「ぜんっ、ぜん、わかんねえ」
遙兵は頭をぼりぼりと掻いた。
「aがゼロより大きく、bがゼロより大きいとき、ルートaたすルートbが、ルートaたすbより大きいことを証明しなさい、っと」
なんべんも無駄に繰り返したその問題をまたぶつぶつとつぶやき、つまんだシャーペンをくるくると回す。
「わかんねえもんは、わかんねえ」
机代わりの画板を地面にぽんと置く。
「ギブアップか、猛地」
「や、この問題それ自体はなんとなく頭のスミッコにこびりついてんスけど」
「だろうね。期末試験の問題そのまんまだからね」
樹花は腕組みを解いて、しかめっつらをした。
「だけど一問目でアウトってのは、どうだろう。猛地、志望校はどこだ」
「志望校って……えー。んなのまだわかんないっスよ。高校だってまだ入ったばかりなのに」
「へえ。うちの生徒って中学のときから希望の大学を決めてる子ばかりだと思ってたら、そうでもないんだね」
嫌味とも受け取れる物理教師の挑発に、遙兵はやぶ蛇だったかという顔をした。
私立牡鈴学園は一流国立大学の受験予備校のような存在である。一年生とはいえ、第一志望への現役合格を目標に据えて必死に猛勉強をしている連中ばかり。遙兵のようなお気楽な生徒のほうがむしろめずらしいくらいなのだ。
樹花は霧流に視線を移した。
「燕はどこ志望っていったっけ」
「東大理三ですが」
「じゃ、数2の問題は大丈夫だな。それが終わったら猛地に教えてやってくれ」
「はい、まかせてください、先生」
霧流は余裕のよっちゃん然とした表情を浮かべて、勝ち誇ったようにふふっと笑った。
遙兵は憮然として言った。
「燕が医者志望なんて、世も末だ」
「医者になりたいだなんて、いってないじゃん」
「東大理三って医学部だろうが」
「ぼくは弓ノ間くんのために働きたいの」
画板のプリントとにらめっこしていた鉄人が「はあ?」と言って頭をあげた。
霧流はうっとりとしながら平然と言いはなった。
「弓ノ間くんが、ぼくのすべてだから。いっぱい勉強して、弓ノ間くんの力になりたいの」
また自分だけの世界を勝手に妄想している。
「動機はともかくいっぱい勉強するのはいいことだ」と樹花。
不純すぎる動機は成績がよければノープロブレムですか、とつっこみかけて遙兵はやめた。二匹目のやぶ蛇は御免こうむりたい。
鉄人はすぐに興味を失ったようにプリントに目を戻した。
だがシャーペンがまったく動いていない。眉間には皺。全国模試万年一位にしてはめずらしい光景であった。
「どこでひっかかってんだよ」
すでに放棄した遙兵は背後から興味しんしんで鉄人のプリントをのぞき見た。
硬直する。
A4判の紙には見たこともないような数式がびっしりとすき間なく書きこまれていた。
遙兵の眼にはそれは数式というよりも、古代ギリシャの幾何学模様に近かった。
「ん、だ、これ」
「え? ああ、上のは函数解析。もう解いた」
「もう解いた、って」
「ヒルベルト空間論の初歩だから簡単だよ」
「ヒル……なに?」
簡単だよ以前に、言っている意味がまったく理解できない。
レベルが違う。ちがいすぎる。遙兵の常識からいってシャーペン一本で解いてみせるようなたぐいの問題ではない。
鉄人はさっきから深刻な顔をして、最後の欄に視線を釘づけていた。
『設問の意味をよく考えて解答せよ。
これからのことは、おまえの意志にまかせる。自分の判断で行動してくれればいい。銀町絵麗亜
現時点における自己の見解を述べなさい。(15点)』
「はい、タイムアップ。プリント回収」
樹花は涼しげに宣言したあと、四枚の紙を赤ペンでいじくった。
うち二枚は参考書らしきものと照らしあわせながらかなりの時間をかけて採点する。
「弓ノ間、85点。魁、85点。燕、すばらしい、満点。猛地、猛反省が必要、0点。猛地だけ残って補習。燕は悪いがつきあってやってくれな。弓ノ間と魁は米を研いでおくこと。本日の授業はここまで、起立」
「ありがとうございましたーっ!」
大海原を望む青空教室はたいへん結構なのだが、よくよく考えてみると今日から冬休みなのである。ハイレベル進学校の悲哀は無人島に場所を移してまで余すところなく発揮されていたのだった。
鉄人とノエルは意味深な表情で、ちらりと互いの顔を見た。
「いこっか」
「ああ、米、か」
魂の宿っていない会話を交わすと、洗い場に向かっていった。
樹花はふたりの後ろ姿を見送って、小さく「ふん」と鼻を鳴らした。
「なんか書いてあったろ」
手際よく米をかき混ぜながら、鉄人は切り出した。
「うん」
タイミングを見計らって、水道の蛇口をひねるノエル。
水道は島にあるただひとつの文化的設備だった。
リズムを刻んで噴きだしてくるのは湧き水らしく、真冬の水道水にしてはさほど冷たさを感じない。おそらく年をとおして一定の水温を保っているのだ。真夏はこれでも氷水のごとき慈愛に思えるのだろう。
「なんだった」
鉄人はぶっきらぼうに訊いた。
「いまできることを、よく見極めておけって」
「おれのとちがう」
「鉄人は」
「自分の判断で行動しろ、だって」
水加減をはかり、準備万端となったステンレスの鍋を持って鉄人は立ちあがった。
「空欄で出した」
「ぼくも」
「一文字も書けなかった」
「同じく」
十五点の問題はふたりにとって、先の方程式よりもはるかに難問だったのである。
山岡の組んだかまどは鍋を吊せるように鉄の棒が渡してあって、針金製のS字がいくつもぶら下がっていた。S字をいくつかつなげることによって鍋底の位置を上下させ、火加減を調整するのである。薪を足したり取ったりするよりも容易かつ有効な手段であった。
米を吸水させるあいだ、やることはとくになかった。山岡と橋本さんはともに大の釣り好きらしく、朝から釣り竿を持ってリーフに行ってしまった。仕事をいいつけていかなかったということは、釣果にかなりの自信があるのだろう。
珊瑚礁に棲息する魚はシガテラ毒素を有することをきちんと理解していればよいが。
集団食中毒ではシャレにならない。
「さんぽ、いかねえ?」
ノエルはうなずいた。昼寝に興じるよりは気が紛れるだろう。
そういえば鉄人はコンビニでもマクドでも、ノエルを誘うときは必ず散歩と称して連れ出す。口癖なのだろうか。
しかし、散歩という言葉はなかなかいい。目的がなさそうでじつはあるというところ。けれどそれを果たせなくとも、散歩だからでチャラにできる。
島内は未舗装の道路がほぼ一周していて、途中の何カ所からかは海に下ることができるようだった。はるか遠くに軽トラックの白い車体が目視できる。山岡たちはあのあたりで釣りをしているのだろう。
鳥の鳴き声がにぎやかだ。いったい何種類の野鳥が棲息しているのだろうか。
ノヤギの声も時折混じる。
キイッ、キッキッキッ。
ピロロロロ。
めへへえええ。
「なんか、不思議だね。こうしてるのが」
ノエルはうーんと背伸びをしながら言った。
「まったくだ」
「すごい贅沢をしてるような気になる」
「いつまでそうしてられるか、わかんないけど、な」
ノエルは鉄人を見た。後ろ向きの発言を咎めるでもなく、かといって楽観視もせず。
「いまできることを、考えてみたんだ」
「ああ、さっきのあれ」
「うん」とノエルはうなずいた。「けどね、玉砕。思い浮かぶのは、いましかできないことばかりだった」
意味をはかりかねて、鉄人はまばたきをした。
ノエルは続けた。
「いまできることと、いましかできないことって、ちがうでしょ。なんか、よくわかんなくなっちゃって。いましかできないことなら、たくさんあるんだよ。セラフィムの正体を知ること。どうして人から人に転移できるのか、マクロファージが急激に活性化して爆発的なエネルギーを生じるシステム、そこからどういった経緯で寄生に結びつくのか、発動の条件は、猶予は、阻止できる可能性は。納得するまでは死にたくなんかない。生きているうちにしかできないこと……それだったらいくらでも出てくるんだ。あんな解答用紙じゃぜんぜん足りない。ぼくってこんなに強欲だったかと思うほど、あれも、これも、ぜんぶ知りたい。時間がないから、ほんとうにいますぐにでも」
言葉を句切る。
「鉄人がね、そのヒントをもってるんだったら……ぼく、鉄人をバラバラにすることも厭わないかもしれない。本気だよ」
「……」
「気が狂ってるんだ、たぶん。ぼくが黙っておしまいを待ってるように見える?」
「おまえが諦めのいいやつだなんて思ってねえよ」
「もっと足掻いたほうがいいと思う? それともさっさとあきらめろって言う?」
「とことんまでじたばたしてたほうがおまえらしいな」
ノエルはふうとため息をついた。
「鉄人のいじわる」
「ンだよ。ホスピスで静かに余生をすごせっていってほしいのか」
「まったく、どうしてそう両極端なのさ」
「ノエルのしたいようにしたらいいじゃんか。悔いを残すのはやなんだろ」
自分のしたいことすらもわからないのに偉そうなことをぬかしやがるぜ。鉄人はふっと自嘲した。
ノエルの反応はひどく刹那的であった。
「じゃあ、鉄人、ぼくのかわりに死んでくれる」
「えっ」
「……むり、だよね」
ノエルはわずかに笑ったあと、ふいにすがすがしい顔をした。そのまま空を見あげる。
「ねえ、いまできることって、なんなんだろう」
独り言のように。
アジサシがキッと鳴きながら上空を横切った。
風がざあっと樹木をざわめかせる。
ノエルの疑問は、受けとめる者もなく、南の大空に拡散していった。
”これからのことは、おまえの意志にまかせる”
鉄人も反芻した。
銀町に匿ってもらうことで、あちらこちらに迷惑をかけていることは認識していた。下手をすると、日本という国家の立場すらも危うくしかねない。
最悪の場合、銀町も理事長職を引責辞任するくらいでは済まされないだろう。
すべては自分が13ラボラトリオを脱走したことからはじまった。
手引きされたとはいえ、逃れようとする確固たる意志がなければ成功などしていなかったはずだ。平凡な高校生のふりをして、暢気に暮らす気分にもなれなかったはずだ。
回ってきたツケは支払わなくてはいけない。
だが、どうやって。
ひとつの選択肢が目の前にちらついていた。それはとんでもない思い違いかもしれなかったが、なぜか鉄人には魅力的に思えてならなかった。
ハルモニアに戻る。
ラボもほんとうはそれを期待しているはず。証拠隠滅するには、鉄人はあまりにも惜しいサンプルだからだ。おとなしく投降すれば、悪いようにはすまい。
もちろん、自由や権利といったものはこんどこそ永久に奪われるだろう。
二度目の奇蹟は望むべくもない。
前以上に徹底監視されて、またあのカリキュラム攻めの毎日が与えられるにちがいない。
納豆も味噌汁も地獄のスッパイマンも二度と食べることはないだろう。
しかし、それはそれで、楽な方法にはちがいなかった。
最初から均衡を乱すべきではなかったのだ。
日本に固執しても自分はトラブルの元にしかなりはしない。
銀町は、鉄人が決めたことならそれでもいいというだろう。
銀町は鉄人にああしろこうしろとは指図しない。玄関では靴を揃えろとか便所の水は大ばかり流すなとか細かいことはキーキーわめき散らすが、人生に関する肝心なことにはけして口をはさまない。
今回も、待っているにちがいない。
鉄人の判断をだ。
自ら望んでもとの檻に帰るか、日本にとどまって徹底抗戦するか。
或いは。
「ずっとここで暮らすってのも、悪くない」
「ええ?」
ノエルは目を丸くした。
「どうだ、ノエル」
「どうだって……島で?」
「そう」
「ヤギとウサギと熱帯魚ばっか食べて暮らすっての」
「だめか」
「発狂する」
「やってみなきゃわからない。それに」
鉄人は声のトーンを落とした。
「別んとこで発狂するよりゃマシかもしんねえし」
「あ……」
ノエルの表情が歪んだ。
その先を言おうとしたが、やめて唇を噛む。
鉄人はぷっと吹きだした。
「なんて顔してんだ。たとえばの話だろ」
ノエルは頬を膨らませた。
「いまの鉄人、本気だぜって目をしてた」
「じょうだんだよ」
「ううん、マジだった」
怒ったような口調のノエルを軽くあしらって、鉄人は言った。
物語分岐
まだ先がある
2006-07-05
