霞みがかった午後の天空に、三日月が幽霊のようにしょんぼりと浮かんでいる。
急ぐ者たちは気にもとめない、その儚げな存在を、地べたに座り込んでぼんやりと見つめる少年。
彼はもう数日も前からその場所を動こうとしない。立ち上がる力を、特殊な手段で得る気力もない。
薄汚れた孤児は人々から忌避され、誰もが眉をひそめて足早に通り過ぎてゆく。この町では、置き去りにされた子供に構うゆとりのある者など、いない。
「私は今日これから、グレッグミンスターに帰るんだが、一緒に行くか」
立派な鎧を身に着けた若い武将は、白い馬から下りて近づくと、開口一番そう言い放った。
親はどこにいるとか、路頭に迷っていないかとか、先にそっちを訊ねるのが筋だと思うが。従者らしき赤と緑のやんちゃそうな二人組が、ぽかんと口を開けてこっちを見ている。
「ご迷惑でなければ、ぜひ」
相手が唐突で強引なら、こっちも負けてはいられない。ラッキーが過ぎてさすがに裏があるとは思ったが、キャラバンの掲げている不死鳥の帝国旗はどうやら本物のようなので、胡散臭さには蓋をして乗っかってみることにする。辺境にあたるこの地方で起きた小競り合いを仲裁するため、帝都から派遣されてきた小隊に違いない。
「テオ様、よろしいですか。出発しますよ」
赤い従者が口にした武将の名に心当たりがあった。テオ。テオ将軍。
テオ・マクドールか。
俺はひゅっと息を呑んだ。いや、まさかね。帝国五将軍に名を連ねる大物が、こんな田舎をウロウロしているはずがないじゃないか。本物なら大隊を率いて、皇帝の直属で働いているはず。
同じ名前なんていくらでもいる。なんだったら俺の名前もテオの親戚だ。
「きみ、ええと、名前は」
「テッドです」
「テッドくん。じゃあ、この荷馬車に乗ってくれるかな。狭くて申し訳ないが、邪魔な荷物は適当に重ねてくれていいから」
ほらね。こんなずさんな男が大将軍のはずがない。
俺はここのところ何日も生存本能を放棄してきたので、立ったそばからみっともなくふらつき、結局介護付きで荷馬車に運ばれた。与えられたパンとぬるいスープがびっくりするほどうまくて泣いた。
キャラバンは十人ほどの編成で、人よりも馬と竜馬の数が多い。竜馬は相当大切にされているらしく、鎧と装飾品できらびやかに武装している。竜馬を近くで見ることはめずらしいので、キャンプ地に着くやいなや、俺は馬留めに駆け寄った。
そこには赤と緑の従者がいて、こっちを見て笑って手招きした。
「餌をやってみる?」
「えっ、でも……」
素人が手を出して、いきなり後ろ足で蹴られたらどうするんだよ。
「大丈夫だよ。他の種と比べて気性は荒いけど、命令がなければ人を襲うことのないように訓練されてるから。きみを餌をくれる人だと認識したら、うざいくらい懐くよ。それに、これと仲良くなることが鉄甲騎馬団員の最初の任務だからね」
なんとか団に志願した覚えはないんだが、スゴイ馬に懐かれるのは悪くない。あまり懇ろになってうっかり魂をいただいてしまうことのないよう、ほどほどに構ってしんぜよう。
「そ、それほどいうなら、やってみる。いえ、やらせていただきます」
俺はでかい飼葉桶をひっつかむと、そろそろと竜馬に近づいた。
「その子の名前はジークベルトだよー」
俺よりも贅沢な名前をつけてもらいやがって。よしわかった。
「よーしよーしよーし、ジークベルト、たくさん歩って腹が減っただろう。人参、食うか? それともサツマイモの気分か」
そろり、そろり。かなりのへっぴり腰。竜馬は普通の馬よりもひと回り大きく、筋肉もしなやかで、戦闘能力がいかにも高そうだ。機嫌を損ねないようにしなければ。
右手に人参、左手にサツマイモをつかみ、握りこぶしのすっぽり入りそうな鼻先にそっと差し出す。どうだ!
「ブヒヒ」
盟友ジークベルトはそう言って笑うと、
「ブボッ」
赤い従者と緑の従者は、同時に「あ」と言った。
俺はといえば、声をあげるひまもなく、竜馬の生温かい口にすっぽりと頭を呑み込まれたまま、足をじたばたさせた。
「ブ、ボォ?」
「こら、ジークベルト。ペッしなさい」
緑がのんびりとたしなめると、俺はポイッと解放された。噛まれはしなかったけれど、上半身がヨダレでビチョビチョ。そう、あれだ、カズラーとかいうモンスターで体験できるあれ。カズラーのは消化液だから余計にたちが悪いけど、ヨダレの凶悪さもなかなか。
「……ッ!」
「あははは」
「あははは」
絶対に許さん。赤と緑。覚えてろ。
いつの間にやらテオまで隣で笑っている。いや、居たんなら助けろよ?
「く、食われた」
「草食動物だから人は食べないよ。ふざけてじゃれ合ってるだけ」と赤。「ジークベルトはお茶目なんだ。好かれてよかったね、テッドくん」
「よくない。死ぬかとおもった。へっ……へっくしょん!」
粘液を吸い込んで鼻がムズムズする。何という人生の一ページだ!
「アレン、グレンシール、着替えを探してきなさい。風邪をひかせてしまう」
「はーい。でも、ちっちゃいサイズがあったかなあ?」
ちっちゃくて悪かったな。
春とはいえ、陽の落ちる時間は冷え込みがきつくなってくる。キャラバンは火を焚き、簡易的なかまどを作って夕食の支度を始めた。俺は湯を沸かしてもらって身体を拭き、与えられた服に袖を通した。
グレッグミンスターまでは三泊の行程だと言う。もっと遠いような気がしていたけれど、意外と近い。
グレッグミンスターは赤月帝国の首都であり、皇帝バルバロッサのお膝元である。人の多いところは危険も伴うので避けるつもりだったが、こうなったら予定変更だ。目立たないようにすれば穏便に過ごせるだろう。一年か二年、テオの口利きで面倒を見てもらえたら、その間の衣食住に困らずにすむ。もう随分と長いあいだ崖っぷちの暮らしをしていたから、そろそろ贅沢をしてもバチは当たらない。
俺の贅沢なんて、ささやかなものだ。日に一度ないしは二度の飯にありつけて、身体を休めるベッドがあって、雨や雪で濡れる不安のない生活。たまに甘いものをほんの少し買って、楽しめる暮らし、
十年ほど前の内戦でグレッグミンスターも戦場になり、無残に破壊され尽くしたけれど、その後奇跡的な復興を成し遂げたという。それはバルバロッサ皇帝の最大の偉業とされているが、それを支えた五将軍の力も大きいと聞く。どんな街なのだろうか。正直、ものすごく楽しみだ。久々に胸が踊る。
俺は興奮で寝つくことができず、夜更けにテントから這い出て、空を見上げた。昼に見えていた三日月は西に隠れ、そのかわりに春先のぼんやりとした星座たちが瞬いている。
テオ。
あの人、前にどこかで会ったか?
ずっと引っかかっていた。考えても考えても、ついぞ思い出せないのである。
おそらくは他人の空似なんだろう。思い過ごし。なのに、なぜかぐるぐると考えてしまう。予感とか、衝動とか、そのたぐいの不規則な波風だ。
霞みがかった歴史の遠い彼方に、ひとつの真実が幽霊のように沈んでいる。
急ぐ者たちは気にもとめない、白昼の三日月のようなその儚げな存在に、手を差し伸べたテオ・マクドールという男。
人々が眉をひそめて足早に通り過ぎてゆく中、その男だけが、ほんの些細な気まぐれにせよ、その時その場所で足を止めたのである。
その寓話を運命という言葉で片付けるには、人はまだこの世界を知らない。
2023-02-26 初出
