ヒヨス、マンドレイク、ダチュラにベラドンナ。草花には猛毒をもつ個体が数多く存在する。観賞用として広まったものもあり、誤食による中毒を引き起こすこともある。それらの草花は往々にして薬の原料となるため、赤月帝国にも遠方の国々からさまざまな品種が持ち込まれ、栽培されている。
草花を薬として利用する際にとくに留意しなければならないのは、薬は毒にもなるという特性である。薬は回復を助ける反面、人を殺しもする。予防薬でさえも量を間違えれば逆に病を招くことにもなりかねない。作用と副作用の振り幅は多様だが例外はほぼなく、どんな薬にも毒性は存在する。強力な薬ほど毒性も強い傾向にあり、使用には慎重さが求められる。症状が目に見えて現れたときはまずこの副作用を疑う。
ある者が摂取して安全でも、別の者には毒性を発揮するものもある。たとえば果物の葡萄は健康に有効な成分を豊富に含んで利用価値が高く、人にとっては食用であるが、犬にとっては致死的な毒となり得る。
薬や毒を扱うことは魔術とされている。現在は医師や薬師といった職業がその役割を引き継ぐが、歴史を作ったのは魔術師と呼ばれた人々である。毒を用いる魔術は、絵本に描かれる悪い魔法使いに象徴されるように一般的には悪事とみなされる。毒や薬の調合を酒類と共通する法案で一律規制する国もあり、肩身の狭い思いをしてしかたなく国家のお抱えとなる魔術師もいた。対外的な情報共有の難しさから、魔術の世界は秘密主義の色を濃くしていった。魔術や錬金術が陰の側面をもつのはそういった事情が深く関わっている。
薬と毒の関係と同様、白が黒である、あるいは黒を含むという、既成秩序をかき乱す概念が魔術にはある。これを称して両義性という。矛盾しているようだが、その思想は豊かさで満ちあふれている。灰色の土壌から魔術は発しない。毒による排除と、薬による結束は同時に存在する。まずはその特性を理解すること。
(はいはい、理解しました。ちっ、魔術師の弟子になる気まんまんじゃねえの。どうなってんだ、おれ)
テッドはブリキの如雨露を手に、可憐な毒草たちにシャバシャバと水をかけた。脳内で教本のおさらいをしながらなので鼻歌まじりとはいかないが、直接の監視がないだけいつもよりはましだ。どうせあるじはしばらく帰ってこないし、指南所も人がいないから指導教官の仕事も当分ない。
花の水やりを手下のテッドに丸投げした宮廷魔術師どのは、西方のスカーレティシア城に激励目的で遠征している。雨期の土砂災害で街道があちこち寸断されているから、道中三日はよけいにかかるだろう。ざまあみろ。
ウィンディは皇帝の公務を代行することも多く、思った以上に忙しい身だ。地方に長逗留することも少なくない。術者不在でも支配の紋章の影響力に変化はないが、呪具である紋章珠もおそらくは彼女とともに移動している。
地下牢獄で魔女はテッドに言った。「この紋章珠を、最後はあたしが砕く。そしたら、あなたは完全にあたしのもの。もしも他のだれかがこれを壊したら、呪いはあなたに降りかかるでしょう」
それが事実だとしたら、どんな形であれ紋章珠が壊れるのはテッドの敗北を意味する。しかし、テッドは疑っている。呪具は単なる道具にすぎない。ウィンディは紋章珠をわざとちらつかせて、それがあたかも最後のスイッチであるかのようにほのめかした。なんのために? 答えは簡単だ。手っ取り早く絶望を与えるためだ。
傀儡になりたくなければ誘導に乗らないこと。紋章珠は印象操作に決まっている。紋章の呪いが精神を犯すのを止められないにせよ、意思の力で遅らせることはできる。疑心暗鬼に駆られたら負けが加速するだけだ。
そもそもウィンディにテッドを生かしておく理由などない。三百年も相容れなかったものを、なにを今更。手のこんだ芝居をしてまで側に置く価値もないし、敵将を釣る餌にするなら面倒なことはせず、牢で飼えばよい話。
テッドは知っている。ウィンディが彼に与えたかったのは、どんな酷たらしい死よりも残酷な罰だ。魔女が望んでいる結末もわかる。その最期はとても暗く、恐ろしく、ウィンディ自身を含めたすべての者を不幸にする。
如雨露が空になったので水溝で水を汲んだ。簡単に跨げるほどの狭い水溝は清水がさらさらと流れている。
午前の涼しい時間にテッドが水やりをするのは、空中庭園の一角にあるウィンディの花壇だ。彼女は毒薬を使った呪術が表向きの専門分野で、材料となる草花をみずから栽培している。
テッドが魔法薬に関しての蔵書を読むのをウィンディは面白がった。徒労であると笑わないばかりか、本だけでは理解しづらい事柄を伝授しようとした。ほんとうに意外だったが、この分野に対して彼女はとても真面目でひたむきであり、誇りを持っているようだった。おかげで暇つぶしにはじめた学問も知識として積み重なり、書斎の本もあらかた読み終えた。
もちろん、どれほどの知識を得ようとも無益なのはわかっている。なんの役にもたたない。水溝を流れる水と同じだ。汲み上げて撒いてやらなければ、土には染みこまない。
ひとりでいると不意打ちで虚無感に襲われる。焦りやいらだちの感情とは別の、自分では制御することのできない圧倒的な悲しみが夜の帳のように下りてくる。すると急激に現実感が失われ、自分が自分でなくなる。
意識はあるのだが、まるで他人を遠くから見おろしているような感じだ。精神を支配されるとはこのことなのだろうか。心がすでに蝕まれはじめていて、その影響で発作のように解離するのかも。頻度は確実に高まっている。いつまで耐えきれるのか。戻ってこれなくなったら、その時は?
テッドは本の内容を暗唱しはじめた。危ういときは余計なことを考えてはいけない。
――下剤や保湿液として使われる蓖麻子油の材料となる蓖麻の種子には猛毒があるので、そのまま食べるのは厳禁。芥子の実から採取する阿片を水とアルコールで溶かしハーブを加えたものは、万能薬としておもに群島諸国あたりで取引される。ただし過剰摂取すると死に至る危険性がある。ベラドンナの実は緑色だが熟すとブルーベリーそっくりになるので、誤食して死なないように。
額から頬にかけて汗が流れ落ちるかすかな感触。
大丈夫。戻ってきた。その時のことなど今は考えるな。物事はなるようになる、なるようにしかならない。ウィンディではない、これは自分自身との戦いだ。
水筒の口をひねり、喉に流し込む。
「面倒をみる草の正体は知っているに越したことはない。うっかり葉っぱや根っこなどをかじって泡を噴かないように、慣れていても注意を怠らないこと」
しつこいくらい反芻して胸に刻む。書いて覚えることをしないのがテッドのやり方だ。紙もペンもインクも、荷物になるものは一切持たない主義だった。記録よりも記憶。残していいのは足跡だけ。そう肝に銘じて生きてきた。
以前は肌身離さずだった弓と小刀も、ここに来て持つのをやめた。護身具の携帯を禁じられてはいない。しかし城内にいるうちは殊更必要なものではないし、操られてそれを人に向けないとも限らない。使わない道具は単なる荷物でしかないという鉄則。だったらペンと同じ。持つ理由がない。
けれどマクドールの屋敷に置いたきりの鉄の弓には特別な思い入れがあったので、その所在が気がかりだった。おそらくは帝国兵に押収されてしまっただろう。年季の入ったおんぼろの弓だから、廃棄処分にされたにちがいない。墓場まで持っていくつもりが、悔しい誤算だ。
太陽が城壁の向こうから顔を出した。今日も暑くなりそうだ。
今年は異常気象の当たり年で、雨期にも大量の雨が降り、街道はあちこちが土砂崩れや浸水で通行できなくなった。戦時下で人手も足りないことから復旧が後手に回り、どこへ出兵するにも倍の時間を見込まないといけなくなっている。本格的な夏が訪れても増水したアールス川の濁りは消えなかった。
水はあらゆる生命にとって必要不可欠なものだが、多すぎるのも困りものだ。よく考えればこの現象もひどく両義的である。この世界は、秩序と混沌に代表される両義性ですべて説明がつく、いたって単純な構造のようにも思えてくる。
「事をややこしくしたがるのは、人間だけの悪いクセだ」
独り言だから、どうせだれも聞いてはいない。鳥と虫のほかには聞く者なんていやしない。ここはグレッグミンスター城のいちばん高いことろにあるからだ。専属の庭師と特別な許可を得た者以外、空中庭園には立ち入ることはできない。
テオ・マクドールら六名の腹心を率いたバルバロッサ・ルーグナーが、叔父のゲイルを討つために向かった皇帝の居館は、ここから歩廊で直に結ばれている。空中庭園はゲイル・ルーグナー終焉の地への最後の砦だ。
無粋に踏み荒らした蛮行の詫びなのか、それとも両軍の犠牲者を悼むためか。人の手によって植えられた祈りの花々は年月を経てふたたび力強く咲きみだれる。城下からは城壁にはばまれてうかがい知ることのできない地上の楽園。歴代の皇帝はそこでなにを想い、なにを為そうとしたのだろうか。
蝉がせわしなく鳴いている。高い空に白い雲がぽっかり浮かぶ。
櫓に上がれば眼下の町を見渡すことができるが、なんとなく気が引けて梯子に手をかけたことがない。それに、人に見られたら面倒だ。本来であれば下々の者が足を踏み入れてよいところではないのだから、気ままに散策するのは自重すべきである。言われた仕事をこなしてさっさと引き揚げるのが身の程というもの。
皇帝陛下のプライベートな庭にどこの馬の骨とも分からないよそ者を入れるのはいかがなものかと他人事のように思う。ウィンディの気まぐれも大概だが、空中庭園にも大いに問題ありだ。開放的すぎて、竜やイワドリを使えば容易に侵入できてしまう。見たところ空からの攻撃は想定されていないようだが、楽観的すぎやしないか。
竜洞騎士団は中立の立場をとっていると聞くが、態度を変えないとも限らない。グレッグミンスターを守りの要にしないと言うのならまだしも、皇帝が継続して住まう以上は武装をおろそかにすべきではない。なのに警備も手薄で、お粗末だ。それとも攻め込まれないというよっぽどの自信があるのか。
さすがクレイズ近衛隊隊長のようなくだらない男の私利私欲を黙認してきただけのことはある。膿は出し切らないとよくはならない。叛乱軍がいくら外部からこの国を正そうと奮闘しても、それだけではおそらく解決しないだろう。帝国内部にも自浄を求める必要がある。そのために排除すべきは、異端の魔女ウィンディだ。
テッドは彼女の正体も、その狙いも知っているのに、黙って見ているだけで何もできない。無力感に苛まれながら魔女の書いた台本どおりにアムリット・ベラスケスを演じる日々。このまま人形として暮らすくらいなら、命をくれてやったほうがましだ。しかしウィンディがそれを許すはずがない。
突破口は必ずある。チャンスを待つのだ。テッドは空を仰いで、うーんと深呼吸をした。
肺いっぱいに吸い込む外気、肌をなでていく風。鳥のさえずり、虫のささやき。もう二度と巡り会えるはずのなかった外の世界。
必ずつかんでみせる。それまでは絶対に負けない。檻の中では死なない。死に際くらい自由であるべきだ。自分は長い間ずっとそれを望んできたのだから。
しばらくして、テッドは目を開けた。さて、ひと休みはここまで。待ちくたびれたマンドラゴラどもがキーキーわめきはじめる前に。
園芸とは根気が試される活動だ。草花は言葉を持たないので、人が気持ちを察してやらねばならない。花殻を摘み取ってほしい、カメムシに居候されて臭いからとって、足もとに群がる雑草どもが邪魔、寝心地がよくないうんぬん。まったくどいつもこいつもご主人そっくりのお貴族様で、手のかかることこの上ない。
この季節は宿根草がお行儀悪く領域侵害をしてくるので、問答無用で間引かれてもらう。みにくい領土争いは下界だけでたくさんである。
陽はまだ高くないのに汗がだらだらと流れ、目にしみる。軍手は泥だらけなので肩口で拭った。汗対策に手拭いを豆絞りにして額で縛ってみたら、すっかり農民の出で立ちになった。白い木綿の作業着は長袖で、腕は肘までまくり上げている。上腕部についた火傷の痕を隠すために短い袖の服は着ない。
ウィンディがテッドのために用意する衣装はだいたいが白だ。なにか意味があるのかと不思議がっていたら、聞かないのに向こうから教えてくれた。いわく、彼女の故郷で白い服は囚人を意味するとのこと。なかなかのユーモアである。
「暑いな」
言いたくないのに口をついてしまう。トラン地方の夏は湿度が低く過ごしやすいと聞いていたが、いざ住んでみたらそんなことはなかった。夏は暑く冬は寒いという盆地特有の気候で、けして暮らしやすくはない。夏はまだこれからが本番というのに日差しがすでに暴力的だ。先が思いやられる。
水筒がからになったので、水を補充しにいこうと立ち上がった。軍手を脱ぎ捨てて大きく伸びをする。ずっとしゃがんでいたせいか膝が痛く、屈伸運動で軽くほぐしてみた。
水溝を流れる水もじゅうぶん清らかではあるが、とりあえず手を洗うだけにとどめる。飲用にするのは四阿に置かれている水瓶だ。
たとえ皇帝が不在であっても、水瓶はつねに新しい水で満たされている。皇帝の膝元ではどんなときも手抜きをしないのが原則である。グレッグミンスター城の床はいつもぴかぴかだと親友が驚いていたが、こういった見えにくいところの美しさももっと称賛されるべきだ。
美しさを基本とする伝統を守る者たちがいくら頑張っても、官吏がふがいないのでは国家は暗転する一方。残念だが、この国を見ているとそのことを強く実感せざるを得ない。
グレッグミンスター城塞の屋上に建築された空中庭園は、完全な平面ではなく高低差のある不規則なテラス状になっている。排水のためにわざと勾配もつけられ、客土の重さで土台となる城が傷まないように綿密に計算し設計されている。園路の両側は多種多様な低木や草花が植えられ、その中にひっそりとたたずむように神話の神々をモチーフにした彫刻が点在する。水溝をさらさらと流れる水は牧歌的な水車によって汲み揚げられ、庭園のすみずみまで巡らされる。
水車の駆動に使われるのは、それよりもっと強い流水の力だ。歩廊と平行して水路が造られているのはそのためで、はじめて目にするとその威力に驚く。轟轟という怒濤の流れはテッドが地下牢獄で見たものとほぼ同じであった。
こんな標高の高いところにほとばしる水の流れを再現するのは相当な技術が必要だろうと思う。グレッグミンスターの水資源はもともと豊かなほうだし、多雨で水量が増えているので放流目的で流しているのかもしれないが、ここの水はまったくといっていいほど濁っていない。手で触れるとしびれるほどに冷たい。地上の水ではない証拠だ。川から取水したものではなく、地下水脈を迂回させているのだろう。
グレッグミンスター城の歴史は赤月帝国よりも古く、築城はハルモニア神聖国の時代までさかのぼる。それ以前だという説もある。叛乱軍が本拠地として承諾なしに使っているトラン湖の古城も同様だが、築城に関しての歴史記述がほとんど残っていないのだ。黄金皇帝はグレッグミンスターの近代化に貢献したが、もともとの基盤がしっかりしていなければこうは順調にいかなかっただろう。この遺産に本物の価値を見いだし、壊滅に近い絶望的な状況にあっても放棄を選択しなかった。その慧眼こそが皇帝の皇帝たる所以である。
歴史が浅く、いささか武力拠りのきらいもあったが、テッドの知る赤月帝国はけして悪い国ではなかった。支配者であるルーグナー一族の批判的な噂も聞かなかった。敵対する都市同盟との関係も事実上の停戦状態となっていて、あるいは国交回復かという期待感すらただよっていた。
ウィンディが皇帝を得意の心理操作で籠絡し、偉大な力をわがものにしてよからぬことを企んでいると知っても、テッドは疑念を捨てきることができない。黄金皇帝ともあろう者がそうたやすく色香に惑わされて腑抜けになるものだろうか。人々が噂するように、前妻クラウディアへの追慕を利用されたのか?
支配の紋章を有効にするには、まずは相手の懐に入り込まなければならない。あれは単に人を自在に操るという性質のものではない。犠牲者が落ちる穴を前もって掘り、彼がもがきながらゆっくりと埋もれていくあいだ、往き着く地獄をていねいにお膳立てしてやるのだ。手もかかるし、時間もかかる。「ブラックルーンのほうがよっぽど気楽」とは魔女の弁である。ブラックルーンがどんな代物か知ったことではないが、支配の紋章が特別に厄介なことは想像がついた。
テッドが嵌められたのは三百年の因縁があったからまだわかる。いまさら後悔してもすでに時遅しだ。では、バルバロッサは?
水を汲みながら考えごとをしていたせいで、そばに立つ人に気づかなかった。ごくごくと喉を鳴らしてまた水筒を満たし、留め金をかける。
「おはよう、アムリット」
びっくりして水筒を取り落とした。四阿の床に跳ね返り、転がってゆく。バルバロッサ・ルーグナーは腰を屈めてそれを拾い上げた。
「す、すみません、皇帝陛下。居られると思わなくて。おはようございます」
テッドはうわずった声で挨拶し、背筋をぴんと伸ばした。
「かしこまらなくていい、らくにしなさい。いい天気だから、朝の散歩がしたくなったのだよ。薔薇園のほうにいたら、きみがこっちへ歩いてくるのが見えたのでね。ああ、邪魔ではなかったかな?」
「とんでもない。またお会いできて光栄です」
「わたしもきみと話をしたいと思っていたのでね、会えてうれしいよ、アムリット」
皇帝はテッドを偽名で呼び、厳つい顔をほころばせた。名前を覚えていたのは意外だった。
遠くから見ていたときはいつも怒っているような、気難しそうな顔だったけれど、近くで会話をすれば表情の豊かさに圧倒される。テッドがはじめて空中庭園に足を踏み入れた日、ウィンディが「わたしの一番弟子」と彼に紹介したのだ。会うのはその時以来、およそ三週間ぶりである。
逃げ出す口実を大急ぎで考えたが、先手を打たれて椅子を勧められ、流れで腰掛けてしまった。こうなったら腹をくくるしかない。当たり障りのない会話で適当にごまかそう。さすがに額の手拭いは失礼だと思って、ズボンのポケットに突っ込んだ。
支配の紋章で制御されている口では核心をつくこともできやしまい。落ち着いて接すれば怪しまれることはないから、だいじょうぶだ。
赤月帝国第十七代皇帝であるバルバロッサは、齢五十を過ぎても覇気の衰えぬ統治者である。体格がよく堂々としているが、精神力も見かけ倒しではない。精気のかげりがささやかれてはいるけれど、テッドの眼には気骨の人に映る。
立て襟のゆったりとしたルバシカを身につけ、履き物は裸足に紐無しの短靴。青い縁飾りが異国風で小洒落ている。全身を黄金の鎧でびっしりと覆い、豪華絢爛な金モールのマントを羽織った大礼服姿しか知らない人々が見たらさぞびっくりするだろう。皇帝だって普段着のときもあるのは考えなくともあたりまえの話なのだが、この人に限っては日常的に黄金色のイメージがつきまとうものだから、変装してお忍びで町を歩いても気づかれないのではないかと思う。
しかし腰につけた鞘には立派な長剣を差していた。そこだけがきりきりとした緊張感がただよう。
「訓練は順調かね、教官どの。いかにきみが優秀といっても、血の気の多い年上の生徒を相手にするのはたいへんだろうと案じておったが」
テッドは苦笑いをした。
「はい、たいへんでした。最近は仕事もこなくなって、ちょっとほっとしているところです」
「うん? それは聞き捨てならない。どういうことだね」
「あっ、干されたわけではありません。あのう、スカーレティシア城にみんな動員されてしまって。生徒が集まらなければ授業も行えませんから、いまは休みです。わたしだけ夏休み。のんきですみません」
「ふむ。しかし徴兵されてきた民衆もおるだろう。そちらの訓練はどうなっておる」
「残念ながら、陛下。わが軍に人材を養成している暇はないのが現状です。新米兵士でもとりあえず戦場に出てそこでやり方を覚えるしかありません。平時ならいざ知らず、内戦状態となったいまとなっては訓練が実戦です」
皇帝は口ひげをしきりに弄って、
「……わたしは、最小の兵力で叛乱軍を抑えることはいまだ可能だと考えている。頭数だけ増強してごり押しするやり方は、どうも好かぬ。戦死者を出すようであっては、たとえ戦に勝ったとしてもそれはまことの勝利ではないからな。かつての戦いでも人が死ぬことは避けられなかった。ずいぶんと苦い思いをしたものだ」
「おそれながら、陛下。もしかして陛下は叛乱軍との対話をお考えですか」
「いや、そこまで楽観的にはなれぬよ。君も知っておろうが、むこうからの使者を怒りにまかせて焼き殺してしまったからな。民衆を抑えるためとはいえ、年端もいかない子供をいけにえにしたのだ。なんともむごい。悪魔の所業よ。対話の道を閉ざしたのはわたしだ。覆水盆に返らずとはまさにこのことだよ」
火の粉が飛んできてテッドはぎくりとした。叛逆者の処刑はウィンディがふざけ半分で描いたシナリオだ。叛逆者とは魔女がテッドという役者のために用意した、架空の物語の登場人物である。実際に死んだのはアムリット・ベラスケスという名の純朴な少年。彼はたまたま舞台の袖に居たばっかりに代役にさせられてしまった。そしてテッドは少年になりすまし、いまがある。
公開処刑でなければいけなかったのもウィンディの一方的な都合である。民衆の怒りを抑えるというのは完全な口実だ。叛乱軍に情報をわざと漏らし、揺さぶることが本当の目的である。テッドの処刑の一部始終がティルの耳に届くように、派手に太鼓を打ち鳴らしたのだ。おそらくはバルバロッサの意向を無視して。
動揺した親友はわれを忘れて衝動的になるだろうが、そこが魔女の狙いだ。冷静さを欠いたティルには必ず隙ができる。最後の一手をもしテッドが計画するとしたら、死んだはずの死刑囚を刺客として彼の目前に送り出す。
平静を装わなければと思うほど、焦りは増していく。こんなところでのんびりとおしゃべりなどしている場合ではないのに。握った手のひらに爪がぎりりと食い込んだ。思考が停止してしまって、言葉が続かない。その時。
「バルバロッサさまあ」
居館のほうから呼ぶ声がした。はっとしてテッドは声のしたほうを見た。声の主は女性で、皇帝を探しているようだ。こっちに近づいてくる。
「バルバロッサさまあ、おーい、バルバロ……っあ、おられた! まったく、何度申しあげたら言うことを聞いてくださるんです?」
白襟のついた紺色のワンピースにエプロンという女中の制服をぴっちりとまとった年配の女性が、麦わら帽子を手に小走りでやってきた。背が低くむっちりとした体つきで、長い三つ編みをぐるりと頭に巻いている。かなりのご老体だと思われるのに、飛び石を軽やかにスキップしている。
「お庭に出られるときは帽子をかぶってくださいと、きのうも念を押しましたよね。おとついも。さきおとついも」
バルバロッサは破顔して、「すまない、ついうっかり」と弁解した。
「あらまあ、ついうっかりですって! はああああ」老女はわざとらしく額に手をそえてぐるりと回した。おそらく目眩のポーズだろう。「ええ、ええ、もうお若くないんですもの。忘れっぽいのは仕方がないですよねえ。ご自慢の黒髪にも白髪がめだつようになってきたようですし、あっそうだわ、こうなったらいさぎよくご隠居されて、俳句でも詠んでお暮らしになったら。すてきだわ、あたしもやろう、ほととぎす。五七五」
テッドはぽかんと口を開けた。
女性はうさんくさそうにテッドを見て、
「あんたも帽子をかぶりな。脳みそ煮えてひっくり返るよ」とがらりと態度を変えてたしなめた。声量がすごい。耳をふさぎたくなったが、耐えた。
バルバロッサが手渡された麦わら帽子をかぶると、皇帝らしさがますます消え失せた。その格好で鋤や鍬を持たせたら、意識の高い農民そのものだ。
「手間をとらせて悪かったね、ジェンマ。ついでと言ってはなんだが、紅茶をふたつ、運んではくれないかい」
「はいはい、おっしゃると思いました。バルバロッサさまのついでは毎回ですものね。お断りしたらご自分でおやりになろうとして、またカップを破壊するんでしょう。ああおそろしい。そんなことにならないようにあたくしがお持ちいたしますわ。で、あたたかいのと冷たいの」
「あたたかいので」
「かしこまり。十三分四十秒ほどお待ちを」
飛び石の上をぴょんぴょんと渡っていく後ろ姿はまるでムササビのようだ。蝶結びしているエプロンの紐が尻尾である。
庭師の出入りする通用口に消えるのを見送って、テッドは感心したようにつぶやいた。
「お元気な方ですね」
バルバロッサは笑った。
「ジェンマは、古くから皇族に仕えている女中だよ。わたしの乳母にもあたる人だ」
「そんなに長く。でも、お歳を召しているようには思えません」
「あれで七十は越えて、ひょっとしたら八十のほうが近いと思うのだがね。はて、いつからか歳をとるのをやめたようだ。腰も曲がっていないし、あのとおりよく働く。まだまだ現役だろうて。口が行きすぎるのが唯一の欠点かのう」
黄金皇帝に向かっていささかも臆することなく小言をぶつけられる女性がいることが驚きだった。そして何よりもバルバロッサの見せる普段の顔がテッドには好ましく思われた。
このままジェンマの話に終始すれば、触れられたくない厄介な話題から逸らせられるかもと期待したのだが、そうはうまくいかなかった。
「ウィンディのことだが」と皇帝は言った。「あれは有能な魔術師で、人民を掌握するすべにも長けている。わたしにとって、二度は巡り会えないであろうすばらしいパートナーだ。きみにとってもそうであるようにね」
「え、ええ」テッドは曖昧に返した。
「しかし、彼女はいささか、気の強いところがある。わたしの暗殺を阻止したところまではよかったのだが、実行犯にあのような厳罰を与えるとは、正直なところ心外であった。わたしを思う気持ちが高じたのであろうが、それにしても痛ましくてやりきれん」
皇帝はどこか遠いところを見た。その表情がくもる。
そこまで言うならばなぜ中止命令を出さなかったのかと小腹が立ったが、この人はしなかったのではなくできなかったのだろうと思い直すことにした。きっとウィンディがそれを許さなかったのだ。
「あれは高潔な女だから、信念を曲げない。人間関係や経験が積み重なった上に思想があり、そこから信念というものが生じるのなら、あのような女性をつくりだした過去とはなんであろうか。いや、言いたくないものを根掘り葉掘り聞くのは野暮というものだ。あれが語ってもよいと思うまでわたしは待とうじゃないか。それがどのようなものであれ、わたしはウィンディを、あれのすべてを受け入れる覚悟ができている。あれはまだ、わたしに心をひらいてくれようとせん。わざと追わせてするりと身をひるがえす。まるで魔性の蝶々だ。だが、奔放であると見せかけているだけかもしれん。わたしはときどき、あれがなにかに縛られて、自由を奪われているのではないかと思うときがある」
「ウィンディさまがですか? あの自由気ままな方が?」
「ははは、わたしが勝手にそう思っているだけだよ。気にしないでおくれ。恋におぼれた男の妄想だ。いや、一番弟子であるきみに探りを入れたらなにか面白い話が聞けるのではないかと期待してね。すまん、すまん」
バルバロッサの情愛は本物のようだ。テッドはため息がでそうになった。期待されてもほんとうのことなど言えないし、話だって面白くない。そんなにじっと見つめられても困る。
テッドが口を開くのを待っているようなので、観念することにした。黙っていてもらちがあかない。ある意味ウィンディ以上にめんどくさいおっさんだ。
「……ウィンディさまの奔放さにはわたしもときどき手を焼きます。自由でないとお感じになるのは、あの方が完璧主義でいらっしゃるから、かと。九十九まで近づいても、一が欠けたらだめみたいです。ご自分に対しても、まわりに対してもそうです。わたしも、詰めが甘いとしょっちゅう叱られます。それでも根気強く、追いつくまで待ってくださるので。挑発なさるので少しはイラッとしますけど、ぜったいにお見捨てにならないってわかってるから頑張れます」
「ほう。きみもか」
「ええ。よい師匠です。ですが喧嘩もします。陛下はウィンディさまと喧嘩をされたことは?」
バルバロッサは「うーむ」と腕組みをして考えた。「ない。いや、ある。ああ、しかし、ない。いかん、どうもわたしはあれに甘いようだ」
「たまには口げんかでもされて、腹を割ってお話ししてみてはどうでしょう。陛下がもやもやなされていることも、ひょっとしたら解決するかもしれません。先ごろの処罰のことにしましても、正義にそむいた人に相応の罰を与えるのは法の義務ですし、やり方だって時局を鑑みればしかたのないことです。スカーレティシア城の戦いにおいてはオッペンハイマー将軍に全権を委ねる選択もありましたのに、ご自身の危険を顧みずに遠路を往復し、陛下の代理を務められております。正義感が強すぎるせいで疎まれたり、恨まれることも多々あると思うんですけど、それはウィンディさまご自身もわかっておられることで、いろいろと言われて傷つかないはずがありません。どうぞ陛下には、なんでも打ち明けられる話し相手になっていただけますよう。お願いいたします」
そうだ。そうやってウィンディを多弁にさせてボロを出すのを待ち、露呈した本性をとことん疑ってかかるがよい。お飾りの皇帝ではないのだからそれくらいはできるだろう。やってもらわないとだいぶ困ったことになる。
「うむ、なるほど。どうやらわたしはウィンディが正当に評価されないことを過度に恐れておったようだ。あれもよい弟子をもって幸せ者じゃないか。わたしからも感謝する。ところでアムリットくんはバナーの村の出だと言ったね。ウィンディとはいつ、どこで?」
予想された質問のうちだ。この件に関しては回答の準備は万端である。
「お聞きになられてませんか。おれ、無一文で奉公先を追い出されて路上で生活してたんですが、腹が減ってふらふらとパンを盗んで捕まって。ソニエールに送るほどの罪状でもないからってすぐに釈放されたんですけれど、行くところがなくて。お城の前で途方に暮れていたらウィンディさまが、あなたには魔力が秘められていると言って身元を引き受けてくださいました」
「ほう。なんとも不思議な縁であるな。それにしてはきみの魔法のすごさたるや、この耳にもびんびんと聞こえてくるぞ。ずいぶんと短期間で上達したものだ。あっぱれとしか言い様がない」
「あ、いえ、自分に魔力があることは前からわかっていました。こっそり紋章を手に入れて使ってみたりして。魔法については独学で学んだものです。でも、それをひけらかしたら狭いバナーの村には居づらくなります。わたしは身寄りもありませんでしたし、育ての親はとても厳しい人たちで、ちゃんと働かないと折檻されました。波風たてずに生きるためには目立っちゃいけないかった。だからずっと隠してきたんです」
「苦労をしたのだな。よく耐え、がんばった。しかし、もう盗みはいかんぞ」
「あ、ハイ。肝に銘じます」
アムリット・ベラスケスの履歴はおおまかなところはいじっていないが、実際の彼が精神遅滞者で文字の読み書きが困難なことはばっさりと切って捨てた。つじつまのあわないところは創作で補完する。他人の生い立ちを脚色した架空の物語にねぎらいを受けてもテッドが報われることはないし、同情されると逆に腹が立つ。そんなことよりも与えられた台本を演じるという現実的な試練で頭がいっぱいだ。緊張で手のひらが汗ばみ、じっとりと湿った。
最悪なことに台本には魔女を讃える麗句が随所に散りばめられている。テーブルに手をかけてひっくり返したくなるほどばかばかしい。したたかに嘘を吐き続けてきたこれまでとはわけが違う、経験したことのない精神的苦痛で完全にノイローゼだ。茶も水もいらないから、拒否権をくれ。
「弱者が虐げられる世の中を正すのもわたしのつとめ。やらねばならぬことはたくさんあるな。悲観してばかりもおられんということだ」
バルバロッサが自己完結したのを察知して、少しだけ肩の力が抜けた。テッドは気づかれないようにほっと息を吐いた。
ちょうどその時、ジェンマが丸盆を抱えて戻ってきた。白磁のポットとティーカップが二客、おしぼり、砂糖壺とミルクの瓶、小さな焼き菓子が絶妙なバランスで乗っかっている。飛び石につまずいてひっくり返さないかとヒヤヒヤしながら見ていたが、彼女は慣れた様子で四阿のテーブルまで運びきった。
茶漉しをセットしてポットからカップに紅茶を注ぎ入れる。磁器の白さに紅色が映えてなんとも美しい。
「はい召しあがれ。ではあたしは用事があるので、これで」
ジェンマはさっさと立ち去ろうとしたが、呼び止められた。
「ありがとう、ジェンマ。いやでなければもうひとつだけ頼みがあるのだが」
三歩進んでぴたりと立ち止まり、ネジを逆に巻いたおもちゃよろしく後ろ向きに三歩戻る。こちらは見ない。
「いやな予感しかしませんよ。なんです」
うつむき加減に低くうなった。目が光るのではないかとテッドは思った。そこはかとない既視感。どこかの船の大浴場にあったような、なかったような。これはもしや。
(のろい人形だ……)
「おお、ジェンマ。あなたはほんとうにすばらしい女性だ。そのね、ごほん。かたくなに閉じているその耳の砦を開いておくれ。嘘偽りのない天上の甘露をここにおられる友人にご賞味いただきたいという切なる欲求がわが内なる原初の流域よりほとばしり百万の大地に広漠たる大河をなす。其の強大な力を押しとどめるもの現世にはなし、然しながらなんじ其の心のふところに母なる大海を抱かんと……」
「古典でおねだりされても学のない婆にはなんのことやらさっぱり」
「うむうむ、では昨今の習わしのままに。二十分後くらいにあなたの秘蔵のお茶をおかわりでください。それから、茶葉も見せてやりたいから少し持ってきてくれるかな。頼みます、このとおり」
一生のお願いのポーズをきめる皇帝陛下など滅多に拝めるものではない。それを目撃したということは、自分もいよいよお迎えが近いのかもしれない。そして向かうところ敵なしのお婆さん恐るべし。
ジェンマはイヤイヤをするように身体を揺らして飛び石を舞台にくるりと一回転すると、羽根を広げて着地した。地獄の底から荒ぶる霊魂のため息がとどろく。
「おあいにくさまでございました。ウィンディさまのおられないときに決められたもの以外の食べ物お飲み物をお出しするのは、かたく禁じられておりますので」
「おお、そうだったかのう。これはしたり。いや、ならばあなたが毒見をしてくださればよろしいのではなかろうか。うむ、よい考えである。ぜひともそうしてくれたまえ。信頼しているよ、ジェンマ。わたしとあなたの仲であろう」
ジェンマはかっと顔を紅潮させた。あっ、降参するぞとテッドは直感した。
「まったく、どこの暴君かしら! バレなければいいとおっしゃるのね。バレてお叱りを食らうのはあたしなんですけどね。はああ、むかしは素直で曲がったことのきらいな坊ちゃんだったのに、どこで育てかたを間違ったんだろう。外ヅラばっかり公明正大でもお天道さまはちゃんと見ておられますよ! あんた、不幸になりたくなかったらこんな皇帝を信じちゃだめ。丸めこまれる前に逃げな。ぜっ、たい、によ。わかったね」
当たった。吐き捨てるようにまくしたてて、盆だけを持って大股でどかどかと行ってしまった。さっきはムササビのようだと思ったが、怒った姿はあるまじろんだ。失敗の壺を落としていくモンスターである。
テッドはすっかり傍観を決めこむ気でいたが、一応はおろおろするふりをした。バルバロッサはまた口ひげを弄っている。
「……使わない手ほど敏感だからな」
ハムレットか、おっさん。
それにしても皇帝の人間くささはどういうわけだろう。ジェンマのことは冗談抜きで信頼しているのだろうが、前回ウィンディを含めて三人で会話したときと今日のバルバロッサはまるで別人だ。二重人格ともとれるほどの落差である。
あのときはウィンディが場を主導し、皇帝は仮面のような微笑みを貼りつけた顔で静かに話を聞いていた。テッドへかけた言葉も形式的な二言三言だけだったように思う。もとより無口な人なのだとばかり思っていた。
バルバロッサはウィンディに恋をしているが、恋と信頼は別物なのだろうか。他人の色恋はやはりよくわからないし、関わりたくもない。しかしバルバロッサの態度はどうにも解せなくて、不謹慎だがとても気になる。
ウィンディのことだ、バルバロッサにも支配の紋章を使っているにちがいない。ひとまずそれを前提に思ったことを言うなら、テッドとは術中に落ちる過程が違いすぎる。観察したわけではないので結論は差し控えるが、普段着のバルバロッサに会って疑念はさらに深まった。
紋章の効果は持続性で、術者との距離は影響しない。それはテッドが身をもって学んだことである。それからこれは仮定であるが、呪いの力と呪具との関係も希薄である。ウィンディは帝都から遠く離れたスカーレティシア城にいるが、紋章の束縛が弱まるということはない。
バルバロッサが支配の呪いを受けているとしたら、それはきちんと効果を発揮しているのか? 言動の一部が演技であるとしたら、どう考えてもウィンディが同席していたときのほうが不自然だった。仮に二人の関係に紋章が介在していないとしたら、それはそれで信じがたい話ではある。
「きみは猫舌かね」
ぼんやりと考えていたので、ふいに問われて跳ねあがった。
「あっ、ぼっとしてました。えへへ、庭園で陛下とお茶をご一緒できるなんて夢のようで、生まれる前に死んだおっかあになんて報告しようか、なんて。すみません、いただきます」
発言に重大な誤りがあるのも気づかず、砂糖を入れるのさえも失念するほど慌ててテッドはカップに口をつけた。
「あちっ」
「ははは、せっついてしまったな。すまん。じつはね、わたしも猫舌なんだ。ウィンディには子どものようだとからかわれる。どうにもこればっかりは改善の機運がない」
皇帝はミルクだけを紅茶にたっぷり注いで、くるくるとかき混ぜた。テッドも倣っていつもより少なめの砂糖とミルクを足した。ミルクがぬるいので温度もほどよく下がる。
「おいしいです」
「そうかね。おいしいか」
「はい。わたしも自室でよくいただいています。宮廷御用達のお茶ですよね。帝国内で特別に栽培される、たいへん貴重なものとお伺いしました」
「うむ、ご名答だ。利き茶もできるとはじつにすばらしい。これは竜洞騎士団領の南向き斜面でわずかだけ栽培される、屈指の高級茶葉だ。手間がかかるため生産量が少なく、一般にはあまり流通していないものだ」
「手間をかけて丁寧に作られているから、おいしさもひとしおなんですね」
皇帝はひと呼吸おいてからそれに反応した。
「そうだろうか。わたしは、この紅茶に感動を覚えないけどね」
「えっ」
テッドは顔をあげた。なにか不用意な一言で怒らせてしまっただろうか。紅茶は香りが高く、まぎれもなく美味しいのだから、お世辞として言ったのではない。
バルバロッサはこくこくと飲み干し、空のカップを眺めながら話しはじめた。
「この紅茶が宮廷への献上品となったのは、もう、ずいぶん前のことだ。そもそも赤月帝国の気候は茶作りに向いておらず、地産地消で必要なぶんだけをまかなうくらいがせいぜいだった。なのでその分野に助成して、外国製品と比べて少しも遜色のない品質のものを作ろう、最終的には献上茶の生産を目標としようという計画が持ちあがってね。献上品の認可にはすべて帝国内で生産加工するという条件がある。気候や地質がもっとも適している竜洞騎士団領に生産拠点を設け、諸外国から製茶技術を導入して、長い年月をかけてようやく認可にこぎつけた。
しかし、やはり無理があったのだろう。たしかに水色が鮮やかで、香りも高い。じつに華やかだ。が、良くも悪くも特徴はそれだけだ。素人考えを承知で敢えて苦言をいわせてもらうが、砂糖やミルクを足すことを前提とした未完成な飲み物だよ。華やかさにこだわりすぎるあまり、バランスを欠いてなにやら曖昧なものになってしまった。個性は強そうなのに記憶に残らない。このレベルの紅茶は、名産地であるファレナ女王国からいくらでも入ってくる。しかも適正価格、なおかつ品質も同等以上とくればね。いわんや女王への献上茶とは比べものにすらならないのだからな」
口に含んだ液体が一気に苦みを増した。言われてみればそうかもしれないが、安物でも高級品だと信じこんで飲めば美味しく感じられるものである。評価には個人差があるし、少なくともさっきまでのテッドにとってはよい紅茶だったのだ。
皇帝は話し相手の変化を察したのか、
「気を悪くさせたらすまなかった。これはこれで、よい紅茶だと思う。これを研究し作りあげた生産者には敬意を払う。今後さらなる精進と改良を重ねて、いずれは世界に誇ることのできるものにしたい。心からそう願うよ」
話の途中からジェンマが盆を手に立っていたが、老女は口をはさまなかった。黙する芸当もできる人らしい。タイミングを見計らってテーブルに置かれたのは、ピンクの薔薇が描かれたかなり大ぶりのポットと、同じ模様のかわいらしいティーカップだった。クラウディアの薔薇を描いたように見える。
「お先に毒見で失礼します。よろしいかしら」
自分用に普段使いらしい大ぶりのカップを持っている。八つ当たり気味の毒見ついでにご相伴にあずかるつもりらしい。
「ああ、たのむ。あなたもお座りなさい、ジェンマ」
「忙しいと申しあげたいところですけれど、ではちょっとだけ。ああ、おいしい。だいじょうぶですよバルバロッサさま。死にゃしません。そちらのカップに毒が塗られてなければですけど」
バルバロッサは聞かなかったかのようにポットを手に取り、カップに注いだ。ひとつをテッドに押してよこす。やばい。絶対に毒入りだ。最低でも床拭き雑巾でごしごししたティーカップだ。自分ならそうする。
さっきのよりは色がやや薄く、紅に近い橙色をしている。
「このお茶には、砂糖もミルクも必要ない。ぜひ、そのまま味わってみてくれたまえ」
雑巾の邪念を振り切って言われるがままに口をつけようとしたが、唇が縁に触れる直前、灼かれそうな熱さを感じた。一瞬躊躇したところにふわりと立ちのぼった蘭の花のようにやさしい香りが、怯える五感を包みこみ震わせた。
「いい香り」
「そうだ。まずは、香りを味わいなさい。それこそが茶道だ」
華やかな香りではないのだが、じんわりと癒やされる。テッドは目を閉じて息を吸い込んだ。手のなかでゆっくりと温度が下がっていくにつれ、香りも気のせいか変化していくように感じられる。
だいぶたって口をつけてみた。熱いが、なんとか我慢できる。
味わいは拍子抜けするほど穏やかだった。なるほど、これなら余計な混ぜ物はいらない。苦みや渋みもあるけれど主張はしてこない。やわらかい甘みだけがどんどん口中に広がっていく。
「これを作った人はせっかちらしい。せっかくの優良品種なのに、早生のうちに早々と摘み取ってしまうのだ。若いからよけいこのようなあっさりとした茶ができる。いわば新茶の部類だね。今年のかい、ジェンマ」
「いえ、去年のです。今年のなんて手に入るわけないじゃありませんか。まったく、大事にいただこうと思って隠してたのに。あっ、品切れのふりをすりゃよかった。うそがつけない正直者ですから損ばかりしていますのよ」
いや、この人は絶対に嘘が得意だ。
「あっさりとしている、というのはそうかも。でも単に軽いだけじゃないし、なんて言うのか……」
抽出が浅いわけではなさそうだ。宮廷御用達の茶が華やかならば、こちらは静かに深く存在感を主張する感じである。
「あのう、これは紅茶でしょうか。わたしの知っているものとはだいぶ違うように感じるんですけれど」
皇帝は身を乗り出した。
「ほう、じつによい質問だ。きみは紅茶の定義を知っているかね」
「いいえ。不勉強で」
「だったらいま学ぶとよい。無知は知なり、すなわち疑問に思ったときが学習のはじまりだ。いいかね、茶の樹はとても歴史が古い。太陽暦よりはるか以前に喫茶の文化はすでにあった。茶樹は毒消しにも使われたと言われている。茶はもともと嗜好品ではなく、薬だったのだね。茶樹には多くの種類があると誤解されがちだが、じつはひとつの植物だ。違うのは加工のしかた。これは大きく分けて六つある。緑茶、白茶、黄茶、青茶、黒茶、そして紅茶」
「赤月では緑茶もよく飲まれていますね」
「うむ。緑茶は、発酵をまったくしないお茶だね。茶は摘んだあとしおらせて酸化発酵させ、適度な頃合いで熱を加えて発酵を止め、茶の出をよくするために揉む。これが基本的な行程だが、どの茶に区分されるかは発酵の度合いによるところがもっとも大きい。緑茶は不発酵、白茶は弱発酵、黄茶は後発酵、青茶は半発酵、黒茶は少々特殊で、不発酵の緑茶を高温多湿のところに放置し、麹黴をつけて発酵させる。そして紅茶は全発酵茶だ。ややこしいが、どうかね、イメージがつかめるかね」
「わかります。発酵には興味があります」
「よろしい。なかなか聡明な生徒だな、きみは。さて、しからば紅茶とはどういうものであるか。茶葉をしおらせて発酵させ、しっかりともんで、裁断する。そこからもさらに発酵を続けると、やがて茶葉の色が紅色に変わる。最後まで発酵を止めず、乾燥させる。その行程が、紅茶と呼ぶものの基本的な定義となる」
発酵の話はグレミオに振ったら乗ってきそうだ。料理は台所でする錬金術と主張しているし、酒場でいつも発酵したジュースを飲んでいる。
「きみが、これは紅茶なのかと疑問に思うのはごく自然なことだ。ファレナで言うところの紅茶とは概念がまったく違うからな。よく発酵させた青茶には紅茶のような色と味わいになるものもあるし、紅茶でもこのように爽やかでやさしい味わいのものもある。発酵の度合いのほかに味わいを左右するのが、茶葉の産地や、摘みかた、そして揉捻のやりかただ」
「じゅうねん?」
「もんでねじると書いて、揉捻。行程のなかで、茶葉を揉む作業をそう言う。出をよくするため、形を整えるため、紅茶に関して言えば茶葉を裁断するのもこれに含まれる。手でやるか、道具を使うかでもかなりちがう」
「大量に生産する場合は、手で作業しても追いつかないでしょうね」
「そのとおり! だから生産国では道具が発達している。それが悪いとは言わん。手作業だからよいものができるとは限らないからね。道具による効率化を進めて、流通に乗せやすくすることは非常に重要だ。しかし、自家消費が目的ならば大がかりな設備はいらないだろう。必要な量だけ作ればよいのだから。そのためにもっとも適しているのは手作業ということになる」
テッドはぬるくなった紅茶を一気に飲み干した。夏なのだから冷たいものと考えがちだが、夏だからこそあたたかいものでこまめに水分をとるといいと聞いたことがある。さすがに炎天下のお茶会は厳しいが、四阿の屋根は太陽をさえぎり、風通しもよくて、ここならば長い時間でも快適に過ごせる。
ジェンマが皇帝のカップにおごそかにおかわりを注ぎ、ポットの残りをぜんぶテッドのカップへ雑に移した。表面張力でなみなみユラユラするのはさすがに持てそうにないので、はしたないと思いつつ口のほうを近づけてすすった。
「一生のお願いはこれっきりですよ。昔とちがって、手にいれるのたいへんなんですから」
まだぐずっているようだ。そういえば彼女にお礼を言ってなかった。
「入手困難な貴重なお茶をいただいて、申し訳ございません。とてもおいしいです。ありがとうございました」
ジェンマはフフッと笑って「どういたしまして」と言った。皇帝を見ると、まるで自分がごちそうしたかのように満足げである。
「ほんとうに、これはよいお茶だ。ジェンマのつてがなければ飲めないから、よけいにそう感じる。さて、下手な講釈のつづきをはじめてよろしいだろうか、アムリットくん」
「はい、お願いします」とテッドは頭を下げた。
「茶の栽培には、気温が高く、昼夜の寒暖差が少なく、雨の多い土地がもっとも適している。ファレナは三拍子で条件がそろっているだろう。わが国は雨に関してはとくに問題ないが、全体的に温度が低めだ。盆地が多いこともあって、一日の寒暖差も非常に激しい。高原野菜や芋類を作るにはぴったりだが、果物などは外から持ち込んだもののほうが味がよいと思わぬか」
「たしかに、バナナやマンゴーは群島のものですね。紅茶も、交易品はほとんど南のもののような気がします」
「そうだね。交易の発達により赤月帝国は急速に豊かになった。アーメスやゼアラントの農産物が庶民の台所に届くのも、そう先のことではないと思うよ」
アーメス新王国にゼアラント王国、さらに南にはナガール教主国。それらの遠い国々をテッドが訪ねることは叶わなかったけれど、地図はしっかりと把握している。どんな書物よりも地図を見るのが好きだった。なのに、肝心な故郷の場所をもう思い出せない。
「気温が低いと、生育に影響するのはもちろんだが、収穫できる時期が極端に狭まってしまうのがいちばんの問題だ。安定した出荷が見込めなくなるのだよ。この紅茶が栽培されたのも、赤月と気候がそう大差ない地域でね。ファレナには新茶、夏茶、秋冬茶とさまざまな季節の味わいがある。だが、これに関しては初夏に摘む一度きり。ジェンマ、茶葉は持ってきてくれたかね」
老女はエプロンのポケットからおもむろに何かを取り出して、皇帝に手渡した。丸くて平べったい、手のひらに収まるほど小さい缶だ。よく見れば馬油の缶の使い回しである。
「これが茶葉だ。だいぶ違うだろう」
「ほんとだ。形が残っていますね」
それは摘んだ茶葉が細くよじれたような形状をしていて、いつも目にする粉のように裁断された茶葉とはあきらかに異なっていた。鼻を近づけてみたが、さほど強くは香らない。
「花びらのように白く見えるのが、芯芽の部分だ。芯芽は若いから発酵しづらく、このように白く残るのだ。これが入ることによって、淡く、爽やかな味わいの紅茶になる。どんな紅茶でも、芯芽の多く混ざったもののほうが高級とされて、芯芽だけとなると値がとんでもなくつり上がる。魅惑の黄金片。これで財を成した者もおれば、没落した貴族もいる。芽とともに葉を何枚か摘んで入れると、ぐんと濃厚になる。この紅茶は一芯二葉。摘み方としてはまあよくあるほうだな。ペコーという等級だ」
「濃厚という感じはまったく。爽やかですし」
「新芽のうちに手で摘むことと、裁断しないことで、雑味が出ないようにしているのだ。この缶に入っているくらいの量の茶葉を熱湯で蒸らすと、こうなる」
皇帝はポットの蓋を開けて見せた。なんともいえないよい香りがふわりと鼻をくすぐった。
茶葉はふっくらと膨らみ、ポットの半分程まで盛り上がっていた。葉っぱの形がそのまま残っている。テッドは指でつまんで、手のひらに広げてみた。一芯二葉。皇帝の言ったとおりだ。葉の一枚一枚は思っていたよりも大きい。
「季節ごとに収穫して、特徴を生かした作り方で売ると、無駄がなくていい。ところがここは、新芽を摘んだあとに伸びてくる芽は刈り取って、畑にすき込んで肥やしにしてしまうのだ。なんとも贅沢というか、もったいない。そりゃ若い子のほうがうまいに決まっておろうが、売り物にしないからできることよのう。裁断しないのも、面倒だからであろう。のう、ジェンマ。ところで何点くらいかね」
ジェンマはヘッと笑い、腕組みをして椅子にふんぞり返った。ますますあるまじろんそっくりだ。そろそろ失敗の壺を落としていなくなるか?
「そうですわねえ。よくお勉強されたようですし、八十点をさしあげましょうか」
「おお、はじめての大台だ! 免許皆伝も近いのう」
「はあ? ご冗談を。初級クラスでなにをおっしゃいますか。皇帝を退職なされて茶の売人をなさりたいんでしょう。だったら中級上級特級もお勉強なさってくださいまし」
テッドはきょとんとして二人を見比べた。
「ジェンマ先生は厳しいでござるな」
「あたりまえです。こう見えてもこの道のプロです」
「ところでこの茶を裁断しないのは、面倒だからかね。それとも抽出を遅らせるため?」
「面倒だからです。きっぱり」
「ふむ。やはり」と皇帝はうなずいた。なんだか講師が交代してしまっている。なるほど、ジェンマが黙って聞いていたのは採点のためだったのか。
「あのですね、だからここはそもそも商売でお茶を作ってないって申しあげましたでしょう。本業はブタ飼いですよ。雑木林でほったらかしているよりは税金が安いから茶の木を植えているだけですし、いっぺん収穫したら手入れなどもまったくしやしません。だからたまに茶じゃない葉っぱが混じっていたりしますけどね、厚意で譲ってくれるんだからそこぁ突っ込んじゃだめです。こまかく切る? 誰がそんなしちめんどうくさいことしますか。っていうかティーカップで飲んだこともない人たちにどんなおしゃれ茶を期待するってんです。リボンでもかけますか?」
テッドは思わずぷっとふきだした。
「あははは。豚さん飼うついで茶ですか。いいなあ、なんだか」
ジェンマはニッと笑った。「だろ? いろいろと適当なんだけど、そこがいいんだよね。これはね、あたしが特別に仕入れてくるんだよ。都市同盟から」
予想外のせりふにテッドは目をむき、ぴたりと凍りついた。都市同盟だって?
「都市同盟から?」
「そうよ。都市同盟から」
隣国であるジョウストン都市同盟は赤月帝国と反目しあっている。いつの頃からか小さな衝突を繰り返すようになった両国は、友好的とは呼べないにしろ国交だけはかろうじて維持してきた。それがカレッカの虐殺事件を機にほころび、赤月帝国が政府間の窓口となる関係機関を閉鎖して以降は断絶状態となっている。都市同盟も虐殺の事実を断固として否定したものだから溝は深まる一方で、交易にも支障をきたしている。国境近隣の町や村に土地を持つ地権者は特別な通行許可証が与えられるが、交易商の審査はたいへん厳しいと聞く。
「ジェンマさんは交易もやられているんですか。ええと、さっきプロとおっしゃってましたけど、お茶の交易?」
「はあん、お城勤めの副業に交易ねえ。うん、うん、楽しそうだねえ。っと、そんなわけあるかい。あたしはお茶が好きでさ、念願かなってグレッグミンスターの街なかでちっちゃな茶屋を開いたんだよ。先代の皇帝だったころだよ。当時、専門店はめずらしかったからけっこう繁盛してたんだけど、手伝わしてた友達が病気でぽっくり死んじまってね。相棒もいないのに続ける気がおきなくって、店は閉めたよ。で、出戻りでまた女中をやってんだ。その店で、常連だけに配っていた秘蔵の茶が、これ。あたしはバナーの村のもんでさ、ありがたーい通行証を持ってんのよ。あれはいいね、身分証にもなるし。とは言っても、バナーにはご先祖さんから受け継いだまっさらな土地があるだけで、暮らしたわけじゃないんだ。入り江の奥にある小さな船着き場から沢にそってあがっていく山道のあたりだよ、わかるかい」
「あっ、はい。なんとなく」
肝が冷えたが、テッドは平静を装った。
バナーの村も都市同盟の領土にある。谷間の国境に設けられた関所からバナー街道を往くと最初に出会う小さな集落だ。そこから船に乗り川を遡ると、ラダトという大きな街に行き着く。
山を切り開いたバナー街道はひどく荒廃した廃道であり、魔物もしばしば出没する。熟練の交易商人ですらけして単独では行動しないと聞く。通行証があってもジェンマのような老いた女性には宝の持ち腐れであるように思うのだが、そんな紙切れ一枚で危険な道をどうやって行き来するのだろうか。
テッドが怪訝な表情なので心を読んだか、
「バナー街道も、閉鎖される前は乗り合い馬車が盛んと走っていたのよ。少し高くなるけど辻馬車なんてもんもあったしね。日雇い用心棒が街道沿いで客引きしててね。なつかしいわ。あんたがこっちに来たのは最近かい」
「そう、ですね。十三になって奉公に出されたときにはじめて国境を越えて。ひとりじゃなく十人くらいで、それから世話人さんと、大きな幌馬車に乗せられてきました」
「うん、うん、遠いところをよく来たね。もうなかなか帰られないよねえ。同郷のよしみで仲よくしましょ」
ジェンマは身を乗り出して、テッドの背中をばしんと叩いた。つんのめってテーブルに当たり、食器がガシャンと鳴った。
「あのですね、バルバロッサさま」ジェンマは皇帝のほうを向いて眉間にしわを寄せた。また文句を言うつもりらしい。「いまは養豚場の息子さんがこっちへいらっしゃるおりに手土産で持って寄ってくださるんですけれど、いつもいつもじゃ申し訳なさすぎて。前みたいに気軽にたずねていくこともできないですし、なんとかなりませんかねえ。このままではほんとうに、お、い、し、いお茶が飲めなくなるわ。残念ですわ。悲しくて一気に老けそうですわ。老けて足腰が立たなくなったらバルバロッサさまにお茶やお帽子をお運びすることもかないませんわ」
なるほど。工作員はこうやってターゲットを脅迫するのか。勉強になる。
「待て、まて。都市同盟とはいずれ対話の機会を得て、国交正常化に向けた準備を進めたいと申しておろう。また以前のように、こちらの混乱に乗じて侵攻してこられたらたまったものではない。そのためには叛乱軍の制圧こそが、いま為すべき課題なのだ。ものごとには順番というものがある。そうではないかね」
ジェンマはフンと鼻を鳴らし、口元を醜くゆがめて「ようやくお出ましですか。今日はまたずいぶんのんびりと引きこもってらしたのね」と言った。
背筋がぞくりとした。老女からだしぬけに笑みが抜け落ちたのである。虫けらを見るような目つきだ。まるで親の仇がふいに目の前に現れたかのように。
かいま見えたものは、あるじへの畏怖とはほど遠い。憎しみと蔑みの感情だ。今の今までどこにそれを封印してきたのだと驚嘆するほどの落差であった。
険はすっとかき消えた。にっこりとして「ふふっ」と言う。しかし気のせいなどではなかった。老女は決定的な捨て台詞を放った。
「まるでどなたかがお書きになられた脚本を、舞台上で読まされているようですわ。それにしても下手な脚本。バルバロッサさまは大根役者ですのに、よくもまあこんなのに配役なさったこと。くわばら、くわばら。おっと、いけない。少しのんびりしすぎた。では、お昼のしたくがございますので」
ジェンマはよっこいせとはずみをつけて立ち上がった。
「あたしはこれで。どうぞお二方はごゆっくり。ごきげんよう」
盆とマイカップを手に、足早にジェンマは去って行った。失敗の壺どころか、鑑定のしようもないとんでもない土産を彼女は落としていったようだ。
誰かが書いた脚本。
ウィンディ。
テッドが感じることのできない異変を、乳母であったジェンマが見抜いたということか。それにしてもあの激烈な感情はどういうわけだ。まるで、そこにいない魔女に語りかけるようだった。
「アムリットくん、少し散歩をしないかね。きみに薔薇を見せたいのだが」
皇帝は何事もなかったかのように立ち上がった。テーブルの上は茶器が乱雑に置かれたままで、少し片づけようとテッドが手をのばすと、「そのままでよい」と断られた。
皇帝が先に立ち、テッドはそのあとについた。二羽の紋白蝶がからみあうように飛んでいる。下の中庭でかけ声があがった。出陣の行進だろう。
「だいじょうぶでしょうか」不安になってテッドは言った。
「うん? なにがだね」
「ジェンマさん……いえ、なんでもないです」
ウィンディの正体も、支配の紋章のことも知っているような口ぶりだったので。そう言いかけたら舌がこわばった。
空中庭園のもっとも高い位置にあるテラスに壮大な薔薇のアーチがあった。この美しい門より先は、皇帝のもっともお気に入りの場所だ。さすがにテッドもここまで来たことはない。
高い櫓に見張りの近衛兵が立っているのが見えた。彼はバルバロッサに気づいても敬礼をしなかった。プライベートな場所だから空気になるように命令されているのであろう。ここは皇帝の庭という独立国だ。外界とはやり方が違う。
薔薇のアーチはすべて伝統的な赤色だったが、中に足を踏み入れると色とりどりの薔薇が咲きみだれていた。少し花期を過ぎているせいか、しおれているものもある。摘み取ったりはせず自然にまかせているのだろう。咲いた花は必ず枯れる。どんな姿になっても最期まで美しい。そのような思惟のもとで。
皇帝は歩きながら「驚かせてすまなかった」と言った。
「どうか気に病まないでくれるとありがたい。ジェンマならだいじょうぶだ。いまごろはもうけろりとしている。鼻歌でも歌っているだろう」
「あ、はい」
薔薇をひとつひとつ確かめながら、ゆっくりと皇帝は歩を進めた。テッドも薔薇に集中したかったが、気が散ってうまくいかない。
「……わたしは前もジェンマに愛想を尽かされたことがあってね」
バルバロッサは言葉を慎重に句切りながら、過去をたぐり寄せるように話しはじめた。「あれなりに悩み、選んで決めたことだが、いまもそれがしこりとなっているのであろう。人の迷いは、時では解決できぬな。ゲイル・ルーグナーに情報を漏らす役をあれが引き受けたのは、この国をほんとうによくしたいと考えた末のこと。わたしも至らぬ人間であったから、しかたない。あれが過ちを犯したのではない。それだけは、誰がなんと言おうと真実である」
「ジェンマさん、継承戦争のときはゲイルさまの側におられたということですか」
「そうだ。よどんで停滞したこの帝国にゲイルが風穴を開けてくれるはずだった。しかし叔父の天下は長く続かなかった。攻め込まれて窮地に陥ったあの男は、最期を覚悟してこの奥に籠城した。可哀想に、ジェンマはそこに入れてもらえなかった。行くところを失ったあれはここから城壁を乗り越え、飛び降りて死のうとした。わたしは寸前でそれを止めた。やあ、なじられたよ。どうして死なせてくれないのか、とね。そんなことができるわけがないだろう。母親のような方に」
そうかもしれない。ルーグナーの妻たちは慣例に従って育児に深く関わらない。皇子を育てるのは乳母や教師、それから皇帝をとりまくすべての人々。先代は妾をとらず、妃は早くに没したと聞いている。
「……なんという切なさだろう。一途で、高潔な魂の持ち主よ。わたしの持てる言葉は陳腐であったが、それでも言うよりほかなかった。わたしはあなたを必要としている。あなたはあなたの目的のために、わたしを利用してくれたらいい。裏切り者という負い目をいだきながら仇に仕えるのは屈辱だろう。しかし、覚えていてほしい。あなたはいつでもわたしを殺すことができる。だから命を粗末にしてはいけない。それでも死にたいとおっしゃるのなら、わたしを道連れにして死になさい」
まるで戯曲のような物語だ。しかし理解できる気がした。
ジェンマがいまだ捨てきれぬ闇がある。その底には憎しみや蔑みの炎が消火されずくすぶっている。それから、バルバロッサに対する強い信頼もそこに。彼女が死の淵をのぞきこんだ人間であるならば、そこから連れ戻したバルバロッサを恨みこそすれ、殺すことはないだろう。
なにかよっぽどの事情でもなければ。
どこからか現れた女魔術師に鼻毛を読まれて皇帝が政治を省みなくなったとうわさされることが、ジェンマには耐えられないはず。女であることを堂々と武器にするウィンディを軽蔑しているかもしれない。よもや支配の紋章に思い至るということはないだろうが、それに近いところまで追究しているのなら、目障りだと排除される危険性がある。どこかで足をすくってやろうといろいろ調べるうちにいつか気づかれるだろう。そうなる前にジェンマを味方につけないと。テッドにとっても、正気を保っている人間は願ったりである。
権力に眼を向けがちな魔女が老婆をマークしているとは到底思えない。問題は、ジェンマにどうやって現状を訴えるかだ。テッドに真実を語る権限はない。
皇帝もウィンディに身体を操られ、精神だけを総動員してヒントを発信している可能性がある。しかしあくまでも可能性の段階だ。仮定だけで味方と断定するわけにはいかない。あるいはウィンディ以上の食わせ者かもしれないから、ここは逸る心をおさえて慎重に接近すべき。
バルバロッサはなぜ、知り合ったばかりのテッドにジェンマの過去を語るのか。彼から見たらテッドなど、寵愛する女の付き人にすぎないはず。テッドがアムリット・ベラスケスの名を騙る、不正に入り込んだ異分子と知ってのことか。
わからない。不確定な要素があまりにも多すぎる。
まるで腹のさぐり合いだ。せっかく学んだ紅茶の知識もぽろぽろとこぼれていく。いったん離脱して、考えをまとめなければ。
「……は、どうかね」
「はい?」
声が裏返った。皇帝にまったく注意を向けていなかった。
「わたしの薔薇はどうかね。最盛期は過ぎているが、ほら、返り咲きが見頃だ。薔薇は可憐だが、見かけによらず打たれ強い花でね。真冬でなければ、まるで競うかのように花開く。温室に閉じこめないほうが、彼女たちは生き生きとしているよ」
「はい、きれいです。みごとですね。オッペンハイマー将軍のお庭も広くて豪華絢爛で、そこがぜんぶみっちりバラだらけで感動したけど、こちらは気品があって……」
「ほう。花将軍の薔薇園を間近で見たことがあるのか、きみは」
まずい。テッドは慌てた。うっかり口をすべらせてしまった。マクドール親子のお供で園遊会に行ったことは内緒にしておかなければ。
「あっ、か、壁の外から!」
言ってから四つん這いになりたいくらい後悔したが、後の祭りである。壁をすかして見えるはずがないだろう。
「なるほど、なるほど」
胸をなで下ろした。なにがどうなるほどなのかはともかく、蒸し返される前に薔薇を褒めなくてはなるまい。
「わ、わたしはこのオレンジの薔薇が好きです。オレンジ色ってむかしから好きで、赤や白も薔薇らしくていいけど、オレンジって元気で、がんばろうって気にさせてくれるから。青も好きなんですけど、青い薔薇ってあんまりないですよね」
(なにを言ってるんだ、おれは)
度重なる己の馬鹿さ加減にじだんだを踏みたくなるが、オレンジ色の薔薇を美しいと思ったのはほんとうだ。それは見事な大輪で、太陽をふんだんに浴びて実った夏蜜柑を思わせた。
「青い薔薇への挑戦は、終わりのない戦いのようなものだ。純粋な青は、いまだ遠い遠い高みにある。天上の青を探し求める旅の、なんと険しく果てしない道のりよ。アムリットくん、人はそこへたどり着けると思うか?」
問われても、テッドには答えようがない。
「わかりません。わたしは薔薇を見て、きれいだ、かわいいと感じるだけです。青い薔薇があったら見てみたいと思うだけです。なぜならば、自分はまだ見たことがないので」
皇帝は深くうなずいた。
「きみは正直だ。よい答えが聞けたよ。ありがとう」
「あの、おれ……すみません」
しょんぼりと肩を落とす。巧みな禅問答を期待していたのなら、構う相手が悪かった。口下手というほどではないが話の面白くないことは自覚しているし、薔薇よりもこの先のことを考えるので頭がいっぱいで、とっくのとうに飽和状態だ。しかし皇帝は気を害した様子もなく、柔和な目をテッドに向けた。
「薔薇は、どれをとっても薔薇である。人がすべて人であるように、どのような色をもって生まれても、薔薇は薔薇だ。色はたんなる個性に過ぎぬ。持たぬものを、どのように探して持とうとするのか。持てる者から奪いとるか。しかし、持ってどうしようと言うのか。探すことが目的となってはいないか。はじめから世にないものを躍起になって探そうとはしていないか――青い薔薇を思い描きながら、わたしはふと、そんなことを考える。人は欲望を抱くことによって道に迷う。足もとに咲く薔薇を愛でることも忘れて。人の時は永遠ではないのに。求めるのみの孤独な旅路。いったい、どこへ彷徨い往くというのであろう……」
バルバロッサの言葉は詩的で、流れるような語りは心地よい。しかし意味をかみしめたとたん、ぶるりと寒気が走った。
ウィンディのことを例えているのではないか。復讐のためにソウルイーターを執拗につけ狙うウィンディ。暴力によって本来の持ち主から奪おうとする女。絶えることなき欲望、見失い荒れ果てた道、けして手に入らない青、瘴気が混ざりあってどす黒くなった花冠――ああ、そうだ。その薔薇はウィンディだ。
復讐はウィンディの悲願であり、欲望はそこから生まれる。ハルモニアへの復讐を果たすためにソウルイーターが必要なのだと彼女は言う。しかしウィンディは門の紋章を宿す者であり、ソウルイーターは彼女に与えられた運命ではない。いつ、どこでその方法が絶対であると思いこんだのか。
地の果てまでも探し歩き、追いつめては逃げられ、つかみそこねてはまた追いかけ。飽きることを知らぬその執念。最後におまえはどこへ向かうつもりだと、テッドは問いかける。
彼女自身もきっとそのゆがみを自覚している。わかっていて、認めようとしない。ハルモニアはあまりにも強大であり、真の紋章をふたつ束ねたくらいでは太刀打ちできるはずもない。しかしそこで諦めてしまったら、それまでの自分をぜんぶ否定することになる。
ハルモニア神聖国のヒクサク神官長は円の紋章を持つ。円は世界の完成を表し、完成したものは滅びることしかできない。だから滅びを司る死神だけがそれを破壊できるとウィンディは考えている。そうかもしれないし、違うかもしれない。そうだとしても、ウィンディが死神と契約することは不可能である。
(ならば、ハルモニアを滅ぼすのはソウルイーターの運命なのか?)
頭がくらりとした。テッドはハルモニアに恨みはないし、そんなことを期待して親友に紋章を託したのではない。しかし、円の紋章に導かれている予感はずっとあった。正反対の性質をもつもの同士は互いに惹かれあうという。グレッグミンスターでウィンディと出会わなければ、テッドは国境を越えて北へ向かうつもりだった。
薔薇にむせかえり、意識が遠のきそうになる。解離の前触れだ。
(くそっ、こんなときに)
その時、皇帝が足を止めた。テッドはハッと我に返って、彼の指さすほうを見た。
「彼女がきみに紹介したかった薔薇だ。名前は、エンプレス・クラウディア」
上品なピンク色をした、小ぶりの薔薇が咲いていた。原種の可憐さとモダンローズの気品を兼ね備えた、一輪咲きの花だ。
なんという美しい薔薇だろう。たくさんの薔薇の中にあっても際立つ。特別派手ではないのに、不思議と目を引く。ずっとここで好きな人を待っていたかのように、くるりと風に揺れた。
「婚礼の記念に植樹をしたのだ」と皇帝は言った。
皇后クラウディアの名を冠した特別な薔薇。愛妻家であった皇帝が形見の薔薇に早世した妻の面影をかさねる姿は、とてもはかなく寂しげに見えた。彼がこの庭をこよなく愛するのは、薔薇になったクラウディアを守るためなのだ。ひとりの人間を生涯愛する気持ちはテッドにはわからないけれど、未練がましいと笑い飛ばす気にもなれない。うらやましいとさえ思う。
「クラウディアさまは、お綺麗な方であったとみなさんおっしゃいます」
「ありがとう。彼女はとても気さくで、愛くるしく、聡明な女性であった。勝ち気なところもあったが、物臭なだんなの尻を叩くくらいの女房でないと後宮ではやっていかれんからな。ルーグナーの家に嫁ぐと決めただけでも、相当な度胸だ。どんなに反対されても、信念を曲げず、わたしと終生添いとげることを選んだ」
「すてきな方です。お目にかかりたかったなあ。それにしても、陛下が物臭? ご冗談を。信じませんよ」
「ははは。このわたしが謙遜を言うとでも? こう見えてもあんがいずぼらで、だらしない男なのだがね。ジェンマには髪と髭をこざっぱりしろと口うるさくせっつかれておる」
テッドはなんとなく自分の髪をいじくり回した。そういえば少し伸びてきたかもしれない。散髪もひげ剃りも爪切りもしたことがなくて、いまだに慣れない。皇帝の場合はそれがトレードマークなのでよいとは思うけれど、自分はちゃんと姿見でたしかめて反省しないと。
さらりと白南風が吹く。視界の端で、ピンク色の花に混じって淡い紫色が揺れた。
「こちらはクラウディアさまの色違いに見えますね」
「よくわかったね。しかし、別々に植えたわけではないのだよ。ピンクのクラウディアから変異した株だと思うのだが、どうにも不思議でしょうがない。土壌の影響か、自然交配なのか。まるで紫陽花のように色が変わった。庭師も頭をかしげておった」
「もとあるピンクに、青のインクをすこしだけたらしたような感じですか」
「うむ。育種家が青い薔薇に挑み、これまでにいくつかブルーの名のついた品種が誕生した。それらはみな、純粋な青ではなく、モーヴと呼ばれる紫色なのだ。これは自然界の生み出したモーヴなのかもしれん。あるいは、クラウディアからの言づてやも……」
皇帝はそこで黙りこんだ。彼が言わんとしたことを、テッドも察することができた。
モーヴは高貴な色であり、アリニンパープルという染料でそめた絹を貴族は好んで使う。ウィンディも艶やかなモーヴのドレスをまとい、その色彩は宮廷で「エンチャントレス・パープル」と謳われている。
亡き妻クラウディアへの想いと、出逢ってしまったウィンディへの想い。ふらふらと揺れる恋心。
奇蹟を成しとげた皇帝も、素顔をさらせばひとりの男である。
ピンクか、モーヴか。時間を止めるか、進めるか。男はぬかるみに足をとられ、流心に誘いこまれそうになりながら踏みとどまる。その先に待ち伏せる底なしの淵。その戦慄すべき闇のおぞましさをテッドは知っている。あぶない。そう、いまここで叫ぶことができたなら。
モーヴを選ぶな。垂らされた青いインクは毒だ。その一滴であなたを殺す。
テッドは小さく呻き、苦しげに胸を押さえた。その衝動を振り切れば、彼は一瞬で血にまみれ、魂を抉られ、もの言わぬ人形となるだろう。
叫びたい。叫べない。ウィンディは卑劣な利己主義者だ。その心をとらえたのは愛ではない。呪術だ。
月は丸く、朧ろ雲にぼんやりと輪郭をにじませている。読みかけの本を消化してしまおうと思いつき、ろうそくを灯した。燭台を手にして隣の部屋に移動する。寝室にしている書斎は本が多すぎ、窓を開けることができないからだ。隣は研究室として使われていて部屋も広く、三連の大窓からバルコニーに出られる。
窓を開け放ったらなま暖かい風が入ってきた。虫の侵入を許してしまうので些かうっとうしいが、蒸し暑さを天秤にかける気はない。虫除けになるというハーブを束ねて窓枠に吊してみたものの、やはり気休め程度である。耳元でプンという蚊の羽ばたきが聞こえる。ファサードの装飾はでこぼこ部分に雨水がたまり、そこが産卵場所になるのだろう。ボウフラが銅を嫌うと聞いたので、大きな水たまりにはポッチ硬貨を何枚か沈めてみた。効果のほどは期待しない。
いよいよ寝床を移さなければいけないだろうか。閉めきった書斎で熱帯夜を耐えられる気がしない。研究室はウィンディが使っているのでダメと言うかもしれないが、こっちは命がかかっている。自分だけ開放的な寝室で天蓋付きのベッドにゆったりなんてずるい。
寝汗がびっしょりで気持ちが悪い。夜は身体を横たえて休むものと努力だけはするものの、いつも失敗してしまう。眠りが浅いのは暑さのせいだけではない。眠っているあいだもテッドは気を抜くことがない。むしろ睡眠時のほうが危険がいっぱいなので自然と気持ちも張りつめる。無防備になるなというのは眠るなということと同じだ。
気を抜くと、それは存在を主張しはじめる。ウィンディの呪いか? それもある。しかしそれだけではない。虎視眈々とこちらを狙う異質の眼。
とてつもなく恐ろしいなにかが自分の中で異様に膨れあがる。身体じゅうの穴という穴から、皮膚から、精神からどろどろと噴き出す気も狂わんばかりのおぞましい感覚――神話の世界より生まれ出でた相棒がその右手に棲まっていたとき、幾度も経験したあの体感だ。
身体の自由を奪われてただでさえ情緒不安定になっているときに、休ませてもくれないとは血も涙もないやつである。おまえとは縁を切ったはずだ。構ってほしいのか。なにをいまさら。
なあ、ソウルイーター。
次はなにをしでかそうというのだ? こちらは三百年も面倒を見てやったのだから、経験値を甘く見てもらっては困る。離れても、おまえの悪だくみを察知するくらいの力はじゅうぶんある。言うほどたやすく縁は切れやしない。
(わかってるよ。おまえが望んでいることくらい)
ソウルイーターは真の紋章のひとつだ。真の紋章は世界に27ある。この数字は子供ですら知っている。しかし、27という数がどこからでてきたのかを正確に答えられる者はいない。この世界は神話と歴史のあいだに明確な境界がないのである。
テッドは相棒のほかにもうひとつ、ふたつに分かたれていない完全な形の真の紋章を見たことがある。時代は群島諸国連合とクールーク皇国の戦争が激化したころ、およそ百五十年あまり昔である。
その紋章は、相棒と似たにおいがした。呪いの紋章の同類だった。争いを好み、行く先々で戦乱を巻き起こす。ごく短期間で所有者を渡り歩き、用済みとなった宿主をその場で喰らう。たちの悪さではソウルイーターをはるかにしのいだ。戦争の火種はこいつだとテッドはたちどころに理解した。ただならぬ存在に戦慄するしかなかった。場当たり的で飽きっぽく、冷酷。巻き込まれてはいけない、と身構えた。真の紋章の相乗効果でさらに悪いことになったら、追っ手に気づかれてしまう。すぐに離脱しなければ。
頭の中では警鐘が鳴りひびいていた。なのになぜ立ち去らなかったのか。結末を目撃したいという欲望にあらがえなかったのは、それが己の決定された未来でもあるという予感からだ。あれが人生の転機であったのは、あくまでも後付け。二度とあのような無謀なまねはできないだろうし、したくない。
呪いの紋章を承け継いだ男はテッドに言った。ぼくは悪魔と契約をしてしまったようだ。三つの願いを叶えるかわりに、魂をよこせということらしい。割に合わない交換条件だし、こっちから望んだわけじゃない。けれどもう逃げられない。罰の紋章は、裏切りをけして許さない。
力を解放すると反動で意識を保っていられなくなる。ぼくはどこかちがう世界を彷徨っている。暗いトンネルがどこまでも続く。後ろを振り返ることはできない。立ち止まるのは恐怖でしかない。だから、前に進むだけだ。闇が渦をまいている。目の前に黒い影が現れる。知らない顔だけれど、前の所有者だと感じる。子供の姿だったときもあるよ。なにかを語りかけてくるけれど、意味は通じない。わかるのは『救ってくれ』という切なる願いだけだ。そのときぼくは剣を手にしている。その剣を振り下ろす。手応えはない。まったくない。けれど、きっと、死んだ。ううん、消滅した、のほうが正しい。ぼくもいずれこうなる運命だ。そう思ったとき、現実に引き戻される。
ごめんね、テッド。夢の話だからそんな深刻な顔をしないでよ。
運命はたぶん、定められている。どんなにあがいても逃れられないのなら、ぼくはそれを受け入れて、そのかわり、残された時間をちゃんと生きようと思うんだ――
深い海の底に沈んでいった紋章のあるじに、届かないと知りながらも問いかける。おまえは紋章との縁をどう思う。ともに同じ闇の眷属にして、呪いの紋章と呼ばれるものに選ばれた者同士、互いの考えを知りたいと思わないか。
生きているうちにきちんと会話をしておけばよかったのだが、あいにく二人には時間がなかった。永遠の別れになると納得するだけして、挨拶もしそこねた。ふたつの運命は交差しただけ。人の世ではよくあることだし、悠久の時から見れば一瞬よりもはるかに短い交わりだ。
罰の紋章の不可解な挙動は、縁という概念でしか説明のつけようがない。世界と紋章。紋章と紋章。紋章と宿主。宿主と宿主。つながりとはすなわち縁であり、縁はいずれ精算されるもの。テッドもそうだ。ソウルイーターとの縁をいまだに引きずっているのは、精算が済んでいないからである。
『罰の紋章は、裏切りをけして許さない』
ソウルイーターも、裏切りをけして許さない。
紋章の求める対価とは、死であろうか。それとも魂。
救いを求める縁故者たちの列にテッドも加わって、ティルの夢に現れようか。みじめったらしく殺してくれと縋ろうか。消滅するのはとても魅力的だ。そういう運命なら疲弊した心も少しは安らぐ。
「だめだ。ティルが苦しむ。絶対にだめだ」
テッドはいらいらと頭を掻いて、はかどらない作業を終えた。文字を追うだけでは読書として成り立たない。黙読した数ページ分もまったく記憶されていない。
水差しからコップに注ぎ、ごくごくと飲み干した。生ぬるいし、身体に取り込むそばから汗となって出ていくのでちっとも渇きが癒えない。嵐が来る前なのか、やけに蒸し暑い。過剰な湿気でうんざりする。
少しは涼しいかとバルコニーに出てみた。突っ掛けに履き替え、手すりにもたれかかった。中央広場のあたりが瓦斯灯に照らされて舞台のように浮かびあがっている。人の動きはなく、精巧に作られた立体模型のようだ。周囲の建物はぽつぽつと明かりがついているけれど、下に住んでいたころよりはだいぶ控えめな感じがした。
街では夜間の外出が制限されて、居住地の移動も厳しくなっているらしい。あれも制限これも制限だと市民も気が滅入るだろう。このまま自粛ムードが続けば九月の豊穣祭は中止になるかもしれない。去年はティルとパレードを観てからお小遣いが尽きるまで屋台を荒らして回ったが、すごく遠い昔のことのようだ。
ときおり強く吹く風に雨の匂いが混じる。近くで降りはじめたのだろうか。空は先刻よりも重く垂れこめ、月をすっかり覆い隠してしまった。雲脚も速い。
はるか遠くの地平線あたりににじんで見える不ぞろいな光は、三日前に自然発火した山火事の炎だ。民家のある区域からは遠く離れているので延焼のおそれはないらしい。この雨で完全に消えるだろう。
ローブを羽織らずにバルコニーに長時間いるのは危険だ。夜間でもどこに目があるかわからない。噂にでもなったらテッドの行動も制限されかねない。机に引き返し、深く腰掛けた。ふう、と息を吐く。
胸がどきどきする。火事を見ると、どんなに遠く小さくても身がすくんでしまうのだ。昔から苦手だった。隠された紋章の村を呑みこみすべてを焼き尽くした炎は、心の傷となってテッドを苦しめてきた。長い放浪の旅で、戦の炎も数限りなく目撃した。慣れることなど到底できなかった。
火は恐ろしい。ひとたび燃えあがると、まわりのものを巻き込んで際限なく広がっていく。火に対して人は無力である。大切なものが灰になるのを嘆きながら見ていることしかできない。
温情なしの火あぶりに決まったことを看守が告げにきたとき、あまりの恐怖に総毛立ち、失神しそうになった。方法などいくらでもあろうに、よりによってもっとも受け入れがたい死に方で終わらせなければならないのかと。なにもかもウィンディの画策に決まっていた。魔女がにやにや笑いながら背後にいるような気がして、独房の床に嘔吐した。その日から自殺をはかろうとしたあの時までテッドの精神状態は普通ではなかった。正直なところ、何を考えていたのかよく覚えていない。狂っていたのかもしれない。
身代わりにされて焼かれたアムリット・ベラスケスは、なにも聞かされないまま声を薬で潰され、火刑台に鉄の鎖で拘束されたのだ。絶望的な熱さと痛みに炙られながら、何度も気を失っては覚醒し、叫ぶことすら封じられて死んでいった。絶命するまでの長い長い時間、どれほどつらく、恐ろしかったことか。黒焦げとなった遺骸は埋葬もされず、柱を抱いたまま墓場に放置されて、鳥や獣に喰い荒らされた。死してなお弔われることなく名誉を傷つけられる。それをどうして運のせいになどできようか。
もしも彼の魂がいまだ往くところを見つけられずにさまよっているとしたら、あんな目に遭わせた張本人に復讐をしたいと望むだろうか。おまえは優しすぎたから身代わりにされたんだぞと、嘆き悲しむ彼に地獄の番人が教えてしまったら?
地獄には渇きを癒やす飲み水もないだろう。そこには劫火が絶えないと人は言う。炙られて殺されて、そこからも火に苛まれるのか。想像しただけで気が狂いそうだ。だがそれがアムリット・ベラスケスの現在の居場所なのだ。恨みを捨てられない魂は浄化の道からはずされ、同じ場所でいつまでも苦しみ悶える。そして怨霊と化したが最後、彼が救われることは永遠にない。ソウルイーターでさえも選り好みして、そんな魂は絶対に喰わない。
現世に生きる者の深い祈りが届いて浄化の道に戻ろうとする魂もある。怨霊だったものが恨みを捨てて、守護者として生まれかわることもある。しかし難しい。それは本当に難しい方法だ。望んで叶うものではない。ましてやテッドが祈ったところでどうにもならない。火に油を注ぐだけである。
なまぐさい風が肌をなで、まとわりついた。焼けただれた気道から体液と呪いを吐きつづける少年のおぞましい姿が、頭に浮かんだ。その顔はテッドにそっくりだ。いや、あれは自分だ。
背後を見る。だれもいない。開け放たれた窓のむこうに、嵐を待ちあぐむ夜がひろがっている。
ぞくりとした。汗は流れ落ちているのに、寒気がする。頭も重い。
眠らなければいけない。夜明けまではまだだいぶある。己を制御しづらいと感じるのは、睡眠不足だからだ。焦ったところで事態が好転するわけでもない。今日もまた皇帝の話し相手にさせられるかと思うと憂鬱だが、それも起きてから考えればよいこと。目を瞑っていればすむ日課にいちいちストレスを重ねていったら、身体がいくつあっても足りない。
ろうろくの火が小さなつむじ風に巻き上げられ、生き物のようにうねった。ジリジリという音が耳に届く。
ふわりとただよったかすかな獣臭を感じた瞬間、脳がぐらりと揺れた。
とっさに身体を支えようとした手は机の端からすべり落ち、積んであった羊皮紙をまき散らした。顔のそばにろうそくの熱を感じるが、力が入らず起き上がることができない。なんとか手だけを動かして燭台を遠ざけた。こめかみのあたりががんがんと脈打った。
火葬のにおいが記憶の奥底からよみがえり、胃液がこみあげてきた。テッドは舌打ちし、叱咤した。落ち着け、ばか。これはアザラシの脂だ。いらぬことを連想するんじゃない。
動悸がおさまらない。肌がざわざわと粟立って、四肢の先端部分からじょじょに感覚がなくなってゆく。脊髄に沿ってツンと冷たくなる。痺れだろうか。呼吸をしなければ、と口を開ける。
どこか遠いところから人の声がした。話している内容は聞き取れない。複数の人間が同時にしゃべっているような感じだ。幻聴か、それとも城内で誰かが談笑しているのか。
ぼんやりと耳をそばだてていると、なぜだか懐かしい感じがした。心地よくて、テッドは眠りに落ちていくようにその流れに精神をゆだねた。それは遠い昔の記憶と結びついていった。
雀のさえずり。村の朝は早い。空がしらしらと明るむころ、一日のはじまりはまず井戸で水を汲み、かまどに火をおこすところから。家々の煙突から煙が立ちのぼる。日の出とともに人々は日課にとりかかる。狩りの者は山へ、牛や羊を連れた者は近くの放牧地へ、それ以外の者は畑へ。男も女も子供たちも、分担や力加減は異なるけれど全員で労働をする。日没が近づき、それぞれの仕事を切り上げて人々は村へ帰ってくる。家々に取り囲まれた広場では楽しげな井戸端会議がはじまる。その日焼きあがったパンが配られる。小麦と酵母だけの素朴なパンだ。胡桃が入っている日は当たりである。羊の脂から作られたろうそくの謙虚な明かり。祖父とふたりでとる夕餉。山羊のミルク、塩味のスープ。閉塞した小さな村で、互いを思いやり、助け合いながら質素に暮らす。ここではみんなが家族だ。テッドは生まれ育ったその村が好きだった。
声が少しだけ鮮明になったような気がしたので、重い身体を動かして声のするほうを見た。開け放しの大きな窓が見えるはずなのに、目の前には川があった。それほど幅は広くないが、流れは急だ。岸は木々で遮られることもなく、丈の低い草に覆われている。
人々の姿は向こう岸にあった。男性、女性、牛を牽いた老人。みな簡素な身なりで農作業をしていた。草を刈りながら痩せた土地を掘り起こし、固い石や木の根を手で取り除く。ああ、麦を植えるのだとテッドは思った。主食であるパンの原材料となる小麦や大麦を、村の周囲の荒れ地を耕して植えている。村人は亡くなったら麦畑に土葬される習わしだった。人は死んだら土に還り人を生かすという宗教思想の根源とも呼べる考えかたが村にはあった。
こんなにも近いのに、むこうは気づく様子もない。渡れないだろうかとあたりを探しても、橋や船は見当たらない。
流心よりも向こう側は上流と下流が反転していることに気づいた。流央に見えない間仕切りでもあるかのように、ひどく不自然に対向している。それを現実の光景ではありえないと疑うよりも先に、これでは船があっても渡れないじゃないかと思ってしまった。
人々の背後、少し小高いところに祠が見えた。そのたたずまいに見覚えがあった。生と死を司る紋章を祀っていた祠だ。
では、あの人々は隠された紋章の村の住人なのだろうか。必死に思い出そうとするが記憶はもうおぼろげで、顔まではわからない。しかし、そうだとしたら目の前の光景はほろ苦い幻だ。かの村は三百年も前に滅ぼされてしまったからだ。現存しないものがそこに見えるわけがない。
きっと夢だ。テッドはあきらめてまた目を閉じた。その瞬間に声はかき消えた。ほら見ろ、幻覚だった。うら寂しい気持ちになり、皮肉の笑みを浮かべた。すると閉じた目の奥に強い光を感じた。それはみるみるうちに大きくなって、昼間のようになった。驚いて見た視線の先にさっきの人々はすでにいなかった。草むらの真ん中で、生と死を司る紋章の祠がまばゆく輝いていた。
あっ、と思った。
あの時と同じだ。あの時は祠が輝いて、そこから人が現れたのだ。幼かったテッドはその人の手をとって自宅へと帰った。恐ろしさは感じなかった。悪い人ではないから泊めてあげようと思ったような気もする。
そして、災厄もまたやってきた。
祠が光るのはよくないことの前触れだ。祖父はこの祠を、外の世界との境界だと語っていた。隠された紋章の村は外の世界から隔絶された他界であり、結界によって守られているのだと。村人はここを『根の村』と呼んだ。あとで調べてわかったことだが、根とは死んだ人のことを指すという。それでは隠された紋章の村は死者の住むところだったのか。
幽世でひっそりと暮らす人々に不幸をもたらす危うい光。早くここから離れなければ。逃げろ。どこか遠く、遠くへ。ソウルイーターが外の者に渡ることがあってはならない。なぜならばそれはこの世界に必要なものだからだ。
隠れ里を捨てて、幼いテッドは逃げた。魔女に捕まったら大変なことになる。結界の扉から光のむこうへ行くことはできなかったから、とにかく倒れるまで走ろうと荒れ野を駆けた。方向などわからない。矢筒が肩に食いこんで、かかとも擦りむけた。痛いのと悲しいのとで、ぐちゃぐちゃに泣いた。
まばゆい光が収束し、あたりはすっと暗闇になった。胸の規則的な鼓動だけが妙に現実みをおびる。テッドはすんと鼻を鳴らした。涙が喉におりていく。祠はもう見えないし、川の音もしない。しかし、夢はまだ継続している。この場所も彼は知っていた。百万世界のはざまをさすらう船の中だ。死する者の徘徊する、時の止まったはてしない闇。
無意識のうちに右手をきつく握りしめていた。誓いを破り、他者に渡した紋章がそこにあるわけはない。深い喪失感に安堵のため息が混じる。なんだ? ほっとしているのか、おれは。裏切り者のくせに。
ゆらりゆらりと揺さぶられた。胎児が羊水に浮かんでいるようだ。決定的に違うのは人の血が感じられないことだ。ひんやりと冷たく、慈愛のかけらもない水。船は波間を漂っている。しかし現実の海ではない。異端者が空想する偽物の海だ。
こんな陳腐な揺りかごに、おれは騙されない。右手をこじ開けると、そこがぽっと光った。戻ってきたのか、ソウルイーター。
テッドははっきりと紋章の存在を感じた。ティル・マクドールに継承したあとも、こうして奴とつながっている。目に見える痣としてそこに在るわけではないけれど、呼べば必ず応えてくれる。二度と裏切らないと約束したよな。おれはまだ、おまえを裏切っていないぞ。もちろんこの先も、運命から逃げることはしない。だから最後の精算までつきあえ。いいな、相棒。
喉の奥にたまった涙が塩辛いとほほ笑んだ瞬間、状況はまた一変した。
カーン、カーン、カーン。
かん高い鐘の音がけたたましく鳴り響き、怒号が耳をつんざいた。大勢の人間が走り回っているのがわかった。甲冑をつけているらしく、ガチャガチャと音がする。すぐそばを行き交い、風圧すら感じるのに、手をのばしても触れることができない。視覚は完全に奪われて、闇の深さだけが感じられるすべてだ。
「囚人が脱走したぞ! 各部署に伝えろ。扉を鎖せ。鉄壁の監獄から、外に出すな!」
はっきりと聞こえた。テッドは思わず、自分のことかと身震いした。彼もまた四ヶ月ほど前まで死刑囚として独房につながれていた身であった。そのときに受けた屈辱や恐怖が、死を待つだけの絶望が、眼前のできごとに重なった。
身を縮め、しゃがみこんで頭を抱えた。息を殺す。どうぞ見つかりませんように。
岩のように重たかった身体は少しだけ自由になっていた。耳鳴りや頭痛はかなり弱まってきたものの、まだ残っている。体内の深いところが熱をおびて、不穏に脈打った。
足音が遠ざかったので、そろそろと立ち上がって後ずさりをした。すぐ壁に手が触れた。ざらりとした煉瓦の感触だった。さらに手探りでたどっていくと、鉄格子らしきものがあった。右も左もわからず、いつまでたっても目が暗闇に慣れない。もしかしたら奥に向かっているかもしれないと不安になったが、じっとしているのはさらに難しかった。
移動するあいだも騒ぎは沈静化しなかった。聞こえてくる会話から、そこがソニエール監獄であることを知った。テッドはソニエール監獄に足を踏み入れたことはない。これが現実に起こっていることなのか、それとも過去の光景を見ているのかは判断がつかない。現実のことならばテッドが見つからないのはおかしい。きっとこれは過去の一部分なのだろうと納得しかけたとき、その声はふいにとどろいた。
「だめだグレミオ、ここを開けろ!」
テッドは硬直し、壁に背中をついた。
ばくばくと心臓が鳴った。呼吸ができなくなり、手で喉をつかんだ。
「……ティ、ル、そこにいるのか、ティル」
絞り出した声は届かない。彼はまた名前を呼んだ。何度も、何度も。親友が気づいて走ってくるのではないかと暗闇に目をこらしたが、反応はなかった。むこうの世界からはこちらがわからないのかもしれない。ならば自分から近づいていこうとテッドは足を踏み出した。そこに奈落が待ち構えていようとも、行くしかなかった。
靴の裏に感じる感触は固く、小さな段差が無数にあった。つまずき、転びそうになりながら、声のした方へ歩いた。ティルの声は一度きりだったが、近くにいると信じて歩いた。
むわりと甘い匂いがした。それは先に進むにつれむせかえるほど強くなった。薔薇の芳香であった。
「ティル、返事をしてくれ。おれだ。いるんだろ、ティル!」
右手が異質な感触の壁に触れた。それはビロードのようになめらかで薄く起毛していた。押すとわずかに動いた。
強い衝撃が右手から全身を雷のように駆け抜けた。弾かれるように手を離し、上半身で抱えこんだ。右手は火鉢に突っ込んだように熱くなり、あまりの激痛に漏れ出た声が叫びとなった。
「……っ、あああ!」
テッドは、そのとき起きたことを一瞬で察した。彼は苦悶しながらソウルイーターへの呪詛を口にし、その右手を障壁に叩きつけた。向こう側へ越えられないのならば、その結界をぶっ壊してやる。爆発する怒りと悲しみで、テッドの中で何かがはじけた。動かせると思った扉はしかしびくともせず、次に彼は矛先を己に向けた。
親友にグレミオを殺させた自分を、絶対に許すことはできない。死ね。死んで地獄に堕ちろ。劫火に焼かれて、永遠に叫んでいろ。こんな結末になることを想像もしなかったのか、大馬鹿野郎!
血だらけになった右手とともに頭まで打ちつけようとしたとき、黄金色の光がふいに現れて、テッドを包んだ。
(やめなさい)
その声は耳からではなく、頭の中に直接響いた。静かで、重々しい男性の声だった。その瞬間、金縛りに遭ったかのようにテッドは動きを止めた。
(可哀想に。だがもう、引きずられてはいけない。きみはもう限界だろう。眠りなさい。いま見たものは、ただの悪夢だ。目が覚めたときは忘れている)
「……だれ?」
その問いに答えはなかった。テッドは力を失って崩れ落ち、意識もそこでぷつりと途切れた。
「……さん。アムリットさん。こら、起きろ」
キャンキャン鳴きわめく子犬のような声にのろのろと目を開けると、机のそばに見慣れた顔が立っていた。
「おそようございます。びしょ濡れになっても気づかないでぐーぐー寝てたんですか。アムリットさんってホント呑気ねえ」
「うー、頭が、痛……いたたた、なんだ、手も痛い」
「あたりまえです。これで風邪をひかないほうがどうにかしてるわ」
ウィンディ付きの侍女は雑巾を手に床を拭きはじめた。吹き込んだ雨で周囲はまるで湖面である。絨毯に浮かんだ羊皮紙は文字がにじみ、拾いあげるとむなしく破れて落ちた。
「あーあ。ねえ、叱られるのはわたしじゃなくてもよくって?」
「もちろん」とテッドは右手を振りながら答えた。骨折したところは完全にくっついているが、天気がよくないと古傷が痛むこともよくある。痛みの原因はたぶんそれだろう。
「よかった。じゃ遠慮なく捨てさせていただきますから、あとの責任はとってくださいね。それにしてもすごい風と雷だったわね。薔薇も散ってしまったかしら」
バルコニーの窓はくさびで固定していたので、突風で閉まることはなかったようだ。外気の肌寒さにテッドはぶるりと震えた。上空の大気が冷たい空気の層に入れ替わって、気温が急激に下がったようだ。風は前線が通り過ぎるさいに猛烈に吹き荒れたらしく、散らされた葉っぱが室内に侵入してそこらじゅうにはりついていた。
「雷が鳴ったの?」テッドはこめかみを揉みながら訊いた。
「はあ? あの雷を知らないの。どんだけ深く寝てたのよ、もう。いままでの人生でいっちばん怖かったくらいよ。あちこちにどかんどかん落ちて、お城が揺れたわよ」
「ふーん……」
いままでの人生という条件でささやかに対抗するならば、身を隠す場所のない大平原のど真ん中で爆弾低気圧に囲まれ、すぐ近くに落雷するのを身を縮めてやり過ごしていたら側撃をくらって十数メートルも跳ね飛ばされ、軽く気絶しているあいだに熊に匂いを嗅がれるという真の恐怖体験を筆頭にしたい――ところだが、ほら吹きとばかにされるのがオチなのであえて言うまい。呑気ねえでじゅうぶん。雷が怖くて雷鳴の紋章が宿せるかってんだ。
侍女は呆れてため息をつき、掃除を再開した。
いまは風はないが雨が強く、重苦しく垂れこめた灰色の空からザーザーと音をたてて降ってくる。雨樋や水路を流れる轟音に混ざり、教会が打つ鐘の音が遠くきこえる。。
たまった水をバルコニーに流し、窓が閉められた。外気が遮断されると室内が一気に蒸し暑くなる。
侍女は空いたバケツに絞った羊皮紙のなれの果てを容赦なしに放りこんだ。若いのによく働く娘だ。
主館には住み込みの侍女が彼女のほかに三人か四人、それから侍女をとりまとめる女官が一人いて、宮廷魔術師ウィンディの身の回りの世話をしている。こことは別棟になる皇帝の居館には、ジェンマのようなおっかなそうな古参や、執事に側近といった選ばれし者たちが控えている。警護は近衛隊が受け持つ。
そばかすとえくぼと三つ編みがなんとも愛くるしい彼女は、侍女の中では最年少だ。テッドを同世代と誤解しているのか、やけに馴れ馴れしく好意的に接してくる。宮中に職を得るくらいだからおそらく身分もしっかりしているだろう。もしも戦争がなければ、気立てのよい彼女のことだからティルとお見合いさせられていたかもしれない。ティルは生真面目だからすぐには断らないだろうし、彼女も賢くて姉さん気質だから、つきあっているうちにきっと意気投合したにちがいない。皇帝の媒酌によって将軍家に迎えられる未来だってあったはずだ。そんなふうに考えると、なんとなく気が沈んだ。
「じろじろみないでくださいよ」
侍女はぷっと頬をふくらませてテッドをにらんだ。あわてて、
「ご、ごめん。あ、気が利かなくって……おれもやる」
「いいですよ。冗談です。もう終わりますから、座っててください」
涼しげに返されてしまった。気まずくて、テッドは頭を下げた。
「余計な仕事を増やしちゃったみたいでごめんなさい。本を読みながら寝落ちたかも。なんか、むかしの夢を見たせいでうなされたのを覚えてる。くそ、しんどいなあ」
背伸びをしながらの大あくび。首をコキコキと鳴らして顔をしかめる。おかしな体勢で眠ったため、関節があちこち痛くてしょうがない。
「お疲れなんですよ。お勉強もいっぱいあるんでしょう? こんな難しそうな本、わたしには読めないわ。でも、徹夜はあんまりよくないのよ。成長期のうちに無茶をしすぎたら、大人になってからすごく困るってうちの母親も言ってたもの」
「ああ、うん。気をつけます」
「ほんとうよ? そうそう、朝ごはんはどうしますか。こんな時間だから残り物しかないと思うけど、厨房からなにかもらってきましょうか」
「うーん、あんまり食欲がないから、いいや。ジュースがあったらください」
侍女は「あらっ」と言って、つかつかと歩み寄った。
「ちょっと失礼。汚い手でごめんなさい」
テッドの額に手を当てる。湿った手のひらがひんやりとして気持ちがいい。
「うっわあ、冗談じゃない。おでこで目玉焼きができちゃいそ」鍋をさわった手を急いで引っこめるようなわざとらしいしぐさで、「水のシャワーを浴びたんだもの、当然ね。ああもう、不摂生もほどほどにしないと。自分の身体のことなんだから、わかるでしょう。我慢しすぎ。さあさあ、今日のお勉強は禁止です。いい子で寝ていること。机は寝床じゃないからね。安楽椅子へどうぞ。毛布もかけて」
反抗したら蹴飛ばされそうだったので、「へいへい」と言った。侍女は分厚い本を手にとって、テッドの頭の上にゴツンと振り下ろした。
「いてっ」
「まったく、もう! あたしはお母さんじゃないのよ? お薬とジュースは持ってきてあげるけど、安静にしてなきゃ承知しないからね。その前に着替えて、濡れた寝間着はお洗濯するからそのへんに出しておいてちょうだい。それからね、その本はきょう絶対に読まなくてはいけないのかしら。でなければ閉じて、いったん本棚に戻しておきましょうか。
アムリットさん、自覚してないようだからはっきり言うけど、顔色がものすごく悪くって死人みたい。このあいだから思ってたの。じつはめちゃくちゃ体調よくないんでしょ。ほんと、見てらんない。もっと自分を大切にしてください。我慢は禁物。だめったらだめ。さもなきゃ早死にしちゃうんだから」
キャンキャンとわめくだけわめいて、そっぽを向いてしまった。
バケツを持って研究室を出て行こうとしたが、忘れていたことを思い出したとばかりに振り返った。
「そういえば、皇帝陛下がいらしてませんでした?」
テッドはきょとんとして、「いや?」と言った。
「そうよね。おかしいな。くるときチラッと見かけたような気がするんだけど、気のせいかしら。この時間はご公務をされているはずだし、ウィンディさまもお出かけだし……きっと見間違いね、ごめんなさい」
空中庭園でばったり会うだけでもじゅうぶん気まずいのに、とテッドは眉をひそめた。こんな場所に用事などあるまい。いままでだって一度も見たことがない。
今日の雨はやみそうにないから庭仕事も休みにできる。言われたとおりのんびりしよう。子供のころの夢を見るなんて、精神がくたびれている証拠だ。
