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2年1組ポートフォリオ-2

アールくん (2/2)

■目次

  1. さよなら
  2. さよなら―ぼくたちの闘い
  3. 幸せな時間

Pages: 1 2


怒濤の第四弾。Rufusの便乗あり。
「エヴァンヘーリオ―福音」後日談です。

さよなら

 「――――くん、ノエルくん」
 はっとして顔を上げると、伽里が心配そうにこちらを見下ろしていた。
 鉄人の傍に付き添っているうちに、ベッドに突っ伏して眠ってしまったらしい。
 「あ……ごめん、今何時?」
 「8時半」
 「うわ、もうそんな時間?1時間も寝ちゃった……」
 慌てて体を起こすと、いつの間にか掛けられていた毛布がずり落ちた。
 「ぐっすり眠っていたから、起こさないでおいたの。夕食は詰所にラップして置いてあ るからね」
 「ありがとう」
 伽里は眉間に皺を寄せて言った。
 「ノエルくん、本当に大丈夫?今日は一日中調子が悪そうだったし、目の充血も酷いわ よ。昨日も、殆ど寝ていないんでしょう?」
 「ん……まあね。でも、いつものことだし、平気だよ」
 わざと明るい声で言っても、伽里の表情は硬いままだった。
 「こんな生活をずっと続けていたら、ノエルくん、きっと体が持たないわ。ここに来て から、ずっとテツくんにつきっきりで……テツくんが心配なのは分かるけど、もっと自分 を大事にしてちょうだい」
 「ありがとう。でも、鉄人の傍に居るのが、一番落ち着くんだ」
 僕は立ち上がって、鉄人の顔を覗き込んだ。
 「鉄人、気分はどう?」
 痛々しいほどに澄んだ褐色の瞳が、ゆっくりとこちらに向けられる。
 「今のところ、落ち着いているわ。消灯を過ぎたら、また発作が起きてしまうかもしれ ないけど……」
 「うん、今夜も僕が鉄人を見てるから大丈夫だよ。……さて、そろそろ体位交換しなき ゃね」
 すっかり痩せた鉄人の体は、あっけないほど軽い。仰向けに寝かせていた体を少し横に 傾け、背中に柔らかい枕をあてがう。
 伽里は僕の隣に佇んだまま、その様子をじっと見詰めていたが、突然ぽつりと呟いた。
 「……桜」
 「え?」
 「ノエルくん、日本の桜って見たことないでしょう?」
 「うん、無いけど……なんで?」
 僕が日本にやってきたのは、去年の9月。だから、日本の春を僕は知らない。
 プエルトリコのラボを飛び出し、日本の牡鈴学園に編入し、鉄人と出会った。遥兵や燕、 時雨努や経夢人に出会った。学園のみんなと共に、ハルモニア製薬に立ち向かった。とて も濃密な時間を仲間とともに過ごしてきた。だから、日本に来てまだ1年も経っていない なんて、何だか妙な感じだ。もっと、ずっと昔から、この国にいたような気がする。
 「この病院の裏庭にね、何本か桜の木があるの」
 伽里は明るい声で言った。
 「もう盛りを過ぎてしまったから、殆ど葉桜になっちゃってるけど、それでもまだ綺麗 なのよ。今の時間なら外に出ている患者さんもいないだろうし、夜桜でも眺めながら、少 し外の空気を吸ってきたら?その間、テツくんはちゃんと私が見てるから」
 「でも……」
 「大丈夫だってば。時々気分転換するのも必要よ」
 僕がいくら躊躇しても、伽里は頑として譲らなそうだった。彼女なりに、僕を心配して くれているのだ。
 でも、僕は外の新鮮な空気も、気分転換も求めていない。僕はただ、孤独と絶望に満た された、この隔絶された窓一つ無い病室で、ずっと鉄人と身を寄せ合っていたい。それだ けでいい。他に望むことは何も無い。
 それでも、僕は外に出てみることにした。いつも僕を気遣ってくれる伽里の親切を、無 駄にしたくなかった。
 「それじゃ、お言葉に甘えて少し散歩してくるよ」
 「うん、行ってらっしゃい」
 伽里はほっとしたように笑みを見せたが、不意に僕の腕に手を置いた。
 「伽里さん?」
 「私も……諦めないから。テツくんのこと」
 思いつめたような目を真っ直ぐに僕に向けて、伽里は言った。
 「だから、一緒に頑張ろう。ね?」
 その手から伝わってくる温もりは、本物だ。伽里の心遣いが、嬉しかった。彼女は心か ら僕と鉄人のことを案じてくれている。でも、僕の抱える闇はあまりにも深すぎて、彼女 の優しさも笑顔も、僕の心の表面を空しく掠めていくばかりだった。
 僕は何だか悲しくなって、そっと伽里の手をどかして隔離室を出た。

 分厚い強化ガラスの扉の向こうへ出て、担当医が詰める前室を横切り、久しぶりに僕は 一般病棟へ出た。
 一応このフロアの上には、僕専用の病室もあるけれど、結局殆どの時間を鉄人の病室で 過ごしている。鉄人の担当医であるからというのもあるけれど、僕はただ、鉄人の傍から 片時も離れたくなかった。鉄人の傍にいる時が、幸せを感じられる唯一のひと時だった。
――――の、え、る。
 昨夜の鉄人の呟きが耳元に甦る。
 ずっと、聞きたかった鉄人の声。でも、あれは……ムエルトの声。
 僕が、無理矢理引きとめたのだ。もう終わらせてくれ、解放してくれと懇願する鉄人の 意思を無視して、僕は鉄人をこの世界に繋ぎとめた。
 寂しかったから。一人になりたくなかったから。
 僕の抱える罰は、重い。そしてそれは、永遠に僕にのしかかる。でも、それでも構わな い。鉄人の傍にいられるのなら、どんなに過酷な罰でも、僕は甘んじて受け入れる。
 ごめんね、鉄人。君がどんなに苦しんでいるとしても、僕は君を手放すことはできない んだ――――

 外来の患者が絶えた待合室は、既に照明が落とされていた。
 薄闇の中、ずらりと並ぶ無人のベンチの後ろを通り抜け、裏庭に通じる裏口に向かおう としたそのとき。
 ベンチの隅に、見覚えのある後姿を見つけて、僕は思わず息を呑んだ。
 「遥兵……」
 遥兵はゆっくりとこちらを振り返った。僕の姿を認めると大きく目を見開き、それから 寂しそうな笑みを浮かべた。
 「おう、ノエル、久しぶり」
 腰を上げ、こちらに向かって歩いてくる姿は、今までに見たこともないくらいに憔悴し ていた。
 「何度もここに来たけど、お前らには会わせてもらえなくてさ。理事長には、お前らの ことは忘れろって言われた。でも、やっぱり俺はどうしてもテツとお前が無事なのか知り たくて……ごめんな。迷惑だったろ?」
 「そんなこと、ないよ」
 僕は慌てて首を振った。鉄人と僕の存在は、この国の『極秘事項』そのものなのだ。そ う簡単に、民間人が僕らと面会できる訳が無い。
 きっと、何度も門前払いを食らったのだろう。遥兵のことだ、理事長にもつっかかった りしたのかもしれない。それでも諦めずに僕らに会いに来てくれた。こんなに疲れ果てた 姿になるまで……。
 「ありがとう、遥兵」
 僕はありったけの感謝を込めて言った。遥兵は照れくさそうに笑って、俯いた。

 人気の無い、だだっ広い裏庭のベンチに並んで腰掛け、僕らは暫く黙ったまま、夜風に 吹かれていた。
 柔らかい新緑の芝に覆われた裏庭は、高いコンクリートの壁で四方を覆われ、その向こ う側に明滅する都会の明かりの群れが見えた。
 あちこちに植えられた桜の木は、伽里の言うとおり、殆ど花びらを散らせていた。しか し、背後に聳え立つ病棟の窓から漏れる明かりが、僅かに残ったピンクの花と新芽の緑が 入り混じる葉桜を浮かび上がらせる様子は、あまりに幻想的で、僕らは魅入られたように、 一心に見つめていた。
 「燕のやつ、フランスに行ったよ」
 唐突に、遥兵が口を開いた。
 「フランス?どうして?」
 「フィアンセがいるんだってよ。そんで、2、3年向こうの学校に通うんだってさ」
 「そうなんだ……」
 燕霧流。
 ちょっとおかしな奴だったけど、最後の最後まで、僕と鉄人の傍に居てくれた、大切な 友達――――
 突然遥兵がくすくすと笑い出した。
 「なっ……何?」
 「お前さ、あのビルの屋上でテツに身体貸してた間のことって、覚えてる?」
 僕は首を振った。
 「いや。あの数十分間だけ、記憶が飛んでるんだ」
 遥兵は笑いをかみ殺しながら、僕の顔を覗き込んだ。
 「お前、燕とキスしてたんだぜ」
 「ええっ?!」
 僕の素っ頓狂な声に、遥兵は堪え切れずに噴き出した。
 「テツが燕に迫られてさ。ノエルには内緒にしとけよって念を押して……」
 「そんなぁ、僕の体なのに!」
 僕は思わず口元に手をやった。鉄人の奴、僕の意識が無いことをいいことに、勝手に僕 の体を使って燕とキスするなんて!
 憮然とした僕の顔を見て、遥兵はげらげらと声を上げて笑っていたが、やがてぽつりと 呟いた。
 「……燕は、ド変態なりに、テツのこと大事に想っていたからな」
 僕は返す言葉を見つけられずに、つま先に視線を落とした。
 「テツは、その……どうしてる?」
 遥兵の控えめな問いかけに、僕は無言で首を振った。
 「そうか……」
 遥兵はそれ以上は何も聞かず、夜の闇にぼんやりと浮かび上がる葉桜に目をやった。
 ひんやりとした夜風が頬を撫で、背後に吹き抜けていく。木々がざわめく音が、そっと 静寂を震わせていた。
 「……僕のせいなんだ」
 懺悔の言葉は、するりと自然に口から零れ出た。
 「え?」
 「全部、僕のせいなんだよ。遥兵」
 遥兵は不思議そうに僕を見た。
 「僕があの時、鉄人を引き止めさえしなければ、鉄人は安らかに逝くことができたんだ。 ムエルトの呪縛から解放されて、ようやく自由になれる筈だった鉄人を、僕が無理矢理引 きとめた。一人になりたくないからって、自分勝手な理由で、僕は鉄人が天国へ行くこと を許さなかった」
 そこまで一気に吐き出してから、僕は真っ直ぐに遥兵を見た。
 「僕が、鉄人を苦しめているんだよ」
 だから、僕を責めてよ、遥兵。声を上げることのできない鉄人の代わりに。
 身勝手だ、最低だって、思い切り罵倒して、軽蔑してよ。
 遥兵は戸惑うように目を伏せた。
 「……何言ってんだよ。お前が、テツを苦しめる訳ないだろ」
 僕はため息をついた。分かっている。そんなこと遥兵にできる筈が無い。僕の犯した罪 を責めることも、許すことも、鉄人にしかできないのだから。
 遥兵が、僕が吐露した罪の告白の意味が理解できないのは当然だ。それでも遥兵は僕の 言葉の意味を、懸命に咀嚼しようとしていた。そして、諦めたように大きく伸びをした。
 「あーあ、やっぱりムックレーが居なくなる前に、頼んどきゃよかったなぁ」
 「何を?」
 「俺の体にも、セラフィムとかいうやつを、埋め込んでくれってさ」
 「……はぁ?何馬鹿なこと言ってんの、遥兵?」
 僕は呆気に取られて遥兵を見た。しかし、遥兵の横顔は真剣そのものだった。
 「そしたら、お前らの苦しみが、少しくらいは分かるようになるかもしれないだろ?」
 遥兵らしい素朴な思いやりに、僕は絶句した。
 「テツにさ、頼まれたんだ。ノエルの支えになってくれ。一生のお願いだ、ってさ。そ ういやお前も前におんなじこと言ってたな。テツを頼むって……。
 そんなこと頼まれなくたって、そうするつもりでいたさ。でも、結局俺はお前らに何も してやれない。それどころか、お前らの苦しみすら、理解してやれない。想像することく らいしかできねぇんだ」
 情けねぇよ……。遥兵は小さく呟くと、膝に置かれていた両手をぎゅっと握り締めた。
 遥兵の苦悩が胸に染みて、僕は何も言うことができなかった。
 暫く、無言の時が過ぎた。不意に強い風が吹き抜ける。木々がざわめき、病棟から漏れ る灯りに照らされた芝生が、まるで夜の海のように、ざあっと波立った。
 ふと、夜空を見上げてみる。都会の夜空は寂しい。それでもネオンの光に負けじと、ち らほらと一等星が輝いている。
 闇夜に浮かぶ、暖かな光。でもその光の源は、何万光年も離れた、遥か彼方にある。遥 兵や学園の仲間達や伽里の優しさも、あの星の光のように、遠い場所から伝わってくる、 悲しいほど儚いぬくもりのようだった。そのぬくもりは、僕には遠すぎた。どんなに手を 伸ばしても、決して届かない……。
 こんなにも僕らのことを思ってくれる人たちがいる。それは幸せなことだけれど、優し くされればされるほど、僕の中の孤独と罪悪感は、大きく膨れ上がり、たまらなくなる。
 寂しい。苦しい。
 自分を救ってくれるのは、この世界で鉄人ただ一人なのだと、痛いほど思い知らされる。
 隔離室に戻れば、僕は今夜もいつものように鉄人の身体を貪り、互いの右手と左手を絡 ませて、つかの間孤独を紛らすだろう。そうやって、僕らは永遠に堕ちていく。深い闇と 絶望に満たされた煉獄の中へ。
 でも、遥兵たちは違う。彼らには、手付かずの真っ白な未来がある。
 どうか、僕らのぶんまで幸せになって欲しいと僕は心から願った。遥兵に会うのも、多 分今夜が最後だろう。僕らのことは思い出の中に封印して、もう振り返らずに真っ直ぐに 生きて欲しい。
 冷たさを増した夜風に、思わず身震いした。隣に座る遥兵も落ち着き無く腕を擦ってい る。
 「そろそろ、行こうか。風邪ひくよ」
 僕は立ち上がって、遥兵を促した。遥兵は腰掛けたまま暫くぼんやりと僕の顔を見上げ ていたが、やがて首を振って立ち上がった。

 待合室に続く通路を、肩を並べて歩いている間、遥兵は何か言いたそうにもじもじして いたが、結局何も言わなかった。
 人気の無い待合室に戻り、僕らは別れを惜しむように向き合った。
 「今日は、来てくれてありがとう、遥兵」
 「いや、こっちが無理矢理押しかけちまったみたいで、悪かったな」
 「ううん、久しぶりに遥兵に会えて嬉しかった」
 遥兵は少しほっとしたように表情を崩した。
 「俺にも何かできることがあれば、遠慮しないで言ってくれよ」
 「ありがとう」
 「そんで……少し落ち着いたらさ、1回くらい学校に顔出せよ。シグやヘルム達も絶対喜 ぶぜ」
 「うん……」
 僕は頷いたけれど、多分そんな機会は二度と訪れないだろう。
 もう、僕は彼らの元には戻れない。僕の居場所は、鉄人のいる隔離室だけだから……。
 「みんなに宜しく伝えておいてね。遥兵も元気で」
 「ああ」
 「それじゃ……、またね」
 逃げるように背を向けた僕の左手を、いきなり遥兵が掴んだ。
 驚いて振り返ると、遥兵が不安そうな顔をしてじっと僕の目を覗き込んだ。
 「遥兵?」
 「……行くなよ」
 「え?」
 「遠くに行くなって言ってんだ、ノエル」
 遥兵は思いつめたような声で言った。
 「最後にテツに会った時、あいつは生きてた。心臓は動いていたし、ちゃんと呼吸もし てた。だから、いつかすっかり治って帰って来るって、俺、信じてんだ。嘘じゃない。お 前も帰ってきて、またみんなで馬鹿やれるって、信じてんだよ……」
 「遥兵……」
 「でもさ、心のどっかで、分かってんだ。テツの心は……もう遠くへ行ってしまったん だろ?」
 遥兵は、きっぱりと顔を上げて、ただ黙りこくる僕の顔を見据えた。
 「ノエル、お前はまだテツのところに行くな」
 「遥兵、僕は……」
 「この世に、お前とテツだけと思うなよ。俺も、燕も、シグもヘルムも理事長も、みん なお前を大事に思ってんだぞ」
 遥兵の声は、既に涙声になっていた。
 「なぁ、俺たちは、お前らとそんなに違うのか?本当に俺は、お前らに何もしてやれな いのか?俺は、そんなに無力なのか?」
 遥兵が僕の手首を掴む手に力を込めた。僕は、自分の体が震えているのに気付いた。
 僕は怯えている。
 やめて。これ以上僕に優しくしないで。これ以上僕に孤独を突きつけないで――――
 「遥兵……ごめん!!」
 僕は掴まれた手首を無理矢理振りほどき、病棟の奥へと走った。
 背後で、遥兵が悲痛な声で僕の名を呼ぶのを聞いたが、振り返ることなく夢中で走った。
 階段を一息に駆け上がり、薄暗い廊下を走り抜ける。
 寂しい。苦しい。早く鉄人の元に戻りたい。外のことなど、全て忘れてしまいたい……。

 息を切らせて鉄人のいる隔離室へ転がり込むと、ベッドの傍らに座っていた伽里が驚い て腰を上げた。
 「ノエルくん、どうしたの?」
 荒い息を必死にかみ殺し、僕は必死に何でも無い風を装った。
 「ちょっと……走っただけ……。もう、大丈夫。ありがと……伽里さん。後は……僕が 鉄人を見てるから」
 「何かあったの?様子が変よ」
 伽里が心配そうに僕の顔を覗き込む。
 「何でもないよ。本当に平気だから」
 「でも……」
 気遣わしげに伸びてきた伽里の手を、僕は思わず強く払った。
 驚いたように目を見開く伽里の肩を掴み、無理矢理隔離室の外に押しやる。
 「のっ……ノエルくん?!」
 「ごめん、ごめんなさい!今は鉄人と二人きりにさせて……!」
  伽里の鼻先でぴしゃりとドアを閉め、僕はよろよろと鉄人の枕元にしがみついた。
 鉄人はゆっくりとこちらに顔を向け、なかなか焦点の合わない目で僕を見た。そして、 小さく口を開いた。
 「の、え、る……」
 ああ、鉄人の声。鉄人が、自分を呼ぶ声。
 この声が、たとえムエルトの――――死神の呼び声であっても、僕は構わない。
 ふと、左の手首を見た。遥兵に強く掴まれた痕が、真っ赤に腫れていた。
 『遠くに行くなよ、ノエル』
 遥兵の切ない懇願が耳元に甦り、僕はしゃくりあげるようにして泣いた。
 ごめん、遥兵。僕はもう、帰れない――――
 きつく目を閉じ、毛布に顔を押し付けて、無理矢理嗚咽をかみ殺していると、不意に緩 く髪の毛を引っ張られた。
 「の、え……る……っ」
 顔を上げると、じっとこちらを見つめる鉄人の目にも、大粒の涙が光っていた。
 「僕のために……泣いてくれているの……?」
 愛しい思いがふつふつと胸にこみ上げ、僕は鉄人の柔らかな髪を撫でて、口づけた。
 いつか世界中の人たちが、僕らに背を向け、去っていったとしても、僕らは永遠に一緒 にいよう。絶対に、離れない。絶対に、手放さない。
 「ずっと傍にいてね、鉄人……」
 二人でいられるなら、僕は他に何も要らないんだ。
 頬を寄せると、互いの流した涙が混じりあい、一つになって、音も無く零れ落ちた。

<了>

2007-09-09


お礼にかえて(Rufus作)
「エヴァンヘーリオ―福音」後日談 アールさん作「さよなら」からRufusがリレーしました

さよなら―ぼくたちの闘い

 ワンコールで通話を切った。考えに考えた結論を伝えるつもりで勇気をふりしぼったのに、いざとなると手が震えてどうしようもなかった。沈黙する携帯をぼんやりと見つめながら、ぼくはなにをやっているんだろうと思った。
 午前二時。先生がこんな時間に起きているはずがない。携帯がいちど鳴ったくらいで目を覚ますような人ではないから、着信履歴に気づくのは朝の身支度をするときだろう。その時にはもう、ぼくの気持ちは揺らいでいるにきまってる。
 わかっている。遙兵と会い、心が乱れているのだと。神経が過敏になってとんでもないことを考えただけ。その衝動さえなんとか抑えていれば明け方までにはきっと落ち着く。
 張りつめていたものがうっかり切れて、押し殺してきたさまざまな思いが一気に噴出してしまったようだ。何度も思い描いては打ち消してきた最悪で最良の結末に、これまで以上に魅せられていることを自覚してノエルはゾッとした。
 ――鉄人さえ、いなくなれば。
 発作のように襲ってくる衝動。
 ぼくは、魁ノエルはいつでも自由に鉄人の命を奪える。医師待遇であるから劇薬くらい容易に手に入るし、ほかの手段もいくらだって考えつく。はっきりと明言されたわけではないが、銀町絵麗亜と日本政府の気遣いであることにまちがいはない。
 もしもハルモニア製薬の統括責任者であったグレアム・クレイを任意同行することができていたら、事態は別の方向に大きく動いていたのかもしれない。しかし現実は、死人に口なし。クレイは13ラボラトリオで自ら命を絶った。ナンバー2であるアルド・リンカーンウッドも、目を覆うような無惨な姿で発見された。
 結局、ハルモニア側の証人は誰ひとりとして逮捕できなかった。そうなると天才的頭脳をもつ高校生二名も単なる厄介者でしかなくなる。政府にとって魁ノエルと弓ノ間鉄人は、いまや国家の安全を脅かすお荷物同然の扱いなのだ。
 いつだって死んでくれて構わないんだよ――引き離されることなく、二人そろって隔離病棟に入れられたのはそういうことだったのだ。
 この国では、いや、どこの国でもそうだろうけれど、人を殺すのは重罪である。けれどもぼくが鉄人をこの手にかけても、たぶん表だって罪にはならない。労せずとも事実は闇に葬ってもらえる。警察の犯罪記録にも記載されない。鉄人の戸籍は、当たり障りのない死亡診断書をもってごく簡単に停止される手はずになっているだろう。
 ぼくが迷い、時を長引かせればそれだけ多くの手を煩わせる。とりわけ銀町絵麗亜は、こんな茶番を維持するためにどれだけ気を揉んでいるやら。
 早く先生を解放してやらねばならない。楽になってもらいたい。先生がいつまでもぼくたちの保護者でいなければならない理由はひとつもない。
 けれどもぼくのとった行動はそんな思いからひどくかけ離れていた。
 いつだったか、安楽死という選択もあるんだよと遠回しに示唆された。京東大学の医師団も、ぼくにできるだけ罪悪感を抱かせまいと必死だったはずだ。いやだと言ったらこの人たちはさぞや迷惑だろうな、怒りにも似た渇いた気持ちでぼくは頑なに首を横に振りつづけた。
 鉄人には夜ごと肌を寄せた。生きているその熱を確かめたかったからだ。思いあまって頸に手をかけることはしょっちゅうだったけれど、どうしてもその先に及ぶことができない。子どもの戯れだった。悔しさのあまり、抵抗しない躯に噛みついた。
 意地を張っているという自覚はあった。そんな自分が惨めで、気が変になりそうだった。ぼくの逃げ場は鉄人の傍しかなかった。
 鉄人を生かし、閉ざされた世界で永遠に添い遂げることだけが己に課すことのできるただひとつの罰なのだと、そう信じることにしたのは究極ともいえるその酩酊感が意外にも心地よかったからだ。
 仮釈放のない終身刑。これほどの誘惑があるだろうか。
 自己陶酔と笑うならそうしてくれていい。だけど赦してほしい。ぼくは弱い人間だ。安定した檻に守られて、泣くしかすべのない子どもだ。
 涙はあたたかい。生まれる前に包まれていた羊水の記憶に重なる。悲しみは赦しに似ているような気がする。憎んでも罪はなくならない。
 だんだん、考えるのが億劫になってきた。ぼくは携帯をたたんで、鉄人のベッドにそっと腰を下ろした。
 頭の芯が重く痛む。
 昨日も、その前の晩も、ほとんど眠っていない。ひどい顔だと言われたけれど、しばらく鏡に向かっていないのでわからない。どうにかしなくちゃと反省するのすらも気怠い。
 看護師の伽里から忠告されたように、半日でいいから鉄人と離れてぐっすりと眠ったら、こんな切羽詰まった状況から抜け出せるのかもしれない。せっかく別室を用意してもらっているのだ。医師であると同時に患者でもあることを自覚して、自己管理しなければ鉄人と共倒れになる。
 今夜の鉄人はめずらしく発作もおこさずに眠っている。いつもこうであってくれたら助かるのに、と思ったらちょっとだけ笑みがこぼれた。
 指をのばして唇に触れてみる。
 燕に迫られてキスしただって? あんなに嫌がっていたのに、よくもまあおとなしく言いなりになったもんだ。しかも借り物の唇で。
 ぼくの知らない数十分間。鉄人はぼくの目でなにを見て、ぼくの口でなにを語ったのだろう。
 覚悟を決めるために、必死の思いで手にした数十分間。一秒たりとも無駄にできないわずかな時間だったはずなのに、鉄人はぼくのことをまっ先に案じて、遙兵に託したという。
 ”テツにさ、頼まれたんだ。ノエルの支えになってくれ。一生のお願いだ、ってさ”
 なにが一生のお願いだ。そんな馬鹿げたことに一生を賭けるな。アホ。
 うつむいた顔から、ぽたりと涙が落ちてシーツにしみをつくった。
 鉄人。きみは、どうしてそんなに強いんだ。死を覚悟したあとで、どうして他人を思いやれるんだ。
 目もくらむような絶望に押し潰されることもなく、遙兵を、そして燕をも納得させてしまった。信じられない力強さ。鉄人は揺るぎない決意でその結末に臨んだ。自分のことを臆病者だと言っていたけれど、ほんとうにそうだったらあんな真似はできまい。
 グレアム・クレイの呪縛にがんじがらめにされていた鉄人。彼を変えたのは、人として生きる権利をくれた銀町絵麗亜で、はじめてできた親友の遙兵で、誰よりも深く鉄人を愛した燕だ。だから鉄人は、三人の目の前で、自らの問題に決着をつけようとしたのだ。
「……ぼくさえ、いなかったら」
 厭になるほど繰り返した後悔の念。鉄人の自由を、己の身勝手で永久に束縛したぼく。こんなはずではなかった。こんなはずでは――
 不意に背後で電子ロックの解除音がきこえた。
 看護師の夜間巡回は厳重に断っている。こんな時間に、立ち入るはずの人間はいない。
 人影を認めてぼくは息を呑んだ。
 清楚な黒いスーツを身にまとった銀町絵麗亜。そして、その背後には。
「……遙兵」
「夜分、おじゃまするよ」
 絵麗亜がポケットからちらりと携帯電話を見せて、軽く笑った。
 ぼくは何も言えなかった。どうして遙兵が一緒なのか、それもわからなかった。
「今夜、猛地が家に訪ねてきてくれてね」と絵麗亜が切りだした。「おまえと会って話をしたっていうから、びっくりしたよ。会わないままだったら、あたしはこのまま離れていたほうがいいんじゃないかと思ってたんだけどね。そうこうしてたら珍しく携帯が鳴り出すじゃないか。ああいうのなんだい、ワン切りっていうのかい?」
「あれは、その……すみません、まちがえて」
「ぷっ、まちがえてわざわざうちにかけたっていうのかい。まあ、いいけどね」
 遙兵が絵麗亜に目でなにかを問いかけると、先生はうなずいた。
「テツ、来たぞ」
 ベッドに歩み寄る。顔をのぞきこんで、遙兵はとてもやさしい顔で笑った。
「ちょっと痩せたな」
 遙兵ならエキサイトして大騒ぎするところなのに、まるで盲腸で入院した友人を見舞いに来たようなあっけらかんとした態度だった。
 通じることはないと知っているはずなのに、遙兵はなめらかに話しかけた。
「なあ、毎日、外まで来てたんだぜ。ありがたくって涙がでるだろ。シグもヘルムもめちゃくちゃ心配してんだからな。いいたかないけど燕なんて大変だったんだぞ。ちゃんとあとで謝っとけよ。あ、いまアイツ、フランスいってっけどな」
 手が伸びて、鉄人の頭を撫でる。
「テツ」
 少し間があって、やがて遙兵はつぶやいた。
「信じてたんだ。絶対に会えるって。おれにできるの、そんくらいしかねーからな」
 絵麗亜がため息をついて、苦笑いした。
「穴あき靴下の執念深さには、あたしも負けたよ」
「今日はちゃんとマトモな靴下履いてきただろ、先生」
「当然だ。人の家にあがるときは身だしなみも礼のひとつだよ」
 リビングの会話を隔離室に持ち込まれるのは、不愉快だった。ぼくは棘のある口調で、来客の談笑を遮った。
「何の用事ですか。来てほしくないって、いったのに」
 空気が一瞬で重苦しくなる。
「遙兵も、わかってると思うけど、ここは一般の面会を禁じている特別病棟なんだ。悪いけど、いますぐに出て行ってほしい。鉄人は少しの刺激で発作を起こす。勝手に話しかけられちゃ、迷惑だ」
 遙兵はこくんとうなずいて、「悪かった」と言った。「もちろん、無理いって来たのにはちゃんと理由がある」
「理由?」
「大切な話をしたい。おれとおまえと、それからテツを含めて、三人でだ。本当は燕もいればよかったんだけど、無理だからおれが代表で来た」
「ここじゃなくて、カンファレンスルームに行こう。鉄人は話に参加できない。わかってるはずだけど」
「承知の上だ。だけどテツが聞いてないとこでする話じゃない」
「だけど……」
「ノエル」と絵麗亜がたしなめた。「猛地だってなにも知らないバカじゃない。それはおまえがだれよりもわかってるはずだがね」
 わかってる。わかっているからこそ、遙兵を巻き込みたくないのだ。もう、苦しむのは自分だけでいい。遙兵には未来だけ向いていてほしい。その願いが、どうして伝わらないのか。
「耳をふさぐなよ、ノエル」
 遙兵は鉄人にもういちど視線を向けたあと、ぼくと視線を合わせた。強い瞳に射すくめられて、ぼくは言葉を失った。
 無言の時間が流れた。遙兵は言葉を選ぶように、ゆっくりと話しはじめた。
「……安楽死、断ったんだってな」
 いちばん触れられなくない傷が、ぴりっと痛んだ。
「あんがとな。よく、ヤだって言ってくれたよな」
「……」
「けどさ、ノエル……おまえ、つらくねえか」
 我慢できなくなって、ついに視線を反らした。だけども遙兵はどこまでもぼくを追ってくる。
「もちろん、おれだっておまえと同じく、テツがいつか治るって信じてるけどよ、現実はそうじゃないもんな。このままじゃノエル、おまえ、潰れてしまうぞ。さっきも言ったけどよ、この世に、お前とテツだけと思ってほしくないんだ。おれは……おまえまでテツみてーになってほしくないんだ」
 雷に撃たれたような衝撃だった。ぼくは誘われるように顔をあげた。遙兵がまっすぐにぼくを見ていた。
「おまえひとりには、させない。テツを送るなら、おれと燕も同席させてもらう」
「……なっ」
「そのあと、おまえは、学園に帰ってこい。テツんところには、まだ行かせない」
 身体が震えた。遙兵、遙兵、なにを言ってるんだ。きみは鉄人とあんなに仲が良かったじゃないか。ぼくなんかよりずっと鉄人を理解していたじゃないか。どうしてそんな冷酷なことを平気で口にするんだ。
 手を汚すのは、ぼくだけでいい。遙兵にも燕にも、そんな役目は与えられない。
「だめだ、遙兵、それはだめだ」
「冗談ではなく、本気の交渉だ。なんならこれから燕のヤツを呼んでやる。こう見えてもマメに連絡とりあってんだからよ」
「いやだ、そんなことさせない、いやだ、いやだ!」
「……くっ!」
 鋭い痛みが左の頬に奔った。身体が浮き上がるほどの強烈な一撃だった。
「ノエル……」 遙兵はぶるぶると身体を震わせながら呻った。「おまえひとりだけが、闘っていると思うな。苦しんでるのは自分だけだなんて思うな。オレたちを、バカにするのもいいかげんにしろ……」
 鼻血が喉を伝うのがわかった。唾といっしょにごくりと飲みこんだ。鉄の味がした。
「ああ、おまえもテツも、特別かもしんねえよ。だからなんだ? おれたちはいっしょに闘ってきたじゃねえか。あれはウソか? おまえは、おれたちを利用しただけか?」
「……ちが……う」
「おれ、テツに頼まれたんだ。ノエルを支えてくれってよ。親友の一生のお願いってやつだ。聞かねーわけにいかねーんだ。ノエルってヤローがどんなくだらない人間でもよ、支えてやるって決めたんだ」
「ハー……」
「なあ、わかっかよ? テツだぞ、テツがそう言ったんだぞ! そうだよな、テツ。おれはおまえを裏切らない。約束は絶対に守るからな。今日、ここに来たのはそれが言いたかったからだ。病室で大声出して悪かったな」
 頬が熱い。痛みと悲しみでじんじんと熱い。遙兵の姿がぼやけて見えない。
「……っ、うっ、う……」
 遙兵の思いに、突きつけられた現実に、心が千々に乱れた。漏れだす嗚咽を必死で抑えようとしたけれど、だめだった。
 まさに、そのとき。
「のえ、る」
 声がした。ぼくと遙兵は、同時に振り返った。
 鉄人が眼をあけていた。
 ぼくを見て、遙兵を見て、またぼくを見た。
「のえる」
 今度は明確にそう言った。その発音はよどみなく、まるで存在を訴えようとするかのようだった。
 ずっと無言だった銀町絵麗亜が、ぽつりと言った。
「もうひとり、闘いたいと言っているのがいるよ。どうする」
 遙兵がニイッと笑った。それを見て、ぼくはぐずぐずに崩れていく体内の氷をどう処理しようかと、詮無いことばかりを考えていた。

<了>

2007-09-10


第五弾!
「ワンス・イン・ア・デケイド」につながるお話です。

『幸せな時間』 あれから、二年後のお話――――

 「ほらよっ、弓ノ間!」
 「……うわっ!?」
 無我夢中でキーボードを叩いているところに、いきなり頬に冷たい缶コーヒーを押し当てられ、鉄人は思わず椅子から飛び上がった。その拍子に、机の端に堆く積まれていたコンビニ弁当の空箱が、にぎやかな音を立てて崩れ落ちた。
 「あちゃー……」
 鉄人は慌ててかがみ込み、大量に散らばったプラスチックの容器をかき集め、傍に落ちていたポリ袋に突っ込んだ。
 「ったく、何やってんだか」
 鉄人を驚かせた張本人である白衣の男も、やれやれといった風に、せっせとゴミを拾い始める。
 「何やってんだかって……先輩が驚かすから悪いんでしょうが!」
 「ちゃんとノックはしたんだぜ。気付かない方が悪い」
 「仕事に集中してたんスよ!……あーあ、汁までこぼれちまった」
 手近にあったガーゼで、床に滴ったおかずの汁を無造作に拭き取ると、やれやれと言う風に立ち上がった。
 「そんで、何か用っすか?」
 鉄人のぞんざいな口ぶりに、白衣の男は思わず苦笑いした。
 「お前なぁ……おれよりも一回り年下のひよっこのくせに、その生意気な口の利き方はなんだ」
 「今日は早く帰らなきゃいけないから、忙しいんです。明日と明後日も休み取ってるし、今のうちに、できるところまで今まで集めたデータを打ち込んでおきたいんですよ。だから先輩と遊んでる暇は無いんです。あっそうだ、今夜はおれ、麻雀の面子から外れるって他の先輩たちにも言っといてください」
 男はへぇ、という風に眉を動かした。
 「仕事の虫の弓ノ間くんが有給取るなんて、珍しいな。どっか遊びに行くのか?」
 鉄人は曖昧に手元のマウスを弄びながら、もごもごと言った。
 「明日、高校んときの友達がうちに遊びに来るんです。最近ずっとここに泊り込みだったから、部屋はめちゃくちゃ汚いし、早く帰って掃除と洗濯しないと……」
 遥兵から電話が来たのは、つい一昨日のことだ。
 『今週末、俺とシグとヘルムと燕で、そっちに遊びに行くからな。覚悟しとけよ。じゃーな、アディオス!』
 こっちの予定はお構い無しか!と、反論しようとしたが、既に電話は切れていた。
 勝手な奴らめ。あいつらだって受験を間近に控えているはずなのに、遊んでる暇なんてあるのか?
 お前らみんなアホだ、絶対。大学落ちても知らねぇぞ。
 心の中で悪態をつきながらも、そわそわと楽しみにしている自分も確かにいるわけで、鉄人は何だかむずがゆいような、照れくさいような気持ちで落ち着かなかった。
 「そうか……そういやお前、2年前までは高校生だったんだもんなぁ」
 顎の無精ひげを撫でながら、男はしみじみと言った。
 「学生んときのダチはさ、大事にした方がいいぞ。社会に出てからでもダチは作れるけど、やっぱ机を並べて勉強した仲間ってのは、特別だからな。おれも最近忙しくて、学生時代のダチにはなかなか会えないんだけど、たまに会うと、ああ、帰って来た、ここがおれの居場所なんだなぁってしみじみ思うよ」
 男はパソコンのモニターをちらりと一瞥してから、ぽんと鉄人の頭に手を置いた。
 「まぁ、そんな急いでデータまとめるこたぁないさ。他の奴らの研究もかなり手間取っているようだし。それに……焦ってすぐ結果を出せるような、生半可な検体じゃないからな、あの人工ニューロンは」
 鉄人は思わず俯いた。
 「それは、分かっているんですけど……」
 「そんな顔すんなよ。腰をすえて、気長にじっくりやっていこうぜ。いつか必ず糸口は見えてくるさ。とりあえずお前は、今日はとっとと帰って、休み中にダチと馬鹿騒ぎでもしてしっかり気分転換して来い」
 「ありがとうございます」
 男は大げさに顔をしかめた。
 「やめてくれよ。いつもポンポン減らず口を叩く奴に、そんな神妙に頭下げられたら気持ち悪い」
 「そうですか。じゃ、先輩にお願いがあるんですけど」
 「何だ」
 「おれのいない間、インキュベーターの管理、お願いしますね。あの中には、おれが丹精込めて育て上げた可愛いバクテリアと、マウスの上皮細胞が培養されてるんで。おれが帰ってきて、あいつらが死に絶えてたら、おれ先輩のテロメア食っちゃいますよ」
 さっきの殊勝な態度はどこへやら、けろりと居直って毒を吐く鉄人に、男はあっけにとられて笑ってしまった。
 「そうそう、それでこそ弓ノ間鉄人だ。まかしとけ。ぬかりなくやっておく」
 「ありがとうございまーす」
 「じゃあな、また来週」
 男が部屋を出て行き、一人になったところで、鉄人は背もたれに身体を預けて、大きなため息をついた。

 牡鈴学園を中退し、この京東大学医学部の盛度研究所にやってきてから、もう2年以上が過ぎた。
 ムエルトの――――セラフィムと呼ばれる人工ニューロンの正体を暴こうと、幕取教授を筆頭とする科学者たちのプロジェクトチームが結成され、鉄人もその一員として、毎日無我夢中で研究に取り組んできた。しかし、今のところこれといった成果は皆無に等しく、じたばたしているうちに、時間だけが飛ぶように過ぎていった。
 これだけ賢明に研究を続けているのに、セラフィムの謎に全く近づけない焦りは、勿論無くはない。しかし、これくらいは想定内だと鉄人は自分を納得させていた。当のハルモニア製薬でさえ、未だにセラフィムのメカニズムを完全に把握できずにいるのだ。大学の一研究室で、そうやすやすと問題が氷解されるはずも無いことくらい承知している。
 それでも、やはり先の見えない不安はぬぐいきれなかった。
 「ああーーっ、もう!」
 鉄人はがしがしと頭を掻き毟り、天井を仰いだ。
 そのとき、不意にポケットの中の携帯がけたたましく鳴り出した。
 Mr.マリックのテーマ。遥兵だ。
 通話ボタンを押すと同時に、能天気でハイテンションな声が、鼓膜を容赦なく貫いた。
 『テェェーーーツ!今、なにやってんの?』
 ぶち。鉄人の中で何かがキレた。
 「なにやってんのってお前……仕事に決まってんだろーが!」
 『おいおい、なにエキサイトしてんだよ?』
 「今日はな、お前らのために仕事早く切り上げなきゃならないから忙しいんだよ!ったく、遊びに来るなら、もっと早めに言っての!こっちだって色々準備があるんだから」
 『へ?おれらが行くからって、何か準備でもあるのか?』
 「最近研究室にカンヅメで、全然部屋に帰ってねぇから、早めに帰って掃除すんだよ! 有難く思えよ、このアホきりたんぽ!!」
 『……ふうん、今日仕事早く終わるのか』
 「終わるんじゃなくて、終わらせるの!」
 電話の向こうで、なにかごにょごにょと話し声が聞こえてくる。多分周りに時雨努達もいるのだろう。
 「おい、お前ら何話して……」
 『よっしゃ、決まり!そんじゃーな、テツ、アディオース!!』
 プツッ。ツーツー。電話はまたもや一方的に切れた。
 「……何が“決まり”だ?ったく、何を考えてるのやら」
 バカな奴ら。でも、大切な仲間たち。おれの帰る場所は、ちゃんとある。
 ふと壁に掛かった時計を見上げると、4時を少し回ったところだった。6時くらいまでは粘ろうと思っていたが、遥兵の声を聞いたらすっかり仕事をする気が失せてしまった。
 「……よし、もう今日はおしまい!」
 鉄人はパソコンをシャットダウンし、白衣を脱いで、椅子に放り投げた。
 今夜中に目を通しておきたい幾つかの書類をバッグに詰めて、廊下に出たところで、はっと顔をあげた。
 そうだ。帰る前に、一応幕取教授んとこに顔出しておこう。
 玄関に向かいかけていた踵を返し、鉄人は幕取教授がいるであろう第二電子顕微鏡室へ向かった。

 控えめにノックして鉄人が入っていくと、部屋を埋め尽くす巨大な電子顕微鏡の機器の中に埋もれるようにして、幕取帝雄は熱心に鏡筒を覗き込んでいた。
 「あの、教授……」
 「ああ、きみか」
 鉄人の声にようやく顔を上げた幕取は、すっかり充血した目をごしごしと擦ってから、大きく伸びをした。
 「何、見てるんですか?」
 「この前きみから採取した神経細胞だよ」
 「おれの……神経細胞?」
 「ああ。きみの持つ人工ニューロンが、きみの脳に一体どんなシグナルを送って、他の生物のテロメアを捕食するのか……それを解明するためには、まずはきみの神経細胞が分化していく様子をDNAの複製段階から詳しく分析する必要があるからね。全く、根気のいる作業だよ」
 幕取をはじめ、ムエルトに関わるプロジェクトチームのメンバーは、この2年間、かなりのハードワークを強いられている。それが何だか全て自分のせいのような気がして、鉄人は思わず俯いた。
 「すいません、教授」
 「どうして謝る?」
 「だって、おれがここに来なければ、教授もみんなも、思い思いに自分の好きな研究に打ち込めたはずなのに……おれが厄介な問題を持ち込んだせいで、みんなに負担を掛けているような気がして」
 幕取は笑って首を振った。
 「何を言っているんだ。私もみんなもきみに感謝しているくらいだよ。きみの持つその人工ニューロンは、実に興味深い謎の塊だ。科学者なら誰でも、目の前に魅力的な謎を突きつけられたら、それを解かずにはいられない。そうだろう?」
 幕取は微笑を浮かべて言った。
 「それに、私も含めて、みんな科学的興味からだけでなく、本心からきみを救おうと自発的に研究を進めているんだよ。どうやらきみには、人を惹きつける不思議な魅力があるらしい」
 「おれは、そんな……」
 戸惑うように頭を掻く鉄人に、幕取は笑みを深くした。
 「とにかく、余計な気遣いは無用だ。そういえば、明日から休みを取るんだって?」
 「は、はい」
 「そうか。ここのところ、きみもずっと働きづめだったものな。ゆっくり羽根を伸ばすといい。ああ、それと……」
 幕取はまっすぐに鉄人の目を見て言った。
 「養子の件、考えてくれたかい?」
 「あ……」
 鉄人は困ったように目を泳がせた。
 養子にならないか、という申し出は一週間前に受けていた。ここに来てからというもの、幕取は身寄りのない鉄人の身を、親身になって心配してくれていた。おそらく彼にも鉄人と同じ年頃の息子がいるからだろう。鉄人も幕取を科学者としても、人間としても尊敬しているので、その申し出は身に余る光栄のように思えた。
 しかし、この右手には、得体の知れない死神が宿っている。自分が近づくことで、幕取に迷惑をかけることがあるかもしれないと思うと、鉄人はなかなか返事ができずにいたのだった。
 「私も男やもめで、家族といえば息子一人だけだ。それに、無理に一緒に暮らすことはない。決して悪い話ではないと思うのだが」
 「でも、今でも十分良くして下さっているのに、これ以上ご迷惑は……」
 「迷惑などではないよ。きみは研究者として優秀な人材だし、それに……なぜだか分からないが、私にはきみが自分の実の息子のように思えてならないんだ」
 「ありがとう……ございます。でも……」
 躊躇する鉄人に、幕取は労わるような優しい視線を向けた。
 「どうしても嫌だというのなら、後見人という立場でも構わない。どんな形でも、私はこれからも、ずっときみを近くで見守りたいと考えているんだ。なに、答えは急がないよ。ゆっくり考えてくれ」
 「は、はい……」
 一礼して、鉄人は部屋を後にした。
 おれは、なんて幸せな人間なんだろう。廊下を歩きながら、鉄人は他人事のように思った。
 最高の友達に巡り会うことができた。ここの研究員たちも、皆いい人ばかりだ。しかも、幕取のような人が父親になりたいと言ってくれている。なんだか、夢みたいな話だ。本当に夢じゃないだろうか。はっと目が覚めたら、ラボのベッドの上にいたなんてことはないよな。
 自分を取り巻く人たちの親切や優しさが嬉しくて、嬉しすぎて、鉄人は時々どうしていいのか分からなくなる。それでも、自分はもうマウスじゃなくて、一人の人間として生きているんだという自信が、少しずつ鉄人の中に芽生えつつあった。
 大丈夫さ。
 鉄人は自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。
 おれは今、自分のために、自分の人生を生きているじゃないか。いつかきっと、元の身体を取り戻して、人間として「しあわせ」をつかんでみせる。絶対に。

 靴を履き替え、外に出ると、夏の終わりを告げる涼しい潮風が、ふわりと鉄人の頬を撫でた。空は秋の到来を告げるかのように、どこまでも高くて、青い。
 ふと、子供のすすり泣く声が聞こえて、辺りを見回すと、道路の脇に、しゃがみこむ小さな女の子の背中が見えた。いつもこの辺で遊んでいる近所の子で、名前は知らないが、顔を合わせると元気にあいさつしてくる、利発な子だ。
 「よう、どうしたんだ?こんなところで」
 「お、おにいちゃん……」
 女の子は、泣き腫らした目で鉄人を見上げた。その足元に、頭を潰されてぐったりとした血まみれの猫が横たわっていた。鉄人は思わず息を呑んだ。
 「こいつ、まさか……」
 鉄人は慌ててかがみ込み、原型を留めていない血の塊のような猫の顔を覗き込んだ。
 「やっぱり、チープーか……」
 チープーと名づけられたこの猫は、この辺をよくうろついていた野良猫だった。人懐こいので、近所の人たちや研究所に所属する誰もが、自分の飼い猫のように可愛がっていた。もちろん鉄人もその一人で、弁当の残りをあげたり、実験の待ち時間にかまってやったりと、この猫を殊更に可愛がっていたのだ。
 昨日までは、元気に走り回っていたのに……。
 鉄人はチープーの体にそっと手を触れた。
 冷たい――――
 昨日まで、温かく血の通っていたはずの体が、死ぬとこんなに冷たくなってしまうのか。
 なんてあっけない。何て脆いものなんだろう、命というものは。
 「きっと、車に轢かれちゃったんだね……すごく痛かったんだよ、きっと。かわいそう……ひっく、ひっく」
 泣きじゃくる女の子の頭を優しく撫ぜながら、鉄人は言った。
 「そうだな……でも、もう天国に行ったから、苦しんでいないさ。それに、こいつはみんなに可愛がられて、幸せだったと思うぞ」
 「そう……かな……?」
 すっかり硬直してしまったチープーの身体を抱きかかえて、鉄人は立ち上がった。
 「チープーを土に還してあげような。お兄ちゃんと一緒に、お墓を作ろう」
 女の子は暫くぐずぐずと鼻を鳴らしていたが、立ち上がって、小さく「うん」と頷いた。

 残照に照らされた海は、きらきらと金色に水面を染めている。
 夏の終わり、季節外れの浜辺に人影は無く、鉄人は膝を抱えて腰を下ろし、ぼんやりと水平線を見つめていた。
 この海の遥か彼方には、ノエルがいる。
 前は頻繁にメールや電話のやりとりをしていたが、最近はお互いに忙しく、思うように連絡が取れないでいた。
 あいつは、元気でやっているだろうか。スノウとかいう、あのおぼっちゃまは、ノエルに良くしてくれているだろうか。ハルモニア製薬のごたごたに巻き込まれて、酷い目に遭っていたりしていないだろうか。短いメールの文面や会話からは、ノエルの暮らしぶりを窺い知ることは難しい。
 ふと、両手を開いてみる。チープーを埋めるために素手で穴を掘った手は、土とチープーの流した血で汚れていた。
 チープーの強張った、冷たい体の感触を思い出し、鉄人は目を伏せた。
 命は脆くて、儚い。どんな生き物も、常に死を孕んで生きている。勿論自分だってそうだ。いくら不老の身であっても、肉体を破壊されれば、あっという間にあの世行きだ。
 でも……おれの身体は、老いることを知らない。
 みんな、おれを残して、冷たくなってしまうのだろうか。チープーみたいに――――
 再び、やり場の無い焦りが首をもたげてくる。
 ああ早く、セラフィムの正体を暴いてやりたい。……いや、もういっそ正体なんて分からなくてもいい。おれの体から出て行ってくれるだけでいい。おれはただ、時の流れに沿って、自然に生きていける普通の身体が欲しいだけなんだ。
 誰にも、置いていかれたくない。一人ぽっちになりたくない。
 鉄人ははっとして顔を上げ、迷いを振り切るように強く首を振った。
 「くそっ……」
 おい、弓ノ間鉄人。しっかりしろ。弱音を吐くな。
 猫が死んだことくらいで、こんなに動揺してどうする?
 鉄人は勢いよく立ち上がり、波打ち際まで歩いて言って、土と血で汚れた手をごしごしと洗った。
 大丈夫、自分を信じるんだ。必ず元の身体を取り戻してみせる。いつか、必ず……
 「……い、おおーーーい!!」
 不意に、背後から聞き覚えのある声がして、鉄人は弾かれたように振り返り、目を見開いた。
 「っ!?お、おまえら……?」
 いつの間に道路わきに止められた黒いピカピカのリムジンから、例の4人組が飛び出して、こちらに駆け寄ってくる。
 「テェェツゥゥ、久しぶり!おりゃぁぁーー!!」
 全速力で先頭を切って走ってきた遥兵が、そのままの勢いで、ぽかんと立ち尽くす鉄人にジャンピングボディアタックをかましてきた。
 「うわぁーっ!!」
 吹っ飛ばされた鉄人は、たまらず波打ち際に尻餅をついた。
 「……ったく、この馬鹿力!!」
 「あはは、わりぃわりぃ、勢いが止まらなくて。立てるか?」
 けらけらと笑いながら、遥兵が手を差し伸べてくる。ふて腐れながら、鉄人はその手を取った。
 温かい、血の通った手。生きている人間の手だ。
 いつか、この手も冷たくなって、おれの前から消えていくのだろう。こいつらも、牡鈴学園のみんなも、銀町理事長も、研究所のみんなも、幕取教授も、みんな……
 「おい、どうした?呆けた顔して」
 「なっ……なんでもねぇよ!」
 遥兵に顔を覗き込まれて、鉄人は慌てて握ったままの遥兵の手を離した。
 いつの間に追いついてきた3人が、あっという間に鉄人を取り囲む。
 「弓ノ間くん、ごめんね、猛地くんがおいたしちゃって」
 「久しぶりだなぁ、鉄人。元気だったか?」 
 「ぼく、リムジンなんて乗るの初めてでさ、感動しちゃった。鉄人も後で一緒に乗ろうよ」
 みんな、前に会ったときよりも確実に成長している。大人の顔つきになっている。当たり前だ、彼らはまだ高校生なんだから。それが……普通なのだから。
 気の置けない仲間たちとの久々の再会に胸を躍らせつつも、鉄人は目の前につきつけられた現実に、少しだけ胸が痛んだ。
 「どうでもいいけどさ、お前ら、来るの明日じゃなかったっけ?」
 「だって、さっき電話したら、お前今日は仕事早く終わるって言ってただろ?」
 遥兵がいたずらっぽく笑って言った。
 “終わる”じゃなくて、“終わらせる”の間違いだという鉄人の反論は、あっさり無視された。
 「やっぱり、盛度といえば温泉でしょ?この近くの『盛度スパリゾート』は、パパの知り合いが経営しててさ、ただで泊めてくれるっていうから、せっかくだし二泊することにしたんだ。あ、もちろん弓ノ間くんの部屋もばっちりキープしてあるからね。最上階のスイート。ロフト付で、部屋数は10室。専用の露天風呂もあるよ」
 霧流はポケットから金ピカのカードキーを取り出して見せた。
 『盛度スパリゾート』は、去年オープンしたばかりの、高級リゾート温泉ホテルだ。こんなところにまでコネがあるなんて、どこまで手広く事業やってんだ、燕組。
 「本当は、ぼくは弓ノ間くんと二人部屋が良かったんだけど、猛地くんが猛反対するから、仕方なくみんな一緒の部屋になっちゃったんだけど……」
 「いや、みんな一緒の部屋で結構」
 鉄人は鳥肌を立てつつ即答した。
 「ふーん、つれないなぁ弓ノ間くん……」
 「なぁにが『つれない』だぁ?お前みたいなド変態とテツを一緒の部屋に一晩置いといたら、テツの貞操が危ういだろうが」
 延々と続きそうなくだらないやりとりを見かねた時雨努が、とりなすように言った。
 「まぁまぁ、とりあえず、バーベキューの準備でもしようぜ」
 「は?バーベキュー」
 「おうよ!」
 遥兵がばんと鉄人の背中を叩いて言った。
 「今夜はここでバーベキュー。もう材料は買ってあるから心配すんな。そんで、明日は高級リゾートホテルでフルコースのディナーだぜ。送迎は全部燕んとこのリムジン。凄いだろ?」
 「そうそう!なんか芸能人になった気分だよー。運転手の橋本さんもいい人でさ、やたら高そうなジュースやらお菓子やらくれたりして……」
 経夢人も興奮した顔を上気させてまくしたてる。その隣で、霧流が不服そうに呟いた。
 「きみたちが自慢することじゃないだろ。今回の旅行は、僕が全部弓ノ間くんに喜んでもらおうと思ってセッティングしたんだからね」
 「そんな固いことは言うなって」
 「あ、暗くなったら、花火もいいかもな」
 時雨努の提案に、みんながいっせいに顔を輝かせた。
 「あっ、いいねぇ、それ!」
 「よーし!そうと決まったら、とりあえずバーベキュー!とっとと車から荷物降ろそうぜ」
 わっとリムジンの方に駆け出しながら、鉄人は前を走る四人の、前より確実に広くなった背中を見据えた。
 大丈夫。おれは諦めない。あいつらに置いていかれはしない。一緒に生きていくんだ。これからもずっと――――

 山盛りの肉と野菜をすっかり平らげた後、ロケット花火の打ち合いではしゃぎ疲れた5人は、焚き火を囲んで座り、ぱちぱちと爆ぜる炎をぼんやりと見つめていた。
 真っ暗な海から吹きつける、ひんやりとした潮風が、頬を撫でて背後に遠ざかる。
 「あーあ、夏も終わるなぁ」
 遥兵がごろりとひっくり返って、呟いた。
 「うん。最近時間が経つの早い感じがする。来年卒業だなんて、なんだか実感が湧かないな」
 手元の小枝を炎の中に放り投げながら、経夢人が相槌を打つ。
 そうだった。こいつらはもう高校3年生。来年の春からは、皆それぞれ自分の決めた進路を歩んでいくのだ。
 「そういや、お前ら進路とかもう決まってんの?」
 鉄人が思い出したように言った。
 「フツーの高校3年生は、今の時期は受験勉強やら就職活動に追われてんじゃないの?こんなところで油売ってて、お前ら大丈夫なのか?」
 「多分大丈夫だろう」
 時雨努がさらりと言ってのける。
 「おれは東大一本でいくつもりだ。模試の結果は毎回安全圏だし、合格できると思う。経夢人も何とかなりそうなんだろ?」
 「うん。ぼくは一応本命の他に2、3校受けるつもりだけど、今のところ第一志望の大学に行けそうだよ」
 「ぼくはねぇ……まだはっきりとは決めてないなぁ」
 霧流がのんびりとした口調で言った。
 「いつかはパパの跡を継ぐんだろうけど、それはまだ早いし、とりあえずフランスに行って語学の勉強でもしようかとは考えてるけど」
 「ああ、お前許婚がいるんだもんな」
 遥兵はむくりと身体を起こし、胡散臭げな目で霧流を見た。
 「なのにさ、なんでお前そんなにテツに執着するわけ?」
 「ふふふ。この気持ちは猛地くんにはきっと理解できないと思うな。ぼくは、弓ノ間くんを、ぼくだけのものにしたい。それはリアを愛する気持ちとは少し違って……」
 「ええっと!は、ハーはどうすんだ?お前も進学すんだろ?」
 妙な雲行きになりそうなので、鉄人は慌てて話を変えた。
 「んあ?おれは進学しねぇよ。もう百貨店に就職先も決めちまったし」
 「えっ、デパートって……マジ?お前、接客したりすんの?」
 「さあ、まだどこの部署に回されるかわかんねーけど、接客もやるかもな」
 スーツ姿で、澄ました顔で接客している遥兵を思い浮かべて、鉄人は思わず噴き出した。
 「なんだよ?何がおかしいんだよ」
 「だって……お前、ちゃんと標準語で接客できるか?」
 「はぁ?」
 きょとんとする遥兵に、鉄人はくつくつと笑いをこらえて言った。
 「お前だったら、きっと秋田の物産展で、きりたんぽ売り場専属だろ。あっはっは」
 「んだとっ!?このへらず口、こーしてやる!」
 遥兵は笑い転げる鉄人にとびかかり、ヘッドロックをかけてきた。
 「あいててっ、何すんだ、この毒きりたんぽ!!」
 二人は上になり下になり、ごろごろと砂浜を転げまわった。
 「あーあ、始まっちゃったよ」
 ジュースを飲みながら、時雨努が呆れ声で呟く。
 「いいじゃん。放っとこ」
 「猛地くーん、弓ノ間くんを傷モノにしちゃだめだよー」
 そのとき――――
 「……つっ!」
 鉄人の下で、急に遥兵の動きが止まった。
 「……ハー?」
 顔をしかめ、身体を固くした遥兵の背中にそっと手を差し入れると、生暖かい液体が鉄人の指を濡らした。鉄人の顔から血の気が引いた。
 「ハー!」
 慌てて抱えて抱き起こす。異変を察知して駆け寄ってきた3人も、遥兵の背中を見て絶句した。
 「何か刺さってる!これ、ガラスだ……誰かが置いてったビンの破片だよ!」
 経夢人が叫んだ。
 「背中……あつ……い」
 遥兵が、呻くように呟いた。夜の闇の中でも、どくどくと血が流れ出ているのが分かる。
 「しっかりしろ、遥兵!」
 慌ててガラスを抜こうとする時雨努を、霧流が慌てて制した。
 「だめだよ!今それを抜いたら出血が酷くなる」
 「でも……」
 「ここから一番近い病院は、盛度総合病院だ。救急車を呼ぶよりも、橋本さんを呼ぶ方が早いな。この辺を流してるって言ってたから」
 霧流はすばやくポケットから携帯を取り出した。
 「あ、もしもし橋本さん?今どこ?……ああ、近くのローソンね。悪いけど、今すぐ迎えに来てくれる?……早く、急いで!友達が怪我したんだ。……うん、さっきの浜辺。道路に出て待ってる。それじゃ」
 電話を仕舞うと、霧流は立ち上がり、遥兵を取り囲んでおろおろするばかりの3人を叱咤するようにいった。
 「今、橋本さんが来てくれる。とりあえず、道路まで出なきゃ。猛地くん、歩ける?」
 「ああ、なんとか……」
 「よし、急ごう」
 よろめく遥兵に時雨努と経夢人が両側から肩を貸し、のろのろと道路に向かって歩き出す。ガラスが刺さったままの背中から、ぽたぽたと血の雫が零れ落ちて、砂浜に点々と染みを作った。
 鉄人は、遥兵の背中に深々と刺さったガラスを呆然と見つめていた。
 ハーが、血を流している。
 冷たくなる。死んでしまう。チープーみたいに。
 食べかけの菓子パンを分けてやると、美味しそうに頬張っていたチープー。
 今朝まで元気だったチープー。
 頭を潰されて、息絶えていたチープー……。
 みんな、冷たくなる。死んでいくんだ、おれを残して――――
 膝ががくがくと震えて、鉄人はその場に崩れ落ちた。
 「ゆっ、弓ノ間くんっ、大丈夫?」
 慌てて抱き起こそうと霧流が伸ばした手を払いのけて、鉄人は掠れた声で呟いた。
 「……ハー、行かないで」
 「弓ノ間くん?どうしちゃったの?」
 「嫌だ!ハー、死ぬなよ!死なないで!!」
 心の奥底に固く押し込めていた不安が爆発して、鉄人は血を吐くように絶叫した。
 「て、鉄人?」
 先をいく3人が驚いて振り返った。
 「大丈夫だよ、弓ノ間くん。あの傷、見たらわかるだろう?かなり深く刺さってるけど、致命傷じゃないよ」
 いきなり暴れ出した鉄人を必死に羽交い絞めにしながら、霧流が諭すように言った。
 遥兵も苦し紛れに笑顔を作った。
 「なに……大げさなこと言ってんだよ、テツ。血が沢山でてっから、ちょっとふらふらしてるだけだ。心配すんなって」
 目の前の道路に、鋭いブレーキ音を立てて、リムジンが止まった。
 「ほら、橋本さん来てくれたよ。とにかく病院へ急ごう」
 自分の傷のことを忘れて鉄人の元へ戻ろうとする遥兵をひきとめ、時雨努が先を促した。
 「嫌だっ、おれを置いていくなよ!ひとりにするなよ!お願いだから……!!」
 すっかり気が動転している鉄人を押さえつけ、霧流が叫んだ。
 「ごめん、病院へは君たちだけで行って!弓ノ間くんがこんな状態じゃ連れて行けない」
 「わ、分かった。鉄人を頼む!」
 「うん。後で僕らも行くから」
 ふらふらの遥兵を座席に押し込んでから、時雨努と経夢人もリムジンに乗り込んだ。
 「ハーーーーっ!!」
 「弓ノ間くんっ!」
 猛スピードで走り去るリムジンを追いかけようと、もがき続ける鉄人の頬を、霧流は思い切り打った。鉄人は力を失ったように、その場にぺたんと座り込んだ。
 「ハー……」
 「ごめん、弓ノ間くん…痛かった?」
 霧流はすっかり放心している鉄人の腕を取り、無理矢理立たせた。
 「こんなところに座り込んでたら、車に轢かれちゃうよ。とりあえず、焚き火のところまで戻ろう」

 焚き火はすっかり消えていて、燃えかすから白い煙が、儚く夜の闇を漂っていた。
 鉄人と霧流は、並んで腰を下ろし、目の前に横たわる黒々とした海を見詰めていた。闇の中で、規則正しく静寂を震わせる波音に耳を傾けているうちに、鉄人は少しずつ落ち着きを取り戻していった。
 それでも、膝の上で固く握り締めた両手は、小刻みに震えていた。
 「どう、気分は?」
 心配そうに顔を覗き込む霧流に、鉄人はぎこちなく頷いた。
 「ごめん、燕……おれ……」
 「ううん、気にしないでよ。いつもの飄々とした弓ノ間くんもいいけど、さっきみたいにちょっと取り乱した弓ノ間くんもセクシーで魅力的だよ。なぁーんてね」
 霧流の冗談に、鉄人は呆れることも怒ることもなく、ただ顔を強張らせたままぽつりと呟いた。
 「おれ……どうしたらいいのか、わかんねーんだ」
 「え?」
 「研究所のみんなは……おれにとても良くしてくれる。先輩たちも、幕取教授も、おれをセラフィムから解放するために、必死で研究を進めてくれて……」
 「職場でもいい人たちに囲まれて、弓ノ間くんは幸せ者だね」
 「……でも、みんなおれを残して、死んでいくじゃないか!」
 目を細めて微笑む霧流の顔を、涙の滲んだ目で睨みつけ、鉄人は噛み付くように叫んだ。
 「今日だって……お前たちは、おれのために、わざわざ盛度くんだりまで来てくれたんだろ?高校を辞めて、ノエルとも離れ離れになったおれを、心配してくれているんだろ?」
 「そんなつもりじゃない。弓ノ間くん、ぼくらはただ……」
 「おれは、怖いんだよ。みんながおれに優しくしてくれる。でも、おれはお前らや研究所の人たちに、何もしてやれない。元の身体を取り戻せるかどうかも分からない。このままじゃ、おれは一人だけ若いまま、みんなが逝っちまうのを見送ることしかできない」
 「弓ノ間くん……」
 「なぁ、燕」
 鉄人は自嘲気味に笑って、霧流を見た。
 「おれという人間に、一体どんな価値があるんだろう?おれがいるせいで、色んな人が振り回されてる。それに、ラボではマウスだったおれが、今じゃ自分の研究のために、沢山のマウスを殺してるんだぜ。笑っちゃうよな。ろくなことない。やっぱりおれは大人しくマウスのままでいた方がよかったのかな。そうしたら、こんな気持ちになることもなかった……っ!?」
 霧流はいきなり立ち上がり、鉄人の腕を乱暴に掴んで海の方へ歩き出した。
 「お、おいっ、何を……」
 鉄人の身体を海の中に突き飛ばすと、自分もざぶざぶと海の中に入っていく。
 「燕っ!なにすん……」
 霧流は無言で鉄人を羽交い絞めにし、水中に頭を沈めた。
 「ぐっ……!」
 鉄人は必死にもがいたが、霧流は頭を押さえつける手を緩めようとはしなかった。しおからい水が鼻と口から流れ込み、鉄人は水中で激しくむせた。
 不意に、頭を押さえつけていた力が緩められ、鉄人は夢中で顔を上げて必死に空気を貪った。
 「はぁ、はぁ、はぁ」
 「弓ノ間くん、苦しい?」
 静かな声で霧流が言った。そして、喘ぎ続ける鉄人の身体を再び押さえつけ、水中に沈めた。
 喉が焼けるほど海水を飲み込む。息ができない。抵抗しようと振り回した腕が、空しく水を掻く。
 次第にかすんでいく意識の中で、鉄人は必死に叫んだ。
 ―――一苦しい。息がしたい。……死にたくない!
 もうだめだ、と諦めかけたとき、霧流に水面から引きずり出されて、そのまま砂地に放り出された。
 「げほっ、げほっ……」
 鉄人はしばらく砂地に突っ伏したまま、飲み込んだ海水を吐き出し、肩で息をした。ふと見上げると、傍らに立つ霧流が、冷たい目で鉄人を見下ろしていた。
 「くそ……っ、燕、お前、何のつもりだよっ?」
 ぐしょぬれになり、涙目で睨みつけてくる鉄人の襟首を乱暴に掴み、霧流はぐっと顔を近づけた。
 「今の言葉、撤回してよ。弓ノ間くん」
 真っ直ぐにこちらを覗き込む瞳と、怒りを抑えた冷酷な声に、鉄人は言葉を失った。
 「ぼくがあのまま力を緩めなかったら、きみは死んでいたんだよ。きみは、所詮ただの人間だ。ぼくらと同じ。歳は取らなくても、簡単に死ぬ」
 霧流は襟首を掴む手に力を込め、鉄人の身体ごと砂地にたたきつけた。
 「自分の存在を軽視するのは、ぼくらに対する侮辱だ。ぼくは許さない。猛地くんたちや、牡鈴学園のみんなや、銀町理事長たちは、きみのために……きみが自由を手に入れるために、必死に戦ったんだ。それなのに、マウスでいたほうが良かったなんて言うのは、ぼくは絶対許さないからな」
 「燕……」
 「そうさ。もしもそのセラフィムとやらが、きみに張り付いたまま、離れなかったら、ぼくらはきみよりも先に歳を取って死ぬだろうね。
 でも、今ぼくらは一緒にここにいる。それだけが真実だ。ぼくらも、きみの研究所の人も、きみのことを大事に思っているからこそ、一緒にいるんだ。
 これから何が起こるかなんて誰にも分かりはしない。だからこそ、一緒にいられるこの時間を、僕は愛おしく思うんだ。弓ノ間くんと、こうしていられる時間を、ぼくは……」
 霧流は声を詰まらせ、その場に座り込んだ。
 ひっきりなしに打ち寄せる波の音。頬を撫でては去っていく、海を渡る冷たい風。
 この瞬間も、未知の時がやってきて今になり、あっという間に過去となって遠ざかっていく。過去は思い出になるけれど、自分が肌で感じることのできる時は、今この瞬間だけなんだ。
 「……ごめんな、燕」
 鉄人は砂だらけになった身体を起こし、霧流に向き直った。
 「弱音を吐くには、まだ早いよな。でも……やっぱり怖い。研究所の人たちも、お前らも大切だから……失うのが怖いんだ」
 「弓ノ間くん……」
 「苦しいよ」
 ぼろぼろと涙を流しながら、鉄人は嗚咽交じりに言った。
 「やっぱりおれは、お前らに置いていかれたくない。一緒に歳を取って、じじいになっても、つるんでいたい。
 だから、おれ、これからも死に物狂いで研究を進めて、絶対にムエルトのやつからおさらばしてやる。お前らと一緒に生きくんだ……」
 霧流はじっと鉄人の横顔を見詰めていたが、やがて手を伸ばし、細かく震えるか細い身体をぎゅっと抱きしめた。
 いつもなら気色悪いと言って突き飛ばすところだったが、今の鉄人にはそれができなかった。びしょぬれのシャツごしに伝わる体温と、力強く打ち続ける鼓動を、しばらく肌身で感じていたかった。
 「弓ノ間くん、無理しないでいいんだよ」
 耳元でぽつりと霧流が囁いた。
 「ぼくは、たとえきみがこのまま歳を取らない体のままでいても、ずっとそばにいるから」
 「んなの、ムリだろ……」
 この温もりも、いつかは消える。この鼓動も、いつか止まる。おそらくは、おれよりも先に……。
 鉄人は、涙をぎゅっと目を瞑って散らし、情けないほど小さな声で呟いた。
 「何だかんだ言って、お前だって歳を取って……おれを置いていくんだろ」
 「うん、そうかもしれない」
 霧流は小さく笑った。
 「特にぼくなんか、これからパパの跡を継いで、本格的にあぶない世界に身を置く訳じゃない?それこそ、明日をも知らぬ身ってやつだよ。
 でもね、ぼくが生きているうちは、絶対にきみに寂しい思いをさせない。きみがぼくを必要としているときは、どんな状況におかれていても、どんな手段を使ってでも、必ずきみの元へ駆けつける。それだけは、約束する」
 鉄人はぱちぱちと瞬きして、霧流の真剣な顔を見上げた。
 多分、その言葉に嘘は無いだろうと鉄人は思った。こいつは本当にそうするだろう。たとえどんなに遠い国にいたとしても、暴力団同士のドンパチの真っ最中でも、おれがSOSを発すれば、どんな手段を使ってでも、おれの元に駆けつけてくれるのだろう。
 「お前って、へんなやつ。なんでおれなんかのために……」
 鉄人は何だかおかしくなって、霧流の腕の中で思わず噴き出した。
 「そんなの、愛してるからに決まってるじゃん」
 霧流はそっと鉄人の身体から手を離し、立ち上がった。
 「さてと!このまま夜の浜辺で、ずっと弓ノ間くんと抱きあっていたいところだけど、一応猛地くんが心配だからね。そろそろ行こうか」
 「ああ」
 にっこりと笑って差し出された手を、鉄人は照れくさそう掴んで立ち上がった。

 「おっせーよ、二人とも!」
 処置室のドアをくぐるなり、ベッドに腰掛けた遥兵がふてくされたような大声で言った。上半身裸の身体の身体に、ぐるぐると包帯を捲きつけられている様子はかなり痛々しかったが、これだけ威勢が良いのなら大丈夫だろう。
 「ねっ、やっぱり大したこと無かったでしょ?」
 霧流が呆れたように言った。
 「猛地くんは野生児だからさ、ちょっとやそっとの流血じゃ死にやしないって」
 「大したことないってお前……背中10針も縫ったんだぜ!しかも麻酔無しで。めちゃめちゃ痛くて死ぬかと思った……」
 傍らに腰掛けていた時雨努と経夢人が笑いをかみ殺して言った。
 「そりゃあもう、すごい悲鳴だったよ。“もう高校生なんだから、これくらいの痛みで騒ぐんじゃないの!”って、看護婦さんに怒られてさ」
 「あんだけ失血してて朦朧としてたくせに、よくあんな大声出せるよなぁ」
 「だって、マジで痛かったんだよ!くっそぉ、せっかくの旅行だってのに、ついてねぇなぁ……」
 鉄人はおずおずと遥兵の元に歩み寄った。
 「ハー、本当にもう大丈夫なのか?」
 「バーカ、何暗い顔してんだよ」
 遥兵はニッと笑って鉄人の背中をばんと叩いた。
 「ご覧の通り、ピンピンしてっからよ、心配すんなって。今日は薬もらったらもう帰れるし、温泉には入れないけど、リゾートホテルと高級フルコース料理は堪能させてもらうぜ」
 「そうか……」
 ほっと胸を撫で下ろしたところで、不意に鉄人の携帯が鳴り出した。
 「鉄人、病院では電源オフだろー」
 「わっ、わりぃ」
 慌てて取り出すと、ディスプレイに知らない番号が表示されている。知らない番号の電話には出ない主義の鉄人は、音を消してそのまま電話をポケットに仕舞おうとした。するとなぜか遥兵が慌てたように立ち上がった。
 「おいおい、出れよ電話!早く!」
 「えっ?でも……」
 「いいからっ、早く!大事な電話かもしれないだろ?」
 時雨努までが鉄人をせっつく。
 「ほらっ、外行って話してきなってば」
 経夢人に押し出されるようにして、鉄人は処置室から飛び出した。訳も分からず病院の外にでて、恐る恐る通話ボタンを押す。
 『鉄人、久しぶり』
 耳に押し当てた電話から、懐かしい声が聞こえてきて、鉄人は目を見開いた。
 「のっ、ノエル?」
 『うん』
 「電話なんて珍しいな。何かあったのか?」
 電話の向こうで、ノエルはもごもごと口ごもった。
 『ええっと……今ちょうど仕事が一段落したからさ。そういえば鉄人はどうしてるかなぁと思って』
 嘘だ、と鉄人は思った。きっとあの3人組が、取り乱した鉄人を心配して、ノエルに連絡を取ったのだろう。
 鉄人は思わず苦笑いして、電話を握りなおした。
 「そっちは元気にやってっか?」
 『うん。こっちのスタッフも案外いい人ばかりだし、スノウもいるからね。鉄人は……大丈夫かい?』
 「あったりめーだ。おれはいつも元気元気。毎日面白おかしく生きてっからよ、心配することなんて、これっぽっちも無いぜ」
 鉄人の虚勢に気付いたのか、ノエルはおかしそうに笑った。
 「何がおかしいんだよ?」
 『別に……鉄人が、あれからちっとも変わってないみたいだから、ちょっと嬉しかったんだ』
 鉄人はもごもごと曖昧に返事をした。
 メールのやりとりは時々していたが、こうして電話で直接話をするのは本当に久しぶりだった。お互い話したいことが沢山あるはずなのに、いざとなると言葉がちっとも出てこない。ノエルもきっと同じなのだろう。しばらく不自然な沈黙が続いた。
 『……鉄人』
 「ん?」
 『何て言っていいのか分からないけど、僕らって、結構幸せ者だよね』
 鉄人はしばらく考えてから、噛み締めるように答えた。
 「……そうだな、幸せ、かもしれない」
 辛い記憶も、心の傷も、少しずつ時と共に過去に押し流され、今鉄人の目の前には、手付かずの未来が広がっている。そこには相変わらず途方も無く大きな障害が待ち受けているけれど、今、この瞬間、沢山の仲間たちが自分を支えてくれている。
 おれは、幸せだ。
 電話の向こうで、ノエルが微笑んでいる気配がした。
 『鉄人、僕ら、人生楽しまなくちゃね』
 「ああ」
 『遠く離れてても、僕らはいつも一緒だよ。これからも、一緒に生きていこう、鉄人』
 「もちろん。……ノエル」
 『うん?』
 「あ……あんがとな」
 ノエルはくすりと笑った。
 『それじゃ、また連絡するよ。またね』
 「ああ、またな」
 電話を切ったところで、タイミングよく背後の自動ドアが開き、治療と会計をすませた4人がやってきた。
 「電話、誰からだったの?」
 経夢人がわざとらしく聞いてきた。
 「なーいしょ!」
 鉄人も負けじとわざとらしく返した。
 「怪しいな、まさか彼女とか?」
 「まっ、そんなとこかなぁー」
 「えっ、うそっ!弓ノ間くん、いつの間に彼女できたの?そんなぁ」
 本気でショックを受けている霧流に、遥兵が呆れたように言った。
 「お前さぁ……しつこいようだけど、許婚いんだろ?」
 「だーかーらーっ、それはそれ、これはこれなんだってば」
 霧流は恨めしそうに鉄人を睨んだ。
 「ひどいなぁ弓ノ間くん。ついさっき、夜の砂浜で交わした抱擁は嘘だったわけ?」
 「ええっ?」
 遥兵以下2名が、ぎょっとして鉄人を見た。鉄人はさっと青ざめた。
 「なっ、何言ってんだよ。あれは……」
 「そういや二人とも、砂まみれのずぶ濡れだし、一体なにやってたんだよ?」
 時雨努のもっともな質問に、鉄人は更にたじろいだ。
 「これはちょっと事情があって……」
 「誰もいない海。月明かりの下で、二人きりの愛のダイビング……うーん、ロマンチックだったなぁ」
 鉄人の言い訳を遮るように、霧流はうっとりと言った。
 「もうぼくさ、弓ノ間くんがどうしてもって言うんだったら、リアと婚約解消して、弓ノ間くんのお嫁さんになってあげてもいいよ?」
 「うわーっ、きもいんだよお前は!」
 遥兵が慌てて鉄人と霧流の間に割って入った。
 「テツ、何があったか知らねぇけどな、これからはもうこいつの半径1メートル範囲に近づいちゃだめだぞ」
 「あれー、猛地くん、そんなこと言っていいわけ? 誰のお陰で、この旅行ができてると思ってんの?ついでに、きみが迅速に治療を受けられたのは、誰のお陰だったっけ?」
 「うっ……」
 思わず尻込みした遥兵を押しのけて、霧流は鉄人の両手を取った。
 「ぼくさ、こう見えても結構家事は得意なんだよ。いい奥さんになるって。毎日おいしいご飯作って、弓ノ間くんの帰りを待ってるんだ。そんで、“あなた、お風呂でする?それともベッドでする?”なーんて言っちゃったりして……うぐっ」
 「殺すぞ」
 鉄人の強烈なケリが霧流の尻にヒットしたところで、車寄せに迎えに来たリムジンが到着した。
 「ゆ、弓ノ間くん、今本気で蹴ったね……」
 「うるさいうるさいっ!よーし、もうこうなったら高級リゾートホテルにレッツゴーだ!思いっきり楽しんでやる!」
 「ヤッホー!屋上スイート!ゴージャス風呂!!」
 夜の静寂に嬌声を響かせながら、5人はリムジンに向かって駆け出した。
 「テツっ!」
 不意に後ろからぽんと肩を叩かれて振り返ると、遥兵がにやりと笑って言った。
 「お楽しみは、これからだぜ!」
 そういい捨てて、鉄人を抜いて走っていった。背中の傷を庇いつつ、ぎくしゃくと走っていく遥兵の後ろ姿を見つめて、鉄人もつられて笑った。

 そう、長い人生、お楽しみはこれからだ。

<了>

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ほんとうに、すてきなお話をいただきました。後ろ向きになっちゃったテツと、凛としている燕に思わずホロリ。
ああ、ここからワンス・イン・ア・デケイドにつながっていくのかあ……と思うとジーンとします。
研究所の描写はさすがです! 呻ってしまう。幕取教授ー!
そして妙にツボったのがローソンで待機する橋本さんでした……(笑)
チープーの役どころがスゲエよヲイ!
アールさん、いつもありがとう。今回、取りかかるのが遅くなってごめんなさいなのでした。

2007-12-20



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