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カテゴリー: 流水のバスティーユ

長編「流水のバスティーユ」

一 暗渠

 太陽暦446年に赤月帝国で勃発した内戦を、後世の歴史家は継承戦争という。帝位継承権を賭けて衝突したのは、正統な継承者であるバルバロッサ・ルーグナーと、その叔父にあたるゲイル・ルーグナーである。一年あまり続いたこの権力闘争は、両軍からほぼ同数の戦死者を出し、帝都グレッグミンスターに深刻な打撃を与えたのち、ゲイル率いる籠城軍の降伏というかたちで幕を閉じた。
 烈しい攻囲戦の舞台となった丘上城塞はもとより、周壁で囲まれた市街地も、見るも無残に荒廃し、商都としての機能は完全に停滞した。陥落後のグレッグミンスターは歴史ある城塞都市の面影もなく、一時は遷都も協議されたほど、戦禍の爪痕が生々しく刻まれていたのである。
 継承戦争とその後に続いた国境紛争で、帝都は多くの捕虜であふれた。捕虜たちを収容した牢獄が、いまも城内にある。北の城塔の基部から入り、そのさらに下にある砂岩層を深くくりぬいて造られた、ハルモニア聖都ルパンダ時代の遺物である。
 赤月帝国は建国以来、罪人の多くを帝都から離れたガヤの監獄へ収監していた。グレッグミンスターの地下牢獄は、入り口となる基部を短期の留置施設として稼働させる以外、手つかずのまま長年にわたり放置され続けてきた。ガヤの監獄が手狭になり、新たにソニエール監獄が建設されたが、ついでに皇帝のお膝元も整備しようという発想には至らなかったようだ。
 増え続ける捕虜をもてあましたゲイル・ルーグナーの軍は、戦争も中盤になってようやく、文献に記された地下牢獄を活用しようと思い至った。錆びついた鍵をこじあけ、二百年もの長きあいだ閉じ込められていた時を解放したという。だが、そこは彼らの期待したような穴ぐらではなかったので、大いに失望したという内容の手記がある。このあたりのいきさつは、ゲイルの遺した手記に詳しく載っている。
 戦時下で新たに捕虜収容所を造る余裕はない。しかたなしに押し込めてはみたものの、そこは劣悪な環境で、捕虜たちからは怒りの声が噴出した。日の光が届かないのは地下だから致し方ないにしろ、床面積が狭く、檻の数も少なくて、すべての捕虜を横に寝かせるには、通路や階段もすべて彼らに与えるしか方法がなかった。
 もっとも懸念されたのが衛生面であった。し尿や糞便を処理することもままならない。伝染病が蔓延するのも時間の問題だった。
 捕虜といえども自国民。のちのことも考えると人道的措置を択らざるを得ないゲイルにしてみれば、戦況以上に頭の痛い話だったろう。
 四方を甥の軍に囲まれた状況で、限りある食糧を捕虜に分け与え、じゅうぶんとは言えないまでも、彼らの権利を尊重した。ゲイル・ルーグナーの信義は、正しく今日に語り継がれているとは、到底言えない。戦に勝利したバルバロッサを讃える妨げとなるからである。
 当時はゲイルに仕えていた者たちも、帝位継承権が人の手から手に渡るように、戦後はあっさりと黄金皇帝バルバロッサに下った。バルバロッサもまた、昨日の敵をすべて受け入れた。
 その後ゲイルがたどった運命は、また別の話になる。いまは彼の功績についてのみ話そう。
 今日、地下牢獄にある設備のほとんどは、ゲイルの短すぎる帝政時代に用意されたものだ。
 捕虜が凍えないための暖炉。それを地下に備え付けるための、大規模な排煙工事。等間隔に並べられた燭台は、そこで生活する者をおだやかに見守り、錬鉄製の手すりは階段を上り下りする手助けとなった。それとともに何重もの鉄格子で地下は仕切られ、こればかりは優雅なたたずまいの装飾様式とは違い、牢獄としての冷たさと異質さをより強調して、捕虜の立場を厳格に示す役割をはたした。
 地上の建物が、白さが際立つ石灰岩の切石と漆喰であるのに対し、地下の壁はそれらと真逆、ほとんど加工しない黒い石を野面に積んだものである。おそらく古い時代のものであるので、初歩的な技術が用いられているのだろう。
 急ごしらえではあったが、天井と床と壁以外をすべてゲイルは新しくした。よもや、その功績をすべて甥に横取りされるとは想像もしていなかっただろうが、ともかく、伝染病は阻止した。
 しかし、地下牢獄が賑わったのもほんの数年あまり。
 捕虜は年を追うごとに数を減らし、拘留期間の長いものたちはまた以前のように、ソニエールへ送られるようになった。いまや収容者よりも看守のほうが多い。
 城下には「捕虜の運命みっつにひとつ、死ぬも生きるも檻の外」という小話がある。ひとつ、ソニエール監獄へ移送されて一生涯をそこで過ごす。ふたつ、腕に烙印を押され国外追放。そしてみっつめは、
「ロリマー送りの運命、よ」
 手刀で首を斬るまねをして、髭面の男はニヤニヤ笑った。
「しかしまあ、どの招待状が届いてもここからは出られたわけですよ。むかしの囚人はしあわせだねえ。ロリマーくんだりまで旅行させてくれるなんて、今生の思い出としてはかなりしゃれてるとは思わんかね。ねえ、きみ?」
 話を振られた少年は意に介すこともせず、目を伏せている。
「おっと、期待してもらっちゃ困るよ。あくまでもむかしの話だからな。もうそんな面倒な時代じゃないんだよ」
 うるさいな、と少年は思った。虫酸が走る声だ。
 左遷されたというのに、いつまでだらだらと帝都にいる気だろう。近衛隊に未練があるのなら、地下牢で油を売っていないで、かつての部下を並べて檄のひとつも飛ばしてくればいいのに。
 看守たちもみなうんざりしている。男が長居をするので、本来の業務に戻ることができず、時間の過ぎるのをただ待つしかない。
 自分の演説に酔って得意げだが、面白くもない旧聞はお腹いっぱいだ。すみやかにお帰り願いたい。
 次の職はコウアンの軍政官だという。住民が気の毒だ。
 大嫌いなマクドールの息子を部下にしたばかりにとばっちりを食らったとでも思っているのだろうが、本人以外は自業自得だと思っている。おそらくは副官のカナンも思っている。
 もと隊長どのはよっぽどロリマーがお好きらしい。ロリマーには有名な首斬り場がある。「いい子にしてないとロリマーへ連れていくぞ!」は一昔前まではかなり有効な脅し文句であった。
 それにしてもこの低俗な男は、七年前の史実すらも勉強していないのだろうか。よく近衛隊長に採用されたものだ。
 ゲイル・ルーグナーが人民を処刑したという公式記録は一切ない。継承戦争の死者数は、ほぼすべてが戦闘による直接の犠牲者である。その一年間は、司法もひどく混乱していたので、ロリマーをはじめとする各地の処刑場は執行を中断せざるを得なかった。ゲイル軍に捕らえられた戦犯たちも、裁判にかけられたために、その手続きのあいだに戦争そのものが終結してしまい、結果として処刑をまぬがれた。
 物語としては残酷なほうがゾクゾクする。つまらない現実よりも、演出された悲劇のほうが抑止力になる。言うことをきかない人間を黙らせるには、投獄だ死刑だと恐ろしげな言葉をちらつかせて脅すのが手っ取り早いし、成功率もあがる。その方法が最善だと信じてやまない人間のことを、卑怯という。しかしクレイズはその風上に置けない。あえて称するならば、知ったか振りだ。
 バーカ、と心でベロをだしながら、テッドは神妙なふうを装った。本心がうっかり顔に出てしまわないように、持てる限りの演技力を駆使しながら。
 いろいろなことが重なって疲労困憊で、おまけに身体のあちこちが痛い。ネチネチとからんでくるこいつだけは引き剥がしてしまわないと、持久戦にもちこむ自信はない。ほんとうはすぐにでも牢屋にブチこんでほしいのだ。横になって少し休まないと、敗北しそうである。
 テッドのささやかな願いもむなしく、クレイズの熱量はしだいに増していった。
「ふん。観念することだな。ここへ下りてくるまでいくつの鉄格子をくぐったか、数えてくれたかね。遠かっただろう。こんな地下深くまで牢獄が続いてるなんて、驚きだったのではないか? いや、いや、まだ驚くのは早いぞ。この先にあるのは、牢なんかじゃない。なんだと思う。そう、拷問部屋だ。牢屋を期待していたのなら、あいにくだったな。快適なおもてなしはできそうにない。さあて、ここが覚悟の決めどころ。出ようと思ったら死体になるくらいしか方法はないとわたしは思うのだが、どうだね」
 どうだねもなにも、おまえにへし折られた指が痛い。割り箸じゃあるまいし。
 こんなのを上司とあがめなければならなかった親友が気の毒すぎる。
 クレイズはわざとらしくおおと言い、口角から泡を飛ばしながら、大仰なしぐさでまくしたてた。
「いや、いや、生きて出る方法がひとつだけあるぞ。おまえほどの大悪党ならな。うむ、まちがいない。これはそうとう期待していい。なんたって、偉大なる黄金皇帝の首を狙った大逆。むかしから、大逆罪にはもっとも重い死刑が適用されることはおまえも知っておろう。ふつうの首斬りなどではないぞ。八つ裂きか、火あぶりか、磔か……とにかくすぐに死ねずにもがき苦しむやり方になるのはまちがいない。できるだけむごたらしく、反逆者がどんな運命をたどるか、見せしめにする意味合いもあるんだからな。
 さて、さて、公開処刑となれば、刑場はここではないだろう。どこか民衆の集まれる場所――そうだな、女神像の広場あたりが適当なんじゃないか。ロリマーよりはかなり近いが、とりあえず歩いて外に出られるぞ。おまけに、なつかしいマクドールのお家もすぐそばだ。よかったな。はっはっは! 死ね死ね死ね死ねぇ!」
 鯰髭がゆらゆらと上下するのが滑稽で、テッドは口の端をほんの一瞬ゆがめた。その些細なしぐさすら、かつての近衛隊長はお気に召さなかったようだ。
「なにが可笑しい」
 しまった。
 男はつかつかと近づくと、手枷につなげられた鎖をわしづかみにしてぐいと引き寄せた。
 まわりの兵士たちは一斉に息を呑み、顔をそむけた。
 鈍い音とともに、脳天に突き抜ける激痛。
 歯を食いしばって耐えるも、うめきが呼吸に混じって漏れ出すのを止められない。
 異様な角度に折れ曲がった三本の指は、厚底靴のかかとでなおも踏みにじられた。
「下賤な、叛乱軍の飼い犬、の分際で、俺様を小馬鹿にしやがってぇ!」
 興奮したクレイズの荒い息が切石積みの壁に反響し、ヒステリックな怒号がそれに続いた。
「おい、そこの。拷問道具のなかに焼きごてがあったろう。あれを真っ赤に焼いてもってこい」
 ふいに命令された若い兵士は直立して、「はい?」と素っ頓狂な返事をした。
「二度言わせる気か? ふん、きさま、若いな。見習いか」
「はい、八月に入隊し、この部署に配属されました」
「たわけ。だれがおまえのことをいま話せといった。話をそらすな」
「し、失礼しました、隊長どの!」
 クレイズはひくひくと頬をひきつらせ、軍政官だ、と絞りだすようにうなってから、声のトーンをあげた。
「さっさとやらないと、こいつの指がぜんぶ反対側にひん曲がるぞ。かわいそうだと思うならたすけてやったらどうかね。
 わたしはやさしいからもう一度だけ言うぞ。熱っつい焼きごてをここへもってこい。十分以内に準備できなかったら、きさま、ここに居られないようにしてやるからな」
 気の毒な若者は「焼きごてって……」と口ごもった。初老の兵士が椅子から立ち上がり、おろおろと弁明をはじめた。
「クレイズどの、手前は獄卒として長年ここを任されておる者です。お言葉ですが、烙印の習慣はだいぶ以前に廃れておりまして、いまは方法を知る者もおらず、道具も手入れすらしておりませぬゆえ、いますぐにとおっしゃられましても難しいわけでございます」
 クレイズは真っ赤になって怒鳴りちらした。
「ええい、ぐずぐずいうな! 下っ端がクズなのは上官がゴミクズだからか? まったく、どいつもこいつも。方法もなにも、ジュッと押しつけるだけじゃないか。ここには馬鹿しかおらんのか。
 いいから焼きごてをもってこい。もってこいったらもってこい。さっきそのへんを見させてもらったが、恐ろしげなのがたくさん並んでたなあ。いますぐ使えそうなものばかりだったぞ? あれは飾りか。こけおどしか。きさまらは道具も扱えん猿か。それとも、なんだ? もと隊長の命令など、ばからしくてきけぬと申すかぁ!」
「い、いえ、そういうわけでは!」
 兵士の声はほとんど悲鳴であった。
「だったら働け、無駄飯喰らいども。いいか、死刑囚らしく、文様はそれっぽいのを選んでやれよ。地獄に堕ちても、後ろ指をさされるような、とんでもなく恥ずかしいやつをな。
 それから、やるのは俺様だ。こしぬけのきさまらに任せようなどと、つゆほども思っとらんわぁ!」
 わめきながらテッドを踏みつけにし、全体重をその右手に乗せたあと、脇腹を蹴り飛ばした。兵士たちがばたばたと動き回るあいだ、暴行は執拗に続けられた。

 皮膚の焼ける異臭に耐えきれず胃袋の中身をぶちまけたクレイズは、真っ青な顔で、それでも居丈高に持論を展開していたが、騒ぎを知って駆けつけた赤はちまきの男に引きずられていった。鉄の扉の向こうに消える直前、赤はちまきの付き人は無言でテッドを見、思いを吹っ切るようにきびすを返した。
 舌を傷つけないようにと噛まされた布で表情が隠れてよかった。でないと、付き人に余計な後悔を与えてしまうところだった。
 むきだしの上腕は十字と楔をあわせた形にただれ、範囲は狭いものの、壊滅的に損傷していた。焼けた鉄を二度も押しつけられたため、深い熱傷でどす黒くなり、痛みすら感じられないほどだった。
 若い兵士は冷たい水をくんできて傷口にかけたが、それがどれほどの効果があるかを知ってやったわけではなかった。それでも冷やしてはまた水をくみに行き、くんできては何度もかけた。
 上層につながる重苦しい鉄の扉と、最奥部を隔てる鉄格子に挟まれた、看守たちの詰め所。黙々と、嵐の後始末にとりかかる人々。兵士たちは老いも若きもみな憔悴しきった顔で、おのおのの仕事をした。
 若者が水差しを手に立ち上がるのを、初老の兵士がとめた。
「もう、それくらいでよいだろう。冷やしすぎたら、寒いだろうからな」
「はい、でも……ああ、そうだ、軟膏をもってきましょうか」
 うつろな表情でそう言った若者に、
「ハルトマン、きょうはもうあがりなさい。交代の時間はとっくに過ぎているよ」
「すみません、手際が悪いもので」
「頑張るのはよいが、そんな疲れた顔でやっても効率はあがるまい」
「あのう、わたしはお役にたてていないので、そんな疲れてなど……」
 年配の兵士はおだやかにほほ笑んだ。たしかに、収容者のない看守業務ほどやりがいのない仕事はあるまい。しかし、いついかなる場合にも実戦と変わらぬ仕事をし、非常時にそなえておくというのが彼の信念であり、かつて仕えていたゲイル・ルーグナーへの恩義であり、彼の人生そのものでもあった。年若いハルトマンは地味な職務に疑問を持っているにちがいないが、それもまた、誰かがやらねばならないことなのだ。
「そういえば、あしたは非番だったな。なにか楽しい予定でもないのかい」
「いえ、たぶん、兵舎で一日じゅうごろごろと寝てるとおもいます」
「なんだ、つまらん。まあ、のんびりするのも悪くはないか。おれも寝るのは大好きだ」
 若者はほんの少し緊張をといた。
「お疲れさん。しっかり休んで、またよろしくな」
「あ、はい。あの、それでは、その……指を、包帯かなにかで固定したほうがいいとおもうので、あとお願いしたいのですが」
「わかった。やっておくよ」
「すみません、ありがとうございます、マルコルフ看守長。あの、さっきはご迷惑をおかけしました」
「気にするな。あんなの迷惑のうちに入らんわい」
「はい。それでは、お先に失礼します」
 ハルトマンと呼ばれた若者はなぜかテッドに向かっておじぎをすると、逃げるように鉄扉から出て行った。
 鍵番が二人がかりで重い扉を閉め、閂をはめる。無骨な錠前がガチャンと鳴った。
 作業を見守りながら、老兵士は誰にともなく話しかけた。
「ハルトマンは、つくづく、運のない子よ。同期の友人はみんな、近衛兵として城内の要所に配置されたんだが、なんの因果かこんな穴ぐらの、しかもいちばん奥底に追いやられちまってさ。人事もまったくどうにかしてるんだよ。やつは、頭はいいし、勇敢だし、なにより性根がとんでもなくやさしい。剣の腕前は人並みだが、そういうのは鍛えりゃあなんとでもなるってのに。それを、くじで当たったかはずれたかというクソッタレな理屈で台無しにしやがって。赤月の未来をしょってたつかもしれない若者がよう、おまえはハズレだって、根拠もなく決めつけられたら、やる気もなにもぜんぶ、根こそぎ吹っ飛んじまうわな。
 おれだって黙っちゃいなかったよ。クレイズ隊長に進言したさ。牢番は、前線を退いたわれわれのような使い古しがつとめるのにふさわしい現場だから、新参は日の当たる場所で育ててくれってな。なのに決定は覆せないの一点張り。どうせ、書類を作り直して判子を押すのが面倒だったんだろうよ。ほんとうにあの人は、威張り散らしてるだけの木偶の坊ですよ。神経質でさ、自尊心だけがやたら高くて、仕事のできない能なしだ。ここだけの話だが、隊長が左遷されて、近衛兵団はみなほっとしてるんじゃないかな。コウアンに飛ばされたそうじゃないか。いい町なんだけどね、あんなのが帝国を後ろ盾に牛耳るのかとおもうと、住人が気の毒でしょうがないね」
 テッドは同意し、さらに納得した。親分の不穏な独り言がぜんぶ聞こえているはずなのに、動揺しないばかりか、うなずいている者もいる。牢番は忍耐強くなければ続かないというが、おそらくは目の前の男がうまくまとめあげて、看守たちの統制がとれているのだろう。
 そういえばハルトマンはひとりだけとても若く見えた。年の頃はティルとさほど違わない。
 人事にはもともとの身分も大いに関わる。ティルが皇帝への謁見を経て、近衛隊長の直属となったのは、偉大なる将軍の嫡男だからだ。一般兵の配属を決める際にも、都市周壁の内側に住居のある豊かな市民に分のあることは想像に難くない。
 運のない子と男は言ったが、おそらくは運だけが理由ではないだろう。能力主義を導入するのはたやすいことではなく、未熟な社会においては、段階を経ずに理想のみを強く訴えたところで、すぐによい方へ変わることはまずない。ことクレイズのような三流官僚が相手では、官僚の利に直結しない請願など、右から左へ流れるように却下されるのがおちだ。
 目の届かないところにいる人材ひとりひとりの気持ちを想像することすらせず、なにが近衛隊長だ、とテッドは思った。そのときふいに、宮殿の控え室でウィンディと再会した日の光景がよみがえった。
 あのとき彼は相当に追いつめられていて、とにかく逃げることしか頭になく、真の紋章を暴発させるいう無謀短慮な手段をとった。人を呪わば穴二つ。詠唱者であるテッド自身にも魂喰の悪意は容赦なくはね復り、彼のからだはずたずたに引き裂かれた。
 耐えがたい痛みにあえぎ、気を失いそうになるのを必死でこらえ、パニックとなった宮殿から飛び出した。何人もの近衛兵たちが巻き添えになり、ぴかぴかと輝く床に折り重なって倒れているのを、目の端で確認した。
 そういえば彼らはどうなったろう。
 テッドは身震いした。
 若い兵士がいたのではなかったか。まだ幼い顔つきをした、緊張したようすで、こちらへどうぞとウィンディのもとへ招いた少年。
 あのあと、少年はどこへ退いたか? 思い出せない。中だったか、外だったか。大ホールに隣接した、明るくて、だだっ広い部屋だった。
 殺してしまったかもしれない。その考えは、突然襲ってきた。烙印を押された熱さと痛みも、追随するように戻ってきた。
 テッドは小さくうめき、顔をしかめて、身じろいだ。
 地下牢獄の獄吏ははっと我に返った。
「痛いか。悪かったな。よく耐えてくれた。やつもとうぶん戻ってこれないと思うから、しばらくはあんな目に遭うこともないだろうし……」
 なぐさめも、尻すぼみである。わかっている。これからのことは、言わなくてもいい。
「すまんな」
 なんとかそれだけ言って、いたわるようにゆっくりと、囚人の手枷をはずした。手首は木製の枷でこすれて帯状の傷がつき、一部は化膿していた。尋問のあいだ一度もはずされることがなかったので、かなり苦痛だったのだ。
 両手が自由になり、その軽さにテッドは驚いた。考えてみれば、鎖付きのごつい板きれをいつもぶら下げていたようなものだ。鼻がかゆくても掻けないし、人の手を借りないと用足しもできない。人の尊厳すら縛めてくれるこいつから解放されるかと思うと、やれやれという気持ちだ。
 不自然な体勢を強要された肩がとくに痛み、首を回すとビリッとしびれが走った。まったく、絵に描いたような満身創痍である。身につけている衣服は見るも無惨で、あちこち破けている上に、血とも泥とも判別のつかない黒ずみで、もとの色すらもわからない。
 さすがにしゃべりすぎたので、これ以上はまずいと思ったのか、男は一転寡黙になった。
 気難しい顔で、汚れた服を脱がせ、裸足にし、獄衣に着替えさせた。
 麻の裏地が下着がわりに縫いつけられた、粗末な羊毛の上下だ。浅い襟開きで、袖丈も股下も中途半端に短い。危ないものを隠すことのできないようにそうなっているのだろう。色は褪せた黄褐色で、こちらは闇にまぎれないようにする配慮だろうと思われる。いかにも囚人服といった趣のみすぼらしさ。もちろん靴は与えられない。
 すべてのしたくを終えると、衛生兵に用意させた真新しい包帯を、青黒く変色した右手に巻いた。さすがに湿布はなかったが、固定されるだけでも痛みはだいぶまぎれる。指はおそらくもう使い物にならないだろうが、三本ですんだのは不幸中の幸いだと考えるべきかもしれない。
 囚人虐待は歴とした軍紀違反だ。だれもあらがえないのをいいことに好き勝手をし、その行為を正当化しようだなんて、愚の骨頂に過ぎる。騎士道の時代なら自害を命じられても仕方のないところである。
「本来なら、治療をしてはならないのだが」と男は静かに口をひらいた。「ハルトマンはまだ来たばかりで、見習いだから、看守の掟を知らん。戦後まもないころ、ソニエールで、包帯を飲みこんで窒息死した死刑囚がいてな。それ以来、よけいなものはなにひとつ与えられんことになった。きまりが細かくて、厳しいもんだから、覚えるのも大変だよ」
 処刑されると知ったら、その前に、と考える気持ちはわからなくもない。死刑囚にとって、刑の執行はもちろんだが、その時を待つ日々もまた、発狂するほど恐ろしいものにちがいない。実際のところ、独房で囚人が自殺するのはめずらしいことではないのだ。
 やつらはあの手この手を使って命を絶とうとする。看守との、後には引けない知恵比べである。
「皇帝に対する叛逆罪なんて、滅多にあることじゃない。革命戦士の、アキレスの処刑以来か。ここ数年はじつに平和な世の中だったからなあ。久方ぶりの公開処刑とくれば、退屈な連中が待ってましたとくらいつく。世の中を見てみろ。いまもおまえの話でもちきりだ。伝説の大盗賊ウィルボーンが、民衆の目の前で八つ裂きにされただろうが。あれといっしょだよ。おまえがもがき苦しみながら派手に処刑されるのを、見物して愉しみたいのよ。人ってのはなあ、醜いものよ。残酷なのが大好きなのよ。公開処刑はもともと、貴族の娯楽だったんだぞ。めずらしいから忘れられているが、いまもな。
 酷刑反対の嘆願書も集まっていると聞くが、どうせ一蹴されるだろうね。温情もなかろうね。そんくらい、民衆の期待が高まってるってことだ。とくに、貴族は、いちばん声がでかいからな。わかるか? もう、制御できる段階はとっくに過ぎちまってる。残酷なようだが、おまえは遠からず処刑される運命だ。明日かもしれん。覚悟はしておいてくれ」
 男はそこで顔をあげて、部下を見渡した。
「万が一のことがあって、刑を執行する前におまえに死なれたとしよう。国民の不満はどこへ向かう? 怒りの矛先は? おれたちだな。責任をとらされるのはここにいる全員だ。おれは隊長として、部下を守る義務がある。こいつらを路頭に迷わせるわけにはいかんのだよ」
「心配しなくてもいいです。自殺なんて、しませんから、おれは」とテッドは言った。
「みんなそういう。しかし、わからん。おまえも考えが変わるだろう。ここには希望のかけらもない。あるのは絶望だけだ。治療なんてしてもむださ。意味がないんだからな。おれたちのつきあいもそんな長くない。情はすべて吹っ切らんと、こんなところには居られん。さあ、もう無駄話はよそう。いいぞ、連れて行け」
 処刑場へ向かう前に包帯を使って窒息死したららくだぞと、男は暗に伝えている。彼はテッドに、それを期待している。わざわざ過去の事件を持ち出すのも、無駄だと断言しながら治療を施すのも、冷静に考えたら矛盾でしかない。
 だが、なぜだろう。なんの得もないではないか。処罰されたらみんな困るだろうに。そんなあやふやな情動を温情と勘違いしているのならば、ふざけるなと怒鳴りたい。
 良心の呵責に耐えかねての提案など、ありがた迷惑。意地でも自死などしてやるものかと思った。結果として死ぬことに変わりがないのなら、人に迷惑をかけないほうを選んだ方がましだ。
 兵士が四人取り囲んで、テッドを立たせた。鍵番が鉄格子を開け、腰をかがめないと通られない扉から全員を中へ入れると、自分もあとからくぐった。もうひとりの鍵番が外から施錠し、しっかり閉められたことを確かめてから、二重になった内側の鉄格子を開ける。
 まるで何かの儀式のようだ。この最下層に下りてくるまでに同じやり方の二重格子が四カ所あった。それぞれに担当の鍵番が二人ずつついて、この面倒な手続きをとっていた。観察していると、作法があるらしいこともわかった。
 鍵の開け閉めだけに常駐するなんて。テッドは呆れたが、軍隊の事情など知るよしもないので口出しはすまい。退屈でしょう、ご苦労さまと脳内でねぎらってみる。大切なのは、こういう無駄としか思えないつまらない任務をいくつか経験して、上官に認められること。いまの赤月帝国では真面目な者ほど馬鹿を見る。そのことを承知で、なかば諦めながらも、やるしかない。因果な仕事だ。
 奥の通路は薄暗かった。等間隔で備えつけられた燭台のろうそくが唯一の明かりだ。しかし、通路はすぐに行き止まりになる。どうやらこの下はないらしい。
 左側に四つ、黒々と並んだ牢はどれも空っぽだった。死刑を待つ重罪人が囚われているだろうと想像していたので、拍子抜けした。
 しかし右のがらんとした大部屋に向いたとたん、テッドの喉がひゅっと鳴った。
 石壁や天井にいくつも突き刺さった金輪と、そこからざくざくぶら下がる鎖がまず目にとまった。鎖の端には首や足にはめるための枷がついている。
 刺股のような形状をした道具が立てかけられた一角には木の棚があり、道具箱が積み上げられていた。部屋の中央には煉瓦でできたベッドのようなもの。人型の固定器具が取り付けられている。その隣にある椅子には、肘掛けにも背もたれにも皮のベルトがぶら下がっている。
 これらの恐ろしい調度品に、蜘蛛の巣がびっしりとからみつき、部屋中をどんよりと霞ませていた。そこが長年使われていないことを物語る光景だ。
 これがクレイズの自慢していた拷問部屋か。
 生かすつもりがなければそのまま処刑できるはずで、おそらくはそのへんの床を丹念に調べれば、死体を投げ込む穴が見つかるだろう。わざわざ地上へ持ち出して廃棄するのは手間がかかる。その穴の奥こそ、グレッグミンスターでもっとも深いところにある最果ての居住地にちがいない。
 そして、四つの獄窓からは、被害者が苦しみ悶えるのを見物することができるというすてきな演出だ。目を背けることが許されるはずもない。明日は我が身という現実に恐れおののいて、ありもしない罪を告白してしまえば、どのみちあの世行き。
 クレイズの言ったとおり、「出ようと思ったら死体になるくらいしか方法はない」。いや、それもだいぶ希望的観測だ。「出ようと思ったら肉体を置いていくしかない」が正しい。
 城塔の基部にあたる地下牢からさらに何層も掘り下げたほんとうの理由は、拷問を受ける囚人の絶叫を地上に届かなくするため。ゲイル・ルーグナーも地獄の蓋を開けて愕然としただろう。夜ごと華やかな舞踏会の催されるその真下で、犠牲者が手足をもがれ、はらわたを引きずり出されていたことを知ったら。
 歴史には必ず闇の側面があるけれど、それらはだいたい念入りに隠されて、公文書にも歴史資料にも記されることはない。聖都ルパンダからグレッグミンスターへ。ハルモニア神聖国から赤月帝国へ。負の遺産は静かに引き継がれるが、歴史はそれよりもはるかに脆く、人の都合による改ざんを容易く受け入れる。
 怨念渦巻いていたであろう地下牢獄は、いまは人の影もなく、なま臭いにおいもせず、ただ密やかにたたずんでいる。
 幾多の罪人の血を吸ったにちがいない石の床は、てらてらと黒く濡れていた。気のせいではなく、ほんとうに水が流れているのだ。壁の一角からしみ出した水が、緩い傾斜角となっている床をひろびろと洗い、わきの水路に流れ落ちてゆく。
 最下層に下りてから水の音には気づいていたけれど、ここに来てはじめて合点がいった。幅二尺ほどもある水路から、轟轟と鳴り響いていたのだ。水流は速く、壁面に穿たれた側溝の鉄柵に当たって白い泡が躍っている。
 水は拷問にも使えるだろうし、血を洗い流すこともできる。憂鬱な想像をしていたら、「よそ見をするな、こっちだ」と突っつかれた。
 連れられていったのは、もっとも奥まったところにある牢だ。閂がはずれると、錆びた蝶番がぎいと不快な音をたてた。開いた扉から中へ背中を押された。
 間口が狭く、奥行きのある内部は、三方の壁が堅牢な切石で、地面は不ぞろいの石が敷きつめられている。ベッドはなく、かわりに筵が一枚、向かって右側の壁に沿って敷いてあった。足もとは乾いているが、裸足で踏むと存外冷たい。
 驚いたことに、ここにも水路が通っていた。四つの牢をつらぬくように、やはり幅二尺の、水量はさっきよりもやや少ないが、同様の構造の流れが一本。壁の境は鉄柵で仕切られ、左から右へ勢いよく流れている。
 グレッグミンスターのあるアールスの地は水資源が豊富なことで知られる。ここで都市が栄えたのも、豊富に湧き出る水の恩恵だと伝えられている。地下水脈がいたるところに埋もれ、おそらくはこれもそのひとつだろう。よく見たらまだ新しいようなので、ゲイル・ルーグナーの時代に突貫工事で増設された下水設備かもしれない。
 水は攻囲戦において勝敗の鍵を握ると言われるほど重要な要素である。とくに籠城軍にとって、水の欠乏は降伏へと直結する。ゲイル・ルーグナーは攻囲軍であるバルバロッサが外部から給水システムを妨げることを恐れ、わずかな時間で内郭に濾過設備を兼ね添えた貯水槽を掘った。結果的にその功績が、戦後の復興を驚異的に早めたと伝えられる。
 グレッグミンスターに来る前の短い期間、テッドは南のレナンカンプに滞在していた。距離は多少離れているが、レナンカンプは帝都の副市とも呼べる町であり、水都の名で知られる。
 レナンカンプの水資源は大部分が地中にあり、領土面積を占める割合はあまり多くない。その美しい都は、黄金色に統一された屋根の家が建ち並び、階段状の細い路地が複雑に入り組んだ、「迷子になることは避けられないが、旅人を何度でも魅了する町」である。
 そこでテッドは、道具屋から地下水路地図を見せられて仰天した。氷山の一角ということばがあるが、まさしくレナンカンプの町は氷の海に頭だけのぞかせた、見せかけの姿なのだ。冗談めかして「地下にもうひとつ町があるんじゃないのか」と言えば、道具屋のおやじはけろりとして「ありますよ」と言う。
 トラン湖に近いレナンカンプはグレッグミンスターよりも標高が低く、四方より多くの水が集まる。グレッグミンスターからわき出る水も、地下や地表に分岐して流れくだり、水都に向かうのだろう。
 水音が大きくて、テッドは少し不安になる。むかしから音にはちょっと敏感で、過剰な音は精神の均衡を妨げると、経験上知っているからだ。問題となるのは雨音や水音といった、自然界の環境音それ自体ではない。安全な場所ならば、それらはむしろ彼を落ち着かせる。だがここは敵陣まっただなかで、常時監視がつく。彼はつねに神経をとがらせていなければならない。
 考えながらテッドは小さく息を吐いた。なにをピリピリしているんだ、おれ。いつまで逃亡者の気分でいるつもりだ。
 護るべき紋章は親友に託した。自分の役目はそこで終わった。天地がひっくり返っても、壊死した右手には、紋章は三たび宿ってはくれないだろう。
 あとは、三百年間あこがれつづけてきた終の目的を果たすだけ。自分はなにもしなくていい。ただ待てばいい。なりゆきにまかせていれば、失敗することはない。
 もう頑張らなくてもいいのだ。負けではないのだから、約束も破っていない。
 死ぬことが、こんなに簡単だなんて。
 あっけないな。
 壁に穿たれた金輪から延びる鎖の端が、右の足首に固定される。これで彼は完全に死刑囚になった。
 看守たちがなにか話しかけてきたが、彼はまったく聞いていなかった。
 いよいよ夢が現実となる。しかも、そう遠くない未来に。その望みさえかなうのなら、痛いのも、苦しいのも、たいした問題ではない。
 ほんの少しだけ、目を閉じて、歯を食いしばっていればよいのだ。耐えられなければ叫んだっていい。不様な姿を誰かに見られたところで、それを恥ずかしいとか屈辱だとか思い巡らす機会は二度とおとずれないだろう。
 そうだ。終わりは必ずくる。五感が奪われ、意識が奪われ。尊厳を手放し、動かなくなった肉体はただの物理的な塊。あとは焼かれるか、埋められるか、流されるか。獣に喰われるのもいい。どうせそのころには虚無の世界にいる。好きなように処分してくれ。
 存在していたという証拠も残さなくていい。矢や弓や少ない荷物は、押収されたとは思うけれど、もはや不要なのだから火にくべてしまえばよいし、マクドールの家にある白紙の日記帳は、まだ使えるのでもったいないが、名前が書いてあったはずだから破り捨ててほしい。
 なにもかも忘れ去ってしまえ。薄気味悪い姿形も、不名誉な名も。
 ただ、ティルにだけは。
 最期を知られたくない。
 親友はいま、どこにいるのか。おれの姿は見えているのか。
 まだ捕まったという話は聞かない。おそらくは紋章を持って逃亡している。グレッグミンスターにとどまっているとは考えづらい。叛逆者の公開処刑は帝都の外にも聞こえるだろうか。
 グレミオさん、クレオさん、誰でもいいから、ティルの眼をそらせ、耳をふさいでほしい。
 ティルには――そう、ティルだけは。
 おれのことを憶えていてほしい。おれという存在を、否定しないでほしい。テッドという愚かな人間の名を、口にしてほしい。恨まれたっていい。憎しみが生きる糧になるのなら、おれは幾らでも悪者になれる。
 おまえは、生涯でたったひとりの親友だったと、いまならいさぎよく認めよう。おれはどうしようもない、馬鹿だ。もう少し早く、勇気を出して、それを認めていたら、おまえを守ることができたかもしれないのに。
 後悔しても、もう遅い。
 運命の歯車は動き始めてしまった。
 ぎい、がちゃん。
 背後で重苦しい音をたて、鉄格子が閉ざされた。黙りこくった囚人をひとり残し、足音が遠ざかってゆく。
 彼はしばらく立ち尽くしていたが、かなりたって、「いやだ」と虚ろに言った。その声は水路の轟音にかき消されて、どこへも届くことはなかった。
「いやだ。死にたくない。死ぬなんていやだ。こんなのはまちがってる」

 その年は冬のおとずれが早く、降り止まぬ冷たい雨に雪が交じりはじめたのは、テッドが投獄されて七日目のことだった。
 外界と隔絶された牢獄で、季節の推移を知るすべはない。底冷えする地下には日の光も届かず、守衛室にある大きな暖炉も、囚人の居室をあたためるにはいささか遠すぎた。吐く息も白く凍る。清風山の紅葉が美しい季節であるが、体感はとうに真冬であった。
 地べたに敷いた筵の上で手足を縮めて眠っていると、寒さで何度も目が覚めた。与えられたぼろ切れのような毛布では不十分で、テッドはいつも震えていなければならなかった。
 足の末端はしもやけでぱんぱんに腫れあがり、かゆみがさらに浅い眠りをさまたげた。
 夜、彼はついに発熱した。己の紋章で受けた傷とその後の暴行、さらには劣悪な環境のなかで、ここまで持ちこたえたのがむしろ不思議なくらいである。
 食事に手をつけないのを監視が見咎め、ただならぬ様子にあわてて看守長を呼びに行った。
 宿舎に戻っていたマルコルフは夕食に手をつけることもなく、穴ぐらへとんぼ返りした。鍵のあいていた鉄格子からなかへ入ると、ハルトマンがひざまずいており、深刻な顔でこちらを向いた。
「どうだね」
「熱が高いです。とりあえず水を飲ませたんですが、まったく受けつけなくて、吐いてしまいます。備品の風邪薬が、あることはあるんですが、いまはちょっと」
「シン先生に連絡は?」
「しました。時間外なので、来られるのはあすの昼だそうです」
 シンは軍医で、囚人も診てくれる。酒好きで、この時間はたいてい酔っ払っている。
「そうか。わかった、おれも今夜はここにいて、様子を見ることにしよう。ところでハルトマン、おまえは夜勤でもないのに、なんでいるんだ」
 ハルトマンはきまり悪そうな顔をし、「ちょっと気になったので」と弁解した。
 マルコルフは喉になにかがつっかえたような気分になった。彼が目をかけている若い兵士は、この一週間、担当の少年に必要以上の興味を抱いていた。ハルトマンが関わったはじめての重罪人であり、ましてや死刑囚ということもあり、過敏になるのはしかたがない。
 彼が懸念するのは、例の事件で、巻き込まれた見習い兵士が昏睡状態になり、その後死亡したことだ。ハルトマンと同期の少年だったからだ。互いに面識はなかったと聞いているが、感受性の強いハルトマンのことだ、考えすぎて混乱するのは目に見えている。
 あまりにものめり込むようなら、担当を外すことも考慮しなければならないだろう。いまの段階では、判断のしようがない。ハルトマンにとって経験になるのならばそれもよし、そうでなければ、取り返しのつかない事態になる前に決断しなければならない。
 どんな魔法を使ったのか詳しいことはなにもわからないが、テッドの起こした事件で三人が死んだ。全員、現場に居合わせた近衛兵だ。そのうちのふたりは即死だった。彼らは、宮廷魔術師ウィンディを身を挺して守った功績が認められ、二階級特進し、皇帝立ち会いのもとで盛大に葬送された。
 処刑の手順はすべて遺族の意を汲むことになったと聞く。激烈な感情で、どんな裁きを下すのか、想像しただけで気が滅入る。
 願わくはハルトマンには、感情に左右されることなく、職務を遂行してもらいたい。いずれ違う部署に転属するにしても、いまの彼は牢番なのだ。囚人の命を預かることが仕事であり、どのような憎むべき人間であっても、寝床を与え、食事を与え、生き続けるように監視するのが役目だ。
 せめて愚痴でも言ってくれたらよいのだが、とマルコルフは嘆息した。
 結局、ハルトマンはその夜、宿舎に帰らなかった。
 患者を医療棟に移送することも議論されたが、すべては消極的にたち消えた。死刑囚が自殺ではなく、病気で命を落とすのならば、少なくとも公には看守の責任が問われることはないだろう。医療班にも過激な人間はいるはずで、引き渡したとしても、無事でいられる保証はない。
 明け方、牢の内部にいたのはマルコルフとハルトマンのふたりだけだった。囚人の熱はまったく下がらず、意識もないようだ。水はようやく少しだけ飲んだ。浅く不規則な呼吸を繰り返し、時折身をよじりながらうめく。意味のあることばは、いたい、さむい、のふたつだけだ。
 若者は押し黙り、たびたび額の布をとって、水路で冷やした。水は氷のように冷たく、彼の手は赤くなっていた。
 水路は右寄り三分の二が鉄柵でふたをされ、人の手で動かせないようにねじで留めてある。囚人は用を足すために、柵の上まではぎりぎり移動できるように足枷が調節されている。
 柵のない部分の床は傾斜しており、掃除や、囚人の洗浄で使用した水をすみやかに排水する。城内から出た生活排水は、地下に埋設された単純な浄化槽を経由して外堀に流されるが、この水路はそれらとはまったく交わることなく、流れの行き先もわからない。
 近くの水脈から取水し、人工的に造った水路だと思われるが、全体構造は不明である。とりあえず、飲用は禁止している。しかし、水質はかなりよい。収容者のあいだに伝染病が蔓延するのを防止するには役立ちそうだ。
 水路のふちに薄氷が張って、若者はすべって転びそうになった。流れに突っ込む寸前でなんとか耐え、照れ笑いをした。
「詰め所にいるとまったく気づきませんけれど、ここは寒さが身にしみますね」とハルトマンは言った。「外気は侵入できないと思っていましたが、やっぱり水のせいでしょうか。なんか、風を感じます」
「ああ、それはおれも思った。どこから吹いてくるんだろうか」
「すきまがどこかにあるのかもしれません」
「あるとしたら、向かいの部屋だろうね。あまり考えたくもないが。それにしても、しんしんと冷える」
 守衛室には暖炉があり、冬のあいだは二十四時間あたため続ける。排気の問題で、これ以上増やすことはできないが、区画は鉄格子で隔てられているだけなので、囚人にとってもとくに問題はないはずだった。看守といえども牢に張りついているわけではなく、十五分にいちど、見回りをするくらいだが、ここまで過酷な環境だとはハルトマンも思わなかったようで、渋い表情をしている。
「こんな毛布一枚では、眠られなかったでしょう。かわいそうに」
「そんなことは百も承知で、やっているんだがね」
「でも、死刑囚だって人間ですよ。行動を制限されるのはしかたがないと思いますけれど、衣食住の尊厳まで奪うのは、ちょっと、やりすぎでは」
 憤慨しているようだ。彼はテッドの下に敷かれた筵を指さした。
「ベッドすらないなんて。こんな乞食みたいな格好をさせて、まるで貧民窟にいる路上生活者だ。そうは思いませんか」
「だが、かれは罰を受けねばならんだろう。寒さにふるえ、腹をすかし……そういう状況を与えてやることで、罪を悔いる心も生まれるのではないかね」
「ぼくがおかしいと思っているのは、そこです」 ハルトマンは声を荒げた。「あなたのおっしゃることは、死刑という最大の刑罰では、足りないという前提での理屈です。でもこの人が言い渡されたのは死刑でしょ。裁判もなくて、いきなり死刑。裁判を受ける権利のことはよくわかりませんけれど、省略されることもあるのは知っています。それについてはどうこう言うつもりはありません。でもね、マルコルフ看守長」
 若者はそこで口をとざし、わずかなあいだ黙考した。言葉を選んでいるらしい。
「看守長。ぼくは、寒さにふるえたり、冷たいスープや乾いたパンしか食べられないのは、罰だと考えています。でも、そんな裁きはこの人は受けていないです。死んで償えと言われた以外は、なにひとつ。
 けさの食事をご覧になりましたか。玉葱を煮て塩で味をつけただけの、冷めた汁です。あとは、いつものパンと、水と。ぼくたちは三度の食事をとりますが、囚人は朝と夕だけですよね。しかも、犬の餌みたいなやつ。なぜ。いつ、誰がそう決めたんだろう。看守長、ぼくは教えられていないことがありすぎて、混乱しているんだろうと思います。だから、ちょっとでも答えをみつけて、迷惑をかけないようにしようと思って、ずっと考えていたんですけど、答えどころか、疑問のほうがどんどんわいてきて、わけがわからなくなりました。
 もう、がまんできないんです。いま教えてください。ここで、この人に対して行っていることは、どこまでが罰で、どこからが虐待なのですか。むりやり焼き印をつけたのは、罰ですか、虐待ですか。虐待ならばあなたは、どうしてそんなことをお許しになったのですか」
 初老の兵士は声をつまらせた。若者が気落ちした様子だったのは、不条理な人事のためと思いこんでいたが、とんだ見当違いだったというわけだ。
 彼の言うとおりだ。罪を悔いる心などと、一見もっともらしく、しかし一方的でご都合主義でしかない理屈をこそ恥ずるべき。獄吏として成さねばならないのは、刑が執行されるまでのあいだ、受刑者の尊厳を徹底して守ることだ。いったいいつから、自分はかくも傲慢な人間になってしまったのだろう。
 囚人の食事は日に二度、辰の刻と酉の刻とさだめられている。誰がそう決めたのかは、マルコルフも知らない。内容については、質素であり薄味であること、嗜好品でないこと、栄養価が高いこととあるが、厳密ではなく、罰則もない。現実には、厨房設備のない地下牢獄で調理せず、官舎の余り物をただ運ぶだけである。なので食事はほとんどが冷め切っており、量も足りない。
 そういえば、玉葱のスープを運ぶ先輩兵士にハルトマンが話しかけていた。「寒いですから温めなおしましょうか」と。それに対する返事はどうだったろう。「どうせ死ぬんだから、なにを食わせても同じだよ」か。
 マルコルフは眉間にしわを寄せた。矢継ぎ早の問いかけにひとつだけでも答えようとあれこれ思い巡らしてはみるものの、どれほどうまい言い訳を考えついても、かしこい青年は嘘を看破しそうな気がする。言われて気づいたが、人は歳をとるにつれ、嘘に対しての罪悪感が麻痺していく。それが必ずしも悪いことだとは思わないが、ハルトマンはけして許さないだろう。
 烙印の件に関してのみ語るならば、虐待が行われるのを見て見ぬふりをしたばかりか、手助けまでしたことになる。あきらかな規律違反で、こればっかりは責められてもしかたがない。
 しばらくのあいだ、ふたりは無言だった。水路の轟轟という音だけが響いていた。
 やがて、「ぼくは」とハルトマンが言った。声をつまらせながら、ゆっくりと話しはじめる。
「ぼくは、この人が死ねばいいって、ずっと思ってて、見ていたんですけど……死なないんです。自殺するんじゃないかなって、なんとなく期待したり。死刑も、すぐって言ってたから、あしたかな、まだかなってそわそわして。兵舎でもみんなに、その話をするんだけど、準備だか手続きだかに時間がかかっているって聞いて、がっかりしました。
 怖いですよね。ぼくはそんな、人が死ぬことを願うような人間だったかな。親が聞いたら、なんて思うかな。本当にどうかしてる。モヤモヤしながら、この人を見ていたら、どんどん、どんどん不安になって。だって、生きようとしてるから。どんなひどい食事でも、この人ぜんぶ食べます。起きたら、そこのすきまから水をすくって、顔を洗っています。
 なんでだよ。なんでそんなに、強いんだよ。
 罰ってなんだろ。当然だとおもっていたのに、もう、自信がない。なにが正しいのかとか、なにが間違っているとか、ぜんっぜんわからない。いまもそうです。もしこれがぼくの弟だったら、医者をたたき起こしても診てもらいます。だってそうでしょ。こんなに熱が高い。苦しんでる。死んじゃうかもしれない。ねえ、なんでゆかに寝せてるんですか。手だって骨が折れているし、やけどもしているし、ここも、ここも……なにが罰だよ。勝手すぎるよ。ひどい。こんなになったのは、だれのせい? 見殺しにすることがぼくの仕事?」
「落ち着きなさい、ハルトマン」
「すみません。こんな自分はできれば見せたくありませんでした」
 彼はこぼれた涙をごしごしとふいた。
「ぼくは若造です。ガキです。こんなやつ死んでしまえばいいって、いつも、いまも思ってます。なのに、死なせちゃいけないって心が叫ぶんだから、どうしようもないじゃないですか。ぼくだって、自分がむちゃくちゃなのはわかってますよ。こんな人間のクズ、罪を悔いる時間など与えるだけむだで、だから裁判も省略されたってぼくは解釈したんだけど、ちがうんだろうか。クレイズ軍政官のおっしゃるとおりに、さっさと地獄送りにすりゃいいじゃないですか。どうして引き延ばしたりするのかな。だらだらと生かすのは、苦しませるため、ですよね。醜悪だな。気持ちが悪いよ。あなたも、ぼくも、この国も、すごくきもちわるい」
 マルコルフは言葉を失った。ハルトマンは両の眼からぼたぼたと涙をこぼしながら、囚人の額に冷たい布をおいた。彼は嗚咽し、死ねばいいと呪った少年の背をなでた。
 矛盾に満ちた若者の行為を、さえぎる気にはついぞなれず、初老の男はただ無言で水の音を聞いていた。そして時間だけがすぎた。
 テッドは高熱にうなされながら、ぜんぶ聞いていた。そして、奇妙なほど冷静に、関わるのはよそうと結論づけた。自分がどうこうできる問題ではないが上に、当事者が口出ししてよいとはまったく思えなかったので。
 できたらそういう話は詰め所でやってもらいたかったな。
 発熱はまったくの想定外だったが、結果として毛布が増えたので、まあよしとする。これぞまさしく怪我の功名。むかしは毛布など贅沢なものがなくてもなんとかしたが、寄る年波には勝てぬ。おまけに紋章もないときた。
 若い兵士の献身的な看病のおかげで、少しだけうとうとできた。その後、熱い粥を強制的に食べさせられた。食欲はまったくなかったが、なんやかんやでぜんぶ平らげた。
 熱の下がる気配はなく、体力はどんどん消耗していった。体力がなければ、気を張りつめることもできない。せっかく押しとどめた悲劇的な考えがぶり返しそうで、怖かった。
 午後も遅くなってから、医者を名乗る老人がやってきた。悪人の面構えをしている。彼がアル中のシン先生だろう。約束の時間は守らない性分らしい。
「うわさの死刑囚を拝んでやろうときてみたら、とんだちびっこだ」
 笑いながらテッドの鼻をつまみ、開いた口に、兎の糞のような丸薬を放り入れた。
「にがい」
「囚人ごときに貴重な薬を使えるか。おまえなんざ、これでじゅうぶんだ。ほれ、こいつでぐっと飲み込め。味わうんじゃないぞ。うますぎるからな」
 茶色い瓶から粘り気のある謎の液体を流しこむ。
 喉を通過したとたん、身体がかっと熱くなった。
「ゲボッ。うげっ」
 まちがいなく毒薬だ。しかも即効性のある、強烈な。殺された、と本気で思ったが、意識は長く続かなかった。悪魔の笑い声が遠ざかっていく。どうやら気を喪ったようだ。
 どれくらい時間が経ったのだろう。気づいたら、テッドはまたひとりだった。鉄格子は閉ざされていた。
 ろうそくの明かりは遠く、聞き慣れた轟轟という音が薄暗闇を満たしていた。彼は三枚のぼろ切れでていねいにくるまれ、筵の上に置かれていた。どうやらぐっすり眠ったようで、身体の芯に熱っぽさはまだ残っているものの、さっきよりはずいぶんと楽だ。
 たっぷり汗をかいたので、全身がべとべとで気持ち悪い。おまけにげっぷが薬臭い。
 水で満たされたブリキの水筒が傍らにあり、ふるえる手で蓋をこじ開け、無我夢中で飲んだ。
 その後、テッドがハルトマンを見ることは二度となかった。

 牢獄の生活がはじまって、どれくらい過ぎただろう。暦を見失ってずいぶんたつ。二ヶ月か、三ヶ月か。
 なにしろここには朝も夜もない。食事はいつだって同じくらい粗末で、朝食と夕食をその内容で判別できなかったし、明かりは通路の壁にかけられたろうそくだけ。三交代の見張りが動くのに合わせ、頭のなかで大雑把な勘定をしてみるも、曖昧なものは重ねれば重ねるほど正確から遠ざかると思ってやめた。
 たまには温かなものも出てくる食事は相変わらず足りなくて、慣れるまではかなりつらい思いをした。最近は胃袋が小さくなったのか、さほどひもじくもなくなった。
 ブリキの水筒は、回収されなかったのでもらっておいた。食事の差し入れ口に置いておけば、何も言わずに汲んでくれる。夜は枕代わりにし、手が痛いときはそれで冷やした。
 それにしても、自分はいつ処刑されるのだろう。待てど暮らせどお迎えはこない。
 季節はいつなのか。世の中はどうなっているのか。
 ウィンディはティルが宿す紋章を追っているのだろうか。
 看守たちは囚人と世間話をするのを禁じられているらしく、必要なこと以外は話しかけてこない。わかったのは各々の名前くらいのものだ。ハルトマンの顔を見ないのが気になったのでマルコルフにたずねてみたが、やめた、としか教えてくれなかった。
 テッドは黄金皇帝の首を狙って失敗したことにされている上に、無差別に少なくとも三名を惨殺しているらしい。民衆の怒りを買うわけだ。三名の兵士には心当たりがあるので弁解はしない。だが、暗殺未遂の話は完全な捏造である。筋書きを書いたのはおそらく魔女ウィンディ。このあとは、三百年も逃げ回った仔鼠へのお仕置きを兼ねて、ろくでもない目的を達成するためにテッドを利用しようとするだろう。
 それにしても、まだソウルイーターが欲しいのか。執念深い女だ。
 正直なところ、諦めたのではないかと思っていた。群島諸国で、罰の紋章をめぐる戦乱が勃発したときも、彼女は接触してこなかった。あれだけ派手に立ち回ったのだから、獲物のにおいを嗅ぎつけられただろうに。
 ウィンディがソウルイーターを執拗に狙う理由を、長い旅のさなかに漠然と察した。敵である魔女を、テッドはいつしか憐れむようになっていた。滑稽な話だが、復讐などやめて、どこかの村で魔術をなりわいとしながら、穏やかに暮らしたらいいじゃないかとさえ思った。
 ハルモニア神聖国が27の真の紋章を集めるのは、この世に存在するすべての力の根源を束ね、法を司る紋章である「円」によって統治するためである。それは秩序と停滞の理屈にもとづく。だが、世界は混沌と進展も同時に存在し、バランスが保たれている。だからハルモニアの理想は、正しいかそうでないかは別として、非常に恐ろしく、最悪の場合、世界の有り様を全否定しかねないものだ。
 生と死を司る紋章は、つねに流動している。生から死へ、死から生へ、命の水は轟轟と水路を流れ、高いところから低いところへ、海から空へと循環する。けして停滞してはならぬもの。世界が必要としている混沌である。
 だからこそ、ウィンディはソウルイーターを欲する。「円」に対抗できる最良の手段として。
 もう、やめよう。次にまた彼女に会えたら、テッドはそう言うつもりだ。たった三百年足らずでも、生と死を司る紋章の宿主だった者として、それを道具のように欲するのがいかに愚かであるかを、彼は証言できるだろう。真の紋章に対して、人間はあまりにも無力だということを。
 ウィンディも門の紋章の継承者なら、とうに気づいているはずだ。ただ、彼女は認めたくないだけなのだ。だからこそ、哀れだと思う。
(あの女も、おれと同じなのに)
 過去に縛られたままでは、今を生きられない。テッドが生きられるのはあと少しで、彼はいまも過去から逃れられていない。しかし、残された時間は少ない。ウィンディを許すことは難しいかもしれないが、それが自分を許すことにつながるのなら、人生の終わりに試してみる価値はあるかもしれない。
 死んだあとまで鎖に縛られたくない。それだけは御免だ。
 足首を拘束する鎖が、じゃらり、と鳴る。鎖は、行動もさることながら、尊厳を封殺するにも役立つ。
 栄養不足が原因なのか、爪がやたらと割れる。うっかり引っかけたら痛いので、伸びたぶんだけむしりとった。同じ伸びるにしても髪だけはどうしようもなく、うしろになでつけて、少しでも鬱陶しさを減らす工夫をした。看守に頼んだら切ってくれるかもしれないが、坊主にされるのも抵抗がある。
 あまりみっともない姿で死にたくないと思った。以前、貴族だという男の公開処刑を見たことがあるが、彼はきちんとした身なりで、処刑台でひざまづき神に祈ったあと、頭に布をかぶせられて、首を刎ねられた。気の毒だったが、みじめさは感じられなかった。むしろ堂々として、勇ましかった。
 泣き言をいわない自信はテッドにもあるのに、見栄えだけは期待できない。ぼさぼさの頭に囚人服、痩せ細った手足に汚れた包帯、尊厳ごと鎖でぐるぐる巻きにされて、時間をかけて殺されるとなれば、どんな態度で挑んでも結局は笑いものだ。
 せめて筋肉が落ちないように運動をしよう。馬鹿馬鹿しい思いつきだが、退屈しのぎにはちょうどいい。嘆き悲しむ時間を消費できる。
 足の鎖を引きずって移動できる範囲はごく限られていて、制限は多いものの、周囲が堅牢なために多少バタバタしたくらいでは咎められない。
 目に余る汚れがないかぎり着替えさせてはくれないが、水が使い放題なのは僥倖で、監視つきならばタオルも貸してくれる。使い終わったら回収されるが、乾いたタオルで顔や頭をごしごしするのは気持ちがいい。
 考えてみたら、包帯を飲み込む以外にも、自死する方法はいくつかある。いちばん手っ取り早いのは、足をつないでいる鎖を首にぐるりと一周させ、体重をかけるやりかただ。この方法だったら高確率で死ねるだろうし、おそらくそれほど苦しまずにすむ。問題があるとしたら、バレやすいことか。
 それから水をたらふく飲む方法。鉄柵が邪魔をして溺死はできそうにないので、同じ水を使うのだったらこのやりかただ。柵のすきまを水筒がくぐることは確認した。飲用にしてはいけないと忠告されているが、これよりやばい水を飲んだことは何度もあるから大丈夫。水中毒で死ぬためにはどれほどの分量を飲まなければいけないのか知らないが、鎖よりは苦しそうだ。
 あとは、他力本願ではあるが、看守にけしかけて殺してもらうという手もある。この場合、特別な道具はいらず、演技力さえなんとかなれば成功しそうだ。ただ、相手にも迷惑がかかるので、この方法は却下である。
 あくまでも面白おかしく妄想するだけだ。実行したりはしない。死刑におびえてびくびく生きるのが癪なので、気を紛らわすためにろくでもないことを考えたいのである。
 ほんとうは、その日がくるのが怖い。
 牢から出され、ふたたび手枷をされて、あの長い階段をのぼる。ちゃんと歩けるだろうか。みっともなく震えたりはしないだろうか。大勢の見ているところで失禁したり、腰が抜けたりしたら、どうしよう。
 最期の十三段で、はたして正気を保っていられるだろうか。
 テッドは考えたくないのだ。処刑される自分の姿を。
 その想像はあまりにも恐ろしくて、どんなに排除しても彼にまとわりついてくる。夢による疑似体験は何度もあり、眠ることが恐怖になった。楽な酷刑などあるまいし、物足りないと思わせたら死刑執行人が処罰されかねないので、おそらく内容を聞いただけで卒倒しそうな、残酷な手段が採択されることに疑いの余地はない。
 こんな状況で、平気な人間がいたらそれは、発狂しているのだ。
(狂ってしまえばよいのだろうか)
 なかなか魅力的な提案である。げらげら笑いながら切り刻まれたら、ひょっとしたら物語になるかもしれない。死んだあとの世界なんて知ったこっちゃないが、狂人テッドの絵本がちびっこどもをふるえあがらせる未来は、かなりすてきだ。
「狂う方法なんてしらねえよ」
 彼は口に出して笑った。たまにひとりごとを言う。通路にいた監視がこっちを見て、すぐにいなくなった。
 それから二日たって、マルコルフ看守長が死んだ。
 初老の兵士は真夜中に、ふらりと地下牢獄をおとずれて、通路から囚人のようすをうかがった。少年は背中を丸めて毛布にくるまっていた。眠っているようだった。
 その足で使われていない拷問部屋に行き、蜘蛛の巣を払いのけながら、奥まった場所まで歩いていった。明かりを持たずに手探りで壁を伝ったが、足がなにかの箱を蹴飛ばしたようで、がたんと大きな音がした。
 その音でテッドはびくんと目を覚まし、様子を見に来た看守と眼があった。
「おまえか?」
 テッドは首を振った。
「マルコルフ看守長がこなかったか」
「見てません」
「おかしいな」
 看守は首をかしげると、向かいの部屋を燭台で照らした。
「ああ、おられた。看守長。そこでなにを……」
 数瞬のち、看守はあわてふためいた。
「看守長? ちょっ、お、おい、たいへんだ! みんな来てくれ、看守長が!」
 ばたばたと人が集まり、叫び声や怒鳴り声が交差した。
 マルコルフ看守長は猛毒を飲み、すでに事切れていた。あきらかに自殺だった。
 それから襟章をつけた上官たちがやってきて、牢獄はたくさんのろうそくで昼のように照らされた。テッドも尋問を受けた。人格を否定されるようなことも訊かれた。もちろん身に覚えはないので、彼は感情を見せることもなく、たんたんと応じた。
 明け方、ようやく牢獄は静まりかえり、ろうそくも常夜灯をのこしてすべて回収された。なにも変わらない日常がはじまることを、テッドは予感した。
 看守長の自殺は個人的な理由によるものであり、業務上の人間関係が原因ではないと報告されるにちがいない。なぜならば彼はその日いつもと同じように業務をこなし、宿舎に戻って食事をし、寝酒まで飲んでいたからだ。
 猛毒は鍛冶などに使う、ごくありふれたものだった。鍛冶屋でなくとも手に入れられる。小さな瓶に小分けして、持ち込んだようだ。
 ときおりこぼす愚痴のほかは悩んでいた様子もなく、衝動的な自殺と考えるのが妥当のようだ。遺書はなかった。
 だが、テッドは知っている。マルコルフとハルトマンの会話を聞いていたからだ。
 自分のせいかもしれないと彼は思った。自分が帝国に捕まりさえしなければ、ふたりは誰もいない牢屋を管理するだけの任務に疑問をもつこともなく、退屈ではあるが穏やかな日常をともに過ごしていただろう。ハルトマンにとっても、地下は単なる通過地点で、いずれは昇進し、いい役職を得たかもしれない。その若者が悩みを抱くことさえなければ、マルコルフだって安泰でいられたのに。
 紋章を宿して各地を彷徨っているとき、血に飢えた相棒は行く先々で戦乱を巻き起こし、幾多の魂をかすめ盗った。その経験からテッドはこう考えることにした。こいつがある限りおれは疫病神なのだから、人と深く関わるのはよそう。ひとつところに長く居るのもいけない。ぜったいに、他人と心を通わせてはいけない。
 ぜんぶ紋章のせいだ。
 おれは隠された紋章の村に生まれたばっかりに、貧乏くじを引くことになった。
 不本意だが、死んでいった祖父や村人たちの願いを無視するわけにはいかない。ソウルイーターが悪意ある者の手に渡ってしまえば、世界はさらに混迷し、下手をしたら闇にのまれるかもしれない。自分ひとりが犠牲になればすむ話。しかたがない。
 その考えは正しく、しかし、間違っていたのだ。紋章のせいなどではない。疫病神はテッド自身だ。
 三百年ものあいだ被害者のつもりでいて、こんな土壇場で、加害者が己だと気づく。気づかせてくれたのは、かつての相棒である。
 これが、訣別か。
 死んでしまえばいい、とハルトマンは言った。テッドも同意見だ。死んでしまえばいいのだ。疫病神が消えなければ、悪循環は絶たれない。
 もう、人が死ぬのを見たくない。もうこれ以上、誰の命も奪わせない。おれは、死のう。死んでしまおう。
 包帯を飲み込めば窒息できるとマルコルフが教えてくれたじゃないか。
 ほかの方法は頭に浮かんでこなかった。魅入られたように、左手と歯を使って手首の結び目をはずし、ゆっくりと包帯をといた。手はみっともないほど震えていた。悲しくて、悔しくて、なのに涙もでない。やさしかったマルコルフが巻いてくれた包帯を、彼の願ったとおりに、ほどいた。
「ごめん、なさい。もっと早くこうしていればよかった。気づくのが遅すぎだよな。ばかなんだよ、おれ。むかしから、頭が悪くて、いつも後悔してるくせに、往生際が悪いってんだか、いっつもそんな感じで、人が死んでからわかるんだよ。どうしようもないよ。もう、いい。やめる。生きるのやめる」
 最後の発声とともに布きれに食らいついた。えずきながら飲み込もうとしたが、すんなりと入ってくれない。それどころか、こみ上げてきたものを床にぶちまけてしまった。すっかり消化された、薄汚い胃液だった。目尻に涙がにじみ、はげしく咳き込んで、また口に入れた。何度も、何度も、それを繰り返した。
 そのとき、風がゆらりと首筋をなでた。テッドははっとして、動きをとめた。
 通路でろうそくがゆらゆらと揺らぎ、ふっと消えた。牢の中は真っ暗になった。
 守衛室にある鉄の扉は重いがゆえに気密性が高く、開け閉めするごとに外気が急激な流れとなって押し寄せてくる。ろうそくが吹き消されることもたびたびあり、そうすると奥はあらかた暗闇で、手元すらはっきりとはわからなくなる。
 人の声がした。看守たちがかしこまって声を張り上げているようだ。普段とはあきらかに様子がちがう。
 鉄格子が二度開けられ、人が入ってきた。ランタンを掲げているらしく、明かりがゆっくりと近づいてくる。靴のかかとが石に当たる音と、かすかな衣擦れ。
 テッドは顔をあげなかった。そのかわり、低い声で短く言った。
「なんの用だ」
 相手は、すう、と息をした。
「わかるのね。わたしだって」
「そんな下品な香水のにおいをふりまくやつ、おまえくらいだ」
 ウィンディはくすくす笑って、「まあ、そうね」と言った。
「ねえ、暗くてよく顔が見えないわ。もっと明かりをちょうだい」
 詰め所へ向けて声をかける。看守があたふたとろうそくを持ってきて、壁の燭台に火をつけて回った。
 ふたたび鉄格子が閉じられると、ウィンディは世間話でもするように、
「お久しぶりね、ぼうや。元気だったかしら。お城の暮らしには慣れた? なんだかちょっと、痩せたみたいね。ごはんちゃんと食べてるの」
 牢のなかを見て彼女はわざとらしく口元を覆った。
「まあ、きたない。ねえ、吐いたの? 病気?」
 テッドは答えない。頭ががんがんと割れるように脈打ち、唾を飲んでももどしそうになる。くしゃくしゃになった包帯をぎゅっと握りしめ、耐えた。
「だいじょうぶ? 顔がまっさおよ」
 からかうような魔女の口調にどうしようもない憤りを感じ、テッドは彼女をにらみつけた。
 ウィンディは嗤っていた。
「いい眼だわ。あなたの、その顔が見たかったの」
「……」
「このあいだは、あんまりお話しできなかったからね。今回はたっぷりおもてなししてさしあげようと思って。どう、この客室、気に入っていただけた?」
「……ああ」
「よかった。ねえ、もう年が明けたのよ。早いわねえ。今年の祝賀行事はいつにくらべて控えめだったけど、そのかわり軍隊の行進があって、わりと楽しかったわよ。だって、戦争がはじまるかもしれないんですもの」
 テッドは息をのんだ。
「ふふ、外のことなんか知るわけないわよね。教えないようにって、言ってあったから。じゃあ、かいつまんで説明してあげる」
 通路に放置してある監視用の椅子を鉄格子の前に持ってきて、座った。
「トラン湖の湖城が叛乱軍に占拠されたのは、ついこないだのことよ。叛乱軍はレナンカンプのアジトを放棄して、そっちへ移ったの。アジトの場所はだいたいわかっていたんだけど、どうにも決定打がなくってね。ようやくよ。
 叛乱軍の首謀者の女……なんていったかしら、ああ、そうだ、オデッサ。オデッサ・シルバーバーグ。あれは、革命戦士アキレスの婚約者だった女。アキレスのことはご存じかしら。もう処刑されちゃったけど、いまの叛乱軍の礎をつくった人よ。でも、オデッサは名前だけのリーダーだわ。もともと貴族の小娘で、単なるお飾りだから。シルバーバーグの名前だけね、重要なのは。それから、トラン湖にアジトを移して、もうひとり、実質的なリーダーが立ったらしいの。聞いて驚きなさい。びっくりするわよ」
「……まさか」
「あら、もうわかっちゃったのね。お察しの通りよ。ティル・マクドール。帝国五将軍、百戦百勝のテオ・マクドール、そのひとり息子。あなたのご友人だったかしら」
「ティルが、なんで」
「こっちが聞きたいわよ。ソウルイーターを手に入れて、よっぽどご機嫌なのね。まあ、無理もないかな。あれは人を狂わせるからねえ」
「ふざけるな。ちゃんと話せ。それであいつはいま、どうなってるんだ」
 ウィンディは愉しげにけらけらと笑った。もったいぶるつもりだ。テッドは立ち上がり、鉄格子をつかんだ。手のひらまでしか届かない。
 青黒くなった右手を見て、魔女は顔をしかめた。
「いやだわ。お手々が死んでる。どうしたのよ、これ。こっち、ソウルイーターがついてたほうよね」
「話をそらすな。あいつのことをおしえろ」
「治してさしあげましょうか」
 にやりと嗤い、ローブのそでから右手をだした。もごもごと詠唱すると、ぽうっと周囲が明るくなる。
 粉砕した骨は神経も傷つけ、感覚が鈍っていた。痛覚が弱ったためなんとか我慢できていたのに、突然、突き刺すような激痛が走った。
「あ、痛ッ!」
「ちょっとだけがまんね。いい子だから」
「何をする……くそっ」
 手首から先が心地よい熱に包まれ、血管が勢いよく脈打つのを感じた。払いのけたいのになぜか身体が動かない。まるで、運動機能を支配されているようだ。
 一分ほどそうしていただろうか。明かりが弱まり、それと同時に拘束もとけた。
「はい、とりあえず今日はここまで。あとは、あたしの言うことをひとつきいてくれるたびに施術してあげる。取引ね」
「しねえよ。よけいなお世話だよ。せっかく痛くなかったのに、中途半端にやるから、おかしくなったじゃねえか。もどせよ」
「いやよ。死んだお手々ぶらさげて、ついてくる気? ゾンビのお供なんていらないわ」
「はあ? だれがおまえなんかに……ああ、なるほど。処刑するんで迎えにきたんだな。待ちくたびれたぜ。でもその前に、ティルのことをおしえろ。知ってることをぜんぶきくまでは、てこでも動かないぞ」
 ウィンディは眼を丸くして、「処刑?」と聞き返した。そして吹き出して、笑い転げた。
「ああ、可笑しい。処刑ですって! そういえば、そんな話もあったわね。すっかり忘れてたわ」
「忘れ、てた?」
「ああ、ごめん。ほんとに忘れてたの。誤解しないで。準備はとっくに終わってるのよ。でも、皇帝が執行命令を出さないと、動けないじゃない。叛乱軍のことがあったからこっちも忙しくて、つい後回しにしちゃった。かわいそうに、いまかいまかって、待ってたのね。そりゃそうよね」
「意味がわからない」
 ウィンディはぴたりと笑うのをやめ、口元をひきつらせた。
「お利口になって頂戴。『テッド』という犯罪者の処刑は予定どおりおこなうわ。じゃないと、民衆の怒りを抑えきれないもの。でも、処刑されるのはあなたじゃない。あなたは切り札として、とっておかなくちゃならなくなったから。あなたのお友だちが、妙な気を起こしたせいでね」
「おれじゃないって、じゃあ、だれが」
「似たような背格好の子どもを準備するの。声を潰して、目隠しをしたら、バレっこないわ。どうせ、あなたのことを知ってる人間なんて、たいして多くないし」
「なんてこと……おい、やめろよ、あんた、まともじゃない。狂ってやがんのか」
「まともじゃなくて結構。心配しなくても、あなたもいずれ虫けらのように殺してあげる。らくに死なせてあげないわよ。火あぶりのほうが、まだましだったわね。ざんねんね」
「ふざけんな。おれを殺せ! いま殺しておかないと、ぜってー後悔するぞ。いまならおまえの好きなように、虫けらのように殺されてやる。いまだけだからな。先の約束なんか、し、しないから」
 ウィンディは目を細めた。
「ふるえてる。ほんとは怖いくせに」
「怖いさ! せいいっぱい強がってんだよ。みじめに、ガタガタふるえて。わかるだろ! おれはもう、役にたたないから、とっておいたって無駄だよ。それどころか、あんたの足を引っ張る」
「そうかしら」
「そうだよ。なんでそんなに買いかぶるんだ。おれのじいちゃんのことはあっさりと殺しておきながら」
「そんな昔のことは忘れたわ」
「どうだか。あんたは執念深いからな。でも、やりかたがへたくそだ。おれなら、もっと……」
「もっと、なに?……聞きたいわ。聞かせて」
 ウィンディは大きく身を乗り出した。そして懐から、小さなガラス玉を出した。
「これからは、あたしのそばで、お話を聞かせて。ねえテッド、後悔するのは、あなたのほうよ。先の約束なんか、してもらわなくてもだいじょうぶ。だってあなたは、あたしのお人形さんになるんですもの。たのしみね。いっぱい、たのしみましょうね」
 ウィンディはガラス玉を、目の前にかかげた。不思議なことに、その内部には紫の炎がチロチロと燃えていて、まるで呼吸するように、大きくなったり小さくなったりを繰り返していた。
 見ちゃだめだ。テッドは本能的に、眼をそらそうとした。だが身体はすでに言うことをきかなかった。視線は炎に吸いつけられ、その瞬きは、彼の鼓動と共鳴をはじめた。
 心臓が早鐘を打ち、五感が急速に遠ざかっていく。
 ウィンディは鉄格子に顔を近づけ、テッドの耳元でそっと告げた。
「でも、まだよ。あなたのその、お手々といっしょ。一気に治してあげない。ゆっくりと、時間をかけて、支配される恐怖をぞんぶんに味わいながら、おかしくなってね。この紋章珠を、最後はあたしが砕く。そしたら、あなたは完全にあたしのもの。もしも他のだれかがこれを壊したら、呪いはあなたに降りかかるでしょう」
 ガラス玉を懐にしまう。
 テッドの視線は行き場を失い、床にことんと落ちた。
「『処刑』の日まで、もうちょっとここで暮らしてもらいましょうね。たまに様子を見にくるから、いい子にしてるのよ」
 テッドは苦しげに絞り出した。
「なにを、やった、きさま」
 魔女はにっこりと、慈悲深い聖女のようにほほえんだ。
「ご自分でお考えなさい。でも、おあいにくさま。あなたはもう、自分では死ねないの。もう、にどと、失敗すらできないのよ。ごめんなさいね」
 硬直した身体が怒りでがたがた震えた。彼はすでに気づいていた。
 足もとに、用済みになった包帯が落ちている。
 あれが、最後で最大の失敗だ。