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逃げるためでなく、人生のために

幻水、群島よりもはるか以前のテッドと、シエラの話。原作では出会うことのない二人ですので、全くの幻覚です。私が二人の関係性を考えるとこうなります。吸血鬼の記述について、及びシエラの口調についてはたぶん間違っております。ご指摘は結構ですので違和感にはスルーでお願いします。
いずれ推敲を重ねるかもしれません。


一 山道


 吊り橋がロープで塞がれている。「渡るな危険」の意であることは一目瞭然。
 テッドは頭を抱えてしまった。この先に行かなければならないのに、いきなりの詰み。こんな山道に迂回路のあろうはずがない。
 思ったとおり、廃道となって年月が経っているようである。分岐点にあった道標が外されて裏返しになっているのを見て、嫌な予感はしていたのだが、案の定だ。どうせなら「この先行き止まり」と書いておいて欲しかった。
 不親切な道標に文句をたれても仕方がない。さて、どうしようか。
 あそこまで戻るのは今ならまだ難しくはないし、どう考えてもそれが現実的で、最善の選択に思える。しかし、彼の信念のひとつに、来た道は後戻りしないというのがある(ただし生活圏と、記憶違いのうっかりは除く)。旅の自己ルールとしてどんな場合でもそれだけは頑固に守ってきたせいで、ここで折れるのはいささか癪だった。
 それに、あえて街道を外れて山越えの旧道をたどったのには理由がある。地図が、いや、お地図様が、こっちへ行けと言っているのだ。逆らったらどんな報復があるやらわからない。
 彼はため息をついた。やれやれ。しょうがないから渡渉できるところを探そう。
 吊り橋は落ちこそしていなかったが、見るからにヤバそうである。試しに手前の橋桁をゆっくり踏んでみた。腐っていてメキメキと音を立て、足が沈んだ。死への吊り橋に確定。テッドはまだ虹にはなりたくない。ロープを張ってくれた人のために、ここは大人しく従うことにする。
 幸い流れはそう強くもない。川幅も大したことはなく、流域よりも川原のほうが広いくらいだ。雪解け水の流れ込む時期ならともかく、中洲の見えている今なら行けるだろう。
 木の根を伝って川原に下りると、適当な渡渉点を探した。瀬と淵が短い間隔で交互にある。あまり道から離れても戻るのが大変なので、できるだけ近場にしたい。
 淵のほうが水面が穏やかで歩きやすそうに見えるが、ああいうところは見た目よりも深くて流れも複雑になっている。中洲も手前側は浅い瀬だが、向こう側は淵が隠れている。引きずり込まれたら浮き上がることは困難で、強い流れにより底に押しつけられる。水の力を侮るべからず。そもそもの話、こんな真冬に水泳をしたいとも思わない。
 水圧と冷たさに耐えるためには膝下くらいの深さが限界だ。つまり、淵ではなく瀬を選ぶべき。飛沫を浴びることは致し方ない。ごうごうと音を立てていて恐怖を覚えるが、怖じ気づくくらいなら最初から渡ろうなどと考えてはいけない。
 靴を脱いで両手に持つ。怪我をしないように靴下は履いたまま、意を決して水に足を突っ込む。足元を大きめの魚影がすり抜けて行ったが、構っている余裕などない。
「冷てえ!」
 思わず声が出た。ざばざばと熊のように水をこいで対岸に上がり、足踏みをする。冷たいを通り越して、痛い。慌てて靴下をはぎ取り、岩にあぐらをかいて座った。
 指がじんじんする。首巻きで包んで温めても、痺れていてなかなか感覚が戻らない。悪態のひとつもつきたくなる。ズボンのすそはまくり上げていたが、無情にもびしょ濡れだ。靴だけでなく、ズボンも脱いでおけばよかった。着替えはあいにく持っていない。
 靴下だけ履き替えて、またため息をついた。ため息の数だけ不幸になると誰かが言っていた。誰だっけ。思い出せないそいつに向かって言い返してやりたい。俺なんかな、ため息をつく前からとっくに不幸なんだぜ!
 道に戻ると、テッドはおぼつかない足取りでとぼとぼと歩きはじめた。道とは名ばかりで、すれ違う人もいない。魔物の類すら出没しない。言うなればかつて道であった踏み跡である。倒木や下草が放置されているのは、もはや整備の必要はなく、自然に埋もれていくのを待っている状態なのだろう。
 手元の地図にも本来の街道しか印刷されておらず、旧道である山道は手書きで加えられている。こっちへ行けの矢印と、見覚えのあるサインと蝙蝠のらくがき。
「ちくしょうめ、あの女……」
 こんな回りくどい手を使わずとも、素直に声をかけてくれたらよかったのに。緊急時でもあるまいし。
 見知らぬ子供から往来でいきなり名前を呼ばれ、言われるがままに地図を受け取った時、目の前で破り捨ててやろうかとチラリと思ったりもしたが、それではお使いを頼まれただけの罪のないあの子が気の毒なので我慢してありがとうと言った。いくら貰ったのだろう。それとも色仕掛けだろうか。いや、それはないない。
 テッドも心労が重なってだいぶくたびれていたので、数少ない顔見知りと話をするのも悪くないと思った。甘えてよいものかと少しだけ葛藤したが、誘ってきたのはあっちなので応じることにした。むしろ無視をする選択肢のほうが勇気がいる。
 道は険しさこそないものの、体力を奪う程度に上りになっている。視界もひらけないので閉塞感があり、弱った精神をガリガリと削ってくる。あまりにも荒廃しているので、本当にこれで合っているのかという不安もきつさに拍車をかける。
 それでも上りであることが幸いした。道迷いは圧倒的に下りのほうが多いからだ。上っていけばいずれ尾根に出て視界が開け、自分のいる位置を把握できる。下りは谷に迷い込み、崖にぶち当たったり、沢で立ち往生したりする。そんな場所で進退きわまっても、発見されず骨になるだけだ。
 渡ってきた川はまだ右手に沿って流れているが、谷が深くなって水量も減ってきた。足を踏み外さないように慎重に歩を進める。障害物が多くて歩きづらいことこの上ない。
 息が上がって、休憩を取ろうと荷物をおろした。水筒を出して水を飲み、苔むした石に腰掛けた。
 もっと体力をつけないと、これから先もきっと苦労する。テッドの身体年齢は十で、しかもそれくらいの年頃の男子よりも若干小柄であった。せめて成長期を終えるまではゆるやかに変化させて欲しかったのだが、紋章は情け容赦なく彼の時間を止めた。
 恨みの念は、もちろんあった。その感情は、どうにも変えようのない現実をいっそう空虚なものにする。いい加減に開き直って運命を受け入れるのが楽なのはわかっているのに、負の荷物をずるずると引きずってしまうその弱さこそが人間というもの。
 川はそろそろ源流で、おそらくこのあたりで途切れるだろう。稜線はもう少し先だろうか。
 熊や猪に出くわしたくないな、とヒヤヒヤしたが、ここまでは何事もなく経過した。足跡や糞がないか、木の幹に引っ掻いた痕跡はないか気をつけていたが、そういったものもない。冬眠を控えて餌を蓄えている時期なので、雪の積もりはじめる頃の野生生物は凶暴になっている。ナイフや弓では太刀打ちできない。
 彼らの生息域を脅かしているのは自分なので、熊も猪も悪くない。遭遇は双方にとって不幸なことだ。紋章を使わざるを得ないような状況にならぬことを祈るばかりである。
 地図を広げてみる。今はどのあたりだろうか。道を書き加えた人物が適当な性格なのはわかっているので、あまり信頼はしないほうがいい。
 現在地の目星をつけて、指で地図をたどる。おそらくそう遠くないところで尾根に出るはずである。旧道が現役だった頃は峠と呼ばれていたであろう地点だ。そこからしばらくは尾根づたいに上がったり下ったりしながら歩くことになる。山脈の標高はそれほど高くないから、低木林の中を往く道だろう。
 問題は、峠の少し先に書かれている小屋とおぼしき謎のマークだ。白抜きの四角と塗りつぶされた三角を組み合わせただけの。せめて煙突か窓をつけてやれば、かろうじて家に見えるのに。とは言えテッドも絵心はさっぱりなので、非難できる立場ではない。
 おそらく、ここで待ち合わせようという意図であろう。分かりづらいにも程がある。何が楽しくていたいけな子供をこんな寂しい山奥に誘導する? 鬼か。
(吸血鬼も鬼なのかな……?)
 ぶつぶつと独り言を言いながら、テッドは立ち上がった。あまりのんびりもしていられない。午後の日差しが遮られる前に小屋までたどり着きたい。獣に怯えながら野宿をする勇気はさすがにない。それに、じっとしていると汗が冷えて寒い。風邪をひきたくないし、濡れた足も早く火を焚いて乾かしたい。
 水の紋章と火の紋章を使えるようになったら便利だろうなあ、などと考える。気が向いたら習ってみよう。
 歩いていくとふいに開けた尾根に出た。ここが峠である。見晴らしはあまりよくないが、東に広がる盆地を視認することができた。気持ちの良い冬晴れだ。太陽はだいぶ西に傾いている。
 道標が往時の状態を保っていて、テッドはほっとした。少なくとも道は間違っていなかったらしい。称えるべきは地図ではなく、己の勘である。
 沢筋の登りよりは歩きやすく、道幅もかなり広い。高低差もあまりないので、体力を温存できる。
 街道が今ほど整備されていなかった時代は、こちらの山道も相当数の人々が行き交っていたのだろう。北の町へ向かうには、湖を避けてぐるりと盆地を遠回りする街道よりは、山越えのほうが断然近い。
 行商人が馬車を使いはじめ、そのせいで山道は敬遠されるようになった。物流の変化にともなって人の流れが変わり、やがて整備する者もいなくなって、しぼむように廃れてしまったのだろう。各地を旅していると、そういった忘れられた場所にたびたび出くわす。
 遺構は朽ち具合によっては仮住まいとして使えるので、テッドにとってはありがたい存在だ。捨てられた小屋、宿場跡、廃村、閉山した坑道。人も滅多に訪れず、雨風をしのげるそれらの建造物を求めて、あえて正規の道を往かないこともある。
 テッドの旅は、ある地点へ向かうことが重要なのではなく、立ち止まらないことが本来の目的である。だから、効率で道を選んだりしなくてもよい。近道と遠回りがあったら、直感で面白そうなほうを選ぶ。
 まあ、今回ばかりは他者に指示された道ではあるが。
 尾根筋には、かつて建物があったことを示す石積みの土台が点在していた。集落の跡であろう。宿場町かもしれない。残っているのは土台のみで、上の部分は取り壊されてどこかへ運ばれたらしく、跡形もない。
 地図の小屋も現存しないのではないかと不安になりかけた時、それは現れた。
 テッドは最初、そこも土台の一部だと思った。しかしよく見てみると、瓦を敷き詰めた屋根である。
 屋根は緑が侵食し、まるで原っぱの様相だ。冬なのにたんぽぽが健気に咲いていて、青い姿が特徴的なルリビタキが遊んでいる。なんとものどかな光景だ。
 柱を失って屋根だけが取り残されたわけではない。小屋の本体は道の下、すなわちくぼ地のような土地にすっぽりと収まっていた。
 くぼ地の壁を巻くように坂道が玄関に向かって下りている。建物のニ面は道側の壁に面して、隙間もなくめり込むような形になっている。
 果たして一階なのか、地下なのか。どうしてこのようなおかしな構造にしてしまったのだろう。日当たりもきっとよくないはずだ。ドワーフでも住んでいたのだろうか?
 様子を伺ったが人のいる気配はない。屋外に小さい薪置場のようなものが設置されているが、薪は積まれていない。近くに薪割り台があり、錆びた斧と鉈が立てかけてある。その脇には蓋の閉じた井戸も見える。
 テッドは慎重に坂を下りて、あらためて建物を見上げた。小屋と呼ぶには少し大きく、平屋のようだが妙に背が高い。地方の村によくあるタイプの学校のようにも見える。
 入口は正面にひとつ。引き戸の真上に煙突が突き出している。煙は出ていない。
 窓は建物の大きさに比較してかなり小さく、右と左にひとつずつある。雨戸が閉じられているので中を伺うことはできない。
「こんにちは」
 声をかけてみた。返事はない。トントンと戸を叩き、もう一度「こんにちは」と言う。
 ふと、目の端で何かが動いた。ハッとして気になったほうを見ると、一匹の蝙蝠が軒下に逆さまにぶら下がってこちらを見ていた。
「ああ、なんだ」
 テッドはふわりと笑った。「ご苦労さま」
 蝙蝠は「チッ」と一瞬だけ鳴いた。「うむ」とでも言ったのだろう。聞くところによると蝙蝠は人の耳では聞き取れない音で遠くの仲間と交信するらしい。使い魔であるその個体はおそらく、今日は当番でそこに配置されて、テッドの来訪を上司に報告する係なのだ。
 引き戸に手をかけて、開けてみた。鍵はかかっておらず、戸は引っかかりもなくカラカラと軽快に開いた。
 中は暗く、様子がよくわからない。なにはともあれ雨戸を開けてみる。
 意外にがらんとしている。天井がやけに高いと思ったら、屋根まで吹き抜けになっているのだ。太い梁が何本も組まれている。
 他の部屋はないようだが、右手の奥に木戸が見えた。気になって開けてみると、便所だ。こちらの壁は道に面しているほうなので、道の下をくり抜いて作ったのであろう。
 足元は土間で、中央は真四角に囲炉裏が掘られていた。丸太を輪切りにしただけの椅子が四つ。左右には広い小上がりがあり、隅に毛布が畳んで置いてある。奥の壁は一面が四段の棚だが、木箱と壺がいくつか置いてあるだけで、隙間のほうが多い。
「来いって誘ったくせに、留守なのな」
 テッドはぼそりとつぶやいた。まあ、そうだろう。予想はしていたことだ。この時間はきっと、棺桶でぐっすりお休みになっているだろうから。
 とりあえず火を熾したいと思い、あたりを見回すと小上がりの下に薪がある。外だと湿気るから、必要な分はこちらに運んでいるのだろう。勝手に使ってもよいものだろうかと考え、あまり迷わずに囲炉裏に放り込んだ。去る時に補充しておけば問題あるまい。
 いつも持ち歩いている火打ち石と、道中で拾った松ぼっくりを使って、手慣れた様子で火を付ける。薪は乾燥していてすぐに燃えあがった。火事にならないだろうな、と不安になるが、煙突がつながっているし、屋根が高いので多少乱暴に爆ぜたくらいでは火の粉も届きやしないだろう。念のため水を汲んでおこうと外に出る。
 井戸の蓋を取って覗き込むと、水がしっかり貯まっている。しかし汲み桶が壊れていて、汲むことはできるが、あっという間に漏れ出してしまう。水を移す瓶なども見当たらない。
 そういえば棚に壺があった。確認してみると、壺はどれも塩だの砂糖だのが入っていて、すぐに使えそうなものはなかった。しょうがないから防火用水は断念する。
 飲み水に関してはテッドは慎重で、常日頃からできるだけ自分の手で沢などから水を汲むようにしている。井戸に毒を投げ込まれる犯罪は意外とよく聞く話だし、狭い集落で病が流行るのも多くは井戸が関係しているからだ。水事情は地方によって違い、いちいち確認をとって判断するよりは最初から自衛したほうが手っ取り早い。
 飲み水は今日のところは水筒の水で足りるので、明日になったら沢と薪を探しに行こう。できたら桶の修繕も試みたい。日の入りまではまだ少し間があるけれど、今日は疲れたので、また明日。横になって休んで、朝になったら。
「暮らす気か?」
 テッドは声に出して自分に問い、くすくすと笑った。まさか。確かに住まいにするには高得点だし、水も火も塩もある。だめだ、だめだめ。どう見ても他人の家じゃないか。
 ぱちぱちと燃える火の側でズボンと靴下を乾かしていると、温かさでうとうとしてきた。今日は本当によく歩いた。待ち人はまだ来ないし、少しくらいなら寝てしまってもいいだろうか。見張りもいるので、きっと大丈夫――
 囲炉裏の端に足を投げ出して座り、丸太の椅子にもたれてテッドは眠りに落ちた。浮いては沈む波のような浅い眠りであったが、安心感は普段よりは少しだけ余分にあった。
 ぱちんと爆ぜた薪の音ではっと目を開けると、身体の上に毛布がかけられているのに気づいた。
 どこから出てきたのか土間には灯されたランプが置かれ、オレンジ色の明かりに包まれている。
「シエラさん?」
 テッドは寝ぼけた声で言った。
「あんよが焦げないように、見張っていたぞえ」
 左隣に座っていた女性は、火箸で薪をいじくり回した。火の粉がパチパチと舞うのが面白いらしい。
「ご無沙汰しておりました」
「そうだったかの。おんしがいびきをかくなんて、珍しいものよ。気持ちよさそうに寝ておったわ」
「あー、はい……ああ、もう夜か」
 シエラがいるのだから、夜に違いない。彼女は昼はどこかで寝ていて、日が陰ると起きてくる。テッドと過ごしている時はいつもそうだった。
 頭をかきむしりながら大あくびをするテッドを見て、シエラはフッと笑った。
「おじさんじみたのう、おんし」
「おじさんだからしかたないです。シエラさんはぜんぜん変わらないですね」
 いきなりの突っ込みには軽快に返し、「地図」とテッドは言った。「どうしたんですか、急に」
 シエラはそれには答えず、
「おんし、幾つになった?」と聞き返した。
「幾つって、歳がですか。おじさんだって言ったでしょうが。うーん、いくつだっけ。さん……よんじゅう? もっとか。すみません、忘れました」
「まったく、情けない。おのれの歳くらい聞かれたらすぐ答えられるようにしておくもんじゃ。いつまで経っても子供じゃのう」
「そりゃあまあ、シエラさんに比べたら俺なんて永遠にお子様でしょうからね」
 成敗スレスレの攻防である。このさじ加減が難しい。
 シエラはぷっとむくれたが、本気で気を悪くしてはいない。テッドが呼び出しに応じてくれたのがよっぽど嬉しいのだろう。目を細めてにこにこしている。
「悪いことは言わぬ。歳はのう、きちんと数えておくものじゃ。忘れてしまうよりもよっぽどいいわ。今はまだピンとこぬかもしれんがの」
「シエラさんも数えているんですか」
「まさか。わらわはもう、じゅうぶん数えたわ」
 テッドは吹き出した。「なんですか、それ。ずるい」

二 昔話


 シエラは十代の少女の姿をしているが、何百年も老いることなく生きている吸血鬼である。
 吸血鬼は本来、むやみに人を襲って血を吸ったりはしない。その一族は人よりもよほど平和を望み、異種族とのトラブルを厭い、隠れ里に籠もって穏やかに暮らしてきた。そもそも、シエラを除く吸血鬼の同胞は皆、人の出自であり、生きるために始祖であるシエラから吸血鬼の血を賜った者たちである。同胞たちは不死を得る代償に月の紋章の守護から逃れることができなくなる。
 紋章の守護の下で、吸血鬼は種として独立して生存できる。血を吸われた人間が吸血鬼になるという話もまた、吸血鬼を恐れる人々が語りはじめた迷信である。
 人々が吸血鬼を悪いものとして恐れたのには理由があった。シエラいわく、「あれはわらわの過ち」であるらしい。
「元はと言えば、わらわが寂しさのあまり、禁を破り、同胞たちを生みだしてしまったからじゃ」
 まるで創世の物語だ、とテッドは思った。圧倒的な孤独に耐えかねて涙をこぼした始まりの「やみ」の話。シエラは吸血鬼の始祖であり、彼女が死に瀕した人に命を与えることで吸血鬼が誕生する。
 かつて地上に存在した、シエラが命を与えた「同胞」が身を寄せてひっそりと暮らしていた村の名は、蒼き月の村と言った。太陽の強い光の下では生きられない儚い生と、不死の呪いという相反する苦しみを受け入れた人々。その中に、ネクロードがいた。たちの悪い吸血鬼であった彼は、村の外に強い憧れを持っていた。シエラの決めた掟につまらないと唾を吐き、こともあろうに月の紋章を強奪して村から出ていってしまった。
 その折にネクロードは、何人もの同胞をそそのかし、人の生き血を吸えば外の世界で生きていけると吹聴した。夜の闇に生きることを苦々しく思っていた者、寿命の短い人間を蔑む者、村の掟が窮屈だった者、単に生きることに執着した者。日頃の鬱憤は次々とはじけた。
 紋章の恩恵を喪ったことで、残留した同胞はすべて死に絶えた。誰も恨み言はいわず、シエラは全員を見送り、蒼き月の村に埋葬した。
 ネクロードを許さない。そしてシエラ自身も。
 当時はまだ本当の十歳であったテッドに、シエラは自分の過去を包み隠さず語った。理解をするには彼は少し幼すぎたかもしれないけれど、それでも言葉を慎重に選びながら話す彼女の顔はよく覚えている。あのときも夜で、ランプの明かりがやさしかった。
 時折赤い唇をきゅっと噛んで、息をするのも苦しそうだった。泣くのではないだろうかとテッドはうろたえた。だが、彼女は涙を流さない。大人とはこういうときでも我慢をするのだろうか。テッドはこんな悲しい顔をするシエラを見たことがなかったので、どうしていいかわからず、とうとうぼろぼろと泣いてしまった。
「泣き虫じゃのう、おんしは……」
 シエラはテッドの頭を撫でて、それから抱きしめた。
 後悔が彼女を突き動かしているとしたら、それはあまりにも救いがないのではないか。せめて声を上げて泣けたらいいのに。テッドも大人になって泣き虫は卒業したが、悲しいときに涙を流すのはけして恥ずかしいことではないと今でも思っている。彼がシエラの涙を見たことは一度もない。
 ネクロードが月の紋章を奪った事件。これが吸血鬼による惨禍の始まりである。各地に離散したかつての同胞により、生き血を吸われて多くの人間が殺された。かくして吸血鬼の存在は広く人々に知られ、恐れられるようになった。
 生きるための捕食行動は人も例外ではない。しかし吸血鬼が捕食するのは人そのものである。それはあまりにも罪深い。
 わらわの考えは綺麗事だろうか? シエラは悩んだ。わらわとて肉も魚も食らう。人を食らってはならぬ理由を問われて、わらわは答えられるだろうか。
 禅寺へ赴き、教えを請おうとしたが徒労であった。どれほど諭されても、人の捕食を知ってしまった吸血鬼をシエラは許すことができないのだ。それは彼女を永遠とも思える苦しみを与え、今日もなお続く放浪の旅へ誘った。
 シエラが途方もなく長い旅をしているのは、世界中に散らばった同胞たちを始末するためだ。吸血鬼が人に害をなすことをどうしても許せないなら、それでいい。許す必要はない。彼女は気づいた。もっとも許せないのはネクロードではない。自分自身だということに。
 最初で最後の吸血鬼となる。それは始祖としてのけじめであり、吸血鬼としての尊厳である。
 それにしても、とテッドは思う。生きたいと願う人に命を与える行為が過ちだと言うならば、死にたくないと叫ぶ人の命を刈り盗る己の罪はいかばかりだろうと。

三 出会い


 テッドがシエラとはじめて出会ったのは、幼かった彼が生と死を司る紋章を継承してほどなくであった。テッドの故郷の村を襲撃した三人組のひとりがネクロードその人だったのである。
 同胞たちが生きるためにやむなく人を襲うのと違い、ネクロードは快楽のためだけに人を殺す。しかし月の紋章を手に入れただけのネクロードには、墓に眠る死体を人形のように操ることはできても、吸血鬼の仲間を新たに増やすことはできない。それができるのは未来永劫、始祖であるシエラただひとりだ。
「あやつだけは、こっ酷く成敗しないと気がすまぬ」
 シエラと月の紋章は切れない縁でつながっているため、その在り処を彼女はたどることができる。愚かにもネクロードは、狼煙をみずから打ち上げながら逃げ回っているようなものだ。隠された紋章の村に火の手があがったときも、彼女は近くまで迫っていた。しかしたどり着いた場所に遺されていたのは焼け落ちた村と虐殺された死体の山。
 シエラは舌を鳴らした。いつも僅かなところで取り逃す。逃げ足だけは早い奴め。
 ところがその村は何か様子が違った。断定はできないけれど、月の紋章だけではない明らかに異質なものの複数の残滓をシエラは感じ取った。それに、ネクロードの仕業だとしたらいつもと手口が違う。奴の殺し方は悪趣味で、剣で斬ったり火を放ったりするやり方は「美意識に反する」のだ。
 想像でしかないが、つい今しがたまでここには、いくつかの真の紋章が集っていたのではなかろうか。襲撃者はネクロードとは別人で、相当の悪意を持った人物。
 シエラはぶるりと身を震わせた。なんだろう、この嫌な感じは。こんなところに何があった。山奥にひっそりと、まるで息をひそめるように寄せ集まる、数えるほどの戸数しかない隠れ里ではないか。
 その答えをシエラはわずかばかり後に知ることとなる。通りかかった近隣の町の橋の下で、ボロ布にくるまって膝を抱えて震えていたのがテッドであった。
 シエラはすぐに、その子供から発せられる異様な気配に気づいた。離れていても禍々しい波動を感じるのだから、これほど近ければ間違うことはまずない。
 真の紋章である。しかも、これまで出会ったことのない強大な悪意。
 とんでもない拾い物であった。保護してはみたものの、少年はまるで罠にかかった獣のように、差し伸べる手を拒んだ。頑なに心を閉ざし、暗い部屋でベッドの下にもぐりこんでいる。食事を運んでも、シエラの見ている前ではけして手を付けようとしない。
 ひょっとして人の言葉を理解していないのだろうか? そうも思ったが、シエラは根気強く接した。どうやらこの子は、シエラに対してどのような態度をとってよいかわからないのだ。反抗するつもりなら、脱走は容易であったからだ。
 子供はやがて短い言葉でシエラと会話できるようになり、名前を聞くと「テッド」と答えた。
 彼からあの村で起こった出来事を聞き出すのに、ひと月ほどかかった。少年の話にシエラは戦慄し、己の勘が正しかったことを実感した。橋の下で保護を躊躇し、見て見ぬふりをしていたら、恐ろしいことが起こっていただろう。それは悪い意味で歴史に刻まれるような未曾有の大厄災かもしれない。それほどまでに少年の持つ紋章は邪悪で、世界を揺るがしかねない危険なものであった。
 生と死を司る紋章。それはソウルイーターの別名で呼ばれ、恐れられる。本当か嘘かは知らないが、行く先々に戦火をもたらすという。
 ソウルイーターを付け狙っているという「魔女」が何者であるかを、テッドは知らないと言う。しかし、魔女とともに村を襲撃したという「吸血鬼」はネクロードで間違いないだろう。もう一人の「黒い騎士」の正体も不明だが、ろくでもない連中であるのは疑いようがないようだ。
 とりあえずその魔女とやらがネクロードと組んでいるとなると、この子を匿えばネクロードの方からのこのこと姿を現すかもしれない。そういった思惑もあった。しかしなにより、庇護を必要としている子供を見捨てることはシエラにはできなかった。
 子供がシエラを敵ではないと認めると、シエラは彼に生きるための基本的な考えかたを教え、文字や算数を教え、詐欺の手口と人心掌握術を教えた。そしてどんな教科よりも念入りに、旅をする知識を授けた。
 甘やかすことは滅多になく、本当に酷い教師だったと思う。テッドはとんでもない泣き虫だった。甘えて泣きわめくのではない。恐ろしい体験によって植えつけられた苦痛を、幼い心がうまく処理できずに、混乱して泣くのだ。
 下手に慰めてごまかさないほうがいい。シエラはそう思い、理不尽な要求は突き放した。冷たい言葉を浴びせるシエラに、テッドは意地で食らいついてきた。
 彼が子供らしく笑い、怒り、そして泣けるようになったのは出会ってから二年目のことである。
「おんし、強うなったのう。ここから先はひとりで歩いてゆけるな? まだまだおんしはひよっ子じゃが、わらわにもやらねばならぬ用事があるのを知っておろう。おんしと暮らしていればネクロードが現れるやもと思うたが、あてが外れたようじゃ。なによりも、わらわとおんしがともにおるのは、酷う目立つ。ずっとついていてやりたいが、どうやら、そうも言ってられぬようじゃ」
 その時テッドはまだ十一歳だった。彼はぼろぼろと泣き、それでも力強くうなずいた。
「わかった。もっとつよくなりたい。ぼくはまけません」
 頼もしくなった、とシエラは微笑んだ。この子の歩む道は険しいだろうが、祝福して送り出してやらねばなるまい。
 旅支度をととのえたテッドは「お世話になりました」と頭を下げたが、やはり不安は隠せないらしく、「どっちへ行ったらいいと思う?」と小さく訊いた。
 意思は固めたが、はじめの一歩を踏み出す方向がわからない。それはそうだろう。シエラはちょっと考えて、こう答えた。
「おんしの心の赴くままに歩いていけばよい。大事なのはどこへ向かうかではなく、
どういう気持ちで歩むかじゃ。なあに、間違ったなら、それもまた経験だと思えばよい。自分の人生を決めるのは、自分しかいないのじゃからな。それから、わらわは幾度も教えたであろう。おまじないの言葉を」
「歩くのは逃げるためではなく、人生のために」
「うむ。つらくなったら口ずさむがよい。よいか、強い人間になるのも悪くはないが、強い者はいざくじけた時に己を叱咤してしまう。負けたくないと思う者は、負けてしまった自分を認められなくなる。それは、逃げじゃ。失敗した自分から逃げておるのじゃ。旅をすると、そんな己がちっぽけなことを知るようになるだろう。弱いこと、負けること、それらを憎んだり、おそれたりする人生が楽しいわけがない。
 道中、おまじないを口ずさんで、自分はどう生きたいのか何度でも心に問うがよろしい。どんな人生でも、楔を抜いたら案外楽しいものであるからの。そうじゃ、楽しむのじゃ。たまには考えるのを休むのもよかろう。まわりを見渡して、目に見えたものを楽しむのもひとつの人生じゃ。
 元気で生きるんじゃぞ、テッド」
 テッドは真剣な顔でうなずいて、「オババも元気で長生きしてね」と言った。
「弟子の門出に、血をぶっこ抜いてやろうかの」
「いってきます」
 テッドはまだ涙の乾かない顔で、ニヤッと笑った。

四 逃げるためでなく、人生のために


 笑顔で送り出したものの、テッドは悪魔を宿した幼い子供である。それが暴れたら制御など不可能だろうし、敵と遭遇しても戦うすべを持たない。このまま野に放ってよいものか、不安が募る。
 情が移ってしまったことをシエラは反省しつつ、自らも旅支度をして、後を付けた。追うのではない。たまたま向かう方向が一緒だったのだ。たまたま。
 テッドは小さい身体を引きずりながらも存外にたくましく生活しており、見守っているこちらが呆気にとられるほど元気な様子だった。取り越し苦労であったかとシエラは苦笑いした。嬉しいような寂しいような、複雑な気持ちだ。
 真の紋章に選ばれるのは並大抵のことではない。彼の事情を知った時、こんな幼い子供まで容赦なく巻き込むのか、とやり場のない憤りを覚えたほどだ。テッドには宿主としての資質が備わっているとは考え難く、何かよっぽどの事情があったのか、それともテッド自身にまだ隠された秘密があるのか、シエラには判断できかねた。ましてや最凶の紋章と恐れられる「ソウルイーター」である。下手をすればシエラでさえも呑み込まれてしまいそうな圧倒的な力。
 関わらぬに越したことはない。力の片鱗を見せつけられるたびに、離脱を考えた。時として底しれぬ恐怖を覚えながら、それでも少年に構い続けたのには彼女なりの考えがあってのことである。
 シエラと強い縁で結ばれている月の紋章は、夜の闇に生きる者たちの守護者である。ソウルイーターを承け継いだテッド少年もまさに、闇の陣営に属す者。この子供にとって、太陽の光は強すぎるのだ。
 自分があの子を見守るのは運命かもしれない。少年を見つけたのは偶然ではなく、紋章たちによって橋の下に導かれたと考えるのはどうだろう。よっぽどのことがなければ橋の下など覗かない。あの夜は月が美しく、光の往く先を追って水面に目を移したときだった。
 月の紋章と生と死を司る紋章が結託して、二人を出会わせたに違いない。シエラはロマンチストなので、すぐに頭でシナリオを考える。
 ネクロードを討伐し、同胞たちをすべて始末した暁には、シエラはふたたび孤独になる。しかし、もう二度と同胞を生み出すことはしない。我こそが最初で最後の吸血鬼。
 その時、月の紋章も役目を終えてしまうのだろうかと、シエラは不安であった。護るものを喪った紋章の存在意義とは。たとえば、竜がこの世界に産まれなくなれば、竜の紋章は何処へ行く? それはシエラがずっと疑問に思っていたことだ。そこにひとつのヒントを与えてくれたのがテッドであった。
 太陽のもとでは歩けない者たちがいる。シエラはその小さき存在に気づいた。護るべきは吸血鬼の同胞だけではなかった。蒼き月の村は喪われてしまったが、世界にはまだ月に救いを求めている人々がいる。ならば自分が月の光になって、彼らの足もとを照らすのである。
 蒼き月の村を再建することはしない。シエラ自身が月の紋章の宿主として生き、世界を見守る。見守ることしかできない自分をシエラは好きではなかったが、それはできない自分という人形を頭で作り上げ、その存在を抹殺したがることで平穏を保とうとする「逃げ」であり、考え方をちょっと変えれば、見守ることのできる自分は、けっこう大いなる力に祝福されているのではないかと思う。
 小さいテッドに言い聞かせながら、シエラは自分自身の中にいる小さな女の子にも語りかけていた。おんしは、どう生きたい? 心はどちらを向いておるのじゃ?
 死ぬつもりはさらさらない。だったら、目的を達して空っぽになる前に、その先のことも少しずつ考えておかねばなるまい。今はまだ、余裕があるとは言い難いが。
 逃げるために旅をしてきたのではない。シエラの旅は人生のためにあった。いつか終わりを迎えるとき、胸を張ってそう言えたらいい。

五 夕餉


「ところでおんし、腹は空かぬかえ?」
 きたきた。こちらを気遣っているように見せかけて、その心は「わらわは腹ペコなので食い物をお出し」である。シエラの出方などとっくにお見通しで、そのためにわざわざ重い食料を鞄に詰めこんできたのだ。
 膨らんだ鞄から鍋と干し肉とじゃがいもを取り出すと、シエラは面白そうに眺めていたが、
「相変わらずしょんぼりとしたものを食っておるの……」とこぼした。
「これでもいつもの百倍は豪華なんですけどね」
「だから大きくならないんじゃ」
「大きなお世話です。ところで外にある井戸の水は飲めるんですか」
 シエラはにこりと笑った。「さての。火を通せばいけるじゃろう」
 聞くんじゃなかった。テッドは黙って鍋に水を汲んできて火にかけ、五徳に置いた。毒が仕込まれていたら、その時はその時。
 干し肉と香草の束を煮込んでいくと、いい香りが漂ってきた。
「なんの草かえ?」
「月桂樹とか麝香草とか、あといろいろと束ねたものです。これは肉の臭みを消してくれて」
「ほう、しばらく見ぬうちにいっぱしの料理人になったな」
「そんな専門的じゃないですよ。ただ、ほら、いつも同じ味で食ってると飽きるじゃないですか。たまにはこういうふうに、ちょっとした贅沢も必要だと思いません?」
 シエラは「ふーん」と首を傾げて、「久々におんしの血を味わってみとうなったの」と不穏なことをつぶやいた。
「あげませんよ」
「贅沢も必要と言ったばかりでそれはなかろう、おんし」
「嫌ですよ。痛いし」
 シエラは唇を尖らせて、「ケチ」と言った。
「……少しだけですよ」
「たわけ。冗談じゃ。そんな血色のよくない身体から頂戴する気も起こらんわ」
 テッドは苦笑いした。それはそうだ。不健康な生活をしている自覚は大いにある。食欲が常に乏しく、何を口に入れても味がしないのだからしょうがない。肉はゴムを噛んでいるようだし、野菜は紙のようだし、パンはまるっきり粘土そのもので飲み込むのが精一杯。呪いを吐きながら最低限の食事を摂る日々が続いていたから。
 シエラには偉そうなことを言ったが、実はブーケガルニを料理に使うのは初めてだ。一人の食事にハーブは必ずしも必要のないもので、今回はたまたま市場で見かけて興味をひかれたのだ。
 ああ、とテッドは納得した。自分は誰かとこうやって、目の前で料理を作りながら、一緒に食べたかったのだろう。素朴な食卓でじゅうぶんだ。火があって、温もりがあって、語り合うことができたらそれで。
「ありがとうございます」
 おもむろにテッドが礼を口にするので、シエラは驚いて目をぱちぱちとさせた。
「どうしたんじゃ、いきなり」
「いや、ただなんとなく……」
「可笑しな子じゃ。さて、そろそろいただけるかの」
「まだですよ! これからじゃがいもを入れて煮るんです。それから味噌を入れて煮込んで」
「かーっ! なんて先の長い話じゃ。わかった、わかった。わらわはちいとそこらを散歩してくる。戻ってくる頃には出来ておろうな?」
 テッドは首を縦に振って、「たぶん」と言った。
 シエラが引き戸を開けると、冷たい夜気がざあっと入り込んできた。窓枠がガタガタと鳴る。テッドも立って、雨戸を閉めた。
 なるほど、小屋が道から隠されるように建っているわけだ。吹きさらしの尾根では風がもろに当たって、木造の建物などひとたまりもないのだろう。二方向を断熱することで保温効果も上がる。くぼ地の壁面は土ではなく、見たところ一枚岩なので、土砂崩れに巻き込まれる心配もなさそうだ。
 この辺りは稜線も含めてほとんどが低木林だが、ところどころに大岩が剥き出しになっている。植生は多く、水の豊かな山脈であるようだ。
 人が訪れないことが前提なら、しばらく住んでみるのもいい。しかし、そううまくはいかないだろう。この小屋もどこかに持ち主がいて、今夜はたまたま、寝床として使わせてもらってるだけ。もちろん、ちゃんと痕跡を消してお返しする。
 手袋をすっかり外し、素手でじゃがいもの皮を剥く。人前では絶対に外すことのない手袋はもうボロボロなので、次の町で買い替えなくてはと思う。
 右手の甲に灼きついている痣は、己の意志でそれを手放すまで消えることはない。
 鎌の形をした醜い痣。それは呪いであり、憎しみの象徴であり、祖父から預かった荷物であり、守るべき遺産であり、相棒である。
 どうしてテッドは人生をかけてそれを守ろうとしているのか。どこへ運ぼうというつもりなのか。彼は自分自身でもその不可解な行為の理由を正しく主張することができない。衝動に突き動かされた彼の行き着く先々で、それは取り返しのつかない悲劇をもたらしてきた。もう十分に懲りたはずなのに。
 じゃがいもでさえ小気味よい重みを手のひらに伝えてくれるのに、それは重みどころか、存在感すらテッドに示さない。いつも静かに眠っているふりをして、こちらを監視している。そうして、「喰う」段階になってはじめて、宿主に耐え難いほどの痛み、苦しみ、絶望を与える。
 厄災の権化。こんなものを宝物だと信じ込まされていた自分は。
 テッドの心はかなり参っていた。紋章を抑え込む方法はだいぶわかってきたが、それには強い精神力を必要とする。気を張り詰める代償として睡眠が奪われ、休むことのできない身体はどんどん疲弊していく。
 負の感情を抱えるのはいつものことであるが、この度は深刻度合いが桁外れであった。理性が揺らぎ、何かを考えるだけでひどく疲れ、彼はついに自滅願望を隠さなくなった。腕には無数の自傷の跡。爪を立て、掻きむしり、ナイフの切っ先を当てた傷だ。
 シエラはいつ、テッドの居場所に気づき、どれくらいの期間彼のことを見ていたのだろう?
 彼女は神出鬼没の魔法使いではないから、「困った時はいつでもお呼び」とは言わない。今回もたまたま町で見かけて、近況でものんびり語り合おうと静かな山小屋に誘い出した。何もかもが偶然にすぎない。それだけの話だ。それだけの。
 テッドはシエラを信頼しているが、だからこそいつまでも頼ってはいけないと思っている。テッドがソウルイーターを守るために常に所在を動かしているのと同様、シエラ自身にも旅をする重大な目的がある。テッドに構っている時間は、寄り道以外の何物でもない。
 今日の約束などは、詫びを何度入れても足りないくらいである。おそらく彼女はテッドの惨憺たる有り様を見て同情し、放ってはおけぬとわざわざ時間を割いてくれたに違いない。あの人のやさしさは身にしみている。過去に、テッドのためにどれだけ尽くしてくれたのかも。申し訳なくて、目を合わせづらく、不自然にぎくしゃくしてしまう。今もまた、テッドに呼吸する時間を与えるために、わざと席を外してくれた。
 期待に応えていない自分の不甲斐なさ。正直、会えた嬉しさよりも、今の自分がバレてしまうことの恐ろしさのほうが強い。
「幾つになった」とシエラが訊いたのは、テッドが自暴自棄になっているのを確認するためだと思う。あそこで正しい年齢を速答できれば、なあんだ、まだまともじゃないかと安心したはずである。残念ながら今のテッドが己の歳を思い出せないのは事実で、逆算する意欲も残っていない。なんなら名前を呼ばれて、すぐに反応できないくらいには疲れ切っている。何もかもが面倒くさい。
 久しぶりに山歩きをして身体を動かし、少しだけ気分がまぎれたと思ったが、やはりだめだ。とりあえず芋を煮て、そいつを食べてなんとか元気を出そう。
 剥いた芋を適当に割って投入し、再度煮立った頃に味噌をといて混ぜる。唐辛子は本人に相談してから入れることにしよう。パンや米を担いでくる余裕は無かったが、芋がいい仕事をする。弱った胃にも入りやすい。
 見計らったようにシエラが帰ってきた。手には何か大きな麻袋のようなものを抱えている。
「おお、寒い寒い。雪がちらついてきたわ」
「そんな肩の露出したヒラヒラした服を着てるからですよ。見ているこっちまで寒いよ。せめて冬用のマントを羽織ってください」
「重いマントで飛べるわけがなかろう。ばかもの」
 飛ぶんだ、とテッドは驚愕したが口にはしなかった。それなら落ちかけた吊り橋も難なく飛び越えられる訳だ。こっちは苦労して渡ってきたのに。
「できておるの。よしよし、いい子じゃ。いい子のおんしに、ほれ、みやげじゃ」
 手渡された麻袋を開けてみると、白菜に人参、大根、それからなぜか夏野菜であるトマト。そういえばこの女、野菜が殊のほか好きだった――。
「どこから盗んできたんですか」
「人聞きの悪いことをぬかすな。これはな、麓に知り合いがおっての、そこの畑からちいと拝借してきたのじゃ」
 やはり泥棒じゃないか。
「もう鍋はできちゃいましたよ。今頃野菜が届いても、処理しようがないんですが……」
「残ったスープに入れたらよいではないか。まだ明日も、明後日も食べられる」
「いつまでいる気なんですか。ていうかここ、勝手に使っていい家なんです?」
「当たり前じゃ。わらわが家主に話をつけて借りておる。つまりはわらわの家も同然じゃ」
 テッドはから笑いをした。借りて。なるほど。脅して。ふむふむ。
「この家は変わったつくりをしておるじゃろう? その昔は寺子屋でのう、そこに畳を敷いて、子供たちが勉強しておった。今は見る影もないが、この一帯はほれ、あれだ、遊廓が並んでおったんじゃ。子供もたくさん住んでおった。寂れてしもうて、みんな山を下りてしまったが、ここだけは何かあったときに使えると思って残そうとしたんじゃろうのう」
「寺子屋。へえ、やっぱり学校だったんだ、ここ。それにしてもこんな山道に遊廓なんて」
「山だから都合がよいのじゃ……」とシエラは意味深に言った。この話題は根掘り葉掘り聞かないほうがよさそうだ。
 シエラはにっと笑った。
「どうせもう、誰も来ん。山のもんは、もうおらん。わらわやおんしのような人嫌いにはうってつけだわ。のうテッド、おんしの仇はあれから姿を見せんのじゃろう。生きているのかどうかもわからぬ。ならば、こういうところで息をひそめてみるのも得策やもしれぬぞ。畑を耕して、狩りをして、雨の日は本を読んで暮らす。晴耕雨読という、アレじゃ。わらわもそういう時期があった。何ヶ月でも何年でも、好きなだけのんびり暮らせばよいわ」
「……」
 好きなだけと言われても、シエラの時間感覚はあてにできない。家主の男とやらもどうやら存命ではないらしい。
 テッドはゆらゆらとうなずいて、
「楽しそうです。でも、丁重にお断りします。退屈で死にそうになるのが目に見えてるんで」と言った。
 そして、ふと祖父のことを思い出した。晴耕雨読か。ひょっとしたら祖父も、同じことを思いあの土地に住み着いたのかもしれない。
 シエラは残念そうに、しかしどこか嬉しそうに、
「そうかそうか。ならばおんしの判断に任そう。そうじゃ、言うのを忘れておったが、この先の道は北の町には抜けられんからの。まあ、それも寂れた大きな理由なんじゃが、地震で向こう側の山がひとつ丸ごと崩れてしもうて、永遠に行き止まりなんじゃ」
「マジかよ!」
 テッドの顎ががくんと落ちた。なんてことだ。来た道を後戻りの選択しか残されていないとは!
「めちゃくちゃ大切なことじゃないですか! なんで忘れるんだよ。ていうか地図ではちゃんとつながってましたよね。シエラさんの書いたやつ」
「つなげんと、おんしは警戒して来ないじゃろう」
「あったりまえだよ! 南から攻められたら、袋小路で、逃げられずに終わりじゃないか。俺がこういうの嫌いだって知ってるくせに!」
 もはや敬語も吹き飛ぶ勢いだ。
「どうどうどう。おんしも飛行を覚えるチャンスじゃの」
「至難の業にも程があるだろ!」
「まあまあ」とシエラは両の手のひらを見せた。「わらわが側におるうちはそう怯えるでない。ここいらの山塊に怪しい者が侵入したら伝令が飛んでくる手はずになっておる。いざとなれば竜使いの知り合いを呼んでやる。北の町どころか、隣の国まで関所もなしにひとっ飛びじゃ」
「どんだけ多方向に貸しをつくってるんだ、あんたは……」
 シエラは表面上は社交的に見せかけて、実はテッド以上に人見知りで、容易には他者に心を開かない。横のつながりを作るのは上手いが、必要以上に深入りするのも、されるのも嫌がる。テッドですら、本心が見えなくて戸惑うことがある。
 その距離感が逆にありがたいと思うし、とても繊細で、気遣いのできる彼女を尊敬もする。テッドにとって他者との関わりは、ある程度の緊張感を必要とするほうが好ましい。ベタベタと近づいて、一方的に土足で踏み込んでくる人はどうも苦手だ。だからシエラとは良い関係が築けているのだろうと思う。
 彼女に対して意識して敬語を使うのも、緊張感を手放したくないからである。極端な年齢差とか、窮地を救ってもらった恩とかももちろんあるが、それ以上にシエラを師として、また吸血鬼の始祖として、途方もない畏敬の念を抱いているからだ。
 シエラもまた、民が彼女を始祖と崇めるのを当然だと考えていて、不敬の輩には容赦のない鉄槌を下す。上下関係を平坦にしようとするのは端から滑稽で、シエラもテッドもそんなことは望んでいない。
 シエラの抱く闇に踏み込まないことが、まさにテッドが宿主として生きるための最初の訓練であったのだ。ソウルイーターが他の宿主の魂をかすめ盗ることはないと思うけれど、それは単なる期待であって、断定ではない。前例のないことを理由にこうだろうと思いこむのはあまりにも浅はかで、愚かしい。
 ずっと胸に引っかかってきた疑問を、テッドはシエラに尋ねることにした。
「シエラさん、俺があの町にいることをどうやって知ったんですか」
「その話をする前に、そいつを碗によそってくれんかの。わらわは腹ペコじゃ。お腹と背中がくっつきそうじゃ」
 テッドは笑って、それからさあっと曇り空になった。「しまった。碗……」
「ふん、そんなことだろうと思ったわ」
 シエラはよいしょと立ち上がり、奥の棚を探りはじめた。木箱のひとつを開け、「これではない」と閉じる。隣の箱を開ける。
「おお、残っておった」
 中から木の碗と箸を取り出した。他にも皿だのコップだの、どれも二つずつ選んで、囲炉裏の脇に並べていった。
「何年も使っておらぬが、箱に眠っておったゆえこのとおり、埃もついておらん。ほう、この皿は懐かしいのう。わらわが交易商からもらっ……買ったものだ。この派手派手しい絵付けは群島かのう?」
 へえ、と思ったが話が長くなりそうな予感がしたので、テッドは黙った。受け取った碗に煮物をよそう。
「俺はわりと唐辛子を使うけど、シエラさんが嫌いだったらまずいので、とりあえず無しで」
「ほう、その判断は正解じゃ。わらわの料理に唐辛子とニンニクを入れたら絞め殺すやもしれぬ」
「あー……あは、はははは、よかった」
 冗談ではなく本当に絞め殺されるところだった。唐辛子もニンニクも野菜だろうが、と心の深いところで思う。
 シエラは碗をふうふうして、「あちち」と言いながら口に運んだ。
「うむ、うむ……これはうまい。滋養の味じゃ。干し肉の味がスープによく出ておるの。なんの肉じゃ?これは」
「これは鹿肉です。鹿、増えすぎて困ってるんで、駆除のついでと言うか。沢山あるのでこうやって干しておきます。本当は生で入れるのがいいんですけど」
 害獣駆除はテッドが参加できた数少ない仕事である。子供なので金銭は御駄賃程度しかもらえず、ほぼ現物支給ではあるけれど、何もしないわけにはいかないので助かった。
 シエラはふっと微笑んで、
「そうか。おんしも苦労をしておるんじゃのう。鹿はさぞかし食い飽きたであろうな。なるほど、干した肉を出汁にして、芋を炊くと確かに旨い。暮らしの知恵というやつじゃ」
 テッドはなぜか、ふと泣きそうになった。全くその通りだ。干し肉とじゃがいもばかりの毎日。どちらも労働の対価として手に入る。金がなく、無駄なことには一切使えない。市場で思い切ってハーブを買ったのは、シエラに会えると思ったからだ。
 町では彼は常に貧乏だった。十歳の容姿で得られる仕事など殆どない。世の中もけして裕福ではなく、世間には彼よりももっと幼い孤児が何人もいて、行政はそちらの支援で手一杯だった。
 十になれば子供は仕事に就くことが許可される。ただし、それは同じ労働者である親がいることが前提で、身寄りのない子供は見て見ぬふりをされた。テッドもまさしくその一人で、地べたを這って生きるか、野垂れ死ぬかの瀬戸際にいたのだ。
「せめて、あと五つくらい、成長できてたらよかったんですけどね」
 漏れてしまったその言葉はテッドの本心であり、悲鳴であった。
 シエラは黙りこくって、芋を咀嚼していた。
 少しして、「テッド」とシエラは言った。「おんしを見つけたのは、偶然じゃ。たまたま立ち寄った町に、たまたまおんしの姿を見かけた。すぐには声をかけず、何日か見守っておったがの」
「ふうん。どれくらいのあいだですか」
「……ひと月ほどかのう」
 そうか、とテッドは納得した。つまり、土壇場でもがいているみっともない姿をシエラに見られていたということだ。
「そうですか。恥ずかしいところを見せてしまって、申し訳ないです」
「まあ、そう縮こまるな」
 テッドは寂しく笑って、
「じゃあ、こいつ……ソウルイーターがシエラさんを呼んだということではないんですね。俺は、てっきりそうなんじゃないかと思って」
 シエラはかぶりを振った。
「いや、そうとも言い切れぬな」
「えっ」
「真の紋章が仲間の居場所を察知する。それはあり得るとわらわは思う。おんしを見つけたのも、妙な胸騒ぎがしてあの町から離れるのを先延ばしにしたからじゃ」
「でも、シエラさんは月の紋章をいま、持っていないのに?」
「そう、思うであろう。しかし、それこそが素人の思い込みと言うものよ。所有しているかいないか、そんなことは真の紋章にとってさほど重要なことではない。紋章と人との縁をいかに濃厚に築くかじゃ。ネクロードのやつはそのことを全く理解しておらん。だからあやつが月の紋章の宿主になる日はこない。永遠にの」
 テッドは思わず右手をきつく握りしめた。紋章との縁など、彼は考えたことがない。頭にあるのは、どうやってそれを悪意のある者の手に渡らないようにするか、それだけだ。
 自分は本当にソウルイーターの宿主なのだろうか。ネクロードのように、ただ単にそれを所持し、逃げ回っているだけではなかろうか。
 仮の器に過ぎないから、他の真の紋章が近づいても、シエラのようには感づくことができない。真の紋章との縁を築くなんて、途方もない話だ。
「俺は、たぶん、真の紋章が近くにいても、シエラさんのようにはなれない。今まで一度も、そんな胸騒ぎを感じたことはない。こいつは俺に、なにも語ってくれない。ただ搾取するだけだ。俺に無意味な命を与えて。道具みたいに。それでも、俺はがんばった。でもだめだった。これ以上、どうしたらいい?」
「落ち着け、テッド」
シエラは穏やかに言った。「まだ、ほんの四、五十年ではないか。急ぎすぎじゃ。おんしはようやっておる。ソウルイーターが宿を移さんのが、なによりの証拠じゃ」
「でも!」とテッドは叫んだ。「魔女があなたのように、真の紋章を持っていたら?  そうしたら、俺はどこに逃げても無駄だ。きっと見つかって捕まる。今だって、急ぐ必要がないだけで、泳がせておこうという魂胆かもしれない。畜生、この世界のどこにも、逃げる場所なんてないじゃないか。俺は、夜も不安で眠れなくて、もう気が狂いそうだ。限界なんだ。はじめから、無理だったんだ。俺なんかができるわけなかったんだ」
 呼吸が乱れて、最後の方はほとんど叫びだった。シエラはテッドの震える肩をやさしく抱きすくめた。
「何を言うか。おんしは立派なソウルイーターのあるじではないか。人の生と死を司る、大事な役目を任命された、紋章に認められた稀有な存在じゃ。よく聞け。わらわはクズには手を貸さん。おんしが本物であるから、こうして側におるのじゃ」
「だけど、俺は、怖い。怖いんだ。ソウルイーターも、あいつも。魔女が来る。あいつが。じいちゃんみたいに、俺を殺しに来る」
「来ぬ。少なくともここには来ぬ。わらわが守る。明日はどうか知らぬ。じゃが、今宵は必ず守る。おんしの飯は旨い。なんだ、泣いているのか? 泣くな。いや、泣いてよい。つらかったのじゃろう。泣いて流すがよいわ。おんしは泣き虫じゃからの。いや、わらわはけして馬鹿にせぬぞ。泣けぬわらわよりも、おんしのほうがずっとましじゃ。おんしの気持ちがわかるわけではないが、話をしたいならわらわに言え。わらわはちゃんと受け止めてやる」
 もう子供ではないから甘えるまいと誓ったはずなのに、感情が決壊してもはや打つ手がなかった。テッドはシエラの前で声を上げて泣いた。
 泣きながら、妙に冷静に、己の歳を数えた。二十。二十五。三十。三十五。四十。そして。
 十の身体に、五十近い年輪。隔たりは大きくなる一方。潤滑油を注さなければ、歯車が軋みもするわけだ。けれど、シエラはそれよりも遥かに長い年月を生きた。
「泣けぬわらわより……のう、テッド。わらわは涙は流さぬが、あんがい泣き虫なのじゃ。恥ずかしいからおんしにはバレぬようにしておった」
 彼女の言葉はすべてが重く、何もかもが切ない。その涙はきっとあたたかいだろうとテッドは思った。

六 分岐


 あの日からテッドはシエラに会っていない。広い世界での偶然はそうそう起こらない。それは敵である魔女とて同じこと。
 他の真の紋章に接近する感覚も、未だに実感できていない。そもそも真の紋章は世界に二十七しかなく、そのいくつかは国家によって厳重に管理されている。路傍でばったり遭遇するほうがよっぽど奇跡的である。
 誰かと別れるとき、もう二度と会えないだろうとテッドは思う。それは道と同じである。彼の足跡は常に一筆書きで、稀に交差することはあっても、同じ道はけして歩まない。世界中の道をすべてなぞり尽くした時、それは遠い未来のことに違いないけれど、はじめてそこから二周めの旅が始まり、彼は懐かしい人々と再会するのかもしれない。
 道は往々にして、途切れたりもする。つまずくのもまた人生だ。テッドの身体は小さく貧弱で、転んだら立ち上がるのに結構な時間がかかる。靴の底はいつもすり減っており、新品に交換する金もない。だけど彼は前に進む。
 道がなければ作ればいい。人の歩いた跡が道になる。
「どっちに行こうかな」
 分岐でテッドは足を止めた。なんとなくの地図は頭の中。通りすがる人もおらず、民家や畑は見渡す限りなさそう。
 傍の草むらに腰を下ろした。高いところで鳶がピールルルと鳴いて旋回する。
 鞄から小袋を出し、炒り豆をつまんでかじる。それから水筒の水を飲む。
 道標を眺め、少しして
「決めた」
 彼は鞄と矢筒を背負い、立ち上がった。

掌編 約束


「死ぬでないぞ、テッド」とシエラは言った。「わらわはもう二度と、同胞を生みだす愚は犯さん。おんしが死にかけても、わらわは見送ることしかせぬ。わらわの手でおんしを葬る思いだけはしたくないのじゃ」
「わかっていますよ。そのかわり……」
「なんじゃ?」
「もしもの話なんですけれど、もしもまたシエラさんがこの紋章――ソウルイーターの気配を見つけて、でも宿しているのが俺じゃなかったとして、その人が苦しんでいるようだったら、助けてあげてください。いつか俺のことを助けたみたいに」
 シエラは顔を曇らせて、「寂しいことを申すでない」と言い、かぶりを振った。
「約束しよう」


2023-12-22 初出