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蒼きさやかな時の谷【中編】

 満月の夜だった。
 谷を耿々と照らす月は、時をも凍りつかせるかのような冷たい色をしていた。この地がクリスタロスの祭壇と呼ばれるわけを、ルーファスは理解した。水晶は祈りを織りこむステンドグラス。生命や物質やエネルギーといった世のありとあらゆる廃棄物を浄化し、凍りつかせ、再生する地なのだと。だから巡礼者はいつしかここへ導かれるのだ。
 蒼灰色の衣が揺れた。
 月光に祝福されし少年は、復活を赦された殉教者の瞳でほほえんだ。
 その姿があまりに荘厳すぎて、ルーファスの感情は一瞬にして封じ込められた。
 言葉が出ない。身体が動かない。
 喉が破けんばかりに叫び続けた親友の名が、禁じられたかのように押し戻される。
 棍が手を離れてカラリと力なく落ちた。
 魔法がとけたのか、ルーファスはようやく呟いた。「テッド……」
 テッドはゆっくりと、だがしっかり通る声で言った。
「ひさしぶりだな、ルーファス」
 まるで疎遠になっていた知人が挨拶でもするように。心配事などなにもなかったとでも言うように。
 別れたときに負っていた深手も、無かったことのように。
 これは、現実のテッドなのだろうか?
 夢を見ているのではないだろうか。
 ルーファスはぼんやりと疑った。
 しかしそれが夢ではない証拠に、ウィンディがやけに気障りな嬌声をあげてルーファスを正気に引き戻しても、テッドの姿は消えなかった。
「何ヶ月ぶりになるのかしら? 感動の再会なのにお邪魔しちゃ悪いわね。そうね、ここから先はテッド、あなたの役目よ。わたしはゆっくり見物させてもらうことにするわ」
 いやな感じだ、とルーファスは思った。背後でフリックの声がした。
「ルーファス、油断するな」
「ああ」
 そう返答したが、ウィンディに気をとられてテッドから一瞬目を反らした。直後、ルーファスはぎょっとした。
 テッドが弓に矢を番えていた。
 その矢先はまっすぐにルーファスを捉えていた。
 底知れぬ冷たい瞳も、また。
「テッ、ド」
 ようやく絞り出したくぐもった声を、テッドはいっそやさしすぎるほどに受けとめた。
「どうしたの、ルーファス」
 どうしたもこうしたもあるか。
 叫ぶひまもなく矢が放たれた。
 ミリアやフリックは息を呑んだ。
 矢はルーファスの頭のあった位置を突き抜け、バシッと音を立てて水晶の塊に跳ね返された。避ける間をわざと与えたようであった。テッドが本気で射れば、けして逃すことはしまい。
 テッドは次の矢を番えようとはせず、あれほど大切にしていた弓を無造作に放り投げた。
「へえ……やるじゃない」
 ルーファスの喉がカラカラに渇いた。
「テッド……ぼくだよ」
「ん?」
「わからないの……ルーファスだよ」
 テッドは昔よくそうしていたように、子供っぽくきょとんとするとクスクスと笑いだした。
「あたりまえじゃないか。なに言ってんだ、おまえ」
「どうしちゃったんだよ、テッド」
「だから、なにが」
 危険信号が激しく明滅した。紛れもなくテッドは、ルーファスの知っているテッドだ。からかうようなしぐさ、やんちゃな瞳、大人びた話し方。すべて記憶のなかのテッドと同じだ。だからこそ、起きている事態は異常に過ぎた。
 テッドはルーファスの混乱を見抜いたかのように嘲笑した。
「相変わらず甘いヤツだな、ルーファス。気づけよ。おれはおまえを恨んでるんだぜ」
「……えっ」
 心臓がドクンと高鳴った。
「所詮は苦労知らずのお坊ちゃんなんだよな……。おれがいつ、解放軍なんてのに足をつっこめと言った? そうやって引きずられて生きていくようなやつに、大切なものを預けたおれが間違いだったってことだよ」
 ”引きずられて生きていくようなやつ”
 テッドの口からそれを指摘されたことに、ルーファスの胸がズキンと痛んだ。
「おれの、三百年間の憎しみや、つらさなんて……おまえに理解できるはずもないよな……。もちろん、そいつをこれからずっと守っていく覚悟もないんだろ。おまえに期待するのもうやめた。やっぱり、解放してやるよ」
 言い返せなかった。ほかの誰がそう言ってもルーファスは信念と意地で唇を噛みしめたろうが、テッドに言われたらお終いだった。
 急激に悲しみがおしよせた。
 必死に信じつづけてきたものががらがらと音を立てて崩れた。
 テッドの姿が悔し涙に煙った。
 テッドはスッと右手をルーファスに差しだした。
「ま、許してやるか。おれたち、”親友”だったしな」
 過去形で言いながら、ルーファスをうながした。
「返してくれよ……”ソウルイーター”を」
 操られるようにルーファスは紋章の宿る右手を見た。テッドの言うとおりかもしれなかった。無我夢中でテッドから受け取った紋章であったが、それがまずオデッサの魂を奪い、グレミオや父の命をも喰らいつくし、その恐るべき呪いに気づいてしまったいまとなっては、半永久的に囚われるであろう恐怖に耐えていける自信などまったくなかった。
 これから百年、二百年、三百年─────
 小さなテッドに、”がんばれ”だなんて、言えた義理ではなかった。
 たったひとりで取り残されることの、凄まじい恐怖を理解などしてはいなかった。自分はなんて過酷な約束をあの子としてしまったのだろう。悔やんでも悔やみきれなかった。
 ぼくは、テッドに憎まれて当然なんだ。
 テッドが望むなら、ソウルイーターを返そう。
 テッドのためにそれが最良なら。つらい約束を蒸し返すことは、せずにおこう。
「テッド……ごめん……」
 近くに寄ろうとした、その時だった。
「ルーファス!」
 フリックが叫んだ。「騙されるな! そいつの、手……!」
 ルーファスはハッとして、次の瞬間それに気づいた。革手袋に覆われていないテッドの素肌に、赤く深く焼きついた支配の紋章に。
「花将軍が操られていたやつと同じだ! ルーファス、ブラックルーンだ!」
 ─────ウィンディ!
 ルーファスはこみあげてくる強烈な怒りにわなないた。
「おや、まあ。もう少しというところだったのにねえ」
 ウィンディはほうとため息をついて、テッドに命令した。
「エレガントな方法で終わらせようとしたのだけど、しかたがないわね。いいわ。テッド、力ずくでもソウルイーターを奪ってしまいなさい」
「……はい」
 テッドは無表情に返答すると、腰に差した短剣を右手に持った。
「どうした? 武器を拾えよ」
 間合いを詰めながらテッドは傲慢に笑んだ。棍はルーファスのすぐ足元に転がっている。いままでもカイの監督で打ち合いををしたことはあったが、テッドと真剣勝負をするのはもちろんはじめてだ。
 視線を外すことなく棍を拾いあげる。テッドはじりっ、じりっとにじり寄った。到達距離の長い棍のほうが有利であることは目に見えていたが、テッドには我が身を案ずるという感情は許されていないように思えた。
 ルーファスはなるべく無益な攻撃をせずにすむよう、守備に徹することにした。
「どうした。かかってこないのか」
「ぼくは、テッドと戦いたくない」
 テッドは蔑んだように鼻で笑った。
「遅ぇんだよ。来ないならこっちから行くぞ。油断するなよ。おまえが死んでもおれはぜんぜんかまわないんだからな……っと!」
 短剣が閃いた。切っ先が右から左から、ルーファスを襲う。力や速さなら、ルーファスのほうが優る。だが殺意という圧倒的な優位をテッドは抱いていた。
 ルーファスは棍を操って、テッドの攻撃を必死に耐えた。ルーファスには一縷の望みがあった。テッドの豹変の原因がブラックルーンなら、クワンダやミルイヒのように解放してやることができるかもしれない。所詮は紋章による一時的な支配にすぎないのだ。テッドの心までが変わったわけではない。
「テッド、目を覚まして! テッド!」
「なに言ってやがる! そらそらそらそら─────ッ!」
 汗が目に沁みた。涙なのかもしれなかった。刃先があちこちをかすった。衣服が裂け、血が滲んだ。痛みは不思議と感じなかった。ズキズキと痛む心に比べたら、そんなものはほんのかすり傷だった。
「ルーファス! 手加減するな!」
 ミリアが必死の形相で叫んだ。他人行儀な敬称はとっくに抜け落ちている。ミリアは何度もルーファスの名を絶叫した。
 一方的な攻撃が延々と続くかに思われた。ウィンディは苛々として腰を下ろしていた岩を踏みならした。いまいましそうに声を荒げる。
「テッド、なにを遊んでるんだい? さっさと終わらせてしまうのよ」
 一瞬の隙をついてテッドの短剣が棍を叩き落とした。
「あっ!」
 じんじんとひびく腕の痛みに顔をしかめたルーファスに、テッドはぴたりと刃を当てた。
「はい、これでお終い」
 血流でルーファスの鼓膜がガンガンと鳴った。二の腕をしっかりと絡め取られ、身動きを封じられた。逃げようともがいたら、おそらく切り裂かれる。
「ルーファス……」とテッドは耳元で囁いた。「ソウルイーターを、渡してくれるよな」
 ルーファスはごくりと唾を呑み、ゆっくりと言った。
「い、や、だ……」
「フーン……」
 テッドはがっかりしたように口をへの字に曲げた。そして至極のんびりと、おぞましい台詞を吐いた。
「じゃあ、死ねよ」
「……!」
 テッドは短剣を持つ手に力を込めた。ダメージを与えるためにほんのわずか、勢いを加える。ルーファスも、見守るミリアたちも反射的に目を瞑った。
 だが。
 短剣が振りおろされたのは、ルーファスの身体ではなかった。
 たしかに肉を引き裂く音がした。血の飛び散る感触もあった。しかし、それは。
「……テッド?」
「………ぅ……」
「テッド? テッド! テッドぉ!」
 ルーファスは信じられぬ光景を見て絶叫した。腕を絡めたまま、テッドの身体がぐらりと傾ぐ。ルーファスはその体重をとっさに支えた。真っ赤な血がぼたぼたと足元に落ちた。
 テッドは自らの肩峰に短剣を突き立てていた。狙いを誤ったわけではない。必死の思いで、ルーファスを守ったのだった。
 テッドの唇が動いた。
「いま、だ……ソウル、イー……ター……」
 ルーファスの右手がカッと熱くなった。咆哮するというたとえがぴったりの感触だった。ずっと疼いていたその邪悪なる意志はついに目を覚まし、欠伸をしながら身をよじった。
「う、うわぁ!」
 あまりにも強烈に襲ってきた痛みにルーファスは叫び、テッドの身体をぎゅっと抱きしめた。きつく目を閉じる。
「ルーファス……だいじょうぶだよ、ルーファス」
 テッドが穏やかな声で囁いた。
「目を……あけてごらん、ルーファス」
 テッドの手がそっとルーファスの背にかけられた。子供をぽんぽんと叩くように、やさしくルーファスを誘う。
「テッド?」
 ルーファスはゆるゆると目を開けた。テッドの視線が飛び込んできた。そのあたたかな瞳を見た瞬間、ルーファスはほんとうの再会を直感した。
「テッドだね……テッドなんでしょ?」
「……うん」
 ルーファスの鼻がツンとした。身体のぬくもりを確かめて安堵すると、ルーファスは言った。
「おかえり」
 テッドもはにかんだように答えた。 「……ただいま」
「おかえり、テッド」
「ルーファス……」
 ルーファスはテッドの傷口に頬をあてた。
「痛い?」
「急所そらしたから、へーき」
「でも、血がいっぱい出てる……」
「ほんの、ちょっとだけ……スキが欲しかったから……びっくりさせて、ごめんな」
「スキ?」
 テッドはほほえんだ。「見てごらん、ルーファス」
 その声でルーファスはあたりの変化に気がついた。水晶の蒼い光はどこにもなかった。あれほど存在を主張していた月の光も消え失せていた。
 上下左右の感覚が、ふっと喪失した。それは真の闇に近い空間であったが、怖さはまったく感じなかった。むしろ逆である。懐かしいような、まるで生まれるはるか以前にそこに居たようなやすらぎがあった。
 ときおり、キラキラと光の粒が浮かんでは消えた。
「……きれい」
 ルーファスが思わず呟いた言葉に、テッドは肯いた。
「あれは、生命の誕生」
 光の粒は気まぐれのようで、飛び散ったり、跳ね回ったりもした。
「それから、死。循環。そして再生」
「ここは……どこ」
「ソウルイーターが司る”世界”のなかだよ」
 ルーファスは呆然としてその不思議な世界に見とれた。
 テッドも光の遊戯をじっと見ていたが、傷の痛みを思い出したのか、小さく呻いた。
「テッド、無理しないで」
「ルーファス、ごめんな。どうやらあんまり時間……ない、みたいだ」
 テッドの支配は完全に解かれているように思えたが、ルーファスには不安が募った。ふと右手を見ると、ブラックルーンの焼け跡はまだ生々しく残っている。
「ねえテッド、これははずすことができるんだよ。だって将軍たちはみんな」
「支配の紋章のかけらに操られていたんだろ」
「……かけら?」
「こいつは、支配の紋章そのものだ。抗える力じゃない……。ウィンディのやつ、おれに復讐するために惜しげもなく使いやがった。この紋章ははじめは身体を支配するだけだけど、そのうち宿主の心も蝕んでいく……らしい。それはそんなに遠い未来のことじゃない、と思う」
「じゃあ……じゃあ、テッドは」
「大ピンチ……かな」
 テッドはあっけらかんと言った。この期に及んで心配させるまいと気遣っているのだろう。切ないほどテッドらしかった。
「ホントはさ……こうしているうちにも、意識ブッとびそーなんだ。ソウルイーターも気が短いやつだからさ。いつまでも囲ってくれるわけ、ないし。つながりを持ってたからって、大目にみてくれるのはほんのちょっとだろ……」
「テッド……」
「支配の及ばないうちに、言っとかなきゃならないことがある。時間がないから」
 ルーファスはごくんと唾を呑んだ。
「ソウルイーターのことだ。おれ、大事なことはなにひとつおまえに言わないで、強引にそいつを押しつけた。だから、おまえは、テオ様やグレミオさんを、喪って……しまったんだぜ」
「気づいてたよ。でもそれはテッドのせいじゃない」
 ルーファスはきっぱりと言った。「ぼくが選んだからなんだ」
「意地張って無理ばっかしてると、おまえ、壊れちまうぞ。どうせなら思いっきりおれを恨んだほうが、すっきりするんじゃないのか」
「テッドを恨むなんて、そっちのほうがよっぽど無理っぽいよ」
「へっ、強情だな、おまえらしいや」
「テッドこそ、なんでそんなに意地っ張りなんだよ」
「ほっとけ。でもさ、おれ……ソウルイーターと生きてきたこと、それほどひどいことでもなかったなって、思ってるんだ」
「ぼくと出逢うことができたし?」
 テッドは目をパチパチした。御株を奪われたという顔をしている。
 ルーファスはぎゅっとテッドに抱きついた。ふわりとあたたかい。支配されていようがいまいが、テッドはいまだけは自由そのものだ。彼を愛して譲らず、三百年をともにすごしたソウルイーターが守ってくれているから。
 いまならまだ間に合う。ルーファスはテッドとふたたび対峙することになる前に、言わなくてはならないことがあった。どうしても伝えたかったことがあった。
「テッド、ぼくはテッドのことをずっとずっと待っていたよ」
 テッドの身体がビクンと硬直した。
 あれは遠い遠い昔。
 記憶の彼方にしまいこんだ果てのない約束。
 いつの日か守ることに疲れ、忘れてしまった遠い日の約束。
 三百年の月日が、急速に凝縮された気がした。
「テッドは約束を守ってくれた。ぼくもテッドに会うために生まれてきたよ。テッドは、ぼくに気づいてくれた。さがしてくれた。みつけてくれた。テッド、ありがとう。ぼく、どうしても言いたかった。ありがとうテッド。ありがとう、テッド……」
 テッドは小さく小さく、震えながらぼくを呼んだ。
 お、にい、ちゃん?
 迎えに来たよ。テッド。
 テッドの瞳はルーファスを見、いっぱいにためた涙はついにこぼれ落ちた。


残りあと2話の予定です。このあととてつもなく脱線転覆の予感がします。

2005-11-16