「この島で、おれとずっと暮らさないか」
「テッ……」
ノエルは絶句して、次の瞬間、すっくと立ちあがった。
「なにそれ。まさかプロポーズのつもり?」
次の日。
「ぜんっ、ぜん、わかんねえ」
遙兵は頭をぼりぼりと掻いた。
「下図のように天井に固定した長さLの糸に質量Mのおもりをつけた振り子をつるして静止させ、静止位置Oを原点とする。水平方向にx軸、鉛直上方にy軸をとる。おもりに質量三分の一Mの小球が速度ぶいぜろでカンゼンダンセイショートツ……ああ、もう!」
いまは非常勤担任の物理教師を横目でちらりと見ると、つまんだシャーペンをくるくると回す。
「わかんねえもんは、わかんねえ」
机代わりの画板を地面に放り投げる。
「ギブアップか、猛地」
「物理は完全忘却っス」
「だと思った。どうせ理解はそっちのけでテスト用の丸暗記しかしてないんだろう」
樹花は腕組みを解いて、しかめっつらをした。
「まあ、物理は嫌われ者だからしかたがないか。理系に進むヤツ以外にはあまり関係ないことだしね。はぁ」
わざとらしいため息。
「物理楽しいですよ」
「ぐっすり眠れる唯一の授業だからか」
樹花は自嘲気味に嗤った。やぶ蛇のは虫類館がオープンできそうだった。
樹花は霧流に視線を移した。
「燕」
「はーい、まかせてください、先生」
「いや、今日はもういいよ。理解させるのにあしたの朝までかかりそうだからね」
遙兵は憮然として言った。
「失礼な」
「どうしてもというんなら猛地は直線運動から基礎をしっかりと勉強しなおしなさい。先に進むのはそれからだ」
画板のプリントとにらめっこしていた鉄人が頭をあげた。
「おれ、教えましょうか」
「テツがかよ」
「手取り足取り」
遙兵は肩をすくめて、「結構です」と言った。
鉄人はぷっと笑ってプリントに目を戻した。
だがシャーペンがまったく動いていない。そしてどこかぼんやりしている。
どうした。
「どれどれ」
遙兵は逆転大一番の予感がして背後から興味しんしんで鉄人のプリントをのぞき見た。
硬直する。
A4判の紙は一瞬、ファンタジーアニメで目にする無意味に巨大な魔法書のページに見えた。とても計算式とは思えない理解不能のアルファベットとギリシャ文字と数字の羅列。
周囲の余白にはなにかのメモか、磁力線らしき落書きがいたるところにあった。
超絶な達筆が難解さを頂点たらしめている。見た瞬間、目眩がした。
「ん、だ、これ」
「え? マス・ギャップの存在追求」
「は?」
「ヤン・ミルズのゲージ場理論なんだけど、このクォークっていうのはハドロンを構成する素粒子でね、ハドロンに閉じこめられているクォークは単独では取り出すことができないんだ。このクォークの閉じこめという物理現象を示すために解析が進められていて」
「待て、待て」
その先はもうよろしい。
レベルが違う。ちがいすぎる。というかもう決定的だ。
鉄人はさっきから深刻な顔をして、最後の欄に視線を釘づけていた。
『設問の意味をよく考えて解答せよ。
鉄人、おまえは不幸か、それともしあわせかい。銀町絵麗亜
現時点における自己の見解を述べなさい。(15点)』
「はい、タイムアップ。プリント回収」
樹花は涼しげに宣言したあと、四枚の紙を赤ペンでいじくった。
今日の採点は妙に早かった。
「弓ノ間、0点。魁、0点。燕、模範的解答だね、すばらしい。100点。猛地、論外」
「0点? なんで」
あっけにとられる遙兵を見て、霧流は笑った。
「弓ノ間くんたちの問題はね、いままでだれも解いたことのないミレニアム問題ってやつだよ、猛地くん。もしほんとうに解いたら百万ドルがもらえるんだよ」
「はあっ?」
樹花はごほんと咳払いをして、ぱんと手を叩いた。
「0点も満点も論外も今日は特別に自由行動を許可する。本日の授業はここまで、起立」
「ありがとうございましたーっ!」
鉄人とノエルは意味深な表情で、ちらりと互いの顔を見た。
「さんぽ、いこっか」
「さんぽ、いいね……」
魂の宿っていない会話を交わしたふたりは、仲良く並んで行ってしまおうとした。
「さんぽ、ぼくも行くー!」
霧流が立ちあがる。
「右に同じく」と遙兵。
「夕食はあたしがつくっといてやるから、のんびりしておいで」
樹花がめずらしくやさしいセリフを吐いた。
「とんでもねえミレニアム問題だったな」
「うん、百万ドルどころの騒ぎじゃないね、あれは」
道端の草をちぎっては捨て、ちぎっては捨てを繰り返しながら、どんどんと先を行ってしまう。霧流と遙兵はなんとなく無言であとをついていった。
「空欄で出したんだろ」
「鉄人こそ」
「書きたい答えは、あったんだろうが」
「前のぼくだったら書いてたかもしれないな」
「いまは」
ノエルはクスリと笑って、「ミレニアム問題とおんなじ」と言った。
「答えを出しても、それが正解かどうか判断できる人は、いない。だから永遠に謎のまんま。だったらそれっぽい答えを書くより、白紙にしといたほうがいいって思った」
「あはは、おれも」
「人類なんて0点だね、鉄人」
「まったくだ」
業を煮やした遙兵が大声をあげた。
「よう、どこまで行くつもりだよ。島を一周しちまうぞ」
鉄人とノエルは同時に振り返った。
妙にさっぱりとした表情をしていた。
鉄人の顔が、にっこりと笑む。
なにかをふっ切ったかのように。
物語分岐
まだ先がある
2006-07-05
