第五題「隙を伺って」
「もう……いいよ。はなして」
テッドは何度目になるかわからないそれをまた口にした。カミラは無言で首を振って、支える腕に力をこめた。
いくらテッドの体重が軽くとも、子どもひとりを長時間膝にかかえてつらくないわけがない。吊られた手首に負担をかけまいと、ずっとそうしてくれているのである。
折られた方の手は腫れあがって、すでに感覚がなかった。手首から流れた血液は白いシャツをつたって、脇の下までを濡らしていた。腕はもう、使い物にならなくなるかもしれない。それならばカミラが努力しようがしまいが、結果は同じことだ。
「ねえ、あんたも休んだほうがいいよ。おれのことはもう、いいからさ」
「かわいくない子ね」
カミラは怒った顔をして、テッドを支えなおした。いまさら何を言っても無駄なようだ。
「子どもなんだから、少しは弱音を吐きなさいよ」
「悪いけど、子どもっていわれるの、好きじゃないんだ」
「ああそう。でもあなたは子どもよ。突っ張ってたって、なんにもできないじゃない。泣いてたくせに、じぶんで認めようともしない。かわいくないったらありゃしないわ」
気丈なふりでもしなければ、彼女のほうが挫けてしまいそうなのだろう。テッドは反論するのを諦めた。
テッドとカミラが立ち直れないほどのショックを受けていることを確認して、ユーノスは階上に戻っていった。去り際に数人の見張りを残し、牢を振り返ると、陳腐な脅し文句を口にした。
「ふたりでひと晩しっかり相談するんだな。朝になってもウンと言わなかったら、こぞうは手を切り落として処刑してくれるわ。女、おまえも二度と家に帰れると思うな」
鉄格子が閉ざされる音が重くひびき、カミラはフラフラとテッドに歩み寄るとその身体を抱きしめて、むせび泣いた。
男たちはカミラを抱いて満足したのか、あろうことかいびきをかきはじめた。見張りとしては失格である。鎖さえ切ることができたら、脱出も可能だったろうが。
テッドもカミラも、すでにその力はなかった。身体を寄せあって、互いを案じることくらいしか。
カミラはもう泣いてはいない。だが刻まれた心の傷がどれほど大きいか。こういう場合、気の利いた言葉でなぐさめることのできる人間を大人というのだろうか。
テッドの心は沈んでいた。自分はいったいどこに属すればよいのだろう。子どもではないが、大人でもない。子どもと呼ばれると虫唾がはしる。しかし、大人ではあり得ない。
居心地がひどく悪かった。身体と精神の摩擦が、どんどん大きくなる。いったいいつになったら、この呪縛から逃れることができるのだろう。深淵ばかりがやたらと目につき、前向きになろうなどという気持ちは足掻くほどに遠ざかっていく。
疲労していた。カミラの罵倒すらも、どこか遠いところでしか受けとめられない。子どもらしくない、かわいくない、けれども皆は言う。子どもだと。どんなに否定してもぞれが現実の自分である。
生まれてきたのは間違いだったのかもしれない。ここにいる自分の存在自体が、そもそも間違いなのだから。
ソウルイーターを意のままにした気でいて、じつは制御するどころか、『それ』にすべてを見透かされていた。都合のよいときだけ便利な道具のように扱おうとする傲慢な宿主を、相方は嘲笑ったのだ。
唯一の理解者にすらも見放された。
この世からいなくなりたい。
幸福な死など望まなくてもいい。ただ、いなくなりたい。消えてしまいたい。
惨めな思いをしながら無様に生き続けるよりは、このまま口をつぐんでいたほうがいいのかもしれない。
ソウルイーターは自分の血に濡れて、暗く輝いて、だれかの手に渡るだろう。『あの女』でないならば、次がだれでもたいした違いはない。そう、これが潮時というやつだ。
「なにを考えているの」
ふいにカミラが訊いた。
「べつに」
「うそ。そんなにわかりやすい顔をして、ごまかすものじゃないわ。だからあなたは子どもだっていうのよ」
「子ども子どもって、うるさいな。いいかげんにしろ」
「いやなのよ、もう」とカミラは言った。「あなた、母さんにそっくり。なにもかも諦めましたって顔をして。けっきょく、自分のことしか考えてない。あなたひとりで生きていると思ったら、おおまちがいなんだから」
テッドはかっとして、腕をふりほどくように身じろいだ。
「あんたになにがわかるんだよ」
「わかるわよ」とカミラ。「テッドはわたしを知らなくても、わたしはあなたが何者かを知ってるもの。知ってるから、腹がたつんじゃないの」
テッドは声をひそめた。
「あんた、だれだ」
カミラは答えるかわりに、動こうとするテッドをこらしめるようにきつく抱きながら、耳許でそっとささやいた。
ねんねんころり やさしいこ
過ぎ去りし日の おもいでは
麦穂のゆりかご ゆらします
テッドの身体が明確に硬直した。鳶色の眼をじっとカミラに釘づける。
「やっと気づいたかしら、おばかさん」
「………」
「ソウルイーターは、あなたひとりで守っているんじゃないのよ。とうぜん、あなたひとりのものじゃない。それを忘れないことね。母さんもあなたもまちがっていたけど、道を違えちゃいないわ。それしか、いえないけど」
カミラの口調は次第におだやかなものになった。言葉を継げないテッドの頬にそっと口づけ、まるで我が子に言いきかせるように話しだす。
「わたしはね、父からも、母からも疎まれていたの。生まれてこなければよかった子かもしれないと、思ってた。けど、あなたと会ってはじめてわかった。わたしが生まれたことには、意味があったのよ。母さんも、役目を果たしたんだ。そう思ったら、すごく……うれしかったの」
この女性はなにを言っているのだろう。テッドは混乱していた。
故郷の村に伝わる子守歌を口ずさむ女性。だれも知らないはずのその歌を、カミラ―――彼女は、歌った。
「みんな死んだ」とテッドは抑揚なく言った。「みんな、死んだ。村はもう、死んだ。だから、そんなはず、ない、んだ」
隠された紋章の村は幼いテッドの目の前で焼き尽くされ、すべての魂は、ソウルイーターに取りこまれた。ただひとり、祖父からその紋章を受け継いだテッドだけを遺して。
「信じろといっても、むりな話ね」
カミラの言葉はひとりごとのようであった。
「でもね、わたしとあなたが出会ったのは、約束されていたことのような気がする。そうでも思わなければ、奇蹟なんて起こらないわ。きっとあの人だって、未来を信じて、母さんにその役目を託したのにちがいないから」
カミラの言うことは、テッドにはまったく理解できなかった。ただ無性に心が騒いで、なぜだかどうしようもなく悲しかった。
「死ねるなんて思っちゃだめよ」
「そんなこと、関係ないあんたにいわれたくない」
「放り投げたら呪うわよ」
「うるさい」
「つらいんでしょ。やせ我慢ばっかりして。泣いたらいいじゃない。泣きなさいよ、テッド」
「寄るな。わかってんなら気づけよ、ばか。あんたが喰われちまう」
「どっちがばかよ。弱音を吐きなさいって、あれほどいったのに。ほんとに、この子は、どうしてこんなにばかなのかしら」
「子どもじゃ、ない」
「子どもよ。じゃなかったら、いまくらい子どもになっちゃいなさいよ。だれも見てないわ、だいじょうぶ、ぜったいにいわない。ないしょにしておくから」
なんなんだ、この人は。
奇妙な感情の正体もわからぬままに、限界がやってきた。悔しいが、相方の前で嘘をつけないのと同じだ。
ソウルイーターはいますぐ牙は剥かないだろう。意図的な発動を拒否しているかわりに、むこうの悪意もまた、とどかない。
だから、カミラの言ったとおり。いまなら、泣ける。
こんな理解不能な状況で醜態をさらすのは、癪である。けれどもだめだ。感情が堰きとめられない。
「頑張ったのね、テッド。ずっとずっと、ひとりで背負って……ここまで歩いてくるのは、どんなにか重かったでしょうに」
カミラは母親がするようにテッドの髪の毛をやさしくなでた。
臀部に弓矢を突き刺された馬は気の毒に、暴れるだけ暴れたあと、道端の溝にはまりこんで身動きがとれなくなった。
目を回した御者と気の弱そうな憲兵二名はすなおに投降したが、ユーノス・オーウェンから便宜をはかってもらっていた一味は、ばれたらやばいと思ったのだろう。逃げっぷりだけは賞賛ものであった。
「ヤンス先生、お怪我はございませんでしたか」
連行される途中、馬車を急襲したのはどうやら山賊ではなかったようだ。武装して乗りこんできた男とヤンスは顔見知りであったので、彼はひどく驚いた。名前こそ忘却したが、旧市街では有名人である。悪化する治安を守るために自然発生的に組織された、腕に覚えのあるボランティアグループのリーダー格の青年。
反体制に傾いているふしがあって、フレッド自身は全面的に共鳴できず、距離を置いていた。血気盛んな若者が集まって、いよいよ革命でも起こすつもりだろうか。救出されたはよいものの、フレッドは不安になった。
交換条件に革命の手伝いをさせられたのでは分にあわない。力ずくで州議会を脅すやりかたは、フレッドは反対だ。それでは一部の権力者がしていることと変わりないではないか。
きちんと意志を伝える覚悟で馬車を降り、フレッドは絶句した。
「市長……なんで……」
まるで、これから戦争がはじまるのだろうかと疑いたくなるような兵士の群。まっ先に目がいったのは、側近から事情説明を受けているらしい現市長の姿だった。
「なにが起ころうとしているんですか」
「汚職に関わった者たちの一斉摘発だそうですよ」
「……ええっ」
わずかなあいだにどうしてそこまで事態が急転したのであろうか。先日までの州議会には動く様子はまったく見られなかった。官僚たちの悪習ともいえる相互監視が機能している以上、任期中に事を荒げたくない市長を動かすことは実質的に不可能だとフレッドも思っていたのだ。
「どういうことだろう」
フレッドは声をひそめてチェスターに耳打ちした。どうも腑に落ちない。
「大物のダレカサンが、足をひっぱりそうなやつらを掃除したいんじゃないんすかね」
「ぼくもそう思う。あまり深入りしないほうがよさそうです。それよりも、カミラちゃんとテッドくんをたすけることが先です」
「くそ、カミラにおかしなまねしやがったら、あいつら……ユーノス、っていってたな、あのにきびヅラ」
「その名前から追ってみましょう。どのみちあくどい連中にはちがいありません。あの人たちにも協力はしてもらえるでしょう」
フレッドが言うよりも先に、チェスターは市長に談判するために走っていってしまった。
明け方までにはまだだいぶ時間があるだろうに、地下牢が急に慌ただしくなった。ぐうぐう眠りこけていた見張りは駆けつけた男に蹴り飛ばされ、さんざん罵倒されて縮こまった。
「本部が捜査令状を持ってきやがった。女とガキを隠せ」
「隠せって、どこに」
「どこでもいい! 木箱にでも詰めろ。急いでな。おい、床の血は拭いておくんだぞ」
テッドは鉄輪からはずされて、上腕をぐるりと縄で縛られると、牢の外に積んであったかびくさい木箱に尻から押しこめられた。
「声をだしたらぶっ殺すぞ」
蓋が閉まって、周囲が真っ暗になる。狭いのにむりやり身体を曲げられたせいか、息が苦しい。両手は痺れてまったく動かず、鈍痛がする。
酸素不足で、意識が遠のいてきた。冗談ではなく、このまま放置されたら危ないかもしれない。手首を落とされたあとはらわたを引きずりだされるよりはいくぶんましだろうが、恨み言のひとつも言えぬままお陀仏というのは癪である。
それに、テッドはカミラともういちど話をしたかった。
テッドの事情をすべて知っているらしいカミラは、何者なのか。村の関係者というのは考えにくい。彼女はほんとうにたまたま、拾われた家で会っただけの女性だ。それに故郷の村が消滅したのは、いまからもう三十年も昔の話である。
”母さんも、役目を果たしたんだ”
カミラはそう言っていた。
母親、か。
つまりは、カミラの母親がだれかということに尽きる。村の掟は絶対で、そこで生まれた者はだれ一人、外の世界へ出ることを許されない。顔も知らぬテッドの父も母も、村で生まれ村で死んだ。
カミラは、まだ二十。つまり、村人が全滅したあとに生まれた子どもだ。逃げ延びた女性がいたのだろうか。
否定する。そんなはずはない。
あり得ない。
最後の生き残りは、自分だ。この眼で目撃したのだから、間違いはない。
なにが真実で、なにが誤っているのか。
テッドには、判断がつかなかった。
外が騒がしい。カミラも木箱に入れられたのだろうか。それとも、別の場所に連れていかれたか。
複数の足音にまじって会話が近づいてくる。
「ええ、ここはひっとらえた不届き者たちを閉じこめておくための牢屋ですよ。彼らは乱暴で手に負えませんから、頑丈につくってあるだけです」
「囚人の食事はどうしています? 山賊とて、裁判を受ける権利はあるのですよ。人道には配慮しているのでしょうね」
「もちろんですとも! ちゃんと料理人を手配して、そのあたりの配慮はもう万全で、へへへ」
「保護要請の出ている子どもと、同行していた女性が一名、行方不明なのですよ。情報によるとユーノス指揮官、あなたが身柄を確保されたという話なのですがね」
「え、ええ、そのとおり! ですから、怪我の手当てをしてから当局に送り返しましたけどねえ。山賊にでも襲われたのでしょうか」
どこかで聞いた大声が割ってはいった。
「タヌキの化かし合いをしてもしょうがねえ。あんた、カミラどこやった。ちびすけもだ。だしやがれ」
チェスターだ。
「だれですかあなたは。これ以上無礼を働くと許しませんよ。ここは個人の住宅です。無関係の人が、不法侵入してよいとでも思っているのですか」
「無関係がきいて呆れるぜ。なんなら思いださせてやろうか。いい具合におたくら、証拠残してるのにも気づいてねえみてえだからな」
「おや、見たことのある帽子。これ、ぼくがテッドくんにあげたお下がりですよ。ほら、ここのところにフレッドって刺繍してあるでしょう」
「く、くそ! ええい、やっちまえ!」
だまって聞いているとまるで三流の芝居のようだ。チェスターもフレッドも天下無敵の大根役者である。間違っても劇場からスカウトは来そうにない。本職はふたりとも百八十度反対方向なのだから、この程度でもいちおう誉められるべきであろう。
かたやユーノス・オーウェンは情けないほどの小悪党だ。こんなチンケな男に翻弄されたとあっては、生涯の恥である。笑い事ではすまされない。
醜悪な趣味の延長で何人殺したのかは知らないが、正当な裁きを受け、絞首台にのぼるがいい。因果応報というやつだ。
「それ以上近づいてみろ。こぞうをぶっ殺すぞ!」
木箱の蓋が乱暴にあけられた。ぶよぶよとたるんだ腕がテッドを鷲づかみにする。
「首をへし折ってやる。こんなこぞう、素手で殺るのは簡単だ。紋章だってどうせこけおどしだろうが。ガキに紋章なんて百年早ぇえんだよ」
「ちびすけ!」
チェスターの髪が逆立った。シャツに付着した血を見て歯ぎしりをする。
「いいか、十分以内に表に馬車を用意しろ。さもなければ、ほんとうに殺すぞ。脅しじゃないからな」
テッドは呆れて、ため息をついた。
「ねえ、悪徳保安官のおじさん」
「ああ?」
「そろそろ観念したらどうかと思うな、ボク」
血管がブチブチ切れる音がした。
「よせ、テッドくん、挑発するな!」とフレッド。
「こ、ぞ、う~!」
首を圧迫される。ぎりぎりと肉が食いこんだ。
「ソウ、ル、イーター……」
右手に念じる。
そこに力が凝縮していくのを、はっきりと感じた。
だがテッドは、すぐにその試みを中断してしまった。
「……やめた」
「なにを笑っている、こぞう」
テッドは額に脂汗を浮かべながら、言った。
「おれの相棒、こう見えてもあんがい、美食家なんだ。まずいモン喰わせたら、しっぺ返しが、くるンだよ」
鳶色の眼をかっと見開く。
渾身の力をこめて、テッドはユーノスの太鼓腹をカンガルーのように蹴り飛ばした。
「ぐへぇっ!」
踵はみごとなまでに胃袋にヒットした。
ユーノスはテッドを手放して、腹を抱えて前のめりに倒れた。そのまま泡を吐いて悶絶する。
「テッドくん!」
床に転がったテッドにフレッドが駆け寄り、抱き起こした。チェスターはユーノスにとどめの一蹴りを加えたあと、「カミラ、どこだ!」と叫んだ。
形勢逆転。オーウェン邸の下っ端たちはあっという間に拘束され、壁際に整列させられた。兵士がばたばたと邸内を走り回り、行方のわからないカミラを捜した。
「いました!」
地下牢の掃除用具入れから、猿ぐつわを噛ませられたカミラを発見すると、チェスターは人目もはばからず猛烈に抱擁を開始した。
「あの外道、人の彼女をモップといっしょにしやがって!」
カミラはぶるぶるとふるえ、チェスターの胸に顔をうずめて嗚咽した。チェスターは一瞬でそのわけを理解したらしい。ぎゅっと眼を閉じると、最愛の女性をしっかりとその腕に抱きしめた。
最終更新日:2006-10-03
