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九つの刹那―27

 陽が西に傾いてきた。来た街に戻るには同じ道を徒歩で五時間。どう頑張ってみても暗くなる前に着くことはできない。それに、灯りを携帯するのを失念していた。終いには、これがもっとも問題なのだが、なにかに祟られたかのような体調の悪さ。歩こうとあがいても、おそらく十分ともたないだろう。
 八方打つ手なし。どんづまりの行き止まり。途方に暮れて天を仰ぐ。ついに年貢の納め時がきたか。ケチくさい人生だったな。
 自嘲するしかなかった。街でキャラバンの通るのを待っていなかった自分が悪い。急ぐ旅でもあるまいに、なにを焦ったものやら。
 資金はじゅうぶんにある。足りないのは戦闘能力と、生きのびるための知恵だ。そっちが金よりもはるかに重要なことくらい、神に諭されなくともわかっている。ちくしょうめ。
 不完全な装備と、未熟な腕。いままで生きるために必要のなかったものを、いまここですぐに手に入れられるわけがない。そういったものは金では買えない。ましてやこんな辺境で行商人がいるでもなし。
 臭ェなあ。
 何百回めかのため息をもらす。
 まだ危険な敵と遭遇したわけではないが、それは単なる幸運だ。夜になったらどうであろう。街道は人外の徘徊する餌場へと変貌するにちがいない。
 危機が迫っている。急いで火をおこさなければ。
 しかし、薪を集める力もない。
 腹がキリキリと刺すように痛い。あれだけ吐いて、ケツからも出したのに、まだ水漏れしていやがる。どうせ汚れてしまったのだから出るにまかせる。
 薬。そうだ、薬を持ってきていない。必要なものはなにひとつ持っていない。旅人としては失格だ。これもわかりきっていること。
 太いカツラの木をみつけてそこに背を預けたら、動く気が完全に失せた。浅くて速い己の呼吸。波のように襲ってくる痛み。じりじりと照りつける太陽。街道は静かで、人も馬も通らない。
 川のせせらぎがきこえる。背後だ。かなり近い。街道は川に沿っているはず。そのことは地図を見てあらかじめ確認してある。水。いま、もっとも必要なものはそれだ。這いつくばってでも水を求めるべきだろうか。
 重い首をほんの少し傾げてみる。道の端は崖っぷちになっている。地図ではきれいに平行している街道と川は、標高差で分断されているようだ。
 ここを下りるのは難儀だな。その一瞬で水を諦める。
 死ぬかもしれない。はっきりそう感じた。よくある嘔吐も下痢も、状況によっては命取りになるということだ。できれば実践で学習したくはなかった。が、単独行動を甘く見た自分の非である。体調を崩したのは想定外だとしても。
 吐瀉物と排泄物にまみれた死体が、強い太陽の下で放置されるとどうなるだろう。みじめや悲惨を通り越して、いっそ人知れず朽ちてしまうほうが幸せかもと思う。身元もわからず共同墓地に葬られるのはいやだ。
 考えがまとまらなくなってきた。幹で身体を支えることもできなくなった。ゆっくりと横に倒れてゆく。ああ、地面が熱い。灼けるようだ。
 死ぬのだ。身体はそのための準備にいそしんでいる。
 馬鹿みたいだ。
 そう思った瞬間、ふと、視界に動くものがひらめいた。
 まだかろうじて自由になる目をあけてみる。
 子どもだ。男の子。
 少年は街道を歩いてきた。そして木の前で立ち止まり、こちらを見た。逆光で表情がみえない。なにか言うかと思ったが、じっとしている。
「助けてください」
 本能が言葉を発した。少年はそれに応じるかのように、近づいてきた。ぴったりと横に立つ。
「どうしましたか」
 幼い声だ。連れの姿はない。幻覚だろうか。いや、幻でもいい。助けてほしい。
「どうか、助けてください。腹が、痛くて……このざまです」
 見た目でわかるだろう。さんざん吐き散らした上に、水のような下痢でズボンがぐちゃぐちゃなのだから。
 少年は黙って斜めがけの鞄を下ろした。荷物はそのひとつだが、ぱんぱんに膨らんでいる。背にはもうひとつ、矢筒を背負っている。
 小さな手が取りだしたのは水筒だった。少年は手でその重さを確かめると、飲み口を開けて寄越してきた。
「飲んでください。あまり残ってないから、ぜんぶ飲んでいいです」
「いや、飲んだらまた出てしまうし……」
「飲まないと脱水で死にますよ。それ、少し塩を入れています。びっくりしないように」
 少年の冷静な口調に促されて、おそるおそる口をつけた。たしかに、わずかだが塩の味がする。水はぬるくなっていたが、喉をうるおした。美味しい。
「あなたの水筒を貸してください。水を補給してきます」
「いや、水筒は、持っていないんだ」
「持っていないんですか」
 少年の声に怒りのようなものが混じった。彼はまた少し黙りこんで、それから言った。
「とにかく、水場をさがしてきます。ここで動かないで待っていてください」
「水ならば、川がそこに」
 深いため息がきこえた。
「川の上流になにがあるかご存じですか」
「……いや」
「鉱山です。鉱毒の混じった川の水は飲用に向きません」
 少年は鞄をどさりと地面に置き、弓と矢だけを持って崖を下りていった。
 塩水で少しだけ元気を取り戻して、ふたたび木にもたれた。少年の置いていった鞄をぼんやりと見つめる。かなり使いこんである。素材は帆布だろう。丈夫そうだ。あの小さい身体に重くはないのだろうか。
 弓を一式装備しているということは、彼が戦えるあかしだ。だが、その旅人はあまりにも幼い。十歳かそこらだと思う。
 だいぶ待って、がさがさと薮の動く音を耳にした。熊かと身をこわばらせる。脅し笛を持っていたはずだが、おそらくは荷物の中だ。急では役に立たない。
 しかし、現れたのは少年であった。
「見つけました。十五分ほど歩きます。動けますか」
「見つけた?」
「支流です。もう時間も遅いので、そこで野宿します」
 その提案に驚いた。街道を逸れるのは危険すぎる。ここでキャラバンが通るのを待つほうが現実的ではないのか。
 そのことを訴えると、彼は短く答えた。
「おれがついているからだいじょうぶです。立ってください」
 有無を言わせぬ、という感じである。迷惑な拾い物に苛立っているのだろう。やんちゃそうな顔はにこりともしない。
 よろよろと立ちあがると、少年は二人分の荷物を背負っているところだった。これにはさすがに慌てた。
「も、持ちます」
「崖を下りますよ。ゆっくり歩くので、ついてきてください」
 無視された。
 灌木の茂みを少年は巧みに下ってゆく。彼の言う『ゆっくり』は少しばかり速かった。遅れるたびに声をかけ、そして少年は無言で待った。
 すぐに川が見えた。雨が降ったわけでもないのに赤茶けている。ほんとうだ。これでは飲用にならない。うっかり口をつけたら、中毒を起こすというわけだ。
 先を往く少年が「ここです」と立ち止まった。追いつくと、なるほどそこには細い支流があった。水は透き通っていて、飲めそうだ。
 少年が上のほうを指した。
「そこに小さい釜があります。右岸に湧き水があるので、飲料水はそこから採取します」
「釜……?」
「滝でえぐれた淵のことですよ」
 少年はうんざりと言った。
「支流の水も、飲めるほどきれいです。でも、おじさんはお腹を壊しているから、湧き水にしといたほうが賢明です。水浴びや洗濯は下の川に近いほうでお願いします。今夜は雨、降りません。いま、寝る場所をつくります。らくにしていてください」
「すまない。きみだけ働かせて」
「ひとりでもどうせ同じことをします。気にする必要はありません」
 少年の話しかたは、先生が生徒にぴしゃりと叩きつけるような感じだ。知識の足りないにわか旅人に呆れているのだろうが、どうも態度が子どもらしくない。だが、その仕事ぶりを見ていると舌を巻くしかないのだ。彼はいったいどこでどうやって、これほどの高度な生き残り術を拾得したのであろう。
 親はいないのだろうか。
 二人がちょうど横になれるほどの平らな地面で、石や木をていねいに取り除くと、周囲にぐるりと溝を掘った。蕗の葉を丸めて水を汲み、溝に流す。水は溜まらずにすぐにしみこんでいく。しかし、準備としてはこれでよい。アリ避けである。
「さて、どうぞ。おれは薪を拾ってきます。すぐに戻るので」
「ありがとう」
 そこに座ると、腐葉土がふかふかで、ベッドのようだった。上は茂った葉で覆われている。やさしい土のにおいがする。
 そこで思いだした。汚れた衣服を着替えたほうがよいだろう。いくらなんでも迷惑にきまっている。着替えはたくさん持っている。
 荷物を開けていると、少年が渇いた木の束を抱えて戻ってきた。かなりの量だ。わずかな時間でよくこれだけ集めたものだ。
「痛みがおさまるまで、無理せずにもうすこし横になっていたほうがいいですよ」
「ああ。でも、きみが、厭だろう」
「なにが?」
「ゲロとゲリで臭いだろうなと」
「べつに」と少年は言った。「おれに気を遣うよりも、ちゃんとこまめに水を補給してください。水筒、ここに置いときます。塩、入ってます」
「どうして塩を入れるんだい」
「知らないんですね。ただの水だと腸でうまく吸収されないんですよ。それに、暑いときは少しの塩分を摂ることがだいじです。ただし、摂りすぎはだめです。お腹を壊したときや熱があるとき、それから真夏の水分補給には、砂糖と少しの塩を混ぜます。あいにく、いまは砂糖を持っていないので」
「なるほど。勉強になる」
「勉強してからこういうところに来てください」
 少年はまた怒ったようで、そっぽをむいた。致し方ない。どう考えても、浅はかだったのは自分である。ここは出来の悪い生徒として一歩退こう。
 それからは黙々と作業のようすを見ていた。寝場所の四方に薪を組み、それとは別にもう一カ所、木を積みあげる。四方の薪は獣を威嚇するためのものであろう。いまつくっているのはかまどのようだ。
 鞄から小さな鍋が出てきた。ボコボコにへこんでいる。何年使ったらこのような味わい深い色やかたちになるのか。
 なんとも不思議な少年だ。
 そういえば、訊いていなかったことがあった。
「きみ、名前はなんていうの」
 少年は手を休めずに、こちらを見もしないで言った。
「それ、重要ですか」
「いや……しかし、世話になっているのに、申しわけなくて。おれはサミュエル。菓子職人だ」
「……菓子職人?」
 意外なものが彼の気をひいたようだ。好奇の眼がこちらを向いた。
「ああ。ミランダの街で二十年間も菓子を焼いていた」
「ミランダ。おれも行ったことがあります」
「そうか! 林檎パイのうまい店を知らなかったかい」
「生のリンゴならば盗んで食いましたけど?」
 言葉につまった。いまのは意趣を含んでいた。とても気まずい。
 そのとき、少年が言った。
「おれは、テッド。旅をしています」
 テッド。
 名前は、重要な情報だ。相手を呼ぶとき、これがあるとないとでは大違い。
 少しは心を開いてくれる気になったのかもしれない。もしくは、サミュエルが名乗ったことで対等であるべきと考えたか。
「テッドくんだね。ほんとうにありがとう。ひとりで、旅を? きみは幾つなんだい」
 テッド少年は苦虫を噛み潰したような顔をした。サミュエルは慌てた。
「いや、言いたくないのならばいいんだけど」
「ずっとひとりです。歳は忘れました。旅をするのは、逃げているからです」
「逃げて?」
「そうです。わかりやすい理由でしょ」
 いや、わかりやすくはない。だがテッド少年はふたたび背を向けて、仕事に没頭してしまった。煙の臭いがする。やがてパチパチと火が爆ぜた。
 小さな背中だ。サミュエルの世話をしながら、一生懸命拒絶している。そういう雰囲気だ。大人を信用していないのかもしれない。
 着ている服はぶかぶかの上下で、とても色褪せている。もとは明るい青だったのだろう。修繕の痕跡。肘は布で補強されていた。まるで乞食の子どもだ。
「青が好きかい」
 なんとなく訊いてみた。
「べつに」
 返答は短く、素っ気ない。
「ごめん。そうかなと思ったんだ」
「サミュエルさんは黒い服、やめたほうがいいですよ」
「え?」
「黒は熊と間違われるから危険です。襲われる確率も高くなります。蜂も、黒を狙って刺してきます。それから、袖のない服もだめです。怪我をしやすくなる。真夏でも夜は冷えることもあるし、肌を露出する服は、歩きの旅には向いていません」
 どちらが年上かわからなくなる。少年の講義にサミュエルは聴き入った。しゃべりながらテッドは手元で湯を沸かし、鞄から薬草を出して煎じはじめた。
「サミュエルさん、ベルデの街に泊まりましたか」
「うん。昨夜はそこで宿をとった。テッドもかい?」
「おれは……ベルデには十日ほどいました」
「小さな街だ。たしか宿はひとつしかなかったはずだ。会わなかったな」
「おれはめったに宿を使わないから」
「どこで寝泊まりをするんだ?」
「迷惑のかからないところを探して、巣を張ります」
「その、非常に失礼なことを訊くんだが、きみはお金をもっていないのかい」
 テッドは黙ってしまった。サミュエルは己の迂闊さを呪いたくなった。
 だが、答えは意外にあっさりと返ってきた。
「お金なら、あります。使うべきところで使います」
 サミュエルがその言葉の意味を考えていると、「はい」とカップを差しだされた。鍋に負けず劣らず、個性的に変形したカップだ。
「熱いので、ふーふーしながら飲んでください」
「なんだ、これ」
「オウレンを煎じたものです。お腹の薬です」
 そういえば、さっき鞄から出していた。鍋、カップ、薬草。ほかになにが入っているのか、気になる。
「あちっ」
 お世辞にも美味いとは言いがたい。これはお茶だと念じながら口をつけた。
「サミュエルさん」
「うん?」
「ベルデの宿の食事はどうでした」
 おかしなことを訊く。
「なかなかのご馳走だったよ。量は多かったが、ぜんぶ食べた」
「ぜんぶ食べちゃったんですか」
「食べものを残すのは悪いことだとおふくろに躾けられてね」
「じゃあ、お腹を壊した原因はそれです」
「食い過ぎ?」
「いいえ。まあ、それもあるかもしれないけど。ベルデは、食用油がちょっと特殊で……慣れない人はあまり、食べないほうがいいんです」
 語尾を少しだけ濁した。
「特殊って、どんな具合に」
「知らないほうがいいですよ。これ以上、吐きたくないでしょ」
 とてもありがたくない気遣いだ。
 想像したらまた胃がムカムカしてきた。しかし、せっかく飲んだ煎じ薬がもったいない。必死で気を散らす。
 陽が陰ってきた。テッドは立ちあがって、四隅に設置した薪に火をつけた。火柱が高く燃えあがる。
「今から火を焚いたんでは、ひと晩もたないんじゃないのかい」
「いいんです。燃えた臭いを散らすためですから」
「すごい知恵だな」
「とんでもない。基本ですよ、こんなの。サミュエルさんが知らなすぎるだけです」
 口調は丁寧だが、いちいち猛毒を含んでいる。しかしサミュエルはなんだか愉快になってきた。
 この少年といっしょに旅をしたら、おもしろそうだ。
 どこへ向かうつもりなのかは知らないが、街道では同じ方向へ歩いていた。 次の街はまだ遠い。三日くらいは、ともにいられるだろう。そのあいだに、役に立つ知識はとことん吸収させてもらう。これからのサミュエルには重要なことばかりだ。
 ともあれ、テッドの鞄は魔法のようだった。米の袋が出たかと思えば、次には青菜が顔をだす。極めつけはずっしりと重たそうな塩袋だ。なるほど、何はなくとも塩、か。
 しばらくのあいだ会話はなかった。テッドがなにかを煮炊きしているあいだ、サミュエルは真剣にその行動を観察していたが、ふと気まぐれに水を浴びたくなった。煎じ薬が効いたのかもしれない。痛みはほとんどなくなっていた。
 鞄から着替えを出し、「ちょっと水、浴びてくるわ」と言うと、テッドは黙ってうなずいた。
 赤茶けた本流と合流する地点に、いい具合の水たまりがあった。汚れた衣服を脱ぎ、丸めて布袋につっこんだ。
「うへえ、冷てぇ」
 露天風呂としゃれこむには、水温が低すぎる。ここで風邪をひいてはまたテッド少年に辛辣なことを言われそうなので、布を絞って身体を拭くにとどめておいた。
 さっぱりして戻ると、こちらも食事の支度ができたようだった。
「お粥をつくってみました。少しでも食べたほうがいいです。食べられそうですか」
「ああ、さっきの薬のおかげか、けろりと治った。腹も減った」
「よかった。どうぞ」
 そこで笑顔が見られるかと期待したが、テッドはけして笑わなかった。
 さっきと同じカップに、青菜の混ざった粥が入っている。サミュエルはほんとうに空腹を覚えた。得体の知れない毒素はすべて抜けたのかもしれない。
 スプーンですくい、口に運ぶ。いい塩加減だ。素朴な料理だが、からっぽの胃にやさしくしみる。
「うまいよ。きみは食わないのか」
「食べますよ。あとで」
 そこでサミュエルは気づいた。カップもスプーンもひとつきりなのだ。それを独占させてもらっている。
「すまない」
「気を遣わないでください。おれは、ちゃんと食べるときに食べますから」
「そうか。おかわりはいいのかな」
「ご遠慮なく。足りなくなったらまたつくればいいだけの話です」
 テッドはそう言って、火のそばにごろりと大の字になった。
 周囲はすっかり暗くなり、焚き火のあかあかとした炎が少年を染める。
 見た目は完全に子どもだ。しかしサミュエルは疑っている。この子は、あまりにも多くのことを学んでいる。それから、醒めた眼。笑わない顔。大人びた口調。まるで――。
「テッド、おまえ、ほんとうは幾つなんだ」
「ほんとうは、って?」
「歳を忘れたって言ってたろう。あれはどういうことなんだ」
「へんなことは覚えてるんですね、サミュエルさん」
「悪かったな、頭が悪くて」
「いいえ。とても鋭いです。その質問をされることはめったにないですから」
 テッドの、鳶色のひとみは、暗い空を見ていた。少しの沈黙があった。
「……歳は、ほんとうに忘れたんです。嘘ではありません」
「おまえは十歳くらいにみえるが」
「そうでしょうね」
「ちがうというのか」
「そうですね」
 淡々としたやりとり。だがサミュエルは直感で悟った。嘘ではないのだ。あまりにも不可思議なことだが、無邪気な子どもの嘘と決めつけるほうが不自然に思える。
「サミュエルさんよりは年下ですよ、たぶん」とテッドは言って、身体を起こした。
「おれは四十五になった」
「予想してました」
「なあ、テッド。おまえ、笑わないのか?」
「……は?」
 鳶色のひとみが瞬いた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。
「笑った顔をまだ見ていない。おまえ、いつもそうなのか」
「サミュエルさんだって笑わないじゃないですか」
「おれはいかつい顔だから、笑っても気づかれないだけだよ。でも、おまえはもうちょっと、笑ったほうがいい。ああ、お節介ですまんな」
「いいえ。こっちこそ、無粋ですみません」
 それでもテッドは笑顔を見せずに、ぽつりとつぶやいた。
「笑いかたなんて、とっくの昔に忘れてしまいました」

 サミュエルはぶるっと身をふるわせた。冷えた朝露がぽたりと顔を直撃したのである。
 一瞬、置かれている状況が飲みこめずに、天井を覆うみどりの葉を凝視した。
 そして、身体をあたためている布地に気づいた。色褪せた青い上着。
「テッド」
 隣に寝ていたはずの少年の姿がない。しかし、見覚えのある鞄はまだそこにある。
 それだけではない。木と木のあいだに架けられた紐に、洗濯されたサミュエルの服が鍋やカップと並んでぶらさがっていた。
 下のほうで水音がした。
 サミュエルはその音をたよりに、少年をさがそうとした。すると、衣服が散らばっていたのでぎょっとした。矢筒と弓が岩に立てかけてある。
 ざぱん。
 赤茶けた水から全裸の少年が躍りでた。似たような色の髪をがしがしと掻きむしったあと、その姿はふたたび水中に消えた。
 十数えても浮かんでこない。
「テッド!」
 矢も盾もたまらなくなり、サミュエルは濁水に膝まで入っていった。
「テッド!」
 はたして少年は、何食わぬ顔でぽかりと上がってきたのだった。
「おはようございます。よく眠られましたか」
「そうじゃなくて! 鉱毒の川でなにしてるんだよ!」
「汗、かいたから、ちょっと水浴びを。水は飲みこまなければほとんど無害ですよ。これ一度っきりなら、ですけど」
 はあああ、と大きな息を吐いて、サミュエルは「勘弁してくれ」と懇願した。
 テッドはさすがに心配をかけたと思ったのか、しおしおとあがってきた。
 成長しきらない子どもの肢体。その白い皮膚を、血のような水滴がぽたぽたと伝う。
 濡れた身体を拭きもせずに、袖無しの下着を頭からかぶり、ズボンを履いた。靴下は靴に突っこんだままで両手に持つ。
 そのときサミュエルは彼の右手に気づいた。包帯を手のひらから肘のあたりまでぐるぐるに巻きつけている。白いはずの布地は川の色に染まっていた。
 きのうは気づかなかった。たしか彼は、皮の手袋を両手にはめていたはず。
「怪我をしているのか」
 テッドはその問いかけの意味に気づき、己の右手に視線を投げた。
「これですか。いいえ、怪我ではありません。ここに、武器を仕込んでいるんです」
「武器?」
 テッドは左手の指で前腕をはじいてみせた。コツコツと、たしかに金属の鳴る音がした。
「ナイフか?」
「そうともかぎらないです。汗ですぐに錆びるので、その時々で手にはいるものです。そうですね、武器として役にたつものならばなんでもいいんです。鉄の板でも、割れた硝子でも、柄のとれた包丁でも」
「訊いていいか。そいつを、どこのだれに向ける気だ」
 それは不意の質問だったのかもしれない。テッドは少し考えこんだ。そして答える。
「おれが逃げていることは、きのう言いましたよね。おれを、害するすべてのものに。もしもあなたがおれを害するというのならば、あなたに」
 血の色にまみれた包帯。
 笑うことを忘れた少年。
 赤く流れる川。
 赤く流れる血。
 くらりとめまいを感じ、サミュエルは近くの岩で身体を支えた。
 テッド。自分で自分を害するときがきたら、仕込まれた刃はその身体に向けられるのか?
 それが真実だろうとサミュエルは思った。彼は自分を殺すための武器を肌身離さず携帯しているのだ。その右腕にいつも寄り添う最後の武器こそが、少年を生かしているほんとうのあるじ。笑みを奪い、記憶を奪い、感情までも奪って、がらんどうになった少年を意のままに操る。
 テッドという名の少年は、いっそ軽やかな足取りでねぐらへ戻っていった。
 サミュエルはあとを追いかけた。
「なあ、テッド」
「はい」
「洗濯までしてくれることはなかった。そこまでしてくれることはなかったんだ」
「慣れていますからへいきです」
「だから、そういうことじゃなくてよ」
 サミュエルは苛だった。なにを言いたいのか自分でもわからない。ただ、一途に、請い願うことがあった。嘘でもいい。笑ってくれ。子どもは無邪気に笑うものだ。達観したような態度が無性に気にくわない。何者かが少年を束縛しているのであれば、彼をそこから解放してやりたい。
 衝動である。理屈ではない。
 サミュエルは意を決した。自分のことをすべてテッドに話す。言わなかったことがある。まずは己からだ。
「さすがに、まだ乾かないか」
 洗濯物に手をかけるテッドにサミュエルは言った。
「テッド。おれはミランダで、人を殺し、刑に服した」
 テッドはしなやかな動きでサミュエルを向いた。
「菓子屋のじじいがヤミで汚い金儲けをやっていて、がまんならなかった。けど、解雇されるのが怖くて、逆らえなくて……流行っている店を潰すのもいやだった。だから、耐えようとした。おれは、耐えるつもりだったんだ。どうせじじいは水煙草中毒で、老い先短い。そうしたら菓子屋はおれのものだ。なのに、あいつは勝手にとんでもねえ借金をこさえやがって、あげくに店とおれを売っぱらおうとした。そのことで、言い争いになって」
「最初から知っていました、サミュエルさん」
「……えっ」
「あなたを擁護する人たちがミランダの街には大勢いました。あなたはたくさんの民衆に愛されていました。林檎のパイをまた食べたい。みんな、だれもがそう言っていました。五年で釈放されたのは、もちろん殺意のあるなしも議論されたのだけれど、恩赦の力が大きかったようですね。なのに、あなたは黙ってミランダを離れた。菓子職人としてのあなたを、あなたは自分から捨ててしまった。なぜですか」
 少年は冷ややかに男をにらみつけた。
「おれも、噂の林檎パイを食べてみたかったなあ」
「やめてくれ!」
 悲鳴で断ち切った瞬間、サミュエルは見た。テッドが笑みをうかべるのを。
 それは、およそ年相応の表情とは思えなかった。身の毛がよだつような――悪魔の嗤いであった。
 サミュエルは身を竦めた。しかし悪魔はけして逃がさない。
「どこへ逃げるおつもりだったんですか」
「おまえ、まさか……ミランダからおれを追っかけてきやがったのか」
「さあね」
「はじめから知ってるなんて、どんなクソッタレだ。ああ? きさま、だれに雇われた。じじいの仲間か。ひょっとして、おふくろをあんなめに遭わせたのもおまえか? おふくろは気がふれて頸を吊っちまったよ。ちくしょう。つぎはおれをつけ狙って、ぶっ殺すつもりなんだろう。そういう暗殺集団があることは知っているぞ。身寄りのない子どもをさらって暗殺者として育てるんだってな。おまえもそのひとりなんだろうが」
「ちょいタンマ」
 ナイフでさくっとケーキを切るように、遮られる。サミュエルの喉がひくついた。
「その妄想はいささか飛ばしすぎです」とテッド。困惑顔だ。
 険を含んだ笑みは消えうせていた。
「誤解されたみたいだから弁解します。暗殺集団のことは、おれは知りませんし、もちろん関わりもありません。むしろ、あなたが逃げた理由がこれではっきりしました。信じてください、おれは、サミュエルさんをつけてきたわけではありません。道端でへたばっていた具合の悪そうな人を、たまたま知っていただけです。あなた有名人だし。林檎のパイが食べたかったのは本音ですけど」
 サミュエルの膝がへなへなと折れた。
「脅すようなまねをしてすみませんでした。そういう事情があるなんてほんとうに知らなかったもので。ただのヘタレかと……げほん。このとおり。許してください」
 テッドは地面に膝をつき、ふかぶかと頭を下げた。
 面食らうのはサミュエルの番だった。
「いや、おれも、悪かった。早とちりってやつだ。頼むから頭をあげてくれ」
 テッドは素直に従った。おでこに泥がついている。
 年相応の子どもに見えた。
「どうも、互いに誤解があったようだ」
「そうですね。認めます」
「正直、ミランダから遠く離れていくごとに、これでいいのかと悩んだ。行くあてもなかった。そうだな、おまえの言うとおりだよ。逃げる場所なんて、どこにもありゃしない」
「ミランダの一部の人たちは、あなたがまずい状況に置かれていることを知っています。それから、菓子職人サミュエルの復活を待ち望んでいる人はもっともっといっぱいいます」
 サミュエルは視線を下ろし、テッドをまっすぐに見た。
「テッドは、おれがミランダへ戻ることを望んでいるのか」
「はい」
 少年はきっぱりと答えた。
「おれの焼いた林檎パイが食いたいか」
「はい!」
 おや、とサミュエルは思った。いきなりひとみがきらきらしやがった。ひょっとして目的は、それか? パイなのか?
 だが、テッドは別の方向から否定した。
「食べて、みたかったです。もう、その機会はないですけれど」
「機会なんていくらでもある。おれはミランダに帰るぞ。堂々とな。テッド、おまえもいっしょに来てくれるだろう」
 わずかな間。
 少年は寂しげにほほえんだ。
「すみません。それはできません」
「なぜだ。おまえひとり養うことくらい、おれにだって、できる」
「お気持ちだけ受け取っておきます」と、テッド。
「理由を聞かせてくれ」
「最初にお話ししました。おれは逃亡者です。だから、いちど滞在した街には二度と足を踏み入れません。おれにとってミランダは過去の思い出です。あなたには帰る場所があり、おれには往く場所があります。絶品の林檎パイが食べられないのはざんねんだけど、おれたちはここで、お別れです」
 少年はまた薄く笑みをうかべた。あれほど望んだ彼の笑いは、ひどく寂しいものだった。
 サミュエルの胸がちくりと痛んだ。
「わかった」と、言うしかなかった。
 テッドは鍋とカップを鞄に納めて、半乾きの洗濯物を下ろした。燃え尽きた薪は土に帰す。少年の旅支度はとても手短だった。
 テッドは膨らんだ鞄をたすきがけにし、十字になるように矢筒を背負った。皮の手袋をはめ、その手で弓を大事そうに抱いた。
「今からでしたら、暗くなる前にベルデに宿をとれます。サミュエルさん、くれぐれもごはんには気をつけて。油を避けて、温野菜とパンでしのいでください」
「なあ、その油の正体はなんなんだ」
「えー。ホントに聞かないほうがいいですよ。シャレにならないから」
 シャレにならないものを腹一杯食った結果は身にしみているので、サミュエルは唸った。テッドはいたずらっぽくくすくすと笑った。
 二人は助けあいながら崖を登り、街道へ出た。相変わらず人馬の気配はない。真夏の太陽が照りつけている。
「サミュエルさん、はい」
 そう言って、テッドはあるものを手渡した。
 水筒であった。
「これがなければ、おまえも困るだろう」
「なんとかします。またどこかで手に入れますから、だいじょうぶ」
 押し問答してもしかたがない。サミュエルはそれを受け取った。
「ありがとう。大切に使うよ」
「捨ててもいいですよ。どうせ安物です」
「可愛くないガキだな、ほんとうに」
「お褒めいただき、ありがとうございます。あはは」
 屈託のない笑顔。
 それだけを置き土産にして、少年は去っていった。
 さようならの挨拶もなかった。
 ただ、右手を高くあげただけ。
 ”ばいばい”
 ひらひらと揺れるその手が語っていた。

九つの刹那


なんだよ、そんなに知りたいのか、例の油の正体が。
うーん、じゃあ、暗示だけな。ベルデって街は貧困の時代が長くて、もったいない主義が少しばかり過剰に根づいてるんだ。
なんでもかんでも捨てないってのは、ちょいと怖いぜぇ。ってなわけでバイバイ。

2012-07-10