そして、ルーファスの願いはわずかではあるが届こうとしていた。
少しでも熱を下げようと額のタオルを替えに立ちあがったグレミオが、傷口を確認してルーファスに言った。
「出血は止ったようです。呼吸も少し落ち着いてきましたよ」
無造作に床に捨てられた血だらけのタオルを、ルーファスに見えないようにそっとかき集めた。
「テッド」
ルーファスの呼びかけにテッドは薄く目をあけた。紗膜のかかった弱々しい視線で、そこにルーファスがいることを確かめる。
「ル……ファス……」
「ここにいるよ、テッド」
「………」
「なあに、テッド」
あまりにも微かでわからなかったので、聞き返す。
「ごめ、ん、な……」
「どうして謝るんだよ、テッド」
鼻の奥がツンとした。いまにも泣きそうなのを必死にこらえて、ルーファスは笑顔をつくった。
「ルー……」
「ウン」
「一生の、お願い……」
こらえきれなかった嗚咽がわずかに漏れた。そのフレーズはいやになるほどテッドから聞かされて飽き飽きしているはずなのに、いまは切ないほど胸にしみた。
「……ウン」
うなずいた。テッドの望むようにさせたかった。
「これが最後の……一生のお願いだから……」
ああ、駄目だ。
「最後だなんて、言うな……!」
ルーファスの声は涙で震えた。
「最後だなんて……テッドのバカ」
そんなに簡単に別れるみたいなことを言うな。勝手にさっさと終わらせるな。ぼくは絶対に諦めたりしないのに、おまえだけで決めるのはやめてくれ。
テッドは毛布から右手を出して、ルーファスに触れた。
小刻みに震える肩から二の腕を伝い、掌へ。そして握る。
「はずして」
革手袋のことだ、と思った。ルーファスの知る限り、人前ではただの一度もはずしたことがない、それ。理由を訊ねても笑って拒み続けた、手袋のなかの秘密。
ルーファスは傷に障らないようにそっと革手袋をすべらせた。
息を呑んだ。
そこに浮かびあがったのは、異形の紋章であった。
なんという禍々しい姿なのか。赤黒い痣にも見えるそれは、通常の紋章が備え持つ神々しさや神秘の力とはおよそ無縁のように思えた。何にたとえればよいのだろう。
ああ、そうだ。
(死神)
クレオの声がルーファスの思考を中断させた。
「まさか、27の真の紋章」
グレミオが目を剥いた。
27の真の紋章?
それはただの伝え語りではないのか。創世の物語に登場する27の真の紋章を、どういう経緯でテッドが持っていると言うんだ。そんな馬鹿な話があるわけない。
だがテッドは弱く肯いた。
「そう、27の真の紋章、だ。そのひとつ、生と死を司る。ソウルイーター……」
「ソウル……イーター?」
「呪いの、紋章、だ」
”呪い”
ルーファスはなにかに麻痺したように、紋章を凝視した。
言葉を絞り出そうとするのだが、声が出てこない。口をパクパクと動かして、やっと発することができた問いを、テッドは静かに受けとめた。
「言えなかったことって、これだったんだね……」
「……ごめん……な……」
ルーファスはぶんぶんとかぶりを振った。
「謝らないでって言ったろ! テッドは約束をちゃんと守ってくれたから、ほんとのこと話してくれたから、謝らなくったっていいんだ。謝るのはぼくなんだ」
「ルーファス」
「お……重かった、んだね」
「ルー……」
「ごめん……ごめんテッド……気づいてあげられなくてごめん……」
ルーファスは幼子のようにしゃくりあげた。呪いとテッドの言った紋章の宿る手を両の手で包み込むと、はじめて触れたその肌はちょっとごそごそしていて、テッドらしく、やさしくあたたかかった。
「ルーファス」
「……テッド」
「おれ、ずっと逃げてきたんだ。ソウルイーターを、狙うやつらが、いる……から。絶対に、渡しちゃいけない、って、じいちゃんや村のみんなと……約束、したんだ。だから……逃げてきた。300年……世界のあちこちを、逃げてきた」
グレミオとクレオが驚嘆の叫びをあげたが、ルーファスはすんなりと受けいれた。300年。なんて気の遠くなるような、長い長い時間なんだろう。だがテッドは、生きてきたんだ。必死に。テッドは。
「そしてぼくと出逢ったんだね」
これを奇蹟と呼ばずして何と言うのか。
「ああ、楽しかった……な……」
「あたりまえだよ。ぼくたち親友だもの」
「親友……」
「そうだよ。テッドはぼくの親友だろ」
「アハハ……親友、なんて、はじめてだ……」
「友だちいなかったの? いままでずっと」
テッドはフッと悲しそうな顔をした。結果的にルーファスはその意味をわずかに誤解した。もちろんほんとうの理由など、その時は知るはずもなかった。
「あのな、ルーファス……」
「なに? テッド」
「宮廷魔術師の、ウィンディ……あいつが、おれの村……焼いた……」
「ウィンディ様が?」
「あいつの狙い……この紋章なんだ。まさかこんなに近くに、いた……なんて、……おれ、迂闊だっ……た。今度こそ……逃げ切れないかも、しれ……ない」
「テッド! 苦しいの? ゆっくり話して」
「ルーファス、お願い、だ」
テッドは激しい呼吸をやめなかった。時間がない、と言うようにルーファスを見た。
「親友……だからといってやっていいことと、許されないことが、ある……それはわかってる。だけどおれにはもう……おまえしか、いない、んだ……。おまえに不幸を……もたらす、ことを、知ってても……おれは、もう……」
「テッド! テッド!」
「”一生のお願い”だよ……」
「……テッド……」
涙でテッドが見えなかった。親友の魂が叫んでいた。わかったよ。全身全霊で、ぼくは。
ぼくは、テッドを、受けとめるよ。
「この紋章を、守って……」
「わかった」ルーファスは力強く肯いてみせた。「安心しろ、テッド」
テッドの表情がスッと和らいだ。だがその瞳の悲しみは抜けきらない。
「ルーファス……おまえに紋章、預ける……。これは、おまえと、おまえのまわりの人間に不幸を……もたらす。その時はおれを、恨んでくれて、いい、から……」
「恨むもんか。恨んだりするもんか! テッド!」
「ルーファス、右手を……」
ルーファスは強張った両の手をゆっくりとひらいた。その右手に、テッドの右手が重なった。
「動かないで……」
「ウン……」
テッドの唇がゆっくりと動き、敬うようにその呪文が紡がれた。
「汝、ソウルイーター、生と死を司る紋章よ。我より出で、この者にその力を与えよ」
合わせた掌のあいだから光があふれたように見えた。それは熱さや、冷たさといった五感とは別の次元でルーファスに温度を感じさせた。不思議な感覚だった。
風なのか、圧力なのかわからないものがルーファスとテッドを取り囲み、そこだけを外界と遮断した。紋章の形の禍々しさからは想像もできぬ、生き生きとした目映さにルーファスは一瞬、我を忘れて引き込まれた。まるで養分を吸い取り自己再生するような浮遊感だった。
なにかがテッドの掌から”移ってきた”。やがて光が急速に失われていき、その者はルーファスの右手甲で蠢き、呼吸を開始した。
ルーファスは指をテッドの手に絡めた。テッドもまた、やわらかく指を折った。
それは祈りの姿勢にも似ていた。
グレミオとクレオは、身動きもできずにふたりを見つめていた。
真の紋章の継承。
捧げた者も捧げられた者も、ひとつの試練を成し遂げた神の使徒のように、穏やかに寄り添った。テッドがなにごとか呟き、ルーファスが小さく肯いても、右手がほどかれることはなかった。
どれくらいそうしていただろう。
静かなる交感を遮ったのは、無遠慮にあがりこんでくる軍靴の音であった。
「おいでなすったみたいだね」
クレオが玄関ホールへ飛び出していく。グレミオはルーファスを制したが、ルーファスはキッと顔をあげるとテッドから離れた。
「坊ちゃんはテッドくんとここにいてください」
「グレミオ。この家のあるじはいまはぼくだ。追い返す」
「坊ちゃん! 駄目ですよ坊ちゃん!」
止めようとしたが無駄であった。ルーファスの表情には怒りしかない。どこにそんな激しい感情が隠されていたのかと驚きながら、グレミオは後を追った。
玄関ではルーファスの直属上司であるクレイズ近衛隊隊長と多くの近衛兵たちが立っていて、盛んに悪態をついていた。クレオとさっそく一悶着あったらしい。
「何の用事です」
ルーファスは凛として言った。上下関係などはもはや眼中にない。テッドを傷つけようとするものはすべて敵だ。
「おや、マクドールの坊ちゃん。こんばんは。用件ならきみのほうがよくわかっていると思うがね」
クレイズがにやりと嗤う。
「なにをおっしゃっているかわかりません。隊長こそこんな真夜中に将軍家に土足で入り込むなんて、礼儀に欠けるのではないですか」
「フン。その将軍家の坊ちゃんが帝国の反逆者をかくまっているとパーンくんが通報してくれたんですけどねえ」
「パーン!」クレオが唸った。「おまえ、なんてこと!」
ルーファスも背後の近衛兵に紛れたパーンの姿を認めた。薬を買いにいくと言い残しながらクレイズの元を訪れていたのか。
パーンはなおも浴びせられるクレオの罵倒を受け流して、ルーファスに言った。
「坊ちゃん、わかってください。おれは、どうしても……テオ様の信用を裏切るような真似はできなかったんです。悪いようにはしませんから……どうか、抵抗しないでください」
「パーン……」
「お父上を、裏切らないでください……」
パーンを責めることはできない。ルーファスは思った。だが、投降だけはできない。たとえそれがパーンの言うように父を裏切る行為であっても、テッドのために、それだけはできない。
「テッドは奥だな。引きずり出せ」
クレイズが兵のひとりに命令した。ルーファスはカッとした。
「そんなこと、させるもんか」
「おや、次は坊ちゃんが反逆者になりますか?」
クレイズは面白そうにからかった。グレミオが斧に手をかける。この温厚な青年ですらもクレイズの暴挙に怒髪天を衝いていた。
まさに一触即発であった。
「……待てよ」
いま、ここにあってはならない声がした。
ルーファスはギクリとして振り向いた。
テッド。
満身創痍の身体を引きずって、やっとのことで辿りついたのだろう。壁に背を預けなければ立つこともままならない状態で、クレイズを睨みつけていた。
「テッド! バカ!」
テッドはちらりと親友を見ると、裏口に向かうよう目配せをした。
ルーファスも、そしてグレミオとクレオも一瞬でその意味を理解した。
(囮になるから逃げろと言うことか)
「おや、おとなしく捕まる気になったようですね」
「フン。こういう時でもないと能無しは手柄も立てられないからな」
テッドの挑発にクレイズはみるみる真っ赤になって天井から蒸気を吐いた。
「なんだと貴様! わたしの兵を三名もブチ殺しやがって。捕まったところで処刑は免れないだろうがな、その前に俺様がいたぶってやるから楽しみにしておくんだな。おい、なにをボケッとしている! とっととひっ捕まえて、連れて行け!」
グレミオは歯ぎしりをしながらそっとルーファスを引き離そうとしたが、それよりもルーファスの暴言が先だった。
「黙れ! 万年蓄膿症のナマズ野郎!」
グレミオの手から力が抜けた。
「なっ、なっ、なっ……」
壊れたブリキ人形のようにひきつけると、クレイズは怒鳴りちらした。
「全員まとめてとっつかまえろー!!」
まだ何か言い足りないように大口をあけたルーファスを、テッドがぐいっと引き寄せた。
「この、バカ」
「バカはおまえだ!」
「万年鼻ヅマリのヘボナマズ、は……当たってるけどな……おまえが挑発に、乗って……どーすんだよ。いいか、あいつらまだおれが紋章……持ってる、と思ってる。おれが、時間稼ぎ、してるうちに、おまえ、逃げろ」
「いやだよ!」
「……バーカ……」
「バカバカゆうな! テッドのバカ!」
埒があかなかった。テッドはくすっと笑って、顔を歪めた。
「あー……痛ってえ……」
「痛いの? テッド、無理するからだよ」
ルーファスは慌てた。また傷口がひらいたのではないだろうか。テッドは大げさに呻いてみせた。
「……駄目だなー、おれ……もう一歩も……動けねーや。紋章、持って逃げてくれるって言った誰かさんも、文句ばっかだし……友情、なんて……こんな、もんか、なー」
テッド、ずるい。
ルーファスは顔をくしゃくしゃにした。
「テッド……」
「あんま、おれのこと……悲しませるんじゃ……ねーよ」
「クソッタレ……」
「心配……するなよ。ちゃんとおれ、も、逃げ切って……みせる、からさ。な」
どうして笑ってウソをつくんだい、テッド。どうしてきみは、そんなにどうしようもなくやさしいんだい。
動けないルーファスにテッドはトドメを刺した。
「ルーファス、おれ、おまえを……信じるから。だから、おまえも、おれを……」
わかってるさ。
「……信じ、て……」
わかってるさ!
「わかってる、テッド……」ルーファスはにっこりと笑った。涙がとめどなく落ちるのもお構いなしに。「ぼくたち、親友だもんね」
「親友だ」
「必ずたすけに行くから。だからテッド……」
「ああ……」
「必ず、この家に帰ってこよう」
「……もちろんだ」
「約束だよ」
「約束だ」
「ぼくは、テッドのことをずっとずっと、信じるから」
テッドは一瞬間をおいて、うん、と肯いた。「おれも。たったひとりの、友だちだからな……」
突然、何かを決断したように踵を返したルーファスに驚いてグレミオは慌てながらクレオを促した。調理場の裏口からなら気づかれずに外へ出られるかも知れない。
後ろも振り返らずずんずん歩いていくルーファスに、グレミオは叫んだ。
「坊ちゃん、テッドくんは絶対ムチャをしてますよ! ああもう、やっぱり私だけでも戻って……」
「よせ、グレミオ」
クレオが厳しく言い放った。「そんなことは坊ちゃんがいちばんよくわかっていることだ。いまはわたしたちも、テッドくんと坊ちゃんを信じるしかないんだ」
グレミオは黙り込むしかなかった。 裏には帝国兵の影はなかった。現場に不慣れなクレイズの指揮する部隊だけのことはある。石畳の通りに足を踏み出すと、刺すように冷たい雨が容赦なく身体を打った。
平和の象徴である鳩が遊び、あたたかい笑い声の交差するグレッグミンスターの街はすっかりその様相を変えていた。家々の窓は閉ざされ、灯りは消されていた。四方どこか遠いところから、反逆者を捜し回る兵たちの声が聞こえてくる。
ルーファスはもう一度だけ、父と、家族のような仲間と、友と暮らした家を振り返った。
ぼくはもう一度この家に帰ってくることがあるのだろうか。もう一度、この家であたたかい食卓を囲む日が来るのだろうか。
「坊ちゃん……」
「行こう」
行くあてなどありはしない。ルーファスは帝国の反逆者として追われるだろう。帝都の入り口を守る城塞にも間もなく伝令がとどくはずだ。どのような方法でグレッグミンスターから脱出すればよいのか、それすらもいまはわからない。
だが、逃げなくてはいけないのだ。”ソウルイーター”を守るために。
運命なんてものは信じないけれど、ぼくはずっと以前から、テッドを知っていたような気がする。ぼくとテッドが出逢ったのはたぶん偶然とか奇蹟とかいうものじゃない。約束されていたんだ。根拠はないけれど、そう思う。
テッド、生きて。
右手のソウルイーターが呼吸をした。吐いて吸い、吸って吐く。新しい宿主を見定めようとするかのように、悪戯に蠢き、嗤う。
雨が冷たかった。冷たい雨は、止まなかった。
いちばんシリアスであるはずの場面に微妙なお笑い感があるのは気のせいですって。はい次(まだ続くのか……)。
2005-11-12
