「マジになっても、いいかもな」
「テッ……」
「ここに住むのも」
ノエルはぽかんとして、次の瞬間、ぶはっと吹きだした。
「鉄人のバーカ」
次の日。
「ぜんっ、ぜん、わかんねえ」
遙兵は頭をぼりぼりと掻いた。
「次の英文を読み、設問に答えなさい。下線部Aを和訳しなさい」
なんべんも無駄に繰り返したその問題をまたぶつぶつとつぶやき、つまんだシャーペンをくるくると回す。
「わかんねえもんは、わかんねえ」
机代わりの画板を地面にぽんと置く。
「ギブアップか、猛地」
「や、この問題それ自体はなんとなく頭のスミッコにこびりついてんスけど」
「だろうね。期末試験の問題そのまんまだからね」
樹花は腕組みを解いて、しかめっつらをした。
「だけどまた一問目でアウトかい。どうしてキミはこう……」
「センセー、ストップ。きりたんぽ屋継ぐのに英語なんていりませんから(きっぱり)」
「いい度胸だね」
樹花は愉しげに嗤った。遙兵はきのうに続いてのさらなるやぶ蛇を自覚した。
樹花は霧流に視線を移した。
「燕。今日も、いいかい」
「はい、まかせてください、先生」
霧流は余裕のよっちゃん然とした表情を浮かべて、勝ち誇ったようにふふっと笑った。
遙兵は憮然として言った。
「なんで今日も燕なのさ」
「弓ノ間と魁は教えかたが下手そうだからだ」
画板のプリントとにらめっこしていた鉄人が「はあ?」と言って頭をあげた。
「妙なスラング(俗語)を植えつけられちゃかなわん」と樹花。
鉄人はすぐにあほくさといった顔でプリントに目を戻した。
だがシャーペンがまったく動いていない。眉間には皺。もしかして昨日のアレの続きか。
「今日はなんだよ」
遙兵はよせばいいのに背後から興味しんしんで鉄人のプリントをのぞき見た。
硬直する。
A4判の紙には見たこともないような単語がびっしりとすき間なく書きこまれていた。
それ以前に鉄人の汚い字で書きこまれた和訳がひと眺めするだけで卒倒するような難解さなのだ。
「ん、だ、これ」
「え? ああ、日米同盟の未来を考察するわりと曖昧なペーパーバックスの原書から引用したやつだけど、曖昧さを回避して訳さなきゃならないって」
「は?」
「トゥリーティオブミューチュアルコーアペレイション、アンド、セキュリティ」
「セキュリティ……なに?」
取り急ぎ、言っている意味がまったく理解できない。
レベルが違う。ちがいすぎる。遙兵の常識からいってシャーペン一本で和訳できるたぐいの問題ではない。
鉄人はさっきから深刻な顔をして、最後の欄に視線を釘づけていた。
『設問の意味をよく考えて解答せよ。
どうした、自信がないか。焦ることはない。こちらはどうとでもなる。銀町絵麗亜
現時点における自己の見解を述べなさい。(15点)』
「はい、タイムアップ。プリント回収」
樹花は涼しげに宣言したあと、四枚の紙を赤ペンでいじくった。
うち二枚は参考書らしきものと照らしあわせながらかなりの時間をかけて採点する。
「弓ノ間、85点。魁、85点。燕、すばらしい、満点。猛地、猛反省が必要、0点。猛地だけ残って補習。燕は悪いがつきあってやってくれな。弓ノ間と魁はヤマのいうことをきいてウサギを獲ってきなさい。本日の授業はここまで、起立」
「ありがとうございましたーっ!」
鉄人とノエルは意味深な表情で、ちらりと互いの顔を見た。
「いこっか」
「ああ、ウサギ、か」
魂の宿っていない会話を交わすと、あずまやに向かっていった。
樹花はふたりの後ろ姿を見送って、小さく「ふん」と鼻を鳴らした。
「またなんか書いてあったろ」
サバイバル・ナイフをいじくりながら鉄人は切り出した。
「うん」
見た目に反してずしりと重い網を肩にかけるノエル。
すばしっこいウサギはヤギよりも捕獲が難しい。四方から網で囲い、逃げ場を断って追いこむのだ。この網が半端ではなく重い。
鉄人に渡されたのはトドメを刺すためのナイフ一本。よっぽど腕力を期待されていないのだろう。
「なんだった」
鉄人はぶっきらぼうに訊いた。
「身体に変化はないかって」
「おれのとちがう」
「鉄人は」
「焦るな、だって」
山岡のあとを必死で追いかけながら鉄人は言った。
「空欄で出した」
「ぼくも」
「一文字も書けなかった」
「同じく」
十五点の問題はふたりにとって、先の英文和訳よりもはるかに難問だったのである。
「焦るなっていわれてもなあ」と鉄人は滝のように流れる汗をぬぐいながら言った。
こうしているあいだにも、ハルモニアは日本を脅迫してくるだろう。ニュースがまったく伝わらないことがもどかしい。銀町は大丈夫だろうか。学園は。
ノエルのタイム・リミットも刻一刻と近づいている。
ウサギなど悠長に追っている場合だろうか。
「なにをボケェッとしてやがる、大将、ハチマキ!」
鉄人はハッとして原生林を逃げ回るウサギに神経を集中した。
「ここのウサギは蹴っとバニーってあだ名がつくくらい凶暴だからな。こんどけっ飛ばされたら山に捨てて帰るぞ、大将」
山岡の脅しも気のせいか寒々と聞こえる。
なんとかウサギをつかまえなくては、夕食が白飯とヤギの局部の干物(余ったので干してみた)だけになる。
ヤギの時のようにへまをしたら、こんどこそサメの入り江へご招待という雰囲気だ。
「ウサギィィイイ!」
鉄人はメチャクチャにわめいて、サバイバル・ナイフを振り回した。
「大将! 声はいいから走って追いこめ、走ってよォ!」
山岡の血管がキレる音がした。
物語分岐
くそ、いっそのことここに永住して山岡も閉口する猟師になってやる。
まだ先がある
2006-07-05
