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おかえり【前編/雨】

 雨が止まない。
 日暮れとともにしんしんと冷え込んできた。トラン地方の秋は短い。この雨が雪に変わる日も、そう遠くはないだろう。グレミオは暖炉に薪をくべた。
 熾がパチパチと静かに爆ぜ、あたたかみがじんわりと居間を包む。きょう一日いろいろなことがありすぎて、ルーファスの胸中は複雑だった。皆もおそらく似た思いを抱えているのだろう。クレオは黙ってお茶を傾けているし、グレミオは意味もなく鍋をかきまわした。パーンは胸糞の悪いことは眠って忘れてしまう主義らしく、うとうとと舟を漕ぎはじめている。
「テッドくん、遅いですね」
 グレミオのその台詞は何度めであろう。話があるからと近衛隊のカナンに引き留められ、城内で別れてからもうだいぶ経っている。しびれを切らしたパーンが「先にメシ食ってようぜ」と主張して譲らなかったので、暴れられてはかなわないと一同は妥協を許したのだ。片づけも終わり、居間に集ってそれぞれくつろぎはじめたが、一時間しても二時間してもテッドは帰ってこなかった。
 ルーファスは胸騒ぎをおぼえた。
 もしかしたらテッドは、もうこの家に帰るつもりはないのではないか。
 いつでもきちんとまとめられた荷物。ルーファスの詰問に狼狽したテッド。
 冷たい雨が降っているのに、テッドは黙って行ってしまったのだろうか。
 数ブロック離れたテッドの家を見に行こうと何度、腰をあげたことか。鍵はいつもかけられていない。あの家でテッドを待とうか。そう考えながらルーファスは恐怖した。もし、家の中がからっぽだったなら。鞄も弓もなかったら。
 ルーファスは目を閉じた。落ち着こう。テッドと約束したのだ。帰ったら必ずほんとうのことを話してくれると。親友なら約束を反故にはしない。
 ぼくは、テッドを信じる。
『ぼくはテッドを信じてるから。だってぼくたち、親友だから。テッドをきらいになったりしないから。だいじょうぶだから』
 何度も、何度も。
 彼に伝えたではないか。それは自分に言い聞かせるためでもあった。
 挫けそうになる自分の弱さを断ち切るために、まっすぐにテッドだけを見たではないか。
 ぼくは待つ。テッドの帰る家はここなのだ。
 テーブルに腕を置き、顎を乗せる。頭も瞼もとても重くて、屋根を打つ雨の音にとけていきそうになる。だが神様は眠りに誘ってくれない。奇妙なほど存在感を主張する鼓動が鬱陶しい。
 そのとき、玄関ホールでがたんという音がした。
「あ、ほらほら、テッドくんが帰ってきたんじゃないですか」
 待ちくたびれたグレミオがいそいそと居間を飛び出していった。気のまわるグレミオのことだから、昼間の一件でテッドのことを案じていたのだろう。
 叫び声がした。
 クレオは茶を荒々しくテーブルに置き、パーンはがばっと飛び起きた。
「クレオさん! パーンさん!」
 尋常ではないグレミオの絶叫に、とんでもないことが起きたのだとルーファスは悟った。二人に続いて玄関ホールへと向かう。
「ああパーンさん、手をかしてください」
「どうしたんだよこれは! テッドくん? テッドくん!」
 しゃがみ込んだパーンの背越しにテッドの姿を認めたルーファスは、声にならない悲鳴をあげた。
 驚愕に目を見開き、やり方を忘れたかのように呼吸を止めた。
 あまりにも恐ろしい光景がそこにあった。
 血の海に横たわる親友。
 玄関を身体で押し開け、力尽きたのであろう。扉に赤の軌跡を残し、倒れた少年の目はすでに閉じられていた。
「テッ……ド………」
 身体ががたがたと震えた。こんなに反応しているのに、どうしたことだ、足が自由にならない。言葉が自由にならない。手も、意識も、思考も。
「これは、ふつうの傷口じゃないよ。おそらくは、魔法の……」
 クレオを遮ってグレミオが叫んだ。「そんなことよりとにかくはやく中に運ぶんですよ! たったいままで意識があったんです。ほら、はやくベッドへ!」
 それから硬直してしまったルーファスを叱責した。
「坊ちゃんもぼっとしてないで、手を貸してください!」
 その声に跳ねて、ルーファスはよろめいた。いまにも膝が崩れそうだった。手を貸してと言われても、身体に力がはいらない。
「いいよ、私がする。坊ちゃんには無理だ。ほらパーン、なるべく傷口に手をかけないように……そうだ。そのままゆっくり運んで」
 ルーファスの動揺を見抜いたクレオがすかさず代役を買って出た。女性だがこういうときは誰よりも強い。
 階下の奥に用意されたテッドのための部屋に運んでいった。
 ルーファスは床にひろがった血溜りに虚ろな目を漂わせた。雨とまじって量を増した赤黒い染み。こんなに出血して、人は生きていられるものなのだろうか。ぼんやりと、そんなことを考えた。
「坊ちゃん!」
 ハッと我に返ると、ルーファスは走った。テッドの家ほどではないにしても、私物のまるで存在しない部屋。滅多に使われることのないベッドにテッドは寝かせられていた。
 唇が血の気を失って白い。出血はまだ続いているらしく、グレミオが大量のタオルで傷口を押さえていた。白い布がみるみるうちに朱に染まっていく。
「帰り道に魔法の襲撃を受けたのでしょうか……?」
「魔法団の強盗なんて、聞いたことがないぜ」
 パーンとクレオの会話は耳には入ってくるが、ルーファスの心には届かなかった。なにかとんでもないことがテッドの身に降りかかったのだという考えを巡らす余裕すらなかった。
 ただひたすらに、ルーファスは祈っていた。
 テッド、死なないで。
 死なないで。
 テッド!
「テッド……」
 ルーファスの声に応えたか、テッドがかすかにうめき声をあげた。
「テッドくん、わかるか? みんなここにいるぞ。わかるな?」
 語りかけるパーンにゆっくり目を向けると、テッドの唇がわずかに動いた。
「……坊ちゃんか? ああ、いるぞ。ほら」
 うながされてルーファスはシーツにかじりついた。テッドの瞳はたしかに開かれ、ルーファスを正面から見つめていた。
 その途端、ルーファスの目から涙がぽろぽろとこぼれた。
 それはとめどなくあふれて落ち、テッドの白い頬を伝った。
「……ルー……?」
「……ウン」
「ここ……は」
「おかえり……」
 ルーファスはテッドの柔らかい髪にそっと触れて、もう一度そのことばを繰り返した。「おかえり、テッド」
 テッドは安堵したのか、薄く微笑んだような気がした。
 そのままルーファスは跪き、テッドの声が伝わりやすいように顔を寄せた。
「近衛隊、は……」
「近衛隊?」
「あいつらは、まだ来ていない……のか」
 その問いにはルーファスではなく、グレミオが答えた。
「今夜は誰も来ていませんよ。近衛隊とは、どういうことです? 城で、なにかあったのですか。ああ、いけませんよ! まだ動かないでください」
 激痛に顔を歪めてテッドは荒く呼吸をした。起きあがろうとした身体を反射的に押さえつけたルーファスは、そのままテッドとともにベッドへ倒れ込んだ。
「落ち着いてよ、たのむから落ち着いてよテッド……! 怖がんなくていいよ! ここは安全だから。だって、テッドのうちなんだから!」
 テッドの手が宙を泳いでルーファスを確かめるように探った。名を呼ぶ。ルーファスはうなずいた。また名を呼ばれた。うなずいた。繰り返し、繰り返し。
「……ルーファス」
「テッド」
「ルーファス……たす……」
「え?」
 唇に耳を近づけた。テッドの熱い呼吸を感じるくらいに。
 ひと音、ひと音、テッドは呟いた。
「た、す、け、て……」
 救けて、と。
 また熱い涙が落ちた。
 テッドの体温を感じながら、ルーファスは少年の身体を死神から守り、その命を繋ぎとめようと覆い被さった。
「わかったよ、テッド」
 ルーファスは凛とした声で言った。「ぼくが守るから。だからテッドは、なにも心配しなくていいから」
 ずっと考えてきたことだった。時折ひどく大人びた表情を見せ、素顔を隠そうとするテッドであったが、その奥底では小さな子供のようになにかに怯え、震えている。ルーファスはそのことに気づいていたのだ。ほんとうの彼をぼくはどれだけ受けとめることができるのだろうか。ずっとそのことだけを考えてきたのだから。
 いまなら。
 ぼくはいまなら全身全霊で、テッドを受けとめる。
 だから一生のお願いだよ。神様、テッドを連れていかないで。
 グレミオが躊躇しながら肩に手を置くのがわかった。ルーファスをそっとテッドから引き離す。
「坊ちゃん、だいじょうぶですよ。テッドくん、よかったら、なにがあったか教えてくれませんか。いやだったらいいんです。無理にとは言いません。ゆっくり休んでから……」
「グレミオ、さん」
 テッドの声が続いた。苦しげではあったが、淀みはなかった。
「おれ……近衛隊の、人……殺して…しまった……」
「ええっ?」
 グレミオだけでなく、パーンもクレオも、そしてルーファスも絶句した。
「逃げるために……しかた、なかった」
「どういうことです? じゃあこの魔法の傷は……」
「じぶんで……やった……」
 神経が痛覚に触れたのか、テッドは短く悲鳴をあげた。ルーファスはグレミオの手を振り切ってふたたびテッドにしがみついた。
「テッド、テッド! しっかりして! 痛いの? ねえ!」
 だがテッドは応えずに浅く息を吐いた。脂汗が額を流れ落ちる。発熱しているのかもしれない。ふたたび目を閉じたその顔は蒼白であった。
「まずいですね。ちょっとこれは思ったより、深刻です」
「逃げるって言ってたよな。どういうことだろう。近衛隊に追われたわけか?」
「どうして、テッドくんが」
 クレオの不満そうな声にパーンは。
「そんな馬鹿な話があるわけないよなあ。たしかにこいつはちょいとばかり大人に対する礼儀というものを知らなすぎるけど、人殺してまで逃げるというのは、尋常じゃない」
「だからなにかの間違いだって」
「ああ、おれもそう思う。だがテッドの言うことがほんとなら、間違いましたじゃすまされないぜ。過剰防衛ということもあるだろう。おれは近衛隊に知らせたほうがいいと思うんだが」
「パーン! 近衛隊より医者が先だよ」
 クレオの非難にもパーンは怯まなかった。「とにかく城に事態を訊くことが先決じゃないか? 誤解をとくのはそれからでも遅くはないし、こいつの弁護ならおれたちが買って出ればいい話だし」
「ひょっとしてテッドくんがなにかしたと思ってるんじゃないだろうね、パーン?」
 クレオの怒りに満ちた言及にパーンは肩をすくめた。「ああ、おれだってそんなことは信じちゃいないさ! こいつが帝国に追われるだなんて誰が信じるか。でもな、テオ様のいないあいだに揉め事を起こしてみろ。テオ様の立場が悪くなる。そんだけはどうしても避けなくちゃいけないんじゃないのか」
「ぐっ……」
 クレオは拳を握りしめた。普段は息の合っているふたりであるが、実直一辺倒のパーンと、何事も広く深くのクレオでは時にはこうして衝突も起こる。
 グレミオが機転をきかせてやんわりと制した。
「怪我人のそばで大声を出すのはどうかと思いますよ。ふたりとも、坊ちゃんのお気持ちも少し考えなさい。とにかくテッドくんの容態が落ち着くまで待ちましょう。行動を決めるのはそれからです」
「……」
 ふたりは沈黙した。グレミオの言うことはもっともである。いちばん動揺しているのは親友であるルーファスなのだ。
 パーンは唇を噛んだ。いたずらに時を待てばよいというものでもない。テッドを信頼しないわけではないが、帝国に仕える人間として義務を果たすのは当然だ。テオがこの場にいたら、パーンの考えを肯定するであろう。この状況ではむしろ、時が話をややこしくする。
 テッドはまた意識を失ったらしかった。浅く不規則な呼吸が不安を煽る。自らを巻き込んで魔法を放ったと言うのだろうか。それにしてはあまりにもダメージが酷すぎるのではないか。
 清風山で見た『あれ』と関係があるのか?
 パーンは思い出して身震いした。あまりにも冷酷で悪意に満ちた無への導き。あれにテッドが関わっているということは認めたくはないが、疑いがまったくないわけでもなかった。
 その刹那、パーンは薄目をあけてたしかに見たのだ。渦巻く闇のなかに浮かびあがったのは、たとえれば『死神』の姿だった。
 それから死神がモンスターに鎌を振り下ろし、テッドに吸い込まれていくのも。
 ヤンチャなクソガキと、死神。
 結びつくわけもない。
 信じてもいない。むしろ信じているのは、クソガキのほうだ。
 だがパーンは葛藤していた。帝国の人間としての正義はどうなる。正義を信じず、なにを信じる。
 そっとベッドに近づき、ルーファスのわきからテッドの首筋に触れた。熱い。このまま放置していても、体力が衰えていくだけでよい方向には向かわないのではないか。
 グレッグミンスター城ならたとえ尋問を受けながらでも、手当てはできる。医者もつねに常駐しているはずだ。
「坊ちゃん……」
 パーンは意を決した。考えに考え抜いた嘘を、悟られぬように口にする。
「テッドくんの熱が下がらないようですので……道具屋をたたき起こして、薬を買ってきます」
 ルーファスは憔悴した顔をパーンに向けた。疑うことなど微塵も考えられないようだ。
 パーンの胸が痛んだ。
 少年の目を避けるように顔を背け、「だいじょうぶですよ」とつけ足す。
 パーンが出て行くと、水をバシャバシャ跳ねあげる足音が玄関から遠ざかっていった。
 雨はますます強さを増したらしく、ゴーという断続的な音が屋敷じゅうを支配していた。
「雨……やみませんね」と、グレミオ。
 クレオも同意する。「いやな雨だな。寒気がする」
 それからルーファスは昏々と眠る親友からひとときも目を離そうとしなかった。少しでも反らしたら最後、彼が遠くへ連れていかれるのではないか、と。


やめると言いつつ舌の根も乾かないうちに、って感じです。自我崩壊への道は着実です。毒を喰らわばシークの谷まで、とか(ヲイ)。

2005-11-11