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降り頻る――空白

このお話は、突発えんぴつ漫画「降り頻る」のおまけです。

「お手々をずっと握っているの?
 そこはもう、空っぽになっちゃったのに――」
 憐れむふりをして、口元はニタニタと笑っているんじゃないのか。
 ご尊顔を拝む気にもならない。芝居がかった口調も鼻につく。女優になりたいのか?
 それにしても、余計なことにはよく気がつく女だ。自分自身、手に力が入っているとは意識していなかった。指摘されてみればその通り。なにも宿っていない右手を左手でかばうさまは、さぞや空虚で滑稽だっただろう。
 長いこと握りしめていたせいか、関節がこわばり、痛みを伴ってギシギシと軋んだ。手袋がなければ爪が食い込んでいたかもしれない。
 もう手袋は必要ないのに、いつもの習慣ではめ直してしまったらしい。捕まったあとの記憶はおぼろげで、どうやって独房に運ばれたのかも定かではない。とりあえず手袋を取り上げられなくてよかった。それがないと不安でしょうがないからだ。
 あちこちほころびてボロボロで、こびりついた血と泥で黒ずんでいる。不衛生だから食事の時くらい外したらどうですかとグレミオに叱られた手袋。こいつは俺にとって命を守る鎧で、人の中で生きていくための譲れない条件だったから、彼にはちゃんと説明したし、妥協という形ではあるが一応は理解してもらえた。
 ウィンディはどうだったろう。小汚い鼠の持ち物になど興味はないか。
 指先が異様に冷たく、小刻みな震えが止まらない。錆びついた老人の手だ。自分の一部であるのに、こんなにも遠い。
 空っぽか。これが。なるほど、ウィンディにはそう見えるのか。
 彼女の言葉は意外で、しかし腑に落ちた。確かに縁者でない者にとっては、そうなのかもしれない。形としての紋章が消え去り、痕跡すら残らない巣箱を見たら、ああ、空っぽなのねと思うだろう。
 記憶は当事者しか共有できない。それは他人には見えないし、察することも難しい。
 俺にとっては、あれこれ詮索されるよりも、気が触れたと思わせておくほうが都合がいい。
 復讐と欲望と、あとは享楽だったか。歪んだものだけを永遠に追っていてくれ。お前の目論む悪事なんて、俺は実際どうでもいいんだ。ティルなら見過ごせず咎めるだろうが、俺は正義感を育て損なったポンコツだ。お前が何をしでかそうと、知ったこっちゃない。
 嫌いなのは干渉することとされること。それを容認するのは、よっぽどの条件が揃ったときだけだ。
 ウィンディ、お前には資格がない。支配の紋章を行使するなら殊更に拒絶するしかない。
 その紋章が絶大なる力を誇っていても、記憶には手出しできまい。できるのは従わせることだけだ。それは、単に人を人形に変えるのみ。傀儡で寂しさを埋めようとするたび、術者の孤独は一層闇を深める。そのことに気づかないか、あるいはその程度で満足しているお前が少しだけ気の毒に思う。
 俺は間違いなく愚か者だが、お前も大概似たようなもの。寿命を暴力的に引き伸ばされ、じわじわと狂っていく人間の成れの果てだ。惨めで、哀れで、どことなく自業自得。本当に救いようがない。
 ただ一つ、俺だけが知っていることがある。空っぽだとお前の言うこの右手。俺にとっては心臓そのものなんだ。
 いずれお前も、わかる。俺がこの世から消えたあとで。

 支配の紋章の呪いに侵された時点で、俺は人格を喪ったも同然だった。だがなぜウィンディは、精神の支配をわざと遅らすような真似をしたのだろう。真綿で首を絞めるようにネチネチと苦しめたかったのか、それとも単に、そういうものなのか。
 身体の自由を喪っても、心はまだ生きていて、邪悪なものの侵入を瀬戸際で防いでいる。俺はお人形さんよろしく、ウィンディの指示を待って虚ろに座っているだけだが、その時間が耐えきれないほど長い。
 時間だけが供給され続け、無限に有り余る。
 長期戦の疲労がだいぶ深刻になりはじめていた。独房は暗く静かで、外からの刺激が何も無い。あるのは寒さだけだ。凍えながらやることと言えば、思考しかない。
 考えるのはひどく疲れる。なのに溢れ出して止められない。頭の中をぐるぐると巡り、休ませてもらえない。
 だが、考えることすら止めてしまったら、ものすごい勢いで堕ちるような気がする。
 他人に操られるという、えも言われぬその感覚は、屈辱的で、経験したことのないおぞましいものだった。それ以上に、拷問のような静けさと、思考の奔流に削られて形を変えていく心に俺は怯えた。
 地中の虫のようにか細い呼吸をしながら生き長らえる日々。日に二度与えられる味のしない粗末な食事を胃に押し込み、水を飲み、浅い眠りと覚醒を繰り返す。あまりにも単調で逃げ場もない。
 足首にはめられた鎖だけが妙に現実的で、周囲の何もかもが嘘くさい。目を閉じて呼吸して、開いたら夢から覚めるのではないか。そんな期待は必ず裏切られる。
 失望するたびに俺は鎖に責任転嫁する。こいつが邪魔をするから。こいつさえなければ。
 嘘をつかないのは鎖だけなのに、俺は罵り続ける。ふと、ソウルイーターにも同じことをしていたなと思って泣きそうになった。
 鎖が擦れて、足首に血がにじみ、やがて瘡蓋になった。髭が伸び、額に落ちる前髪が視界を塞いで鬱陶しかった。時が経つというのは本来、こういうことなのだ。とうに忘れてしまった感覚を突きつけられても、どうしていいのかわからない。体調を崩すこともしばしばで、発熱したり、食べたものを受け付けなくて吐いたりした。筋力もだいぶ落ちて、用を足すのに立ち上がるとふらついてしまう。
 魔女は存外忙しいらしく、めったに顔を見せなくなった。以前はしばしばやってきて、解放軍への罵詈雑言をヒステリックに喚き散らしていたのに。さては飽きられたか。
 ティルの悪口を聞かされるのは迷惑極まりなかったが、あれが外部とつながる唯一の情報源だった。それが途絶えたことで、身辺は静かになったが、不安は増大した。
 牢番たちは華やかな前線部隊に招かれなかった居残り組である。人事査定の下のほうが切られる形で配属されたに違いない。そのせいか、年寄りと覇気のない若者ばかりだ。近衛兵の格好をしているが帝都防衛には関わっておらず、国内で高まっている解放運動について詳細を知らないばかりか、内戦状態となった今に至っても関心すらないらしい。
 バルバロッサ皇帝を信頼しているというよりは、難しいことを考えずとも帝都では暮らしていけることを十数年前の継承戦争で学習してしまった感じか。
 彼らが声をひそめてヒソヒソと話をしているのは、大部分が俺に関してだ。他に話すネタもないのだろうが、聞き耳を立てているとうんざりしてくる。あることないことよくもまあ。
 降って湧いた特別任務が死刑囚の監視とくれば、祭り気分になるのもわからなくはないが、出世できない理由はそのあたりにあるんじゃなかろうか。まあ、人のことなどどうでもいいが。
 少なくとも彼ら牢番たちはこの先も、何の疑問も抱くことなく鉄格子の前に突っ立って、俺を見張るだろう。その人生はある意味、正しい。何も間違ってはいない。
 何も知らない一般人から見たら、俺こそが特異な存在だ。それこそ関わるのを躊躇せざるを得ないほどの。
 グレッグミンスターで罪を犯した者の殆どがソニエール監獄に護送される中、普段は使われることのない場内の地下牢に収監し、異例とも言える厳重な監視をつける。それには特別な意味がある。
 過去にもわずかではあるが同じようなケースがあった。国家叛逆、とりわけ革命を企てた者に対する粛清として、衆人環視のもと公開処刑を執り行うためだ。
 バルバロッサ皇帝の叔父にあたる人がそうやって台上で首を刎ねられた。その次は解放運動を煽動したとされる青年。俺がグレッグミンスターに来る前の話だと思われる。
 牢番たちから聞き取った話をまとめてみると、俺はかの青年死刑囚に傾倒し遺志を受け継いだ危険思想の持ち主で、叛乱軍のスパイとしてマクドール将軍家に潜り込んだ。実質的な皇妃である宮廷魔術師に正体を暴かれ、危害を加えて逃走するも有能なる赤月近衛隊の活躍によって敢え無く身柄確保。
 かくして少年は名誉ある断頭台送りの権利を得ることに成功したわけだ。聞けば聞くほど三流のシナリオで、それで本当にいいのかと問いただしたくなる。いかにもウィンディが好みそうな、勧善懲悪とご都合主義の権化。
 いずれにせよ俺はヤバい奴に認定されているみたいで、誰も構ってくれない。四面楚歌もいいところだ。気持ちはわかる。俺だって目の焦点が合っていない無表情の人間を見たら、ましてやその人物が敵対する勢力に属することが明確であったら、意思疎通は端から試みないだろう。
 静かなる狂人を遠巻きに見守って、牢番たちは今日もつまらない正義を確認し合っている。あんな子供が死刑になるんだってよ。気の毒になあ。仕方ないよなあ―そうやって同情しておけば、殺す側にいるという現実から逃れることができる。
 粛々と全うしてくれたらいい。俺は彼らを恨まないし、それが仕事ならちゃんと尊重する。
 どうせそう遠くない未来に自我が消滅するのだから、残された心を恨み妬みに費やしたくない。
 殺されるのは心を喪う前だろうか、後だろうか。俺からしてみればどちらでも大した違いはないから、さっさと決めてほしい。しかしウィンディはまた、嗤いながらのらりくらりとはぐらかすのだろう。そういう女だ。
 

「大丈夫。わたしにすべて任せればいいの」
 壊れるぎりぎりのところで、ここぞとばかりに甘い言葉をかけてくる。典型的な洗脳の手口。
 俺が内部から崩壊していくのをちゃんと計算していたのだ。多忙で放置したのではなく、わざと。魔女は思想改造に関しても熟知していて、あまり認めたくはないが潜在的に支配者の器である。
 手口は思いのほか凡庸だ。なのに人は彼女の笑みに呑まれてしまう。黄金の皇帝を誑かし、凋落させた女。俺は小さい頃の記憶よりもずっと、恐ろしく危険な人物を敵に回していた。
 さあ、どうする? ずるずると抗うことなどできはしない。遠くない未来に、白旗を上げてしまうだろう。そして自分の自由にならぬ命を引きずりながら生きていくことになる。そんな生に意味はあるか?
 自我のない俺は、本当に俺と言えるのか?
 どう考えても、この身体ごとスッパリ始末するのが筋。それが困難であるのなら、大きな力に頼ってでも。
 空っぽの右手に全神経を傾ける。緩めた手を再び強く握りしめる。
 そうしているとかすかに、しかし確かに感じられるのだ。かつてそこに在ったものの息遣いを。それが自分自身の鼓動と連動していくのを。
 俺には優れた相方が居た。
 三百年の長い時をともに過ごし、ともに生きた。一心同体と呼ぶべき存在だった。
 あいつは大きく、俺はちっぽけだった。それでもあいつは俺を拒まなかった。心の迷いで一度は裏切った俺を、あいつは再び受け入れてくれた。
 つながりを断つことはけして容易ではない。そして俺もあいつも、それを望んでいない。
 あいつは今も、俺を見ている。
 じっと、見ている。
 紋章にとっては、距離など関係ない。
 大事に育ててきた最高の晩餐を、あいつが逃すわけがない……!
 考える時間があったのが幸いした。ソウルイーターを親友に託したとき、俺がすぐに魂を喰われなかったのは、猶予を与えられたからなのだ。
 役目の終わりを俺がきちんと理解するまでの、それは必要な時間だったのだ。

 ああ、でも、ティルは許してくれるだろうか。微妙だな。


2024-04-11 初出