたら、たわむれに虐待する野良犬野良猫の比ではない。
気絶しない程度に暴力を加えたあと、これからどうされるのか親切に教えてやるとたいがいの子どもは恐怖のあまり半狂乱になってしまう。失禁したり、暴れたりしたらもちろんお仕置きだ。
気晴らしとしては最高の仕事だった。それほど儲かるわけでもないけれど、子どもを苛めているだけで金がもらえるだなんて、美味しい話だ。
生きながら土に埋めるのだと聞いたけれど、それでは死ぬ瞬間が見られなくておもしろくない。あとの手間がはぶけてよいというだけで、自分が首謀者だったらもっと別の方法を考える。とくにこいつのような強情なガキは、死んだあとも地獄でしか引き取ってもらえないように徹底的にいたぶってやるのだが。
鳶色の、こちらを蔑むような目つきが気にくわないのだ。
あるいはとっくの昔におかしくなっていて、置かれている状況がわかっていないというのもあり得る。心ここにあらずという感じなら興ざめもしただろうが、子どもの向けてくる嫌悪の眼にはあきらかに意志が見え隠れしていた。
汚いものを見る目線。
「このガキ」
金属が骨に到達する手応えがあった。男は煙草のヤニで黒ずんだ歯をむきだしにして、懐かない獲物にとどめを刺そうとした。
「そのへんにしておけ」
扉のあたりで声がした。いつの間に来たのであろう。この建物の実質的な持ち主で、すべての命令を下せる立場にいる男。初老とも呼べる年齢だが、まとう雰囲気の鋭さは加齢による衰えをみじんも見せていない。
テッドを痛めつけていたチンピラはだらしなく苦笑いをして、あろうことか弁解をはじめた。
「いや、あんまりこのガキがいうことをきかないもんですから。悪い子はお仕置き、ってね、へへへ」
「早く死んだら蛆がわく。それ以上汚くするな。それでなくともおまえらが掃除をしないから、クソまみれなんだろうが……」
手が離れて、テッドは湿った床にころがった。それを男は舌打ちしながら蹴り飛ばした。
「座ってろといったろうがよォ。横になったら承知しねえぞ」
固まっていた子どもたちがいっせいに身を縮こまらせた。
きのうも体力を消耗して身体を支えられなくなった女の子が、口に汚物を突っこまれたばかりである。子どもたちは必死の思いで、眠らぬように互いを励ましあった。みな眼の下に隈ができ、唇は病的に青白かった。
監禁されて七日。時間の感覚はすでに子どもたちにはなかったが、もうすぐ殺されるのだという事実を認めることができず、一分一秒がまるで死刑執行を待つ捕虜の気分であった。
ただ呆然とする子、声を殺して泣く子、助けを信じて待とうとする子、それから、精神が先に崩壊してしまった子。そのなかでひとり、テッドだけが自力で脱出する道を模索していた。
傷ついた身体を起こし、膝をかかえて座る。首は獣に引っ掻かれたときのようにじくじくと痛んだ。
右手を軽く握ってみる。それはまだ完全に馴染んだとはいいがたく、発動させたら子どもたちも巻きこんでしまいそうな気がした。継承してからだいぶたつが、一般の紋章のように練習次第で扱えるようなものではない。できるだけ制御できるように訓練はしてみたものの、幾度も挫折してからは、戒めの意味で使わないようにしてきたのだ。
包帯を巻き、その上から革手袋で覆ったのは、人の眼を避けるためだけではない。それは自らに科した封印である。
感覚を忘れかけているのに、都合よく扱える自信などない。やるとしたら、ほんとうに最後の手段にしようと思った。
初老の男はテッドをちらりと一瞥し、大きな欠伸をした。それから見張りに向かっておぞましい言葉を吐いた。
「まあ明日か、長くともあさってというところだな。墓堀りにそろそろ仕事だと伝えておけ。ああ、こいつらにメシはくれてやってるのか?」
「ええと、はい、何回かはいちおう」
「もう必要ないからな。これ以上クソを垂れ流されてはかなわん。次のを入れる前にちゃんと床を水拭きしておけよ。おまえらがさぼるからネズミがふえるんだぞ。倉庫の商品をかじられたら商売あがったりだ」
「へえ、塩も食うんですかね、ネズミっちゅうのは」
「ばかかおまえは。食うのは袋のほうだ。あいつらは悪食だからな、石けんだろうが麦藁だろうがすぐボロボロにしやがる。そのうえ賢くて、猛毒を仕込んだ餌には手をつけやがらねえ。ネズミ駆除をたのんだところでイタチごっこだ」
商品。塩。ネズミ。
それはなにかのキーワードのように思えた。塩湖のわきに建つ頑丈な建物は倉庫として使われているらしい。その一室に監禁するということは、ふだんあまり人の出入りがない証拠だ。
テッドの思考をさえぎったのは、ひとりの男の子の嗚咽であった。泣いたらひどく殴られることを身にしみてわかってはいるのだけれど、がまんができなかったのだろう。
「ひっ、ひっ」
初老の男はむっとして、「クソをだまらせろ」と言った。見張りのひとりが歩み寄り、男の子の頬を平手で張り飛ばした。
「いいか。声をあげたり、少しでも動いたら、ネズミの毒を食わすからな。あしたになったら全員、穴を掘って埋めてやる。生きたままよ。なんたって、おまえたちは町のゴミだからよ。へへ、いまのうちにせいぜいお友だちになっとくんだな」
子どもたちはもはやだれも命乞いを試みなかった。訴えた者から先に殺されるのは目に見えていたからだ。男の子も女の子もひきつったように不自然な呼吸をして、身体を哀れに痙攣させた。
テッドはぼんやりと薄暗い天井を見あげた。まだ頭が重苦しい。投薬のおかげですっきりと目が覚めないのだ。
「……塩、商品、それから、ネズミ」
夢で拾いあげた単語を、こぼれ落ちないうちに復唱してみる。
ベッドがもぞりと動いた。添い寝をしていたフレッドにつぶやきが聞こえたらしい。
「うん? テッドくん、眠れませんか」
「先生。やつらがおれに使った毒って、ひょっとして殺鼠剤じゃなかったですか」
フレッドは身を起こして、枕元のランプに手を伸ばした。自動着火でそれをともす。ベッドまわりはじわりと明るくなった。
「ええ、まあ、そういう目的で使うこともたしかにできるでしょうけど……規制されている劇薬ですし、一般の取引は禁止されていますから、表ルートでの入手はかなり困難ですよ。それが、なにか」
「親玉が、塩を取り扱う商売をしているようでした。塩湖のほとりに倉庫があって、監禁されていたのは、そこだと思います」
「塩を。なるほど」 フレッドは脇机から眼鏡をとってかけた。レンズに度のはいっていないだて眼鏡だが、永年の癖でこれがないと落ち着かないらしい。
「けれど、塩湖のあたりに塩倉庫はゴマンとありますからねえ。その線から特定するのはかなり厳しいかもしれません」
「顔、はっきりと覚えています。けっこうな実力者と見ました。塩で儲けていて、州議会と通じている人といったら、絞りこめるんじゃないですか。ここって、塩で栄えた町なんでしょう? だったらその経営者って政治への発言力もあるような気がするけど」
「塩産業は廃れてきて、財閥といわれるのはいまやごく一部だけです。けれど、そういう方たちが、たかが助成金目当てで効率のよくない犯罪をおかすでしょうか? ぼくにはどうも納得がいかないのですが」
「町の掃除。ネズミの駆除」とテッドはつぶやいた。「……ねえ先生、評価の高い都市の条件ってわかります? 規模や人口にかかわらず、仕事があって、失業率も低く、福祉が行き届いていて、浮浪者や孤児のあつまるコロニーがないのが理想なんです。まあ要するに、きれいな町づくりってやつですか。きれいの意味ってはき違えやすいみたいだけどね。理想社会をつくって対外的に評価が高くなれば、交易ももっと盛んになります。塩湖の資源はほぼ無尽蔵ってきいたし、うまくいけば、ファレナ女王国かアーメス新王朝のどっちかと取引できるかもしれないでしょ。群島に依存している塩の半分でもいいからこっちに引きこめたら、しめたもんだと思うな」
「理屈はそうですけど、それが孤児虐殺とどうつながるんです? テッドくん、考えすぎですよ」
「考えすぎかどうかは先生、商売人をもっと理解してから判断しないと。あと、歴史もね。塩がもとで起こった戦争がいくつあるか、お時間のあるときにでも学習してください。まあとにかく、塩を売りたいやつらがいるのはホント。あの人たち、売りこむためにこの国に化粧をほどこしたいわけですよ。まっ、アピールってわけだ。助成金は活動資金ってところかな」
フレッドはため息をついた。
「信じられない」
テッドは冷ややかに言いはなった。
「おれはべつに、部外者だからどうでもいい。ただ気づいたことを申しあげたまでです。ずっと監視されるのも迷惑だし、ほんとのところ、もう時間がないので次の旅をはじめたいんです。おれにも、旅をする理由というのがちゃんとありますので。目的もなくふらついているわけじゃありませんから」
フレッドは困ったようにテッドを見た。どうしようかと考えあぐねている様子だ。
少しして「わかりました」と彼はうなずいた。
「現状打破のためにぼくも努力しましょう。きみの出国にも手を尽くします」
「たすかります。なにからなにまで、すみません」
「……ただし、保護者としていくつか条件を出させてください。まずテッドくんは、手のケガを治し、ぼくが認めるまでリハビリを行うこと。それから、自分をあまり過信せず、なにがあっても無茶はしないこと。行動を起こす前に必ず相談してください。あと、テッドくんの目撃した人がわかっても、すべてぼくにまかせること。危険すぎますからね」
「はい、はい」とテッドは気のない返事をした。
「もうひとつ……」
「まだあんのかよ。さすがお医者さん。お堅いなあ」
「テッドくん、笑ってください」
「……はあ?」
「しかめっ面ばかりしていたら、そういう顔しかできなくなっちゃいますよ。こないだのきみだったらともかく、いまはちょっとだけ積極的って感じですよね。雰囲気、変わりました」
「……」
「カミラちゃんのことでチェスターにつっかかっていったとき、なんとなく、あれっと思ったんですよ。あれが、ほんとのきみなんですよね。ぼくはチェスターの気持ちもすごくわかるけど、きみの気持ちも尊重したくなったんです。人の生死をほんとうに軽んじてる人だったら、あの場でなにもいうはずがないし。カミラちゃんもきっと、きみには感謝してると思います」
感謝。なんで。
憎まれこそすれ、彼女がありがとうという理由などひとつもない。自分が巻きこんだせいで、カミラは身体を汚され、生涯残るであろう傷をおったのだ。
おれは疫病神。ひとつところにとどまると、必ず災いを喚びこむ。人の善意を勝手にむさぼって、後足で砂をかける愚か者。感謝も、誉め言葉も、好意もおれには相応しくない。そんな評価は、まったくの無益だ。
「カミラちゃんの直感はたしかですよ。きみがいい子だって、ちゃあんと見抜いています」
この医者の話を聞いているとこっちまでおかしくなりそうだ。相性最悪。どこまで曲解したら気が済むのやら。
腹立たしい。もちろん仰せのままに笑ってやる気などこれっぽっちもなかった。テッドは鼻まで毛布にもぐりこみ、わざとらしく寝息をたててみせた。
フレッドが往診にでかけているあいだ、閑古鳥の鳴く診察室でテッドはチェスターとカードゲームに興じていた。誘いを断ったら薬の回数を二倍にすると脅されたからであって、最初はしぶしぶではあったけれど、チェスターの決めた独自ルールに興味深いものがあり、迂闊にも熱くなってしまったのだ。
「ノック」
「クソ、マジかよ。早過ぎやしねえか、ちびすけ」
「やかましい。勝負するのか、しないのか」
テッドは包帯巻きの左手で器用に手持ちのカードをひろげてみせた。
「クラブのキング、クイーン、ジャック、テン、9、8……のシークエンスと、6が三枚メルド。でもって、残りがエースだ。悪いな」
「その運の良さはなんだ? インチキしてやがんじゃねえだろうな」
「記憶、予測、正確さ、観察眼、臨機応変な判断力、駆け引き、ハッタリ。運なんてのはな、あってもなくてもいっしょなんだよ。よし、次」
「かっわいくねえ、ガキ」
チェスターはぶつぶついいながらカードをシャッフルした。
「買い物にいってくるけど、おひる、なにがいい?」
かごを持ったカミラが診察室をのぞいた。専業主婦が板についている。学校には休学届けを提出したようだった。
「カードをしながら食えるもんならなんでも」
「チェスター、お行儀が悪いわよ。テッド、マカロニグラタンは好き?」
「マカ……なに?」
聞いたこともない料理名にテッドは怪訝な顔をした。
カミラはぺろっと舌をだして、「お楽しみに」と言った。
「財布忘れてくなよ。おっちょこちょいなんだから」
「だいじょうぶですよーだ」
スキップでもしそうな軽快さでいなくなる。チェスターはぼりぼりと無精ひげを掻いた。
「まあちっと、明るすぎるいやぁ、明るすぎるかなあ」
「チェスター」とテッドは言った。
「うん?」
「カミラさんとは、どこまでいってんだ」
チェスターは口に含みかけた茶をぶっと吐きだした。
「うへっ、ばっちい」
「ななな、なにいいだすかと思や、このコマッシャクレ……」
「いっしょに暮らしてんだろ。それなりの関係かと思うだろうが」
「バカモン。おれはこう見えても、婚前交渉はしねぇ主義なんだ」
おたおたとうろたえて赤くなる純情男が面白かったのか、テッドは「フーン」と薄笑いした。
チェスターは声をひそめて、顔を寄せた。
「まだチューだけだ」
「ぷっ。まだってなんだよ、まだって」
「あんだよその小馬鹿にしたツラ。マセガキめ。チン毛も生えそろってねえのに、ひとんちの夜の心配か? 大きなお世話だ。それともなんだ、カミラに惚れたか」
「ばーか」
テッドは手元のカードをちらりと見て、テーブルに置いた。
「ジン。ボーナスがついてまたおれの勝ち。あ、シャットアウトもつくな。高いぞ」
「待て待て待て待て待て! どっから出てきたそのジョーカーは。卑怯者」
テッドはニッと笑った。
「俺様ルールだ」
「やめたやめた!」
ちゃぶ台返し。
カードとカルテがばらばらと床に散らばった。
「あーあ。ひろっとかないとセンセイに叱られっぞ。お仕事しないで真っ昼間からこぞうとカードしてました。三ゲームめからエキサイトして現金賭けました。身寄りのないボクから小遣いふんだくろうなんて、悪漢だよなあ。で、相場は5万ってとこだろうけど、十分の一でいいよ。そんかわり即金でよろしく」
「どこの悪党だ? ちびすけ」
チェスターはズボンのポケットをさぐって五百ポッチ硬貨をつまみだし、テッドに放り投げた。
「ま、これで勘弁しといてやるか。貧乏人からふんだくるのも気がひけるしな」
大きく開けはなった窓からチュンチュンとスズメの声がする。チェスターは憮然として、薬棚から消毒薬と新しい包帯をとりだした。
「左のほう取り替えとこう。とりあえず、ものがつかめるようになってよかったな」
膿がガーゼにはりついて、剥がす痛みにテッドは軽く眉を寄せた。
「首の傷も見せろ」
パジャマのボタンをはずし、丁寧に消毒する。
「傷痕が残るかもしんねえな」
「少しは、治ってるみたいか?」
新しい包帯を首に巻かせながらテッドは訊いた。
「すぐにはむりだ。でもまあ、心配することねえって」
「いや……そんな意味じゃなくて」
言いかけてテッドはやめた。普通の人間とくらべてもしかたがない。こまかい傷や風邪も治るのだから、思い過ごしだろう。予測がつかないというのは、つくづく不安なものだ。
医者であるフレッドや、看護に詳しいチェスターが気づくのも時間の問題。治るはずの傷が治らないとよけいな薬を増やされるだろうし、診療所からも出してもらえまい。カミラに頼みこんで、逃がしてもらうというのも手か。
「チェスター」
よけいなお節介かもと思いつつ、テッドは言った。
「だまって見守るのが男の役割だと思ってたら、おおまちがいだぞ」
「あん? なにをいってる。カミラのことか」
「抱いてやんなよ。子ども育てるつもりなら、なおのことさ。じゃないと彼女、罪悪感でつらくなるんじゃないの。手もにぎんないで、父親役するなんて宣言したところで、しらじらしいんだよ。あんたさ、理屈だけで事を片づけようったって、甘いぜ」
「ちびすけ」
「……なに?」
「あ、いや……ああ、そうだ、な。ありがとよ」
消毒薬を棚にしまいながら、チェスターは妙にしょんぼりとうなだれた。
「ひょっとして、チェスター……」とテッドは言った。「……インポか?」
拳骨がコンボで降ってきた。
「耳年増か、おのれは!」
「痛ってぇ、暴力反対! 患者サンに対してなにその態度。センセーにいいつけ……あ、おかえりなさい」
往診カバンを机に置いて、フレッドは「ずいぶんと楽しそうですね」と笑った。
チェスターはお茶をいれようと立ちあがったが、フレッドは急に深刻な顔をして一通の封筒を手渡した。
「いま、届いていました」
郵便というシステムである。これが機能している都市はまだそれほど多くないが、便利なものだ。文書を安価で迅速に届けてくれる。
チェスターは書面に目を通して、眉をひそめた。
「火事。ああ、それは、ご愁傷さまで」
「全焼だそうです。母屋も、農機具庫もすべて焼けてしまいました。逃げだして怪我がなかったのが不幸中の幸いですか。両親は地区の世話役さんの家に身を寄せているそうなので、これから会ってきます。不審火の疑いがあるので、検証にも立ちあってくれとのことですので。二、三日、留守にしなければなりませんが……」
「胡散臭いですね。うん、プンプンと臭いやがる」
「やっぱり? ぼくもそう思うんですよ。脅しか、揺さぶりかと考えたくもなるタイミングのよさですからね。親を交渉カードに使おうなんて、悪者の考えそうなことです。偶然であることを祈って、チェスター、テッドくんのことをおねがいできますか。後始末がすんだら、飛んで帰りますから」
そのまま両親とともにほとぼりがさめるまで待避しておいてくれればいいのだ。チェスターがうなずくのを見ながら、テッドは心の中で毒づいた。
ヤンス医師に戦いは向いていない。そのくせ正義感だけは人一倍強い。そばにいるだけで気苦労が重なる。
仮にこれがテッドからフレッドを引き離す作戦だったとしても、むしろ都合がよい。もっとも懸念すべき監視人がいなくなるわけだから。
そろそろ真剣にこの国を離れる方法を考えないと、ソウルイーターにちょっかいをだすなと命ずるのにも限界がある。いざとなったらチェスターを蹴り飛ばしてでも、逃げる。
ヤンス先生。あなたの出す条件など無意味だ。おれはそれに従うすべを持たない。悪いが反故にさせてもらう。
「テッドくん、ごめんなさい。チェスターのいうことをよくきいて、けっしてむりはしないでくださいね」
テッドはぎこちなく笑んでみせた。もちろん本心からではない。
単なる別れの挨拶のつもりだった。
最終更新日:2006-10-06
