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バースデイ 8

第八題「しっかりと踏み終えて」

「こんな遅い時間に散歩か?」
 月明かりの死角からひょいとのぞくように声がした。振り向きもせずテッドはチッと舌を鳴らした。
 ランプも持たず廊下で身をひそめているなんて、姑息なやりかただ。居候をよっぽど信頼していないのだろう。それとも、医者が留守中にそうするよう指示したか。いずれにせよ、これを称して卑怯という。
 テッドは嫌味たっぷりに言ってやった。
「急にアイスクリームが食いたくなったから、買いにいこうとおもったんだ」
「ああ、そいつぁあざんねんだったなあ。店の開くのはどこも八時ってことだ。かわりにココアなんて、いるか? サ店も驚く、うまいやつをいれてやるぞ」
「結構」
 テッドは厚いコートを脱いで階段の手すりに無造作にかけた。カミラが着替えといっしょに古着屋でそろえてくれたものだ。質素だが、丈夫そうなので遠慮なくいただいていくつもりだったのだ。
「右手を吊ってたやつ、どうした」
「動かせなくて不便だからとった」
「骨もくっついてねえのに動かそうとするやつがあるか、アホ。ちょっと診察室に来い」
 無言でにらみつけるテッドの後頭部を手のひらでおさえ、チェスターは強引にうながした。
 カミラに注意を向けさせる作戦はうまくいったはずなのに、見切られていたとは予想外だった。薬を飲ませたうえに夜通し見張っているなんて、ご苦労さん。まったく、これではだれが敵かわかったものではない。
 チェスターは診察用の円椅子にテッドを座らせて、薬品棚を物色しはじめた。
「チェスター」
「ああん?」
「いつもくれる痛み止めの飲み薬、なんかよけいなもの混ぜてるだろ」
 チェスターは横目でテッドを見て、「よけいかどうかはこっちが判断することだが」としらばっくれた。
 テッドは顔をしかめて、不快をあらわにした。
「断りもなくコントロールされるのは迷惑だし、それって侮辱だろ」
「大袈裟なやつだな。症状を見て最善の処方をしてやってるだけだろうがよ」
「だから医者は傲慢だってんだ。こっちがただのシロウトだとおもったらおおまちがいだぞ」
 チェスターはかちんときて、声を荒げた。
「だったら夜はちゃんと眠りな。ったく、御託ばっかりならべやがって、心配するこっちの身にもなってみろってんだ。夜中におまえ、どんだけうなされてるか自分でわかってんのか? 薬でちっとは眠ってくれるようになったけどよ、寝てるときあんなじゃ、身がもたないだろ。それでなくても成長期なのに」
「寝が浅いのはむかしっからのクセなんだからほっといていいんだよ。そういうことを黙ってするから、おたくらは信用できないっていってんだ。くそ、座ってるだけでもぐらぐら目眩がする。いつなんどき襲われるかわかんねえっつーのに、ひでぇ話だぜ。いいか、こいつは、生死に関わる大問題だぞ」
「カミソリみてえな生き方してんだな、ちびすけ」
 チェスターはため息をついて椅子に深く腰掛けた。
「なにをそんなに怖がってるんだ」
「なにも怖くないさ。いちいちばかにすんな」
 ふいにドアがノックされて、カミラが顔を見せた。
「声が聞こえたから……あの、お話するんだったら、あったかいココアでもいれてあげよっか」
「いらな……」
「おお、いま飲みてえなあっていってたとこなんだ。たのむぜ、カミラ」
「うん! ちょっとまっててね。みっつね」
 もう完璧に逃げられそうな雰囲気ではない。テッドは諦め、仏頂面で右手を出した。
 もとのとおり肩に固定すると、チェスターは静かに言った。
「だれだってピリピリするときはある。いらついたときにな、茶を一杯飲めるか飲めないかってのは、どうでもいいようでいて、けっこう重要だ。飲み終わったあとに解決してることだって、ざらにある。うそじゃねえぜ」
「……」
「薬をごまかしたことは、悪かった。そんなに怒るたぁ思わなかったんだ。いやだったらあしたっからもう飲まなくてもいい。まあ、つらいときのために一応おいておくから、好きにしてくれ。そんかわりよ、出てくのはやめとけ、な。いまも見張りが交替でそこらへんからしつこく見てやがる。まともなやつならいいが、そうとも限らん。ここも安全とはいいがたいけどよ、ほかにどうしようもねえしな」
 その言葉が終わるか終わらないかというときだった。
 階下でガラスの割れる音がした。
 チェスターは椅子を蹴って診察室を飛びだし、テッドもそれに続いた。転がるように階段を駆け下りる。玄関のわきにある台所から揉みあう音と、カミラの叫び声がきこえた。
「カミラ!」
 粉々に砕けたカップが散乱し、調理台では火にかけたミルクが過熱して甘く焦げくさいにおいをあげていた。わずかに抵抗したのだろうがそれもむなしく、カミラはふたりの侵入者にしっかりと拘束され、首にいかつい形のナイフをつきつけられていた。
 ランプのあかりで内部の様子が敵に知れ、侵入を許してしまったのだ。台所にはカミラひとりしかおらず、手薄であることを悟られたにちがいない。
 チェスターは舌打ちした。
「窓からおいでになるお客さんなんて、マトモなヤツのわけねえよな」
 侵入者はふたりとも男性で、顔を隠すこともなく、服装にも奇異な印象はなかった。年齢はフレッドくらいだろうか。
 テッドは息をのんだ。この男たちには見覚えがある。
 かすかな記憶だが、間違いはない。保護施設から馬車で子どもたちを運んだ、神父の格好をしたあのふたりだ。
 ひとりがテッドを見て、からかうように言った。
「見ィっけ。よくもまあ、逃げられたもんだなあ、ちび。”先生”がよ、心配してるぜぇ。”お友だち”も待ってるしよ。帰ろう、な?」
「……ほざけ」
「おおっと。妙な気おこしたり、大声あげたりしたら」
 ナイフが不気味にきらめいた。カミラは硬直し、恐怖でひきつった悲鳴をあげた。
 ひとすじの血が白い皮膚をつたう。それはぽたり、と胸元にたれ、生成り色のワンピースにしみをつくった。
「可愛い顔に傷をつけられるのは困るでしょうなあ」
 ナイフを持った男はくっくと笑った。かなり手慣れている感じの脅しかただ。人を殺すことも厭わないかもしれない。
 鍋がかたかたと躍った。男はカミラを脅したまま、調理台に移動してミルクを火からおろした。足元にそれを傾ける。
 煮えたぎったミルクがぱたぱたとこぼれ、床にはねた。
「熱っ……!」
「ああ、ごめん。手元が狂った。飲ませてあげようと思ったのに」
 チェスターは呻って「やめろ」と言った。カミラを人質にとられてまったく動くことができない。歯ぎしりして怒りにふるえるだけだ。
 ナイフの男は優位に立っていることがご満悦のようで、にたにたと愉しそうに顔をゆがめた。くぼんだ眼に残虐な炎がちらちらと揺れ動いている。
「あいにくだが、ゆっくりお茶をしている時間はないんだよ。さてと、外で馬車が待ってるから、乗んな。ああ、おねえちゃんもちっちゃいのが心配だろうからよ、そこまでつきあうか。で、にいちゃんはどうしたものか……」
「定員オーバーだ。殺しとこうぜ、兄貴」
「そりゃいい。後腐れなくな、弟」
「……ざっけんな!」
 チェスターはついにきれて、先制攻撃を加えるべく床を蹴った。躊躇もせず、ナイフの男に向かっていく。
 男はナイフを投げた。鋭く、正確無比な動きであった。
 先の尖ったナイフはチェスターの上腕を切り裂き、反動で天井に突き刺さった。
 放たれたナイフの行方を追わなかったのはテッドひとりだった。ナイフ男の手に次の凶器を確かめると、テッドは渾身の力をこめて目前にあった木のテーブルを蹴りで横倒しにした。
 第二刃はテーブルが障害物となって軌道を変えられ、標的にはとどかなかった。
「小癪なガキだな」
 チェスターの窮地は救ったが、すぐに体勢を立て直すことができず、テッドは無我夢中でテーブルに身を隠した。手のとどきそうなところにカミラがへたりこんでいるのが見える。チェスターは左腕に血をにじませているが、急所はそれたようだ。
「カミラ、立って!」とテッドは叫んだ。「はやく逃げろ!」
 カミラははっと顔をあげたが、その瞳が恐怖に見開いた。
「ほうら、まずは一匹つかまえたぞ、っと」
 テーブルの上から包帯ごとつかまれて、テッドは吊りあげられた。
 痛めている右手を容赦なくとらえられる。激痛がはしり、テッドは身体をのけぞらせた。
 みしみしと右腕が悲鳴をあげた。やめて、と叫びたかったが声をあげることすらも苦痛だった。
 男はテッドが右手を痛めていることを知ると、そこだけ粘着質に攻撃を仕掛けてきた。背中側へねじり、不自然な位置に引っ張りあげようとした。
「イヤぁあ!」
 腕はついに抗えなくなった。目の前が真っ暗になって、テッドは歯をきつく食いしばった。またどこかが折れたか、あるいは変形したらしい。
 どくん、どくんと拍動だけが妙に大きく感じられた。逃れようともがく力すらも、もうなかった。とりあえず、このすきにカミラとチェスターが逃げてくれればいい。外で大声をあげれば、住宅街だからすぐに人が集まってくるだろう。
「ちびすけェ!」
 あのアホ、とテッドは歯噛みした。かっとなったら状況判断ができなくなる。どこにチャンスが残されているか、土壇場において冷静に考察できないのはチェスターの最大の弱点だ。
 しかたがない。この手だけは使いたくなかったが。
 右手に念ずる。
 たのむ。侵入者たちの魂を分けてやるから、動かせる程度におれの身体をなんとかしてくれ。
 そのくらいはお互いさまだろうが。なにもおまえをないがしろなどにしていない。宿主にもしものことがあったら、おまえも少しは困るんじゃないのか?
 ソウルイーター。
 おい、聞こえてんのか。
 テッドは落胆して、薄く嘲笑った。
 まただ。
 どうしてへそを曲げるのだ。いままでこんな険悪な状況はいちどもなかった。これほど下手に出ているのに、相方の危機を見ぬふりする。
 一方的に、関係を解消する腹づもりなのだろう。明確な理由も告げる気はないらしい。
 どこまで気まぐれで、高圧的なのやら。
 視線を感じる。
 ギクリとした。
 カミラ。
 そういえば、前回も同じだった。ソウルイーターが発動しなかったとき、カミラが祈るように自分を見ていた。それを使っては駄目、と叫んでいたような気もする。
 そういえば、故郷では人が己を封印の鍵として、紋章を守護していた。恐るべき力をもつそれが世界に災いを招かぬよう、はるかなる昔から村人はそうしてきた。
 紋章が宿主を特定しないうちは、人が紋章を守っていたのだ。祖父はその役目を受け継ぐに相応しい人物であり、だからこそ村人は祖父を慕い、祖父の存在を認めたのだ。
 しかし、自分はどうか。
 単なる被害者意識のかたまり。紋章を守り抜く力も、覚悟もない。それどころか、継承したことに疑念すら抱いている。ソウルイーターも、憎みこそすれ敬意を示さない愚か者の宿主には、引導を渡したくなるのも当然だろう。
 だからソウルイーターは、封印の鍵をこの世に遺しておいたのだ。
 納得して、テッドは口をひらいた。
「あんた、さ……どっちだ」
 カミラの蒼い瞳が困惑して揺れる。
「ソウルイーターを、守りたいのか。それとも、葬りたいのか。どっちだ」
 答えなど、どちらでもよかった。ふたつとも似たようなものだからだ。
 ただ、そのどちらかであるのなら徹底的に、自分を踏みつけてもらいたかったのだ。
「へ、こんなときでもおしゃべりができるってか。上等、上等。それでもこそ構い甲斐があるってもんよ。ボスがよ、おまえのことを憶えててくださって、あの世にお送りする前にご招待してくれるってよ。めったにねえ特別待遇だな。ま、ありがたく思うこっちゃ」
 自称弟は勝手に説明したあと、ぐったりとしたテッドのみぞおちに拳を繰りこんだ。
「あんまりぼやぼやしてると、近所のやつらが起きだすぞ」
「ああ、真夜中にご迷惑はおかけできねえ、ってなあ。おれたちゃこう見えてもモラルがあっからよ。しかたねえ、にいちゃん、あんたの相手はまたこんどだ。ねえちゃん、ヤケドさせて悪かったな。じゃあな」
「……っ、待て、てめえら!」
「テッド、いやぁ、テッド!」
 カミラとチェスターはテッドを追って玄関に走り出、予想外の光景に絶句した。
 診療所は憲兵たちによって完全に包囲されていた。市の文様をあしらった馬車が横付けされている。
 隊長らしき人物が、テッドをかついだ男たちを一瞥して、「こちらの都合もあるのですからもっと迅速にたのみますよ。今後がないことを願いますけどね」と冷ややかに告げた。
「へい、へい。こっちもお役人さんとお仕事はもう、こりごりでさあ」
「無駄口はけっこうです。もう連れて行きなさい。二度と手間はかけさせないように」
「ご命令のままに。けっ、行こうぜ、弟」
 隊長は唖然とするチェスターに向き直った。
「チェスター・ドナヒュー。それからそっちの方は、カミラ・リントンですね。これからあなたがたを連行します。抵抗はいっさい無駄です。両手を頭の後ろに組みなさい」
 チェスターは憤然と叫んだ。
「なにを寝ぼけたことをいってるんだ。あのヤロウどもをとっつかまえろ! あいつら、テッドをぶっ殺す気だ。殺人犯だぞ。逃がすな、くそっ!」
 隊長は白けたように腕組みをして、声をひそめた。
「いっときますけど、そんなことは百も承知なのですよ。あの少年には気の毒ですが、国家のための犠牲は必要悪というのが我々の一貫した考え方です。すなわち我々は、むしろあなたたちを不穏分子とみなします。いま、おふたりは国家反逆罪の容疑者です。おわかりですか」
「ああ?」
「世の中には、関与してはいけない領域というものがございましてね。あなたたちはそれを犯してしまったわけです。ユーノス・オーウェン指揮官逮捕の折は、お世話になりました。感謝状のかわりが逮捕状で、申しわけございませんがね」
 事件の裏に隠されたあまりにも根深い構造に、チェスターは言葉を失った。カミラはがたがたとふるえ、「そんな、テッド」と小さくつぶやいた。

 きちんと襟元をつめた品のよさそうな執事が、小洒落たティーカップをうやうやしくテーブルに置いて立ち去った。ほかほかと湯気のたつカップには、ホットミルクとおぼしき乳白色の液体がゆらゆらしていた。
「おあがり。毒などはいっていない」
 テッドはぎろりと相手をにらんで、とりあえずそっぽを向いた。さんざん腹を殴られたあとなので、胃袋になにかいれようという気が起きない。妙なほうを向いていた右手は、医術の心得があるらしい男がそれは丁寧に治療をほどこしてくれたが、なおも神経をいらつかせるほどにひどく痛み続けていた。
 いらついたときに、茶を一杯飲めるか飲めないかというのは重要だ。チェスターの言葉をふいに思い浮かべ、テッドは憮然としながらも、左手でカップを持った。
 テッドが口をつけるのを満足そうにながめながら、マコルフ・ボナパルトは己の勘が誤りではなかったことにほくそ笑んだ。
 塩倉庫の空き部屋で飼っていた子豚どものなかに、一匹だけ毛色のちがう豚が混ざっていることにマコルフは気づいた。垂れ流しの糞尿にまみれた、薄汚い、死んだ眼をした子豚どもとはあきらかに異質なそれ。飼育係の手を煩わせていたその子豚は、折檻されて殺されそうになっていた。
 その子豚はたしかにマコルフの目をひきはした。見かけはほかと変わらないオスだけれど、その瞬間なぜか、強い違和感をおぼえたのだった。
 その時点で、使える駒だとはまったく考えもしなかった。妙なのがいるな、とわずか気にかけただけである。
 どこから情報が漏れたのやら、墓堀り係が現場を押さえられて三人ともその場で粛正され、まずいことに子豚が一匹、命拾いをしたらしい。しかもそれは、例のオスであった。
 すぐさま州議会に働きかけ、手を打ったのだが、国家保安司令部指揮官のユーノス・オーウェンがくだらぬ私利私欲で単独行動を起こした。
 ユーノスはけちな中間官僚だが、腹黒さでは侮れない男である。しかも紋章魔法にやたらめったら詳しく、私設軍隊を囲ってよからぬことを画策しているという噂だった。
 ユーノスが眼をつけるくらいだ。やはり特別な子豚にちがいない。
 マコルフは急に、あの子豚が欲しくなった。思い過ごしであったとしても、それはそれでよい。第一印象がすなわち決定打ということもある。
 マコルフには跡取りとなる子どもがいない。ボナパルト商会を一代で立ちあげ、己の手腕のみで軌道に乗せて、財閥の角番に喰らいついた。塩御殿で余生を過ごす、過去の長者どもはもはや敵ではなかった。塩産業が斜陽の一途をたどりはじめたいまこそが立身のチャンスであった。
 塩はやり方次第でいくらでも高く売れる。価値としては宝石とまったく同じ。恐慌がくれば宝石はただの石ころに落ちぶれるが、塩は高騰して値がつけられなくなり、戦争すらも巻き起こす。欲も脳味噌もない連中が漫然と扱っているいまの状況が過ちであるとマコルフは思っていた。
 しかし、老いは確実にやってくる。マコルフの歳はもう六十。ひと昔前なら、人の一生とたとえられた年齢である。
 大きな病気にはただの一度も罹ったことがないが、いつぽっくりと逝くかもわからない。
 健康に気遣うことと、長寿は別物だ。医者の勧める食事を厳格に守っていたからといって、いつまでも死なないわけではない。最近しょっちゅう欠伸が出るのも、気づかず衰えている証拠に思えた。
 遺志を継ぐ者を用意するなら、そろそろ頃あいだった。ただし無条件で財産をくれてやるつもりはない。マコルフの望んだのは、自分を初代と慕う次世代の若者ではなく、老後に動かせる駒であった。
 駒としては少々幼すぎるか。我ながらとんだ思いつきである。
 オーウェン邸での顛末を勅使が伝えに来たときは、愉快でたまらなかった。
 墓から這いあがり、毒を喰らっても生きつづけ、国境のハイエナに噛みつかれて包帯程度とは、恐れいる。通常、奇蹟は立て続けに起こらない。それが三度。運がよいで片づけるか、それとも、ふつうの小僧ではあるまいと判断するか。
 マコルフの場合は後者だ。なにもないところから財産を築きあげた己だからこそ、直感を逃すことの愚かさを知る。これは、おそらく最大の駒にちがいない。
「手荒な真似をしたな。馬鹿どもには罰を与えておいたから、勘弁してやってくれ」
 小さな駒は適度な頃あいで使い捨てるのが主義である。兄弟も一両日中にはカラスの餌になる手はずだった。
「あんときと、ずいぶん態度がちがうじゃないの」
 テッドは突っぱねるように言った。
「おまえが小綺麗になったからだよ。おれは汚いものがきらいだからな」
 マコルフは煙草も不健康だといって、けして手を出さない。歳のわりに歯並びがよく、しかも異様に白く輝いている。
 テッドが身につけていた古着はすべて剥ぎ取られ、貴族の坊やが着るようなツイードのスーツに着替えさせられた。しかも下男が寄ってたかって洗髪から入浴まで強要された挙げ句の果てに。
 骨折箇所にあてる添え木にも金持ち用というものが存在するのだ。テッドは呆れ、されるがままにまかせた。ただで最高の治療をしてくれるというのだから断る理由はない。
「おまえ、名前はなんという」
 マコルフはまず、当たり障りのないところから質問してきた。もちろん、まじめに答える義務などあるわけがない。
「……デイジー」
「女の子の名前のようだが」
「じょうだんだよ、バーカ」
 テッドはミルクをごくりと飲んで、ソファにふんぞりかえった。あまりにも身体が沈むのでかえって落ち着かない。
「ふん、デイジー。気にいった。そう呼ぼう」
「マジかよ」
「歳はいくつだ」
 にやりと笑って、今度は本当のことを教えた。マコルフは据わった眼でテッドを見、紅茶のカップを口に運んだ。
「四十、ね。なるほど。養子としてはちょどよい年齢だ」
「どこまで本気なの、アンタ」
「デイジー、口のきき方に気をつけろ。アンタではない。これからおれのことは、父親とよんでもらう」
「は、ははは。父さん、ねえ。ケッサク」
「笑っていられるのはいまのうちだと思え。おまえが賢ければ、今後の生活は保障しよう。少なくとも、ゴミために居たときよりも贅沢はできる。いいか、おれは汚いものと、頭の悪い人間がきらいだ」
「それにしては頭の悪そうな部下をごろごろ雇っているふうじゃないか。けど、ふん、そういうわけね……ヒントはくれてやるから、期待に応えろ、ってことね」
「いい子だ」
 フィンチ眼鏡の奥で眼光がきらめいた。テッドは臆することなくそれを睨み返し、心の中で吐き捨てた。
 おれは、きれいぶっている人間がきらいだ。そういう連中は、汚泥にまみれている低層の人々よりもはるかに醜悪だからだ。
 親切を押しつけることで自己満足を得ようとする。どんなに善人ぶって見せたところで、おれにはすべてきれいごとにしか思えない。やることなすこと、なにもかも自分の許容の範囲内だけ。そこを越えて救いの手を伸ばすつもりはまったくない。
 そうだよな、ドクター・ヤンス。それからいつも一緒にいる、口だけは達者なお節介。
 無性に踏みにじってやりたくなった。愛情の真似ごとで子どもひとりくらい簡単に手懐けられると勘違いしている浅はかな医者どもより、強欲をぎらつかせた塩屋の小悪党のほうが、数倍マシにちがいない。
「その話、条件次第で乗ってもいい」
 マコルフは神経質に嗤った。癪に障る声だ、とテッドは思った。


最終更新日:2006-10-09