第二題「睨み付けて」
医師という仕事柄のせいか、いついかなる時でも患者優先の癖がついたフレッドは、月明かりの差しこむ窓際のベッドでうつらうつらしながらテッドのことを考えていた。
きちんとした入院設備のあるわけではない診療所に、自分以外の人間が夜いることはめずらしい。どこかの家に招かれることはあっても誰かを泊めることはめったにないのだ。
助手のチェスターは近くに狭いながらも家を借りていた。夜間になにかあったら大変だからと、数日間は泊まり込みで働くことを申し出てきたのだが、フレッドはやんわりと断った。大柄なチェスターが手足を伸ばして寝られるような頑丈なベッドは診療所にはない。
「床にごろ寝でもかまわなかったんすけどね」
恐縮しながらチェスターは自宅に戻っていった。最近同棲をはじめた彼女が帰りを待っていることをフレッドは知っていたが、気づかぬふりをしたのだ。照れ屋なチェスターのことだ、へたにからかったら高額な薬瓶をいくつ割ってしまうか想像もつかない。
法廷でテッドが証言をすることを快く思わない連中は大勢いるだろうが、幼い子どものこと、口を塞ぐなら脅しをかけてくるぐらいのものだろう。これだけ世間が注目している中でこれ見よがしに殺してしまったら、市の威信は失墜し、議会そのものが解散に追いこまれてしまう。いくら愚かしい権力者であるとも、それほどの愚は犯すまい。
なにはともあれ、いまはテッドに子どもらしい笑顔を取り戻すことが先決だ。
栄養失調で弱っていた体力も戻りつつある。心配をよそに、ほほえましいほどよく食べる。あえて言うなら魚料理が若干、苦手なようか。骨を取りわけるのが面倒な魚を好む子どもはそう多くないから、目くじら立てることもない。
首から鎖骨にかけて、刃物で切られたとおぼしき傷が膿みかけているが、丁寧に消毒を繰り返せばこれも治癒するであろう。気管支に泥を吸いこんだことによる炎症も、投薬でじっくり治すしかない。
身体のほうは長期的展望ならなんとかなる。問題は心のほうである。
殺されそうになったというショックは容易にはぬぐえまい。遺体で発見された子どもたちには激しい拷問の痕跡が認められた。テッドの首の傷もおそらくはそれだろう。
一見、あっけらかんとしているように見えるいまの状態がフレッドには気がかりだった。大人でさえも恐怖のあまり失禁するような極限状態から救助されて、これほどすみやかに日常生活に戻れるものだろうか。
それが少年が幼くして身につけた処世術だとしたら、痛ましすぎる。これこそがもっとも根治することが困難な病巣である。ここに来てからのテッドは、ただの一度も泣いたり、寂しがったりしない。おそらくはそういった感情に乏しいのだろう。
子どもらしくないとひと言でいうなら簡単だ。しかしフレッドには、そこが捨て置けない。
すっかり目が冴えてしまって、フレッドはベッドに半身を起こした。月明かりがいっそ眩しいほどだ。狼の遠吠えでも聞こえてきたらお膳立ては完璧なのだが。
かわりに耳に届いたのは路地をうろつく酔っぱらいの暢気なわめき声で、その正体は三ブロック西の道具屋のアル中おやじだった。飲酒はほどほどにしないと早死にをするといくら忠告しても聞きやしない。『それも人生』が口癖の、けして悪人ではない中年男だ。
歌か悪態か判然としないがなり声が遠ざかっていくと、フレッドは靴を履いた。テッドがちゃんと眠っているかどうか、様子を見にいこうと思ったのだ。
病室は昨夜から施錠していない。これも互いを信頼するための契約の一環である。診療所には劇薬のたぐいも揃っており、故意あるいは過ってそれらに手をつけたら非常に困ったことになるが、かといって監禁を継続するのはあまりにも傲慢に思えた。
ひととおりの注意をテッドは興味なさそうに聞いていたので、案ずることもあるまい。
ただし何にでも興味をもつ年頃である。目は離せない。当面の保護者として、この程度の心配はしておくに越したことはない。
起こしてはいけないと音をひそめ、ノックもせずにそっとドアをあけた。ふわりと消毒薬の匂いが鼻をつく。換気のために少し開けていた窓を閉め忘れただろうか。部屋の中はかなり冷えきっている。
ベッドの上にテッドが横になっているのを確認して、フレッドはほっとした。ひょっとしたら姿を消しているかもしれないと思っていたからだ。
月明かりのみを頼りにのぞきこんでみる。テッドは身体の左側を下にして、少し背中を丸めるような格好で目を閉じていた。
こうして見ると、ほんとうに幼い。熱を出して診療所に連れてこられる子どもとなんら変わらない。注射がいやだと泣きわめき、母親にしがみつくのが本来の姿だろうに。この子はすでに天涯孤独で、いまもたったひとりで眠っている。こんな不平等があっていいのだろうか。
新しい包帯の巻かれた右手を口元にあてていた。その包帯の下には、晒してはいけないだいじな紋章があるという。
紋章については、フレッドにはそれほどの知識はない。それを使うには潜在的な能力と努力が必要だと聞いたことがあるが、べつに興味があるわけではなかった。紋章そのものはかなり高額だし、宿しただけでは通常の場合役にはたたないらしい。訓練にはさらに金がかかるにちがいない。
孤児であるテッドがなぜそれを持っているのか、疑問ではあった。実の親の形見であるとか、そのあたりが現実的な線かもしれない。たしかに小さい子どもが紋章を晒していると、かなり奇異に思う。隠しておかなくてはならないのは、そういう事情もあってのことだろう。
紋章は、この子の拠り処なのだ。
なぜだかふと、そう感じた。
ふわふわした髪の毛のはじけとびそうなやんちゃな色が、月光の粒をはらんでさらに明るく見える。まるで猫のようだ。
少しためらって、ふわりと指をからめてみた。撫でるとごろごろいいはじめるかもしれない。
こんなに無防備で、あどけない男の子をどこのだれが虐待したというのか。両親はなぜ、この子を手放したのか。理由はあったのかもしれないが、許し難いとフレッドは思った。
フレッドは両親の愛情にたっぷりと包まれて育った。郊外で農家を営んでいる父も母も年老いたが壮健で、医療の道を選んだ息子を誇りだと言ってくれる。孤児の気持ちは正直なところ、理解できる自信はない。
三十路を迎えても結婚もせず、子どももいない。風邪をひいてごねる小児患者すらも手に余る。そんな自分がこれほどまでに保護欲の持ち主だったとは、意外や意外。
泣かない子ども。
子どもはふつう、おおっぴらに泣く生き物だ。泣くことによって自己を確かめようとする。この子はそれをしない。いや、できないのか。
首の傷は痛かろう。心に負った傷はもっとつらいはずだ。それなのにテッドが見せたものは、笑み。それも本心からの笑みではない。あざとい、計算された笑み。
”正常”に戻してやらなくては。
医者の顔に戻った瞬間、テッドがスッと眼をあけた。
眠っているものと思いこんでいたフレッドは心臓がはねあがった。
「窓のほうにいくなよ」
テッドは聞こえるか聞こえないかのぎりぎりの声で言った。不機嫌そうにフレッドを睨みつける。
「まさか気づかないで近づいたっていわねーだろうな」
「えっ……」
「はぁ、これだよ、ったく。先生、廊下でもどこでもいい、スキをみて逃げとけ」
言葉尻に含まれる切羽詰まった内容とはうらはらに、冷静な口調だった。テッドは流れるような動作でするりとベッドを抜け、猫のように音もなく壁際へ移動した。
「ベランダ。ふたり。あんな狭いところによく立ってたね、お仕事とはいえごくろうさま。そして殺意まんまんってカンジ?」
フレッドが息を呑むのと同時に、窓ガラスが粉々に砕け散った。
蹴破ったのは黒ずくめで長身の二名。武器は携帯している風ではない。どうやって三階の窓まではいあがってきたのだろうか。そしていったい、いつからそこに。
「あぶないっ!」
黒ずくめはフレッドには目もくれず、まっすぐにテッドを襲った。
素手である。だが動きは俊敏だった。ひとりの攻撃を交わしたものの、避けた先にもうひとりが待ちかまえていた。小柄なテッドは伸びてきた手をするりと抜けた。
だが狭い室内で逃げ回るのはどだい無理がある。パジャマの襟をつかまれてテッドは宙に浮き、足をばたつかせた。
「テッドくん!」
「アホ、先生、逃げろってば」
「そうはさせませんよ……!」
叫んでフレッドはテッドを羽交い締めにした黒ずくめに突進した。肉体勝負で勝ち目などあるわけはないが、こうなったら火事場の馬鹿力を信じるしかない。
「どぉりゃぁっ!」
体当たりで奪取を試みる。しかしやはり敵は動きを読み切った。
強烈な足払いが向こうずねにヒットした。フレッドはあっけなく吹っ飛ばされ、背中をしたたかに打った。
激痛で息がつまる。
「くそ、いわんこっちゃねー」
テッドの悪態がきこえた。
悶絶しながら、フレッドはそれでも敵を睨みつけた。テッドをかるがると持ちあげた黒ずくめの男はつかつかと歩み寄ってきて、腹這いになるフレッドの背中に腰を下ろした。
「あいにくだったな、先生」
「くっ……! 何者ですか、あなたたちは」
男はフレッドの手を力任せに踏みつけた。
「名乗るほどのもんじゃねえけどよ。ちっとばっか仕事をもらったもんでな」
じたばたともがくテッドの首を腕で締めつけておとなしくさせる。
「その子に乱暴はやめてください」
「ああ、悪ィなあ。こいつに生きててもらっちゃあ、迷惑なんだってよ。ま、かわいそうだとは思うけどよ、諦めてもらうしかねえなあ。な、ぼうず」
もうひとりの男がポケットからなにかを出した。茶色の小さな小瓶だ。
室内を見回し、コップにジュースの飲みかけが残っているのを手に取る。
「暴れて喉が渇いたよな。ジュース好きだろ、ぼうず」
小瓶のコルクをきゅっと抜き、透明な液体を数滴、コップに落とす。
「飲ませてやるからな」
テッドは必死に顔をそむけようとしたが、がっしりとつかまれて身動きできない。
「毒……ですか、やめてください」
「先生だったらこのやりかたを採るだろうと思いましてね。始末したはいいが、良心の呵責に耐えかねて、ほら、そこの窓から飛び降りるってシナリオ。陳腐ですけど退屈している世間には受けるんじゃないですかね」
フレッドは戦慄した。テッドを抹殺するだけではなく、泥を自分に被せるつもりなのだ。
「よし、しっかりおさえてろよ。ぼうず、あーん」
食いしばる歯列をむりやり指で割って、コップが押しつけられる。
「やめて……おねがいだから、やめて!」
フレッドは絶叫した。上向かせられたテッドの喉がひくりと動いたような気がした。
「やめろー!」
そのときだった。階下からばたばたと走り寄る音がした。
「誰か来たぞ、くそ」
黒ずくめの男たちはぐったりとしたテッドを床に投げ捨て、割れた窓からベランダへ抜けた。ロープも使わずに外の植え込みに飛び降りたようだ。
「せ、先生!」
血相を変えて走ってきたのはチェスターだった。窓が割られているのを不審に思い、次いでフレッドの絶叫に仰天したのだろう。
「チェスター! すぐに水を! 水差しにいっぱい、大急ぎで汲んできて」
「え、あ、はい!」
「テッドくん」
テッドは目を閉じ、弱く不規則な呼吸を繰り返していた。顔は蒼白である。なんの毒をどれだけ飲みこんだのだろうか。一刻もはやく吐き出させないと危険だ。
チェスターがばたばたと水差しを持ってくると、フレッドはぶちまけるようにテッドの口に流しこんだ。
「吐いて!」
背後から抱えこんで胸部を圧迫し、祈るように叫ぶ。
「おねがい、吐いてください……! ぜんぶ」
テッドの顔が苦しげにゆがんだ。さらに力を加えると、水と胃液が一気に噴出した。
「チェスター、もっと水を飲ませて。胃袋のなかをぜんぶ洗浄するんです」
「わかった! ちびすけ、苦しいけど死ぬよりマシだ、がまんしろよ」
こういった処置は経験者であるチェスターのほうが手慣れていて、しかも容赦がなかった。
吐き出せるものをぜんぶ吐きつくして、テッドはようやく拘束から解放された。ベッドに横たえても意識はなく、呼吸も弱い。
苦し紛れに全身を硬直させたのだろう。身体のあちこちに内出血による紫斑がいくつも浮き出ていた。
倒れたコップにわずかに残されたジュースに、チェスターはよく利く鼻を近づけた。オレンジの香りに混ざって、独特の臭いがする。
「猛毒です」とチェスターは苦々しく吐き出した。「瓶ごと口につっこまれなくてよかった。そんなマネをされたらまちがいなく即死でした」
「ぼくの読みが甘かった」
フレッドは愕然とうなだれた。
「先生のせいじゃない。ヤツらがキチガイなんだ」
「保身のためならどんな汚い手でも厭わない、そういうことですね」
「しかも本当に悪いヤツは自分の手はけっして汚そうとしねえ。サイアクだ」
テッドが身をよじって、咳きこんだ。
「テッドくん」
フレッドは立ちあがって、背中をさすった。チェスターも心配そうに見守る。
「痛いところはないですか」
「の、ど……痛」
顔が歪む。声を出すのがそうとうつらいらしい。
「無理をしないで。まだ吐きたかったら、吐いちゃってもかまいませんから」
「せ、んせ」
「あまりしゃべらないで」
「にげ、ろって、いった、のに」
鳶色の眼がフレッドを睨みつけた。
「策が、あった、のに、どうして逃げ、なか、た」
「テッドくんを置いてぼくだけ逃げられるわけがないでしょう!」
思わず声を荒げたフレッドに、テッドはあの冷ややかな眼を向けた。
「こん、ど、いうこと、きかなかった、ら……殺す」
「……えっ」
「殺す。先生も」
フレッドは我が耳を疑った。こんな状況で冗談を口にするような子ではあるまい。それにテッドの瞳にはあいかわらず感情というものがなく―――。
いや。
ひとつだけ先日とは違う。怒りにも似た感情が、いまのテッドを支配している。
いちばん近い言葉をあてるなら、憎しみ、か。
フレッドの思考をさえぎって、チェスターが怒鳴った。
「ほざくな、ちびすけ。だれにたすけられたと思ってやがんだ。二度とそんなばかげたことをぬかしてみろ」
「……ばかげた?」
テッドは顔を歪めた。
「……ッ、は、はは……」
「なにがおかしい」
苛立ったチェスターが小突いても、テッドは嘲笑うのをやめなかった。錯乱しているのだろうか、と思いかけてフレッドは頭を振った。
いや。もっとも冷静なのは、おそらくはこの子だろう。
あの鉱物質な鳶色の眼は、確実に自分を威嚇している。保護者の過誤を責めるためではない。
邪魔者は退いていろ、と。
デッドラインから立ち入ったら殺す、と。
フレッドの導いた結論を読んだかのように、テッドの嘲笑いがやんだ。喘鳴する器官からようやっと絞り出したような声で命令する。
「甘チャンでも、もう、わかったよな。先生、も、あんちゃんも、家族……いんだろ。気をつけ、た、ほうが、いい、んじゃない、の。もう、おれ、に、関わんなくていい、からさ」
フレッドとチェスターははっとして顔を見あわせた。たしかに事態は深刻だ。暗殺未遂事件がここから漏れないように、どこのだれかは知らないが躍起になるだろう。まっ先に人質になるとしたらなにも知らない家族である。
しかし、だからといって。
「テッドくんはぼくが守ります」
罵られることを覚悟でフレッドはきっぱりと宣言をした。あんのじょう、テッドはわざとらしくため息をついた。
「前言、撤回」
ぼそりとつぶやく。
「医者だから賢いって、思ってたけど、マチガイだった。こんな、バカ、見たこと、ねえ」
「ええ、ばかで結構です。なんとでもおっしゃってください。そのかわりぼくもいわせてもらいます。テッドくん、きみは、ばかです。ぼくは医者ですから、生きたくても生きられない人をたくさん知っています。生きられるのに生きようとしない人は、この世でいちばんきらいなんです。たとえばきみみたいな」
「そりゃ、どうも……ありがとう」
「茶化さないでください。ぼくはやっとわかったんだ。きみが泣きもしない、笑いもしないのは、生きるのに必死じゃないからだ。生かされて当然、死んで当然。生まれたことが奇蹟だってわかってもいないくせに、死ぬことを軽んじてる。ぼくはそんな人間がだいっきらいだ」
チェスターは驚愕してフレッドをまじまじと見た。先生がこれほどまでに感情を爆発させる人だったとは思いもしなかったのだ。
テッドはといえば。
うっすらと、ほほえんだ。
感情があるような、ないような。少なくとも、叱られた子どもが浮かべるような表情ではなかった。
無言の時間がすこしだけすぎたあと、テッドはゆっくりと口をひらいた。
「先生。せんせいは、いい人、ですね。いい人、だから、本当のことを、いう。おれに、関わってたら、問題はいつまでたっても、解決しません。おれは、そういうヤツ、だから。あとね、先生は、知らなくていいこと、が、いっぱい、ある。それだけは、ほんと。おれ、だって、先生の思ってる、ような、子どもじゃありません」
胸が苦しいのか、テッドはぜいぜいと呼吸をした。喋らせすぎたかもしれない。
「せんせい。ごめんなさい。朝になったら、おれのこと、捨ててください。その、かわり……やくそくします。歯を、くいしばって、でも、生きます……から」
ほとんど聞き取れないほどの声を最後に、テッドは鳶色の眼を閉じた。
最終更新日:2006-09-28
