第十一題「認めたくなくて」
ごみごみとしているだけでさほど広くもない旧市街を、これほど茫洋と感じたことはかつてなかっただろう。生まれ育った町がまるで知らない国のようによそよそしい。
ここは、どこだ。ほんとうに、おれの故郷か。
立ち寄りそうなところはとことんさがしまわったが、身重の女房の姿はどこにもなかった。動くことが大好きな彼女を尊重するつもりで、家事などをすべてまかせていたことはいまさら悔いてもしかたがない。
目を離したことを後悔するくらいなら、もっと焦れ。必死でさがせ。チェスターは自分を叱咤して、いちど下ろしかけた腰をまたあげた。
女房は昨夜も、明るく笑っていた。生まれる気配はまだぜんぜんないらしく、定期的に様子を見に来てくれる助産師も茶飲み話を愉しんだだけで帰っていったようだった。
初産だから、そうそう予定どおりにはいかない。まだ半月も先かもしれないし、いますぐ陣痛が来てもおかしくはない。そんな大事なときに所在が確認できなくなるなんて、ドナヒュー家にとっては世の中を騒がせているニュースよりもはるかに大事件だ。
町は天地をひっくり返したようにざわめいていた。本日何度目になるかさだかでない号外を配る新聞屋の丁稚を追いかけて、たくさんの人々がわっと群がる。なにか新しい情報が加わったかとチェスターも風に飛ばされてきた一枚をつかんだ。
”オルタ州議会解散可決 総選挙へ”
最大与党の派閥が大法官や名のある町の名士とともに不幸な事故で一挙に死亡したニュースが市民を仰天させた直後、まったく別の震源によってオルタ州は再度激震した。大物議員や銀行家、貴族らが背信を暴かれ、つぎつぎに逮捕されていったのである。
社会的地位のある者たちの不正事件が白日の下にさらされたのは、スワントレイク市長の証言によって相互監視の均衡が崩されたからにほかならない。なかでも保守党党首のスキャンダルは市民を激怒させ、審問にかけられるよりも先に彼は刃物を持った暴漢によって無惨に命を絶たれてしまった。
勢いづいたのは野党の若手議員たちである。この機に乗じて政権交代を成し遂げ、これまでことごとく却下されてきた革新的政策を一気に推し進めたい考えが見え見えだった。有権者の支持が議会から離れているいまが最大の好機。多少強引にみえるやりかたでも、結果とすればプラスに働くはず。彼らはそう考えた。
街角は次世代の理想論を演説する声であふれ、腐敗した上流社会を糾弾するデモ隊があちこちで憲兵といざこざを起こした。
国家もオルタ州の混乱を達観するわけにいかず、きょう午前、全土に戒厳令を発して国民の出国禁止を決めた。わずか一夜にして、子どもたちまでが治安維持部隊を見たら石を投げろと教育されてしまったらしい。スワントレイク市は塩景気以来およそ百年ぶりのにぎわいを取り戻し、どこの大都市かと見紛うほどであった。
ろくでもない連中が仕掛けやがったな、と予測したのはフレッドらごく一部の者のみである。大多数の人々は悪事が天によって暴かれたと信じて疑わない。
もはや自分の身は自分で守らなくてはなるまい。この混乱のなかではなにが起こっても助けてくれる者はいない。
いつもどおり午前の買い物にでかけたカミラを呼び戻そうとして、通い慣れた市場で気になる話を聞いた。カミラと思われるお腹の大きな女性が身なりのよい男性に呼びとめられ、なにか言葉を交わしたあと通りに待機していた馬車に乗ったというのである。
「あれは奥さんだったわ。なんやら深刻な雰囲気だったけどねえ」
カミラの好物のベビーカステラを売る屋台のおかみに礼を言い、手がかりを求めてチェスターは町を駆けずり回った。なにかとてつもなくいやな予感がした。
一週間ほど前になる。買い物から戻ったカミラが蒼白な顔をして、テッドを見たと訴えるのだ。興奮して取り乱していたのでジュースを飲ませて落ち着かせ、詳しく説明するようにうながした。
「馬車に乗っていたの。馬車は、王冠をかぶった蛇の文様のエンブレム。めがねをかけた男の人と、いっしょだった」
「人違いじゃないのか」
「いいえ、テッドよ。だってあの子、私のほうをじっと見ていたもの」
馬車に描かれていたという王冠をかぶった蛇は、調べてみるとよくない符合と一致した。
話を聞いたフレッドも眉をひそめ、静かにうなった。
「バジリスク。視線だけですべての魂をかすめとるという伝説の蛇だ。それを紋章としているのはボナパルト商会」
「泣く子もだまるちゅう、あの塩問屋ですかい。イヤーな感じだな。塩、ねえ」
フレッドとチェスターは顔を見あわせた。互いの推測はおそらく同じだ。
「カミラ、ちびすけは、ほんとうに生きているかもしんねえぜ」
「えっ」
「けどよ、そうだとしたらちっとばかし厄介なことになってやがる。へたに騒いだらこっちにまで火の粉が降ってくるかもしんねえ。とくにカミラ、おまえはいちばん大事なときだ。いつもどおりにしてろ。ちびすけはかならず助けるからな」
ボナパルト商会。バジリスクの馬車。カミラを連れて行ったという男の正体が見えた気がした。
「させねえぜ」
チェスターはぎりっと歯を鳴らして、フレッドに伝えるために診療所へと踵を返した。
「揺れがお身体に障らないとよいのですが」
物腰のやわらかい青年は、カミラに気を遣ってそっと膝掛けを羽織ってくれた。緊張がそれで少しだけゆるむ。カミラは色を失った唇で礼を言い、漆黒の瞳の青年をちらりと見た。
ととのった顔立ちはとてもやさしそうに見える。黒のスーツも嫌味がなく上品だ。かなり高い教養と礼儀を身につけているのだろう。言葉づかいも丁寧で、紳士的である。
見知らぬ人なのに名前で呼びとめられたこと、それに続く会話のあまりにも衝撃的な内容に、チェスターの忠告も忘れて従ってしまった。だがいまのところ、危害を及ぼされるような感じはまったくしない。
「テッドさまがカミラさまに、お会いになりたいと申されております」
それは真実なのか。だとしたらテッドはどうやってあの状況から生きのび、どんな暮らしをしてきたのだろう。連絡のひとつもよこさなかったことに理由はあるのだろうか。監禁されてそのあいだずっと、ひどい仕打ちに遭っていたのではなかろうか。
よくない想像ばかりがぐるぐると頭を駆けめぐる。不安のせいか、お腹が張る感じがした。臨月を迎えて胎児も居住まいが狭くなったとみえ、あまり活発には動かなくなった。いまごろ母親の焦燥を察して、やれやれと思っているにちがいない。
「テッドは、その……」
思い悩んで、カミラはようやく重い口をあけた。
「元気でお暮らしですよ。ぼくとしましては若様があまりにもやんちゃなもので手を焼かせていただいておりますけど。若様がいらしてから、邸内もだいぶ明るくなりました。お子さまがいるというのは、まことによいものです」
「邸……ですか」
「ええ、当家の主人がテッドさまを引き取られたのです。跡取りがおられないものですから……それはそれは、大切にしておいでです」
カミラはほうっと息を吐いて、胸元に手をあてた。よかった。テッドは不幸になったのではなかったのだ。
涙がぽつぽつと滴った。殺されたと思っていたテッドが生きていた。しかもお金持ちの屋敷の子どもとして、しあわせに暮らしている。それはカミラにとって、なによりの福音であった。
馬車は塩湖へ向けて整備された道をひた走ると、やがて脇道へそれた。高台へ一気に駆けあがる。見たこともない雄大なながめに、カミラは思わず目を奪われた。
「まもなく屋敷です」
馬車が停まると、数名の使用人とおぼしき男性が待ちかまえてお辞儀をした。カミラは青年の手を借りて馬車から降り、屋敷を見あげて、あまりの豪華さにしばし呆然とした。
これはほんとうに一般の邸宅なのだろうか。贅沢すぎると一部で不評な市庁舎新館とどちらが立派だろう。
門をくぐって、驚きは呆れに変わった。これは住宅ではない。宮殿である。広すぎる中庭には色とりどりの花が植えられ、噴水が稼働していた。新市街にある塩御殿もこうはいくまい。いったいどれほどの金持ちが住んでいるのやら。
ふと、植え込みに無造作に放ってある泥にまみれた子ども用の靴が目にとまり、カミラはまた眼が熱くなった。それはテッドが不幸ではないことをカミラに教えていた。
彼女からは視認できない位置に犬の牙による無惨な噛み痕があることを、天は気づかせてはくれなかったのだ。
案内されるがままにカミラは幾度もため息をつき、別世界の暮らしに魅了された。自分はひょっとして、とんでもなく場違いなところにいるのではないだろうか。生まれ育った家は下町の集合住宅だったし、チェスターと生活をはじめた借家もオンボロだった。現在住んでいるフレッドの診療所がいちばんましなくらいである。
ここは天上の世界。どんなにあがいても、自分などには一生手が届かない。この屋敷のあるじは何をしている人で、どういった経緯でテッドを養子に迎えたのであろうか。
わずかな疑問が頭をもたげた。経緯。それが激しく不透明だ。
カミラは我に返り、傍らの青年に訊ねた。
「これはどなたのお屋敷ですか」
「ボナパルト商会の経営者、マコルフ・ボナパルトさまです」
「ボナパルト……」
その名には著しく聞き覚えがあった。塩業界では押しも押されもせぬ立役者である。
フレッドとチェスターは言っていた。
孤児虐殺の裏に塩の取引をめぐる思惑が絡んでいる。
黒幕を疑うとしたら、塩によって財を築こうとしている者だ。
首筋がにわかにチリチリとした。手のひらにいやな汗がにじむ。
「若様のお部屋は三階にございます。足元、お気をつけください」
「……どうも」
差しだされた手をカミラはおずおずととった。ひやりとした指はまるで心を凍えさせるようだった。
青年は足が悪いらしく、歩くときわずかに身体を揺らした。
「若様は、お休みになっておられますが……もうじき、お目覚めになられるころです。カミラさまがおそばにいらっしゃったら、さぞお喜びになられることでしょう。どうぞお入りください」
豪華なリビングの一角にあるその部屋は、子ども部屋にしては立派すぎた。
まず視界にとびこんできたのは広い木製の机とたくさんの本。整理整頓に無頓着だったテッドの部屋らしく、絨毯の上に紙が散らばっている。白紙だったり、なにかの数字が書かれていたり、一枚には何故か悪戯描きとおぼしき動物の絵。下手すぎて猫なのか狸なのか判然としない。
窓はカーテンで仕切られてはおらず、広大な塩湖が眼下に見えた。屋敷は高台に建っていたが、こちらは切りたった崖に面している側なのだろう。一部の金持ちにのみ認められた、景観という名の贅沢である。
広い部屋の右奥に、天蓋つきのベッドがあった。静かに眠る少年を見て、カミラは息をのんだ。
「テッド」
健康そうな張りのある頬。櫛のよくとおったつやつやの髪。毛布から外に出た手には包帯を巻いていない。骨折も完治したのであろう。
ギクリとした。
薄いブルーの寝間着ににじんでいるものは模様ではなく、血だ。しかも複数箇所。寝顔はおだやかで呼吸も安定しているが、シーツにまで付着した血液はただごとではない。
「怪我をしているわ」とカミラは言った。
青年は散らばった紙を拾いあつめながら、「ええ」とだけ答えた。
様子がおかしい。見たところ手当てを施した形跡はない。子息が出血しているのに放置するとは。
「どうぞ、おかけください」と青年はうながした。
「その前に、テッドを」
「だいじょうぶです。命にかかわる怪我ではございません。休ませてさしあげることがなによりの療法です」
「でも、あんなに血が」
「出血そのものはもう止まっています。ご心配なさることはございません」
青年のかいま見せた冷酷さにカミラは言葉を失った。あたたかく見えたまなざしが急激に別の色を帯びる。青年は優雅なしぐさでカミラをソファに座らせた。
「テッド」
振り返ってもういちど呼びかけたが、テッドは目を開けなかった。それどころか、さっきから身じろぎをする気配すらない。たしかに息はしているのだが、眠っているというよりも、気を失っているというほうがより近いような感じがした。
「あの子になにをしたの」
「眠れないとおっしゃっておりましたから、おくすりをさしあげただけです」
「怪我は」
「護身術の会得のため多少無理をさせました。許容の範囲内です」
「ひどい」
なにを考えているのだろう。安堵までが粉みじんに吹き飛んだ。青年もこの屋敷も、やはり信頼するに足りない。不況の風吹くスワントレイク市で、豪邸をもつほど優雅な生活をおくれるのは悪事に手をそめているからにきまっている。
金があっても幸福とは限らない。急にだだっ広い部屋が寒々と感じられた。テッドはこの家で笑顔をほころばせるのだろうか。それとも、ほんとうの素顔を頑なにしまいこんで、息を殺しているのだろうか。
「若様が変わった紋章をお持ちなことを、カミラさま、あなたはご存じですね」
「……えっ」
紋章の二文字にカミラは敏感に反応した。身が強張る。
「拘置所のユーノス・オーウェン殿に接見した者が、そのようなことを耳にしたそうです。残念ながらオーウェン殿は留置場に護送されてしまったので詳しいことは聞き逃しました。不本意ではありましたが、あなたさまご本人にお伺いするしかなくなりましたのでね。それで、本日ご足労いただいたというわけです」
「だましたのね。うそつき」
「若様がカミラさまにお会いしたいと思われていたことはほんとうですよ。若様にお味方はいらっしゃいませんので、ね。ぼくも、どうやら信頼されてはおらぬようです。紋章のことをいくらおたずねしても口を閉ざそうとなさいます」
当然だ。ソウルイーターはそれによって利益を得ようとする人間に理解できるようなものではない。なんのためにテッドが我が身を犠牲にしてまで守ろうとしているのか、紋章を守護する村に生まれた者でなければけしてわからない。
カミラの母親はその重圧に耐えかねて自ら命を絶った。当事者ではないカミラでさえも苦しんだのである。テッドに科せられた宿命はどれほどのものであろう。
どんな目に遭おうとも、たとえ命を無惨に奪われようとも、ソウルイーターだけは守り抜く。他者にはけして渡さない。テッドの決意は悲惨で、そして、崇高だ。
時すらも止められた彼は、その幼い姿で、呪縛を厭うのではなく、抱きしめる。そのために泣くことができなくなっても、テッドはけしてその右手を他人に預けようとはしない。
なぜか。それが彼の生まれた証であり、生きてきた証であるからだ。
「お話ししてください。あの紋章はなんなのですか」
「知りません」
カミラはきっぱりと言った。テッドの口からそれを引き出せない以上、この青年にそれを知る資格はない。
青年は答えを予測していたように、ほほえんだ。
「こまったな。やはり、無理にでも発動させてみないことには、だめですか」
「そんなことをしたら、あなた、死ぬわ」
青年はおかしそうに笑った。
「若様もそうおっしゃられていました。ほうら、カミラさん、あなたはご存じだ」
カミラは目を反らして、唇を噛んだ。迂闊なことを言ったらつけこまれる。滅多なことは考えたくもないが、口を割らぬと拷問でもされたら、お腹の子を守れない。
そのとき、視界の端で、テッドが動いたように思えた。それが気のせいではないことは、青年が立ちあがりベッドに歩み寄ったことで確信できた。
「若様、おはようございます」
テッドは返事をするかわりに、かすかに不快を訴えた。
「まだ麻痺が多少残っているはずですから急に動かないほうがよろしいかと。お客さまはもう見えられて、若様のお目覚めを先ほどからお待ちになられています」
テッドの眼が大きく見開き、付き人の背後に固定された。カミラは青年の会話が終わるのも待たず、ベッドに駆け寄った。
「テッド、痛くはない、どこか苦しくない」
「……どうして、来た」
第一声がそれであった。突き放されるような衝撃に、カミラははっと息をのんだ。
テッドは怒りの炎を宿した瞳をカミラに据えると、低く言いはなった。
「あんたに用はない。出て行け」
再会の喜びを期待していたカミラは、突如としてそれを裏切られて呆然となった。会いたかったのひと言でも、いや、それが無理ならばせめて笑顔だけでも。テッドが向けてくれるものと思っていた。
心を閉ざした者のみがもつことのできる、感情のない、凍てついた眼。はじめて出会ったときと同じ、あるいはもっと深い淵に沈んだその眼に、カミラは怯えた。
チェスターと言い争いをするようになって、少しは人らしい感情を取り戻したと思っていたのに。またもとの黙阿弥だ。やはりここでの生活は、テッドをしあわせにはしていない。
「まったくいつも不機嫌なんですから、若様ときたら。もうしわけございません、カミラさま。いきなりのことでしたから若様は戸惑って、邪険な態度をとっておられるのです。わたくしに免じて、どうか」
「下手な芝居はしなくていい、アレン。その人はなにも知らないんだから、無駄だよ」
「若様はお芝居がじょうずですから、ぼくもだまされないようにしないと」
それには答えず、テッドは半身を起こして首を振った。
「くそ、寝過ぎた」
そこにいるカミラを完全に無視して、ベッドから足を下ろす。
「アレン、服」
「今日は横になっていらしてもよろしいのですが」
「そういうわけにいかないだろ。ったく、いま何時だよ。起こしてくれたっていいだろうが。やることはいっぱいあるってのに、こんなの時間の無駄だ」
部屋から続いている洗面所にテッドは裸足でぺたぺたと歩いていった。ざぶざぶと顔を洗う音が聞こえてくる。鼻で水を吸いこんだのか、ふたつみっつくしゃみもした。
「アレン、でかける」
寝間着を乱暴に脱ぎ捨てると、テッドは受け取った衣服に着替えはじめた。腕や足についた傷は小さかったが、出血のあとはくっきりしており、痛々しげに腫れあがっている。
「カミラさまは」とアレンは訊いた。
「おまえが勝手に連れてきたんだから、勝手にすればいいだろ。おれのことべらべらしゃべられたら面倒だから、せめて選挙が終わるまで責任とれ。いっとくけどな、お客さま、だからな。もうすぐ生まれそうだってのもちゃんと配慮してやれよ。なんかあったら旦那はクマより怖ぇえからよ、殴りこみに来っぞ。いいか、よけいなことしたら、無期限で暇を出すからな」
「お申しつけのとおりに。若様の頑固さ、敬服いたします」
テッドはいらいらと「誉めてんだか、けなしてんだか」と言って白いシャツの上にベストを羽織った。どこのお坊ちゃんかと驚くほど、きまっている。とても数ヶ月前は浮浪児だったとは思えない。
知性と教養がそなわっていなければ、いきなりこうは変わるまい。あらためてテッドがただの子どもではないことを思い知らされる。
カミラはぼんやりとテッドの身支度を見守った。テッドは給仕の運んできたサンドイッチをかじり、書類らしきものに目を通しながらミルクを飲んだ。
「ごゆっくり」
カミラをじろりとにらんでテッドはそれだけを告げ、あわただしく部屋を出ていった。
廊下でだれかを怒鳴りつける声がきこえる。その声の幼さと尊大な態度のギャップに、カミラは目を伏せ、膝の上で握りしめた手をじっと見つめた。
「先生、いますれちがったやつ」
フレッドはうなずいた。
「まちがいない。バジリスクの模様。すみません、行き先変更です。あの馬車を追ってください。できるだけ距離をおいて、不自然でないように」
御者は怪訝な顔をしたが、フレッドが財布を取り出すとにかっと笑って馬にムチを放った。
「乗っていた人の顔は見ましたか」
「顔までは。でもちっこいのがいた。ちびすけかもしんねえ」
フレッドたちを乗せた小型の馬車はUターンをして、もと来た道を走った。バジリスク模様の馬車は脚が速く、見失わないようにあとをつけるのが精いっぱいだった。
塩湖のほとりに建つボナパルト商会の事務所に乗りこもうとしたら、タイミングよく先方のほうから現れてくれたのである。唯一の手がかりを逃すわけにはいかない。
証拠はなにもなく、あるのは確信だけだった。
馬車は市の中心部に向けてひた走り、喧噪の満ちあふれる通りを足早に抜けていった。
「旧市街になんの用事があるんだ、あいつら」
入りくんだ路地を迷うことなくくねくねと曲り、馬車が停まったのはチェスターもよく知っている場所であった。
旧市街のなかでもとくに治安のよくない一角で、ごろつきや浮浪者の集まる南エリアにも近い。反体制のガーディアンを組織している、ボランティアグループの事務所がそこにはある。
バジリスクの馬車は目立たぬ場所に横付けされた。慣れているといった雰囲気である。
フレッドはかなり手前で馬車を引き返させ、気づかれないように歩いて近づいた。
馬車から降りた人影を見てチェスターは声をあげそうになった。
ととのった身なりこそしているが、見間違うはずもない。テッドである。
もう一名、黒いスーツをまとい、帽子を目深にかぶった青年がつき添っていた。遠目にはよくわからないけれど、テッドを脅しているふうでもなく、むしろ腰が低いという印象を受ける。
ふたりは裏口から事務所へはいっていった。チェスターとフレッドは足音を忍ばせて小走りにドアへ張りつき、内部をうかがった。
どうやらドアの向こうは目的の部屋に直結しているわけではなく、廊下か通路のような場所らしい。
うなずきあって、そっとドアを押した。ドアは音もなく内側にあき、薄暗い内部にふたりを招きいれた。
並ぶ部屋にはあかりが灯っていない。最奥に質素な階段があり、その上だけがほのかに明るかった。どうやら人のいるのは、そこらしい。
軋みに気をつけながら階段を半分ほどのぼると、人の声がした。
「なんでそう疑り深いんだ。おれたちは言われたことにちゃんと従ってるじゃないか」
「従ってる、ね。たしかに。べつにおたくらを疑ってるわけじゃないけど、そろそろ、掃除をしとかないとまずいかなあと思って。悪く思わないでほしいな。うちに関わった以上、いずれはこうなることになってたし」
しゃべっているのはテッドだ。抑揚のない、ぞっとするような声である。
「じょ、冗談じゃねえぞ。そんな話はしらねえ。マコルフさんはなんていってんだ? おれたち、あの人のためにどんだけ働いたか」
「うん、ありがとうね。そういえば、南エリアから孤児を”保護”するお仕事もしてもらったんだっけ。おかげでボク、殺されかけちゃったし。ほんと、きちんとお礼しとかなきゃ」
「待て、だからそれはマコルフさんの指示で……」
「それでお金がはいってちょっと夢見られたんだから、もういいよね、おにいさん。じゃあ、バイバイ」
断末魔の絶叫が耳をつんざいた。同時に、チェスターは二階へ駆けあがっていた。
血の海だった。ほんの数秒前に話をしていたはずの人物は、すでに事切れているのがわかった。なぜならば、痙攣する身体を床に投げだしている彼には―――頭部がなかったのだ。
先にこちらを向いた青年の手には、不気味な刃をもつ円形のチャクラが握られていた。
鮮血がぽたぽたと滴っている。リーダーの頭と身体を分断したのは、これだ。
「やめろ、アレン」
テッドが制した。アレンと呼ばれた青年は軽く礼をして、あげかけた手をすっと下ろした。
「殺し……たのか」
チェスターは引きつりながら、なんともいえない表情をテッドに向けた。
テッドが、生きていた。口を封じるために連れ去られたテッドが、目の前にいる。殺されたのではなかったのだ。
しかしいまの少年は、チェスターの知っている彼ではなかった。
冷酷な眼。殺人者の顔。無惨に殺された遺体を目の前にして、平然としている。
まるで魂だけが別のものとすり替わったようにも見え。
これは、テッドではない。
「先生、チェスター……こんにちは」
”悪魔”がささやいた。
最終更新日:2006-10-14
