カクからキーロフへ、トラン湖を横切る定期旅客航路は人々の重要な足だ。北方へ向かう旅人、ジョウストン都市同盟からやってくる交易商人たち、湖のほとりに住まう者。多くの人々がさまざまな理由と大きな荷物をかかえて、船に乗る。カクとキーロフがそれぞれ一艘ずつ管理する船には帝国から助成金が支払われていて、町のよい観光資源にもなっていた。
トラン湖上街道について市庁舎にたずねると、やはりというか、現在は全船舶の運行を中止しているという。カクからほど近い湖城を叛乱軍が占拠したため、船でトラン湖を移動する際には厳しい審査が必要になったとのことだった。
どうしたものかと男は思い悩んだ。経歴を利用して軍に同行させてもらえば、時間はかかるが、キーロフまでは船で行けそうである。しかし、その方法はためらわれた。彼はすでに軍人ではなかったし、軍隊に嫌気も差していたからだ。
なんとか自力で移動できないかとあれこれ調べてはみたが、貯金もそう多いわけではない。考えているうちに、カレッカへ行こうという思いつき自体がなんだかバカバカしくなってきた。
カレッカは彼の書類上の故郷ではあるけれど、ただそこで生まれたというだけの話である。のどかな農村だと聞くが、記憶はまったくない。物心つくころにはすでに家族とともにグレッグミンスターへ移り住んでいた。ただ両親はカレッカに年老いた父母を残していた。虐殺事件が起きたあと、両親は故郷へ帰った。祖父母の墓と畑を守るためである。
彼は三人兄弟の真ん中で、兄はロックランド方面の駐屯隊にいる。弟はまだ幼いので、両親とともに住んでいる。彼も十六になったのを機に近衛隊に志願し、採用されたが、長くは続けられなかった。
向いていなかった、と言い訳することもできる。しかし、勤勉な兄には通用しないだろうし、弟にすら示しがつかない。いったん帝都を離れて仕切り直しをするつもりで、真っ先に思い至ったのがカレッカへのUターンであった。
その町はジョウストン都市同盟への要路にあるにもかかわらず、凄惨な事件の舞台となったことで瑕疵がつき、この五年あまりで人口がもとの十分の一にまで落ち込んだ。田園地帯にあり、以前は農業が盛んであったので、なんとか賑わいを取り戻せないかと破格の待遇で入植を募集してはみたものの、希望者はほとんどなかったという。
市庁舎の担当者は、複雑な表情をにじませて、「斡旋したいのはやまやまなんですが」と弁解した。そりゃそうだろう。赤月帝国と反赤月帝国が一触即発のにらみ合いをしているときに、「カレッカに住んでやるから住居と職を紹介してくれ」などと、働き盛りの若者が願い出るべきことではない。
兵隊募集のチラシを渡されて、まさか最近まで近衛兵だったんですと告白するわけにもいかず、すごすごとステュディオへ引き返した。彼の住まいは労働者向けの独身寮で、不便な場所にあるかわりに家賃が良心的である。しかし、職がないのに貯金を切り崩してまで支払い続けるわけにもいかず、やむなく一ヶ月だけと割り切って契約したのだ。
寝間着に着替えてから、主食が底をついていることに気づいた。そういえば週末の買い出しを、気が乗らなくてさぼったのだ。ひと晩だけひもじい思いをするか、もう少し頑張ってから心安らかに夜を迎えるかと、ひげを剃るあいだだけ天秤にかけて、彼は寝間着の上に外套を羽織った。
三月だというのに、夕暮れは身を切るように寒い。人々はみなコートの襟を立て、家路を急いでいた。
街角に掲げられた立て看に、数人が足を止めていた。近衛隊がおととい設置して回ったものだ。内容はすでに何度も読んで暗唱できるほどだったが、彼は今日も目を通した。どこも変わったところはなく、計画が予定通りであることを告げていた。
告知、死刑囚の公開処刑。右の者、帝国法にもとづき処刑するものとする。罪状、国家叛逆罪、皇帝に対する暗殺未遂、及び殺人罪。日時、場所については以下の通り。当日は二時間前より馬車ならびに車輪を有する台車等の通行を禁止し、立ち入り規制区域を設ける。また、前後三日間は、市内におけるあらゆる会合を禁止する。
記載された日程は明日に迫っていた。処刑場となる市場広場はすでに場所取りの野次馬がたむろしているらしい。当初は市庁舎前の中央広場で執行される予定であったが、黄金の女神像を穢れにさらすわけにはいかないという配慮から、場所が変更された。
彼も処刑場へ足を運ぶつもりだ。思ったよりも時間がかかったな、という気持ちはあったが、以前のような苛烈な心境ではまったくなかった。
なぜ、あれほどまでに、死刑囚の酷たらしい死を切望したのか、いまでは彼自身もよくわからない。死ねばいいと思っているのはいまも同じである。ただ、死んでしまえと罵るほどの憎しみの根源をたどっていくと、その源流は国家にあるのではないかと思う。
祖父母の死は、都市同盟に責任があると授業で聞かされた。たしかに、平和な町を占拠し、傍若無人の振る舞いで住民を虐殺した同盟軍の行為は愚劣である。しかし、そこと対立し、争いの種火ともなった赤月帝国に非がまったくないと言えるのだろうか。
叛乱軍はなぜ、蜂起したのだろう。帝国に不満があったからではないか。年若い死刑囚は、どうして危険を冒してまで、皇帝の首を取りにいったのだろう。皇帝が諸悪の根源だったからではないか。
赤月帝国に疑問を持つことは、許されない。
なぜならば、みなの祖国だからである。
ならば――叛乱軍の人々にとっても。
ハルトマンは気づいてしまった。彼がなぜ悩まなければいけなかったのか、そのわけに。
まだ、うまく言葉にする自信はないけれど、カレッカへ発つ前にかつての上司に会い、伝えたいと思った。マルコルフ看守長には憤りをぶつけるだけぶつけて、逃げるように退役願いを突きつけてしまったから、非礼を詫びなければいけない。
その前に、しっかりと見届けなければ。彼が七日間だけつきそった死刑囚の最期を。
幼い顔立ちをした、彼と歳もそう違わない少年だった。呼び名は、四百八号。どのような理由あっての通し番号か知らないけれど、ほんとうの名前は帝国の所有物とされているので、看守たちにそれを用いる権利はない。
「テッド」
もう看守ではないのだからいいだろう。「右の者」の横に書かれていたのは、どこにでもある、ありふれた名前であった。
そうなのだ。ハルトマンが見守った少年は、死刑囚でも、四百八号でもない。テッドという名を持つ、ひとりの人間だった。過酷な環境の地下牢獄で、生きようともがいていた。意思を持つ人間だったのだ。
苦しみたくない。死にたくない。その切なる願いは、人なのだから抱いてあたりまえだ。どんなに生きる価値がない人間であっても、生きたいはずだ。他人の手で殺されたくないはずだ。
しっかりと目をあけて、まっすぐに見なければ。
それは恐ろしい光景にちがいない。阿鼻叫喚の地獄をまのあたりにするかもしれない。生きたまま消し炭にしてやれと、その方法を提案した人は言ったそうだ。
醜悪極まりない要望だと、誰が罵られようか。
悲しみ嘆く遺族らもまた、己の願った方法を見届けて、歩き出さねばならない。できることなら、憎しみもその炎で焼き尽くしてほしいとハルトマンは祈る。
一歩は、とても重い。しかし、立ち止まればそこは闇。
歩け。歩け。つらくても、苦しくても、振り向くな。
陽はすっかり陰り、椋鳥の喧噪も遠くなった。歩きながら考えごとをしていたせいで、目的の店を素通りしてしまったようだ。空腹はいつのまにか忘れていた。ハルトマンは少し迷って、明日のために寝てしまおうと思い立った。回れ右をし、ステュディオへ戻った。
一階のホールは仕事を終えた労働者であふれかえっていた。彼はポケットを引っかき回して硬貨を探しあて、カウンターに置いた。そこは酒場ではないが、酒好きの男が自主的にどこからか仕入れてきて、どんぶり勘定で飲ませてくれるのだ。
近衛兵になってひとつだけよいことがあったとしたら、酒を飲めるようになったことだろうと思う。銘柄だの味だのはちんぷんかんぷんだけれど、なにか人生でとてつもなく重要な嗜好品のような気がする。
一杯だけで満足して、ろくすっぽ顔も知らない店子に挨拶し、部屋に戻る。そのまま靴も脱がずにベッドへもぐりこみ、深く眠った。
翌朝はいい天気だった。もう少し寝坊していてもよかったのだが、窓の外がやけに賑やかで、早くに目が覚めてしまった。
歯磨きをしながら、まとめてある荷物を確かめた。いつでも出発できるように、必要なものだけをつめこんである。服を着替え、いらなくなったものをかごに放り入れた。
鞄をたすきがけにし、左手にかごを持って、玄関を出た。管理人室は暗く、鍵が閉まっていたので、置き手紙と部屋の鍵をドアノブに引っかけた。
今月末までの家賃は渡しているので、たぶんこれでだいじょうぶだろう。挨拶はしておきたかったが、急だったのでしかたがない。
共同のゴミ置き場にかごを置き、通りに出た。
さて。時間はたっぷりある。
少年の死を確認したら、市門が開いているうちにグレッグミンスターを出て、とりあえずはクワバの城塞へ向かおう。要所要所での審査は厳しくなっているだろうから、身分を証明できそうなものはすべて持った。
もしもゴウラン地方へ抜けることができたなら、その先は運任せ。目的地カレッカまでは、路銭を稼ぎながらの長い旅になるかもしれない。行き当たりばったりの行動は、これがはじめてだ。なんでも綿密に計画してからでないと行動に移せなかった自分を少しでも変えるところから始めたら、新しい人生も見つけられそうな気がする。
路肩に木箱を並べて座席にしているような食堂で、朝粥を食べた。エビと豚肉も入っていて、庶民的なわりには旨い。茶は好きなだけ汲んで飲める。
のんびりと散策しながら丘を上っていった。グレッグミンスター城は丘陵のいちばん高いところにあり、市街はその裾野にあたる。
市の立つ日ではあるが、今日は特別なため、内堀沿いに屋台は並んでいない。大勢の人がぞろぞろと市場広場へ向かっていた。深刻な表情の者もいれば、お祭り気分でわいわいと騒いでる一団もいる。通りにはたくさんの近衛兵が立ち、人々を誘導したり、立ち入り禁止区域の見張りをしたり、騒ぎが起きないように監視したりしている。
知っている者にばったり会ったら気まずいので、マフラーをきつく巻き、毛糸の帽子をかぶって、できるだけ目立たないようにすみっこを歩いた。
市民の関心が高いのだろう。これほどの数の人々が、ひとりの少年の死を見物しに集まってくるのだ。大多数は興味本位だろうが、これでは叛乱軍のメンバーが紛れ込んでいてもわからない。テロが起きなければよいが。
さすがに子ども連れは少ないが、ちらほらと、家族のような姿も散見する。遊園地に行くわけじゃあるまいし、なにを考えているんだ、と胸が悪くなった。
広場の外にある楡の大木が、少し高台になっている。そこからなら見ることができるだろうと行ってみたら、期待どおりだった。近くに行ったところで、全体像を見ることは叶うまい。
ハルトマンは目がいい。遠くからでも兵士の一挙手一投足を確認できる。視界もひらけて、さえぎるものがあまりない。ただ、この場所にも見物客がたくさんいて、いちど決めた場所に腰を据えるしかなさそうだ
広場には規制線が張られ、そこから中に侵入できないように、近衛兵がぐるりと取り囲んでいる。中央に設置された処刑台は、鉄製の枠と木の台座、それと垂直に立てられた太い柱だけで、意外なほど簡素だった。少し離れたところに薪の束が大量に山積みされている。舞台の四辺には鉄のかごが篝火として置かれ、焚き木がパチパチと爆ぜている。
空高く、ヒバリのさえずりが聞こえる。目を閉じると、平和な日常と勘違いしそうになるのではないか。そして静かに目を開けると、いつもの光景がそこにひろがっていて、屋台の呼び込みや、客たちの笑い声がいっぱいに満ちるのではないか。
ほんのちょっとの期待をこめて、目を閉じてみる。朝の日差しは、なぐさめになる程度にはあたたかい。
温情請願を叫ぶ人権思想家たちが近衛隊ともめ事を起こし、あちこちで小競り合いになっている。何人かは連行されたようだ。この様子では、地下の留置場は大忙しだ。
時間が近づくにつれて見物客の数はさらに増え、近くの建物は屋根の上にまで人が群がった。
しばらくして鋭い警笛が響き、堀に架かる跳ね橋がゆっくりと降りてきた。人々は大きくどよめいた。門をくぐって現れたのは、三頭の馬車だ。橋を渡り、おごそかに近づいてくる。
馬車は隊列に迎えられ、広場までの短い行進で見物客をわかせた。最初の馬車は本来ならば皇帝と軍師、近衛隊長が乗るべきなのだが、警備の難しさから、総代として隊長ひとりが鎧を着込んで降りてきた。次には、神父と死刑執行人、法的な見届け人。そして最後の馬車に、右と左を上級兵士に挟まれてうつむき加減に座っているのが、死刑囚のはずだ。
ハルトマンは目をこらした。
いた。テッドだ。
少年は見慣れた黄褐色の獄衣ではなく、特別にあつらえたような白のシンプルなシャツとズボンを着ていた。布で目隠しをされ、手枷をつけている。足は、草履のような簡素な靴だ。
死刑囚は、見えもしないのにきょろきょろと首を回した。なにか言っているようだが、ここからではよくわからない。兵士に引きずられるように馬車を降り、歩くようにうながされても抵抗し続けたので、脇の下を抱えられて運ばれた。
ハルトマンはふと、違和感を覚えた。彼は牢獄に連れてこられたとき、まったくといっていいほど抵抗しなかったからだ。もちろん、あのときといまとでは条件が違う。いよいよ処刑されると知ってパニックに陥っているのかもしれない。
しかし。
少年は足をバタバタさせて、首を振ったり、身をよじったりを繰り返した。草履が片方、ぽーんと飛んで堀に落ちた。数名の兵士が沿道から手助けに入り、暴れる死刑囚を取り押さえた。少年はそれでもわめき、抵抗し、兵の一人に噛みつこうとした。
ヒーヒーという喘鳴が、ハルトマンの耳にも届いた。声は、嗄れているのでも、群衆にかき消されているのでもない。あらかじめ潰されているのだ。
背筋を冷たいものが走り、胸が高鳴った。ハルトマンはたすきがけにした鞄を放り出し、広場へ走り出した。人混みをかき分けて近づこうと試みるが、押し戻される。罵声が飛び、彼は近づくどころか、どんどん遠くへ追いやられた。ついには建物の壁と壁のあいだに挟まって、身動きがとれなくなった。
ハルトマンはきびすを返した。煉瓦のわずかな出っ張りに指先をかけて壁をよじ登り、低いところにある出窓から土足でなかにあがりこんだ。
人の姿はなく、不用心にもあちこちが開けっぱなしだ。不法侵入も甚だしいが、非常事態なのでそれどころではない。廊下に出ると狭い階段があって、そこを駆け上がると、低い天井が斜めになった屋根裏部屋だった。
窓を開けてテラスへ出、行く手を阻む観葉植物の鉢を蹴散らして、広場へ面している隣家の屋根へ飛び移った。
そこからは隊列がよく見えた。神父と執行人はすでに所定の場所につき、死刑囚はいままさに、処刑台の前へ連行されたところだった。少年はもみくちゃにされながら、手枷を上に高く突き上げていた。
その右手には、包帯も、骨折のあともなかった。
あれだけの短期間で治る怪我ではない。心臓はハルトマンを急かすようにどくどくと鳴り、彼はかぶっていた帽子を脱ぎ捨て、そうすることで眼が望遠鏡の役割をするとでもいうかのように、ごしごしとこすった。
神父が兵に命じて少年を石畳にひざまずかせ、聖水を振りまいてから、その頭を三回なでた。ひときわ大きな歓声が上がり、ふたたび立つように命じられた少年は兵士に支えられて階段をあがった。
白いシャツはあちこちが引き裂かれて、痩せこけた腕がむきだしになっていた。
ハルトマンは息を呑んだ。
「……ない」
柱に背中を押しつけられ、まずは足首に太い鎖が二重に巻かれた。片方だけ残った草履は台の下に落とされる。次は腰、最後に胸元を十字に鎖で固定されて、それらの端は柱に釘で頑丈にとめられた。手枷が外され、両手は一瞬だけ自由になったが、柱を抱くように背中側に回され、鎖をかけられた。
ハルトマンは絶叫していた。
「ちがう! それは、テッドじゃない。別人だ!」
執行人に届くわけもない。彼は雨よけのテント生地をクッションにして、三階の屋根から飛び降りた。いきなり降ってきた男に驚いて、群衆が悲鳴をあげた。
すぐに体勢を立て直し、がむしゃらに人をかき分ける。すぐそこなのに、まったくたどり着かない。彼は焦った。
そのあいだにも、儀式は無慈悲に進行した。死刑囚は声なき声で泣き叫んでいた。まずは形だけの公然告白が行われ、罪人の代理人として神父が罪を告白した。歌うように祈りを捧げ、それを合図に階段が取り払われた。柱のまわりにまず藁が敷かれ、その上に薪の束が置かれた。隙間にも藁をつめていく。着火しにくい薪をすみやかに燃え上がらせるためだ。
四つの篝火から、四本の松明に点火される。観衆はさらに熱狂した。広場全体が、恐ろしいほどの渦に包まれていた。
「やめろ、いますぐ中止しろ!」
処刑台に近づくにはもう、堀へ飛び込んで泳ぎ、背後から回り込むしかない。汚れて透明度のまったくない水に入ることへの躊躇はなく、ハルトマンはそれを実行しようと欄干に手をかけた。
その時、背後から強く引き止められた。
「くっ、じゃまするな!」
払いのけようとしたが、彼の腕をつかんだ男は離そうとしない。士官風のコートを着、鼠色のマフラーをした、恰幅のよい中年の男だ。
「落ち着け。事情を説明しろ」
「説明してるひまなんてあるかよ! 早く止めないと」
「もう間に合わん。おまえも逮捕されるぞ。さっき、別人だと言っていたな。ほんとうか」
「ほんとうだ。見間違えるわけがない」
「その証拠は? なにを根拠に、そう思った」
「ここに、烙印がなかった」
ハルトマンは自らの上腕部を指で叩いた。
「烙印?」
「死刑囚だというしるしに、クレイズ軍政官がつけた。やけどだから、ぜったいに消えるはずがない。でも、あの人の腕に、なかった。さっき、そこからはっきり見たんだ」
「ふむ」と男は言って、周囲に目をやった。「とりあえず、こっちへ来い。話を訊きたい」
「でも……」
「言っただろう。手遅れだ」
また、わあっと群衆が騒いだ。藁に点火されたのだ。乾いた藁が爆ぜる甲高い音。炎があがり、煙がもくもくとわきあがった。
「あっ……」
火はまだ小さかったが、確実に薪を炙りはじめた。死刑囚は激しく咳き込みながら、鎖を振りほどこうともがき、拘束された足先だけで地団駄を踏んだ。ヒァー、ヒァーと声帯を震わせずに叫んでいた。
あつい、あついと口が動いた。目隠しは涙で濡れ、柱がぎしぎしと音をたてた。
ハルトマンは放心した顔で、男に引きずられた。彼を物陰に連れ込むと、男は訊いた。
「きみ、名は。どこの者かね」
「……ハルトマン・ロッタ。近衛隊の見習い兵士、でした……地下牢獄で、看守を」
「看守か。なるほど。そこでクレイズ軍政官がかれに烙印を押すのを、見たんだね」
「はい。ぼくが鉄を暖炉で焼いたので……」
ばちばちと大きな音をたてて、薪が一気に燃え上がった。腰のあたりまで炎が達し、少年は狂ったように暴れた。
「わたしの名はレオン・シルバーバーグ。この国の軍師をやっていた者だ」
ハルトマンはびっくりして、「あなたを、知っています」と言った。そして炎につつまれる処刑台を食い入るように見つめ、「ああ……」と顔をおおった。
薪が次々にくべられ、炎はどんどん大きくなったが、死刑囚はなかなか動きを止めなかった。身体を焼かれてもしばらくは意識が保たれているという話を、ハルトマンは同僚から聞いた。体表のほとんどをやけどし、熱傷が気道に達しても、即死はできないらしい。死の中でもっとも悲惨な部類かもしれなかった。
距離のあるハルトマンも、熱を感じるほどだった。薪をくべる役も近づけなくなった。最前列にいた見物人は、あまりの熱さに耐えきれなかったのか、後ろへ退こうとした。だが、広場は身動きがとれないほど群衆がつめかけていたので、下がるに下がれず、怒号があちこちであがった。
ハルトマンは顔をおおった手をぶるぶると震わせた。彼は泣いていた。しっかりと目をあけて、見届けることを誓ったはずなのに、心はすでに折れていた。執行されたのが本人ではなかったという事実を受け入れられず、混乱は頂点に達してした。
もしかしたら自分が見間違っただけで、あれはまぎれもなくテッドなのではないかと、ハルトマンは一度だけ勇気を出した。彼が猛火のるつぼに見たものは、目隠しがとれ、ただれた蝋人形のような顔で天を睨む、テッドとは似ても似つかない少年であった。
「ハルトマンくん」
レオンはその肩に手を置いて、静かに訊いた。「このあとは、どうするつもりだね」
「……故郷のカレッカへ、帰ろうかと……」
「カレッカ」
「でも、どうしよう。どうしたらいいんだろう。そうだ、あの人は……テッドは、生きているんだろうか。どうして、こんなことに。ああ、こうしていられない。マルコルフ看守長に訊きにいかないと……」
「落ち着きなさい」と、レオンはまた言った。そばに積んであった木箱に座らせる。
「替え玉を処刑したのには、なにか理由があるのだろう。しかし、きみはすでに深入りしすぎているようだ。これ以上、関わらないほうがよいのではないかとわたしは思う。カレッカが故郷といったね。ちょうどいい。わたしも近々、そこに用事ができるような気がしていたところだ」
チュルチュルチュルと、ヒバリが鳴いた。広場の一角が燃えたくらいでは、空を羽ばたく鳥を怯えさせることはできないらしい。
レオンは腕を組み、高い雲を見上げながら言った。
「バナー山脈からカレッカへ抜ける、独自のルートをわたしは持っている。手助けができる知り合いも、わずかながらいる。きみはそこへ行きなさい、ハルトマンくん。そして、よく考えるがいい。わたしのことを、覚えていてくれたら、必ずまた会おう」
ハルトマンはぼんやりとうなずいた。
楡の下に放り出した荷物は、まだ盗まれていないだろうか。
