建国を記念する二百二十五発の祝砲が盛大に打ち上げられるなか、中央広場から三区画ほど離れた路地裏にある隠れ家のような酒場に、レオンはいた。
気難しい主人はかねてより知り合いで、仲のよい友人というわけではないが、営業時間外でも彼のために席をあけてくれる。レオンは酒を飲まない客である。彼がこの店にやってくるのは、聞かれたくない話をするためだ。主人はそのことを承知していて、扉には準備中のプレートをかけ、軒灯も落とす。
真鍮のドアベルを鳴らして、客が二人はいってきた。ひとりがレオンに向けて片手をあげる。席へ案内し、主人は扉に鍵をかけた。そのまま注文を聞くこともなく、カウンターへ引き返す。
「やれやれ、人混みを抜けるのに苦労したよ。天気がいいから、大賑わいだ。マスター、エール。ふたつな」
シンはどっかと椅子に座り、連れにも座るようにと手でうながした。連れの男はフードを目深にかぶっていて、表情が見えない。
「もう、とっていいぞ、アムリット」
シンが言ってようやく、彼は顔をあげた。幼い顔をした少年である。エールを持ってきた主人が、お孫さんですかと訊いた。
「ははは、孫ってのはいい考えだな。これからは、きかれたらそう答えよう」とシン。彼は六十を超える古兵で、際立ってめだつところのない小男だ。以前は家族を養っていたこともあったが、いまは男やもめである。
主人はエールを置くのをためらっている様子だ。無理もない。昨今は未成年の飲酒が問題となり、規制も厳しくなっている。主人は生真面目なので、黒か灰色か見極めたくてしょうがないのだ。
「ああ、そっちじゃなくて酒のほうね。子どもに見えるが、そいつぁ思いッ切り見せかけだから、案ずるな。そっちのおっさんよりはよっぽどいける口だ」
「かしこまりました」
「世知辛い世の中で、たいへんだねえ。客商売は」
「まったくです」
シンはがらがら笑って、エールを一気に半分ほど飲んだ。口ひげを泡だらけにしながら、レオンに向く。
「これが、あんたの会いたがってた、例の。歳は……まあ、いいか。勝手に察しろ」
「よく連れ出せたな」
「祝賀行事で城もばたばたしてるんでね。お守りを仰せつかるついでに、祭りを観につれてこうかと申し出たら、あっさり預けてくれたよ。すげえ度胸だな、あの女」
「宮廷魔術師ウィンディ、か。どうにも正体がつかめないが、食わせ者にはちがいない。あなたもあまり深入りしないで、適当に距離を置いたほうがいいと思うがね」
シンは大仰なしぐさで、おっとと言った。
「また、心にもないことを。おれが城の中枢に通じてないと、あんた困るでしょうが。いまの皇帝の下じゃあ役不足ってのはわかるが、働く気になれない、でも内部情報は寄越せってのはちいとばかりわがままなんじゃないかねえ。ああ、すまん、野暮なことはなしだ。さて、本題に移ろうかね」
「そうさせてもらおう。さっそくだが、きみ。袖をまくりあげて、腕を見せてほしい」
「……は?」
アムリットは怪訝な顔で聞き返した。「なんで」
「本物には十字の印があると、とある人物からきいた。本人であることを確かめたい」
「ああ……なるほどね。わかった」
彼は何重にも着込んだ服をもたつきながら剥がして、左の袖をたくしあげた。
「これのこと?」
色白い上腕に、十字と楔を合わせたような黒いあざ。シンもはじめて知る、少年の秘密だ。縁取りはひきつれて、それが火傷のあとであることがわかる。
レオンは一瞥して、うなずいた。
「ありがとう。すまなかった」
「どういたしまして」
表情をまったく変えない紳士から、妙な威圧感を受ける。どことなく窮屈で、息がしづらい。アムリットは警戒を強めた。
レオン・シルバーバーグはかつて、バルバロッサ皇帝の右腕と賞された軍師である。継承戦争において、バルバロッサを勝利へ導いた立役者とされ、軍師一族シルバーバーグの名を世に知らしめた。
六年前、カレッカの虐殺事件を実行した部隊に、シンは軍医として同行した。ほかでもない、作戦の立案者レオンの頼みだったからである。部隊の兵士たちは、見習いから隊長にいたるまで全員が、作戦の真意を伝えられておらず、その恐るべき目的を知っていた唯一の例外がシンであった。
シンに与えられた役割は、兵士たちが疑念を抱かぬよう監視するというものであった。その計略もまた、レオンが立てた。
事件に関して箝口令が敷かれたあと、レオンは一線を退いた。冷淡すぎるやりかたに、さすがのバルバロッサも危惧し、ほとぼりが冷めるまでとかなんとか適当な理由をつけて追い出したのではないかと、シンは推測する。
一方のシンはカレッカから引き揚げると、年齢を口実にして、城内の兵舎勤めを志願した。この次も凄惨な現場を見せられるのでは、気が滅入る。やりがいはないだろうが、近衛兵の怪我や風邪を診る単調な仕事につけば、堅実であることと、好きな酒が飲めるという、ふたつの理想をいっぺんに叶えられる。
酒浸りの気ままな日々を送るようになったシンは、遠征先でひどい目に遭ったと言いがかりをつけてはネチネチと絡んでレオンから小銭をせびり、盤上ゲームをふっかけては掛け金を巻き上げた。その裏で薄気味悪い情報が手渡されていることは、人々の知るところではない。
レオン・シルバーバーグはよっぽどのことがない限り、他人に興味を抱かない。関心事はつねに戦いの勝敗であり、勝ちへ導く戦略と戦術であり、正しい歴史の構築である。その手段としてのみ、率先して他者と関わる。人を見る目は鋭く、つねに的確だ。なので一般的な評価は、「人間味が薄い」というのが大多数である。
しかし、シンは思う。この男が孤独なのは、シルバーバーグの名のせいだと。
それはある種の呪いではないだろうか。現在、叛乱軍の首謀者とされ、トランの湖城で指揮を執っている小娘の名もシルバーバーグ。かつて《青い月》カシム・ハジルの右腕と呼ばれ、帝国の副軍師にまでのぼりつめた男の名も。小娘はオデッサ、男はマッシュ。シルバーバーグの名を冠したことで、運命に翻弄された兄と妹である。
名誉、伝統、掟――平凡な家に生まれ育ったシンには知るよしもない、人間性を変えさせるほどの重圧が、その名にはある。これを呪いと言わずしてなんだろう。
話がある、とレオンがシンを呼び出したのは、春先のことだった。叛逆罪で捕らえられた少年が処刑された、すぐあとである。向こうから呼び出すなんて、めずらしいこともあるものだと感心しながら会ってみれば、案の定。
執行の直前に死刑囚が別人とすり替えられたのではないかと、レオンは冷静に指摘した。公開処刑の様子は、当然観ていただろう。あれだけの熱狂のなかで、この男だけは冷静にその異変をとらえ、繊細に織り込まれた陰謀を見抜いたのだ。
民衆は欺けても、レオン・シルバーバーグの眼をそらすのは容易ではない。
恐れ入った。シンは悪戯がばれた子どものように、種明かしをするはめになった。
「知ってるやつは、内部にも何人かいるさ。おっと、騒いでくれるなよ。いまさら、蒸し返す必要もないだろう? 替え玉にされた子は気の毒だったが、身内もいなくて、おまけに頭のほうがしょうしょう足りなかったらしい。生きていてもろくなことにならなかったろうよ」
「アムリット・ベラスケス。バナーの村から奉公で来ていたが、里親が奴隷密売に関与した疑いで都市同盟に身柄を拘束され、親権が消滅したため、奉公先を追い出された。ひと月ほど前にパンを万引きして捕まり、拘留。そのときの書類は残っていて閲覧できたが、以降の消息は不明。釈放されたかどうかも判然としない。記載によると歳は十六、髪の色は赤茶、背は百六十三で、痩せている。逮捕時の所持金はなし」
「もういい、もういい。そこまで調べがついてんなら、あとはご推察の通りだ。にせもんのアムリットが気になるなら本人を連れてきてやるから、勝手に話をすればいいさ」
軽い気持ちで言ったつもりが、あとになって考えれば相当に危ない橋である。おかげでシンは肝を冷やすはめになった。
(おれは深入り「した」んじゃねえぞ。「させられた」んだからな)
責任転嫁を決めて、あとは野となれ山となれだ。
「あらためて紹介する。これが、あんたの会いたがっていたアムリット・ベラスケスだ。どうだ、処刑された『テッド』とは似ても似つかないだろう。この程度で騙されちまうほど、世の中は気が狂ってやがるってことさ。アムリット、このおじさんはレオン・シルバーバーグ。赤月帝国の軍師さんだ」
「……シルバーバーグ?」
少年ははじめて興味がわいたという目で、レオンを見た。
「へえ、シルバーバーグ家の軍師なんだ。道理で」
シンはなにか誤解したらしく、
「おまえんとこの姐御の、実のおじさんだぞ。お世話になったんだから、ちゃんとあいさつしておけよ」
「あねご?」
「ばーか、オデッサのことだよ。オデッサ、知ってんだろ」
「オデッサ……ああ、うん」と彼は曖昧に答え、「会ったことないけど」と首を振った。
レオンはそこでやっと能面を外し、不可解であるとでも言いたげに、少年の目をのぞき込んだ。
アムリットの表情がこわばり、小動物が肉食獣を威嚇するように、レオンを凝視した。
「オデッサ・シルバーバーグの下におったのではないのか?」とレオンが訊ねる。
「オデッサという人は、知らない。でも、解放軍の指導者だってのは聞いた」
「おまえの起こした事件は、オデッサの命令ではなかったと?」
「命令?」
アムリットはあきらかに困惑している。説明したいのにうまく言えないときの表情で、「だれの命令も受けていないんだけど……」とだけつぶやいた。
レオンはまた質問した。
「おまえが、正確にはおまえの身代わりが、処刑された理由について、わたしは詳しく知りたいと思っている。公にされている理由ではないぞ。あれは、オデッサを陥れるための策ではなかったのかとわたしは疑っているのだが、当事者であるおまえに訊くことは可能だろうか。おまえはその件について、どれだけの真実をわたしに語ることができる?」
「あなたは、いまもバルバロッサ皇帝の下で?」
「いや。その任はとかれた。いまはどこにも所属していないが、軍部に顔はきく。それから、宮廷魔術師ウィンディとは面識がない」
アムリットは口をつぐみ、考えこんだ。
そして、伏し目がちに、
「なにも語ることはできない。けど、オデッサ・シルバーバーグは関与していない」と言った。
「なるほど」とレオンは天を仰ぎ、腕組みをした。すると、アムリットは不思議なことを口にした。
「おれの知っているシルバーバーグは、エレノアという女性だ。その人の下にいたし、その人の命令だったら、きいた」
「エレノア?」
「そうだ。エレノア・シルバーバーグ」
困惑するのはレオンの番だった。
「……それと同じ名の女性はわたしも知っている。しかし、あり得ないな。彼女は、わたしの祖先だが、一世紀以上も前に群島諸国で亡くなっている」
黙って聞いていたシンも「はあ?」と頓狂な声をあげた。
アムリットは淡々と、
「群島諸国。たしかにそのエレノアだ。クールークの侵攻を食い止めて、群島諸国連合を立ち上げたときの、正軍師だった人だ。口うるさくて、酒飲みで、やりかたが汚かった。おれは、あんまり好きじゃなかった」
テーブルは静まりかえった。レオンは腕組み半眼からぴくりとも動かなくなり、アムリットは余計なことをしゃべったと思ったのか、視線をそらせて肩肘をついた。
気まずい雰囲気に耐えられなくなったシンが最初に折れた。
「なんだ、アムリット。せっかくのエールなのに、口もつけてないのか。もったいねえ。まずくなっちまうじゃねえか。エールはナマモノなんだぞ」
泡の消えた樽杯を押しつける。
アムリットはぎこちない動きで手に取り、ごくりと喉を鳴らしたが、瞬時に顔をしかめた。
「にがい」
「ああ? おまえ、味覚がお子さまだなあ」
「お子さまをお子さまってばかにしてどうすんの。この際だからいうけど、おれ、味覚以外もきちんとお子さまだからな。ほら、どっからどうみても、ピッチピチの十代だろ。見かけだけじゃないぞ。医者ならわかるよな。お子さまに酒を無理強いしたら、怖ぁい母親連合がやってきて、軍法会議にかけられて、こてんぱんにのされて、運よく無罪放免になったとしても、医者の仕事を続けていけるかどうかははなはだ疑問だな。損得はよーく勘定したほうがいい。おわかりかな、ドクター・シン・グレイソン」
「くだらないことだけはべらべらとよくしゃべるやつだ。ひょっとして、ひと口でもう酔っ払っちまったか、爺さん」
「そんな器用じゃねえよ! ガキに酒を強要する大人が極悪非道だって、おだやかに説教してるだけじゃん!」
「ガキ? ははは、こいつぁ傑作だ。自分がガキだって、うっかり認めてやがる」
アムリットは苦虫を噛み潰したような顔をして、
「まあ、でも、いつかの薬よりかは、ひゃくまん倍マシだ」と言い、にがいと酷評したエールをぐびりと飲んだ。
「ふははは、まだ根に持ってんだ」
「当然だ。殺されるかとおもったんだから」
「いっとくけど、ありゃ、おれのせいじゃないぞ。ウィンディが特別に調合した特効薬を、ただ預かって、言われたとおりに飲ませただけだからな」
アムリットは盛大にしかめっつらをして、「はあ?」と返した。顔色がみりみりと赤くなる。
「だってあんた、味わうなって言ったよな。まずいって知ってたからじゃないのか」
「だから、ウィンディからの言づてだったんだよ! 身体中の毒素を一気に掃除するから、効き目ばつぐんだけど、飲みやすさはちっとも配慮してないし、改善する気もないってな。まさか失神するなんて思わねえだろうが、こっちもよ。白目むいてぶったおれて、大いびきかいて寝てしまいましたって、ちゃんと報告させてもらったがね。爆笑してたぞ、あの女」
「ちっ……」
アムリットは頭をかかえ、テーブルに突っ伏した。
くだらないことだけはべらべらとよくしゃべる。まさにその指摘のとおりである。シンと交わす中身のない会話ならば、言いたいことがするすると口から出てくる。しかし、話が核心に触れようとすると、舌がこわばり、言葉が意味を成さなくなり、まるで沈黙の術が効いているときのように、声が出なくなる。
頭ははっきりしているのだから、よけいにもどかしい。ウィンディにかけられた、支配の紋章の呪いだ。わざと意識が正常であるようにした上で、行動のみを事細かく制御している。完全な傀儡ではない、ほんの少しやんちゃな使い魔といったところ。魔女のおふざけに付き合わされている体である。
シンの監視のもと、半年ぶりで城下を歩いたはいいが、人に酔ってへとへとだ。誰か知っている人物に会うのではないかと緊張していたせいでもある。ラムを瓶でラッパ飲みし、屋台を冷やかしながら闊歩するアル中の唐変木についていくのがやっとで、祭りを楽しむ余裕もなかった。
人に見られたら万事休すというわけでもないのに、身を隠さねばという強迫観念に囚われる。それもまた支配の紋章の影響だろう。ウィンディがいつそのような胡散くさい紋章を手に入れたのかはわからないが、術者の気分ひとつで人を操るなど、聞いたことがない。紋章が人の心を豹変させることはあっても、そのしくみを利用して武器にしようとは。
アムリットに対しても、ふだんは主館から一歩たりとも外へ出られないよう。今日は祭りだから特別に、城下町まで許してやるという具合に、使いかたを変えてくる。
「それで、宮廷魔術師のことはどれくらいわかったのかね」
漫才のような会話を真面目に聞き終えたレオンは、ミックスジュースのおかわりを注文してから、シンに聞いた。
「それが、さっぱり」 シンは両の手のひらを上に向けた。「呪術に関しちゃあ、恐ろしく長けているということは確かなんだけどね。クラウディアさまに似ているという噂も、どっから出てきたんだか。おれから見れば、似ても似つかねえな。まあ、皇帝陛下がそうおっしゃるんだからって、下々がおべっかをつかってんだろうが。それに、知られざる過去があったほうが女は魅力的なわけよ。へへへ。おっと失礼」
「わたしの手元にも、魔術師ウィンディに関する資料はない。ここまで出てこないのは、逆に奇妙でもある。隠蔽されたというよりは、もっと……そうだな、ほんとうに最初からなにもなかったのではないか。そんな感じすらする。いつ、どこで、皇帝と出会い、宮廷内部に入ってきたか、それすらもわからんとはな」
「へえ、天才軍師のあんたでもお手上げか。おい、ウィンディのお気に入り。おまえにはなんかしゃべってんじゃねえのか」
アムリットに話を振った。
「なんかって、なんだよ。知らねえよ。知られざる過去がそんなに気になんのか、オッサン」
「おお、気になって気になってしょうがないからこうして、偵察してんだ。秘密のひとりじめは身体によくない。ゲロっちまえ、さあさあ」
「けっ。意味がわかんねえ。秘密もなにも、ちょっと頭がよくて、派手好きの、いたってふつうの魔法使いだろうが」
ウィンディの正体を明かす権限は、アムリットにはない。無理を通そうとすると、声を奪われて、それでも抵抗するならば次は意識を持って行かれる。
「そうか。そうだよな。ふつうよな。で、おまえはなんであの女に寝返った?」
アムリットは下唇を突き出した。
「命が惜しかったからにきまってんじゃん」
「ほう。それはそれは。訊かれたらそういうふうに答えろと、魔術師さまに言われたわけね」
「……は?」
「おまえはほんとうは、寝返ってなどいないんだろう。そんなみじめなまねをする必要はなかった。ちがうか?」
「ちがう。身代わりを用意してやるかわりに、で、弟子になって、魔術の修業をして、後継者をめざしてみないかって、いうから。そんなもん、だれだって、飛びつくだろ。おれ、なんだか才能あるみたいで、伸ばしてみたいって、あの人」
アムリットのかたく握ったこぶしが哀れに痙攣しているのを、シンは見ていた。絶対的な命令と、彼自身の意思とのはざまで、烈しく葛藤するさまを。
そして。
「アムリット。いや、テッドと呼ぼうか。苦しいだろう。もし、きみにその気があるのだったら、ここから先は、沈黙をもって答えとしてくれてもいいよ。つくられたどんな言葉よりも、その沈黙は多くのことをおれたちに教えてくれるだろうからな」
ふるえが静かにやんだ。
レオンの眼が向けられていた。その鋭く、なにもかも見透かすような視線を受け止めて、テッドは人形のように動かず、口も真一文字に結んで開かない。
「……と、いうことらしい」
シンが大きく息を吐いて、背もたれに寄りかかった。
「ふう、ようやっと言うことを聞いてくれたよ。やれやれ、手強かった」
エールを飲み干し、身振りで次を要求する。
「檻の外でこいつに再会したとき、なぁんか違和感があったんだよな。で、ウィンディになんかされたんじゃないかってハタと思って、試しにあれこれつっついてみたら、ほら見たことかって感じだ。にわかには信じがたいが、あの女、呪術で人を操ってやがるぞ」
「まさか」
「まさかとおもうだろ。おれも同感だよ。けど、見ただろう。おかしいよな、こいつ。こういうのをなんていうか教えてやろうか。お人形さんだ」
「むう……」
「あんがい、皇帝もそのくちなんじゃねえの。ぞっとしない話さ。ああ、まったく、女ってのはなんで、お人形さんごっこが好きなんだろうねえ。ちなみに、こいつはウィンディの命令しかきかんよ。だから、おれたちが正攻法で立ち向かっても、ぬるぬるとはぐらかされるだけだ。ならば抜け道を使うまでよ」
アムリットは話をきちんと聞いているようで、むすりとしている。
「どんな術でも、完璧ってのはまずあり得ねえ。操りの術で、相手がこう言ったらこう答えろと、事細かくしつけるのは骨が折れるし、そりゃ気が遠くなるわな。そこを突いた、簡単な引っかけさ。機械式のからくりでありそうな、誤作動みたいなもんを、誘発させてやったのよ。
さあて、おれはここまで検証した。あとはあんたがどう解釈するかだよ、同志シルバーバーグ」
レオンは腕組みをして、考えこんだ。
シンは三杯目のエールを受け取って、ぐいとあおった。テッドは汚いものでも見るような表情でシンをにらみつけたが、やはり口を開こうとはしない。
「ぷはぁ! カーッ、うまい。まことエールは命の水だな。さて、おまたせ。三つ数えるくらいに、沈黙はとけるであろう。これは神の予言である。それじゃやってみよう。いち、に、さん、はい」
「はいじゃねえ! ざっけんな、いったい、人をなんだと思っ……」
「お口縫いの術、お味はいかがだったでしょう、お客さま」
「下衆の勘繰りに、あいた口がふさがらなかったんだ!」
「まあまあまあ。おちつこう、おちつこう。ああ、エールがだめなら、なにかほかのものを頼むかい?」
テッドはイノシシよろしく鼻息を荒げて吠えた。
「ミックスジュース!」
すかさず、レオンが反応した。
「この店のミックスジュースは、群島からわざわざ取り寄せた生のマンゴーと果物時計草を贅沢に使っている。ジュースに加工したものを買って出しているわけではない。グレッグミンスターではここでしか味わえない幻の逸品だ。たいへん貴重なので裏メニューとなっている。次に頼むときはわたしの名を出し……」
「はいそこまで」とシンがさえぎる。「あんたのその、律儀なところが怖ぇえって、むかしからいってんだろ」
レオン・シルバーバーグが市門より単身出立したという報告を受けたウィンディは、満足げな顔で、陽光まばゆい初夏の空を見上げた。
はるか遠方にきらきらと光るのは、アールス川の水面である。川はトラン湖より流れ下り、デュナン地方を経由して北の海へ至る。トラン湖は、赤月帝国の水面積の八割を占める、巨大な淡水湖だ。
内堀に沿って色とりどりのテントが軒を連ねているのが見えた。中央あたりに広場がある。そこを中心とした一帯で、グレッグミンスター名物の蚤の市が開かれているのだ。週末になると、露天商や古物商、画商、遠くからは交易商らが集まり、早朝から夕方まで賑わう。食品や花を扱うマーケットも併設されるので、利用価値は非常に高い。
昨今は政情不安定ということもあり、出店を許可制にしたところ、規模こそだいぶ縮小したものの、ぼったくりの店も大幅に減り、安心できると観光客にはおおむね好評のようだ。
主館の広い窓から眺めれば、平和な光景はすぐそこにある。多くの市民は目に映る平和を信じ、その平和をもたらしてくれるのが黄金皇帝であると信じ、帝都に残る道を選んだのだ。
その市民たちも、市場広場で執り行われた公開処刑を観たはずである。石畳にはいまだに焼け焦げが残っている。罪人を火あぶりにした痕だ。なのに、何事もなかったかのように、翌週からはまた、同じ場所で花が売られている。
醜悪さを土で覆い隠して花を植えると、平和はお手軽に演出できる。それが安っぽい造花であっても、切り取られた花壇しか知らない人々は満足するものらしい。
では、野原に住む人々はどうだろう。造花が偽物であると知っているから、こちらの平和は少々お高い。しかし、金を積んで本物の花を植えてやれば、平和への信仰はより深くなる。
問題は、原野に住まう者たちだ。彼らはそもそも、花などに目もくれない。だから、ウィンディはそこに楔を打ち込んで傷をつける。そこから流れ出す膿はじわりじわりと湿潤し、周囲を腐敗させてゆく。いちばん外側だから、気づかれることもない。そして、気づいたときにはすでに、大量の膿に囲まれて、逃げ出すことは不可能。
手遅れになる前に外部へ出れば、叛乱分子として罵り、二度と戻ってくることのないよう、レッテルを貼る。
それがウィンディの計画だった。しかし、ひとつだけとんでもない誤算があった。それは彼女にとっても予想外で、慌てふためくにはじゅうぶんだった。
足もとの花壇に、ソウルイーターが落ちていたのである。
彼女は気づき、にやりと笑って拾い上げようとした。しかし、それはするりと逃げた。逃げた先をつきとめて、今度こそ手に入れたと高笑いしたのもつかの間、またしても逃げられた。
ソウルイーターは勢いを増して転がり、花壇を出て、野原を抜け、原野へ達して、傷口の向こうに行ってしまった。
どうしても手に入れたい。目的のために、それは必要不可欠だからだ。次の機会は百年後、二百年後。あるいはまた三百年後かもしれない。そんなには待てないし、待つ気にもなれない。
必ずこの時代で手に入れる。そう決意したら、ふたたび自信がわいた。なによりもソウルイーターには花壇に戻ってこなければならない理由がある。チャンスはむしろこれからである。そのためのお膳立ては完璧にするつもりだし、いまのところは最高にうまくいっている。
見ていなさい。
はるか昔、ハルモニアの一部であったものたち。
赤い月の大地を恐怖と絶望と怨嗟で埋め尽くしてあげる。あなたたちはどうせ、こぞって黄金皇帝に救いを求めるのでしょう。
でも、それは張りぼて。見るも無惨な、魂の脱けがら。
残念だったわね。
これは、復讐よ。
(でも、そのためには)
シルバーバーグ。おそらくは最大の敵となるであろうその名。いま立ちはだかる者の名はレオン・シルバーバーグ。
先手を打って倒すか、駒として使うべきか。もちろん彼女は考えた。レオンの所属はひどくあいまいだった。皇帝のしもべかと思いきやまったくその事実はなく、かといって姪のオデッサのように、叛乱軍に与する様子もない。不気味な存在で、まさしく目の上のこぶだ。
去る者を叛乱軍と呼ぶ連中は、単純で扱いやすい、みずからを解放軍と名乗る連中は、単純さはないものの、飼い慣らす必要もありはしないので、やはり扱いやすい。レオンがそのいずれかであればまったく問題はなかった。しかし。
レオンは切れ者の天才軍師であるがゆえに、もっとも緊急性の高い監視対象である。ウィンディがバルバロッサを心理的な支配下に置いたときには、彼はすでに皇帝直属の軍師ではなく、軍人年金で暮らす単なる一市民であった。あるいは、一市民であるかのように装っていた。
市街にある平凡な賃貸住宅に住み、週末は市場へおもむいて、単身者が一週間食べていくだけの食料を買う。時には国立図書館に足を運ぶ。病院と礼拝堂にはまったく興味がないらしい。
その男が、ついに動いた。
「かれは、どこへ向かうのかしら」
ウィンディは芝居のなりゆきを楽しむ観客のような口調で、背後の壁際に立つ少年にたずねた。
「さあね」
返った答えは突っ慳貪だ。怒っているようにも聞こえる。
「ちょっと旅行という雰囲気じゃないわよね。クワバの城塞は封鎖されているから、虎狼山を越えてバナーからダナ地方へ抜けるか、あるいは国境を越えて都市同盟へ? いずれにせよ、とんでもなく遠回りだわ。あのおじさん、そんなに体力あるようにはみえないんだけど」
ウィンディは窓から離れて、テーブルについた。ぬるくなってしまった紅茶を飲みほし、ポットからおかわりをそそいだ。角砂糖とレモンを一切れ。スプーンでくるりと回し、レモンだけを皿に除ける。
「うまく、お友だちと合流してくれたらよいのだけどね」
「本気でそう思ってるのか?」
テッドの声はとげとげしく、苛立ちをにじませていた。ウィンディはわざとらしく首をかしげた。
「あら。だって、あなたが生きていることを伝えたら、お友だちも喜ぶじゃない。うれしくないの。おかしな子」
「レオン・シルバーバーグが向こうにつくリスクを回避するのが筋だろ。あいつ、マジもんの戦争屋だぞ。皇帝を見限って解放軍に味方するようなことがあれば、相当の脅威になるはずだ。いまはこっちが優位でも、なめてかかったらあっという間にひっくり返される。駆け引きを楽しむのは、テーブルの上だけにしとくんだな」
「あなた、ほんっとうに馬鹿真面目なのね。そのめんどくさいところ、お爺さまに似たのかしら」
ウィンディはけらけらと笑った。
「でも、あたしにとっては、ゲームも戦争も同じよ。目的に近づくための手段でしかないの。だったら楽しんだほうがお得でしょ。レオンは要らないって、あたしが決めたんだから、心配も口出しもご無用。しょうがないじゃない。きらいなんだもの。有能な軍師ですって。冷酷で打算的なくせに」
「おたくと同類ってことじゃん。冷酷で打算的、人の意見に耳も傾けず、わがままで、自己中心的」
「ひどーい。そこまで言ってないのに。傷つくわあ」
どんな侮蔑も魔女には褒め言葉だ。彼女を傷つけるためには、別の刃がいる。
「かれ、必ず勝たせると宣言してそのとおりにするのが、心地いいだけなのよ。今回もそう。どっちを勝たせたほうがより満足できるか、値踏みしてるんじゃないのしら」
テッドは素直にうなずいて、「その可能性は否定できない」と言った。
「ね。城内のことはだいたい調べがついたから、動けるうちにこんどは、叛乱軍に探りを入れる気なんだわ。場合によっちゃあ、戻ってくるつもりなのかもしれないけど、どうしようかな。目障りよね」
放出するのも危険、手元に置いても危険。もしも選択肢がそのふたつだけなら、最初から居ないほうがウィンディにとっては気が楽なのではないか。
「どうして、わざと泳がせるようなまねをした?」
テッドを使って手の内を漏らし、相手に選択権を譲った理由がどうしてもわからない。ウィンディのやりかたは奔放すぎて、困惑することばかりである。
叛逆の芽がでないうちに拘束し、監禁すればよかった。身内にはいくらでもごまかしがきく。なんなら生かしておく必要もあるまい。例の地下牢獄を使えば、外部に知られることなく始末できように。
だが魔女はそうしなかった。
「持ち駒にしたくなければ、毒を持たせて敵に送る方法もあるってことよ」
さらりと言ってのける。
「ともかく」 テッドは冷ややかに言った。「シルバーバーグ一族を軽んじたら、勝機をむざむざ手放すことになるぞ。まともな戦争をする気があれば、の話だけど」
「あら、ずいぶんほめるのね。めずらしいこと」
「ほめてるわけじゃない。シルバーバーグのやりかたはクソだ。けど、歴史に名を残した軍師はみんなそこがルーツだし、やつらは人間としては最低だけど、戦略家としては超一流だ。そこんとこは認めなきゃ」
「ふうん。あなたがそこまでむきになるなんて、よっぽど、厭な思い出があるのねえ」
「むかしの戦争で、シルバーバーグって名のおばさん軍師の下で働いたことがあってさ」
「ああ、このまえレオンに言っていた、あれね。で、勝ったの?」
「勝った。ちなみに、敵の軍師は、おばさんから破門されたもと弟子」
「ありそうなお話ね。一族の殺し合いって、三文小説っぽくってすてき。それにしても、あなた、ちょこまか逃げ回ってるだけかとおもっていたけど、けっこうあちこちで、いろんなことをやってたのね。ちょっとびっくり」
「は? 働かざる者食うべからずっていうじゃん」
「知らない。あたし、働いたことないから。生きるためにあくせく働くなんて、意味がわからない」
あっけらかんとしている。なるほど、強烈に傲慢である。宮廷魔術師として多忙なのは、働いているとは言わないらしい。
しかし、群島諸国で起こった戦争も知らないとは、その頃いったいどこで、なにをしていたのだろうとテッドは思った。その戦いの終わり、エルイール要塞で彼が目撃した異世界のものと思われる巨大樹を、ウィンディが門の紋章を使ってこの世界に招き入れたものだと直感した。だからすぐに群島を離れたのだ。
テッドもまた、この世界と百万世界とのはざまをたゆたった。門の紋章の存在意義を強く認識したのは、そのせいである。その紋章の片割れをウィンディが持っていることに、強い虞を抱き、また、哀しみも覚えたのだ。
魔術師の島でいちどだけ目にした占い師の女性が、門の紋章を継承するもうひとりだと知ったのはだいぶあとになってのこと。テッドははじめて乗った竜のことで頭がいっぱいで、ろくに見もしなかった。もしもあのとき、真の紋章が持つ独特の気配に気づけていたら、こんな結果にならずに済んだものを。
後悔はたいがい、役に立たない。毒にも薬にもならない「もしも」を繰り返すよりも、いさぎよく現実という名の猛毒を飲みくだすほうがましだ。あんがい、楽への近道はそっちのほうかもしれない。
「ああ、そう。とにかく、忠告はしたからな」とテッドは言った。「ブラックルーンを使って将軍たちを操って、表向きは順調なんだろうけど……そんな姑息な手じゃ、いつか必ずほころびができるよ。人を道具にして、なにが戦争だ。これがあんたの、目的に近づくための手段? へんだよな。復讐する相手だって、ちがうんじゃないのか。回りくどいことばかりして、ほんとうは目的を見失ってるんじゃないの」
ウィンディはアハハと笑い、起立すると、つかつかと歩み寄って、彼の頬をぶった。
天幕のむこうで先ほどから会話に割り込むすきを伺っていた近衛兵が、脊髄反射で「すみません!」と謝った。
テッドは頬をさすって、
「そんなやりかたしか知らないから、いつまでたってもあんたは孤独なんだよ」
「あたしの軍師は、あなたひとりでじゅうぶん。寂しかったらあなたを道連れにするから、いいの。ほら、お迎えが困ってるじゃない。さっさとお行きなさい」
「はいはい、わかりましたよ、ウィンディ様。おお、痛え。ひでえよな。暴力反対」
テッドはフンと鼻を鳴らして、部屋から出て行った。気の毒な近衛兵がおどおどとそのあとを追う。
「アムリットさま、お待ちください! お怪我は」
「だいじょうぶだって。それよか、いま見たことは内緒だぞ」
「は、はい」
口止めはフリだけで、バラされてもべつにかまいはしない。近衛兵に聞かれて困る話はしていないからだ。皇帝の寵愛する宮廷魔術師とその一番弟子が、戦況について議論を白熱させ、少しばかり過激なほうへ至ったと言いふらされるくらいが関の山。飯のおかずにもなりゃしない。
遅れてやってきた一番弟子の少年は、ウィンディから絶大な信頼を置かれている。対等に会話するのを何人もが見ているだろう。ウィンディと対等ということは、近衛兵たちと違う世界に住むということの証明でもある。
テッドは館を出るときには、白のローブで全身をおおい隠す。執行されたはずの死刑囚が外を歩いていたら、いつどこで、知った顔にばったり会って騒がれるかわかったものではない。彼は最初のうちは意識してハルトマンを探したが、見つけることはできなかった。
白のローブはとてもめだつ。しかし、人を遠ざけるには好都合。どこにいても自然と向こうから避けてくれる。
時間に追い立てられて着いた先は、工廠の一角にある魔術指南所だ。ここで彼は、選ばれた精鋭たちを相手に紋章魔法の指導教官をさせられている。もちろん、ウィンディの無邪気な思いつきである。
近衛隊でも五行の上位紋章を扱える者は限られていて、実戦に役立てるレベルとなると数えるほどしかいなかった。紋章は、封印球の状態から人に宿すだけでは機能しない。紋章師は宿主の適性を見極め、その上でもっとも相性のよい紋章を選び、宿す手助けをする。そこで紋章師の仕事は完全に終わる。そこから先は、宿主の努力のみが評価される領域である。
テッドですらも、紋章を宿すためには紋章師の力を必要とする。しかし紋章師は、彼の適正については黙認である。なぜならば見極めようがないからだ。五行すべてが最高適正であるのはもちろん、一般的に三つまでしか宿せないとされる紋章の限界突破すら可能であると推測できる。すなわち、宮廷紋章師ではまったく手に負えない。
努力が足りないとヒステリックに叱責する若き教官は、受講生たちからひどく疎んじられていた。もとからプライドの高い武官クラスの大人である。背格好も声も子どもなのに、上から目線で口汚く罵られて、平常心でいられるわけがない。
なのに、少年に口答えできる者はいなかった。彼がその小柄な身体に秘めた魔力は、誰が見ても無尽蔵に思えたからだ。どんなに消費しても尽きることがないのではないか。彼はとくに、大地の魔法を得意としていて、請われて発動させては兵士たちを震えあがらせた。
テッドに言わせれば、なにも特別な能力ではない。たしかに生まれついての素質はあったのかもしれない。しかし、経験値を蓄えたのは彼自身の努力によるものである。その期間が人より少し長かっただけだ。
実戦経験もあった。彼にとって、戦うことは生き抜くすべだったのである。たとえるならば、狩りはまごう事なき戦闘である。魔物を排除するためにも人は戦う。それだけではない。皆が歴史の本でしか知り得ない過去の戦争を、テッドは現実にくぐり抜けてきた。
その内容を人に語ることは許されていないけれど、結果を見せつけることはできる。
赤月帝国の軍人を鍛え上げるということは、帝国に叛旗を翻した解放軍の敵が強大になることと等しい。なのにテッドはそれを率先して行う。
ウィンディに命じられたからという理由だけではない。テッド自身も、解放軍に関しては懐疑的だったからだ。
そもそもテッドは解放運動のことをほとんど知らなかった。己の眼で見、聞き、確認したことしか彼は信用しない。反帝国のうねりが社会に渦巻いていたという概念はあっても、それを実際に触れて確かめたわけではない。たとえ親友がそこへ居を構えようともだ。
最初にテッドに関心を寄せた赤月帝国の人間は、テオ・マクドールだ。かの将軍はいまも赤月帝国に属している。恩義に報いるとしたら、優先順位はまず、テオにある。解放軍の内情を知らない以上、たとえソウルイーターを守るためであっても、安易に肩入れするわけにはいかない。
苦しい判断ではあったが、いまはティルを信じるしかない。
敵味方に分かれることは、それほど悲惨ではない。なによりも重要なのはティルが苦しまずに平常心でいられること、それと、ソウルイーターがウィンディの手に渡ることのないようにすること。いざとなれば命を賭して親友の盾になるし、ウィンディがふと漏らしたように、彼女を道連れにすることもできる。
放浪の旅でつめこんだ知識も無駄ではなかった。多彩な方面で博覧強記であると認められることで、刃向かう敵を最小限にできた。嫌われようが、後ろ指を指されようが、一向にかまわない。疎まれることは慣れている。
どんなにつらくとも、いまの状態がもっとも安定しているのだ。変えるつもりはない。自己犠牲が偽物の心理だと言い張ったときもあったが、いまはちがう。そういうのが、言うなれば愛なのだろう。愛など、縁のない荷物だとずっと思っていた。
鼻つまみ者の神業魔術師という地位はなかなかのお気に入りだ。その点だけは、魔女に感謝してもよいとすら思う。
放浪の逃亡者、混沌への復讐を渇望する導師の飼い犬、天魁星のもとに喚ばれた星、もっとも近しい魂を喰らう疫病神、死刑囚、そして。
(なんてふざけた人生だ!)
もうじゅうぶんだと思う。自分は好きに生きた。自分勝手だったし、それなりに楽しみもした。いまは命を引き延ばす紋章も持っていないから、最長でも五十年あまりで終わりにできる。しかしそれを待つのは少し長い。
できればこのあたりで、息の根をとめてくれる天使が現れてくれるストーリーを望みたいところだが。はてさて、そううまくいくものか。
ウィンディは山のように公務をかかえていたほか、皇帝の寵愛を受ける立場でもあったので、夜も居室にいないことが多かった。それでも週に一度は時間をとり、テッドと夕食を共にした。
テッドが暮らすのは、主館の四階にある、ウィンディが書斎として使っている一室であった。歴代の宮廷付き魔術師が執務室にしていた、重厚な様式の居間だ。
壁いちめんにしつらえた書架はぎっしりと白黒の魔導書で埋まっている。入りきらずにあふれた本が絨毯に無造作に積まれ、わずかな振動にも屈しそうな危なっかしい雰囲気である。
大きな檜の一枚板でできた机の上に重ねられた羊皮紙は、主人でさえもいつの時代のものかわからないという。とりあえず風で飛ばされないように、銅製のペンタクルを重しにしている。燭台から火の粉がほんの少しでも跳ねたら、そこが火元となるのはまちがいない。
テッドは指南所に呼ばれる以外、日課のほとんどを紙とインクのにおいに埋もれて過ごした。ろうそくの薄暗い明かりで本を読みふけり、気がついたら夜が明けていたこともあった。
そのような隠者の生活を指示したのはあるじのウィンディであり、彼の本意ではなかったが、牢屋でぼんやりと壁を見ているよりははるかにましであったので、不満はさほどなかった。なによりも空腹でないのがいい。食事はウィンディ付きの侍女が気を遣って、朝昼晩とまめに運んでくれる。腹が減っていると、ろくなことを考えない。
寝床は革張りの安楽椅子である。ベッドで手足を伸ばすよりも性に合っている。クッションや掛け毛布を勝手に備えつけ、そばにはランプと茶道具も置いて、巣作りは完璧だ。好きな時間に寝て、適当に起きても、だれも小言をいわない。
ウィンディのところへ薬をとりにきたシンが、巣ごもりを満喫するテッドを見るやいなや、「地獄から天国だな」とからかった。
そうかもしれない。だが、こうとも言う。性格の異なる地獄へ堕ちなおしました、と。
シンは暇さえあればふらりとやってきて、テッドの様子を確かめて帰るのだった。ふたりが再会したのもここである。書斎と続き部屋の広間は、ウィンディが魔法薬の調合を行う簡易的な研究室になっているので、立ち寄る口実にはちょうど良いのかもしれなかった。
しかし、今日だけは来ないでくれと願っていた。星占いによると、きょうのテッドの運勢は最悪だからだ。それなのに医者はいつもと変わらぬ軽薄さで、へらへらと笑いながらやってきた。
「薬と毒は、つくりかたがほとんど同じだ。劇的に効く薬は、ほぼまちがいなく猛毒。ご理解いただけるかね、天才魔術師のお坊っちゃん」
原色の液体がフツフツと煮えたぎっているフラスコを手に、書斎をのぞき込む。
その人の良さそうな瞳には、一点の疑いもない。
「くさい。こっちもってくんな。においがうつる」
「では、こっちへおいで。一日中引きこもってたんじゃ、丸い背中がよけい丸くなっちまうぞ」
「うるさい。猫背なのはむかしからだ。それに、引きこもってない。ちゃんと外でセンセイやってる」
「そういやあ、最近、とんでもない先生が着任したって聞いたな。人格が破綻してるそうじゃないか。おや、いま気づいたのだが、あれはひょっとして。ほほう」
「失礼な。とっとと出て行かないと、びりびり感電させるぞ」
テッドは右手をひらひらさせて、蛾を追い払うようなしぐさをした。その手に包帯は巻かれていない。かわりに雷鳴の紋章がくっきり焼き付いている。
(はいはい。自由時間の締め付けは、それほどでもないわけね)
シンはほっとして、警告を無視した。
しんねりむっつりとしているが、これが少年の素の姿だ。ローブをまとっているときの彼は、演技しているのかさせられているのかはわからないが、口調がどこか不自然で、感情にも薄い膜がかかる。レオンに引き合わせたとき、シンが与えたたったひとつの小さい罠を境に、人間から人形へ切り替わったのと同じ。だが、本人には意識があり、そのときのことも覚えているようだ。
テッドがウィンディによってその身を操られていることは、かなり以前に確信していた。だからレオンに本人を引き合わせ、同意を得たのである。率先して動くつもりのないシンとは違い、レオンは不条理なことに対して的確な行動をとるだろう。シンが予想したとおり、レオンは自主的に動きはじめた。
「忠告、ってんじゃないんだけど」 テッドはあきらめ顔で、ちらりとシンを見、難しそうな本に視線を戻した。「もう、おれにかまわないでくれないかな」
「うん? その台詞は聞き捨てならんぞ、アムリット」
「冗談じゃなくて、だよ。そろそろ潮時だと思って、城から――できたら、グレッグミンスターから離れたほうがいい。でないと、あんた、消されるかもしれないから」
シンはぶっと吹き出した。
「おいおい、物騒だな! ウィンディがおれに危害を与えるとでも言いたいのか? こないだの気楽な飲み会に彼女を誘わなかったことを、根に持ってるとか」
「そんなふざけた話をしてるんじゃない」
「へいへい。まあ、百歩譲ってその仮説があってるとしても、おれの口封じをしたところであの女になんの得がある。おお、そうよ、ようは損得勘定の問題よ。いったいどいつが得をするってんだ。いってみろ」
「損得なんかどうでもいい。あんたがおれに深入りしすぎたのが問題なんだ。頭を使え、ばか、アホ」
「はあ? 下手にでりゃいい気になって。もっと言いかたってもんがあるだろう」
持っていたフラスコを机にばんと置いて、シンは声を荒げた。気色悪い液体が振動で突沸し、七色の泡を吹き上げた。
「あちち! くそ、失敗しちまったじゃねえか」
「ぞうきん持ってきて、きれいに掃除してから、いなくなれ。そして二度と来んな」
シンは頸をぐるっと一回転させて、謎のステップを踏んだ。
「ああ? なんなんだ、おまえ。アムリットさんよ。死刑囚だったのが、いつのまにやらウィンディの側近として再デビューってか。歳が三百ってのもふざけた話だ。いったいだれが、そんなばかげた話を信じるってんだ。黙って聞いてたけど、今日こそ言わせてもらうぞ。おっさんをなめんな」
「信じろなんていってない。おれにかまわないでくれたら、それでいい」
シンはくっくと笑って、つかつかとテッドに歩み寄り、持っている本を奪い取った。
「かまわないでくれ? あんとき、おれが薬を飲ませてやらなかったら、死んでたくせに。いつからそんなご身分になった? 足をつながれて、糞もしょんべんも溝で。メシもろくなものを食わせられていなかっただろう。いまだから言うが、単なる風邪じゃない、どう診てもチフスだった。ほっといたらそのまんまあの世行きだったろうな。看守の連中がパニックになると思って、黙ってたんだよ」
「……感謝する。でも、それとこれとは、べつの話だ」
「ハン! おれはばかでアホだから、そんな都合よく切り替われねえよ。さて、一服して、じっくりお話をうかがおうじゃないか。おいアムリット、アルコールをだせとは言わん。茶でもてなせ」
テッドは天井を仰いで、盛大にため息をついた。安楽椅子からノロノロと腰を上げ、脇机の茶道具に手をかける。
「ミルクティーならすぐできるけど?」
「それでいい」
アルコールランプに火をつけると、すぐに湯がこぽこぽと躍りはじめた。ちょっと前にテッド自身が茶をいれるつもりで沸かし、本に熱中しているうちに湯冷ましになったのだ。
常備している宮廷御用達の茶葉は高級品で、ほかではめったに手に入らない。シンはそれを知っていて、来るたびにたかっていく。
習慣が徒になる、とはこういうことか。
テッドは黙りこくって、手だけを動かした。
シンは声のトーンを落として、いたわるように訊ねた。
「……なあ。なんで急に、そんなこと。潮時だとか、おまえらしくもない、妙なこと言いやがって」
「なんでって……べつに。たまたま、そう思ってたところで……」
「べつに、って感じじゃないぞ。こないだレオンに会わせたのがバレて、叱られたのか? だったら悪かったな」
「いや。それはたいしたことじゃないから」
「なにを怒ってるんだ。口で言わないと、わからんぞ」
「怒ってないってば」
「おれが消されるって言ったな。ウィンディにか? だったらそいつぁ勘ぐりすぎだ。おれはだれの味方もしない、酔いどれの一匹狼だ。ついでに女房子どももいねえ。おれがいなくなって嘆くやつはいねぇが、悦ぶやつもいねぇ。医者ならもっと腕のいいやつがいっぱいいるから、惜しまれもしねぇ」
「奥さんと子どもが、カクの町に住んでるだろ。うそつくんじゃねえよ」
「まったくもう、いったいぜんたい、どっからそんなこと。奥さん、なあ。とっくの昔に他人になった女なら、いたかもしんねえな」
「息子さん、漁師なんだって? せがれの釣った魚をつまみに飲みたいとか思わねえの」
さすがにシンもがくりとした。
「いつから探偵になった、アムリット」
「ばーか。近衛兵ってのは、暇をもてあましてんだよ。誰それがくっついて誰それが別れたとか、そういう話は耳をふさいでも聞こえてくるんだ。おっさんは酒で脳みそが灼けて、聞こえにくくなってるんだろうけど」
老いた医者はから笑いをし、頭を掻きむしった。形無しである。かりそめの孫に指摘されるまでもない。彼の責任で家族は壊れ、女房と息子は去ったのだ。自業自得。おそらくは二度と会うこともないだろう。
「どうせあいつらは、おれが死んでも、知らずにいるだろうよ。それがいちばんいいんだ。泣かれたら、いい迷惑だ」
実際には、お節介な隣人が伝えるかもしれない。ふたりは驚くかもしれないが、悲しみはしないだろう。それだけの期間、他人でいたのだから、しかたがない。互いに覚悟はできている。
「おれが死んでも、泣くやつなどいない。おまえはどうなんだ、アムリット。おまえは、おれが殺されたら、泣いてくれるってのか?」
三分を測る砂時計が、最後の一粒を音もなく吐き出した。テッドはティー・コージーをはずし、ポットを傾けた。こぽこぽと静かな音をたてて、琥珀色の液体が渦を巻く。
「泣く、って言ったら感動してくれるのかな」
「おお! するする。おまえの泣き顔を冥土の土産にしてやるぜ」
テッドは迷惑そうに顔をゆがめて、白詰草の柄のカップを差し出した。
「ごめん。ミルク切らしてたのを忘れてた」
「ちっ。しょうがねえなあ。砂糖だけでいいよ」
「砂糖はお好きに」
陶器の壺を手で寄せて、自分のカップにも紅茶をそそぐ。シンが見ていると、スプーンで山盛りの砂糖を溶かした。いつもは入れすぎだとからかうのだが、今日は別の話を優先させたい。
シンは三口ほどすすったが、テッドはスプーンでくるくるとかき混ぜている。甘党な上に猫舌なのだ。彼は紅茶をじっと見つめたまま、話を戻した。
「さっき、忠告じゃないっていったけど、撤回する。これは、忠告。シン先生、頼むから、荷物をまとめて、ここを離れて。どこでもいい。でも、できたら、赤月じゃないほうがいい。南へ下ったら、巻き込まれるかもしれないし……そうだな、行くとしたら北。都市同盟がいい。身分証があるんだろ? 医者は重宝されるから、たぶん入国させてくれる」
「それは、赤月が近々、回避困難な内戦状態になると予測してのことか?」
「それもある。でもそれだけじゃない。帝国にいたら、『眼』から逃れられないから」
「眼?」とシンは聞き返した。
テッドはうなずく。
「うん。『眼』は、ウィンディの持つ、厄介な力のひとつで、あの女は他人の眼を使って遠くを視ることができる。じつは、あんたも利用されていたんだ。祭りの日、あんたの眼を通して、監視してやがった。レオン・シルバーバーグと接触したことも、ぜんぶつつぬけだ」
「はあ? そんなこと、おれはぜんぜん……」
「気づくわけがない。なにしろ、眼を使うには特別な仕掛けはいらないし、されたほうも、痛くもかゆくもないんだから。ウィンディは、門の紋章を宿す女だ。門の紋章は、27の真の紋章のひとつだ。だから、あの魔女は、ふつうの人間にゃ想像もつかない、とんでもない力をいろいろ持っている」
シンは口をぱくぱくさせた。無理もない。突拍子もない話だ。
「アムリット……おまえ、頭は大丈夫か。夢をみてんじゃねえのか。監禁生活がたたって、妄想がひどくなったとか、そういう。だいたい、真の紋章ってのは昔の人がでっちあげたおとぎ話で、創世の物語にしか登場しない、架空の……」
「架空の話だったらそれを研究するやつなんかいない。ハルモニアがあそこまで強大になったりしない。真の紋章は実在するし、身近にある。赤月内だけでも、最低でもみっつ、ひょっとしたらそれ以上。おれも、ついこの前まで、真の紋章であるソウルイーターを持っていた」
シンはカップを握った手に力をこめた。
「ウィンディはソウルイーターを手に入れようと、おれを陥れた。そのもくろみは失敗したけど、結局おれは捕まって、あぶなく処刑されそうになった。そのあとすり替えられたのは、事情が変わって、ウィンディがおれを生かしておかなきゃならなくなったからだ。わかったか」
「ううむ、わからん。ソウルイーター? さっぱりわからんよ。わからんが、なんでおれにそんな話をする。そっちのほうがわからん」
その問いには答えず、遠くを見るような目でぼんやりとカップを見つめていたが、ふと口元に笑みを浮かべた。
「シン先生……もう一度だけ、忠告します。これがほんとうに最後。グレッグミンスターを離れて……ください」
シンは真っ赤になって怒鳴った。
「いやだ。冗談じゃねえ。理由もわからんのに、そんな重要なことを決められるか。おれは、逃げなきゃいけないような悪いことをやったか? 祭りに連れ出すのだって許可をもらったし、レオンのことだって、たまたま約束してただけだ。どっか法に触れることでもあったか」
「理由はさっきのでぜんぶだ。じゅうぶんだと思うけど」
「なんでだ、アムリット。ああそうか、にがい薬を飲ませたからか。だったら謝る。言わなかったがな、おれは、おまえが心配で、酒も控えたんだぞ。勇ましく怒鳴り散らしてるのを見て、ひやひやしたが、見守るってのもあんがい楽しくてなあ。もしも孫がいたらこんな感じなんだろうなって、おもってた。情がよ、移っちまったんだよ。くそっ。こんなに、こんなに心配してるのによぉ、なんで追い出そうとする? そんなに嫌いか。うっとうしいか。なんでおまえは、おれを……」
テッドは顔をくしゃくしゃにして、泣きそうな顔で、笑った。
そして、言った。
「だからいやだったんだ」
すでに泣いているような、子どもっぽく、湿った声だった。
しかし、彼の目から涙はこぼれなかった。その目は、いま、彼のものではなかったからだ。
激昂で小刻みに震える手に、空になったカップが握られていた。受け皿の上で、白詰草がカチカチと音をたてて揺れた。そこへ、テッドはポットから紅茶をつぎ足した。
瞳に宿る冷たい光に気づけずに、シンはそれを口にした。紅茶は、ミルクも入っていないのに乳白色に濁っていた。
シンは喉を鳴らして飲みくだすと、短くうめいて、カップを落とした。白い陶器はテーブルにはじかれて粉々に砕け、絨毯に散った。
「アム……リット……」
「ちがう」と少年は言った。その表情からは、笑みも、悲しみも、すべて拭われていた。彼は罪人に裁きを申し渡す裁判官のような口調で、
「テッドだ。おれの名。ソウルイーターの、テッドだ」と告げた。
マルコルフ看守長が命を絶ったのと同じ、茶色の小瓶の猛毒を飲み、シンは絶命した。
水晶珠は煙を封じ込めたように霞み、清らかさを失ってしまっている。幾度試しても、結果は同じだった。ウィンディはため息をつき、遠見の術を切断した。
「さすがね。フン、いまいましい」
妹の居る塔は借眼の術を使えないので、少しばかり精度は落ちるが、自然界の力を借りてのぞき見ようとした。しかしレックナートは姉の手の内を先読みしているらしく、結界を張って寄せつけようとしない。昨年、星見の書簡を寄越してからの音信が途絶え、彼女は沈黙をたもったままだ。
バルバロッサに、覇王の紋章を使わせれば、結界を切り崩すこともできる。しかし、皇帝はあくまでも切り札だ。いまの段階では、そこまで躍起になる必要もあるまい。
どうせまた、塔に居ながらにして軍事介入にいそしんでいるのだろう。争いごとは好まぬというふりを装いながら、戦乱が起きるごとにちょっかいを出しているのをウィンディは知っている。
運命を予見し、天秤の傾きを必死にただそうとする、妹レックナート。姉に言わせればまこと過干渉であり、過保護な母親のようだ。天秤は支点を中心に左右に揺れることでバランスをとる構造であるし、そもそも歴史はその傾きから生じるもの。理想を求めすぎる妹は、新たな歴史を否定するという矛盾に気づいているのだろうか。
姉と妹の違いは、天秤の振り幅という一点だけ。歴史は動乱であるべきと考える姉、可能な限りの釣り合いを好む妹。動と静。光と闇。分かたれたものは必ず対立する。
いずれはこうなる運命だったのだ。真理に例外などない。レックナートへの憎しみは、醜い嫉妬などではなく、さだめられし運命の導き。
(そう。あたしは醜くなどないもの。あの子だってそう。そして、どちらかが消えることもまた運命なのよ)
物静かで心優しい妹には、日陰の草花がお似合い。自由奔放なウィンディには、燃えるような深紅の薔薇が。真逆であるからこそ認めあうこともできる。どのようなわだかまりも軋轢も、その深い縁を途絶えさせる刃にはならない。
そもそも――27の真の紋章である門の紋章を、ふたりで分かち合ったことが発端であり、それはまったく想定外のできごとだった。表の相をウィンディが、裏の相をレックナートが、それぞれ身に宿し、いずれかがハルモニアの手に落ちても、最悪の事態は避けられるようにと。とっさのこととしてはよい判断だったのかもしれないが、完璧であることを欲する真の紋章が、不安定な宿主をいつまでもよしとするわけがない。
もとの姿に戻るために、門の紋章は、余分な器を放棄しようとうごめく。どちらか一方が死ぬまで。そのためにふたつを対立させ、争いの行方をじっと見つめているのだ。
大魔術師にあこがれ、森羅万象に宿る力と神秘をなによりも重んじた姉ウィンディ。
天の星々にあこがれ、生まれては死にゆく儚きものらの幸福を祈り続けた妹レックナート。
仲のよい姉妹であった。
遠い昔のように、お菓子をとった、とらないの喧嘩から、仲直りすることはもうない。
姉妹に血のつながりは認められない。女性はすべて縁故という門の紋章一族のしきたりによって結びついていると思われる。一族における「母」はひとりの人物とされ、それは産みの母親とは別に考えるべき概念であり、信仰対象であった。
ハルモニア神聖国の襲撃によって一族は死に絶え、生き残った最後のふたりは、三百八十年あまりの時を経て、赤月帝国で再会する。
元の鞘に収まるためではない。訣別のためだ。
妹もそれを望むのではないかと、ウィンディは思うのだった。門の紋章を、もとの完全体に戻すべきなのだ。壊れた扉で、世界を守りきれるわけがない。
門の番人は、ひとりでいい。安寧などはなから望みはしない。一族の復興など、もはやどうでもよいことだ。それよりも早く、門を修復しなければ。復讐の舞台に、百万世界から観客が押し寄せては困る。
殺すと決めたのだから、在りし日のレックナートを思い出して、最高の悲劇を演出しよう。ウィンディは魔術と同じくらい、物語が好きだった。創作に登場する人々は、けして彼女を裏切らない。悲しい結末には、しばしば心酔した。夢見がちな少女のように、架空の世界に没頭し、涙し、散々な現実から目をそらす。
「わたしを置いてお逃げください、お姉さま」
けなげなこと口にしたのはレックナートである。盲目の妹は、足手まといになることを恐れたのだろう。自己犠牲の過ぎる妹らしい台詞だった。
あの日のことは忘れない。どうして忘れることができようか。彼女たちが呪いを受けた日のことを。
春の嵐が吹き荒れていた。たたきつけるような暴風と、阻塞の向こうまで迫ったハルモニア兵に怯えて、年端もいかない娘たちは泣いていた。陵辱されるくらいなら自害して果てようと、ふるえる手にナイフを握り持つ年配の女性もいた。
破られる扉、飛び交う怒号。暴力に屈して、斃れゆく姉妹たち。
手を取り、長い廊下を駆けるウィンディとレックナート。
背後に追っ手が迫る。レックナートは幾度もつまづいた。
「わたしを置いてお逃げください、お姉さま」
「ばか。立ちなさい。いっしょに逃げるの。あなたを見捨てるくらいなら、あたしも死ぬ」
包囲された神殿で、逃げる場所などありはしなかった。しかし、彼女たちの手にはひとつの希望がまだ残されていた。
「これを使いましょう」とウィンディは言った。
「門の紋章を……?」
「そう、あなたとあたしで、半分ずつ宿すの。そのあと転移の魔法で、お互いをどこか遠くへ飛ばす。いいわね」
「でも、そんなことができるのかしら。宿すといっても、どうやって」
「できるかできないかじゃない。やるの。あたしたちは、誇り高き門の紋章一族でしょ。紋章を守るのが、宿命でしょ。一か八かの賭けだっていいじゃない。なにもせずに殺されるなんて、あたしはごめんよ。立ちなさい、レックナート」
色を喪った唇は震えていたが、妹ははっきりとうなずいた。
「わが一族の守護者であり、世界の境界を見守る者よ、時間と空間のはざまに住まいし、わがあるじよ――」
「混沌と秩序の同胞のもとに、われら庶幾いたもう。力を、お与えください。われ、門の紋章の一族が娘、レックナート……」
「同じく、門の紋章の一族が娘、ウィンディ」
日々の祈りの脚色ではあったが、とにかく願うしかない。ふたりは必死であった。侵略者の軍靴はすぐそばまで迫り、松明がすぐ横の壁を照らした。
継承は一瞬のできごとであった。
姉妹がほんのわずか、息をのむあいだに、その儀式は完全に終了していた。
「いたぞー!」
ハッとして、ふたりはまた走り出した。つないだ手と手に、新たな紋章が宿っていた。
(そうよ。忘れない。あたしたちが、永遠の呪いを受けた日だもの。ふふふ、あのときあなたの言うとおり、置き去りにしちまえばよかったのよね)
水晶珠に絹をふわりとかけ、ろうそくに火消しをかぶせる。ウィンディはもういちど短い呪文を唱えてから、祭壇を下りた。
蝋と香の匂いをローブにまとわせて、音もなく広間を横切る。祭壇のほかは暖炉と応接家具しかない、殺風景な部屋だ。
ソファーに腰を下ろし、煙管に火をつけた。紫煙がゆらゆらと立ちのぼる。
向かい側の肘掛け椅子には、弟子の少年が、背もたれにすがりつくようにして、ぐったりと座っていた。目はあいているが、焦点がさだまっていない。ウィンディの動きにもまったく反応しない。
「お茶にしましょう、アムリット」
ウィンディは、おままごとに興じる少女のような無邪気さで言った。うつろな目が一瞬だけ鋭く彼女を射たが、すぐにことんとテーブルに落ちた。
人払いをしてあるので、茶の支度はされていない。すなわち、テッドに対して、おまえが茶を入れろという命令である。
テッドは幽霊のように立ち上がり、水屋から茶道具を取り出してきた。いつでも使えるよう、湯は風炉で沸かしてある。あるじお気に入りのティーカップは、白磁に菖蒲が鮮やかな紫で絵付けされた、舶来の品だ。
「ミルクティー」とテッドは言って、魔女の目前にガシャンと置いた。ウィンディはとがめるようなふりをしてからくすくす笑い、躊躇もせずに口をつけた。
「熱いわ」
「冷ませよ、ふーふーして」
「先生には、わざと冷ましてから飲ませたのでしょう?」
「熱かったら気づかれるだろ」
「あら、わりと残酷なのねえ。そこまでしろって言ってないのに。ふふ、でも先生、感動してくれたかしら。冥土の土産を持たせてあげられて、よかったわね」
「泣いてない」とテッドは、食いしばった歯の奥から吐き出した。「おれは、泣いてない」
「うそ。あなた泣いてた。死体の前に突っ立って、めそめそ泣きじゃくってたじゃないの」
「泣いてないっていってんだろ!」
拳を叩きつけたので、食器が割れそうになった。紅茶が少しこぼれる。テッドは荒く呼吸をして、ウィンディを真っ正面からにらみつけた。
「ああ、そう。ふん。まあ、いいわ。あなたがそう言い張るなら、そういうことにしときましょう」
教会の鐘が鳴った。夕七つ、兵士たちの交代を告げる合図だ。
「お掃除はもう終わったかしら。書斎は、そのまま続けてお使いなさいね。もう誰にも邪魔はされなくってよ」
シンの遺体は、人喰い胞子とやらがきれいに片づけてくれるらしい。痕跡も残さないという。あとは行方不明事案として処理して終わりだ。人の死など、あっけないものである。
「それにしても、お節介なひとがどんどん減っていくわね。さすがソウルイーター」
「マルコルフ看守長も、あんたが死ぬように仕向けたのか?」
「なあに? どなたかしら」とウィンディはとぼけて、ほほ笑んだ。一呼吸置いてから、ああ、と両手を合わせる。「地下牢で自殺したかたね。さあ、あたしはなにも」
「シン先生を殺すために、おまえから預かった毒薬の瓶。見覚えがあった。看守長もあれと同じものを飲んで死んだ」
「ふーん。ぐうぜんね」
「知らないとは言わせない。そうするように仕向けただろ。なんのために? それもわかりきっている。おれを苦しませるためだ」
「だったらずっとそう思っているといいわ。そして、自責の念に苛まれることね。あの人も、その人も、あなたのせいで死んだの。キャハハ!」
「楽しいのか?」
「そうね、あなたが苦しんでいるのを見るのは最高よ。泣いた顔も、絶望にゆがんだ顔も、愛おしくて、可愛くて、ほんとうにすてき。これからも沢山見せて頂戴ね」
「ふざけやがって……」
テッドは怒りでぶるぶる震えた。握りしめた手のひらに爪が食い込み、こわばり、発作的な殺意でめまいがした。
自分に関わったばかりに、また人が死んだ。もう、この循環から逃れる方法などないのだ。ウィンディでもテッドでもない、第三者の手で地獄へ突き落としてもらう以外。
(……ティル?)
親友の姿をした幻は憐憫の色をたたえてテッドを見、なにか言いかけたが、すぐにふっとかき消えた。
