Press "Enter" to skip to content

バースデイ 13

第十三題「気がつけば一日中考えてたりして 」

 血と羊水にまみれた赤ん坊がチェスターの手できれいに拭われ、新しいタオルでふわりとくるまれてテッドの目の前に差しだされた。
「どうだァ、ちびすけ。おれの子だ、へへっ。特別にいちばんさいしょに抱かせてやるぜ」
 こわばった指のおきどころをさがしていたテッドは、びくっとして首を横に振った。
「ごめん。おれ、手、汚い……から」
 ソウルイーターがむきだしになっている右の手をあわてて寝間着のゴムにつっこむ。死神の巣くうその手で、無垢な赤ん坊に触れたら最後、チェスターが発狂するほどのとんでもない事態になる。
「おっことしたらいけないから、見てるだけで、いい」
 必死にとりつくろった。己の狼狽ぶりが自分でもおかしかった。けっこう長いあいだ生きてきたのに、生まれたばかりの子どもを間近で見るのがはじめてとは。
 人の死に立ち会うことはしょっちゅうでも、そのはじまりの時をテッドは知らなかった。人なんて、あらかじめそこに用意されているものだとばかり思っていた。
 テッドは赤ん坊を凝視した。いちおう人の形はしているけれど、ぜんぜんかわいくない。かわいいだろうと訊かれたらどうしよう。嘘は言いたくないけれど、しわくちゃの顔といい、ぴっちり閉じられた目といい、穴ぼこのような口といい、不気味という形容以外のなにものでもない。
 赤ん坊が急に手足をばたつかせたので、テッドはびっくりして跳び退いた。
「おお、テッド、母ちゃんがいいか。よしよし」
 赤ん坊の名前は完全にテッドに決定したようで、もはやテッドがいくら抗議しても覆せそうになかった。
 チェスターは赤ん坊を持ったまま、カミラの傍に膝をついた。
「ほうれ、母ちゃんだぞテッド。カミラ、元気な男の子だ」
 カミラの胸元にぴったりとあてがうように、赤ん坊を寝かせる。カミラは愛おしげにテッドを愛撫した。
「よく、よくがんばったなぁカミラ。やっぱりおめぇは最高の女房だ。なあ、おれたちの子だぞ。かわいいなあ」
「テッドもよ」とカミラは言って、手をすうっとテッドに伸ばした。「おにいちゃんもがんばったのよ。来てちょうだい、テッド」
 テッドは足がすくんで動けず、壊れたからくり人形のように首を振り続けた。
 カミラの手がぱたりとシーツに落ち、彼女は荒く息を吐いた。
「カミラ?」
「だい、じょうぶ。ちょっと、疲れ、ちゃっただけ」
 深刻な事態を告げたのはフレッドだった。医者はカミラを診察すると、また大出血の兆候があることをチェスターに伝えた。
 客間はにわかに慌ただしくなった。血で汚れた湯を替えにいった使用人が戻ってくるあいだも、異常な出血は止まらなかった。
「くそ、カミラ、なんで」
「だめだ!」とフレッドは叫んだ。「ここには設備がない。カミラちゃん、がんばってくれ。お母さんになったんだぞ。こんなところで……」
 カミラの顔は蒼白になり、出血によるショック症状があらわれはじめた。それでも手はしっかりと赤ん坊にそえられ、離れない。
 テッドは呆然と立ちすくんで、血まみれの医者と、絶叫するチェスターを見た。
 おれのせい、かもしれない。
 おれのせい、だ。
 思考はもはやそこにしか働かなかった。右手が病的に痙攣していた。
 掟は絶対なのだ。けして例外はない。宿主のもっとも近くにいる魂を、紋章は好んで喰らう。カミラの願いを聞きいれ、出産の手助けをしたとき、契約は決定的になったのだ。
 わかっているのに過ちを幾度も繰り返す愚か者の自分。いったいどれほどのしあわせな人々を地獄に突き落としたら、おれは利口になるのだろう。
 ここにはもういたくない。テッドは足を一歩退いた。傷が痛みを訴えたが、それすらもわからないほどに思考が麻痺していた。
 駆けだそうとしたとき、だれかが肩をつかんだ。
 ぼんやりと顔をあげる。漆黒の眼がテッドを見ていた。
「いまこそ、紋章をお使いになるときでは、若様」
「……アレン」
「どうなされました。若様はご自分だけお逃げになってそれでいいのでしょうが……」
 テッドの呼吸が速くなった。
 アレンの手を振り切り、部屋から飛びだそうと思えばそれもできる。もっとも賢くて簡単なやりかた。目を瞑り、耳を塞ぎ、ただじっとやりすごせばよい。いずれすべては終わる。それも待たずに屋敷を出て、次の旅へ歩きだすのもひとつの方法だ。
 ”逃げる”
 それはテッドの放浪の目的であり、存在意義そのものでもあった。
 逃げろ。逃げのびろ。三十年前、祖父は紋章を自分に託し、死の直前にそう願った。祖父だけではない。紋章を守る村のすべての人々が、我が魂を差しだしてテッドにそれを願ったのだ。
 違えるわけにはいかない。
 逃げなくてはいけない。
 地の果て、時の果て、世界の果てまでも。
 人に関わってはならない。紋章のためだけに、ただそれだけのために自分は在る。
「ちく……しょ……」
 どうしておれは人間なのだ。こんな弱さがなかったら、どんなによかったか。あとで必ず後悔することを、それによってどうなるものでもないことを、わかってはいても、せずにはおられない。そもそも自分などに紋章を宿す資格はありはしなかった。それを無理にねじ曲げたのだから、ひずみは必然と生じてくる。
 テッドはごしごしと手の甲で顔をこすって、アレンを押しのけた。だが少年はドアに向かおうとはしなかった。背後に横たわるカミラにおずおずと目をやり、やがて決心したように唇を噛んだ。
 一歩。また一歩。
 もう、逃げたくない。
 関わることが罪であるならば、おれだけを罰すればいい。
 しっかりとした足取りであるはずがなかった。激しい動揺でめまいがして、いまにも昏倒しそうだ。それなのにテッドの足はカミラに吸い寄せられるように歩を進めた。
 カミラがテッドに気づき、うっすらとほほえんだ。
 もはや声をだすこともかなわないのであろう。しかし蒼い色のまなざしは、いつもと同じようにやさしくて、あたたかかった。
 チェスターは無言でテッドに場所を譲った。熊のような大男は、顔をぐしゃぐしゃに濡らしていた。覚悟を決めたときからそれを恥じようともせず、ずっと泣き続けていた。
 テッドはぎくしゃくと膝をついて、幼い両手をカミラにかざした。
 水の紋章に命じる。
 傷つき凍えゆく躯を癒したまえ。
 清冽な光が乱舞し、カミラとテッドを包みこんだ。
 カミラは眼を閉じて呼吸し、「気持ちいい」と小さく言った。
 だがテッドの顔は非力を察してゆがむ。だめだ。こんな魔法は気休めにすぎない。
 残された手段はひとつ。
「チェスター」とテッドは言った。「赤ちゃんを抱いていて。カミラさんに、よく見えるように」
「ああ」とチェスターは応え、太い腕で我が子を抱きあげた。
 テッドは深呼吸をして、その試みを開始した。
 右手はずっと前から目を覚まし、その時を待っている。あとはどこまでテッドの我が儘をきいてくれるかが問題だ。失敗したら確実に、チェスターに責められるだろうが、いちど決めた以上もう後には退けない。
 おそらくはアレンであろう。強い視線を背中に感じる。彼もまたこれに賭けているにちがいない。この世の真理と呼ばれるものの正体を、それのもつほんとうの力を目のあたりにし、不確実な己の位置を確かめようと。
 生まれ変わるため。
 なにもかも精算して、もういちど誕生するため。
 清冽な水の光は、突如としてわきあがった赤紫色の重力に怯え、精彩を失った。
 ねっとりとした、粘着質の、禍々しい闇の渦。だがそれが圧倒的な命の奔流であることを、テッドはすでに知っていた。幾千億の再生を待つ魂を内包する。テッドの小さな右手には、もうひとつの世界がひそむ。そこは死者の世界であるが、また別の意味もある。生者を見守る世界だ。生は儚きものであるが、一瞬であるからこそ強く光り輝く。輝きは闇を照らすともしびとなる。けして軽んじるわけにはいかぬ。
 生者の世界は醜悪に満ちている。嘆きや怒りが醜悪であるのと同様、喜びも愛情もまた裏返された醜悪だ。悪人も善人も人の本質はみな同じ。ただひとつだけちがう階梯に立つものがある。誕生したばかりの無垢な魂がそれだ。
 やがては醜く歪む魂。すべての人に死が義務づけられているのは、死が魂の救済、穢れたものを落とす儀式だからにほかならない。
「カミラ」とテッドは呼びかけた。母となったばかりの少女の目があいた。そこには薄い紗がかかり、視覚はすでに機能を放棄しているようだったが。
「テッド」
「カミラのおかあさんは」 テッドは言葉をたしかめるように、ゆっくりと言った。「なまえ、なんていうの」
「ソフィー」
 テッドは記憶を手繰りよせ、それが故郷の村で幼なじみだったステラという少女の姉の名と一致することに思い至った。狭い社会であったから、そこにいた人の名はすべて憶えている。記憶が薄れているのは、ステラの姉が若くして亡くなっているせいだろう。
 ステラの髪の毛はテッドと同じ麦の穂の色だった。おそらくは姉も、このような金髪ではなかったろう。だとしたらカミラの美しい金髪は、父親のものだろうか。
 思ったとおりだ。ソウルイーターは、いますぐカミラに噛みつくつもりはないらしい。
 彼女が村とまったく縁のない者だったら、宿主の制御などは無視してとっくに鎌をふるっているはずだから。
 重力がまた濃くなった。いまカミラとテッドはソウルイーターに囚われている。返答ひとつで、その奥深くまで取りこむことも、かわりとなる糧を与えて放りだすこともできる。
「カミラ、なにが見える」
「いのち」とカミラは言った。「うまれていく、いのち。かえってくる、いのち。たくさん、見える」
 カミラの目尻からひとすじの涙がこぼれおちた。
「あんなに、たくさんの、いのち……きれい。すごく、きれい」
 小さくうなずき、テッドは静かに念じた。
「汝、ソウルイーター、生と死を司る我があるじ。守護者の縁であるこの者に、我が命よりその力を分け与えよ」
 咄嗟の思いつきではあったが、ソウルイーターは了承してくれたようだった。渦が急激に重みを増し、テッドは魂が蹂躙されるのを感じた。
 痛みなのか、苦しみなのか、それとも喪失感なのか。気づく間もないうちに、テッドの身体はカミラの上に崩れた。
 だれかが叫びながら自分を揺さぶっている。なのに指の先までまったく動かすことができない。感覚すらもひどく鈍い。
 抱きあげられたのはかろうじてわかったが、意識が保てたのはそこまでだった。
 音が遠ざかる。そして光も。
 カミラは救われたのだろうか。自分の命をほんの少し譲った程度で、瀕死だった彼女はほんとうに生きることができるのだろうか。
 だが、やれるだけのことはやった。もういいだろう。とても、眠い。そういえばしばらくぐっすりと眠っていないのだ。眠りたい。なにも考えずに、赤ん坊のように、ただひたすらに。

エピローグ

 階下の台所から甘い匂いがただよってくる。気のせいかわずかに焦げ臭いのは、いわゆる失敗という許されざる隠し味だろうか。三度目の正直ということばもある。そろそろまともな姿のケーキを拝んでもいいころだが。
「けえき、けえきっ、けーきぃ」
「テッド、患者さんがいるときは診察室で暴れないの」
 フレッドはぴしゃりとたしなめて、聴診器をあてていた老婆に「すいませんねえ」と謝った。老婆はキャラキャラと少女のように笑って、かわいいやんちゃ坊主に目を細めた。
 診察室の床はおもちゃに占領されていて、まるで小児病院かと見間違うほどだ。一人息子に甘々のバカ親父がのべつまくなしに買い与えるからこうなる。いちどはっきり苦言を呈さないと、いずれ医者を廃業して保育所でもやらなければいけなくなってしまう。
 そのバカ親父は現在、まったく似合わないエプロン姿でケーキ作成に没頭中。それが終わったらやんちゃ坊主リクエストのマカロニグラタンに取りかかるらしい。今夜はちゃんとした食事ができるのかどうか、心配だ。胃薬をポケットに忍ばせておいたほうがよいだろうか。
「はっぴぃ、ばーす、でーい、ばーすでいー、らーらーらー」
 テッドは腰にむすんだ紐で車輪つきのアヒルをがらがらとひっぱりながら、大声で歌った。誕生日を迎えたのがよっぽど嬉しいのだろう。いつにも増して得意げである。
「テッド先生、うるさいです。お注射を間違えたらどうするんですか、もう」
「ヤブいしゃ、やぶいしゃー」
「こらっ」
 テッドは明るい麦穂色の髪を振り乱して「きゃー」と叫んだ。すこやかに育って三歳になったことは喜ばしいが、どんどん口が悪くなるのはどういうわけだ。まるでどこかの誰かを彷彿とさせるではないか。
 父親の教育がおかしいのか、甘やかし放題なのがよくないのか、テッド・ドナヒュー少年の腕白さはご近所でも一、二を争うほど手に負えない。学校にかよわせる年齢になったらどうなるのだろう。連日のように先生から苦情がくるのではなかろうか。フレッドはいまから暗澹たる気持ちになった。
「うぉーい、テディ」
 下から親父の声がした。テッドは診察室をきっちり半周したあとで弾丸のように飛びでていった。
 ふう、とフレッドはため息をついた。まるでちびっこハリケーンでる。本気でそろそろ身を固めて、ドナヒュー一家を追いださないと診療所の存続が危ぶまれる。
 最後の患者を見送ると、フレッドは台所をのぞきこんだ。親子三名、バニラの香りに包まれておおはしゃぎの様子だ。
 母親のカミラもきょうは安定しているのか、揺り椅子に腰掛けていた。いつもと変わりなく表情はうつろだが、テッドは母親の膝掛けにまとわりついて「おかしゃま、おかしゃま」と甘えた。
 テッドの誕生日は、カミラが心を失った日である。半年も眠ったままだったカミラは、蒼い瞳をあけても我が子を認識できなかった。命だけはつなぎとめたものの、その代償に多くのものが彼女から永遠に奪われた。
 あの時。
 フレッドははじめ、テッドがその右手の紋章でカミラから命をもぎとろうとしているのだと思った。ふたりを包んだのは禍々しい悪意の渦で、それは皆の願った奇蹟とはほど遠かったからだ。やはりテッドは悪魔だったか。フレッドはなすすべもなく、そこにあらわれた死神の鎌を凝視した。
 だが。
 テッドがやりとげようとしたことは、やはり奇蹟であったのだ。
 なんという子だろう。あれほど命を虫けらのように扱いながら、少年はカミラに己の命を与えようとしたのだ。
 少年が斃れると同時に、カミラの身体から流れていた血が止まった。紫色だった唇は少しずつ色を取り戻し、呼吸もどんどん強くなった。
 それとは逆に、死んだようにぐったりと動かなくなったのはテッドだ。フレッドは少年のくわだてたたくらみを一瞬で悟り、彼を抱えあげた。死なせてはいけない。この心やさしい子を、地獄に預けてはならない。
 アレンが看護を申し出た。彼のそのような表情をフレッドははじめて見た。まるでテッドの行動が自分の責任であるとでも言わんがばかりに、アレンは頭を下げた。
 昏々と眠るテッドの傍らで、漆黒の瞳の青年はとてつもなくやさしい表情をした。躊躇いなく殺人を犯す彼とは別人の顔であった。まるで探し求めていた大切ななにかをみつけたときのような、安堵にも似た表情だった。
 代謝が活発な年頃だからだろうか。テッドの回復は予想よりも早く、数日後にはまた例のふてくされた顔を向けるようになった。フレッドたちは若様の命令によって『鄭重に』屋敷を追いだされ、バジリスクの馬車で診療所に送り返された。
 その後テッドの消息は途絶えてしまった。塩商人マコルフ・ボナパルトが圧倒的優位で政権を握り、表舞台で派手な活躍をするようになってから、片時も離れずにつきそう漆黒の瞳の青年の姿はあったが、テッドの名が出てくることはついぞなかった。
 テッドは旅立ってしまったのかもしれない。もう、この国にはおるまい。確信はなくとも、フレッドはそう思った。
 別れのことばも伝えられなかった。ありがとう、というひと言すらも。
 だが、希望は残された。
 テッドは力強く生きていくだろう。カミラの”産んだ”子だ。簡単に挫けるはずがない。
 どこにいても、なにをしていても、少年は二度と忘れまい。
 誕生のそのときに受けた祝福を。
「けえき、けえきにろうそく、ぼくたてる」
 色とりどりのキャンドルを握りしめて、テッドが言った。
「何本たてるのかわかってんな。テディ、いくつになった」
「さんさい!」
「ようし、じゃあ三本だぞ。さん。わかるな」
「ちがうよ」とテッドはふくれた。
「ぴんく、おかしゃまの!」
 ズボッと生クリームに押しこめる。いまにも崩れそうな瀕死の土台にチェスターは苦笑いだ。
「みどり、おとしゃまの」と、またズボッ。これで半崩壊。
「ぼくは?」とフレッド。
「やぶいしゃはあぶないから、きいろ!」
「こらっ、ちびすけ」
「ぼくはねえ、しろいの。あとねえ……」
 テッドはクリームにまみれた手で青いキャンドルを持った。
「あおいのは、おにいしゃまの!」
 仲良く五本寄り添ったキャンドルに満足して、テッドは満面の笑顔をほころばせた。

バースデイ 完


最終更新日:2006-10-17