地方軍政官グレィディのあまりにも高圧的な態度は、ルーファスに官僚の腐敗を厭というのど認識させた。皇帝が施政を顧みなくなったと陰口を叩く者も帝都には大勢いたが、地方行政を官僚に任せすぎて監視の目が行き届かなくなったというほうが正解であろう。だが宮廷に仕えはじめたばかりのルーファスには黙して事実を心に留める以外、糾弾するすべを持たなかった。
荒々しく身柄を引き渡される直前、山賊たちの残した捨て台詞がルーファスの耳から離れなかった。
「赤月のお偉いさんてのはホント無能なんだな。苦しめられているやつらのことなんか、どうせ見て見ぬふりをしていれば済むんだろう。ケッ、なにが永遠の帝国だ。可笑しすぎて反吐がでるぜ」
言い返せなかった。
熱血漢のパーンは真っ赤になって蒸気をシューシューと噴出していたが、グレミオは暴言にもじっと堪えたままなにも語らず、ただそっとルーファスを外へうながした。
胸の思いはそれぞれだが、みな無言でグレィディの絢爛な屋敷をあとにした。ひとりにやにやと嬉しそうなカナンが、やけにテッドにつきまとうようにピョコピョコと歩きながら声高に宣言した。
「よし、このままグレッグミンスターへ戻るぞ。一刻もはやく報告せねばな」
「えっ。でも今日の宿はすでに手配してありますが」
「馬鹿者。怠慢ぶりも報告されたいか? 新米近衛兵の分際で口答えとはいい度胸だ。将軍家の子息だかなんだか知らないが、親の七光りはこの俺様には一切通じないからな。憶えておけ」
「なにもそんなことまで言ってないじゃないの。赤タヌキ」
クレオが絶対に聞こえないようにぼそりと呟いた。
ルーファスはさっきからずっと黙りこくったままのテッドをちらりと見た。その視線に気づくと、テッドはスッと目を反らした。
ルーファスはざわざわするような胸騒ぎを覚えた。いやな予感というものは、大概の場合現実になる。
「二人きりになったら、話したいことがあるんだ」
清風山での、説明のつかない事件のあと、テッドはルーファスにしか聞こえないような声でそっと囁いた。それから先のテッドはずっと押し黙ったままだった。皆の追求を拒むかのように、ひとり表情を凍らせて一行から距離を置いた。
いつもとはあきらかに様子の違う、別人のようなテッドにルーファスは戸惑った。彼のよく知っている親友なら、能無し上司の言うことに真っ先にブチギレして事をややこしくしているだろう。あるいはこっそりカナンの悪口を耳打ちしながら、クスクス笑ってルーファスをひやひやさせたであろう。
原因は、うすうす気づいている。だがあんなことがなくても、テッドはこの数日間、少し様子がおかしかったのだ。
危険なモンスターの出没するサラディへの山道で野宿を余儀なくされたあと、二人はグレミオから山のようなお小言と、パーンの拳骨を一発ずつもらった。
それでも満天の星の下で語らった時間はルーファスにとっての宝物だった。テッドの家で、ひとつしかないベッドで毛布にくるまりながらのおしゃべりも楽しかったけれど、遮るもののない大自然に包まれた二人は、はじめてほんとうの素顔をさらけ出した。
親友。
誰かに対して使ったことのないその言葉は少しだけ照れくさかったが、あたたかさと嬉しさがたっぷりと込められていた。テッドもまた肯いて、親友だ、と言った。
だがその日からテッドは少しずつではあったが、物思いにふけることが目立ってきた。ルーファスが話しかけても上の空で、生返事を返す。
おまけに皇帝の謁見から戻ってきた日の晩だ。テッドはルーファスを部屋に連れ込んで、神妙な顔をしておかしなことを言いだした。
「立派になったよな、ルーファス。もう大丈夫だよな」
ルーファスはドキッとした。
「な、なんだよいきなり。そんな父さんみたいなこと」
テッドは気まずそうに笑って、ルーファスの肩をぽんぽんと叩いた。そして、さもこちらが本題であるかのように重く口を開いた。
「あのな。話したいことがあるんだ」
「なに? テッド」
「………」
テッドは何か言いかけて、やめた。
「どうしたのテッド。話したいことって、なあに」
「あ……いや、いいや。やめとこう。食堂でテオ様が待っているから、はやく行かなくちゃ」
「テッド!」
テッドは、ルーファスの知っている限りではけしてそのような表情を見せることはないのだけれど、とても寂しく笑った。なにかある。なにかをテッドは隠している。
ルーファスはテッドの家にある鞄と弓を思い出した。いつでもそれだけはきちんとベッドの脇にまとめてあり、まるでいつでも旅立っていけるような周到さを匂わせていた。
「テッド、まさか、ここを出て行こうなんて思っちゃいないよね」
今度はテッドが狼狽する番だった。
思ったとおりだ。すぐ顔に出る。
「そうやってテッドはいつでもひとりで抱え込む。ぼくたち、親友じゃないか。どうして相談してくれないのさ? ぼくってそんなに頼りない?」
「誤解だよ、ルーファス。そんなんじゃないんだ」
「じゃあなんなんだよ。なんでもなかったら言えるだろ? なにを考えてるんだよ」
必死の問いにテッドは困惑したように揺すぶられるだけだった。ルーファスは頑なな親友にカチンときた。
「わかったよ。じゃあいまは訊かない。そのかわりあとでちゃんと説明してくれるよね」
テッドは目を伏せて、小さく「ああ」と言った。父のテオが北方へ旅立った後、テッドの態度は相変わらずだったがルーファスは意地で知らないふりを決め込んだ。
ほんの少しの亀裂。
小さなケンカはしょっちゅうやってきたけれど、ルーファスが本気でテッドに腹を立てたのはこれがはじめてだった。
そして物語が大きく動いたのは、ルーファスがテッドも連れてロックランドへ派遣された、その中途の山道であった。
すべてはあの出来事からだ。
よもや山道のどん詰まりにあんなとてつもなく凶悪なモンスターが巣くっているとは誰も予想だにせず、気づいたときには絶体絶命が迫っていた。
力の差は歴然としていた。一行に訪れたのは、死の予告であった。
勝手についてきた副官カナンはがたがたと震え、部下を盾にして後ずさった。
武器もクレオの火魔法もまるで役にたたない。逃げ道は断たれ、パーンはルーファスを守りながらぎりっと歯を噛みしめた。
あのとき、なにが起った?
それは説明のつかないこととしか語りようがない。ルーファスの記憶に残されているものは、テッドがぞっとするほど冷静に、大人びた冷たい目で皆を制したことだ。
流れるようなしぐさでモンスターの前に立ちはだかり、「下がっていろ」と言った。
その視線は、次にルーファスだけにそそがれた。ほんの一瞬ではあったが、その瞳の奥底に、ルーファスはがんじがらめにされた。悲しみ、苦悩、怒り、決意。そのどれもがあてはまるようであり、あるいはそのどれとも違う。だがひとつだけ確かなことがあった。
テッドは、テッドではなかった。
「ルーファス、お願い」
その人はたしかに名を呼んだ。懇願した。「目を閉じて、頼むから。ルーファス……」
それからなにが起ったというのか。
操られるかのごとくぎゅっと瞑った目の奥に異様な黒い光と重力を感じ、冷や汗が一気に噴出した。そして、次の瞬間。
モンスターの気配がかき消えた。
なんの衝撃もなかった。ただ、存在だけが幻のように消えていた。
ルーファスの歯がガチガチと鳴った。微かに漂う、薄ら寒い悪意の残滓。グレミオもパーンも、クレオも蒼白な顔で地面にしゃがみ込んでいた。
「ど、どこへ行ったの……」
やっとのことで絞り出した声はひどくかすれていたが、テッドには届いたらしい。
「冥府」
表情も崩さずにひと言だけ、彼はそう答えたのだ。
そして、テッドは。
「二人きりになったら、話したいことがあるんだ」
小さかった亀裂が、想像もつかなかった勢いでひろがっていった。
二人きりになる機会などあるわけもなく、急かされるようにグレッグミンスターへ戻ると、カナンは休息をとるようにルーファスに命令した。
「でも、クレイズ隊長に報告しないと……」
「私がしておくから案ずるな。慣れぬ任務で疲れたであろう。はやく家へ帰るがよい」
パーンが耳打ちした。「チッ。あのタヌキオヤジ、手柄を独り占めする気満々だぜ」
下手に逆らってまた激高されてはつまらない。ルーファスは素直に従うことにした。
「じゃあ帰って休もうか。カナン副隊長、ありがとうございました」
頭を下げて城を出ようとすると、カナンは呼び止めた。
「おい待て。おまえにはまだ用事がある」
指さされた先にいた少年は不審な顔をしたが、先に吼えたのはグレミオであった。
「ちょっと待ってください。テッドくんも先の戦闘で疲労しています。明日あらためて出頭させますから、今日はもう……」
「ええい、ほんの少し話をするだけだ。終わったらすぐに家に帰す。わたしの命令が聞けないというのかね、ああん?」
テッドは汚いものを見るような眼でカナンを一瞥した。
「おれは別に話すことなんかないけど」
カナンは苛々として声が甲高くなった。
「うるさいわ! 正規の近衛兵でないにしろ市民の義務は負ってもらうぞ。おまえは特に士官候補の小僧の片腕のようだからな、ウィンディ様が特別に謁見承諾をくださったのだ。有り難いと思え」
「有り難すぎて涙が出るよ」
「よし、では」
「イヤだ」
テッドはきっぱりと断った。カナンの額にみるみるうちに青筋が浮かび上がった。唇がブルブルと震え、ヒステリーじみた悪態が口をついて出た。
「こっ、こっ、このクソガキめ。俺様の命令に従えないだと? そっ、そんな勝手な真似ができる身分だと思っているのか? 小僧があとでどんな目に遭ってもしっ、知らないぞ」
眉をひそめながら聞いていたパーンが盛大なため息をついて言った。
「テッド、諦めてちいとつきあってきな。本当にウィンディ様の命令ならマズイことになるぜ。なあに、緊張しなくても大丈夫さ。メシは食わないで待っててやるからな」
「そうですよ、テッドくん。テッドくんの好きなシチューをつくっていますからね」
グレミオにまで促されて、テッドは唇をとがらせた。どうやら渋々ながらも承知する気になったらしい。
ルーファスは、よそよそしい声になりはしないかとびくびくしながら言った。
「テッド、ぼくは先に帰ってるよ。あとできみの部屋に行くから。テッドの家でもかまわないよ。ぼくも、二人きりで話したいことがあるから」
テッドはじっとルーファスを見た。わかったよ、とその瞳が語る。
ルーファスは意を決して、溜め込んできた思いをそっと告げた。
「テッド。テッドにはぼくに言えない秘密があるんだね。ああ、そんな顔をしないでよ。わかってるから……頼むから、そんな悲しそうな顔をしないでよ。ぼくはテッドを信じてるから。だってぼくたち、親友だから。ほんとのこと、言ってほしいんだ。ぼく、テッドをきらいになったりしないから。だいじょうぶだから。言ってくれるよね?」
「……ああ」
「じゃあ、帰って待ってる。テッドの帰るのを待ってる。約束だよ」
「……約束、だ」
「ありがとう、テッド」
ルーファスはテッドから離れた。ぴかぴかの床に突っ立ったまま、テッドは無言でルーファスを見送った。約束、という言葉を頭の中で反芻した。
約束なんて、したことがない。
いや、ずっとずっと昔に一度だけ……したかもしれない。
どんな約束だったか?
『ぼくは、テッドのことをずっとずっと待っているよ』
遠い昔のこと。思い出せるはずもない。
しかし何故か、忘れかけた思い出がルーファスの後ろ姿にかさなった。
奇妙な感覚であった。これも縁というものだろうか。ならば、なおのこと。
用事が済んだらもうマクドールの家には帰るまい。
そのままそっと荷を取りに行って、また気の向くままに旅をしよう。
ルーファス、ごめん。黙っていなくなるけど、許してくれよな。
一生のお願いだから。
この先を書いてしまうと自我が崩壊しそうなので、もうやめます。
2005-11-10
