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蒼きさやかな時の谷【後編】

『テッド。ぼくは、テッドのことをずっと待っているよ。
 ぼく、必ず生まれてくるから。テッドに会うために生まれてくるから。
 だからテッドも約束して。生きるって約束して。ぼくは、テッドが、がんばるって……きっとがんばるって、信じてるよ。テッドもぼくを信じて。ぼくのことをさがして。テッド、きっとわかるはずだよ。ぼくもテッドに気づくはずだよ。
 そしてテッド、ぼくたちきっと、親友になろう』
 テッドは、ついに辿りついたのだ。
 あまりにも長い時が流れていた。三百年。人を殺めた。魂を奪い取った。絶望した。すべてを裏切った。運命から逃げた。死のうと、思った。死ねなかった。しあわせになってほしかった人が犠牲になった。惨めに生きた。人の命を糧に、それでも生きた。
 テッドは器用に生きることができるようになった自分が大嫌いになった。
 ほかの誰にもましてソウルイーターこそが、いちばん自分を正しく理解しているような気になった。
 この世でもっとも呪われた紋章は、テッドの相棒であり親友であった。
 呪いの意味も、悪しき存在の理由も、テッドはすべて知っていた。
 過去の記憶に遺された麦の畑に眠る人々も、それを知ったからこそソウルイーターを守る民であろうとしたのだと思う。
 紋章は宿主に生と死の意味を教えるために彼のもっとも近しい者の魂を奪う。
 戦乱の地に宿主を誘い、そこで多くの血を吸う。そうやってもぎ取った力を宿主に与え、真実の語り部としてこの大地を放浪させる。宿主の科せられた旅は人としての時を容易に越える。
 身体は年老いることはない。精神が病む。
 心がからからに渇いても赦される日は来ない。
 ルーファスも、通過点にたまたま居合わせたちっぽけなひとりのはずだった。
 それなのに必要以上に関わって、結果として地獄へ突き落としてしまう羽目になった。
 友だちごっこならもっと上手にやれたはずだ。適当に楽しむことも、器用に別れることも、自分の心をごまかすことも自信があった。ほんとうに、迂闊だった。
 ウィンディに身体を支配されながら、テッドの意識は後悔の叫びをあげ続けた。ルーファス、たのむから逃げてくれ。こんなバカなおれから逃げてくれ。なんの罪もないおまえから大切なものをたくさん奪ったのはおれだ。
 憎んでくれ。罵ってくれ。
 テッドはソウルイーターの力を少しだけ借りてルーファスに懇願するつもりだった。
『おれを憎め。おれを殺せ』と。
 ルーファスがあまりにも過酷な運命を背負うことはもはやとめられない。せめてそうさせたテッドをその呪われた右手に喰らわせることができれば、親友という鎖を断ち切ることができれば、ルーファスは呪いを享受しながらも自由に生きることができる。
 それなのにルーファスはイヤだと首を振った。
 ルーファスには理由があった。
 テッドも知らなかった、ふたりの遠い過去の絆。
『親友になろう、テッド』
『やくそくだよ、おにいちゃん』
 約束を叶えるためにふたたび巡り逢ったテッドとルーファス。ソウルイーターが囁く。
 なにを惑うことがあろう。おまえたちはひとつの魂なのに。
 光の粒がまたきらきらと躍って消えた。大地では幾千億もの煌がいまこのときも生まれいであるいは死んでいく。命は永遠に繰り返され時は静かに紡がれる。
 宿主たちは生と死を司る大いなる意志を守護する時の旅人。
 ソウルイーターがルーファスを次の継承者に選んだことにも、理由はあったのだ。はじめから三百年という期限を決めて、テッドの魂を受け継がせるため。
「……ルーファス」
「テッド」
「おれも、言いたかった。ありがとう、って」
「うん」
 ルーファスはテッドにぴったりと寄り添ったまま、うなずいた。鼓動が伝わってくる。
「もう少し、時間があったら……たくさんたくさん、話したいことが、あった」
「ぼくもだよ、テッド」
「でも、時間切れ……かな」
「……」
 ルーファスも気づいていた。ソウルイーターが元の空間にふたりを帰すタイミングをはかっている。心臓の鼓動とソウルイーターの鼓動が重なる。交互に、あるいは同調して脈打つ。
 このままずっと寄り添っていられたら、どんなによかったか。
 時の隔たりも確執もすべて埋め合わせて、ふたりでまた笑いながら歩いていけたらどんなにしあわせだったか。
 その小さな望みが叶わぬことをテッドもルーファスも知っていた。
 闇がふるふると薄らぐ。
「ルーファス、一生のお願いだ……」
「……」
 聞きたくなかった。テッドの言いたいことは想像がついてしまったから。
「おれが、これからすることを……ゆるして、ほしい……んだ」
 ルーファスはぎゅっと目を瞑って、無駄だと知りながら抵抗した。
「ゆるさ、ない……」
「これがほんとうの、最期のお願い、だから……」
 ルーファスから嗚咽が漏れた。ああ、そういえばいつでもそうだった。テッドの得意な一生のお願い。またか、と呆れてもルーファスは結局、お願いを聞いてしまうのだ。テッドの笑顔にはかなわない。陥落するのはいつもルーファスのほうだった。
 ルーファスは聞こえないくらいの声で小さく「わかったよ、テッド」と言った。
 テッドはほっとしたように、「ごめんな……」と謝った。「ルーファス、ほんのちょっとだけ、手を貸して、くれよな。最初だけで、いいんだ……それから先は、ソウルイーターの、意志、にゆだねれば……いい……から」
 テッドの呼吸が荒くなった。苦しげに顔を歪めると、ルーファスのことを突き飛ばした。
「テッド!」
 ルーファスは愕然とした。あまりにも突然にもとの空間に置き換わっていたのだ。
 急に現実味を帯びた掌の血がルーファスの意識を攪乱させた。短剣がテッドとルーファスのあいだにからりと落ちた。テッドはよろめき、座りこむように膝をついた。
「ルーファス!」
 フリックたちの叫び声をルーファスはどこか遠いところで聞いていた。ウィンディの怒号も聞こえる。恐怖に見開かれた目はテッドから反らすことができなかった。
 ルーファスは声にならない悲鳴をあげた。ソウルイーターがつなぎとめていたのは、ふたりが会話するわずかな時間だけではなかったのだ。テッドの残された短い命もまた、その懐で先延ばしにしていたのだ。
 テッドの蒼灰色の衣服はすでに血で黒く変色していた。喘ぐように呼吸をするたびに新たな鮮血が吹きあがる。
「テッド! ちっ、なんてバカな子なの!」
 ウィンディが悪態をついた。まさかブラックルーンの支配を一時的とはいえ逃れるとは。テッドの無謀さに歯噛みをしたが、こうなった以上策を変えるしかなかった。
 瀕死の状態になってまでブラックルーンに抗えはすまい。ルーファスがパニックを起こしてテッドに近寄ったら、そのときが最期だ。ふたりまとめて地獄へ送ってあげる。
 ウィンディはローブの胸元から水晶球を取りだした。テッドを操っている力を制御する役目をもっている。
「テッド、坊やの喉を掻き切るのよ。ソウルイーターをわたしのもとに……」
 テッドの身体が痙攣し、白い喉が震えた。苦悶の表情を浮かべた蒼白な顔はキッと支配者を睨み、歯を折れそうなほど噛みしめながら言葉を紡ぎはじめた。
「……ウィン、ディ、おまえなんか、に、ソウル……イーター、は、渡せない……。お、ま、えが……復讐、のため、に、悪魔に魂、売った……よう、に、おれも、ソウルイーターが悪魔、でも、いい、ともに、生き……る……」
 そしてあらん限りの力を振り絞って、叫んだ。
「ソウルイーター! もっとも邪悪なる、紋章よ! おまえの、意志は……宿主の、意志だ……。おれは、おまえとともに、あり……これから、も……おまえの主人の魂と、ともに、あり……つづける。かつての、主人、として……最期の、命令……だ。ソウル、イーター……おれの……魂を……」
「テッド!」
 ルーファスはテッドに駆け寄り、血の海から抱き起こした。テッドは焦点のあわなくなった虚ろな瞳をルーファスに向けた。弱々しくほほえむ。
「ルー……手を、貸し……て」
 ルーファスの目からぼろぼろと涙が落ちた。
「できない……ぼくには、できないよ、テッド……」
 テッドはしょうがないなあというように笑ってみせた。「ルーファ、ス、おれ、じぶんの自由になら、ない、命……なら、そんなもの……いら、ない、んだ」
「いらないんて、言わないで、テッド、いらない命なんて、ないのに」
「泣き虫……だなあ、お、にい、ちゃん」
 テッド。
 ルーファスは息を止めた。小さかったテッド。いかないでと泣きわめいていたテッド。ぼくの知らない三百年間を必死で生きてきたテッド。
 テッドは咳き込むと、口から血を吐いた。ルーファスが手を下さなくとも、儚い命はソウルイーターが奪っていくであろう。だがテッドは最期のお願いに、その役目をルーファスに託したのだ。
 なぜなら。
 ぼくとテッドは、ひとつの魂なのだから。
 テッドの死は、ぼくの誕生。
 意を決したルーファスは、よっぽど怖い顔をしていたのだろう。この期に及んでテッドは親友をからかった。
「まーた、そんな、顔、しやがっ……て……。バーカ」
「バカバカ言うなって、いっつも言ってるだろ」
 ルーファスは涙でぐしゃぐしゃになった顔で笑い返した。その右手が、足元に落ちていた短剣を握る。
「あぶなっかしくて、おちおち、眠って、も、いられねー、や」
「あたりまえだよ。ぼく、これからもテッドとい、一緒に、旅……するつもりなんだから」
「へっ、人使い、荒い……ぜ」
「親友だろ?」
「……そっ、か……そうだった、な……」
 ルーファスは両の腕をテッドの背に回し、そっと抱きかかえた。短剣を首筋にぴたりとあてがう。
 フリックたちは固唾を呑んでその光景を見守った。
 ミリアも泣いていた。ルーファスのやろうとしていることが、わかったのだ。相手の少年がルーファスのもっとも大切な親友であろうことは、想像がついた。
 解放軍のリーダーとして、けして表には出せなかったルーファスの苦悩。
 いま彼はそれに決着をつけようとしているのだ。
「親友……だもん……」
「バーカ……そんな、顔、するな」
「うっ、うっ、うっ」
「泣くな」
「テッド……」
 テッドは目を閉じて、ルーファスしか聞きとれぬほどかすかな声で言った。
「おれの、選んだ、こと、だから……おまえが、悔やむ、こと、ない……ん」
「テッド」
 呼吸が弱くなった。テッドは最期に呟いた。
「ほんとうに、これで……お別れ、だな……。ル、ファ、ス、げんき、で……おれ、の、ぶんも……生き……ろ……」
 ルーファスはしっかりとテッドの身体を支えて、短剣を一気に引いた。
 静寂がクリスタロスの祭壇を支配した。忙しなくざわめきあっていた水晶の共鳴がぴたりと止んだ。
 テッドの身体はルーファスに崩れ落ちた。
 ルーファスはその重さを支えきれず、テッドを抱えたままがくりと膝を折った。
 少年たちはしばらくのあいだ動かなかった。どれほどの時間が経過したであろう。いつのまにかウィンディの姿は見えず、フリックは足が自由であることを知った。
 はるか遠くで竜の哀しげに啼く声がした。
 ルーファスはやがてゆっくりと顔をあげた。そして谷を蒼く照らす月に向かって、声もなく慟哭した。


すみませんでした……。
夢からさめたらシリーズのエピローグっぽい話をちょっとだけ書きます。

2005-11-16