第四題「何度でも挑んで」
おかあさん。
十歳のカミラはかすれた声で呼んだ。母親の眼はうつろで、焦点を結んでいない。娘が戸口に立っていることにもまったく気づいていないかのようだった。
いちばん下の弟が母親の腕に抱かれていた。ひとつになってまだ間もない、よちよち歩きをはじめたばかりの小さな四人目の弟。だらりと下がった手からは完全に力が抜けていた。
この子が生まれる少し前に、父親は家を出た。有り金はおろか、換金できそうなものはすべて消えていた。おそらく二度と帰ってくるつもりはないのだろう。それならそれで幸いだ。もうぶたれることも、酒を買ってこいと夜遅く命令されることもない。
いつも浴びせかけられていた怒鳴り声がなくなって、カミラはほっとしたのだが、母の思いは少しちがっていたようだ。いま考えると、父の存在こそが母の最後の拠りどころだったにちがいない。暴力ばかりふるい、酒を飲むとすぐセックスを強要してくる父でも、身寄りのない母にとってはかけがえのない支えであったのだ。
拠りどころを失って、母は少しずつおかしくなった。真夜中に、涙を流しながら乳を含ませる母の姿を、カミラは寝たふりをしながらそっと見守っていた。月明かりの下で母は石のようにじっと身じろぎもせず、我が子を抱いて、そして、歌っていた。
ねんねんころり やさしいこ
過ぎ去りし日の おもいでは
麦穂のゆりかご ゆらします
あしたまたまた おひさまが
このこを慈しみますように
ねんころり ねんころり―――
淡々と繰り返し、繰り返し。カミラもよく知っている子守歌を、母は歌っているのだった。
遠い地にある母の故郷に伝わる歌だという。
だれにも知られることなく、ひそかに隠された『紋章を守る村』。
父は小馬鹿にして嘲笑ったが、幼いカミラはいつか母の故郷につれていってとせがんだものだった。
母は寂しそうにほほえんで、首を振った。
もう帰ることはできないの。その村はもう、この大地のどこにもないの。
そうして眼を伏せた。 おかあさんのせいなのよ。わたしが、村を『抜けた』から。
母は村と紋章を守る封印の巫女のひとりだったという。その村に生を受けた少女たちは、結界の鍵となる運命を授けられた。それはけして違えることの許されない、掟であったそうだ。
母は勝ち気で、歪んだことがきらいだった。定められるままに鍵として生き、死してなお魂を呪縛されるそのうつろな生が、母には耐えられなかったのだ。
行きなさい。そう言って結界の外に送りだしてくれたのは年老いた村長その人であったという。それほどまでにおまえの思いが強いのならば、引き留めはしない。そのかわり、二度と村には戻れぬと心せよ。この村のことをおまえは、すべて忘れなさい。よいね。
無口で気むずかしい村長は、母に向けて最初で最後の笑顔をみせた。
そっと肩を抱きしめ、彼は別離のことばを告げた。
これもまた運命なのかもしれぬ。おまえにしかできない、役割があるのじゃ。
封印の祠から結界の外に抜けた母は、たったひとりで見知らぬ地に立っていた。
どこまでがほんとうで、どこからが作り話なのか。夢見がちな母の話をカミラはすべて信じたわけではなかったが、学校で『創世の物語』を聞かせられたとき、奇妙な符合の一致に心がざわめいた。
母はもしかして、妄想やうそを言っているのではないのかもしれない。自分が信じなければ、どこのだれが母の戯れ言を信じるというのか。母の心は悲鳴をあげていて、いまにも壊れそうなほどふるえているのだ。
しかし、すべては遅かった。
母はぐったりとした弟を、まるで眠らせるかのようにあやしつづけた。
おかあさん、なにをやっているの。はやくお医者さんに……。
そう言いかけて、カミラは恐怖にとらわれた。
もう死んでいる。どうあがいても無駄なのだ。おかあさんが首を絞めたのだから。
わたしは一部始終を見てしまった。否定しても、無駄なのだ。
無駄……なのだ。
カミラは自分が立ったまま粗相をしていることに気づいた。足元の床がびしょびしょに濡れている。
なまあたたかい感触が足のあいだを伝わって落ちる。このままではパジャマが汚れてしまうじゃないの。ああ、わたしはどうしてしまったのだろう。足がすくんで、動けない。
悲鳴をあげることも、大家のおばさんを呼んでくることもできなかった。弟が苦しみから逃れようと小さな手足を必死にばたつかせているのを見ても、やめてと言えなかった。
狂いかけた母がいつも口にしていたこと。
ソウルイーターを守る村の血脈は、すべて絶たれるべきなのかしら。
破られた封印をふたたびもとに戻すには、それしかないのかもしれない。カミラ、おまえも心しなさい。おかあさんがついているから、怖くないのよ。
大家に発見されなければ、次はカミラの番だったにちがいない。
憲兵に連行された母は、収容された精神病院で自らの命を絶った。子どもにショックを与えられないからという理由で死に目にも会えず、姉弟のもとに戻ってきたのは骨のはいった小さな箱ひとつ。
参列する者のない寂しい葬儀を、姉弟はだれの力も借りずに済ませた。
フレッドとチェスター、カミラとも引き離され、テッドは実用本位の馬車に押しこめられた。これ以上考えられないほど頑丈に、縄でぐるぐる巻きにされる。
「いいか、ぜったいに目を離すなよ。ちびだと思って油断はするな。詠唱をさせるすきを与えるんじゃないぞ、わかったな」
ユーノス・オーウェンは偉そうに命令して、自分も前部にある広々とした座席に乗りこんだ。興味津々といった感じのいやらしい眼がテッドを上から下まで舐め回す。
「ユーノスさま、馬を出します。司令部にお寄りになりますか」
「いや、いい。こぞうは始末したと報告しろ。このまままっすぐ屋敷へ帰る。証拠はいつものとおり、ぜんぶもみ消しておけよ」
どうやらこの馬車に乗っているのは側近中の側近だけらしい。知性に欠けたあばた面だが、ユーノス・オーウェンという男、なかなかのくせ者であると見た。
なにはともあれ、紋章に目をつけられたのはまずかった。少しだけ脅すつもりが、逆にアダとなった。目立つ行動は控えるべし。わかってはいたのだが。
さいわい、敵は紋章発動には詠唱が不可欠であると誤解している。ソウルイーターに関していえば、そんな手間は必要ない。せいぜい、紋章に礼を尽くして口にしてみる程度のことだ。
分はまだこちらにある。高度な紋章魔法を操る少年という程度の認識しか、むこうにはない。どうせソウルイーターは巷の紋章師が束になったところで外せやしないだろうし、正式な文献があるわけでもないから正体もバレないだろう。問題は、害を受けそうになった場合にどうやって身を守るかだ。
いつもこの段階でため息が出る。まったく、非力な外見が恨めしい。体力や身体の完成度が人より劣るのは、ぬぐいいきれない事実だ。なにしろ、十歳そこそこからまったく成長していないのだ。どうあがいても、この弱点は埋められない。
幼い見かけというのは、悪党の嗜虐心を刺激するものらしい。言動とのギャップがあればあるほど、奴らは頭に血がのぼる。弱いヤツほどよく吠える、とは言ったものだ。
「熱いぞ、このぼうず。熱だしてやがんのか」
「ガキはすぐに風邪をひく。うちのもしょっちゅうだ」
「まあ、いいか。おい、そこでゲロ吐くなよ。汚ねえからな」
お望みどおり汚してやろうかと一瞬思ったが、よけいなちょっかいはやめることにした。看病してもらおうなどはなから思っていない。
馬車は幹線道路をはずれて、小道にそれた。かなりの悪路らしくがたがたと車輪が軋む。窓から見える木々はだんだん鬱蒼としてきて、山脈のなかにはいったことを示唆していた。
気温もだいぶ下がってきた。標高が高いのかもしれない。
やがて大きくターンすると、馬車は止まった。
「お疲れさまでした、ユーノスさま」
御者がうやうやしくドアをあけてお辞儀をする。腹の出っ張ったユーノスは立ちあがるのも面倒くさそうに、どっこらしょと口にした。
「こぞうは地下につないでおけ。あとで行く」
「お食事を先になされますか」
「とりあえず一服するか。おい、女は」
「後続の馬車で。もう間もなく到着するかと」
「そいつも地下だ。いや、その前に、おれの部屋につれてこい」
「かしこまりました」
テッドは馬車から引きずり下ろされて、大柄の男に担がれた。縄がきつく食いこみ、テッドは顔をしかめた。少しは手加減してくれればいいのに、力まかせに縛るものだから呼吸すらままならない。
とりあえず、すぐに殺されるようなこともあるまい。別の意味で窮地ともいえたが、ソウルイーターを奪われないかぎり突破口はまだある。最善の策を狙うにはまず様子をうかがうことだ。
「おかしな考えをおこしやがったら痛い目をみるぜ」
大男は脅すように言った。階段を地下まで下りると、冷たい床にテッドを転がした。
そこは牢屋のようであった。鍵がざくざくぶら下がったリングからひとつ選ぶと、鍵穴に差し込んで回す。ぎいと重い音がして、鉄格子がひらいた。
奥は囚人を閉じこめておくための牢がいくつも並んでいた。ふつうの屋敷にこういうものがあること自体、胡散臭い。しかも牢はただ閉じこめておくだけのものではなく、拷問部屋のようであった。
連れこまれたいちばん奥の牢にも、これ見よがしに壁に鎖が垂れ下がっていた。抵抗を封じるにしても少々えげつない。あるいは、館のあるじの趣味なのであろうか。
「あんまりちっこいんで、サイズがあわねえぜ」
そう笑って、男はテッドの左手首を鉄輪に固定した。右手も同じようにする前に、包帯に手をかける。
「ひん剥いておけって命令なんでね。悪しからず」
はらりと封印が落ちる。手の甲のそれはただ見るかぎりでは、しみついた痣のようでもあった。一般的な紋章は、もう少し明確な形状をしている。
「よくわかんねえが……なんか気持ち悪ィな。くわばら、くわばら」
右手首を鎖につなぐと、足が床から浮いた。手首だけで吊るされるのは、想像を絶する苦痛であった。
金属の食いこんだ手首にはすぐに血がにじみ、指が痺れた。テッドは歯を食いしばったが、我慢にも限度というものがあった。
「いたっ……痛、い」
なんとか逃れようと足をばたつかせる。肩がいまにも脱臼しそうにぎりぎりと不穏な音をたてた。
「たすけて」
男は面白そうにテッドを見ていたが、「しかたねえなあ」と舌を鳴らして足元に小さな木箱を置いた。足がついて、テッドはようやく息をついで激しく喘いだ。
「ガキのくせに、大人のいうことをきかないからだ。わかったか、こぞう」
見張り役として残った男がふかした煙草をわざとらしく顔に向けて吹いた。煙さに顔をしかめながら、テッドは男を睨みつけた。
「あれあれ、まだ反抗する気力が残ってやがるみたいだなあ、ぼうず。まあ、せいぜいいまのうちに吠えておきな。ご主人も容赦はしねえ人だし……。いっとくがよ、泣き叫んでもむだだぞ。おれたちもへたに逆らっておなじめに遭うのはごめんだからよ」
「こないだよそ見をしていてユーノスさまにぶつかったガキがよ、おまえのいるそこにつながれてよ、腹をカッさばかれたんだぜ。さんざん土下座させられたあとによ。そりゃあもう、内臓まきちらして、あとの掃除がたいへんだった。なあ」
「おおよ、おれもナマの心臓なんて生まれてはじめて見たぞ。あれ以来肉料理がだめなんだ。特別手当てがほしいところだ、ったくよォ」
それを興味本位で見ていたのはどっちだか。テッドは心のなかで悪態をついた。
「しかしよ、あの女の子も気の毒に。けっこうべっぴんさんだったのになあ」
テッドはギクリとした。カミラのことを言っているのだ。
「さっき着いたみてえだぜ。いまごろユーノスさまがお楽しみってとこだろうな」
「ここんとこ女を連れこむようなこともなかったからよ。かなりたまってるぜ、ありゃあ」
なんのことを言っているのかはすぐに想像できた。テッドはいてもたってもいられなくなって、口をひらいた。
「あの人にはなにも関係ないのに」
「関係あろうがなかろうが、ユーノスさまは女好きだからよ。もう、遅ぇって。ベッドでさんざんぶちこまれてるだろうよ。あんまりよすぎて、死んじまわなけりゃいいけどな、へへ」
男たちはげらげらと笑った。あきらかに楽しんでいるような口調だ。
「あーあ、終わったあとで回ってこねえかなあ」
「もうちっと半端な女だったら、恵んでもらえたのによぉ。ありゃあ無理だろ。金髪のねえちゃんなんて思いっきりユーノスさま好みじゃねえかよ」
テッドはかっとして、叫ぼうとした。そのとき、鉄格子の開く音がした。
「噂をすれば、ユーノスさまだ」
下男を幾人も連れて、ユーノスが顔を見せた。趣味の悪い部屋着に着替え、太鼓腹をゆらゆらと揺らしている。
うしろから両腕を拘束されて、カミラが連れてこられた。縛られたりはしていないが、見たことのないガウンに着替えさせられ、足元は妙にフラフラしている。
馬の尻尾のように束ねていた金髪はすべてほどかれて、わずかに乱れていた。
テッドと目があうと、カミラは顔をそむけた。頬に黒ずんだ涙のあとがある。
「待たせて悪かった」
ユーノスは二重の鉄格子をくぐって牢に入った。見張りの男たちは壁際にならんで立ち、あるじに道をあけた。
「いい格好だな、こぞう」
ユーノスはテッドの足元にある木箱が気にいらなかったらしく、それを蹴り飛ばした。ふたたび重力の束縛に囚われ、テッドは悲鳴をあげた。
「やめて、その子にさわらないで!」
カミラは気丈に叫んだ。
ユーノスはカミラを見た。
「だから、さっきからなんべんも、たすけてやってもいいと言っているだろうが。紋章さえ置いていけば、こぞうもおまえも命くらいは見逃してやる。悪い話ではなかろう」
「闇の紋章なんて都会にいけば山ほど売買されてるわよ。こんな辺鄙な国じゃちょっとめずらしいでしょうけどね。ちっちゃい子から親の形見をうばおうとする、その大人げないやり方が気にいらないだけよ」
ユーノスは神経質そうに口元をゆがめ、カミラのガウンをつかんだ。胸元から色白の乳房がのぞく。下にはなにもつけていない。
「このおれをだれだと思っている? 紋章のことでおれさまに説教垂れようなんて、図々しいにもほどがあるわ。おまえがほんとうのことを隠していることぐらい、お見通しよ。ふん、すぐにいやでも白状したくなるだろうがな」
カミラを床に倒し、ユーノスはテッドに目を戻した。歩み寄ると、鎖のからまった右手に触れた。
「間近で見ると、なるほど気味が悪いな。ただの紋章ではあるまい? 言え、これはなんだ。どこで手に入れた」
「あんたに説明する義務はない」
ユーノスはにやりと笑って、次の瞬間、テッドの腹を思いきり膝蹴りした。
「イヤぁっ!」
悲鳴はカミラのものだけで、テッドはうめき声すらもあげることができず前につんのめった。吐きつくしたはずなのに、胃液が逆流してくる。
「おおっと、ぶつかっちまった。痛かったな、こぞう」
にやにやと笑いながら、痙攣する右手を腕ごとつかむ。次に五本の指でテッドの小指をにぎった。
「これも、すこし痛いだろうな?」
骨の粉砕するいやな音がした。
見ていた男たちも眉を寄せ、カミラは絶叫した。
「おねがい、やめてぇ!」
激痛をこらえようと、テッドは唇をきつく噛んだ。折られた小指のとなりをつかまれる感触があった。
「何本へし折ったら、すなおになるのかな、こぞう」
また脳天を激痛が突き抜けた。息が詰まる。
「強情なガキだ。こんなのは見たことがないわ」
ユーノスは呆れたように吐き捨てると、背後の男たちを向いた。
「おい、おまえら。こんな山の中にこもってばかりじゃ、女が恋しかろうが。股間ふくらませてガマンすることはない。その女、犯っていいぞ」
いかにも気を遣ってやるぞという風な、それは命令であった。
「いますぐ、そこで輪姦せ。こぞうに見せつけてやるんだ」
命令に逆らったら粛正どころの話ではない。男たちは顔を見あわせてうなずくと、首を振るカミラを床に押し倒した。
「さわらないで、やめて……イヤぁぁああ!」
ユーノスはテッドの髪を鷲づかみにして、「見ていろ」と言った。
「おまえの姉さんはな、おまえを庇ったからこんなめに遭うんだぞ。女が犯されるのを見るのははじめてか? どうだ、怖いだろう。しっかり見ろ。目をそむけたらぶっ殺すぞ」
カミラの白い脚が男たちのなかで哀れに揺さぶられた。悲鳴も枯れ果て、聞こえるのは泣き声だった。
「……やめろ」
テッドはくぐもった声で懇願した。「いうことをきくから、やめろ」
「あいにくだが、いちど猛った連中は、おれさまでも止められねえなあ。見ろよ、あいつら、ケモノのようだ。へっ、へへへ」
複数の男たちに陵辱されるカミラ。
男たちは入れ替わり立ち替わり、カミラの上にまたがった。命令されたことがきっかけとはいえ、どの顔も恍惚として、下卑た嗤いを喉から垂れ流していた。
テッドの怒りは頂点に達した。
(ソウルイーター……)
もはや発動も辞さない。カミラを救うためではなく、テッドを怒らせた者たちを裁くためだ。それに匹敵するだけの愚を、彼らは犯したのだ。
だが。
テッドは愕然とした。
ソウルイーターが、応えない。
それを発動するのは、弓を扱うよりも簡単なはずだった。いままで感覚でやってきたことが、なぜかとつぜんわからなくなった。
右手の指を折られた痛みのためか。いや、そんな単純な理由ではあり得ない。
ふたたび命ずる。ソウルイーター、咆哮しろと。
相方はそれを無視した。
「……どうし、て」
身体がふるえた。
涙が落ちる。
悔しさ、憎しみ、怒り。そして、いままで感じたことのない焦り。負の感情で身体がバラバラになりそうだ。何度呼びかけても、だめだった。
「もう、やめろ……やめてくれよ……ちくしょう」
ソウルイーターはまるでテッドをあざ笑うかのように、右手で静かな呼吸を繰り返すだけだった。
最終更新日:2006-10-02
